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 「羊蹄丸」との最後の別れを記事にした事に際し、私の家にある古い写真を引っ張り出してきた。ここにそれらの古い写真を「メモリアル」として公表し、私の「羊蹄丸」の思い出を振り返ってみよう。
 高校生時代はろくな撮影機材を持っておらず、決してきれいと言える写真ではないがそのところはご了承願いたい。少ない予算でより遠くへ行こうとしていたため、カメラにお金を掛ける余裕がなかったのだ。また現像費の都合から一度の旅行で使えるフィルムの本数も制限していたため、写真点数自体が非常に少ない。仕方が無いこととは言え今考えると残念な点だ。

 まずは25年前の夏にタイムスリップしよう。

1987年6月11日 8便
 私と彼女が始めて対面した瞬間である。同時に、私と青函連絡船の「出会い」である。

 この数十分前、盛岡から青森へ向かう特急「はつかり」(しかも583系!)の車中から、沖を行く彼女を始めて見た。
 そして青森駅に到着し、連絡船に乗るべく桟橋に着くと窓の外から聞こえる汽笛の音。その音に振り返って見ると、まさに彼女が1岸に着岸すべく回頭しているところだった。
 高校生時代の修学旅行、私と「羊蹄丸」の最初の出会いである。まさかこの船が私の人生を変えて行くとは、この写真を撮ったときには想像だにしなかった。
 そして8便として青森港に入港した彼女は、折り返し7便として、我々を乗せて函館へ向かう。私にとって初めての船旅、私にとって最初の青函連絡船での航海だ。
 岸壁の出発案内表示板に、船の名前が出てくるのは驚いた。
 「後部大部屋」に陣取った我々は、荷物を置くと既に連絡船経験済みの友人に連れられて遊歩甲板に出た。そこでシンボルマークを見つけて撮影している。青函連絡船にこのようなマークが存在する事は、鉄道雑誌等で知っていた。
 17時05分。7便「羊蹄丸」が我々を乗せて青森桟橋をあとにした。
 生まれて初めての本格的な船による航海、この航海が私をこの船の、この航路の、海と自然の虜にすることになるとはまだ予想出来ていない。
 青森の街が遠ざかる。何でこのような写真を残そうとしたのか今となっては解らないが、青函連絡船の旅の記録として大事な一枚であることは間違いないだろう。
 やがて長い夏の日差しが西に傾きだした頃、前方に津軽半島の先端の竜飛岬が見えてきた。有名な演歌の舞台に立っていることを実感させられたシーンである。
 海面がオレンジ色に染まり、圧倒的な黄昏時の風景に見入ってしまう。
 津軽半島に沈む夕陽。とにかくこの景色は圧巻で写真ではその雰囲気が伝わらない。
 全てを橙に染めながら真っ黒な津軽半島に沈む夕陽。そして日が沈むと訪れる圧倒的な「青」の世界。この光景は私を虜にした。夜の帳が完全に降りるまで、甲板に立ち尽くしてこの景色を眺めていた。

 だが、少し船酔いしていたのも事実。今考えると絶対に酔わないような穏やかな海なんだけど。船が曲がる時に鉄道などとは逆に傾くのに、なかなか慣れなかった。
 酔いもあって一時は「船はもう嫌」とも思ったけど、この景色の記憶がそうはさせなかった。
 私は完全に連絡船と海の虜になっていた。始めて「鉄道」以外の乗り物の虜になったのだ。
 船内も探検している。この日のこの便はガラガラで、乗客のうちほとんどが我々の高校だけだった。我々以外の客は数人しか見かけなかった。
 ここはグリーン船室の自由席。雰囲気が鉄道のグリーン車まんまだったが、船という物を知らなかった私はこんなもんかと思った。でも写真は残している。
 こちらは普通船室の椅子席。特急電車のようなシートで、普通運賃だけで乗れる施設としては豪華ではないか、と思ったりした。
 でも、この椅子に4時間座りっぱなしは少しキツかった記憶がある。連絡船に乗れば椅子に座りっぱなしということは殆ど無かったけど。

 高校の修学旅行では、連絡船の写真はこれしか残っていない。帰りに乗った「大雪丸」では、フィルムが完全に無くなっていたので何も撮影出来なかった。
 この写真は1987年の夏休みに、始めて単独で北海道へ行った帰りである。出港しようとしているのは22便「羊蹄丸」。
 写真に写っている女の子が、船を見送る後ろ姿が良くてつい撮影してしまった一枚だ。多分この女の子は私と同じ位の年齢で、現在はすっかりおばさんになっていることだろう。

 この年の夏休みの旅行で「羊蹄丸」を撮ったのはこの1枚だけだ。この時は「羊蹄丸」は見送っただけで、乗っていない。
 ここからは1988年3月、廃止直前の青函連絡船に乗りに行った記録になる。
 この旅行では丸3日間、連絡船で津軽海峡を往復するだけというとんでもない旅行であった。しかも、夏の復活運行が発表済みで、復活運行でまた乗るチャンスがある「羊蹄丸」「十和田丸」以外の船に乗れるよう計画した。
 この旅行2日目、つまり連絡船で往復を始めた初日の4便と、その次の日の7便で「羊蹄丸」に乗っている。
 この写真は4便で青森に着いた「羊蹄丸」が、3便として折り返す案内板の写真を撮影したものだ。4便での写真は次以降である。
 上り航路は函館桟橋を出ると、函館山の周りを回り込むような航路を描いて南へ向かう。この写真は南に向き直ってしばらくした頃に後ろを振り返って撮影したもの。写り込んでいる自動車にも「時代」を感じるだろう。
 この船上では北海道旅行帰りという少し年上の鉄道好きのお兄さんと仲良くなって、色々語り合いながら過ごした。
 航海甲板から前方を見る。左舷側斜め前方に仏ヶ浦が見える辺りだから、佐井沖だろうか?
 航海甲板にカプセルタイプの救命艇が並んでいる光景こそ、現役時代を象徴する写真だ。
 彼女を追いかけて飛ぶカモメ。カモメは船について飛ぶという習性があることも、「羊蹄丸」が教えてくれた。
 前後するが、4便出港時の函館桟橋の様子である。
 朝早いというのに多くの人が見送りに来ていた。廃止直前の「連絡船フィーバー」の様子を今に伝える1枚である。
 次の日の7便の写真はこの1枚だけ。
 この「連絡船フィーバー」の頃、「羊蹄丸」の名物は出港時の銅鑼が実演であったこと。通常はテープに録音した銅鑼の音を放送しているのだが、「羊蹄丸」だけは事務職員が銅鑼を鳴らして船内を歩いていた。

 この便では名古屋から北海道へ向かうという鉄道好きのお兄さんと仲良くなって、これまたいろいろ語り合いながらの旅になった。そのお兄さんが船酔いに苦しんでいたのは今も覚えている(今の自分なら酔うような状況でないが、海峡中央で少し揺れたのは確か)。

 「現役時代」の彼女の写真は以上だ。やはり当時の事情から、残っている写真は少ない。自分でもこれしか残っていなかったことに驚きを感じたほどだ。
 「羊蹄丸」の思い出はまだ続く。

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