私はこの日のうちの久慈到着を目指しつつも、半島に迷い込んだり観光スポットを巡ったりしながら三陸を北上していた。陸前山田では仮設商店街のイタリア料理店で食事をし、本州最東端の「とどが崎」(最寄りの駐車場から3.8キロの山道を歩く)へ行くなどのんびりしつつも体力も必要な北上であった。
そして16時半過ぎ、私は三陸鉄道を追う者として避けて通れない場所に到着した。
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午前中の雨は昼前には激しくなったが、お昼を過ぎるとそれまでの雨が嘘のように晴れ渡った。だが16時を過ぎると急激に冷え込んできて、一定以上の標高の場所には霧が掛かるようになった。
この光景を見れば、「一定以上の標高の場所には霧が掛かる」の意味がお分かり頂けるだろう。 |
トンネルレへ伸びる鉄路、だがその鉄路はまだバラストを流失したままで不自然に曲がっている。その場所は…。 |
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三陸鉄道でもっとも震災被害の激しかった北リアス線島ノ越駅である。
一昨年に来たときは瓦礫の山、去年に来たときは一面の平原と表現するならば、今年は「工事現場」になっていたというのが相応しいだろう。僅かに残っていた島ノ越駅の遺構は全て撤去され、新たな高架橋と橋梁を建てるための工事現場となっていた。
三陸鉄道全線復旧に向けての「槌音」を最も感じた瞬間だ。 |
駅前の広場へ行くと、駅舎の跡地も工事現場となっていて既に基礎部分等はなくなったいた。何よりも驚いたのは、観光客向けにこの復旧工事を見学するための展望台が仮設されていたことだ。 |
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上記の展望台から宮古方向を見る、島ノ越で残った僅かな住宅はそのままだが、橋脚を建設するための仮囲いが目立つ。全線復旧に向けて着実に動いている。 |
展望台から久慈方向を見る。ここに到着して最初に登った築堤はまだ手つかずなのは、再利用する計画なのか?
ここを流れる川の流路も、新しい橋脚を建てるために一時変更されている。 |
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私が「まるで墓標のよう」と評した津波に耐えた9段の階段。この階段は地面と切り離されて駅前の広場、賢治の石碑の隣に移動させられていた。
お、左側を見ると何か説明書きがあるそ…。 |
なんと、説明書きを見るとこの階段は「震災の記憶」として保存されるというではないか。
この階段が気になって仕方なかったのは私だけでなかった、ということだ。
階段の移設作業についても説明されていているが…あれ、あれれ…?
この左側の「震災の記憶」という説明書きの写真、とても見覚えがあるのだが…? |
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これらの写真を撮っていると、駅前広場に観光バスが入ってきてツアー客がパラパラと降りてきた。そして私の写真が使われているこの階段の説明に、多くの人が見入っていた。
いや、正直言ってこのような場所で写真が使われ、多くの人に見てもらっているのはとても嬉しいですよ。ホント、一人で大笑いでした。 |
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こんな感じで三陸鉄道およびその沿線を舞台にした旅を終えた、島ノ越駅の後は日帰り温泉施設で風呂に入り、夕食にウニ重を食べてから「道の駅のだ」で夜を明かして、翌朝は安家川渓谷を通って三陸を離れました。日本海側を経由して無事に東京に帰り着きました。
三陸鉄道も含めた被災地の様子であるが、震災直後の一昨年や去年も訪れている私の目には「かなりよくなった」と映った。もちろんまだまだ復興は道半ばであり、これで苦しんでいる方も多くいることは承知である。だが、去年まで見る事がなかった「津波浸水エリア内の新築住宅」がいくつか見えたり、仮設ではあるが商店も以前より活気を取り戻していたのは事実だ。さらに震災から2年を経た事で観光客の数も去年と比較するとずっと多くなったようにも感じた。
だが、町が大きければ大きいほど津波浸水エリアの復興は進んでおらず、かつては宅地だったところに広大な草原が拡がっているのを見るとまだ心が痛む。今の被災地を過去に「訪れたことがない」という人が見れば、やはり「これは酷い」と思う状況であるのは確かだ。
とは言え、三陸鉄道だけでなく多くの場所で復旧・復興へ向け動き出していることを、今回の旅行で感じた。三陸鉄道では「どのようにして手をつけるのだろう」と去年の来訪でも感じていた、唐丹・釜石市内・島ノ越といった被災の影響が大きい場所で確実に復旧工事が進んでいる。その重機の唸り声が「復興への槌音」として力強く響いていると感じ、今回のこの旅行記のタイトルとした。
来年春には三陸鉄道の全線復旧が予定されている。もし予定通りに行けば、来年も是非とも三陸まで行って、三陸鉄道の全線完乗の旅を行いたい。今からそれが楽しみであることを明記して、今夏今旅行記を終えたい。
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