心象鉄道14.「ちかてつ」の記憶の電車達
500系・5000系・6000系
(おまけで都営地下鉄5000形や小田急9000系)

(マイクロエース・KATO Nゲージスケール)
私の地下鉄の原風景

模型写真・やはり地下鉄車両にはトンネルがよく似合う

2020年3月1日追加記事はこちら
2015年2月15日追加記事はこちら

本記事の模型車両撮影に使った貸しレイアウト
東京都西多摩郡瑞穂町「ファインクラフト」さんです。
(JR八高線箱根ヶ崎駅徒歩20分・駐車場完備)

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1.帝都高速度交通営団

 「帝都高速度交通営団」、略して「営団地下鉄」という言葉が無くなってから、もうかなり経った。
 現在は完全民営化され「東京メトロ」と呼ばれているが、私はどうもこの名前にまだ馴染めていない。都心で地下鉄乗るときにもつい「営団地下鉄」って言ってしまう。それほどまでに長い間、東京の地下鉄を支え続けた交通機関の名前だ。
 営団地下鉄は戦時中、東京に2社あった地下鉄会社を統合して作られた今流に言えば第三セクターである。東京の地下鉄が国主導で一本化されたことで、地下鉄を軸にした戦後の東京の交通政策が潤滑に進んだのは否めない事実だ。1954年に丸ノ内線を開通させたことをきっかけに、東急の地下に網の目のように路線網を拡げると共に、私鉄や国鉄に乗り入れて郊外へもネットワークを拡げた。
 そしてこの営団地下鉄には東京の地下を彩る様々な電車がいた。真っ赤な車体にサインカーブの飾り帯が美しい丸ノ内線を筆頭に、実用性だけでなく「お洒落」な装いを持った電車は、世界でも有数の大都市東京を象徴する電車として恥ずかしくないものであっただろう。
 今回はそんな営団地下鉄の車両の中から、私の思い入れが強く模型を購入するに至った車両達を紹介する。

2.私と営団地下鉄

 やはり東京生まれの東京育ちである私は、幼い頃から地下鉄もよく利用していた。
 特に小学校に上がる前は杉並区に住んでいて、そこの最寄り駅がバス利用ながらも丸ノ内線の駅だったことで、幼少期の地下鉄の思い出は丸ノ内線の赤い電車の記憶ばかりだ。ちょっとした「お出かけ」にも頻繁に丸ノ内線を利用し、「ちかてつ」と言えば赤い電車という印象がとても強かった。
 同時に京浜急行を取り上げたときも語ったが、都営地下鉄浅草線が幼少期の私にとってもうひとつの「地下鉄」であった。京急沿線の親類の家へ行くのに浅草線〜京急線への直通電車を頻繁に利用したのは鮮明に記憶に残っている。

 やがて小学校に上がると同時に西武新宿線沿線に引っ越し、「お出かけ」の際に出て行くターミナルが高田馬場駅となる。すると利用頻度の高い地下鉄は丸ノ内線から東西線に変わる。東西線の青いラインの角張った電車は、当時はまだまだ古い車両の部類には入ってなくてまさに脂ののった時期であったと言って良いだろう。
 この頃にはちょっとしたお出かけで、銀座線や有楽町線なども利用している。銀座線の古い電車ではたまに電気が消えるのに驚いた記憶は今でも鮮明だ。有楽町線はまだ最新路線で5両編成、真新しい電車に感動した記憶がある。

 小学校高学年になると、休みの日にお小遣いで身近な鉄道路線に一人で乗りに行くようになっていた。乗りに行った先は最も最寄りの西武線と、営団地下鉄から始まったと言って良いだろう。その際に日比谷線や千代田線や半蔵門線など、当時までほとんど馴染みが無かった路線も体験することになる。また各路線に乗り入れてくる私鉄電車もこの時に多く体験しており、特に乗り入れ開始時期が早い日比谷線では高性能化初期の電車が走っていてその性能を堪能した記憶もある。
 中学に上がってもこの地下鉄の乗り歩きは続けていた。この時の体験で当時の営団地下鉄路線はほぼ完乗するほどであった。当時特に好きだったのは千代田線の6000系だった。5両分見通せる大きな貫通路が特徴の初期型で車両の動きを見るのは楽しかったし、窓が大きい後期形も当たると嬉しかった。

 高校時代は興味が他地方へ行ったこともあり、地下鉄の利用は所用の時の最小限に留まるが、卒業して就職すると今度は営団地下鉄が通勤の足となる。高田馬場から東西線で茅場町へ、ここで日比谷線に乗り換えてそのまま東武線直通という通勤ルートである。時期的には日比谷線も東西線も新車が入ったばかりの頃で、その大多数は日比谷線は3000系、東西線は5000系という時代だった。
 そしてこの通勤ルートでは、会社帰りの寄り道に千代田線を使う機会もぐんと増えた。こうしてこの時代はこの3路線が私に印象深い路線となる。
 次のページから、そんな記憶によって我が家に揃えた模型を紹介していこう。


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