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3.「快速特急」600形(U)
この精悍な表情が京阪電鉄の「顔」だ

 私が子供の頃、昭和50年代中頃の京浜急行の花形列車は「快速特急」、その中でも花形的な存在であったのがこの600形(U)だ。(U)となるのは、かつて別の600形があったためである。私は子供の頃、「快速特急」はみんなこの600形(U)だと思い込んでいたが、今になって当時の京浜急行の事情を考えれば600形(U)の数は「快速特急」運用を全部持つには数が足りないことはよくわかる。また600形(U)が古くて低性能であることは今だから理解出来るが、当時の私にはそんなことは想像すらできず、「ボックスシート」=「よそ行き」の電車であるという印象であり、私にとっての花形だった。
 この車両は昭和29年に700形として登場した京浜急行最初の「高性能車」である。つまり自動的に高性能電車の第一世代に組み込まれる電車だ。3扉ロングシートが当時の私鉄通勤電車の標準だが、この600形(U)は2扉のセミクロスシート車であった。これは当時はまだ自動車交通が発達しておらず、京浜急行は週末ともなれば三浦半島への行楽客輸送に追われていたからだ。京浜急行の歴史を彩るハイキング特急や海水浴特急の記録に、必ず登場してくる車両でもある。
 後年になると、ボックスシートであることから京浜急行に登場した都市間高速種別「快速特急」に集中投入され京急の「顔」として活躍する。冷房取り付けも京浜急行で最も早く、様々な方式が試されてまさに冷房装置の見本市といった感じでもあった。
 昭和50年代、つまり私がこの車両に惹かれていた頃は、既に老朽化が始まり「快速特急」運用も限られた数しかなかったようだ。私が「快速特急」でこの車両をよく見かけた最大の理由は、親類の家へ行くために同じような時間の電車ばかり乗っていたことの裏付けのような気がする。考えて見れば土曜日に学校が終わって昼食を食べてから親類の家へ向かうパターンが多かったから、いつも同じような時間に家を出ていたはずだ。
 昭和59年、「快速特急」用のロマンスカーである2000形の量産が始まると、それと入れ替わるようにして600形(U)は数を減らし始めた。そして僅か2年で京浜急行の線路から姿を消す。一部の車両はロングシートに改造され、香川県の高松琴平鉄道で余生を過ごしている。また、先頭車1両は逗子市の公園に保存された。

 我が家の模型の600形(U)は、随分昔にグリーンマックスのキットを作ったものである。多分高校生時代の初期の頃の作品だと思う。動力車の床下には「エンドウ」の文字が残っているし。基本的にはキットを巣組しているが、当時プラスチックにそのまま赤を塗ったら良い色が出ないと聞かされた記憶から、塗装時は先に車体を真っ白に塗ってから、帯をマスキングして赤を塗るという手法を取った事だ。
 プロトタイプは屋根上に冷房を載せた車両を選んでいる。これに従い車号も601−604の4連と、605−608の4連と非常に分かり易くしてある。この2本を繋いで自分が小学生だった頃の、あの憧れの「快速特急」を再現しているわけだ。本当はあともう1編成増備して、12連の「通勤快速特急」にしようかと考えたのだが、当時の予算の都合で流れている。

 実物が第一線を去ってから既に四半世紀の時が流れようとしているが、我が家ではこの思い出の電車をいつまでも残しておきたいと思う。

1000形と並ぶ600形(U)
小学生の頃、京浜急行はこの2つの顔に支配されていた。
2000形と600形(U)
この交代劇は中学生時代の思い出、跡を継いだ2000形も今はこの姿では見られない。

川を渡るシーン
ボックスシートのため大きな窓が並ぶ、これがあの頃の「京浜急行」だ。


4.「京浜急行の顔」1000形(T)
あの頃の京浜急行の主役

 京浜急行を代表する電車、と言えばこの1000形(T)であることは誰も否定しないだろう。今でこそ新たな別の1000形(U)が登場したので「旧1000形」とか「1000形(T)」と呼ばなければならないが、私にとっての京浜急行1000形は永久にこの車両である。
 1000形(T)は、昭和30年代から計画が具体化した都営地下鉄浅草線乗り入れ用の電車として開発が進んだ。その試作車として昭和33年に登場した800形(T)がその前身である。800形(T)として数々の試験運転と試験運用の結果、都営地下鉄乗り入れ用通勤電車の量産型として昭和34年に登場したのが1000形(T)である。のちに800形(T)も1000形(T)に編入されることになる。
 最初に登場したのは前述の600形(U)と同じ正面2枚窓の顔を付けた4両編成である。当時は地下鉄乗り入れ基準に正面非常扉設置の義務はなかったのでこのスタイルが採用されたと伝えられている。その後のマイナーチェンジで「2編成以上併結した場合に備えて」という理由で正面貫通扉月となり、以後の基準改定で地下鉄乗り入れにその扉は必須となったのでこの顔が定着する。その後、初期の2枚窓の電車も正面貫通扉付きに改造される。
 また編成両数も4両編成から始まり、続いて増結用の2両編成が現れ、その後6両編成となり、最終的に8両編成まで登場する。様々な組み合わせで自由自在に編成が組めることが使い勝手が良く、高度経済成長期における京浜急行の標準型通勤電車として定着して大量増備され、京浜急行の車両のほとんどがこの1000形(T)
ということになった。途中から冷房付きとなり、冷房無しで登場した車利用も取り付け改造するなど製造年や改造時期によって様々なバリエーションが生ずる結果となった。
 だが1000形(T)も初期製造の車両から老朽化が進み、昭和61年に最初の廃車が発生する。以降古い順に京浜急行の線路から姿を消し始める。その中で京成電鉄にリースされ外観そのままで京成電鉄の車両として活躍した車両や、銀色に塗り替えられて北総鉄道に行った車両や、青くなって千葉急行へ行った車両も出てきた。特に北総鉄道に行った車両には京浜急行に乗り入れる運用があり、日常的に「里帰り」していたという。相互乗り入れによって線路が繋がっているからこその光景であった。
 車両数がとても多いので置き換えに24年も掛かった、平成22年に最後まで残った車両が引退して京浜急行から姿を消した。他車に売却された車両も、香川県の高松琴平鉄道に売却された車両を除いて姿を消している。

 さてこの1000形(T)であるが、京浜急行を代表する通勤電車だけあってNゲージ鉄道模型としての商品にも恵まれている。一番古いのはグリーンマックスのキットで、少なくとも私が中学生の頃には市場に出ていた。その後、破竹の勢いのマイクロエースから完成品として登場、さらにこれに対抗してグリーンマックスが完成品を出すなど、製品化に恵まれてきた。
 だが私を満足させるものはなかなか無かったのも事実。グリーンマックスのキットもマイクロエースも車体を見て「何か違う」と見送ってきていたのだ。そこへ来てグリーンマックスの完成品は晩年の姿がプロトタイプとされ、私が欲しい時代設定ではなかった。
 そこへ来て「鉄道コレクション」のイベント限定品で出てきた1000形(T)の模型が私の心を掴む。ネットで模型の写真を見て「これが決定版」と思える出来であることを感じたのだ。ネットオークションでこの模型を仕入れて走行可能なように整備した。
 この1000形(T)は、初期車の冷房改造後の姿がプロトタイプになっている。つまりMc−M’背中合わせで4連という独特のタイプだ。このタイプの1000形(T)には普通電車で良く乗っている。京浜蒲田で特急や急行から下車し、雑色駅までの区間で良く乗ったタイプの電車だ。その「京浜急行の各駅停車」を再現するにはちょうど良いモデルだ。だから我が家では行き先表示は「普通 浦賀」となり、他編成と繋げることは考えないことにした。なお、車号は悩んでいてまだ入れてない。

 同じ1000形(T)でもこのタイプが消えてからはもうだいぶ過ぎている。この「京浜急行の普通電車」をたまに箱から出しては眺めて懐かしんでる。あの頃が懐かしいなぁ。

京急1000形(T)の精悍な顔
4両編成で特急や快速特急から逃げ回る姿を再現した
この貫通型が京浜急行の代表的な顔
「普通 浦賀」という行き先の電車は何度も乗った。

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