13:33 いよいよ浦賀水道の狭隘部へと進んで行く。 周囲で撮影していた人達と、背景の房総半島を下北半島に見立てて「まるで蟹田沖のような景色だ」と語り合った。 確かに、平舘海峡はこんな感じだ。 |
13:34 南の島からゃってきた「おがさわら丸」とすれ違う。あの船に乗って一度小笠原に行ってみたい。 あの船から「羊蹄丸」を見たら最高だろうなぁと思った。 |
13:35 浦賀水道の航路を示すブイを通過。この時刻が観音崎沖通過時刻として記録されるのであろう。 灯台から見てもちょうど真横の位置、だけど13:27の時点と比較すれば、少し小さく見えるし既に後も見せている。 |
13:38 船尾扉の文字も確認出来る角度になった。 ほどよい明るさといい、背景の陸地といい、青森へ向かう上り便に見える。 彼女もこの狭い水道を通過しながら、平舘海峡の景色を思い出しているのだろうか? この頃から灯台上で撮影している人が、一人また一人と減っていった。 |
13:41 房総半島の街並みを背景にすると、今度は函館山沖のような雰囲気が出てくる。彼女の最期の見送りは、そんな青函航路の情景をも思い起こさせてくれるものだ。 |
13:47 背景に内房線の線路が見える場所なのだが、流石に電車は来なかった。列車と連絡船という組み合わせが撮れる最後のチャンスだと思ったが…残念。 |
13:48 ちょっと波が高くなってきたか、この頃より飛沫が目立つようになった。この船にはこういう光景が良くお似合いだ。 背景の線路にやっぱり電車が来ない…。 |
13:49 飛沫が上がっている写真を撮ろうと、何度か試してみるが上手くいかない。 この頃になると最後まで見送ろうと頑張るメンバーだけが、灯台上に残っている状況になってきた。 |
13:55 房総半島の山々をバックに行く。 だいぶ小さくなってしまい、最望遠でもこの大きさだ。 |
14:02 14時ちょうど頃から、「羊蹄丸」の後方を固めていた「上総丸」の動きに変化が生じた。これまで一貫して「羊蹄丸」の後方にいた「上総丸」が、突如「羊蹄丸」を右側から追い越したのである。一度「とよら丸」に近付いたと思うと、今度は反転して「羊蹄丸」から離れた。 (この写真は拡大して表示しています) |
14:03 ここからは「羊蹄丸」と「とよら丸」の二人だけの旅路だ。 (この写真は拡大して表示しています) |
14:19 この間にお台場で別れたF氏が合流。彼は灯台下で撮影していたとのこと。その他、見えなくなるまで見送ろうと頑張る人を含めて語り合いながら、彼女が遠ざかるのを見つめる。 最望遠でここまで小さくなった。「とよら丸」の姿は小さすぎて見えないのか? (画像の上にマウスを合わせると拡大写真になります) |
14:45 対岸の金谷港から東京湾フェリー「かなや丸」が渡ってきた。この東京湾フェリーは、手頃に乗れるフェリーとして現在非常に気に入っている航路である。機会があれば房総へ行く計画を立て、このフェリーに乗るようにしている。 そんな今のお気に入りの船も、背景にいる「羊蹄丸」の存在がなければ私は興味を持つことすら無かったであろう。 (この写真は拡大して表示しています) |
15:05 再接近から既に1時間半、「上総丸」が戦列から離れて既に1時間。 観音崎から州崎方向を見ると、まだ彼女の姿はそこにあった。この小ささに寂しさと悲しさを感じずにはいられなかったが、それを吹き消すようとにかく「仲間」との場を盛り上げた。 (画像の上にマウスを合わせると拡大写真になります) |
15:17 これまでこちらに船尾を向けていた彼女は、向きを変えて我々に右舷側を見せるようになった。 いよいよ太平洋の大海原へ出て行くのである。 (画像の上にマウスを合わせると拡大写真になります) |
15:36 最大接近から既に2時間を経過した。だがまだ観音崎灯台から彼女の姿が見えている。 彼女は完全に西に向きを変え、我々は彼女の右舷を真横から見る形となった。拡大写真を見て頂くと、津軽丸型の「らしい」側面がよくわかると思う。 (画像の上にマウスを合わせると拡大写真になります) |
15:50 写真に残すのはこのカットが限界であろう。 そしてこの写真を撮った3分後、写真に写っている藪の中に消えてしまい、彼女の姿は見えなくなってしまった。 私と「羊蹄丸」の24年と9ヶ月の付き合いにおける、最後の別れであった。 彼女の姿が見えなくなった海を眺めて、私も台場にいた元船員さんと同じ言葉を口走った。 「行っちゃった…」 (画像の上にマウスを合わせると拡大写真になります) |
こうして「羊蹄丸」は私の前から完全に姿を消した。もう多分、これで二度と彼女に会えることはないと思う。やはり今の私の財力では愛媛は遠い。行きたいのは山々だけど、先立つものが無くてはどうにもならない。ここで仲間達と語り合った事だが、夏のボーナス直後まで公開していれば何とかなるかも知れないが…。今のところ伝え聞いている話では愛媛での公開は5月らしいので、多分無理だ。 だから今回の撮影行およびお見送りは、「最後の別れ」と位置付けた。灯台上の会話の中で、F氏が「今生の別れ」と表していた。誠に勝手ながら私の今回の行動や当サイトのこのコーナータイトルに相応しいと感じ、その言葉を使わせてもらうことにした。 青函連絡船「羊蹄丸」。 私が始めて乗った連絡船であり、最後に乗った連絡船。同時に私が始めて乗った本格的な船舶。 何度も言うがその体験は鉄道一本だった私に「鉄道以外の乗り物」へ興味を持たせる第一歩で、海や気象や地球といった自然に興味を持たせ、さらには歴史というものにまで興味を持たせた。本当に私の人生を変えたと言って全くオーバーではない存在だ。 その「羊蹄丸」が東京に来ると決まった時は、これまでのどんな鉄道関連の情報よりも嬉しかった。同じ連絡船の別の船でなく、「羊蹄丸」だから嬉しかった。「羊蹄丸」だからことある毎に台場へ足を運んだ。娘も二度連れて行っており、この船のことを「父ちゃんの青春の船」だと教えた。娘に取っても「ようていまる」は少女時代に父に連れられていった不思議な場所として、記憶に残ってくれることだろう。親子二代で思い出に残すことができたのは、まさに「船の科学館」のおかげであるのは間違いない。 そんな私にとって最も思い入れがある乗り物が、これまで手が届く場所にいたのに、この日をもって届かないところへ行ってしまったのだ。 今回、このような見送り方ができたのはとても嬉しかったと思う。 そして「羊蹄丸」自体もこれだけ多くの人がお台場で、観音崎で見送ってくれたのを喜んだはずだろう。 彼女は日本の船の中で、とても幸せな一生を過ごせたと思う。これだけ多くの人に愛され、「別れ」のたびに何度も見送られた。解体のための回航でこれだけ多くの人が集まった船は他にないであろう。海外に売却され既に解体された僚船達と比べれば、何たる幸運であろう。こんな幸運を私が最も気に掛けていた「羊蹄丸」が掴んだ事に、本当に神に感謝したい。 これで当日の「羊蹄丸」との別れを描く写真集は終わるが、「羊蹄丸」との最後の別れをきっかけに私と「羊蹄丸」の思い出をまとめてみた。もう少しだけお付き合い願いたい。 |