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第21話 「罪の重さ」
名台詞 「僕、ノアの方舟よりもっと素敵な木彫りを作って見せるよ。それをダニーに贈るんだ。へへっ、何作ろうかな? ダニーはどんなもの喜ぶかな…?」
(ルシエン)
名台詞度
★★
 ルシエンはアンネットにノアの方舟を拒否され、ダニーにもう二度と治らない怪我を負わせてしまったというショックから早くも立ち上がり、さらにダニーへの償いを続けると宣言した台詞だ。その言葉にはこの物語序盤の暗い表情や悲しみの表情は見られず、純粋にダニーへの償い一筋に生きる道を選んだルシエンの気持ちが上手く表現されている。
 そして木彫りを作り続けることによっていつかは自分の償いの気持ちが通じ、ダニーに許してもらえる日をも信じているのだ。自分が木彫りを作ってダニーの役に立つのなら…ルシエンの頭の中はそれだけであり、さらにその気持ちがルシエンの暗い気持ちを吹き飛ばして次の作品へとルシエンを導いているのだ。
名場面 ペギンが生い立ちを語る 名場面度
★★★
 夢にうなされて飛び起きるルシエン、ダニーに二度と治らない傷を負わせてしまったという事実に挫けかけているルシエンを起こし、ペギンはルシエンに自分の秘密を語るのだ。それを通じてルシエンが進むべき道を説こうとする。
 ペギンが生まれてからペギンが堕落し、罪を犯し、妻が死ぬまでの話を3分半掛けて語る。それを通じて家庭を壊し、罪を犯したペギンを妻が許してくれたのだと言うことをルシエンに語るのだ。当然ルシエンは何故ペギンが妻に許されたのか分からず、どうすればダニーに許されるのかをペギンに問う。
 そしてペギンはルシエンがダニーの役に立てばいいとして、これまでやって来た事は正しいことだとする。その上で刑務所を出てから今日までのことを2分半かけて語る。そしてもう一度はじめからやり直すことは出来ないことはないとし、自分なりの償いを語るのだ。とにかくお金を貯めて本当にお金を必要としている人に渡す、ペギンにはこれだけのことしか出来ないのだがこれが彼なりの償いであり、これが一番大切なことだと考えているのだ。
 同じようにルシエンもダニーにとって役に立つ日が来るはずで、その時こそルシエンも本当に幸せになれる日が来ると話をまとめるのだ。
 今回のペギンの話は長く、子供の理解の域を超えているかも知れない。だがルシエンと同様に見ている方も「ルシエンも幸せになる方法がある」と理解できればそれで良いのだ。ルシエンもそう感じただけであるが、これによってルシエンに目の前に道が開け、ルシエンは悲しみの淵から引き起こされることになるのだ。
 
今回の
ルシエン
VS
マリー
 
「ルシエン、また山のおじいさんのところへ行くの?」「うん、そうだよ」「よっぽど好きになったのね、おじいさんが」「うん、大好きさ!」「今度私にも会わせてちょうだい」「う〜ん、どうかな? おじいさんは人見知りする方だからなぁ。」「まぁ、生意気言って」「えへへへへ」とまあここまではルシエンが出かけるときのいつもの光景だが、ここで姉の顔つきが真剣になる。「ルシエン」「なに?」「夕べ、何があったか知らないけど、もうあんなことしちゃダメよ。母さん平気な顔つきしていたけど、そりゃ心配していたんだから。顔さんを泣かせるようなことをすると、私が承知しないからね」「うん、ごめん」「よし、わかったらさっさと山のおじいさんのところへ行きなさい」「うん」「早く帰るのよ〜」「分かってるよ〜」。やっぱマリーさんは優しくて良いね。
感想  ペギンの話が長かったし、その上難しかった。もうここまで来ると小さな子供は脱落し始めているんじゃないだろうか? 「わたしのアンネット」が当時人気がなかったのはやっぱり物語の難しさが最大要因のような気がする。物語も題材もすごくいいんだけどね。
 今回はルシエンとペギンだけで話を進めても良かったんじゃないかと思う。アンネットやダニーの話は19話を繰り返すだけだし…ダニーの足は治らないという結論は19話でハッキリしているのだから、ここで長々とモントルーでの病院での話を出す必要もないだろう。アンネットやピエールの出発前の諦められない気持ちだけ描いて、後は二人が帰ってきて暗い表情をするだけで十分だったと思う。改めて今回限りの医者を出して「治りません」と宣告されても、視聴者から見れば同じ事の繰り返しで話が冗長になるだけだ。この医者にもっと酷い事実を知らさせるとか、新しい要素が加わってくるなら別なんだけど…だから今回はルシエン側の話だけあればいいと感じてしまった。
 そのルシエンがダニーの足の事実を知り、アンネットにノアの方舟を拒否された悲しみと、そこから立ち直る課程は見事に描かれたと思う。原作ではダニーの足が治らないという診断が出る前なのでルシエンはノアの方舟が拒否された事実とだけ向き合えば良かったので、ルシエンは自力で立ち直ってしまった。ここにダニーの足という要素を先回りして付け加えたのは成功だったと私は思う。
研究 ・ペギンの語り
 ショックで落ち込むルシエンにペギンが自分の生い立ちを聞かせ、そこから得た教訓でもってルシエンを立ち直らせる展開は原作を踏襲したものである。ただし原作ではノアの方舟を拒否された際はルシエンは自力で立ち直っており、ペギンの生い立ちを聞かされる話は展覧会用の木彫りの馬を破壊された時の出来事となっている。アニメではノアの方舟拒否というイベントに、ダニーの足が治らないという事実をルシエンが知るという展開を付け加えたためにここでルシエンが深く落ち込むことになってしまったため、原作では後の方に来る話を先に持ってきたのだろう。では展覧会の馬を壊されたルシエンがどうなるかについてはその辺りで研究したい。
 ここで語られたペギンの生い立ちもほぼ原作を踏襲している。違うと言えばペギンが木彫りを始めたきっかけで、アニメでは刑務所を出てから自分を雇ってくれた主人のために木彫りを始めたことになっているが、原作では刑務所の中で木彫りを始め、その木彫りを看守が街で売ってきてくれたとなっている。それとペギンが作った木彫りを売ってくれる人の話が出てくる、その人物はペギンの息子達の事を知っているようだ。
 この語りを通じてペギンがルシエンに訴えようとしていたこと、ルシエンが理解したことは同じで、原作でもルシエンは木彫りの馬が壊された絶望から見事に立ち直る。やはり辛い思いをしてきた人間の言葉は説得力に溢れていたのだろう。

第22話 「ダニーの宝物」
名台詞 「うん、いいよ。乱暴なことしないなら。」
(ダニー)
名台詞度
★★★★

 「わたしのアンネット」・完(w。
 いや、ルシエンの謝罪を受けたダニーがこの台詞言ったらマジで終わっちゃうよ。ある程度の歳の視聴者が見るならともかく、小学生低学年以下にとってはダニーがルシエンにこう言ってしまった段階で物語は全て終わりだ。あとはアンネットが勝手に怒っているだけ(そのような層にはアンネットが何で怒っているのかが根本的に理解できていない)ですべて決着がついてしまったと理解するのだ。つまり小さな子供にとって、この物語はルシエンとダニーだけの問題にしか見えず、しかもその二人の間で「ごめんなさい」「いいよ」のやりとりがあったのでここですべて終わりなのだ。
 そしてそのような層には、ここから先の物語は「何で怒っているのかよく分からないアンネット」と「問題決着済みのルシエン」との話になるのだから、もう根本的なところで物語が理解できず、主人公アンネットについても「木彫りを投げ捨てたり壊したりする怖いお姉さん」としか印象が残らず、この世代にとって非常につまらない番組と化してついには視聴をやめてしまう事になっただろう。「わたしのアンネット」が当時視聴率で大苦戦したのはこの台詞にも原因はあると私は考えている。
 無論、ある程度の歳…小学校高学年以上になれば物語がどのような構造をしているか理解できるはずだ。当時中学生だった私もなんとかついて行けたし。ここまでルシエンとアンネットとダニーの3人の問題だったと理解できるかどうかだろう。そう理解できればここからの物語はルシエンとアンネットだけの問題になったと理解できる。でもそうでなかったらここで終わりだ。
 この台詞はルシエンがダニーに直接謝罪をした返事であり、ルシエンがダニーに許された最初の台詞でもある。ダニーがルシエンに対し怒りを感じていない言動は18話でもあったが、そのダニーの正直な心がルシエンに初めて告げられるシーンである。ダニーがこんなにあっさりダニーを許してしまうのも、やはり彼が神を信じ、神を心の中に住まわせているからなのだろう。
 ちなみに原作では、転落事故後最初にルシエンに会ったダニーの反応は「あっち行け、いやなやつ」である。原作ダニーはやっぱりアンネットの妹だなと思わせてくれる。
名場面 ルシエンが彫刻刀を手にする 名場面度
★★★
 ルシエンがペギンに静かに語る。ダニーの転落事故が起きてから色々なことが変わってしまったこと、その事故の前に自分がどんな風に生活していたのか思い出せないこと…それにペギンが「きっと幸せな毎日だッたんだろう」と答える、ルシエンはその時が幸せだったのだと理解し、もし元に戻れたらそれが幸せなんだと理解できると語る。そしてルシエンはまた暗い顔で落ち込む。
 それを見たペギンは彫刻刀を持って立ち上がり、その彫刻刀をルシエンに差し出すのだ。そしてその彫刻刀がルシエンの幸せを見つけてくれるはずだと語る、ルシエンは喜んでこれを受け取る。
 このシーンにはふたつの要素がある、ひとつはルシエンが「幸せ」というものがどのようなものであるかハッキリと感じ取ることだ。実は「幸せ」というものは不幸になってみたいと感じることが出来ない不思議なもので、実際に不幸だと自分が感じたときに遠いところにあると感じるのが幸せなのである。さらに言うと幸せというのは何でもない日常のことで、その歯車すら現在のルシエンは狂っていることもここで分かるのだ。これらを感じ取ったことでルシエンはまた落ち込むのである。
 ペギンは幸せの正体を理解したルシエンをまた立ち直らせよう考える。これがもう一つの要素でルシエンが幸せに向かってしっかりと歩けるように彫刻刀を渡すのだ。ルシエンの幸せはルシエンが得意な事でしか得られるはずがないのである、それには木彫りの道具を与えるのが一番だとペギンは考えたに違いない。不幸というのは自分の力で動きだし、乗り越えない限りは幸せへの道は開けないのである。それを誰よりも知っているペギンはルシエンの幸せを彫刻刀に託したのだ。無論ルシエンもこの彫刻刀に自分の幸せを託すことになったのだ。
 
今回の
アンネット
VS
ルシエン
  
「あれは僕の作ったノアの方舟じゃないか。ダニー!」「ん? ルシエン」「こんにちは、ダニー。ああ、怖がらなくてもいいんだよ。僕、あれからずっと君に謝りたかったんだ。ダニー、本当にごめんね。許しておくれよダニー」「うん、いいよ。乱暴なことしないなら」「もちろんさ、もうしない。今日は母さんの作った揚げパンを持ってきたんだ、ダニーの家の人たちに食べてもらおうと思ってね。ダニーも食べておくれよ」「うん、ありがとう」「ねえダニー、この木彫り気に入ってくれたんだね。僕もっと色んなもの作ってあげるよ。どんなものが欲しい? これ、アンネットが君に渡してくれたんだろ?」「ううん、違うよ。僕拾ったの」「拾った?」「うん、そこの薪置き場にたくさん捨ててあったから、僕が拾ったの」「なんだ、そうか…僕はアンネットが君に渡したんだとばかり思ってて」「どうして?」「ダニー、これはね。僕が君のために作ったんだ」「ルシエンが?」「そうだよ。君に少しでも早く良くなってもらおうと作ったんだ。君には信じてもらえないかも知れないけど…」「信じる、僕」「ええっ?」「信じるよ、これはルシエンが作ったものだ。だってこんなに上手に木彫りができるのはこの村にルシエンしかいないもん」「そう、信じてくれる? ダニー」「あん、信じる」「だけどルシエン、どうしてこの木彫りを薪置き場に捨ててしまったの?」「え? 僕は捨ててないよ」「そう、でもこの船も動物も全部薪置き場に放り出してあったよ。どうして?」「そ、それは…あの…」ガチャ、ここでアンネット登場、しばしにらみ合う二人。「お姉ちゃん、やっぱりこの木彫りはみんなルシエンが作ったんだって。僕にプレゼントしようと思って作ったんだってさ」「ダニー、もうすぐ晩ご飯の時間よ。いらっしゃい」アンネットはルシエンを完全無視の構え、「でもルシエン、どうして薪置き場にこんな大事なもの捨ててしまったの?」「そ、それは…」「これは本当にルシエンが作ったんでしょ?」「そうさ、もちろんだよ。これは僕が作ったんだ、本当だよ」必死に語るルシエン、「早くいらっしゃい、スープが冷めちゃうわよ」アンネットはあくまでもルシエンを無視、そして家の中に入ってしまう。残された二人の後ろ姿が何とも言えない味を出している。
感想  よく考えれば転落事故後初めてルシエンとダニーが直接会話した。その時のダニーの反応は名台詞欄に書いたとおり。ダニーにあんな反応をさせたら物語はおしまい、今後の数ある出来事も先回りして無にしてしまう可能性があるためにダニーの反応はちょっと考えて欲しかったけど、心の中に神が宿っているダニーがろくでもない反応をするわけは無いから仕方ないか。
 前半でアンネットがルシエンに対し怒り続けている事に関してあれだけ悩んでおきながら、いざルシエンと会うとああなってしまうというのもなんか不自然で…まぁこれは25話以降で必要になる伏線だから仕方がないかと思えるのはもっと後の話だし。でもアンネットがノアの方舟を捨てた張本人が自分であることを知られたくなかったがためにああいう反応をしたとも解釈できる。この辺りからアンネットの迷いが随所に現れるようになり、この先に待っている雪解けへと物語が展開するのだ。
研究 ・ノアの方舟はだれが作った?
 今今回は自分が作ったノアの方舟でダニーが遊んでいるのを、ルシエンが見つける話が主軸となっている。この展開も原作から持ってきた話であるが、原作では木彫りの馬が破壊され、アンネットが展覧会で一等賞を取った日の話として描かれている。アニメでここに移動してきた理由はノアの方舟が何日も放置されている不自然を解消すること、それと物語をアンネットとルシエンの二人だけの問題として単純化しようとしていた狙いがあったのではないかと推測する(後者は裏目に出たとも感じる)。
 ただしルシエンとダニーの会話では原作とアニメでは大きな違いがあり、アニメではダニーはルシエンを許した上でノアの方舟もルシエンが作ったものだと信じるが、原作ではダニーはルシエンを嫌い、ノアの方舟も妖精がくれた物だと主張するのだ。
 さらに原作ではダニーはノアの方舟について、アンネットに「ルシエンが作ったのでなく妖精が持ってきたのだよね?」と質問して答えに窮するシーンとなっている。アンネットは「たきぎの上にあったノアの方舟をルシエンが作ったはずがない」と返答するが、ここで嘘を言ってしまったがために展覧会で褒美を貰ったことが台無しになってしまったように感じる。さらにその嘘をクロードが見抜くという展開になっているのだ。
 原作ではこのシーンはアンネットの苦悩の入り口として描かれ話の転換点になっているのだが、アニメではアンネットの迷いを描くために描かれたようにも、ダニーの許しを描くためにここに入れられたようにも見える。いずれにしてもダニーがあっさりとルシエンを許したことで、アンネットの心に迷いが生じる部分でもあり、見ている方もそろそろ雪解けかと期待し始めることになるのだ。

第23話「悲しい嘘」
名台詞 「父さん、僕、父さんの大事な新聞持ってきたんだよ…。僕が持ってきたんだよ…父さん。父さん、僕の足はもう治らないの? 父さんの嘘つき! (中略)嫌だ、父さんなんて嫌いだ。僕の足が治るって言ったのに、秋までには治るって言ったのに、だから僕、一生懸命歩く練習したのに…みんな嘘だったんだ! 嫌いだ、みんな大嫌いだ!」
(ダニー)
名台詞度
★★★
 ダニーが自分の足の病状について、今まで隠され続けていた真実を知る。その前に前話に張った伏線を回収すべく、ダニーが飼われている牛の数が減ったことに気付く、自分の足を治すために牛が売られたと知ったダニーは、牛のためにもと懸命に歩く練習をしていたのだ。
 そこへ外出から帰宅して、この事実を偶然聞いてしまうことになる。マリーがダニーに対する警戒がないまま、「ダニーの足が治らないなんて」と言ってしまったのが聞こえてしまったのだ。この時のダニーの反応がこの台詞である。
 むろん、ここには足が治ると信じていたダニーの絶望が描かれているが、この話ではそれだけではないダニーについて別の部分も見ることができる。ルシエンとの関係がこじれたままで、自分に対し「ノアの方舟」はルシエンが作った物ではないといった姉については間違いと理解して許すのだが、自分に対して大事なことを徹底して隠し続けてきた父や家族は許せない、というダニーの一面を見ることもできる。
 また足が治ると信じてダニーがどれだけ努力したかも忘れてはいけない。確かにダニーは自分の足の異変にある程度気付いていたが、その上で「足は治る」と父に言われ続けられていてそれを信じ、そして足が良くなるよう彼なりに努力したのだからショックも大きかっただろう。つまりはダニーにとって、信頼していたものが全部崩壊してしまったのである。
 だがここは心に神が宿っているダニーである。今は少しだけいつものダニーではなくなるが、ひとつ事件を起こして父の気持ちが分かればすぐに理解して、父の嘘を許すことになるのは次回の話。
名場面 橋の上で語り合うマリーとルシエン 名場面度
★★★
 「今回のアンネットVSルシエン」欄のシーンを受け、ルシエンは姉と二人だけで語り合う。姉はルシエンがいつも怯えて小さくなって暮らしていることに同情し、ルシエンがやっとことも悪いとした上でアンネットは意地を張りすぎでもうそろそろルシエンのことを許してくれてもいいのではないかと言う。それに「アンネットは許してくれないよ」と力なく答えるルシエン、「どうして? どうしてそういえるの? ダニーの足は秋には治るんだし…」とマリーが言うと、「とにかく許してくれないんだ!」とルシエンは涙を流して反論する。その弟の姿を見て、姉は全てを悟ったのだ。「ルシエン…まさか…そんなことは…?」姉が確認の言葉を言い切る前に、ルシエンは走り去ってしまう。
 もちろん、姉が悟ったのはダニーの足が治らないという真実である。今まで聞いていた通りダニーの足が治るという話を出したところで、明らかに弟は悲しみや絶望感を示す反応をしたのである。そしてアンネットがルシエンを絶対に許さないという言葉…これはマリーから見たら見えてくる真実はひとつしかあり得ないだろう。弟はダニーに二度と治らない怪我をさせてしまったと。
 ルシエンも姉がその事実に気付いた事が分かったのだろう。また責められるに違いないと感じたのか、それとも自分の苦しみを隠すために言わないでおいたことがバレてしまった事に怯えたのか、とにかくそこを逃げるしかなかったのである。ルシエンの逃げ場はもちろん木彫りだ。
 そしてマリーは弟が逃げ去ったことで、予感が確信に変わったのだと思う。これが次のシーンであるマリーが帰宅してすぐに自分の「確信」を母に報告するに至る。これが名台詞欄に記した事件に繋がって行くのだ。
  
今回の
アンネット
VS
ルシエン
  
 下校中、駅でモントルーから帰ってきた姉と久々に再会したルシエン。マリーを乗せてきた汽車が走り去ると、そこにやはり下校中のアンネットが現れる。「こんにちは、アンネット」「こんにちは、マリーさん」「途中まで一緒に帰りましょ、アンネット」「あの〜、私急ぎますので失礼します」「アンネット!」マリーの声を無視して去ってゆくアンネット、今回もルシエンを完全無視の構えだ。「ルシエン、あんたたちまだ仲直りできてないのね」とマリーはルシエンに言うが、ルシエンもまた無言のまま下を向くしか手はなかった。
感想  今回は「嘘」が鍵である。この物語にここまで溜まっていた「嘘」を一気に吐き出してそれを精算するという凄まじい物語だ。その中の柱になっている部分は、ダニーが治ると村の人やダニー本人にまで言ってしまっていること。この嘘を吐き出すために連動するもう一つの嘘である、ルシエンが真実を知っていたことを家族に報告しなかった嘘から崩壊し始める。その頃、バルニエル家ではダニーが家の牛の数が減っていることに気付き、今まで牛を売却したことを隠され続けていたことを暴く。そこで足が治ると信じているダニーは治るための努力をしなければならなくなる…この悪循環が始まり掛かったところで柱となっているダニーの病状についての嘘が崩壊を始め、ついにはダニー本人の耳にも真実が伝わる。そんなふうにここまでの嘘を全部使って5歳児であるダニーを絶望のどん底へ落とすという凄まじい展開だ。
 ここまでに「嘘」がいくつ出てきただろう、もう数えるのも嫌になる位の嘘がこの回のための伏線として…つまりダニーが真実を知る瞬間への伏線として用意されていたのだ。ダニーが「足が治らない」という真実をどのようにして知るのか、これは視聴者にとっても重要な感心だったわけでこれを上手く表現したと思う。
 ダニーが真実を知るという大事件が起きている中で、何も知らずにパン屋へ、そして家へと走るアンネット。それに木彫りに励むルシエン、この対比がまたいい。ところでスイスでも「ひい、ふう、みい…」なのだろうか?
研究 ・ダニーの症状
 今回の話はダニーが自分の足についての真実を知るなど、アニメではダニーにとっての転換点ともなる話だが実はこれは原作にない展開である。原作ではダニーの足が治らないという事実をピエールが伏せていた様子はなく、またダニーはその診察結果が出ると同時に知っていたようである。原作ではアニメのようにダニーが足が治らないと知ってショックを受けるような物語は無いのだ。そしてダニーが治らないことを知っている事を示すシーンとして、ダニーがどんなにたくさん棒チョコを持ってようが、自慢の松葉杖を持っていようが、もうこれまでのように牛たちを追って走れないという事を感じて大泣きするシーンがある。この大泣きが夏に山小屋へ行く話に繋がる。
 そのダニーの足の症状だが、アニメでは「折れた骨が正常な形で接合しないまま固まってしまった」のが原因で膝の曲げ伸ばしが出来なくなってしまったことがダニーが歩けなくなった原因とされている。原作では少し違い、折れた方の足が治癒したときに折れなかった足より短くなってしまったので歩けなくなったという設定になっている。いずれにせよ先の方でキベット先生がダニーに施した手術の内容は同じようなので、表現が違うだけで同じ事なのだろう。
 原作ダニーは足が治らなくなったとの診断を受けてから、村の大工が作ったクマの顔を彫り込んだ松葉杖を愛用することになる。これにはダニーも大喜びで、ダニー自慢の品物になっていたようだ。

第24話「アンネットの涙」
名台詞 「誰のせいでもないわ、ルシエン。運が悪かったのよ、うちも、バルニエルさんのところも。そうだ、ミルクを温めてあげるわ。それを呑めば気持ちも落ち着くわよ。さ、ルシエン、元気を出して。男じゃないか!」
(マリー)
名台詞度
★★★
 全48話中、マリーの台詞の中では一番印象に残ったのはこれ。いや〜、こんな姉がいたらいいなとマジで思う。
 ダニーが真実を知ったショックで倒れてしまった母を見て、「僕のせいだ」と落ち込むルシエンに返した台詞である。それに対して誰のせいでもなく運が悪かっただけだとルシエンに諭し、温かいミルクまで用意してルシエンを慰める。そして一番重要なのはこの台詞の最後、ルシエンを元気づける言葉が良い、「男じゃないか」と。
 この台詞にマリーの姉としての優しさが全部詰まっていると考えて差し支えないだろう。ここまでルシエンを理解せずに無意識に責めるような台詞や行動をしていた姉だが、やはり根は弟思いの良い姉というところだろう。特にダニーの足は治らないと知って、それを誰にも話さずに一人で苦しんでいた弟の姿に気付いたところで、この優しさは一気に盛り上がる、それがこの台詞だ。
 そしてこの次のシーンでは、ルシエンに優しさだけでなく現在自分たちを取り巻いている現実も語るのも良いところだろう。「足が治らないと知っても僕を許してくれるだろうか…」と落ち込むルシエンに対し、ルシエンも苦しんでいるがバルニエル家の人々はもっと苦しんでいるという現実をぶつける。優しさへの逃避と現実、この回ではマリーのこのバランスがうまく描かれて良い姉として描かれたなぁと思う。
名場面 ダニーの反乱 名場面度
★★
 バルニエル家の苦悩の底はこの辺りだろう、以後アンネットが一人で苦悩することはあっても、バルニエル家全員で苦悩するシーンは無かったはずだ。というのはダニーの状態がどうあれ、ダニーが常に素直で明るかったからと言う点が大きいだろう。
 だがダニーが自分の足が治らないという真実を知ってしまい、ダニーはそれまで信じていたものが信じられなくなっしまったのだ。父、姉、おばあちゃん…そして5歳児の発想としては、信じられなくなってしまった者を困らせようと反乱を起こすことである。その考えに忠実に従い、ダニーは誰にも知られないようこっそりと家を抜け出す。
 ここは48話中で唯一ダニーが家族に対し反乱を起こす貴重なシーンである。ダニーは悪戯をすることはあっても、大人を本気で困らせるような事はしない素直な子供である。そのダニーが大人を困らせ、自分が受けた心の傷を誇示するための行動を起こすのだ。
 結論としてはそれでダニーが遭難し、そこを父と姉に助けられて仲直りなのだが、考えようによってはダニーは自分に何かあったらちゃんと父や姉が自分を助けに来てくれるかという事も試してみたかったとも見える。そんな心に傷を負った幼児の複雑な心境が上手く描かれている。
 
今回の
アンネット
VS
ダニー
 
 真実を知って自室のベッドで泣くダニーのもとにアンネットがやってくる。「ダニー、お姉ちゃんよ、入ってもいい?」部屋の中から返事はない。「開けるわよ、ダニー」「あっち行ってよ〜」「ダニー?」「お姉ちゃんの嘘つき! お姉ちゃんなんか大嫌いだ〜!」…アンネットは弟に嫌われるという一番恐れていた事態を迎えてしまったのだ。
感想  え〜と、今回の物語のどの辺りが「アンネットの涙」なのか制作者を小一時間問い詰めたい。サブタイトルとは裏腹に、アンネットの涙が全く印象に残らなかった回だった。もっと違うサブタイトル思いつかなかったのかなぁ、私なら「ダニーの家出」とかにするが。
 先週の悲しい嘘を受けてダニーが反乱を起こす。いや、その前にダニーが真実を知って苦悩する家族の姿からこの話だろう。でもこのような展開をするのなら、ダニーに本当のことを言えなくて苦悩するアンネットやピエールやクロードの姿をもっと印象づける必要があったようにも感じる。前回、ああいう予想外の形でダニーが真実を知ってしまうと言う展開は良かったのだが、今回これでこんだけ苦悩させるなら、特にピエールがダニーにどのようなタイミングで真実を告げるかで悩む描写が前々回以前に欲しかった。この辺りに脚本の統一性の無さを感じることもあるのだ。
 だが質実を知ったことを受けてダニーが反乱を起こすのは展開としては面白かったと思う。ダニーのまた別の表情が見られるのもこのエピソードだけだし、何よりも心に傷を負った5歳児という描写がなかなか良かった。ただ5歳児なら「一人になりたい」なんてあんまり考えないぞ、アメリア先生。
 それとダニーが真実を知った晩のモレル家の暗さも何とも言えない。ダニーに真実を知らせてしまったとの罪悪感で倒れる母、母を苦しめていると落ち込むルシエン、その悲惨な状況を一人で何とか立て直すことに成功するマリー。本当に強いのはマリーだな、それだけでなく優しい。まぁ、物語が終盤を迎える頃にはルシエンがこれ以上に大きくなるのだが、それはまだ先の話。
研究 ・ 
 (ついにネタ切れ)

第25話「おもいでの牧場」
名台詞 「ねぇルシエン、もう僕のこと心配しなくていいんだよ。もう普通の人と同じ位、歩いたり走ったりできるもん。だからもうルシエンは心配しなくていいんだよ。」
(ダニー)
名台詞度
★★★★★
 今年はフェルナンデルに雇われて山の牧場に来たルシエン、そこへピエールとダニーが現れる。ピエールがチーズ作りに使う牛乳を届けに来たため、チーズ小屋を見たいダニーがもれなくついてきたわけだ。そしてダニーはルシエンの案内でチーズ小屋を見学することになる。
 手押し車から降りるようとするダニーに、ルシエンが手を貸そうとするがダニーはそれを断り自力で手押し車から降りるのだ。そしてチーズ小屋へ向かいながらルシエンに「僕上手に歩けてる?」「走るのだって速く走れるよ。クラウスと鬼ごっこしたって負けない。階段だってうまくあがれるんだ。」と声を掛ける。ルシエンは「よっぽど練習したんだね、とっても上手だ」と誉めると、ダニーがこの台詞を返すのだ。
 むろん、これは改めてルシエンがダニーに許された事を示すシーンでもあり、またダニーがルシエンが自分を怪我させた事で傷つき、苦しんでいることを知っていてこれに救いの手をさしのべた台詞とも受け取ることが出来る。そしてルシエンから見ると「ダニーが自分の足が治らないと知っても僕を許してくれるだろうか?」という前話で発生した苦悩の答えであり、ルシエンにとってはダニーに対する苦悩から解放された瞬間でもあるのだ。
 この台詞もダニーの心の中に神が宿っていなければ言えない台詞だろう、自分の足が治らないという事実を神の思し召しと受け止め、前話のような反乱は起こしたものの、結果的にはその心の傷を乗り越えて事実を受けて入れているのである。
 この「神の思し召し」という考えが持てるかどうかが、キリスト的な考えでは問題なのかも知れない。世の中の全ての出来事は神が与えた試練と受け止める考え方であり、そのような考えを受け入れて何があっても神の試練として水に流せるようになるためには、心の中に神が宿っている事が大事な要素になるのだろう。ダニーは5歳にしてその域に達しており、この自分の態度こそが姉やルシエンが取るべき道として視聴者に訴え続ける事になる。それを象徴するこの台詞は、間違いなく全48話通じてのダニーの台詞の中で最も印象に残った。
 この台詞を聞いたルシエンの反応は、涙を目に浮かべて「ありがとうダニー」である。私がルシエンの立場だったらダニーを抱きしめそうだ。そしてルシエンはダニーのためなら何でもすると決意する最初のきっかけであり、その決意はそれで死ぬことになってもいいというものであった。
 ルシエンの苦しみが一つ消えたことで、物語にはまた雪解けムードが流れてくることになる。
名場面 そうだったの、よかったわね 名場面度
 チーズ小屋に行きたいというダニーに、アンネットも付いていってフェルナンデルの手伝いをしたいと言う。するとピエールは今年フェルナンデルがルシエンを雇っていることを告げるのだ。するとアンネットは自然に「そうだったの、よかったわね」とピエールに言う。ピエールもダニーもアンネットのこの反応に驚く。
 このシーンをきっかけに物語に雪解けムードが流れ始め、再びアンネットとルシエンが接近を始めるのだ。前回の雪解けムードがあった学校行事のピクニックの後、また二人の距離が遠ざかりダニーの足が治らないという事実を突きつけられるとアンネットはルシエンが償いに作ったノアの方舟を拒絶するなど壮絶な展開が続いていただけに、視聴者もこのアンネットの反応は驚きだろう。
 実は驚いたのはピエールやダニーと、これを見ていた視聴者だけではない。アンネット自身も驚いて顔を真っ赤にするのだ。そして逃げるように外に出て皿洗いを始める。この辺りのアンネットの心境はアメリア先生が解説してくれたので、私が細かく書くことも無いだろう。
今回の
アンネット
VS
カウベル
  
 カウベルを持って家路へ急ぐアンネットだが、重くてとても家まで持ってられない。「あ〜重たい」と息を切らせてカウベルを置いて一休みのアンネット。「どうやって持って帰ろうかしら…」…次のシーンでアンネットはカウベルを頭からすっぽりと被って歩いているのだ。「これだとずっと楽だわ、もっと早く思いつけば良かった」…見ていて大笑いした。さらに家に着くとペーペルには逃げられるが、面白かったのはその次。アンネットは「ただいま〜」といつも通り大声で言うのだが、この声がカウベルの中で大反響、「う〜っ、ひ〜っ、響く!」と顔を出すアンネットの表情は最高!
感想  山だ、そう言えば7歳編ではアンネットとルシエンが仲良く山へ行ってたっけか…と思い出すと気になるのはルシエンをどうするかだ。この時点でのアンネットとルシエンが一緒に山小屋へ行ってひとつ屋根の下で暮らしたならば、そこに待っているのは見るもおそろしい修羅場だろう。モレルのような鈍い母親にはそこまで頭が回らないが、ピエールはキチンとそこまで考えていたのは感心した。フェルナンデルにルシエンを雇いモレル家の牛の世話をするように頼み、アンネットとルシエンの距離を離すのである。またこの話を聞いて喜ぶルシエンも良い、ルシエンは男として認められたからフェルナンデルから声がかかったと最初は感じただろう。
 あとはこれといって何も無いが、最後のダニーの台詞(名台詞欄参照)にはルシエン派として見ているこっちも涙が出そうな位嬉しかった。特に前話でルシエンがダニーに許してもらえるかで悩んだばかりである。その答えがこんなに早く出るなんて…。
 ここからはルシエンとアンネットの問題に図式が単純化してゆく。しかもこの雪解けムードはこのまま仲直りなんて展開じゃないだろうな、と当時は感じていたけどすぐにあのピクニックの件を思い出した。雪解けはムードだけでまだまだ長いかも知れないなとも感じたのである。
研究 ・山の上で
 原作ではノアの方舟が拒絶された次の話が、アンネットとダニーが夏に山小屋まで行く話となる。ダニーの足が治らないという診断結果が出てたことで、ダニーはもう牛を追って走ることが出来ないと思い知って大泣きするのが原作での物語のきっかけだ。ダニーが泣くとダニーの欲することはなんでも叶えてやろうと行動するピエールは、ダニーを山小屋へ連れて行くことを決断する。ただし、原作クラウスはクロードと留守番している。
 そして夏のある日、ダニーは手押し車に乗せられて村の市場へ行き、ここでたくさんの牛を眺めた後で馬車に乗って山小屋を目指す。山小屋での物語はこれといったものがなく、また原作ではルシエンは村に残っているので出番すらない。ハッキリ言ってただダニーが甘やかされるだけの物語でしかないのだ。原作では13ページとはいえアニメではその半分以上がカットされたり消化済みの物語で、残りは大幅に改編されてこの1章に3話も費やしている。そしてダニーが甘やかされるだけという展開を大幅に改め、アンネットとルシエンの雪解けムードを前面に押し出す展開としたのだ。もちろんここまで殺伐だったし、また物語は元の殺伐とした展開に戻るのだからその合間の明るい展開としてはどうしても必要で、この改編がなかったらもっと多くの視聴者に逃げられたに違いないだろう。

第26話「遠い雲 遠い日々」
名台詞 「あの、ピエールおじさん。僕、フェルナンデルさんから聞きました。この山小屋に僕を連れてくるように頼んだのはピエールおじさんだったんですね。僕…僕…なんだか上手く言えないけれど、とても嬉しいです。」
(ルシエン)
名台詞度
★★★
 夜、フェルナンデルの山小屋にいるルシエンの元をピエールが訪ねる。ピエールは子供達が企画しているピクニックにルシエンが行かないと聞いてルシエンに参加するよう説得に来たのだ。そしてルシエンに「男だろう、逃げてばかりではダメだ」と諭し、これを聞いたルシエンはピクニックへの参加を決意する。さらにピエールにダニーを頼むと言われて嬉しくなる、そこでピエールにこう言うのだ。
 ルシエンはダニーに続き、ピエールにも許されていることを知るのだ。アンネットとルシエンの仲を誰よりも気にしていてまさか仲介までしてくれるとは思っても見なかっただろう。そしてピエールがルシエンを許している事を示す「ダニーの世話をしてくれ」と言うことまで言われたら…ルシエンは何よりも憧れであり、かつ傷を負わせてしまったダニーの父親に認められていること、気にしてもらえていること、これが嬉しかったに違いない。ペギンだけではなく他にも味方はいると感じたのだろう。その全ての感謝としてこの台詞を吐き、さらにアンネットの前に堂々と出て行くこと、何としても仲直りのきっかけを掴もうとする勇気が湧いたのだ。
 今回はピエールがアンネットとルシエンの仲直りのために動くのだが、村にいればこのように子供達に接する暇がなく、山小屋での生活だからこそ子供達と向き合うことが可能になったのだろう。そこでピエールの役割が大きくなったのが今回だ。
名場面 岩場を登るシーン 名場面度
★★★★
 ピクニックの目的地である湖に到着した一行は、アントンが見つけた「昼食を食べるのにちょうど良い場所」へ行くために岩場を登らねばならなくなる。ダニーはルシエンからジャンへのリレーで渡し、最後に岩場の下に残されたのはアンネットとルシエンだった。
 ルシエンはアンネットに先に登るように促し、手を差し出して登る手伝いをしようとする。「アンネット、先に登れよ」「えっ? ええ」「アンネット、僕の手に捕まれよ」…回想シーンも挟んで29秒の沈黙、その沈黙を破ったのはダニーの姉を呼ぶ声であった(空気読め!)。「ええ、今すぐ登っていくわ」とダニーに答えたアンネットは、ルシエンの手を拒否して岩場を登り始める。
 しかしこの後のルシエンの反応を見て「成長したな〜」と思うところだ、笑って岩場を登り何事もなかったかのように振る舞うのだ。今までのルシエンだったらアンネットに対し腹を立て、このような楽しいピクニックの場をぶちこわすような言動を取ったことだろう。苦悩と人々の優しさに触れたルシエンの成長が見て取れるシーンなのだ。
 対するアンネットは後悔する。皆が岩場に登って景色を見て歓声を上げる中、一人で仲間達の輪から外れて黙って湖を眺めるのであった。仲直りのきっかけ…つまりルシエンを拒んだだけでなく、ルシエンとの仲直りを強く望んでいる父や、ルシエンと普通に付き合っている弟の気持ちまでも拒んだのかも知れないと悩んでいるのに違いないのだ。ここは雪解けを感じさせつつもアンネットが苦悩の道へと入り込む入り口になっているのは見逃せない。こうしてアンネットとルシエンの立場は微妙に変わり、次々話で起こる大事件をきっかけに二人の関係は逆転するのである。。
  
今回の
アンネット
VS
ルシエン
 
(名場面欄参照)
感想  ルシエンの苦悩の原因はほぼ取り除かれたと言っていいだろう。今回はピエールに力付けられる、ダニーの父も自分とアンネットの関係を気にしているという事実、さらにあんなことがあってもピエールが自分を可愛がってくれているという事実はルシエンに勇気を注ぎ込むことになる。ルシエンはここまでの償いモードから仲直りへ向けて努力する展開へと一歩コマを進めたのだ。
 いっぽうのアンネットは父にルシエンとの仲直りを強く勧められる。無論アンネットがすぐにルシエンを許す気にならないであろう事も承知の上で言葉を選んでの説得だったが、アンネットはなかなかこれに答えられない。意地を張っているのは自分だけだと分かっていても意地を張ってしまい、いい加減意地を張るのをやめる何かが欲しいと感じ始めているかも知れない。そしてアンネットは何かに付けこの山でのルシエンとの楽しい思い出を思い出し、それがまた意地を張り続ける自分を苦しめるのだという事に気付いているのかそうでないのかは判断が難しい。う〜ん、「おもいでの牧場」ってタイトルは今回の方が合っているような気がする。
 そこで名場面欄の急接近へと向かうわけだが、ルシエンはともかくアンネットにとっては心の準備が出来ていなかったのではないかと弁護できるシーンでもある。喧嘩している相手がいきなり手を差し出してきたら誰だって反応に困ると思う。その困惑の表情もアンネットには現れていて、凄く出来がいいなと感じてしまったりする物語だ。
←この姉弟の表情も印象に残ってる
研究 ・レイネ湖
 山の牧場の物語は2話目、ここは山の上でピエールとアンネットとダニーがピクニックに行く原作のエピソードを利用して、一緒に行く相手を学校の友達に変えた上で原作と違う展開が用意されている。原作ではダニーの我が儘の答えとしてしか描かれていないが、アニメではアンネットとルシエンの急接近とそれによる困惑、そしてアンネットがまたもルシエンを拒絶してしまうという展開となったのだ。
 今回彼らがピクニックで訪れた場所はレイネ湖と言われる場所だ。地図で調べてみたがロシニエール付近に該当する湖はないようだ、検索しても出てくるのは「わたしのアンネット」関連のサイトだったりして結局正体が掴めないままだ。
 ピエールが「谷が氷河に削り取られて出来た」というので氷河湖なのは間違いなさそうだ。アニメでも氷河地形であるU字谷の底に美しい湖が広がっている様子が描かれている。恐らく上部では氷河が直接湖に流れ込んでいるのだろう。または氷河期に出来た氷河湖がそのまま残っているものとも考えられる。てことは、あの水は非常に冷たいのだろうなぁ。

第27話「ニコラス先生の教え子たち」
名台詞 「聞いちゃいられねぇな、いい加減にしろよルシエン。」
(ジャン)
名台詞度
★★
 ストーリークラッシャーとでも名付けようか、ここまで上手に決まっていた物語を一瞬でぶち壊す台詞として視聴者の印象に強く残った台詞だろう。せっかくの雪解けムード、いや仲直りが目前にあった二人の状況を一瞬で破壊したのである。これに怒ったのはルシエンだけではない、アンネットもせっかく素直になったのを台無しにされ、ジャンに喧嘩を売ってまたルシエンに対しても意地を切り続けてしまう方向に戻ってしまう。
 恐らくジャンがこの欄に出てくるほどの台詞を吐くのはこれが最初で最後と思うが、その印象的な台詞を吐いているときにジャンの顔が霧でよく見えないのが少し可哀想。だが退屈そうな顔をして頬をかいている様子が霧越しに見えるのは彼の性格を上手く示していると思う。
 またこうして物語をぶち壊されたルシエンの様子がこれまたいい、ルシエンもせっかくの仲直りのチャンスが壊されつつあることに気付いて、なんとか元に戻そうと必死になるのだ。とことんついてないやっちゃな。
(次点)「なによデブ!」(アンネット)
…上記シーンを受けてアンネットとジャンの壮絶な言い合いが始まる。その中で「じゃじゃ馬」と言われたアンネットのこの一言で返す。「そこまで言うか〜」と思った、ジャンの反応も「ああ言ったな、俺は女にそんな言い方されたの初めてだぞ!」というものだ。「世界名作劇場」史上この言葉で登場人物を罵ったヒロインはいただろうか?
名場面 霧の中の会話 名場面度
★★★★
 山の牧場に立ちこめる霧、そんな中ニコラス先生が崖下で動けなくなる。ルシエンとジャンが崖上からニコラス先生を励ましているとルシエンを呼ぶ声が…アンネットだった。
 声の主がアンネットと分かると、ルシエンは声の方向へ向かって歩き出す。しかしアンネットの反応は「ダメ、こっちに来ないでルシエン」という声だった、だがその声のトーンはルシエンを拒絶しているものではない。ルシエンを受け入れようとしている明るい声だった。その言葉にルシエンも明るく「どうして?」と聞き返す、これはアンネットの声が自分を拒絶するものではないと分かったからだろう。「どうしても、なんだか恥ずかしいわ」、「けっ」と返すジャン、「だって、今までずぅっとルシエンとは口をきかなかったし、今急にこんなおしゃべりをするなんて、、なんだか変だわ」と本心を語るアンネット、「そりゃ、でも口をきかないよりずっといいや」とルシエンもまんざらではない。「私、こうしてルシエンの顔を見ないでお話ししていると、何でも言えそうな気がしてくるわ」「何が言いたいの? 言ってよアンネット」「やっぱり私、恥ずかしいわ」いよいよ二人の仲直りか?と視聴者の期待は高まる。「聞いちゃいられないなぁ、いい加減にしろよルシエン」と視聴者の期待が高まったこのタイミングでジャンが横やりを入れるのは絶妙だ。「誰? そこで立ち聞きしているの誰よ? 失礼ね」…完全に空気は壊れた。
 とにもかくにも、このシーンがダニーが崖から転落してから、雪の夜にアンネットが遭難したことがきっかけでルシエンと和解するまでの間、最も二人の距離が縮まり最も仲直りが近かったシーンである。ジャンの横やりが無ければアンネットは自分が意地を張りすぎたことを語り、それに対しルシエンは謝罪と自分の気持ちを吐くことで二人は心を許しあい、そして感動の和解に至ったはずだ。
 霧で相手の顔が見えないことでアンネットは意地を張るのをやめて素直にルシエンに接することが出来た。顔が見えないことで自分の中の憎しみや意地を覆い隠すことが出来たのである。現在でも喧嘩した相手と電話でなら素直に話が出来るなんて体験をしたことあることがいるだろう。顔を見ないで相手の息づかいを感じながらの会話というのが二人の距離をここまで縮めたのだ。
 
今回の
アンネット
VS
ダニー
  
 いよいよダニーが先に山を下りるときがやって来た。山を下りたくないダニーは屋根裏の干し草の中に隠れてしまう。匍匐前進で屋根裏を探すアンネットだが、どうしてもダニーが見つからず、ついに飛び上がりながら屋根裏中響き渡る大声を出す。「こらぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」「うわ〜っ」干し草の中から飛び上がるダニー。「待ちなさいダニー」「嫌だ、僕帰るの嫌だ」「ダメ、今日はどうしても帰るのよ」「いや〜っ、帰るのいや〜っ、痛い痛い」「こっちへいらっしゃい、ダニー!」「やだよ、帰るのいや〜っ」「ダメ、帰らなきゃ。明日はあんたのためにお医者さんが来るのよ。お医者さんすっぽかしたらどんなことになるか知ってるの?」「どうなるの?」「あのお医者さん怒ると怖いんだから、本当に怒ったらあんたのおへそなんかくり抜いちゃうんだから」「え〜?」「おへそが無くなったら、もうあんたなんか蛙になるしか道がないのよ」「うそだ〜っ」「嘘じゃないのよ」「僕は蛙になんかならないよ、おねえちゃんの嘘つき〜っ」「あんた小さいとき、この話本気で聞いてたのに、どうして今になって嘘だって言うの?」「うそだ〜っうそだ〜っ」…なんとか山を下る馬にダニーを乗せましたとさ。
感想  いよいよ山の話もこれで最後のようだ。帰りたくないダニーとの大騒動(今回のアンネットVSダニー欄)は笑った。今回はアンネットの対決シーンは多く、ダニーにペーペルにルシエン、ジャンとは2回も対決している。「今回の○○VS○○」欄の選定が凄く難しかった。
 しかしニコラス先生が山に登ってくるのが唐突だったような気もするが、前々話位に伏線が張ってあったっけ? でもそれならそれで先生が高山植物などに興味を持っているとかいう話をもっと出しておけばよかったのに…、それなのに山に不慣れというのは設定上不自然だが、それで楽しい物語が展開したからいいや。
 そして今回の見どころはアンネットとルシエンの接近だろう。霧の中で二人を会話させて仲直りを感じさせるという脚本には本当に感心した。その場をぶち壊すためにジャンが存在したのも不自然ではない。あれがジャンじゃなくてフランツだったら二人に気を使って聞こえないふりをしただろう、またアントンだったら空気を読まずに二人の会話に割り込もうとしただろう。女の子の友達だったら…「なんなの?」と素朴に聞いてしまうだろう。そう色んなシミュレーションができると言う点でこの話は面白い。
←別にペーペルを食べている訳じゃありません。
研究 ・「わたしのアンネット」第二部完
 この回が終わったところで「わたしのアンネット」は2幕目が終わったと考えて良いだろう。鉄道開通の話は番外編として、11話のクラウス登場からここまでが一つの物語として展開している。もちろん次回へと物語は流れているのだが、次回からは明らかに展開が変わり、特にルシエンの苦悩は続くのだがこれまでと苦悩の質が変わるのだ。11話からここまでのダニーの転落事故〜ルシエンの苦悩〜ルシエンの償い〜アンネットによる拒絶〜ダニーの許し〜雪解けムードというここまでの展開を私は「ノアの方舟編」と勝手に命名している。
 原作でも展覧会の前で話に一区切り入れられる。原作でも展覧会を境にアンネットの苦悩という新たな展開が加わって物語の展開がガラリと変わるのだ。原作でもアニメでも、その前の話はルシエンの苦悩と償いが中心に置かれていて、この中でルシエンが「取り返しの付かない事をしてしまったらどのように行動すべきか」という教訓を見せてくれるのである。だがそれは簡単には上手くいかない事も教えてくれるし、何度挫けてもその考えを忠実に実行するルシエンの姿はどちらも魅力的だ。

第28話「展覧会にむけて」
名台詞 「僕もダニーは受け取ってくれると思います。でも僕は、アンネットにも喜んで受け取ってもらいたいんです。もしアンネットが喜んで受け取ってくれたら、アンネットと僕は素直な気持ちで話をしたり、野苺を摘みに行ったり、そんな風な何でもないことが元のように出来るんじゃないかと思うんです。だから僕はこの馬を一等賞にしたいんです。」
(ルシエン)
名台詞度
★★★
 ルシエンが展覧会出品の馬に託す気持ちをペギンに語る。ルシエンがこの馬は展覧会で一等賞を取らねばならないとし、その理由として一等賞の馬をダニーにプレゼントしてダニーに喜んでもらうと語る。それにペギンはその子は一等賞でなくても喜んで受け取ると思うと答えるが、これにルシエンがこう言ったのだ。
 この馬のプレゼント先はダニーだが、思いはアンネットに向いているのである。ダニーに許され、ピエールに許された今、ルシエンにとって残るはアンネットとの完全な和解である。山ではアンネットとルシエンは仲直りが可能な程急接近したが、それでもまだ仲直りはされていない。そう、アンネットの意地を解放するためのきっかけがまだ掴めていないのだ。この馬にその役割を託そうというのがルシエンの考えだ。
 ペギンは「誰かのために木彫りを作るというのは立派なことだが、お前はお前のために木彫りを作り続けなさい。そうすればお前の素直さがお前の木彫りに現れてくる。その素直な心が一番大切なんだ、その時にこそお前とアンネットはきっと元のようになれる」と語る。ルシエンはその考え方にも理解を示しているようだ、目の前にある木彫りはルシエンのアンネットやダニーに喜んでもらいたいという気持ちの結晶なのだから。
名場面 木彫りの馬破壊シーン 名場面度
★★★★★
 今回から新展開に入ったと視聴者が気付くのは今回の後半、ジャンがルシエンの木彫りをしきりに誉めたところからだろう。ジャンはルシエンの木彫りを見て感動し、そのありのままの気持ちをクラスメイト達に話をする。誰よりもダニーが一等賞を取るのを楽しみにしている自分のセーターはどうなってしまうのか? アンネットはそう感じたのだろう。そして帰宅するとダニーが松葉杖に躓いて階段から落ちて怪我をしたと聞かされる。これでアンネットがルシエンへの怒りが再燃するだけの材料は揃っただろう。ここへ来て前回までの雪解けムードは既に消し去られており、何か事件が起きる予感を視聴者は感じる。そこでルシエンが村へ買い物に行くシーンが描かれてあの木彫りが誰の監視のないまま放置され、同時にアンネットがモレル家へ使いに出される。まさか、あの木彫りに何か起きるのか…?
 そう視聴者が思うとアンネットと木彫りが対面、最初はその木彫りを見て感心するアンネットだが、その木彫りをジャンが誉めて自分に一等賞は諦めろと言われたのを思い出す。さらに連鎖反応のように思い出すダニー転落事故、そのダニーが松葉杖によって怪我をした現状…そのダニーが期待しているのは自分が作るセーターが一等賞を取ることだ、この木彫りは間違いなくそれを阻止する…そんな思いがアンネットの脳裏をかすめたのだろう。
 ルシエンの一等賞を阻止して自分が一等賞になるためには…アンネットはそう考えたに違いない。そして全48話中最も怖い顔になって手が先に出てしまったというのが正解の状況だろう。アンネットはルシエンの木彫りにそっと手を伸ばす、「許すもんですか、絶対に許すもんですか…」木彫りを奥へと押し込み…次の瞬間、ルシエンの大作は宙を舞ったかと思うと墜落してしまう。そして足と台座が分離された状態になる。
 アンネットはここでハッと我に返る。そして自分がしたことの恐ろしさに気付き…アンネットが取った手段は逃亡だ。転びながらも走ってその場から逃げ去るのである。
 物語の展開が次のステップへ行くためには重要なイベントである。雪解けムードで来たここまでの話を一気にひっくり返すべく、ジャンが大げさにルシエンの木彫りを誉めたり、ダニーが新たな怪我をしたりとまた話が殺伐とした方向へ向かうのである。そしてその結末にこのシーンに到達するのである。雪解けムードとは言えアンネットの心の奥底にはまだルシエンへの恨みが残っており、ここ数話はそれが思い出されるような出来事が何も無かったのだ。そのまま何も無いままとっとと和解すればその恨みの気持ちなぞさっと忘れてしまうのに、いつまでも意地を張るからこういう事態になってしまったのだ。
 物語はこれをきっかけにアンネットとルシエンの二人が別々に苦悩するという新たな展開へとコマを進めることになる。ここからしばらくの展開が「わたしのアンネット」で一番見ているのが辛い展開であろう。
  
今回の
アンネット
VS
ルシエン
 
 ある朝の登校中、静かに登校するアンネットと木彫りの事で独り言をブツブツ言うルシエンがいつもの角でばったり出くわす。互いにその存在に気付き見つめ合う二人、6秒間の沈黙、「あ、あの〜、おはよう、アンネット」「おはよう、ルシエン」…二人はまだ気まずい。角を曲がって歩き去ろうとしたアンネットは突如その足を止めた、「ルシエン、展覧会に出す木彫り頑張ってね」とだけ言うと、学校へ向かって走り出す。その言葉を聞いたルシエンは一瞬だけとしたあと、飛び上がって喜ぶのだ。あまりの喜びように転んだりするが「痛いけど嬉しいや」と喜びを隠さない。木彫りの馬が破壊される前の最後の雪解けシーンである。
感想  新展開である。前話の研究欄に書いたとおりここからはここまでの「ルシエンの苦悩と償い」という展開だけではなく、アンネットの苦悩という新しい要素が入る新展開になるとは当時は知らなかったので「どうなっちゃうの?」感が非常に強かったのを覚えている。まず新展開最初の話はアンネットが苦悩の原因を演じる話だ。名場面欄にも書いたが、そこへ至るまでの話がアンネットのルシエンへの恨みを引き立たせるように考えて作られていると思う。特にジャンが無神経な言葉でルシエンの木彫りを誉める点はよくやったと思う、前回は二人が和解するチャンスを壊し、今回はまた二人の仲を引き離す役割を持たされたジャンというのは、ある意味物語の鍵を握っている当たり役なのかも知れない。まぁ悪く言えばせっかくいい感じできていた二人の関係を壊すクラッシャーボーイなのだが。
 その前提条件としてダニーがアンネットのセーターが一等賞を取ることを非常に期待しているという点もいい効果を出しているだろう。これらの台詞が木彫り破壊の直前に回想として出てくるのもアンネットが何が気に入らないかを表現していると私は考える。今まで心の奥底で眠っていた怒りや恨みというのが目を覚ますのはほんの一瞬の気持ちの変化があれば十分、それは私も何度も経験している。ここまで雪解けムードにあったアンネットの心が、一瞬で凍り付いて怖い顔になり、木彫りの馬を破壊するのは当然と私は考える。
 そして破壊された大作を見たルシエンの反応が次回に回されたのも見ている方としては分かりやすくていい。すぐにルシエンが出てきて何らかの反応をするようでは視聴者はアンネットの気持ちを忘れてしまう。ここで一週間待たせる作りは今見ると感心する。そう言えばダニーが転落したときもそんな作りだったなぁ。。
研究 ・アンネットの悪だくみ
 前回研究に書いたが、この展覧会の準備に入りアンネットが木彫りの馬を破壊する話からは、原作もアニメも話が新展開へと入って行く部分である。ここをきっかけにルシエンの苦悩と償いだけでなく、アンネットの苦悩が加わり物語はさらに殺伐とした展開へと入って行く。原作でもルシエンはかなり精巧な馬を作っており、木彫りが上手なことで評判のミカエルというクラスメイトの木彫りを見て一等賞を確信したというほどだ。対して原作アンネットもセーターを編んでいるが、原作では編み込まれるものは高山植物であった。
 アニメではルシエンの留守中にアンネットがモレル家へやって来て、木彫りの馬を破壊して逃げるというシーンが展開されたが、原作ではピエールがモレル家の草刈りに来るところから事件が始まる。原作ピエールはモレル家の人々を許してはおらず、モレルが草刈りに来てくれないのではないかと心配したほどだが、ピエールが出来た男なのは原作もアニメも同じで「息子を歩けなくした一家への恨み」と「仕事としてこの家の草刈りをしなければならない義務感」を分けて考え、モレル家に草刈りに来たのだ。これにルシエンが手伝うことになって、自慢の木彫りはモレル家に無監視状態で放置される。
 そこへ父に昼食を届けに来たアンネットがルシエンの木彫りを発見する。その時の原作アンネットは死んだように立ち止まり、穴が空くほどそれを見つめたとされている。そして5分間ほどその木彫りを黙って見つめ、アンネットの妬みの目で見てもこれが一等賞間違いないと判断する。ルシエンが喜ぶのが我慢ならないアンネットは、アニメと違いその日風が強かったから、この木彫りが落ちても風のせいと処理されるであろうと判断し、木彫りをベランダの台の上を滑らせて下に落下させる。これではひびが入った程度だったので、さらにアンネットは下に降りてその木彫りをさんざん足で踏みつける。馬が粉々になったのを確認したアンネットは逃亡するのでなく、堂々と歩いて家路についたのだ。
 アニメでは木彫りが破壊されるとすぐ馬を見つけたルシエンの話になるが、原作だとここで木彫りを破壊して家に帰ったアンネットが、ダニーがルシエン制作のノアの方舟を拾って遊んでいるのを見つけるシーンへと行く。ここでダニーに冷たい態度を取るというアニメでは22話に当たる展開に入り、それを境にアンネットの苦悩が始まるように作ってある。
 無論アニメと原作の違いは、話の順序を入れ替えていることとアンネットとルシエンの雪解けムードの有無という設定の違いにある。雪解けムードの無かった分、原作ではアンネットがルシエンへの恨みを思い出すシーンを作る必要が無いのだ。アニメではその展開に苦労したのだろう、おかげでジャンが恨まれ役となってしまったのだ。

第29話「こわされた夢」
名台詞 「それはお姉ちゃんが作ったんだ! お姉ちゃんが一人で作ったんだ。本当だよ。お姉ちゃんはおばあちゃんに教えてもらいながら一人で作ったんだ。おじさんはその模様が何の動物だかわかる? リスじゃぁないよオコジョだよ。そうだよ、ホラ見てごらん。僕の友達でクラウスっていうの。お姉ちゃんはそのクラウスを見てこのセーターを作ったんだよ。ね、そっくりでしょ? 僕はこんな素敵なセーターは何処を探しても無いと思うよ。おじさんはそう思わない? この中で一番素敵なセーターだよね?」
(ダニー)
名台詞度
★★★
 ダニーの純粋無垢攻撃に展覧会の審査官もメロメロだ。しかも純粋無垢の上に天使を思わせる透き通った声、さらに最終兵器として松葉杖まである。こんな5歳児に姉が作ったセーターの魅力を語られたら、どんな人でもメロメロになってしまうだろう。
 この台詞にはダニーの我が儘さ、さらに自分が出てくれば審査官の気持ちは変わるはずだという計算高さもあったはず。特に足を怪我して不自由という武器を持った子供にこう言われたら、その子供に一時的にしか関わらない立場の人間ならば甘やかしてしまいその子の願いを叶えようとしてしまうのはある意味当然だろう。ダニーはそれが分かっていて利用した可能性が否めないのだ。
 そしてその通りにアンネットが展覧会で一等賞を取る。アンネットの一等賞はここから始まるアンネットの苦悩と、ルシエンの新たな苦悩の出発点となるのだが、そんな次の苦悩を運んできたのも他ならぬダニーとクラウスと言うことになるのだ。
名場面 展覧会の表彰式 名場面度
★★★★
 名台詞欄の台詞でもってアンネットのセーターは一等賞に決まる。皆の拍手に迎えられて賞品を受け取るアンネット、その時アンネットは会場の片隅からの視線に気付く、ルシエンが暗い顔でこちらを見ているのだ。それに気付いたアンネットの表情はさっと曇り、唇を震わして小刻みに震える。
 ルシエンはそのアンネットの変化を見逃さなかった。ルシエンも小刻みに震え出すのだ…そしてルシエンには全てが分かった、あの木彫りの馬を破壊して自分から一等賞を奪い取ったのはアンネットだと。
 木彫りの馬が壊れているのを見つけたルシエンは、馬の足が折れていることで破壊したのはアンネットに違いないとは思っていた。しかし心の奥底ではそうであって欲しくないという可能性にすがっていたのである。アンネットに白状させようとしたが家まで行って帰ってきた理由はそこにあるということはアメリア先生も解説している通りだ。アンネットが自分がやったと言えばもうアンネットとルシエンが元通りになることは不可能だ。アンネットの仕業じゃないとしてもアンネットを問い詰めれば、こんな酷いことをした犯人として疑った事でもう二度と許してはくれまい。つまり自分は黙っているしかないのだ、自分が黙って耐えて犯人がアンネットでないと分かる日が来るのを待つしかルシエンに残された道は無かったのだ。
 ところがルシエンと眼があったアンネットが震えたのを見てしまったら、もう他には考えられない。アンネットが馬を壊した犯人であるという事実はルシエンに残された最後の道をふさいでしまい、アンネットとの仲直りが不可能になったと思えるほどの溝が生まれてしまう事なのだ。それは今までルシエンがアンネットと仲直りすべく努力してきたことが全て水の泡となってしまったことを意味する。
 一方、アンネットもルシエンの表情を見て「ルシエンは私が木彫りの馬を壊したと感付いた」と感じるのである。それで取った一等賞…アンネットもルシエンとの仲の修復が出来なくなってしまった事を悟り、さらにこんな方法で一等賞を取ってしまったという罪悪感、それにルシエンが事実を皆に語るのではないかという恐怖感にも襲われたのである。こうして物語にアンネットの苦悩という要素が加わって行くのである。
 
今回の
アンネット
VS
クロード
 
 突然に部屋の扉が開き、編み物をしていたアンネットは大げさに驚いて立ち上がる。そこに現れたのはクロードだ、「どうしたんだね? アンネット。何を驚いているの? 私はお前の帰りを待っていたんだよ。いつの間に帰ってたんだねぇ?」「ついさっき…おばあちゃんがいなかったから…私は編み物を…」「私はダニーの部屋であの子の足を冷やしていたよ、お前が帰ってきたら必ずダニーの部屋を覗くと思ってたんでね。それでハッカはあったのかい?」「ええっ? ハッカ?」「何を言ってるんだね、お前は? ダニーの足を冷やすのに、モレルさんのお宅までハッカをもらいに行ってもらったんじゃないか…お前、モレルさんのお宅に行ったんだろ?」「い、行かない、私行かないわ!」「え? 行かなかったのかい?」「はっ……い、いえ、その〜」「どっちなんだい? 行ったの? 行かなかったの?」「行ったわ、でも誰もいなかったわ。だから帰ってきたの。本当よ、呼んでみたんだけれど誰もいなかったわ。いたかも知れなかったけど返事がなかったの。だから私、すぐ帰ってきたわ。本当よ」「アンネットお前」「家へ帰ってきたらおばあちゃんもいなかったわ。だから編み物をしてたの。だって、これ学校の展覧会に出さなくちゃならないし、もう急がないと間に合わないわ。だから…」「アンネット…」「なぁに? おばあちゃん」「お前、熱でもあるんじゃないのかい? 顔色が悪いよ」「なんでもないわ、本当になんでもないわよ。本当よ」。

…アンネット 必 死 だ な 。
感想  今回はいきなりルシエンの絶望シーンで始まるのか…とルシエンより先に絶望していていたが、ルシエンが破壊された馬を発見するまで妙に引っ張ったのがこれまたなんとも言えない。そして壊れた馬を発見し、モレルはルシエンの心の傷に塩を塗りまくり、耐えきれなくなって走り出すルシエン。そしてアンネットがやったと意気込んでバルニエル家へ向かうルシエンの鬼気迫る演技はいつ見ても凄い迫力だ。でも「アンネット以外に僕を恨むヤツはいない」という絶対の自信はどこから出てくるんだろう…?
 ルシエンの木彫りの馬が破壊されたことで、アンネットのセーターが一等賞を取るのは目に見えていた。何てったってそうやって悲惨な方向へ話を持って行くのが「わたしのアンネット」の宿命なのだから、ダニーもクラウスもその宿命を果たすためにこの世に生まれてきたんだ。もしアンネットのセーターが一等賞を取れなかったら、ルシエンの怒りと恨み、そして苦悩はここまで大きくならなかったに違いない。ルシエンは苦悩と償いの心を持った上で、自分が素晴らしい木彫りの馬を作り上げ、自分で一等賞を取る自信があったのだ。その自信と作品のすばらしさはダニーへの償いの気持ちの表れであり、一等賞の木彫りをダニーにプレゼントするという目的があったからこそなのだ。だからこそアンネットが「自分の木彫りを壊した上で一等賞になった」のが許せないのであって、ルシエンはダニーに対する償いそのものをアンネットに否定されたと取らざるを得ない。あの事故の苦悩以来、ルシエンはそのためだけに生きてきたのだからルシエンは自分を完全否定されたと考えたはずだ。
 今回は名場面が多すぎる、印象に残る場面が多くてこの回は「わたしのアンネット」を象徴する回かも知れないと思う。ルシエンの怒りのシーンを始め、最後のアンネットが賞品の本を投げつけるシーンなども含め、名場面を選ぶのに苦労した。
研究 ・展覧会
 ルシエンの展覧会用の木彫りがアンネットによって壊され、そのアンネットが展覧会で一等賞を取るという修羅場を迎える今回の話は「わたしのアンネット」で最も辛い展開でもあろう、それだけではなくここからアンネットとルシエンの苦悩の日々がまた始まるのである。アニメでは序盤に木彫りが破壊されたことを知ったルシエンの怒りと絶望がこれでもかというほど描かれ、後半は展覧会でアンネットが一等賞を取ってその後まで描かれている。
 原作でも同じような展開だ。ただし原作では木彫りの馬を壊されたルシエンは森を歩き、アニメでは次話の展開となる「誰も知らないところではじめからやり直すことができたら…」とルシエンが考えながら峠を見上げるエピソードとなる。そのままルシエンはペギンの家へ行き、アニメの21話の展開に入るわけだ。
 展覧会の当日、ダニーがアンネットのセーターが一等賞を取ると言い張るのに対してアンネットはそれはないと言い返すのはアニメも原作も同じだが、原作アンネットはそれを不機嫌に言い返し、展覧会の日だというのに暗い顔をしているのだ。展覧会では審査官がアンネットのセーターを見始めると、ダニーが純粋無垢攻撃で審査官の心を惑わし、それによってアンネットの一等賞が決まるのもアニメが原作を踏襲している。原作の場合、展覧会終了後にアニメでは22話となるルシエンがノアの方舟で遊ぶダニーを目撃する話となる。その時のダニーの反応は「あっち行け、いやなやつ」「君と話してはいけないって言われてる」という冷たいものだった。しかしこの時にアンネットはダニーに嘘を言ってしまい、展覧会でルシエンが作った馬を壊して自分が一等賞になっという罪の意識もあってアンネットの苦悩が始まるというつくりになっている。
 さて、原作とアニメの設定上での大きな違いはルシエンである。アニメのルシエンは木彫りの馬を破壊したのはアンネットだと気付いているが、原作ルシエンはアンネットが壊したとは少しも思ってない。ネコの仕業だと信じているのだ。したがって原作ではルシエンがダニー転落以外に苦悩する事はなく、ここから和解までの展開はアンネットの苦悩が中心になっていくのだ。

第30話「後悔の涙」
名台詞 「誰も僕を知らないところ、誰も僕のしたことを知らないところ、誰もアンネットを知らないところ、誰もアンネットのしたことを知らないところ、誰も僕とアンネットを知らないところへ行って、何もかもはじめからやり直すことが出来たらなぁ。もしどこかに他のところへ行って住むことが出来たら、どんなにいいだろう。あの山の峠の向こうに姉さんのいるモントルーがあるんだな…そうだ、モントルーに行ってみようかな。ハハッ…ダメだ、姉さんに見つかって連れ戻されるに決まってる。」
(ルシエン)
名台詞度
★★★
 学校をサボったルシエンは、橋の上から山を見つめてこう独り言を語る。その内容はルシエンが絶望のどん底にいることを告げるものだった、誰も自分を知らないところへ行って最初からやり直したい…つまり自分の行為、それにアンネットの行為についてリセットボタンを押したい、ルシエンはそんな気持ちのはずだ。
 ルシエンは自分の苦しみを誰にも語れずにいた、他の誰もが気付いていない木彫り破壊の犯人がアンネットであるという真実を知らせないことには、自分の苦悩を誰にも語ることは出来ないのだ。これは今回の最後にアメリア先生が解説することになるが、もし木彫り破壊の犯人をアンネットであると他の誰かが知り、皆の耳に入った瞬間にもう二度とアンネットとの仲が取り戻せなくなると感じているのだ。つまりルシエンが今回の最後に語る、自分が苦しんでいるのは木彫りの馬が壊れたからではなく、壊したのがアンネットだという事はこの辺りのことなのだ。話は逸れたが、この誰にも自分の苦悩を打ち明けられない心境を、ルシエンはこの台詞で視聴者に訴えるのだ。
 ちなみにこの台詞は原作のルシエンも言っている。原作ではちょっと台詞の意味合いが違い、ダニーに怪我をさせなくともその根暗な性格(原作のみ有効)ゆえにみんなに嫌われてばかりのルシエンが、みんなを見返そうと作った木彫りが壊された後の台詞である。つまり誰も自分の知らないところへ逃げれば自分は誰にも嫌われなくて済む、という意味合いの台詞であったのだ。
(次点)「あの子は何もかもうまくいかない、あの子は何をやってもダメなんだろうか? それじゃあの子が可哀想だよ。」(モレル)
…鈍いとはいえ、母親としてルシエンの幸せを考えるのは当然だ。だが母親でなくても、ダニー転落以来のルシエンを見ていると同じ風に感じることだろう。。
名場面 アンネットが見た夢 名場面度
★★
 霧が立ちこめる道を一人歩くアンネットから今回の物語は始まる。その霧の道を歩いてアンネットがたどり着いたのは、ルシエンの家だった。「ルシエーン、ルシエンいる〜?」と明るく駆け出すアンネットは、ルシエンの家のベランダによく見えない人影を見つけるのだ。「誰? ルシエンなの? 誰? モレルおばさん?」と人影に声を掛けるアンネット、その人影が振り向くと自分が破壊したはずの木彫りの馬が…そして振り返った人はアンネットそのものだった。
 見つめ合う二人のアンネット、「誰? 誰、あなたは?」「私? 私はあなたよ!」ともう一人のアンネット(わかりにくいので黒アンネットと呼ぼう…最初のアンネットは白アンネット)は木彫りを持ち上げながら不気味に笑う。「嘘よ!」と首を横に振る白アンネット、黒アンネットは高らかに笑いながら「嘘じゃないわ、私はあなた、アンネットよ」と言う。そして振り返ったかと思うと、持っていた木彫りの馬を思い切り投げつけるのだ。ここでアンネットが「うそよ〜!」と叫んで目を覚ます。
 ここにはアンネットの心の中に済む見にくい心が如実に再現され、またアンネットがそんな自分に苦しんでいる事を上手く描いたと思う。そして物語がアンネットの苦悩という段階に進んでいることを示し、ここからはルシエンの苦悩と並行して物語が展開して行くことを示唆するシーンだ。
 その黒アンネットの表情がこれまた良い、ここまでのアンネットで一番怖い顔をしていた木彫り破壊シーンのさらに上を行くおそろしい顔だ。ジョオの傑作を暖炉に放り込むエイミーをも越えているが、このシーンの場合はあくまでもアンネットの夢が生み出した妄想の黒アンネットなので、エイミーと比較すべきものではないかも知れない。いずれにしてもこの怖い顔は「わたしのアンネット」最強のトラウマシーンで、夢の中のシーンとしては「南の虹のルーシー」ののっぺらぼうケイトに匹敵するものがあるだろう。
 概要にも書いたが、小説版ではプロローグにこの夢のシーンが来る。この夢のシーンを起点とした回想としてここまでの物語が描かれているのだ。
  
今回の
アンネット
VS
ジャン
 
「おい、ルシエンのヤツきっと寝坊したんだぜ」「ああ、また遅刻でございますねぇ」「それでまた教壇の横に立たされるんだ」「そうでございますぅ」「ハハハハハ」(アントンは声優が同じベッキーモードに勝手に変換)と勝手に語り合うジャンとアントンに、アンネットが横やりを入れる。「よしなさいよあんたたち」「なんだよ、アンネットには関係ないだろ?」「あるわよ、授業中におしゃべりされたんじゃ迷惑だわ」「へ〜、展覧会で一等賞をもらったら、急に優等生みたいな口をきくんだな」「とにかくおしゃべりはやめてちょうだい、それにルシエンが遅刻するのには訳があるんだわ」「へぇ〜っ、どんな訳だよ?」「それは…私もよく知らないわ」「ふん、お節介焼き!」「なによ? それどういうこと?」「余計な口出しはするなってことさ」「ジャン、アンネット、何をしている? 静かにしなさい」とここでニコラス先生のジャッジが入る。「は〜い」。「アンネット、どうしたの? いつものあなたらしくないわよ」マリアンが会話に加わってきた、「何でもないのよ、マリアン。心配掛けてごめんね」「おい、授業中におしゃべりされちゃ迷惑だぜ」とジャンがさっきのアンネットの言葉で返す。アンネットの返事は「べぇ〜っ」、負けじとジャンも「べぇ〜っ」…この「べぇ〜っ」のやり合いが先生に見つかり、二人は立たされることになりましたとさ。
感想  今回はアンネットの悪夢から始まり、それが強く印象に残る回だが実はルシエンの苦悩が中心に描かれている。やはり鈍い母親はルシエンの苦悩が木彫りが壊れたとか展覧会に出展できなかった程度の浅いものではないことに気付かない。それでルシエンの苦しみが大きくなって行くのだ。そして知らない土地に行ってやり直したいとまで考えるようになる。ルシエンの苦悩の根は深く、師であるペギンのところにも行ける心情でなくなってしまったのだ。
 一方のアンネットの苦悩は、今回は授業中のヤキモチから始まり(今回のアンネットVSジャン欄)、そしてフランツやジャンがルシエンに対しての友情を見せるシーンとの対比で描かれることになった。その中でアンネットは自分がやってしまった事の重大さに気付かされ、罪悪感に悩まされるという展開だ。しかしこの段階ではアンネットの苦悩はまだそれほどではなく、次話でルシエンの本当の気持ちを知ってからがアンネットの苦悩が一番大きくなるところだ。
 帰宅後のルシエンも良かった。「違うんだ母さん、僕は木彫りが壊れたことなんか、もうなんとも思っちゃいないんだ。僕が、僕がこれほど辛いのは、木彫りを壊したのがアンネットだってことなんだ」と泣くシーンにルシエンの苦悩の全てが表現されていると思う。ルシエンが学校へ行きたくないのは、アンネットに会いたくないからなんだとここでハッキリするのだ。
研究 ・ 
 

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