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 東京多摩の我が家を出発したのは4月28日未明4時、そこから東北道をかっ飛ばして関東平野北限の那須インターで降り、しばらく国道4号を北上してから「あぶくま高原道路」と国道49号を経由して福島県いわき市に入った。ここから東北でも有名な「酷道」のひとつであり、常磐線沿いの国道6号の一本山側を北上する国道399号線等を経由して宮城県方面に向かった。
 福島県の浜通りに近いところで何度も見たのは、原発事故による立ち入り禁止区域を示すバリゲートだ。国道399号線もこのエリアに掛かっていて、これを迂回するのに帰還困難地域ギリギリを通過するという行程を取った。
 つまりその間は、右折してしばらく走ると必ずこんな光景にぶつかって道を阻まれるという感じだ。
 こんな形で帰還困難地域スレスレコースを経ているうちに、海岸近くから内陸側に大きくロストしてしまう結果となった。次に海岸沿いに出たところは宮城県の山元町であった。
 海沿いに出ると津波にバラストを持って行かれたままの軌道にぶつかる。ここは常磐線の山下駅、もう2年以上鉄路が眠ったままの寂しい景色。
 上写真の地点から振り返ると、山下駅の全景が見渡せた。ここに列車が来る日は戻って来るのか? それとも流された街と共に別の場所に移ってしまうのか…?
 ふと見上げると信号機が傾いたまま放置されていた。これは津波で傾いたのだろうか?
 分岐器もそのまま、それに並ぶ分岐器標識は「お辞儀」したままで立ち上がろうとしない。そこを強い風が吹き抜けて行く光景は、見ていて辛い。
 こちらは隣の坂元駅。ホームの下は線路が敷いてあったことが信じられないほどである。跨線橋の基礎と、ホームに書かれている乗車位置目標がここに線路があったことを示している。
 坂元駅の駅舎があった場所には、ささやかな祭壇が作られていた。私もここで生命を落とした人の事を思い、そっと手を合わせた。
 続いて立ち寄ったのは、仙台市若林区の荒浜地区。震災当日の報道で「仙台市若林区荒浜に200〜300人の遺体が打ち上げられた模様」と聞いて背筋が凍ったのは、記憶に刻まれている。
 その犠牲者を悼む観音様が海岸の入り口に建立され、多くの人々が訪れていた(観光バスで来たツアー一行も)。
 その中に混じって、私も観音様に向かって手を合わせた。
 荒浜地区は仙台市郊外の閑静な住宅街だったと記録されている。今もネットで参照出来る地図を航空写真モードで見れば、ここが東京多摩西部と同じように、所々に緑を点在させた住宅街であったことが理解出来る。
 そんな家々は一軒も残っていない。画面中央右の建物は荒浜小学校だが、そこまで拡がっていた住宅街は完全に姿を消していた。残っていたのは家の基礎だけで、家の間取りや大きさを残していた。

 荒浜地区の被災状況はこちらのサイトをご覧ください。
 そんな震災の爪痕に心を痛めつつ、国道45号線を北上して4月28日20時までには大船渡市入りした。「道の駅さんりく」で車中泊の後、いよいよ三陸鉄道南リアス線の旅が始まる。
 これは三陸駅近くの朝の風景。

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