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3.2400形「HE車」
カーブを行く2400形、横から見ると変わった電車だ。
 2200形で始まった小田急の高性能通勤電車だったが、全電動車方式で設計されたため性能は良いがコストが掛かることが問題になっていた。これは小田急電鉄だけでなく、私鉄を中心に高性能電車のトレーラーを入れるみとで経済性を考慮するようになってきた。こうして各社に登場するのが、性能と経済性を両立させた第二世代の高性能通勤電車である。
 こうして高速運転に特化する京急や電車の高性能化自体をしていなかった西武以外の各社に、先頭車や中間車にトレーラーを挟んだ高性能電車が花開いてゆき、どれもその会社の標準的な通勤電車となる。国鉄で言えば103系がこれに当たる。
 そしてこの小田急版として1959年に登場したのが2400形、通称「HE車(
High Economical car)」である。この車両は2220形を基本に、トレーラー車を連結するための車重を稼いで粘着力を増やすため中間車の長さを18.8メートルまで伸ばした。だがそのままだと先頭車を2両繋いで4両編成にした場合に、一部駅でホームに入らなくなってしまう。そこで先頭車を15.4メートルと短くして2220形4両の長さに合わせた。この先頭車と中間車の車長の違いが、この車両の外観上の特徴だ。
 2400形は1964年に掛けて大量増備され、小田急通勤車の一時代を築いたと言って良いだろう。だが沿線の開発が進むと車長17メートル基準の2200形シリーズや2400形では対応できなくなり、この形式のあとは車両の大型化(20メートル化)が進むことになる。車長の短い2400形以前の車両はあっという間に追われる立場になるが、当時は箱根登山線に大型車が入れなかったので箱根湯本直通急行は2400形の独壇場だった。
 だが1982年に箱根登山線の改良が終わり箱根湯本まで大型車入線が可能となると、2200形が活躍していた多摩線や江ノ島線や小田原線新松田〜小田原間といったローカル輸送を担当することになる。ここが2400形の最後の職場になって行く。
 そして1985年、旧性能電車の車体を更新して車体大型化を図った4000形(T)の高性能化か計画され、この計画に主電動機などの主要機器を放出する形で2400形の淘汰が始まる。1988年までに2400形は全車引退、主電動機などの主要機器を放出するという形の引退であったため、地方私鉄への払い下げなどはなかった。

 私もこの2400形はよく乗った。向ケ丘遊園の親戚の家に行くときも湯本直通急行に当たれば必ずこの2400形だった。運転席直後の鎧戸や、短い先頭車の事はよく覚えている。たった1両の冷房試作車に真夏に当たったこともある。でもこの車両、なぜか先頭車に乗った記憶しかないんだよなー…1987年夏、向ヶ丘の親戚の家から調布の親戚の家に移動する際に多摩線を利用、この時に2400形に乗ったのが最後だった。

 模型の方は、これだけ特徴的な車両でありながら全く製品に恵まれていなかった。グリーンマックスのキットでは東武8000系の側面を切り刻んで無理矢理作る方法が紹介されていたけど…誰もそんな作り方しないんじゃないかという強引なやり方だった。
 2007年、当時は破竹の勢いで様々な車両をNゲージ製品化していたマイクロエースから、この2400形がラインナップされた。当時マイクロエースからは5200形など小田急の通勤車をラインナップしていたが、みんな車体流用した大型車ばかりで中型車の2400形に行くとは正直予想していなかった。思い入れのある車両の一つでもあるのでこれを購入、実は我が家で最初の小田急通勤車となった。
 だが買ってみて驚いたのが、中間部の連結間隔が広すぎることだ。電車の連結面としてはあり得ないほどの距離で、ボディマウントのTNカプラーに交換しても全く改善されないという代物だった。現在のネットでマイクロエースの小田急2400形を検索してみると、この連結面の広さに困って様々な対策を立てている人が多くいることが解る。ここでは私の解決方法を提示しよう。
 といっても文章で説明するのは面倒なので、下の写真の通りなのだが…要はTNカプラーを後方へずらす工夫を色々と考えてみた結果だと言うことだ。この対策で車体で連結面距離を5ミリまで縮めることに成功し、なんとか「見られる」編成になった。
 この小田急2400形、私が最後に乗ったときと同じく種別は白幕、行き先は「新百合ヶ丘=小田急多摩センター」を入れている。自分の小さい頃を思い出しては単独で、または2200形や2220形と繋いで6両で走らせている。
我が家の2400形の連結面
車体間で5ミリまで縮めました、実物換算で75センチメートルだ。
先頭車後部の加工方法
TNカプラーの車体にぶら下げるところを加工する。
こちらは中間車
先頭車とやることは同じだが位置が少し違う。動力車も同じ加工をすればOK!
5000形と並べてみる
大型車とは違う「小田急顔」の魅力がある。
川を渡る
先頭車と中間車の車長の違いがよく分かる光景だ。

4.5000形・5200形
私にとっての小田急の「顔」はこの電車
 私にとって印象深い小田急通勤電車をひとつ選べ、と言われれば間違いなくここで挙げる5000形・5200形を挙げる。私の子供時代から青春時代にかけて小田急通勤車の主力であり、最も目立つ主役であった。その時代に急行電車という私がよく乗る電車に運用され、まさに飽きるほど乗った車両だ。
 前述の2400形を投入した小田急電鉄であったが、前述したように沿線の開発が進むと17メートルの中型電車での対応が難しくなってきた。小田急電鉄には国鉄63形の払い下げによる大型通勤電車1800形があり、乗客の激増に1800形の大容量がもっと必要とされるようになった。そこで2400形を基本に車体を全長20メートル+幅広車体の5両編成とした2600形が登場する。この2600形は後に6両編成になり、激増する通勤客に対する救世主として活躍した。
 だがこの段階で、小田急沿線で急激に開発が進み通勤客が激増していたのは多摩川を渡るまでの東京都区部の区間であった。大型車投入など大量輸送対策を行うべき列車はラッシュ時の各駅停車であり、2600形はここに特化した車両としてそれ以外の電車を急行電車に回していたのだ。
 だが昭和40年代に突入すると、都区部の開発が終わって沿線開発は町田へ、そして川崎市部へ、そして相模原や厚木方面へと広がり始めた。すると今度はラッシュ時の急行電車の通勤客が激増し始めた。だが2600形は各駅停車に特化した性能であり、急行電車で高速で走るには向かないという欠点を抱えていた。
 そこでまず、小田急電鉄で戦前から使用していた16メートル級の旧型電車の車体を大型化することとした。これら旧型電車は車体が小さすぎていて、もう小田急電鉄の輸送量に対応しきれなくなっていたのだ。2600系と同じ車体に16メートル級旧型電車の足回りを取り付けた4000形(T)はこうして1966年に誕生し、主にラッシュ時の急行電車に投入された。
 そしてラッシュ時の急行電車さらなる輸送力増強を目指して1969年に登場した、急行電車に特化した高性能電車である。2400形を基本にチューンナップした足回りとして最高速度を上げることとし、編成は4両編成とした。これは当面は4両編成を2本繋いで8両編成で使用し、行く行くは6両編成を設計してこれと繋いで10両編成運転をすることを視野に入れたものとされている。車体は2600形に準じたが、前面窓周りをフラットな形としてスッキリした印象の顔となった。これが戦前から続く「小田急顔」の最終形態である。
 また5000形では現在の小田急通勤電車のカラーである「白い車体に太くて青い帯」というカラーリングを始めて採用した。以降他の小田急通勤電車も同じ色に塗り替えられる。側面には「急行」か「準急」かを自動的に表示する表示装置も取り付けられた。また途中からは冷房装置も搭載され、当初の非冷房車も改造で冷房化されることになる。
 こうして5000形の4両編成が出そろったところで一度製造が打ち切られ、後述する地下鉄千代田線乗り入れ用の9000形に移行する。だが9000形の数が揃うといよいよ当初計画にあった5000形の6両編成…のちに5200形と呼ばれるグループへとモデルチェンジされて5000系が増備される。
 5200形では6両編成になっただけではなく、9000形で好評だった新設計が全て取り入れられた。側面窓が一段式の大きなものに変わり、中央部にはその上に種別表示幕が取り付けられ(これは途中から行き先も表示するように変わる)、これら行き先や種別表示も黒地に白文字に変更された。もちろん冷房装置は最初から付いている。
 1982年に箱根湯本への大型車乗り入れが可能となると、小田原方に5200形、新宿方に5000形というかたちで10両編成が組まれることが多くなった。5200形6両は箱根湯本行き、5000形4両が片瀬江ノ島行きのパターンを基本に、5200形は小田原や箱根湯本へ直通し、5000形は相模大野で切り離される形が多かった。
 この1980年代〜1990年代を小田急電鉄の主力として活躍した5000形・5200形であったが、2000年代に入ると次第に主力運用から外れるようになって行く。特に後続の新型である3000形(U)では6両編成ばかりが作られたこともあり、5200形が余り気味だったようである。2006年から廃車が始まるが、古い方の5000形ではなく5200形から廃車が始まって驚いた。中には中間車2両を抜かれて4両編成になった5200形も現れるまでになる。だが徐々に数を減らし、2012年3月に最後の5000形が廃車になる。最後まで残ったのも比較的新しい5200形でなく、古い5000形だった。

 5000形の模型であるが、これは古くからグリーンマックスのキットが存在していた。これは基本的に9000形としてのキットだったが、顔を変えれば5200形に、側面窓に桟入りのものに変えれば5000形や2600形に、さらに別の顔に変えて冷房装置の形を変えれば8000形になるという「なんでもあり」のキットだった。だがこのキット、5000形と2600形の顔が作り分けられておらず、厳密には5000形や5200形にならないという問題を抱えていた。
 そんな中、破竹の勢いのマイクロエースから5200形が発売されたのは、マイクロエースが本格的にNゲージ鉄道模型に参入して間もない頃だったと思う。この製品はとても足が速く、手に入れられなかったのも覚えている。その後、少しずつ仕様を変更して再生産されているだけでなく、2600形や4000形(T)としても発売されている。だがこのモデルも5200形と2600形の「顔」の違いが再現されておらず、あとになって考えると「買わなくて良かった」と思ったものであった。
 そして2015年5月、マイクロエースから「改良新製品」の5200形に5000形をも加えこれらの形式を再ラインナップした。今回は車体も作り直して、正面もやっとちゃんとした5000形の顔になった。5200形はプロトタイプが初期車である事が明確にされ、5000形も製造当初から冷房車だったグループである事を明確にし、共に1980年代前半〜中期頃の姿を再現することもハッキリさせた。まさに私が欲しい仕様でもあり、小田急5000形・5200形の「決定版」とも言える内容であった。
 私も5000形と5200形の双方を購入し、1980年代の10両編成を再現することとした。連結器は全部TNカプラーに変更して見栄えを良くしたが、問題は行き先表示であった。私としてはこの組み合わせの編成の行き先と言えば「箱根湯本・片瀬江ノ島」としたいところだ。だが付属のステッカーは、肝心なこの表示だけがない…字が小さすぎるダメとか言うのかな。仕方が無いので今は行き先も種別も入れていない、後に他社ステッカーなどで対応できないか考えてみたい。
 実は我が家の小田急通勤車の模型で、最も気に入っているのがこれである。購入してからかなり頻繁に貸しレへ持って行っては走らせて、私の少年時代の小田急線を思い出している。高い金出して買って良かったーっ、これで2015年夏ボが終わったんだもんね。
5000形 側面窓は二段窓
やっぱりこちらは新宿方に付けなきゃね。
5200形 側面窓は一段窓
こちらは小田原方ということに、このスッキリした「顔」が「小田急顔」の最終形。
鉄橋を渡るシーンを横から
5000形らしい二段窓、四十八瀬川より多摩川を思い出した。
こちらは5200形を横から
一段窓のスッキリとした側面と太い帯、小田急線らしい光景だ。

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