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3.「幼少期の記憶」丸ノ内線500形
私の子供時代の思い出の主役

 真っ赤な車体に太く白いライン、そしてそのラインの中に引かれた美しいサインカーブの銀色の飾り帯。乗り込めばピンク色の内装と大きな窓、扉には子供の背では届かない高いところに小さい窓が浮かんでる。
 …これが私の幼少時代の「ちかてつ」の思い出だ。杉並区に住んでいた幼少期、「お出かけ」と言えば赤い関東バスに乗って地下鉄の駅へ行き、そこから赤い地下鉄に乗って「まち」へ出て行った。その頃に最も身近だった電車をまずは紹介しよう。
 その車両は営団地下鉄300形・400形・500形・900形といった、丸ノ内線の旧型電車たちだ。この電車についてはあちこちで語られているから私があまり説明することもないだろう。戦後初めて東京に開通する地下鉄車両として、当時の営団地下鉄が自信を持って1954年に送り出した300形は地下鉄最初の「高性能電車」として記録に残っている。そして丸ノ内線の延長に合わせて300形を改良した400形へバージョンアップし、さらに片運転台化など「決定版」というべき500形となり、最終的は運転台のない完全中間車900形へと進化する。これらの車両は私が生まれる頃には全て6両編成を組み、先頭は500形、その他形式が中間になる法則で編成が組まれた。それとは別に500形のラストナンバーから2両は固定編成から外れ、検査等で欠けた車両の代わりを埋めるように運用されていた。
 この電車はデザイン的にも優れ、海外で製作された有名なシリーズものの映画でも、主人公が東京へ来た物語の中で印象的に使われるほどだった。真っ赤な車体と印象的な飾り帯は現在にも通ずるデザインであり、この電車には何度乗っても「古さ」を全く感じなかった。
 とはいえ私がよく利用していた幼少期には既に300形登場から20年が経っていて、幼少期から馴染みがあっただけに私が大人になる頃には新型で現在も活躍しているの02系に置き換えられ、急激にその数を減らし始めていた。1995年2月、丸ノ内線本線からこの赤い電車は姿を消し、あとは支線である中野坂上〜方南町間で細々と余命を送っていた。丸ノ内線の線路切り替えによる特殊運行の関係で一日だけ本線に返り咲いたことがあり、この時に大きな話題になった。
 だが1996年夏、支線も02系3両編成に置き換えられて全車引退となった。引退した車両のうち民間に払い下げられたものが各地に保存されているほか、営団地下鉄改め東京メトロが「地下鉄博物館」で300形トップナンバー車を保存している。その他の車両は大部分が船積みされ、遠くアルゼンチンへ運ばれてブエノスアイレスで地下鉄車両として今でも活躍している。当初は丸ノ内線と同じ塗り分けだったが、最近はアルゼンチンオリジナルカラーに塗り替えられているとか。

 さて、模型であるが、この営団地下鉄300形シリーズ車のNゲージ模型は2005年頃にグリーンマックス製の板キットが「雑誌のオマケ」として発売されたことがある。私もこれを作りたかったが帯の再現の自信が無く、キットを購入しておきながらそのままお蔵入りになってしまった。そのキットを何とかしたいと思いながらも時が流れ、今年になって「東京メトロシリーズ」と銘打って東京の地下鉄車両をシリーズ化していたNゲージの老舗KATOから発売が予告された。
 この発売予告前、私は「ファインクラフト」に集まった模型仲間に「KATOの地下鉄シリーズで丸ノ内線は02系はあり得ないだろう」「だから300形や500形がレジェンドコレクションで出ると思う」と豪語していた。「レジェンドコレクション」にはならなかったけど、その時の予想が的中した形になった。
 今年夏に発売されると、私もこれを当然のように購入した(正直、今年は模型に金を使いすぎてすごくキツイ)。編成内容は300形2両と、500形4両という80年代の費用順的な編成で、かつ80年代初頭に時代設定を置いた姿だ。これは私が小学校高学年だった頃に、東京の地下鉄をあちこち乗り回していた時代に合致するのでとても懐かしかった。

 とにかく箱を開けてみて、その「赤」の美しさに目を見張った。最近はKATOの新製品を購入することがあまり無かったのだが、KATOのここ数年での進化には目を見はるものがある。この冬の始まりに発売された西武旧101系でも同じことを感じたが、模型というよりこれはもう芸術品の域に入っている。それでいて印象把握が上手くて実物の質感が伝わってくるのだ。
 特に先頭に立つ500形の近代化された表情と、昔のスタイルのまま中間に封じ込まれた300形や500形の表情も上手く作り分けられていて、中間に封じ込まれた方の運転台は、書物などで見る「昔の丸ノ内線」の雰囲気を楽しむことが出来る。この中間車封じ込め車はたまに一両だけで飾るととてもきれいで見とれてしまう。

 ちなみにこの模型、買った「場所」にもこだわった。今年夏の「鉄道模型ショー」が行われている「銀座松屋」で購入したのだ。やはりこの東京を象徴する電車は東京のど真ん中、銀座で買わねばと考えたのだ。割引が少なかったのは痛かったが、そのこだわりでもってちょっと大事にしている。やっぱネットで機械的に買うのでなく、こういう買い方をすることは大事なんだなーと感じた。

 この模型、たまに出しては自分の子供時代を思い出している。

中間に封じ込められる300形
扉などは子供の頃に嫌いだった小さな窓、これも今は良き思い出。
300形をアップで
「昔の丸ノ内線」の表情が美しい、まるで芸術品だ。

500形先頭車
窓廻りが丸くなって近代化された、この顔は小学生時代以降によく見た。


4.「高田馬場から都心へ」東西線5000系
これぞ東西線!

 小学生になって西武新宿線沿線に引っ越す。西武新宿線の都心側ターミナルは西武新宿になったが、「お出かけ」で他路線に乗り換えるときは高田馬場駅を利用する機会の方が多い。そして高田馬場から目的地へ向かうのに良く乗る路線は、JR山手線と地下鉄東西線。西武新宿線沿線に住んでいると最も身近な地下鉄は東西線だ。
 私がこうして地下鉄東西線に馴染みが出たのは、1977年頃からだ。当時は東西線最初の開業から10年あまり、5000系の全盛時代でもあり7両編成を10両編成に伸ばすためまだまだ増備が続いていた時代だ。
 私はこれまでとは違う青い線が入った銀色の電車に、ちょっとだけ「未来」を感じていたものだ。だけど扉の窓は高くて小さく、そこだけはどうしても気に入らなかった記憶もある。それにしても用事があって常磐線方面に出かけた時、これと同じ電車が緑色の線を入れて走っているのを見たときは子供ながらに驚いたなぁ。
 また当時の東西線には青い帯の電車の他、黄色い帯を巻いた電車も走っていた。これは国鉄の301系や103系で、こちらに乗った時には「今日は黄色いのだ」と喜んだ記憶がある。それが乗り入れをしている国鉄側の電車だと当時は気付かず、何で同じ路線に黄色と青があるのかと疑問に思っていた。
 小学1年生の終わり頃、東西線で悲劇が起きる。その日は「春の嵐」で荒れ模様、その嵐の中で荒川橋梁に掛かった5000系が竜巻に遭遇したのだ。列車は一部が横倒しになり、鉄橋上に無残な姿を晒すことになった。子供の私はそのニュースにショックを受けていた、馴染みのある地下鉄電車が事故で横倒しになっている現実は、幼い私に「事故」の恐ろしさを無言で伝えてきた。何も言えないまま新聞に映ったその電車を見ていた記憶が今でも鮮明に残っている。
 小学生の頃に何度か高田馬場から西船橋まで通して乗っている。最初に通して乗ったのは小学2年生頃だったと思うが、荒川を渡った先に長い「外を走る区間」があったのに「地下鉄らしくない」と驚いたものだ。しかも当時、東西線沿線の開発は殆ど進んでなかったので、大平原の中に高架橋が延びていた光景を記憶している。しかも、当時は西葛西とか南行徳や妙典といった一部の駅はなく、なかなか次の駅に着かなかったという記憶もある。
 小学生高学年になり東京の地下鉄を乗り回すようになると、東西線は行き帰りのアクセスに必ず乗る路線だった。よってこの5000系電車には馴染みが強い。そして就職後に通勤で毎日利用するようになると、この5000系はほぼ毎日乗るようになった。

 営団地下鉄5000系は1964年の東西線開業と同時に登場した。最初は高田馬場〜九段下と路線も短かったので3両編成だったが、その後路線延長に合わせて7両編成になり、さらに路線が千葉県方面に延びると編成は8両、9両と伸ばされてついに10両編成になった。編成を伸ばすために中間車が多く増備され、途中からは戸袋窓がなくなるなど設計も変わる。
 これとは別に5000系は千代田線にも投入され、緑色の帯を巻いて常磐線と都心を結ぶルートで活躍していた。千代田線でも3両編成で始まり、続いて5両編成に伸ばされ、千代田線の延伸に合わせて一気に5両編成を2本繋いだ10両編成へと編成が伸ばされる。
 だが1981年、東西線の千葉県方面の人口急増に合わせて東西線の輸送力増強が企てられた。東西線は列車本数が大幅に増やされることになり、このために千代田線に6000系を増備して5000系を捻出し、これを東西線に転属させるという車両転配が行われる。これによって5000系は千代田線支線用の一部を除いて東西線に集結することになり、東西線には初めて千代田線で見られた5両編成を2本繋いだ10両編成が現れる。こうして5000系は「東西線の車両」として定着して行く。
 昭和の終わり頃、営団地下鉄が地下鉄線内での冷房使用を解禁、ほぼ同時に東西線には一時的に半蔵門線の8000系が投入され初めての冷房車となった。私はこの8000系に乗り入れ先のJR中央線各駅停車で乗っている。続いて東西線用の新型車05系が登場し、8000系は本来の投入先である半蔵門線へと転属する。
 この過程で東西線で大多数を占める5000系に冷房が付いてないのが問題になった。そこで5000系も冷房を取り付ける改造が行われるようになった。年々冷房付きの5000系が増え、私が通勤で利用する間にかなりの本数になった記憶がある。
 1996年4月、西船橋駅を介して東西線と乗り入れる東葉高速鉄道が開業。一部の5000系が東葉高速鉄道に売却され、1000系として活躍した。だが既に05系投入と入れ替わりに冷房改造されていない5000系から廃車が始まっており、この頃から5000系は急激に数を減らすことになる。後に廃車は冷房改造済みの車両にも拡がる。
 そして2007年春、有楽町線に副都心線対応の新車が投入され、それと入れ替わりに有楽町線の07系が東西線に転用される。同時に最後まで残っていた東西線の5000系は全車引退し、5000系は千代田線支線用に僅か6両を残すだけになった。

 さて、この角張った電車の模型だが、営団地下鉄でもどちらかというと地味な存在だったであったが、昔「しなのマイクロ」という会社から東西線仕様と千代田線仕様の二種類が発売されていた。だが私が本格的にNゲージを買えるようになった頃にはこの模型は転倒には残っていなかった。また、グリーンマックス国鉄201系板キットに前面パーツだけついていた記憶があるが、これをどう使えば営団5000系になるのかよく分からなかった。こうして営団5000系はNゲージの世界から一度姿を消す。
 90年代に入ると金属製のキットが現れるが、これを作る時間と技量がなくて諦めた記憶がある。そして2009年に入ると破竹の勢いのマイクロエースから満を持して発売された。モデルになったのは冷房改造車。だが私はこれの購入を見送った。それは「東京メトロ」化後の姿であり、私の思い出深い「営団地下鉄時代」の姿ではなかったからだ。
 そして翌年、同じマイクロエースから「非冷房」のものが店頭に並んだ。もちろん営団地下鉄時代の1980年代を再現している。これはと思いフル編成揃えることにした。セット構成は基本7両セットと増結3両セット。基本セットだけならかつての7両編成を再現出来、増結セットを繋げれば10両編成化後という面白い構成だ。蓋を開けてみてみると冷房のないあっさりした時代の5000系を思い出すいい「つくり」であると感じた。前頭部の角張り具合も悪くないし、ヘッドライトや側面のコルゲーションも上手く再現されている。特に客室扉のコルゲーションの再現は秀逸だ。
 購入後、全部のカプラーをTNカプラーに変更。どうしても気に入らなかった先頭のダミーカプラーもグレードアップを理由にTNカプラー化した。このメーカーにもそろそろダミーカプラーの作り方について考えて欲しいなー。行き先ステッカーは80年代以降の黒地のものにしたが、実物はもっと青みががった色だった記憶がある。もちろん行き先は「西船橋」で下に小さく「地下鉄経由」と添えられているものにした。この行き先が「東西線の旅情」なのは異論は無いところだろう。種別は各駅停車を示す「白」表示。「地下鉄快速」も良いかと思ったけど、私が良く乗ったのは各駅停車の記憶があるんで。でもこの種別表示、かぶりつきの時は邪魔だったなーなんて思い出しながら、前面ガラスの裏側からシールを貼り付けた。

 この模型もたまに箱から出しては、子供時代の「営団地下鉄」を思い出すために眺めている。非冷房の屋根からは、冷房が使えず蒸し暑かった地下鉄の記憶も蘇ってくる。あんな時代はもう戻ってこないんだろうなぁ。

真正面から眺める
我ながら種別表示が上手く再現出来ていると思う。ただ窓が引っ込みすぎ…。
先頭車を側面が見える角度で
営団5000系独特のコルゲーションが上手く再現されている。。

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