「思ったこと」特別編

1985年8月12日・日本航空123便墜落事故
〜はいじま版日航ジャンボ機墜落事故レポート〜


目 次
1.悲劇への離陸
2.ボーイング747
3.事故発生
4.墜落
5.事故調査
6.事故への疑問

最初に戻る


2.ボーイング747

 123便に使われた機種は日本ではすっかりおなじみの機種であるボーイング747型機である。ここでは本筋の前にボーイング747型機の歩みを紹介したい。


・B747前史
 話は第二次大戦までさかのぼる。ボーイング社は第二次大戦末期に大型爆撃機B29の開発に成功し、日本人としては嘆かわしいことであるがこのB29が日本の都市空襲や原爆投下などで大きな戦果を挙げ、アメリカでの大型機市場を席巻するまでに至った。
 ボーイング社はそのB29の技術を旅客機に転用することになる、1950年代初頭にB377「ストラトクルーザー」という旅客機を開発。B377は世界最初のダブルデッカー旅客機で、その後のB747を連想させるのに十分な機体であった。広い機内に寝台などの豪華な内装を備えていたが、この頃から旅客機市場でもようやく軍事部門で実用化に成功したジェット機を待望するようになり、足の遅いレシプロエンジンの大型旅客機は敬遠されてしまう。
 世界で最初にジェット旅客機を開発して販売したのはイギリスのテハビランド社であった。「コメット」と名付けられたこの世界最初の旅客機は、大きな窓と優雅な流線型、そして主翼に埋め込まれたエンジンなどのスピード感あふれるデザインが人々を魅了した。だがこの機体は就航すると謎の空中分解を繰り返し起こし、墜落事故を多発してついには運行停止、対空証明の取り消しという事態を引き起こす。イギリスの事故調査委員会が調査に乗り出し、原因は大きな四角窓の角部が構造的に弱くてそこが集中的に疲労破壊して空中分解に至るというものであった。
 この事故にどの航空機メーカーもジェット旅客機開発の難しさを知り、レシプロ機の大型化に精を出す。
 ところが、この流れに逆行してジェット旅客機開発を急いだメーカーがあった。それがボーイング社である。ボーイング社はB377の商業的失敗から早期に回復して旅客機市場でも主権を握るにはジェット旅客機の早期開発は避けて通れないと考えていた。ボーイング社はB47やB52といった大型ジェット爆撃機の開発に成功し、軍事部門では完全に他社をリードしていた。だがアメリカで航空機メーカーとして生きてゆくには軍用機だけではなく旅客機での成功が必要不可欠と考えていた。当時のアメリカの旅客機市場では、ダグラス社やロッキード社などが一流メーカーで、ボーイング社はその下で二流に甘んじていた。
 そこでボーイング社はジェット旅客機の早期開発という賭けに出た。技術的にはB47やB52の技術流用であったが、ちょうどこの時期に空軍から大型空中空輸機の開発を受注、この開発データをジェット旅客機と共用するという事で開発費を下げる作戦に出た。これならばセールスに失敗しても軍事需要で開発コストを回収できるからである。また「コメット」の失敗を研究し、窓は角を取って小さくし、エンジンは主翼にぶら下げる構造にして、主翼を後退させて付け根にかかる応力を改善するなど様々な対策を打ち出した。
 1958年秋、パンアメリカン航空の大西洋横断路線にB707が投入されるとB707は世界中の航空会社から発注が来た。ボーイング社の動きを察知したダグラス社も追従してジェット旅客機開発を急ぎ、1年後の1959年にDC-8型機が路線就航を果たした。それまでせいぜい数十人しか乗れないレシプロ旅客機ばかりだった世界に、突如として定員100人を越える大型高速ジェット機が登場したのである。これは航空輸送の大幅な輸送力増加を意味し、1路線の座席数が増えたために燃費が悪くても結果的に一人当たりの運賃は下がることになった。結果航空運賃の下落が始まり、それまで一部の金持ちしか乗れなかった旅客機が、僅かながら庶民的な乗り物に近づいた。この流れを予感したボーイング社はB707を「庶民の旅客機」と宣伝したのは有名である。
 さらにボーイングは矢継ぎ早に新型ジェット旅客機の開発を続けた。B707をベースにして大陸横断や大洋横断ではなく、中距離輸送に適した性能を狙ったB727と、さらに小型化してローカル線のジェット化を狙ったB737の2機種を世に送り出す。双方とも大成功を収め、地球上の多くの都市がジェット機で結ばれる事になった。
 ここまでがB747前史となる。


・超大型旅客機完成へ
 B707で一定の成功を収めたボーイング社であったが、ボーイング社はさらなる危惧を抱いていた。それはB707やDC-8で誘発された航空需要の伸びが予想以上であったことである。特にB707が主力の長距離路線の伸びが、B727やB737の誕生でローカル線の需要が伸びた事もあって急速に進んでいた。並大抵の機体ではすぐに需要が行き詰まる、B727やB737の売り上げを伸ばすためにも主要幹線の輸送力を大幅に伸ばさなければならない。当時、超音速旅客機を投入して現在の機体と変わらぬ大きさの機体で輸送力を上げる手段になるとの予測が主流だったのだが、ボーイング社の考えは超音速旅客機の開発は時間がかかり、需要の伸びはそれを待ちきれないと判断していたのである。
 1960年代後半、アメリカ空軍から超大型輸送機開発の話が出てくる。これにはアメリカの主要航空メーカーが熱烈な受注合戦を繰り広げることとなり、どのメーカーも受注を前提とした予備研究が始まっていた。ボーイング社も例外でなく、この受注合戦に没頭してゆく。ただボーイング社の企みは、この大型輸送機開発の技術を超大型旅客機開発に転用し、超大型旅客機の研究開発費の削減を狙うことも含まれていた。ボーイング社は政府の予算内で超大型旅客機の開発が出来る目処を立てた。しかし、ライバルのロッキード社が横やりを入れた。ロッキード社はボーイング社より安い価格で超大型輸送機が開発できるという見積もりを出し、この超大型輸送機開発を受注することに成功する。こうして開発されたのが米軍の超大型輸送機C-5型「ギャラクシー」で、今も横田基地などでその姿をよく見ることが出来る。しかしこの「ギャラクシー」は開発費用に無理があったため、技術的に未熟で仕様を満足しておらず、よくトラブルを起こしたことでも知られる。何回も改修を受けてやっと使える機体になった。この改修のために予算がオーバーしてしまい、115機生産予定のうち34機がキャンセルされてしまった、技術的には失敗といえよう。
 この超大型輸送機の受注に失敗したボーイング社であったが、超大型旅客機の需要が間違いなく高くなると確信した。それと受注のための下研究の成果は素晴らしいものがあった、この成果を捨てるわけにも行かない。そう判断したボーイング社は軍事開発に期待するという甘い夢を捨て、まさに社運を掛けて超大型旅客機の開発に着手する。これがB747である。
 ただし、ボーイング社としても買い手がいないのにこのようなリスクの高い開発を進めるわけには行かない。ボーイング社は「新しい物好き」の航空会社を説得することになる。この標的がパンアメリカン航空で、ボーイング社が将来の需要予測を元に超大型旅客機の必要性を説き、なんと22機ものB747の発注趣意書にサインさせるという営業活動を展開した。こうして1966年、ボーイング社はB747の開発を正式に開始する。
 機体デザインは総ダブルデッカーや超幅広機体など色んな案が出たが、結果的には一番使いやすい幅広機体にコックピット周りのみダブルデッカーという完成するB747のデザインに落ち着いた。コックピットを2階にした理由は万一超大型旅客機として失敗しても、超大型貨物機として生き残る可能性があるという判断であった。コックピットが2階なら、機首に大型扉をつけてそのまま貨物機とすれば使い勝手がよいと判断されたためである。貨物機に転用できるようにしておけば、将来超音速旅客機が主流となった場合に貨物機に転用できるという意見もあった。
 巨大な機体を飛ばすためのエンジンも超大型輸送機開発の下研究で培われ、既にエンジンメーカーに開発を依頼していた。B707のエンジンよりパワーがあって燃費の良いエンジン開発にエンジンメーカーは全力を尽くした。
 ボーイング社はこの巨大な飛行機の開発、専用工場の建設などの予算を改修するためには、少なくとも50機のB747を得らねばならないと考えていた。開発を始めると営業活動も積極的に展開し、パンアメリカンが発注して最優先で機体を受領できるという事が公表されると、世界のメジャーエアラインがこぞってB747を発注した。ドイツのルフトハンザ航空、日本航空、アメリカのユナイテッド航空と発注が続き、目標の50機になんとか到達することが出来た。これを受けて自信を持ったボーイング社はシアトル郊外のエバレット・ペインフィールド飛行場に隣接する広大な土地を取得、ここに世界最大の旅客機工場を建設して、工事用の完成と同時にB747機体製作グループが編成されて工場に配置された。1966年夏、いよいよB747初号機の製作が始まった。
 このボーイングの動きを察知したライバルメーカーは、先の超大型輸送機の技術を転用してやはり大型旅客機の開発に乗り出す。ただ他のメーカーはB747程の巨大な機体には慎重で、それより一回り小さい機体を開発することになる。これがダグラス社のDC-10型機とロッキード社のL-1011型機「トライスター」となって完成するのはB747路線就航より後になる。結果的にはいきなり超大型機B747と、当時在来の中型機の隙間を埋める商品となってしまったため、これらライバル機はB747と共存共栄することとなる。

 1968年末、いよいよB747初号機が完成した。様々な調整を経て1969年2月9日、遂に初飛行に成功する。様々なテストを経て1969年の年末に形式証明を取得して2号機目以降の機体がパンアメリカン航空に引き渡された。初号機はそのままボーイング社に残ってテスト用機材となった。1970年1月21日、B747はパンアメリカン航空のニューヨーク〜ロンドン線に路線就航した。ここにB747の歴史が始まる。
 B747でも初期に製造されたのはB747-100と言われる機体である。これは開発中に機体重量が見積もりより大きくなってしまうという問題が発生し、目標の性能を達成できなくなったためにエンジン関係を改良して何とか性能を維持した機体である。それでも必要な性能である太平洋横断飛行については制限が加わる事態となった。ボーイング社はこれを解消すべくすぐに改良版の開発を発表する。この初期型であるB747-100は167機が製造されて、後述するB747-200に移行した。
 こうしてB747の歴史がスタートする。

 B747の路線就航は航空界を一変させた。旅客機は狭くて高いというイメージを一転させたのである。余裕ある広さの機体は座席をゆったり配置して快適な機内を実現した。そして座席に余裕が生じると団体枠が生まれ、飛行機を利用した格安の海外旅行ツアーが増え、この枠を使った格安チケットが生まれたのもこのB747型機の誕生によるものである。こうして航空運賃が劇的に下がり、完全に旅客機は庶民の乗り物へと変化した。今まで高嶺の花であった旅客機への搭乗を大衆化したのがこのB747である。

 しかし、B747の就航はボーイング社の経営を圧迫した。いくらB747の受注数が目標に達しているとはいえ、その購入費用が全額支払われるのは納入してからの話である。それまではB747の開発や工場建設を各航空会社が支払った手付け金だけでは足りず、多くの予算をボーイングが自腹を切る形で支出したのである。当初の構想通りこのような巨大旅客機を開発するのに巨大輸送機開発という軍の仕事が取れていれば政府からの契約金は先払いなので困ることはなかったが、旅客機開発は開発した旅客機を完成させて就航させないと開発費の回収が出来ない。
 ボーイング社は巨額な負債を抱えることになり、6万人もの大リストラを断行してこれを乗り切るしか手はなかった。ボーイング社は非効率でも良い物を創るという社風があり、その社風がB747を産んだともいわれるが、その社風すらもB747開発に要した負債が吹き飛ばすことになる。非効率を徹底的に廃し、効率を優先させた少数精鋭の企業に変わってゆく。工場やオフィスの建物のペンキ塗り替えすらできなくなり、工場内の芝生の手入れもできなくなった。さらに会社内の掃除をする余裕もなくなって不衛生が問題になる。
 ボーイング社による大リストラは、ボーイング社のお膝元であるシアトルの街も打撃を被ることになった。失業者が増えて街の経済活動に支障を来したといわれている。B747開発プロジェクトで就業人口が増えると予測して団地の建設や学校の拡張が行われていたのに、逆にボーイング社のリストラで街には失業者があふれたのである。失業者は仕事を求めて街から出てゆき、人工が減って街は寂れた。それに伴い不動産業者が職を失ってさらにリストラが広がる。ある不動産業者は街の苦境を訴えるために、空港に電球の絵を描いただけの立て看板を立てた。そこにこうメッセージが書かれた。
「最後にシアトルから出てゆく人は、この灯のスイッチを切っていってください」

 このB747の開発と並行して、ボーイング社がアメリカ政府から予算も獲得して超音速旅客機の開発を進めていた。しかし、この頃から環境問題に冠する市民運動が台頭を始め、アメリカ議会は超音速旅客機に対する1971年度の予算を反対派に押し切られて否決してしまった。B747による負債で自力で超音速旅客機を開発することも出来ず、遂にボーイング社が将来主力になると予測していた超音速旅客機の開発は中止される。これによってさらなるリストラが行われることになり、さらに将来に渡ってこの開発費は回収できないためにボーイング社の経営は完全に息詰まるかに見えた。
 しかし、超音速旅客機開発に必要不可欠な精巧な制御システムは完成していた。これは特に宇宙開発部門で役に立つこととなる。また次世代旅客機にこの技術は活かされる。
 話はそれたが、この超音速旅客機開発中止はB747という超巨大旅客機で息を繋ぐしか方法は無くなるわけである。しかもここに追い風が吹く、超音速旅客機の開発が出来なかったのはアメリカのボーイングだけでなかったことだ。イギリスとフランスの共同でコンコルドが開発されたとはいえ、これは開発の遅れによる納期の延期で顧客を大量に逃してしまい、完成しても性能を満たさず結局は開発国の航空会社が情けで勝っただけであって事実上失敗だった。コンコルドを待ちきれなかった世界の航空会社は皆揃ってB747を発注した。東側でもソ連が超音速旅客機の開発に成功したとされているが、実態は定かではない。
 つまり、国際航空線は超音速旅客機によるスピードの時代を迎えることはなく、B747のような輸送力のある機体を求めるようになった。この変化によりB747は順調に注文を伸ばし、ボーイング社もB747によって窮地から救われることになる。

 B747によって会社が傾いたのはボーイング社だけでない。B747の大量投入でゆとりある機内を各路線で提供しようとしたパンアメリカン航空もそうである。パンアメリカン航空はB747の大量投入のため巨額な負債を抱えたが、B747の製造があまりにも早かったためゆとりある機内という機材を一社独占できた期間が予想より短くて他の航空会社をリードすることが出来なかった。パンアメリカン航空は次第に経営が苦しくなり、路線を他の航空会社に売却して生命を繋ぐという状況に陥った。1980年代半ばにはアメリカ本土と東京など東アジアを結ぶ太平洋路線をユナイテッド航空に売却し、日本の空から姿を消した。そして1990年代初頭にパンアメリカン航空は完全に運行を停止する。


・様々なバリエーション展開
 B747の売れ行きは好調となったが、色んな航空会社に売れるとユーザーから色んな注文が来るようになる。B747は誕生から数年で様々な仕様の機体が作られる。

 まず最初に派生したのがB747-200Bである。前述のB747-100の性能不足を補うべく開発された機体で、当初はB747Bと呼称されていた。機体各部を補強した上で燃料タンクを大きくし、推力を増したエンジンを搭載して本来予定されていた性能を出せるようにしたものである。1970年10月11日に初号機が初飛行し、12月に形式証明取得、1971年1月15日にKLMオランダ航空に引き渡された。その後、エンジンの技術革新によってこのB747-200型機は徐々に離陸重量の増加と航続距離を伸ばし、最終的には東京〜ニューヨーク間のノンストップ運行を可能とした。またこのB747-200には様々なタイプがあり、前部に巨大なカーゴドアを設けて座席と窓は設けずに純貨物機としたB747-200F型、メインデッキの後ろ半分前部を貨物室として旅客需要と貨物需要の双方が高い路線に対応したB747-200M型(その後B747-200コンビと呼ばれる)、需要に応じて純貨物機と旅客機の切り替えが出来るB747-200C型(コンパーチブル)が派生している。
 また、B747-200完成後に機体はB747-100と同じだがエンジンがB747-200と同じというB747-100Bというタイプが僅かに9機生産された。

 次にボーイング社は短距離仕様の開発に乗り出す、空港の空域が狭くて思うように便数が増やせない短距離路線を抱えている航空会社には、一度に多くの人を運ぶという意味でB747をセールスしていた。しかし、このような路線にはB747はオーバースペックで、航続距離と離陸重量を押さえつつ1席でも多くの座席を載せた仕様を航空会社から要求された。こうして生まれたのがB747-SRである。
 本来長距離路線向けに作られたB747は1日に短距離路線を何度もこなすように作られていなかった。想定されていたのは離着陸がせいぜい1日1回、短距離路線用の機材だと1日3〜4回、ものによっては5回以上の離着陸を繰り返す機材繰りもある。
 そのため機体はB747-100をベースにしているが、機体各部を補強して想定離着陸回数を倍とした設計に機体を変更した。最大離陸重量は減らされたがこれはあくまでも書類上の話であって、最大離陸重量を減らすと空港での駐機場使用料や滑走路使用料が安くなるから巨大な機体を繰り返し使うには都合が良くなる。B747-SRを国際線に転用する場合は、書類上の最大離陸重量を書き換えればB747-100の性能で飛ぶことが出来る。
 機内はトイレとギャレーが減らされ、その分座席を増やすことになった。こうして定員500人オーバーの機材が世の中に誕生した。
 B747-SRという機材を要求した航空会社は他でもない日本航空である。日本は国土が狭い上に米軍や自衛隊の基地が多く、空域に制限があって便数を思うように増やせないという特殊事情があった。1973年〜1974年にかけて最初の4機を皮切りに、B747-SRは日本航空のみが発注し日本航空のみが受領して日本の空のみを飛ぶことになる。後に1982年になって全日空がB747-SRを発注して路線就航させるが、この2社以外新品のB747-SRを導入した航空会社はない。ちなみにボーイング社は特に日本向けにB747-SRを開発したわけでなく、一応全世界に向けて販売を行っている。
 B747-SRは最終的に日本航空に12機と全日空に17機のあわせて29機が納入された。日本航空に納入されたB747-SRの最後の2機は、機体が後述するB747-300に準じており(2階席を後方に延長したSUDと呼ばれるタイプ)、正式な形式はB747-146B/SUDとB747-100Bの形式をつけているがボーイング社の分類上ではB747-SRに含まれる。また全日空に納入された機体のうち一部は納入後にエンジンを換装してB747-200並の性能を身につけて長距離国際線に使用できるように改造されたものがある。全日空は1986年までB747については、B747-SRのみの保有だった。
 なお余談ではあるが、日本は上記のような事情で短距離国内線にB747が多数運行される唯一の国となった。またこの事情は国際線に対しても同じで、どの国の航空会社も東京線や大阪線の便数を増やせず、日本路線にはB747を投入せざるを得なくなっていた。このため、日本はB747の登録機数と機種数が世界一多く、世界各国のB747が集中的に集まる国となった。また日本航空はB747の注文数が一番多い航空会社である。日本人にとってB747が一番ポピュラーな機体となっているのはこのような事情によるものである。

 短距離仕様に少し遅れて開発が始まったのは超長距離型であるB747-SPである。この機体はB747-100をベースに機体の長さを14.2メートル短縮、そのままでは機体制御能力が落ちるので水平・垂直尾翼を大きくし、逆にフラップは単純化出来るようになったので構造を簡素化した。この機体の小型化により重量が大幅に減ったため、B747-200ほど燃料タンクを増やさなくても航続距離を大きく伸ばし、B747-200に比較すると2〜3割も遠くへ飛ぶことが出来た。B747-SP開発の頃はエンジンの性能がまだ上がっておらず、まだB747-200型での超長距離飛行は不可能だった。
 さらに機体を短縮しただけで新しい技術を盛り込んだ訳でないこの機体は価格が安くなった。また機体サイズもあってこれはライバルのDC-8型やL-1011型と競合する機材となるかに見えたが、使用できる航続距離の違いからまた上手く棲み分けをすることになる。DC-8型やL-1011型との対決は今後開発する新機種が担うことになる。
 B747-SPのような超長距離仕様を要求したのはアメリカン航空であった。1973年9月に開発を決定するとアメリカン航空から発注があって正式に開発がスタートした。1975年7月に初号機が初飛行、翌年2月に形式証明を取得して1976年4月にロサンゼルス〜東京線とニューヨーク〜東京線のノンストップ便にデビューした。今でこそ東京からニューヨークへのノンストップは当たり前だが、この頃は途中で給油のために着陸するのが当たり前だった。このB747-SPの登場で今は当たり前になっている直行路線の多くが新設された。この航続距離の長さは他の機種の追随を許さず、超長距離路線はB747-SPの独壇場となったのだ。
 だが、B747-SPの独壇場も長くは続かなかった。直行便が新たな需要を呼び、僅か数年でこのような超長距離路線にも多くの旅客が殺到するようになってB747を短縮したB747-SPでは運びきれなくなって来たのだ。航空会社は通常のB747と同じサイズの機体で超長距離飛行が可能な機体を希望するようになるのにあわせて、B747-200に搭載するエンジンのスペックが急激に上がった。するとB747-200に補助燃料タンクをつければ若干の制限はあるもののB747-SPに匹敵する航続距離を得られるようになったのである。このためB747-SPは僅か45機が製造されただけで製造が打ち切られたのである。日本の航空会社はB747-SPを購入せず、B747-200の性能が上がるのを待っていた。日本の特殊な航空事情はB747-SPでは座席数が明らかに不足していたのである。パンアメリカンなどアメリカの航空会社がB747-SPを使って東京や大阪からニューヨークなどアメリカ東海岸にノンストップ便を早くから飛ばしていたのに対し、日本航空はB747-200の性能向上が実現する1983年までアンカレジでの給油着陸が解消できずにノンストップ便はお預けだった。

 B747の生産が続くと、B747が就航した路線の需要がさらに伸びてB747でも座席数が足りない事態となっていた。各航空会社は定員0のラウンジとして使用していた2階席を客室に改造し、エコノミークラスの座席を最初は横8列だったのを9〜10列へと増やして(B747-SRのみは最初から10列)需要に応じていた。多くの路線はこれで解決できたが、一部路線ではこれでも間に合わずB747の機体構造変更を含んだ定員増加が要望されるようになってきた。また貨物が多くB747-200Mを投入している路線では座席数増加に限界があり、抜本的な対策をボーイング社に望んでいた。
 特にKLMオランダ航空からこの要望が強かったとされる。そこでボーイング社はB747の新しいモデル、B747-300の開発に着手する。
 B747の2階席を後方へ7.1メートル延長し、エコノミークラス32席が限界だった2階席に倍以上の座席を設定できるようにした。初めてB747の機影に変化が生じた。この変更により2階席中央左右に巨大な非常扉が設けられ、機内の1階席と2階席を結ぶ階段も螺旋階段を廃して直線階段に改めた(以後に製造されたB747全て直線階段に変更)。この機体の変更により重量は上がったが飛行中に受ける空気抵抗が大幅に減ったために巡航速度が若干速くなり、さらにエンジン効率の上昇により燃費も僅かに良くなった。この2階席(アッパーデッキ)を後方に伸ばしたデザインを「Stretched Upper Deck」の頭文字を取って「SUD」と呼ばれている。
 B747-300は1980年に開発を決定するとすぐにKLMオランダ航空から発注を受けて開発をスタート、初号機は1982年10月に初飛行して翌年3月に形式証明取得、その直後に路線就航を果たした。
 B747-300にも1階デッキ後ろ半分を貨物室にしたB747-300Mという貨客混載型が登場しB747-200Mで旅客輸送力不足に悩んでいた路線の救世主となった。続けて日本航空の要求によりB747-SRのSUDを製造することになった。最初の2機は前述の通りB747-146B/SUDとしてB747-SRの増備として登場したが、3機目からはエンジンをB747-300と同じものとしたためにB747-300SRという新しい形式が与えられた。B747-300SRは日本航空に僅か4機納入されただけで、他は全日空も含めてどこの航空会社も採用していない。
 B747-300製造開始と同時にボーイング社では既存のB747をSUDへ改造すると発表した。この改造工事を申し込んだのはKLMオランダ航空が10機、UTAフランス航空が2機の合計12機で、1984年よりこの改造工事に着手した。改造された機体はB747-200B/SUDという形式が与えられた。

 このような歴史を歩んでB747は1985年夏の時点で約600機が製造され、日本ではその1割以上に当たる67機のB747を日本航空と全日空が保有していた。なお日本航空のうちの1機はハイジャックで爆破されているので日本に納入された機体はこの時点で68機を数えている。この間、機体の欠陥に伴う事故は起きておらず、B747が経験した事故はハイジャックやテロによる爆破、管制官やパイロットのミスによるものばかりであった。B747は商業的に成功していたが、先進の多重安全構造に守られて世界で一番安全な航空機とまで呼ばれるようになっていた。


・B747その後
 その後、日本航空123便事故を乗り越えてさらにB747の製造は続く。1984年にB747をさらに発展させる計画を発表、それはB747-300の機体(SUD)を基本として、操縦席にコンピュータを導入してエンジン計器の監視や航法計器の姿勢表示計器などを総合的に表示させるというものであった。今までの計器類がずらりと並ぶ操縦席を改め、計器盤に並べた6面のCRTディスプレイにその時に必要な計器だけをグラフィック表示させることになった。この操縦席の大幅改良により操縦操作量と計器監視量が大幅に減り、B747では機長と副操縦の他に必要だった航空機関士の乗務を廃することを可能とするものであった。このような操縦席はB767で採用されていたが、さらにコンピュータ化を進度化したもの計画した。
 機体もB747-300をさらに改良して空気抵抗を減らすこととした。その中でも大きな変化点は主翼の先端を上方向に曲げて主翼先端の空気抵抗を改善する策が取れられた、これはウイングレットと呼ばれて戦闘機でよく見られるもので旅客機での本格採用はあまり例をみなかった。さらに低燃費高出力のエンジンの開発にエンジンメーカーが成功する見込みで、これを搭載すればB747の航続距離は飛躍的に上がると予測された。
 この新しいB747の宣伝活動はまさにこの事故が起こった頃に進められ、1985年10月にノースウェスト航空から10機の発注を受けたことにより機体形式名をB747-400として開発が始まった。
 B747-400でもB747-200のように様々な仕様が用意された。1階デッキ後ろ半分を貨物室にしたB747-400M、B747-SRの代替となる短距離仕様のB747-400D、機影がB747-200Fと同じ純貨物機のB747-400F、燃料タンクを増設してさらに高性能なエンジンを用意することによってさらなる超長距離運行を可能としたB747-400ER、B747-400ERの貨物型に相当するB747-400F-ERといったラインナップである。無論短距離仕様のB747-400Dは日本航空と全日空のみが発注した機体で、短距離運行のため効果のないウイングレット装着が見送られている。
 B747-400は1988年4月に初号機が初飛行、テスト飛行では14時間無給油無着陸飛行という当時の旅客機による最高新記録をマークし、1989年1月に形式証明を取得、2月にノースウェスト航空によって路線就航を果たした。B747-400は順調に売れ行きを伸ばして数を増やすと、在来型のB747は「B747クラシック」と呼ばれることになる。それでもB747-200の製造は細々と続けられていたが、1990年5月にボーイング社はB747クラシックと呼ばれるタイプは発注済み以外は全て生産中止を決定、1991年11月に日本貨物航空(全日空系)に納入したB747-200Fを最後にB747クラシックタイプの製造を終えた。
 そして現在、B747-400に変わる新しいB747の開発が噂されている。これが実用化されるとB747は初期のクラシックファミリー、2世代目のB747-400シリーズに続く第3世代に突入する。さらに今までB747のような超巨大旅客機にライバルはいなかったが、フランスのエアバス社が総2階建旅客機であるA-380でB747に対決を挑む、今後のB747を取り巻く情勢は大きく変わるだろう。

 また1985年以降、日本におけるB747購入会社は日本航空と全日空だけだったのが、それまで日本航空の中古機ばかりを使っていた日本アジア航空(日本航空系)と、新しく設立された日本貨物航空(全日空系)、そして日本政府がB747の新たな日本の顧客として加わった。こうして今も100機以上のB747が日本の空を飛んでいる。


 1985年という年はB747の歴史から見ると、B747-400開発という大転換点の直前に位置する。B747に言わせればこの事故は順調に成長を続け、輝かしい未来が約束されようとした矢先に眼前に立ちこめた暗雲だったに違いない。そして後発のB747-400ではこの事故の教訓が組み込まれてゆくことになる。

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