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 1988年3月で廃止された青函連絡船ではあったが、その後青森と函館で行われた地方博の一環として3ヶ月間の「復活運行」がなされた。
 私は高校3年の夏休み、当然のように津軽海峡を目指した。そして「羊蹄丸」で津軽海峡を一往復、最後の連絡船の旅を楽しんだ。

 函館駅構内の復活運行を告知する看板。
 1日2往復、このダイヤのままずっと残ってくれたら…無理だと解っていながらもそう思わずにはいられなかった。
 函館桟橋にあった「復活運行」時の時刻表。
 私は2便で青森へ向かい、3便で函館へ帰ってきてから、津軽海峡線の快速「海峡」で青森に戻るというプランであった。
 本当の最後だけあって、やはり多くの人が乗りに来ていた。私は万一の満席の場合に備え、グリーン指定席を確保していたが、実際には普通船室の「後部大部屋」に陣取っていた。
 乗船待ちの人々の並び位置を示す看板だ。
 その看板に従って並ぶ人々。
 この行列を見ていると、どれだけの人が来ていたかが解ると思う。
 乗船タラップから見る「羊蹄丸」のシンボルマーク。
 だがこの写真、どう見ても青森桟橋なんだよなー。アルバムには上写真の次に入っていたんだけど。
 ネガの順番を調べていない。
 「羊蹄丸」に乗り込むと、3月に乗った時との「変化」に気付く。
 それは自動車積載スペースが廃止され、広大な遊歩甲板に姿を変えていたことだ。だからこんに看板があることにそれまで気付かなかった。

 この日は冷夏の影響もあって低い雲が空一面に垂れ込める一日だった。函館山は中腹までしか見えず、前日に上ろうとした人達は登山バス乗り場で「今日は夜景は見えません」と登山中止を勧められたという。
 海峡中央。青森側の竜飛岬と、北海道側の白神岬が向かい合うのがよくわかる。
 あの海底に青函トンネルがあり、そこを列車が走っているという実感がいまいち湧かない。
 それは、最も最近に津軽海峡を船で渡ったときにも感じた事だ。
 反対側を見れば、下北半島は仏ヶ浦の景色が続く。下北半島の山々も低い雲に隠れ、ほぼ見えていない。
 折り返して3便。
 海峡中央で少しだけ波に叩かれた。津軽海峡以外では、船上からこういう光景を見たことがない。
 一度だけ、東日本フェリー青森・室蘭航路でものすごく揺れたことはあるが。
 これが私の「羊蹄丸」での最後の航海。同時に青函連絡船による私の最後の航海でもあった。

 「船の科学館」での保存展示の報せは、青函連絡船の中でももっとも思い入れのある船が東京で保存されるということで、大喜びした記憶がある。
…そして、思い出の舞台は津軽海峡からお台場へ。
 お台場へ行く前に、天賞堂から発売された津軽丸型の模型について語っておこう。
 2008年夏、何と1/500の津軽丸型の完成モデルが突如市場に現れた。しかも津軽丸型全船をラインナップするという力の入れようだ。
 私の資金力では1隻分しか予算が出ないので、「羊蹄丸」を選んだ。
 このモデルについてはいつか模型コーナーで取り上げたい。
 模型が選んだ姿は登場時の姿である。私としては何とかして末期の姿に改造したいところだが…問題は遊歩甲板後方に自動車搭載スペースを作らねばならないことだ。構造的な事は分かっているが、自動車と二輪車の積載区画が変わらず頓挫している。
 もちろん、同時にシンボルマークを付け、ファンネルを「JR」に替えたいと思っている。
 時は流れ、青函連絡船100周年イベント。
 満船飾で航路100周年を祝う彼女の姿。

 「船の科学館」に保存された彼女であったが、最初の頃はあまり足を運ばなかった。その理由は何よりも船体の塗装が違ったからだ。
 だが2003年に現役時代の塗装に塗り変わってからは、ほぼ年に一度のペースで訪れるようになった。まだ幼い娘を連れてきたこともあるし、一人であの日の思い出に浸った日もあった。
 「船の科学館」から見下ろす羊蹄丸の様子。
 動く船でもないし、何処へ立ち去る訳でもない。そんな訳でお台場での彼女の姿を写真に撮ることはほとんど無かった。あれほど訪れたのに、撮影の必要性を感じていなかったのが今になって悔やまれる。
 写真を撮ったのは、100周年イベントの2008年3月7日と、最後に船の科学館を訪れた2011年9月18日と30日だけである。
 乗船口回りは現役時代と比べるとだいぶ変わってしまったが、現役時代とはまた違う独特の風情を醸しだしていたのも事実。
 ここに保存されていれば安泰だと思っていたのになぁ。
 船内の様子も残しておこう。青函ワールドでは青森のリンゴ市の様子が再現されている。去年の9月に娘を連れてきたときは、この場所がとにかくお気に入りのようで、なかなか離れようとしなかった。
 無線電話で連絡船とダイヤの乱れについて口論する桟橋職員。
 まさに坂本幸四郎著「青函連絡船」の世界だ。
 ブリッジから見た東京港の風景。
 現役時代は全く無縁の場所だったが、お台場ではここが一番現役時代を留めている場所だったとのこと。
 誰もいないときにコッソリ、レバー類を出港時の状態にして去っていったなぁ。
 娘は舵輪を回すのが定番だった。
 遊歩甲板のシンボルマークは現役時代と同じ位置に掲げてあった。このマークの前で娘と記念写真も撮った。
 公開最終日の2011年9月30日も、満船飾が施された。
 この日はこの船上で、20年ぶりの人との再会もあった。「時を超える」という経験を何度もさせてくれた船だ。
 そんなこんなの思い出を私の脳裏に残した彼女は、もう私の前に姿を現すことはない。

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