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第11話 「クリスマスの贈り物」
名台詞 「天の神様、サンタクロースのおじさんとトナカイが来てくれますように。そして僕の赤いスリッパを見つけてくれますように。」
(ダニー)
名台詞度
★★★★
 どうしてもサンタクロースのプレゼントが欲しいダニーは、夜中にこっそりとベッドから抜け出して勝手口の外に自分の赤いスリッパを置く。こうすればサンタが来るに違いない、そして自分へのプレゼントを置いていってくれるに違いない、5歳の男の子は純粋にそう感じたのだ。
 そしてサンタが来るためには良い子でなければならないとも聞いた、だからダニーは神の存在を信じることにしてこう祈るのである。神に祈れば、神は自分のことを良い子だと思ってくれるに違いない。ダニーのそんな純粋で単純な年相応の思考がハッキリとにじみ出ている台詞である。
 研究欄に詳細を書くが、この事件はダニーが幼いながらも神を信じるきっかけにもなる。この段階ではまだダニーは心から神を信じているわけではないが、信じる心こそが何よりも強いと言うことを無意識のうちに実行しているシーンでもある。この先の物語の根幹を成して行くアンネットとルシエンの諍い、その果てに二人がその存在を信じることになる神の存在というものを、幼いダニーは純粋かつ単純な動機で体現して姉たちよりも先に信じることになるシーンであり、実は物語展開上かなり重要なシーンである。
名場面 クラウスの初登場 名場面度
★★★
 クリスマスの翌朝、目を覚ましたダニーは階段を下り、誰にも見つからないように居間を通り過ぎ、台所を駆け抜けて、勝手口のドアを開く。そこには夜中に置いたスリッパが雪に埋もれているだけだった。やっぱりサンタさんはプレゼントを持ってきてくれなかったのか…と一瞬落ち込むダニーであったが、スリッパを持ち上げてみると雪とは違う「重み」があることに気付く。雪をのけてスリッパの中を見てみると…中で1匹のオコジョの子供が丸まっていたのである。これを見てダニーは歓声を上げ、飛び跳ねて大喜びする。
 「みんな見てよ〜、サンタクロースのおじさんが僕に贈り物をくれたんだ。みんな見てよ〜!」と大声ではしゃぎながら居間へ掛けて来るダニーを見て、最初は不思議そうな顔をする。ダニーにオコジョを見せられると、一家全員で喜ぶ。「こんな素敵な贈り物を持ってきてくれるなんて思っていなかった」とはしゃぐダニー、余程嬉しい贈り物だったことがよく分かる。
 こうして物語に後にアンネットとルシエンに試練を与えるクラウスが登場するわけだが、この段階ではそんな神の使者であることは微塵も感じさせない愛らしい姿と、ダニーが純粋にはしゃぐ明るいシーンとして描かれている。見ている方からするとダニーの喜び様は少し大げさではないかと感じるほどだ。
 こうして物語は「本題」に入って行くのである。
  
今回の
ピエール
VS
ダニー
 
 「ねえ父さん、これうちで飼っても良いでしょ? 僕世話をするから」「うん? う? うん…」「ねえ、父さん…」…5歳の息子、ダニーの「つぶらな瞳攻撃」にさすがのいつも冷静な父親を演じるピエールもタジタジだ。「ああいいよ、ダニー」、こうしてクラウスはこの家のペットとして変われることになった。
感想  やっとオープニングやエンディングで出てくるあの動物が出てきたか、と本放送時は感じたものだ。でも考えてみれば「ふしぎな島のフローネ」のメルクルも10話前後で初登場だった記憶があるし、「南の虹のルーシー」のリトルにいたっては出てきたときにも物語も中盤に差し掛かっていた。しかし、後になって分かることだがこのクラウスはそれまでの単なるペットではなく、今後のアンネットとルシエンの喧嘩が酷くなる理由を作ったり、ダニー転落事故の最初の原因となったり、アンネットとルシエンの仲直りのきっかけとなる家出をしたりと、物語に直接絡んでくる異色のペットなのだ。動物は違えど原作にも出ているペットだという点も異色だ。いてもいなくても同じだったどっかのボナパルトやジャンプとは違う立場なのだ。
 この可愛いオコジョが、まさかアンネットとルシエンに試練を運んでくるなんて、原作を知らない人は知る由もないだろう。私も当時はそうだったし。
 その登場の仕方も印象に残るものだ。クリスマスにサンタからプレゼントをもらおうと、ダニーが勝手口に出しておいたスリッパの中にいたという展開は、それまでの「世界名作劇場」シリーズのペットの中でも最も印象に残る初登場だろう。またこれが原作通りと知ってまた驚くのだ、どんな物語でもこんな強烈に印象に残るペットの初登場は見たことがない。この登場には意味があるのは後述しよう。
研究 ・クラウス登場
 物語が11話を数えたところで再び原作に合流し、ここでダニーが5歳のクリスマスにペットとなるオコジョのクラウスが登場する。原作ではこのクラウス登場からアンネット12歳時の話となり、物語が本題へと突入して行くのだ。アニメでも「本題」に入るのはここからで、まずこの劇的なクラウス登場自体に意味を持たせている。
 名台詞欄でも少し書いたが、このクラウスの登場はダニーにとって非常に意味のあるイベントで、かつ本題にも影響する部分なのだ。サンタからプレゼントを貰いたいというダニーに、貧乏な家にはサンタは来ないとアンネットが諭すシーンは原作もアニメも台詞まで含めて全く同じ。ダニーが夜中にこっそりとベッドを抜け出し、勝手口にスリッパを置くのも同じ、ただ違うのは名台詞欄に記したダニーが祈るシーンはアニメでは勝手口の戸を開けた状態でしていたが、原作では寝室に戻ってからベッドの上でお祈りをしている。
 翌朝のシーンでは、アニメのダニーは家族に見つからないように気を使って勝手口まで走っていったが、原作ダニーは父に「サンタクロースは来た?」とわざわざ聞いている。原作ピエールは「サンタクロースがこんな山奥に来るわけがない」と素っ気なく返事するが、その一方で頭の中では「こんな事なら棒チョコを勝手口に置いておけば良かった」と後悔する。そしてピエールが勝手口の扉を開くと、ダニーはそこへ置いておいたスリッパのところまで走り、スリッパの中に白い子猫が入っているのを見つける。それからピエールとダニーは無言で子猫の世話をして時を過ごし、「クラウス」という名前も原作ではこの時にピエールが付けたものだ。「クリスマスの聖徒」から名を取ったのという理由は同じ。
 私の解釈ではこれはダニーが神を心から信じるきっかけになったと考える。アニメも原作もダニーが神に祈りを捧げるシーンがあり、そこでダニーなりの神に対するこだわりや信念がある描写があるのだが、これは神を心から信じていないと出来ない行為だ。アンネットやルシエンが神を信じるようになったきっかけは物語が進むと詳細に描かれるがダニーについては描かれていない。つまりわざわざそう明記していないだけで、この事件がダニーが神を信じるきっかけになったと思えるのだ。サンタからのプレゼントが欲しいと心の底から祈り、翌朝にそれが実現していたことでダニーは「神は存在する」と信じるに至ったのだろう。
 特にアニメのダニーは、心の中に神が宿っていないと言えないような台詞を何度か吐くことになる。詳細についてはその都度考察するが、その点についてもここでダニーが神を心から信じ、自然と心に神を住まわせてしまったために言った台詞なのではないかと私は考える。
 ちなみに、原作ではクラウスはオコジョでなく猫である。アニメ化においてオコジョに書き換えられたのは恐らくアルプス特有の動物を出したかったからであろうと推測する。確かに「アルプスでの物語」をウリにしているこの作品で、最も登場頻度の高いペットが白猫ではインパクトに欠けるだろうからなぁ。

第12話 「白い森のできごと」
名台詞 「こいつは酷いや、こんな事って…こんな事って…酷すぎる! 覚えてろ、こんな酷いことしやがって、僕は怒ったぞ、本当に怒ったぞ。」
(ルシエン)
名台詞度
★★★
 ダニーがクラウスを探しに森へ来た。アンネットとルシエンは一緒にクラウスを探すが、その時に聞こえたのは銃声だった。さっきのハンターがひょっとしたらクラウスを…と思ったところでクラウスは無事に見つかるのだが、3人はハンターが山鳩を射殺するのを目撃してしまう。しかもハンターはそれを持ち帰って食料などにするのでなく、亡骸をそのまま放っておくのだ。
 アンネットが動かなくなった山鳩を心配するのを見て、ルシエンが山鳩に近付く。山鳩は既に絶命しており、ルシエンは山鳩の亡骸を抱き上げると泣きながらこの台詞を吐いて、ソリに乗って行ってしまう。
 ルシエンのマジギレである。森と共に育ってきたルシエンにとって、ただ動物たちを殺すのが目的で森へやって来たハンターが許せなかったのだろう。「今回のアンネットVSルシエン」欄でああいうことを言ってはいるが、あれは本当に本気で言ったことでないということがここで証明されるわけでもある。そしてマジギレしたルシエンは、ハンター達の邪魔をして森から追い出すことを画策する。
 しかし、本当にアニメのルシエンっていいヤツだなと思うシーンもここである。これだけではない、この後ルシエンは誤射される恐れがあるのに、ハンターに見つけられた鹿を身を挺して守ろうとするのである。アンネットもルシエンのこう言う部分を知っているからこそ長年友達でいられるのだろうし、今後破局的な事件が起きても仲直りしたいと考えたのだろう。
名場面 今回のラストシーン 名場面度
★★★★★
 うらやましいぞ、ルシエン。しかもただのキスシーンではない、「好きよ、ルシエン」の告白つきである。
 「また明日ね、ルシエン」「一緒に学校に行きましょうね、ルシエン」「じゃ、さようなら、ルシエン」…こう言うときのアンネットはとてつもなく可愛いし、またそれに返事にならない返事で返すルシエンがいい。「また明日〜」と地面から10センチくらい浮いたまま言っているであろうこのルシエンの最後の一言がとても良い、キスを貰った男の子を上手に再現できていると感じる。
 またこのキスシーンを目撃してしまうダニーが素敵だ。「おねえちゃん、今ルシエンにキスしたでしょ。どうして?」「ルシエンと結婚するの? ねえ、おねえちゃん」と聞くダニーもいい彩りを添えていると思う。
 いよいよ次回からアンネットとルシエンが長い長い氷河期に入るなんて信じられないシーンだ。このように幸せの絶頂から一気に二人は史上最大の大喧嘩へと落ちて行くのである。その前の最後のほのぼのシーンは、間違いなく「わたしのアンネット」有数の名場面であろう。
 
今回の
アンネット
VS
ルシエン
 
 狩りをするときの魅力を語るルシエン、「弾が当たった瞬間の手応えが、またこたえられないんだぜ」「ふ〜ん、ルシエンってそんな人間だったの?」「えっ!?」「言っておきますけどね、私は面白半分で動物を殺すような人とはお友達になりたくないわ。そんな人大ッ嫌いよ」「あ、いや、僕はそんな…動物を殺して面白がるなんて、どんでもない」「じゃ、弾が当たった瞬間がどうの、手応えがどうのっていうのはどういう訳? なんだか動物を殺したくってたまらないみたいに聞こえるわ」「それは…雑貨屋のジョルジュ爺さんの話を横で聞いてただけだよ、困るなぁ、すぐ本気にするんだから…」誤魔化すルシエンが素敵だ。そこにダニーの声が聞こえ、話をそしらに逸らして一件落着と。
感想  ある意味重要な話。都会からハンターがやって来て、ロシニエールの森でハンティングを楽しむのである(あれは狩りではない)。この物語の裏には鉄道が出来て便利になった事によるマイナス面を視聴者に考えさせられる。それを口にするのはハンターの一人マスオさんで、あの鉄道さえなければあの山鳩は…と強烈に視聴者に訴えてくるのである。
 今回のもう一つ、重要な点は前回から物語の「本題」部分に入り(というのは原作も知らずに初めて見る人には分からないのだが)、今後のアンネットとルシエンの諍いに入る直前の話だと言うこと。ここで二人の仲間の良さを強烈に印象付けなければならないのだ。むろんアンネットとルシエンの仲か良くない原作ではこのような展開は不要なのだが、二人がとても仲良しという設定に変更されたアニメでは避けて通れない課題なのだ。ここで二人の仲の良さをただ描くのでなく、視聴者の脳裏に強烈に残るようにするためには…やっぱ今回のラストシーンのあれに行くしかないわけで、そこへ至るための事件やルシエンの行動といったものがよく考えられて脚本されたとね現在になってみると感心する。本放送時もあの事件を受けてのあのラストシーンは強烈に印象に残っており、こりゃ二人のラブラブストーリーになるのかな?と思っていたら次でああいう展開に言ってしまい、本当に驚いたものだ。
 それとペギンじいさん初登場、これで「わたしのアンネット」主要登場人物が全て出そろった。これまた気難しい爺さんが出てきたなぁと感じると共に、この爺さんから物語の本筋で重要な人物になると言うオーラを当時感じた。この森の変人がどのように二人の物語に絡んでくるのかも楽しみだった記憶がある。
 この回でもう一つ印象に残ったのは、↓このペーペルだ。
研究 ・オコジョ
 今回もクラウスの事を研究しよう。今回の展開ではクラウスはあまり活躍していないが。
 オコジョはネコ目イタチ科の動物で、体調は16〜32cm、体重は150〜320kgの小さな動物である。前述したようにイタチの仲間であるが、顔つきはイタチのそれとは違い丸顔で、また後ろ脚が長くてそれによる跳躍力に優れているのが特徴である。生息域はヨーロッパ中北部、アジア北部、北米大陸で、日本にも東北地方や北海道に生息している。
 気性が荒く、主にネズミを食べるが自分より身体が大きい野ウサギや雷鳥を食べることもあるという。劇中でピエールが語っていたのはこの辺りのことを言うのだろう。群れなどは成さず単独で生活し、樹根などに営巣するが種類によってはネズミの巣を乗っ取って生活するものもあるという。だんだんアニメのクラウスのイメージが崩れた来たぞ。
 哺乳類は寒い地方へ行くほど大型化する傾向があるが、オコジョだけは寒い地方ほど小さくなる傾向がある。また劇中でも描かれているとおり、季節によって毛の色が変わるのも特徴だ。

第13話「すれ違うこころ」
名台詞 「ちょっとその鏡を見てご覧、アンネット。どうだい? ひび割れていてもちゃ〜んとお前の顔が写っているだろう? ちっとも変わったところなんかありゃしない。そりゃね、どんな仲が良い友達でも喧嘩することぐらいはあるさ。相手が嫌いになったり、どうしても許せないって思うことだってあるさ。でもその気持ちをいつまでも持ち続けることはよくないよ。お前とルシエンだってそうさ、鏡の中のお前が変わっていないように、二人の気持ちに変わりはないんだよ。そこをよ〜く考えてみることだね。肝心なのは怒ったままで一日が終わるようなことがあってはならないってことなんだよ。アンネット。」
(クロード)
名台詞度
★★★★
 「第一の事件」(「今回のアンネットVSルシエン」欄参照)を受けて、アンネットは当然のことながら手鏡をくれたおばあちゃんに事件を報告したのだろう。そしてルシエンが許せないという自分の現在の素直な気持ちを吐露したに違いない。そんなアンネットに向けてクロードは笑いながらこう言うのだ。
 そう、鏡がひび割れていようが何だろうが鏡は鏡としての機能を失ってない。だから友達同士も同じ筈だというのがこの言葉の論理である。さらに最後に付け加えた「怒ったままで一日を終えてはならない」という論理は「愛の若草物語」でメアリーがジョオに言ったのと全く同じ事である。どちらも原作にも出てくる論理だが、「雪のたから」を読んでこの全く違う二つの物語に同じ論理が描かれているのは偶然でないことを知った。というのもこれが聖書に書かれている言葉であることが「雪のたから」にはハッキリと書かれている。
 この言葉を聞いた後、アンネットはダニーを迎えに外に出る。そこで雄大なアルプスの山々を見たことも手伝ってルシエンに謝ろうと決意する。そして名場面シーンへと繋がり、また物語がひっくり返るのだ。ま、「第二の事件」を先に知っている視聴者としては、この台詞はむなしく聞こえるだけになってしまうのだが…。
(次点)「何が、どう食い違ってしまったのでしょう。クラウスの事はもちろんアンネットの誤解です。でも一度こじれてしまったアンネットの気持ちをルシエンはどうすることも出来なかったのです。二人がこんな気持ちになったのは初めてのことでした。そして、これから先長い間、あんなに仲の良かった二人はそのために苦しみ続ける事になるのです。」(ナレーター)
…今回1話の展開の結果について、アメリア先生が上手くまとめて解説してくれた。しかもそれだけではない、二人は仲直りできないまま長い間を過ごすことになるという視聴者への宣告だ。まさか二人が仲直りするのは最終回の手前辺り?と私も心配になっていた。
名場面 「絶交よ!」 名場面度
★★★★★
 名台詞欄シーンを受けてアンネットはルシエンに謝罪することを決意するが、そこへダニーが泣きながら帰って来る。そして「第二の事件」を知らされるのだ。「第二の事件」とはダニーがモレル家を訪れた際にクラウスが作るのに二週間も掛かったルシエンの木彫りを壊し、これに腹を立てたルシエンがクラウスを叩いて怪我をさせてしまったというもの。これを聞いたアンネットは先ほどの決意もすっかり何処かへ行ってしまい、ルシエンを問い詰めるべくモレル家へ走る。
 薪を運ぶルシエンに声をかけたアンネットは、すぐにルシエンの元へ掛けて「クラウスを放り投げたのは本当なの?」と問い詰める。「放り投げた訳じゃないよ、ただ僕は…」「放り投げたの? 投げないの?」「ごめん、悪かったと思っているよ」「クラウスは足の先に怪我をしたわ、ダニーはずっと泣いてるわ。卑怯よルシエン、私への腹いせにダニーをいじめるなんて」…予想外の展開にルシエンの表情が明らかに変わったのはここだ。誤解されている、僕は誤解されていると気がついたに違いない。「学校でルシエンを殴ったことは私が悪かったわ、でもこんな仕返しをするなんて…私…私…ルシエンを見損なったわ!」…アンネットのさらに辛辣な言葉が続くと、ようやくルシエンもその事情を説明しようとする。ところがもう何を言ってもアンネットには言い訳にしか聞こえない。「ルシエンとは…ルシエンとは…絶交よ!」と吐き捨てると走って帰ろうとするアンネット、ルシエンはすかさずアンネットを追いかける。話を聞いてもらって理解して貰わねばならない、ルシエンの頭の中はそれだけだ。
 追いついたルシエンはアンネットの腕を掴んで話を聞いてもらおうとする。「話を聞いてくれよ! アンネット」「聞きたくないわ!」…今回だけで二度目の平手打ちが決まる。無言のままにらみ合う二人、14秒間の沈黙の後、アンネットは走り去ってしまう。
 「違うんだよ…アンネット」と消えゆくアンネットの後ろ姿に呟くルシエン。そう、ルシエンはここで殴られたことによって何か取り返しの付かない事態に陥ってしまったと感じたに違いない。確かに悪かったのは自分かも知れないが、だからといって何も話を聞いてくれないアンネットに対して怒りや憤りを感じたのでなく、不安を感じているに違いない。この誤解は二度と解けないのではないか?という気持ちと、自分たちの仲はこれからどうなってしまうのだろう?という思いだ。そのルシエンの不安な気持ちと、そこに至る過程が上手に再現されている。特にアンネットが平手打ちを決めた後の14秒間の沈黙に、この思い全てが込められているように見える。
 この大喧嘩は原作を知らない視聴者に対し、二人がどのように仲直りするのかと期待させることになるが、このシーンの直後にあるアメリア先生のナレーションを聞いてさらに驚かされることになる。そう、二人は当分は仲直りすることのない展開に入ると次回予告の前に告げられてしまうからである。だがこの時点でも原作を知らずに見ている人は、まさか「世界名作劇場」シリーズ最大の大喧嘩へと物語が突入するとは思わないだろう。私も次回、あんな悲劇が待っているなんて思いもしなかったし…。
  
今回の
アンネット
VS
ルシエン
 
 本当にここで取り上げたい部分は「名場面」欄に記してしまったので、最初の事件の方を。勉強に身が入らないことで先生にこってりと絞られたルシエンは、皆より遅れて昼休みの校庭に出てくる。ジャンに一緒にボール遊びしようと誘われるが、とてもそんな気分になれない。そこでシーソーに腰を掛けているアンネットを発見、後ろにそっと近付いて脅かしてやろうという悪戯を思い付く。悪戯は成功、だが今日のアンネットはいつものアンネットとちょっと違った。アンネットの手にあった手鏡は落ちて無残にも割れてしまい、アンネットは怒りに燃えるのだ。「ハハハハハハハ、ハハハハハどうだい?アンネット、びっくりしただろう? フハハ、こんなに上手くいくとは思わなかったなぁ、フハハハハ…」と暢気に笑うルシエンは、アンネットが目の前に立ちふさがり平手打ちの構えを見せたところで「はぁ?」という表情をする。そして今回1回目の平手打ちが決まる。「痛いなぁ、何するんだよ?」「ルシエンなんか大ッ嫌いよ!」「おい、アンネット…一体なんだっていうんだよ! おお、痛…」。ルシエンは大した事件に感じていなかったが、これが全ての始まりだったのだ。
感想  クロードやピエールが急にアンネットのお転婆を気にするようになり、また突然女の子らしくしようと言い出したクロードに対してアンネットが素直に受け入れる(特別なことがなければ「愛の若草物語」のジョオみたいな反応をするのが当然)のはアレだ、前の日がお赤飯だったに違いない。うん、きっとそうだ…ダメだなぁ、大人になってこの話を見るとそうとしか思えなくなる(本放送時はそういう知識が入ってくる直前だった)。ところでスイスでもお赤飯なんだろうか?
 「本題」の入り口に当たる11〜12話の流れを受けて、いよいよ物語は殺伐とした「雪のたから」らしい展開へと突入して行く。前回までの物語はここへ話がいくようになるための前哨戦でしかなかったのだ。特に前話でルシエンを「カッとしたら何をやらかすか分からない性格」として描いたのは成功している。前話ではルシエンのそんな部分がプラスに作用して最後はアンネットから「好きよ」の言葉とキスを貰うきっかけともなったが、今回はそれをマイナスに作用させることでアンネットとの仲を最悪の展開に持ち込むようにしたのだ。前話にしてもあくまでも怒りの矛先がアンネットと同じだったからプラスにいっただけの話で、大人になってから初見の人は怒りの矛先が変われば当然こうなるという予測が出来た上で見られるのがこれまたいいつくりである。
 またアンネットの性格がお転婆で猪突猛進型というのもこのように話をこじれさせるために必要だった点だろう。もちろん今回のアンネットはルシエンの言い分を聞こうともせず、自分の描いたストーリーによって勝手に話を進めようとするのである。
 今回の平手打ち2発、クロードからアンネットにプレゼントされた手鏡がすぐに壊れる点、ダニーがルシエンに泣かされるなど、今までの物語の展開と違うことは本放送時も感じた。このままじゃ二人の仲はとんでもないことになるんじゃないか?という視聴者が不安に感じたところで、次から次へと話が悪い方向へ行ってしまう。まるでドミノ倒しのように話が倒れていくのである。クロードの説教を持ってしても勝てない今回の展開は、ある意味すごいと改めて感じた。
研究 ・アンネットのちこく
 クリスマスに一度原作と合流し、その後また原作から離れたアニメだが、次話のダニーの事故へ至る直前に始まるアンネットとルシエンの喧嘩についてはアニメでは大きく書き換えられた。これはもちろん、アンネットとルシエンは大の仲良しという設定に変更されたためで、アニメでは上記のようにルシエンの悪戯でアンネットの手鏡が割れてしまう「第一の事件」と、クラウスがルシエンの木彫りを壊してしまってカッとなったルシエンがクラウスを叩き付けてしまうという「第二の事件」として展開した。
 しかし原作ではこの辺りの事件は全く違うものになっている。原作ではこの段階ではまだ冬、ソリで登校中のルシエンが同じくソリで学校へ向かっていたアンネットと衝突事故を起こすところから喧嘩が始まるのだ。アンネットは衝突の弾みで雪が溜まった溝に落ちてしまい、持っていた教科書なども泥だらけにされてしまう。そこで二・三言い争いをしたあと、ルシエンはアンネットを救助せずにそのまま逃げてしまうのだ。アンネットは雪の中から出るのに苦労して遅刻し、さらに手や足は血だらけとなり、ボロボロになった教科書を持って学校にやって来たために事件が発覚する。アンネットだけでなくクラスメイトや先生までもがルシエンを責め、ルシエンはむち打ちという罰まで食らってしまう。これが原作での「第一の事件」。
 その日の午後、この事件だけでなくテストでクラス最下位となったり、朝登校前に母親に叱られたりとさんざんな一日となったルシエンは泣きながら下校していた。そこへ雪だるまを作っていたダニーと会い、「ルシエンが泣いているのは先生にむちで叩かれたからだ」といわれてしまう。ルシエンにはそれが意地悪に聞こえ、ダニーが作った雪だるまを破壊する。ダニーが大声で泣くとアンネットが現れ、ルシエンに平手打ちを見舞うという痛快な展開だ。ルシエンが殴り返そうとしたところでピエールが現れたので、ルシエンはありったけの罵詈雑言で対抗する。この事件が原作での「第二の事件」となる。
 原作の場合、重要なのは「第二の事件」でアンネットがルシエンに平手打ちを一発決めたのに対し、ルシエンは暴力的な仕返しを出来なかった点にある。これは次話の研究欄で出てくるのでよく覚えておくように。そして二人とも一度は謝ろうと気の迷いが生じる、アンネットはクロードに「怒りを持ったまま一日を終えぬように…」と教えられていたことから、ルシエンはアルプスの自然を見て心が広くなったことからそう感じるのだ。しかしどちらも結論として「相手が先に謝るべき」としてしまったため、二人は謝罪することなく春を迎えることになる。そして次の大事件へと話が展開して行くのだ。

第14話「おそろしい出来事」
名台詞 「ルシエン? ルシエンは来ないわ。あんな人呼ばないわよ、絶対に。」
(アンネット)
名台詞度
★★
 アンネットの誕生祝いにルシエンが来るのかと聞いたダニーへの返事。この回を見終えてみると、この台詞が事件のすべてのような気がする。
 今回の事件はアンネットとルシエンの仲がこじれた事から発生している。それを象徴するのがこの台詞だ、この台詞が無ければ事件当日、ダニーがルシエンにアンネットが誕生祝いにルシエンを呼ばないと語ることはなかったし、それによってルシエンが冷静さを失ってダニーを脅すような行動も取らなかったはずだ。アンネットの誕生日前日に二人は仲直りして一件落着だっただろう。
 ダニーには幼すぎてアンネットとルシエンにある確執や、姉の気持ちの変化や二人が仲違いする出来事が目まぐるしく変化していることには気付いてなくて当然だし、また気付いていたとしてもされに着いていくことは出来ないだろう。だからある意味、そんな幼児に自分の素直すぎる心の中を見せてしまったアンネットにも、あの事件の責任の一端はあると証明できる台詞である。
名場面 ダニーの転落事故 名場面度
★★★★★
 もう今回はこれ以外無いでしょ?
 「世界名作劇場」最大の衝撃シーン、まさかよい子の「世界名作劇場」で無垢な5歳児をあんな谷間に突き落とすとは…ハッキリ言って私が見た「世界名作劇場」の中で最も印象に残っているシーンといっても過言ではない。
 そしてさらに言うとここが「わたしのアンネット」という物語の出発点、この大事件が最終回まで引きずるであろう事は当時も容易に想像が出来た。いよいよここから、ルシエンが自分で蒔いた種を自分で拾う物語が始まるのである。登場人物たちはそのルシエンの行為に嫌でも巻き込まれて行くのだ。ダニーは巻き込まれた最大の被害者、本来の主人公アンネットですらここから先はルシエンの行為に巻き込まれることによってしか物語を先に進めることが出来なくなるのだ。
 本放送時は「ダニー死んだ」と思った。ああ、この物語は間違って友達の弟を殺してしまった少年の物語なんだと。結果的にはそれに近かったものもあるけど、原作知らない人がこれを見せられたらそう思うしかない。
 しかし何をやってもやること全てが悪い方向へ転がってしまい、最終的にはこんな最悪の事態にまで発展してしまったルシエンの気持ちは想像できない。この物語がどう展開するのか、これからルシエンにとってどんな地獄が待っているのか…想像しただけで次の回を見るのが少し怖くなった記憶がある。
  
今回の
ダニー
VS
ルシエン
  
 「ルシエン、明日は来ない方がいいと思うけど」「どうして?」「おねえちゃんが言ってたよ、ルシエンはお祝いに呼ばないって」「おねえちゃんって、アンネットが?」「うん」「ほんと?それ」「おねえちゃん言ってたよ、ルシエンは呼ばないって」「嘘だそんな事、クロードおばあちゃんは明日は必ず来てくれって言ってたぞ」「嘘じゃない、おねえちゃんは本当にそう言ってたよ、ルシエンは絶対に呼ばないって」「絶対? じゃあどうしておばあちゃんは僕に来てくれなんて言うんだ? どうして?」「知らないよ」「知らない? 嘘だ!」「嘘じゃない。おねえちゃんは僕に言ったよ、ルシエンは呼ばないって。嘘じゃない、嘘じゃないよ」「じゃ、それじゃ僕はどうすればいいんだ?」「僕はやめた方がいいと思うよ、だっておねえちゃん…」「うるさいな! そんな事自分で決めるよ!…くそぉっ、アンネットなんか!」「返せ、返せよ」「あーっあーっ、やめてよルシエン!」「アンネットの花輪なんか、捨てちゃえ!」「あーっ、やめて」ガブッ「あーっ、こいつ、やったな!」「あーっ、やめてよルシエン!」「こいつが僕を噛んだんだ、謝れ! 謝れダニー!」「クラウスを返して!クラウスを返して!」「謝れ! 謝らないとこいつを谷に落っことすぞ!」「あーっ、やめてよルシエン!」ガブッ「あっ!痛!」「あーっ」「あっ!」「クラウスーっ、クラウスーっ」「ダニー、やめろ!」「クラウスーっ」「危ない! ダニー!」「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」「…ダニーーーーーーーーーーーーーっ!」「ルシエ〜ン…ルシエ〜ン、ダニー、何処にいるの〜?」
感想  初回視聴時、見終わった後言葉が出なかった。まさか、こんな展開になるなんて…最後のアンネットがルシエンとダニーを捜しに来るのがまた胸に来る、何も知らずに明るく声を掛けるアンネットの声が胸に来る。事故後のルシエンの演技も凄いけど、こっちのアンネットの演技も凄いと思うんだ。よくこんな悲劇が起きているなんて知らないと装えるなぁと、声優さんが凄いんだけど。
 おかげでルシエンが丘でダニーを見つけるより前の話が全く印象に残らない。それと丘の上のシーンになるときに、何であんな暗い谷川の様子を描いたのかが後になってよく分かった。ルシエンが谷の上にクラウスをかざして脅しているシーンまでは、ダニーは落ちるわけがないと思ってみていたんだけどなぁ。
 3話で母が死んで、ここで弟が死ぬなんてアンネットも不幸なやっちゃな…と当時は真剣に思ったものだ。え? 死んでない? 原作を知らなかった当時、それが分かるのは次話以降の話だから。
←このルシエンの表情も好き。
研究 ・ダニーの転落事故
 前話を受けて話が持ち直すのか、と思いきやさらに悲惨な方向へ持って行くのが「わたしのアンネット」であり原作「雪のたから」なのである。アンネットとルシエンの諍いは収まらぬまま、遂に破局的な出来事が起きる。これがダニーが谷底へ転落する事故で、アニメではこの14話でこの事故が描かれた。原作では第5章「ルシエンのおそろしい秘密」という章で、アニメで言う次の15話の冒頭部分までが描かれている。
 事件が3月、アンネットの誕生日前日に起きるというのも原作から引き継いでいる(ちなみにダニーが用意したアンネットへの誕生日プレゼントも原作を踏襲している)。そして原作同様にダニーはアンネットに送る花を摘むために単独で山の方へ行くのだ。
 ダニーが花を摘んでいると、後ろからダニーにこっそりと近付く人影があるのに気付く。それはルシエンだった、ルシエンはこの冬アンネットに殴られたことをまだ根に持っていて、ダニーが一人で山の方へ行くのを目撃すると仕返しにダニーをいじめようと企ててこっそり着いてきたのだ。暗いやっちゃな。そしてさんざんアンネットの悪口を言ったかと思うと、ダニーが摘んだ花を奪い取る。ダニーは大泣きしながらこのことを父親にチクると宣言する。
 原作ピエールは怒ると大変怖いらしく、これを言われたルシエンは震えた。ルシエンが何とか父親にチクるのをやめさせようと考えたその時、崖の上のクラウスを見つけるのである。ルシエンが崖の方へ歩いて行くとダニーは解放されたと勘違いし、大急ぎで花を摘んで家に持って帰って姉を喜ばせようと動き出す。
 程なく崖の方からルシエンの声が聞こえた。その声に崖の方を見ると、ルシエンがクラウスを影の上に突き出している。そしてルシエンはこのことをお父さんに言わないようにと脅したのだ。ダニーがクラウスを奪い返そうと走り出すと、クラウスはルシエンの手をひっかいて…後はアニメと同じ展開だ。
 正確にはクラウスは崖下には落下しておらず、ダニー達のいたところからほんの僅か下の岩に引っかかっていたようだ。これをダニーが助けに行くためにその岩へ降りようとしたところ、足を滑らせて転落したというのが原作の描写である。原作ではルシエンが原因とはいえダニーの過失という部分が大きくなっているのが特徴だ、対してアニメではダニーには殆ど過失が無いように描かれている。いずれにしろ原因はルシエンだが。
 こうして原作もアニメもルシエンの苦悩が始まる。いよいよ当サイトでもルシエンを中心に登場人物が引っかき回される様子を本格的に考察して行くことになるだろう。物語はこのルシエンが起こした事件を、ルシエンが自分で解決する課程で、それに振り回される人々の姿を描く人間模様なんだから…。

第15話「ダニーを助けて!」
名台詞 「ルシエン、あんたダニーに何をしたの? 一体何をしたの? もし…もしダニーが死んでいたら、あんたを絶対に許さないわ! 私が生きている限り、あんたなんか絶対に許さないわよ!」
(アンネット)
名台詞度
★★★★★
 今回の視聴者の最大の関心は、前回の事故の一報を聞いたアンネットがどのような反応をするかであろう。それがこの台詞だ。「世界名作劇場」シリーズのヒロインでここまでハッキリと他者を恨む台詞を吐いたヒロインはいただろうか? 台詞の過激さから、はたまたアンネット役の藩恵子さんの気迫の演技によって「わたしのアンネット」でも有数な名台詞となったが、この台詞は物語展開上とても重要な台詞だ。
 この台詞はここから始まる「世界名作劇場」シリーズ最大の大喧嘩のアンネット側の原点である。ダニー転落の原因を作ったルシエン、弟を谷に落とされたアンネット。この事故の後に最初に会った時のアンネットとルシエンの表情そのものが、この物語の起点である。
 またこの台詞に至るシーンで、「僕が悪いんじゃない! ダニーが勝手に谷を降りたんだ!」「わざとやったんじゃない! クラウスが僕に噛み付いたんだ!」と必死に言い訳するルシエンが良い味を出している(その言葉に反応してアンネットがルシエンの胸ぐらを掴んでこの台詞となったわけだが)。これは名場面欄で紹介するルシエンの罪悪感と絶望感の結果だ。
 ちなみにこれに該当する台詞は原作にもある。原作アンネットはもっと過激で、ルシエンを許さないどころか殺してやるとまで言っている。怖い。
  
名場面 牛小屋で泣くルシエン 名場面度
★★★★★
 声優の山田栄子さん気迫の演技だ。この声優さんは「世界名作劇場」で数々の役を演じているが、その中で私が一番印象に残っているのはルシエンのこのシーンで、「赤毛のアン」の石版攻撃がそれに続く。
 モレルは牛小屋での方から奇妙な声が聞こえるのに気付く。不審な顔をしながら牛小屋に入るとそれは人のすすり泣きのようだ。声の方向に行ってみると、牛小屋の奥で息子が泣いているのを見つける。
 声をかけると驚いて飛び起きるルシエン、「かあさんほっといてよ、ぼくもう死んじゃう、おしまいだよ。ダニーが死んじゃった、ダニーが死んじゃった、おしまいだよ〜」と泣いているようだが、どうやらこの言葉は母には判別不能だったらしい(多くの視聴者にも聞き取れなかったことだろう)。「ダニーが死んじゃったんだ、僕が悪いんだ。」と必死に訴えるルシエンだが、母は何かの冗談と受け取ったらしい。「僕が人殺しだって言ってるんだよ、ほっといてよ…」これは当時の私も判別できたが、鈍い母親にはまだ分からないらしく、笑顔を作ってルシエンを捕まえに行く。母がルシエンの尻を叩くと、ルシエンは気が触れたように干し草の中を這い回り、壁にぶつかったあとついには牛小屋の下階に落ちてしまう。落ちて痛いと泣くルシエンを見て、やっと母はルシエンが何かやらかしたことに気付くのだ。まずこの母子のやり取りが何とも言えない。
 そしてこのシーンのルシエンは、前述の通り声優さんの名演技も手伝って「人を殺してしまった」という罪悪感と、アンネットのことだけではなく何もかもおしまいだと絶望感にうちひしがれるルシエンの心の内を上手く表現している。これはこれから始まる「世界名作劇場」シリーズ最大の大喧嘩の、いやこの物語のルシエン側の原点となる。罪悪感、絶望、これを嫌と言うほど味わったからこそ、ルシエンは償いの日々を選ぶことになるのだ。だがその日々が始まるのはまだ先のこと。
 
今回の
アンネット
VS
ルシエン
  
 医者が帰って行くのを木陰で待っていたルシエン。馬車に乗って医者が去って行くとルシエンはアンネットの家の正面に恐る恐る出てくる。そこへアンネットが窓から顔を出す、アンネットは窓の外にルシエンを見つけると不機嫌な顔になる。そして7秒間の沈黙を置いて先に口を開いたのはルシエンだ。「あ、あのう、アンネット。ダニーの様子はどう?」(アンネットは無言)「あの、お医者さんが来てたけど、何処か?」…ここまでルシエンが言うと、アンネットは無言のままルシエンがプレゼントしたペンダントを外し、ルシエンの方へ投げつける。そして無言で睨むアンネット…これがアンネットの答えだったのだ。ルシエンは泣きそうになりながらそのペンダントを拾い、逃げるように立ち去って行く。「世界名作劇場」シリーズ最大の大喧嘩の幕開けだ。
感想  前話で「ダニー死んだ」と思ったけど、やっぱまさかよい子の「世界名作劇場」で無垢な5歳児が死ぬわけはないと思い直して見た記憶がある。序盤のダニーが死んだと思い込み罪悪感にうちひしがれるルシエンの様子は当時も今も胸に響いてくる。ちょっと大げさとも感じたけど、原作を見るとこの演出で良いことがよく分かった。原作では事故直後のルシエンの様子は、アンネットが見たとしても十分に罰を受けたと思うほどで無ければならないらしい、つまりあの大げさな演出でもまだ足りないのだ。でもアニメではあの程度で落ち着いたような感もある。
 でもやっぱあの高さから落ちればどう考えても死んでるわけで、あのいつもは冷静なピエールですらダニーが死んでいるのを前提に行動している位だ。だからこそダニーが生きていたときの驚きは無かったが、あそこは感動させるシーンではないと思うぞ。「わたしのアンネット」は全編を通じてお涙頂戴的に無理に視聴者を泣かそうとしているシーンが多いように感じることがあるが、あのダニー発見シーンはその最初のものだ。あそこは本来ならダニーの片方の足が変な方向に折れ曲がっている様子を描いて、生きていたけど喜んで良いのか悲しむべきなのか判断に苦しむように作るべきだと思うぞ。
 今回のラスト、アンネットがルシエンから貰ったペンダントを投げつけるシーンでは「これがあの事故の答えか…」と思わされた。ここからこんな感じでこの二人はずっと諍い合うんだ、そしてルシエンは許して貰おうとあの手この手でアンネットに近付くんだ、そう言う物語になるに違いないと当時は感じた。
研究 ・ダニーが転落した崖
 ダニーの落下事故、実は以前から気になって仕方のない事がある。
 それはダニーがどれくらいの高さの崖から落ちたのか?という問題だ。実はそれを解決するために、13〜14話をじっくり見てみたのだが、これに答えをくれそうなシーンは無かった。崖や谷の描写は出てくる度に見た目の高さが変わり、画面描写から高さを判定するのは不可能と判断した。
 そこでいろいろと崖の高さを推測する方法を考えてみた結果、劇中にこの崖の高さを推測できる二つの要素を発見した。今回はそこからダニーが落下した距離を考えてみたい。
 まずひとつは14話に崖の上にいるアンネットやモレルと、崖の下にいるピエールが大声で会話するシーンがある。どうやらこの時、瞬時会話が成り立っているようなので音の速さと「瞬時会話」の定義が分かれば推測できるような気がする。まずはこれで推測しよう。
 空気中の音の速さは、1気圧15℃の場合は条件にもよるがだいたい1秒間に340メートルと考えて良いだろう。現場は春のアルプスの山の中、気圧では音速にほぼ影響はないようで、気温もそんなにかわらないのでこのままの公式を当てはめよう。次に会話でタイムラグのない「瞬時会話」の定義だが、テレビ等での海外からの生中継なんて時、会話のタイムラグが0.5秒あるともうテンポが狂うのをよく見るだろう。すると0.3秒程度で声が届いた方がいいと思う。これで計算してみるとだいたい100メートルってとこか。オフィスビルのビルの25階から落ちたって…う〜ん、ダニーが落ちるにしては随分高いような…。
 そこでもう一度画面をジロジロ見てみて考えた。そう言えば「南の虹のルーシー」18話でルーシーが木から落ちるシーンがあった。この話を見たときに「ルーシーが落ちるシーンが全部出ているから、落下時間を計れば落下距離が分かるなぁ」と考えたものだ。この考えを使えばダニーの落下距離が分かるかも知れない。早速計算だ。
 その前にルーシーが木から落ちるシーンとは違い、ダニーの落下は着地する前にダニーの姿が画面から消えてしまうという問題がある。そこでダニーの落下が始まってから、少なくとも悲鳴が聞こえている間は落下運動を続けているものと考えて「最低何メートル落下した」という計算になってしまうことを先に明記しておく。
 ルーシーもダニーも初速なしの自由落下運動で落下したと考えられるのだ、自由落下運動の加速度は9.8m/s^2、これは1秒間に秒速9.8mずつ速度を増すと言うことになる。落下秒数が分かれば落下速度はすぐ分かるし、落下速度を積分すれば落下距離が分かるのだ。
 ダニーの落下時間をストップウォッチで計ってみた。ルシエンが「危ない」と言った直後、ダニーが岩場で滑ってから悲鳴が聞こえなくなるまで約5.5秒、ここから計算してみると悲鳴が聞こえなくなった瞬間に、ダニーは時速194キロでルシエンの元から148メートルの崖下にいたことになる。ちょっとそれは…。
 そうだ、この計算には空気抵抗を考慮していない。落下中のダニーはある速度で重力と空気抵抗が釣り合ってそれ以上は加速しなかったはずなのだ。空気抵抗を考慮した落下速度と距離の計算には、落下する物体の空気抵抗係数と重量が必要だ。空気抵抗係数とは物体が移動するときに受ける物体と空気の摩擦や風圧による抵抗力を数値に示した物と考えていただけばよい。
 スカイダイビングする人間の空気抵抗係数が0.24と言われているので、この数値をダニーの空気抵抗係数としてそのまま当てはめて計算し直そう。さらに落下物体の重量が必要なので、ダニーの体重を現在の5歳男児の平均体重である18.3kgとしてみた。するとダニーは悲鳴が聞こえなくなった時には、時速94キロで崖から99メートル下にいたことになる。もし悲鳴が聞こえなくなった時=着地して骨折した瞬間であるならば、ダニーは約100メートル落ちたことになる…ってやっぱ無理があるなぁ、せいぜい30メートルくらいならば、日本でも3歳児が落下して骨折だけで済んだ実例があるんだけどなぁ…。
 おまけにに同じ計算をルーシーが木から落ちるシーンでも計算してみた。落下時間は約2.5秒、ルーシーの体重は7歳女児の平均体重23.3kgとした。するとルーシーの着地時の速度は時速73キロ、落下距離は28メートル…10階建てのマンションの最上階から落ちたのと同じ、やっぱおしりが痛いだけで済んでないな。次行こう! 次。

第16話「病院」
名台詞 「でもルシエン、これだけは覚悟しなきゃいけないよ。これからしばらくの間、お前はみんなから悪く言われたり、辛く当たられるかも知れないけれど、お前はそれに耐えなくてはいけない。それがお前の償いなんだから。さ、もう2階へ行っておやすみ。色んな事は忘れてぐっすり眠るんだよ。」
(モレル)
名台詞度
★★★
 これまで事件のショックかせ大きかったルシエンの母、モレルはこの日の夜にやっと息子が取るべき道を語る。それはまずアンネットに謝ること、そしてみんなに分かってもらうことだ。その上でルシエンに待っている茨の道を語るのがこの台詞だ。
 ルシエンがしてしまった事はどんな形で話が広まるか分からない。「事実」というものは常に話が面白くなるようにショッキングな部分だけが膨らまされて伝わるものなのだ。この母はそれをよく知っていたのだろう、ルシエンが直接ダニーを谷に落としたわけでなくても、人々の口には「ルシエンがダニーを谷に突き落とした」と広まるはずだと。そうなったときにルシエンは犯罪者のように言われるのは確実だが、母にもそれを防ぐ手立てはない。だからルシエンにそうなってしまうであろう事を先に告げるしか手はなかったのだ。
 その上で今日はぐっすり眠るように言うが、ルシエンの精神状況ではとても眠るどころで無いことも分かっていたに違いない。だからこそ早く床へ入れる、一人にさせた方が解決は早いと考えたのかも知れない。
 これらのことがどれだけルシエンに伝わったかは分からない。だがハッキリしているのは、これらの言葉はこの段階ではルシエンの胸には響かなかったことだ。ルシエンの心に響くようになるために必要なこと、残念ながらこれが欠けていたのだ。
 しかし、ここからしばらくのモレルってなんかひたすら謝っているシーンだけが印象に残っている。誤る回数/放送回数という指数を作れば、「クレヨンしんちゃん」の野原みさえに匹敵するんじゃないかと思う。
名場面 病院 名場面度
★★
 ダニーの診察が終わり、ピエールとアンネットが病室に通される。ダニーは眠っていたようだが目を覚まし、とても痛かったことと、医師のラルフ・クルー先生(笑)も看護婦も親切でなかった事を理由に早く帰ろうと訴える。このダニーの我が儘をすんなり受け入れてしまう父と姉、父は医師にダニーを家で養生してもようかと訴え、良いと言われると診察結果やギプスをいつ外して良いかも聞かずに立ち去ってしまう。
 単なる病院のシーンではない物語の重要な伏線だ。このシーンだけでなく、馬車での往復シーンなどこの回ではダニーを甘やかす父と姉、それに大おばの姿が描かれている。実は「雪のたから」という原作にどうしても必要な伏線はこの家族にさんざん甘やかされているダニーの姿なのである。ダニーが我が儘を言えば一家揃ってそれを叶えてやろうとする、しかも足を怪我してからはそれがエスカレートしてゆき、ダニーは他に見られないような我が儘な子供となって行くのである。そして純粋無垢な天使スマイルで人を操る術を心得ている上、さらに足の怪我という我が儘を通すに当たっての究極兵器まで持ち合わせている。こうしてダニーの我が儘に磨きがかかるのは物語展開上どうしても必要なのだ。
 ただし、クリスマスにクラウスと出会った一件でダニーは神を信じ、心の中に神がいるようになっていたので特にアニメの方ではその我が儘を補うだけの性格も持ち合わせることになる。我が儘でも決して短気や泣き虫ではなく、優しい性格で描かれていることが最大の理由だ。
 だが先にこれだけはバラしてしまうが、この伏線は「利用」はされているがアニメでは「回収」に失敗してしまっているような気がする。いや、アニメでもその回収はしているのだがそうだとハッキリ分かる形で演出しなかったのが痛い。それはその時に考察するが、「わたしのアンネット」最終局面のローザンヌ編が不要論が出るほど人気がないのはその辺りに理由があると私は考える。
 
今回の
アンネット
VS
ルシエン
 
 「バルニエルさんに謝りに行こう」とマリーに連れ出されたルシエン、二人はバルニエル家へ向かう途中で病院帰りのアンネット達が乗った馬車に出会う。「バルニエルさ〜ん」「ああ、マリー」「ルシエン、何してるの? 早く来なさい」…ルシエンが馬車に近付くとアンネットはそっぽを向く。「バルニエルさん、このたびはルシエンがとんでもないことをしてしまったそうで本当に申し訳ありませんでした」「いやぁ、もうその話は無しにしよう。過ぎたことだから」「ごめんなさいね、アンネット」…アンネットは無言のまま9秒間も沈黙の時間が流れる。「それで病院はどうだったんですか?」「入院しろって言われたんだが、うちで養生しても同じだろうと思ってね、それで連れて帰ってきたんだよ」「そうですか…」…二人の会話にアンネットが口を挟む。「父さん、話はそれくらいにして早く行きましょう。クロードお婆ちゃんが待っているわ」「うん、それじゃ」…アンネットとルシエンの無言の対決。アンネットの無言攻撃にルシエンは為す術無し。
感想  ルシエンの苦しみ始まる。まだ人々に虐げられる具体的描写はないものの、村の人が勝手に話を膨らまして広げるなどあんまりだ。あれじゃルシエンの学校に行きたくなくなる気持ちはよく分かるぞ、それを理解しないから私はモレルのことを「鈍い母親」と評するのだ。姉は姉で実際にアンネットの様子を見てやっとルシエンの気持ちが分かったというところなのだろう。とにかくルシエンが家族にすら理解してもらえないという展開は、ルシエンに家族以外の支えが出来る伏線でもあると当時は感じていた。でも森の爺さんの存在はすっかり忘れていたからなぁ。
 それと今回のダニーの我が儘と、ピエールやアンネットの甘やかしを見て「そりゃないよ、これじゃ治るものも治らなくなるぞ」と本放送時から画面にツッコミを入れていた。まぁ物語を見て行くとこのダニーの我が儘は物語を進めて行く上での重要な伏線であることは分かるのだけど。それはまだ先の話。
 しかしルシエンの苦しみが描写され始めたところで、何となく展開が読めてきたのもこの回。とにかくルシエンは木彫りという趣味に走りながら償いの日々を過ごすことになるのだろうと感じ取れるし、ダニーの事故をきっかけとした物語の回り出したことも感じさせてくれる話だ。
 ところでアンネットの誕生日はどうなったんだ? 「世界名作劇場」ヒロインの誕生日は盛大にやるのが基本なのに…誕生日パーティの話が出てきておきながら、その話がうやむやにされて無かったことにされてしまったのはアンネットだけじゃないか(元々話が出てこなかったのは別にして)?
研究 ・苦悩の始まり
 この回ではルシエンの苦悩の始まりと、ダニーが甘やかされるという二つの点がキーポイントである。どちらも物語を進める上で重要な要素で、前者は物語の前面に出てくるし、後者は物語の設定条件となって事あるごとに物語を回すために使われる。私から見れば今回のアンネットは「ルシエンを許さない」という態度を貫いていればそれでよく、それよりも大事なのはこの二人が物語を回すために動いてくれることの方なのだ。
 ダニーの我が儘については名場面で語ったのでこれ以上言うことは無いだろう。ここで書くとすれば原作との相違で、原作ではさらにエスカレートしていてピエールはダニーの喜ぶお話を何度でもしてやり、アンネットはダニーが欲しいという度に棒チョコを食べさせ、クロードはダニーが欲しがる度にジャムを舐めさせるという徹底ぶりだ。さらにダニーはクラウスを谷に落としたとしてルシエンは意地悪だと非難し、ピエールはそれを咎めるのでなく「いつか罰を食らう」とダニーに話を合わせるのだ。おそろしい一家だ。
 一方ルシエンだが、原作とアニメでは苦悩への入り口がかなり違う。アニメではアンネットにプレゼントのペンダントを投げつけられたことでアンネットの気持ちを知り苦悩が始まるが、原作では崖上でのダニー救出劇の間にすっかりその存在が忘れられ、ダニーを救助すると日が暮れてもルシエンがそこに忘れ去られたまま放置されたところでルシエンの苦悩が始まる。このような事件を起こした自分の存在などみんな忘れてしまったのだと感じるのだ。
 そしてアニメ同様にルシエンはダニー落下の夢にうなされる。しかも夢に出てくる谷には底が無く、ダニーはいつまでも落ちて行くというとんでもない夢だ。こんな時に家族の誰もルシエンに声をかけようともしないのだ。原作によるとモレルは「そのようなことが分からない人」だし、マリーは弟が嫌いだったという設定になっている。ルシエンは家族にも見放されて本当に孤独になってしまうのだ。特に原作のマリーはダニーのために病院と連絡を取るなど手伝いをし、ダニーが何で怪我をしたか理由を聞くと、バルニエル家に謝罪もせず「ルシエンを懲らしめてやらなきゃ」と言い出すのである。アニメのマリーとは大違いだ。原作ではルシエンの性格が悪いのは姉が弟を愛さなかったからと明記されている、姉が弟を愛すればルシエンはもっと気立ての良い性格になったはずだと、それでルシエンは人を愛さない性格になってしまったと原作マリーは批判される。
 この通り、アニメと原作でルシエンの苦悩の次元が少し違う。家族が何とかしようと考えているか、そうでなくて完全な孤独になったかという絶対に埋められない相違があるのだ。しかしアニメでは母親を鈍い性格に描き、マリーを手稼ぎに出させたところで似たような状況を作り出し、原作同様にルシエンが家の外へ行くように仕向けることに成功した。その設定変更に従ってルシエンの性格もかなり違っている。そしてそのアニメでの変更が物語の展開を原作より自然に回るようにしているのだ。

第17話「森の老人」
名台詞 「誰も本当のこと知らないんだ。ダニーのことだって、僕のことだって、誰も何にも知らないんだ! ほっといてくれ!」
(ルシエン)
名台詞度
★★★
 ダニー転落事故のことを聞き出そうとするジャン、彼の耳にも転落事故のことはアンネットが語るバージョンで入っていた。その内容を聞かされたルシエンは必死の言い訳をする。すると他のクラスメイト達もルシエンの周りに集まって、今話題の事故について真相を聞き出そうとする。
 「だもダニーだけでも止められたらな」というジャンに「止めようとした」と必死に語るルシエン、「止められないよ、凄い谷底なんだよ、知りもしないくせにごちゃごちゃ言うな」と返事になっていない返答をしてしまう。ここからルシエンとジャンが言い争いになる、「俺だってお前のこと心配してやってるんだぞ」と凄むジャンに「そう思うなら黙っててくれ」と口答え。喧嘩になり掛かったところでフランツに止められ、ルシエンはこの台詞を吐いてその場を立ち去る。
 勝手な噂話が先行する現況に対し、ルシエンが本音を吐き捨てるシーンである。みんなは勝手なことを言うけど、誰もその場のことを見たわけでも知っているわけでもない、そして誰も真実を語っていない。真実を知っているのはルシエンとダニーだけなのだ。事実でもありルシエンの心の叫びであるこの台詞は、やはり真実を知っていてルシエンの悲惨な状況に心を痛める視聴者に強く訴えるものがあるだろう。
 またこの台詞が出てくる前には、当のダニーがルシエンを恨んでいない描写もされる。視聴者は既にこのままルシエンにとって分が悪い噂話が広がるのは良くないと感じ始める頃にルシエンが本音を吐き捨てるのだ。こうしてルシエンの気持ちに感情移入しやすくなり、本放送時の私などはこの辺りから完全にルシエンを応援するモードに突入していた。
名場面 ペギンとルシエンの出会い 名場面度
★★
 学校が終わった後、森へ逃げ込んで一人になるルシエン。勝手な噂話を広め、自分の謝罪すらも拒絶するアンネットに対して一人で怒りをぶつけた後、むなしくなったのか今度は大好きな木彫りに逃避する。昼間の出来事を全て忘れるがために一心不乱に木彫りに励むルシエンに、見守る人影があった。
 一区切り仕上がったところで、座っていた切り株に木彫りを置いて出来具合を確認するルシエンのそばにそっと立ったその人影は、「森のひげ爺」ことペギンであった。「お前は昨日もここで木彫りをしていたな、いつも一人で遊んでいるのか? 友達はいないのか?」とルシエンに声を掛けながら、ルシエンの木彫りを手にすると「よ〜くできとる」と感心する。この木彫りをルシエンが一人で作ったと知ると、ペギンは感動して思わずちょっと足りないところに刃を入れてしまう。するとみるみるうちにただでさえ完成度の高かった木彫りは、完璧なものに仕上がるのだ。
 「すげぇや」と感心するルシエン、それに対してペギンは勝手に手出ししたことを謝罪するが、ルシエンはとても満足そうだ。その満足そうなルシエンを確認すると、ペギンはその木彫りが出来たら家に見せに来いと言うのだ。「はいっ、必ず行きます」…久々にルシエンの元気な返事を聞いたぞ。
 ここのシーンでは、相手が誰であれルシエンの存在を認めルシエンの良いところを認めてくれる人物が、あの事故以来初めて現れたのだ。母も姉も教師も結局はルシエンを責めているだけで、存在を認めて良いところを引き出そうとしない。つまりルシエンは孤独だったのだ、その孤独から救ってくれる人が出てきただけでもルシエンはありがたかっただろう。その上、その人はあの事故のことを知らないに違いない。ルシエンがペギンに心を開く理由は後者の方が大きいかも知れないが。
 こうして久々にルシエンの笑顔を見せることによって、本放送時の私のようにルシエンに同情しルシエンに引き込まれた視聴者にとって、このペギンとの出会いは非常に印象に残るものとなった。ルシエンにも味方はいる、ルシエンの孤独を延々と見せられる訳じゃないのだと。しかしルシエンのこの状況で、ルシエンに味方が現れる辺りはやはりルシエンが主役なのでは?と当時は感じたものだ。
 
今回の
アンネット
VS
ルシエン
 
 「アンネットに謝ろう」と決意したルシエンは、昼休みに女子が集まって遊んでいるところに近付く。ルシエンの接近に気付いた女子達、アンネットは「ふんっ!」とそっぽを向いてしまう。それを見たルシエンの足は前に進まなくなり、女子が固まっているところを目前にして足踏みしてしまう。「ねえみんな、何処か別のところでお話ししない? 私ここにいるのやだわ。」とアンネットが高らかに言うと、「そうよ、何処か静かなところがいいわね」「誰にも邪魔されないところ」「さ、行きましょ行きましょ」「ダニーみたいに大怪我させられたら大変だわ」…女子児童達の性格の悪いこと悪いこと。いずれにせよ1対5じゃルシエンの分が悪い、ルシエン可哀想…とマジで思った。
感想  ルシエンテラカワイソス…本放送当時の最大の感想である。特に女の子達のあの態度は無いと思うぞ。正直言ってこの物語、ルシエンには感情移入できる、もうとにかくルシエンが可哀想で可哀想でたまらない。じゃアンネットの役は何なのだ? アンネットはどう見ても悪役だぞ、ルシエンに対してだけでない、あの内容じゃダニーに対しても悪役だ。本当に誰が主役なんだ?この物語。
 そのようなルシエンに感情移入しながら見ている私のような人間にとって、ペギンがルシエンに接近したのは本当に明るい材料だ。ルシエン、お前にも味方がいるぞとホッとしたのは確かだ。母も姉も先生もなんだかんだ言ってルシエンを責めているだけなので、ここでルシエンの木彫りを誉めたペギンの存在は本当に大きかった。まさかこの二人の出会いはルシエンの人生だけでなく、ペギンの人生まで変えてしまうとは思いも寄らなかったけどそれはまだまだ先の話。
 しかし、ルシエンのあのような孤独がどんなもんなのか、どんな気持ちなのかと言うことを本放送の翌年に自分が味わうことになるとは。概要にも書いたが、「わたしのアンネット」の放映が1年後だったら私はルシエンに心を鷲掴みにされ、「世界名作劇場」で一番印象に残った作品として記憶に残ったかも知れない。この回を今回見直して改めてそう感じた。
研究 ・ペギンとの出会い
 今回はルシエンに感情移入していて、ルシエンが主役と思って見ている人間にとって重大な転機と感じる話である。森の中でルシエンとペギンが出会うのだ、ペギンは12話で一度だけ出ているが、まだ森に気難しい爺さんが住んでいることを知らせる程度にしか出ておらず、物語の展開に深く関わってくる人物だとは誰も予測していない状況であっただろう。
 前日に学校をサボった事で、ルシエンの逃げ道は完全に無くなったように見えるが、それでも森へ逃げて木彫りに勤しむのである。そこでペギンが現れてルシエンの木彫りを誉めるというシーンは、ルシエンストーリーとして物語を考えた場合に暗闇の中の一筋の光として見え、「救い」のシーンとして印象に残ることになる。
 無論原作でも展開は同じだ。原作の場合、前日に学校へ行かなかったことによってマリーから罵声を浴び、母はさじを投げてしまうのである。さらにダニーの事故は村中に広まっており、ルシエンは村中全ての人から嫌われ、果ては幼稚園の先生がルシエンには危険だから近付かぬように子供達に言う始末である。そこでルシエンは学校に終わると森に逃げ込み、木彫りをしているとペギンに出会うのだ。
 原作ペギンもその風貌と変わった暮らしぶりから村中の人に変人扱いされていて、誰も彼に近付こうとする者は無かったという設定になっている。そのペギンはルシエンの木彫りを見ると、ルシエンに家に来るように言うのだ。そして彫刻刀の使い方を教えるなど木彫りの指導をすぐに始める。
 原作もアニメもルシエンとペギンの出会いはそれほど大きなイベントとして描かれていない。ところがどちらもルシエンに感情移入して見ていると非常に印象に残るように出来ているのは同じだ。ペギンの最初の存在理由は孤独になったルシエンに対する「救い」であり、今後ルシエンの人生を変えるのでなくルシエンによって人生を変えられる人間として物語に深く関わって行くにつれ役割が次から次へと変化するキャラクターだ。彼の役割がどう変わるかは物語の展開と共に考察して行くことになると思う。

第18話「ダニーの松葉杖」
名台詞 「僕ね、ルシエンとお姉ちゃんが早く…」
(ダニー)
名台詞度
★★
 松葉杖を使っての歩行練習中、学校行事であるピクニックの話題となる。そこでダニーはルシエンも一緒なのかと聞く、するとアンネットは「さぁ行くでしょ、それがどうかしたの?」と素っ気なく答える。するとダニーが言いかけたところで「ルシエンのことなんか関係ないわ!」とアンネットに遮られてしまう台詞がこれだ。
 無論、ダニーが望んでいるのはアンネットとルシエンの仲直りだろう。前回でもルシエンの木彫りを気にするなど、事故のことで全くルシエンを恨んでいる様子が無いことが描かれたダニーだが、もうこれでダニーに恨みが無いことは決定的になる。
 そしてこのようなシーンは今後何度か出てくるが、この台詞は単にダニーが無垢で無邪気なだけではないと考えられる。ダニーは幼いとはいえもう5歳だ、5歳ならば自分がどれだけの酷い目に遭わされたかというのを認識できる年頃でもある。つまりダニーはルシエンを嫌うのでなく、恐れて怖がるのが普通の反応であり、無論その恐怖の対象が姉に近付く事は何よりも恐れるはずで姉との仲直りなどは自分にとって都合が悪いのだ。そんなはずの5歳児が自然にこう言えるのは一つしかない、つまりダニーの心の中にはもう既に神が宿っているのだ。そしてこれからアンネットとルシエンが行かねばならない方向に先に言ってそれを体現しているのだ。
 無論ダニーが神を信じ、神を心の中に入れた(本人は無意識だろうけど)のはクリスマスにクラウスが現れたことがきっかけである。自分の祈りや思いが通じたことによってダニーは心の底から神を信じ、神が既に隣にいると感じてそれに応じた言動を取って行くことになるのだ。ダニーのそんな言動の最初が、この台詞なのだ。
名場面 ピクニックの往路、谷川を見つめて震えるルシエン 名場面度
★★
 学校行事のピクニック(日本風に言えば遠足だな)でベール湖へ向かう往路、谷底を谷川が流れる断崖絶壁の上を一行は通ることになる。皆は谷底を覗き込んで歓声を上げるだけだが、その中でルシエンだけは違う反応をしていた。ルシエンは谷底を見つめたまま一人で震えているのである。そしてそんなルシエンに気付き、思わずルシエンを見つめるアンネット。そう、この風景を見てルシエンの脳裏にはダニーが落下したあの時のことが蘇っていたのである。一行が絶壁から出発してもすぐには気付かず震えたままのルシエンだったが、やがて我に返るとその場から逃げ出すように一行を追う。
 このシーンはルシエンがどれだけ事故のことで苦しめられているかを再現している、特に楽しいピクニックでもその恐怖感や罪悪感が忘れられないままであることが見ていて分かるだろう。
 またこのシーンのアンネットの反応も見逃すわけに行かない。アンネットは初めて、ルシエンがあの事故によって苦しんでいることを目の当たりにするのだ。この時にアンネットが何を思ったかは分からない、しかしこの後の湖のシーンで事故以来最初にルシエンと笑い合うシーンへの伏線となっているのは確かだ。
  
今回の
アンネット
VS
ルシエン
 
 マリアンやクリスチーネがフランツを追いかけて湖へ行ってしまったため、アンネットは一人で湖の畔を散歩することになった。そこで一人でブツブツ言いながら釣りをするルシエンを発見。「なんだい、ちっとも釣れないじゃないか。あれ、餌が付いてないや。そうだ最初から付いてなかったんだ。これじゃ釣れるわけないや、バカだな僕も。ハハハハハハハ…」とルシエンが一人で笑うと背後から「くすすっ」と笑う声、アンネットだ。笑い声に気付いてルシエンが振り返ると、アンネットは冷たい顔に戻ってその場を立ち去ろうとする。「あの、アンネット」とルシエンが追おうとすると、足を滑らせてそのまま湖にボチャーン、驚いて振り返るアンネットはその様子を見てまた笑う、そのまま「おかしいわ」と大爆笑しながら去って行くのだ。突然の予想外の展開にルシエンはしばらく ( ゚д゚)ポカーン とアンネットの後ろ姿を見送るだけだったが、すぐに「アンネットが笑ったよ」と笑い出す。そしてそのまま水没を繰り返しながら笑うのだ。
感想  前回までは可哀想なルシエンを散々見せられて、そろそろそれはやめて欲しいなと思ったがまだまだルシエンの苦しみは続いている。だが全体的に前回よりソフトになってダニーの歩行練習が中心になっているので安心した上、その歩行練習のシーンでダニーもルシエンの味方なのか?と思わせるシーン(名台詞欄参照)を入れるのは私のようなルシエン派にとって非常に明るい光だった。そして遠足の往路になる名場面欄のシーンも相まって、ちょっとだけ雪解けを予感させておいてからベール湖のほとりでのあのシーン(今回のアンネットVSルシエン欄)だもんな。アメリア先生の言うとおり、すぐには仲直りはないけど最終回までには仲直りして物語が終わるのだと確信した瞬間でもあったね。ただアンネットの性格を考えれば、この先些細なことでルシエンへの恨みを思い出してまたルシエンが虐げられる展開になるのもなんとなく予測できたけど。
 そんな感じで物語を見終えたら、次回予告では早速アンネットとルシエンが諍い合っているシーンが出てきて「やっぱりな…」と思わされる、この話は次回予告まででワンセットと考えるべきかも知れない。そして次回は「思いがけない診断」…本放送時もダニーがどうなったのかこのサブタイトルだけでよ〜く分かった。またルシエンの苦悩の時が始まるのか…とちょっと暗くなる次回予告だった。
研究 ・ベール湖
 今回はオリジナルストーリー、原作には遠足の話もその時にアンネットとルシエンが笑い合う話もない。そりゃ当然だ、原作とのアンネットとルシエンは最初から仲が悪かったんだが、あの程度で笑いあえるはずはないだろう。だが二人の距離が近付いたり離れたりを繰り返す点は「わたしのアンネット」の魅力の一つだと私は感じる。
 今回、学校行事のピクニックと称してクラス全員で出かけた湖を推理してみよう。劇中では行き先は「ベール湖」となっていたが、地図ではロシニエール村近辺に「ベール湖」と読めそうな湖を見つけることは出来なかった。ただしロシニエール村内の鉄道路線沿いに「Lac du Vernex」と言う名前の湖は存在する、ただこの読みは「ベルーネ湖」とかになるんじゃないかと思うけど…さらに地図上で見る限りはロシニエール村の中心から1キロと離れておらず、往復に断崖絶壁があるような場所もない。場所は4話にリンクを貼った地図を拡大してロシニエール村中心街辺りをよく見ればすぐ分かるだろう、鉄道路線や国道も湖畔を通っているので発見しやすいと思う。
 「ベール湖」についてご存じの方がいらっしゃいましたら、是非ともご一報をお願い致します。
 オープニングでアンネットが走っていた湖の畔も、ここなのかなぁ?。

第19話「思いがけない診断」
名台詞 「なぁに、わしは一人暮らしで日によると一日中何もしゃべらん事があってな。お前でも来てくれれば気が紛れるというものだ。お前も今のところ友達もなくて寂しそうだし、二人はちょうど良い友達になりそうだ。」
(ペギン)
名台詞度
★★★★
 本式の木彫りをやってみないかとルシエンを誘ったペギンに、ルシエンは「毎日ここに来るからお願いします」と懇願する。そしてペギンから「教えよう」と返答があるとルシエンは「こんなに親切にしてもらったのは初めてだ」と感謝の言葉を吐く、その返答にペギンが言った台詞がこれだ。
 ダニーの事故以来ずっと孤独だったルシエンに、あれ以来初めて「友達になろう」という人物が現れたのだ。これはここまで何をやっても、何を言っても誰にも理解されなかったルシエンにとって希望の光となっただけでなく、ルシエンに感情移入して見ている視聴者にとっても物語が明るくなって行く兆しを受け取れる嬉しい台詞だったはずである。ここでペギンに対する「気難しい爺さん」という固定観念はなくなり、ペギンとルシエンのシーンを安心してみていられるようにもなる、いやこれが救いのシーンになってゆくだろう。
 この台詞を聞いたルシエンは涙を流し「嬉しい」を繰り返すのである。本当にここへ来て良かった、ルシエン派の人たちもみんなそう思っていることだろう。
名場面 ダニーが足が動かないと告白 名場面度
 ダニーの松葉杖を使った歩行訓練が終わり、アンネットとダニーは家の水飲み場で休憩をする。その時に急にダニーが深刻な顔になって「おねえちゃん、僕の足治ると思う? 治らないと思う?」と聞く。「治るわよ、決まっているでしょ?」と予想通りの反応をするアンネットにダニーは重大な事実を告げるのだ、「だって、僕の足ギブスを外しているときでも動かないんだよ。こんな風にギブスを外しているときでも膝が全然動かないよ」と。「動かない…」「ねぇ、本当は僕の足もう治らないんじゃないの?」と不安そうな声で姉に問うのだ。
 嫌な予感、とはこのことだ。ダニーが語る他の人には分からない自分の症状、これはもうダニーの足が治らないという予感であり、何よりも自分の足のことであるダニーはそれに薄々感付いているのだ。
 こうしてこの後のラルフ・クルー先生(勝手に命名)の診察結果より先に、視聴者に対し「ダニーの足は治らない」と突きつけるのだ、この会話の前提条件としてサブタイトルが「思いがけない診断」なら誰がどう見てもそれ以外は考えられないだろう。そして今回のラスト、その予感がずばり的中する、ダニーの足は少なくともシャトー・デーの病院では治らないと診断されるのだ。でもその診断シーンよりも、こちらの会話の方が印象に残った。
 
今回の
アンネット
VS
ルシエン
 
 村に買い物に来たルシエン、パン屋の扉を開こうとすると中にいた客によって扉が開く。その扉の向こうにあったのはアンネットの姿だった。「ア…アンネット…、あの…ダニーのことだけど、その…あの…」ルシエンは突然の巡り合わせに言葉が出ない。「ダニーがどうかしたの?」「いやその、歩く練習は上手くいってるのかなと思って」「ええ、毎日松葉杖を使って練習しているわ」「そ、そう…よかった」…って、誰が見てもお前が良かったって言うシーンじゃないわい!と視聴者がツッコミを入れるよりも先に「何がよかったよ、ダニーはまだ松葉杖もうまく使えないのよ、そこをどいてちょうだい!」と言ったと思うと、走って店から飛び出して行ってしまう。途方に暮れるルシエン、だが店に入るとさらに悲しい現実がルシエンを待ち受けていたのだ…。
感想  ダニーの歩行練習とルシエンの苦悩からの立ち上がり第1弾の同時進行、ルシエン派として一言言わせて貰うとダニーの歩行練習は要らない、名場面欄で紹介したところだけあれば十分だ。その分ここはルシエンの心境変化をじっくり見せて欲しいところだ、ルシエンがペギンに声を掛けられ、木彫りを誉められて弟子入りすることによってルシエンが希望を見いだすこの話は物語展開として重要だ。これは研究欄に譲ろう。
 ただダニーの足が治らないという事実を視聴者に印象深く残すにはやっぱダニーの歩行練習をしつこく繰り返すのは必要だったのかなとも思える。でもだったらダニーが「足が治らないかも知れない」と訴えているシーンを挟む必要はなくなるようにも思う。話を引き延ばす都合もあったのかも知れないが、ダニーの足が治らないという事実を印象深くする演出を二重に入れられたのでは見ている方も冗長と感じるだけだろう。やっぱただひたすらダニーが治るという希望を持って歩行練習を繰り返した上で「ダメです」と希望からどん底に一気に落とすか、さもなくばダニーが「自分の足が治らないかも…」と感じっているシーンを印象付けてから「ほらやっぱり」と来るかのどっちかで良いと思う…で、誰が主人公だったっけか?
研究 ・ペギン爺さんの家への訪問
 いよいよルシエンのカモシカの木彫りが完成する。そしてルシエンはこれを誉めてくれたペギンに、約束通り見せようと思ってペギンの家へ走るのだ。もちろんペギンはこのカモシカを見て再度誉め、ルシエンに本式の彫刻刀を使った木彫りをやってみるように勧める。ルシエンは喜んでペギンにやらせて欲しいと頼み、こうしてルシエンはペギンの弟子となるのだ。
 この展開は原作に忠実である。ただし原作ではアニメで言う17話に当たる、ルシエンとペギンの出会いの段階でルシエンはペギンの家に誘われる。そして同じように弟子入りするのだ。さらに原作ペギンは木彫りを売る先を知っているからルシエンの木彫りで出来が良いものも売ろうと持ちかける。もちろんルシエンはこれに大喜びで、ペギンと一緒に彫刻を作りながらの日々が始まるのである。
 感想欄にも書いたがルシエンを中心として物語を眺めた場合、ここは重要な転換点でもある。ここまでのルシエンは一人に苦悩していたが、ここにペギンという味方が現れることによって希望を見いだすのである。そしてその希望はルシエンを苦しみから引き上げ、苦悩から一歩足を踏み出してダニーへの償いという行動へとルシエンを走らせる。自分に出来ることがあって、それによってダニーが喜ぶはずだという考えは一人で苦悩しているだけではなかなか出てこないのだ。
 アニメのルシエンはペギンに誉められたことによって木彫りの腕に磨きが掛かっている。それまでのルシエンが作った木彫りの動物は制作者本人の解説がないと何の動物か分からない代物であったが、これをきっかけに見ただけで「カモシカ」と分かるものへと進化したのである。やはり苦悩は人をアーティストにするというのは本当なんだ、でも苦悩するだけじゃない、その苦悩を認めてくれる人がいて初めて人はアーティストになるとこの物語は教えてくれる。
 アニメのルシエンはまずノアの方舟を造り始めるが、原作では展覧会に出す馬もほぼ同時に着手している。どちらも手の込んだ品物であり、これをそう長くない期間で完成させたところをみると、ルシエンのダニーに対する償いへの情熱も感じられる。ではそのダニーへの償いの品物はどうなってしまうのか、それは次回に答えが出るのだ。

第20話「ノアの方舟」
名台詞 「忘れたのか? この間言って聞かせたことを、お前の考えていることは正しいことだ、正しいことを考えられることは幸せなことだ、お前はその子が彫刻を受け取るまで作り続ければいい。(中略)そんな心配は要らない、お前が作り続けている限り、お前が諦めない限り、そのうちに必ずお前の上に幸せがやってくる。作り続けるんだよ、ルシエン。」
(ペギン)
名台詞度
★★★
 せっかく作ったノアの方舟をアンネットに拒絶され、再び絶望感にうちひしがれるルシエンは気がつけばペギンの家の前にいた。ペギンがそれに気付くとルシエンはペギンに抱きついて泣く。ペギンは全てを理解した、その怪我をした男の子というのはルシエンが原因で怪我をしたに違いない、そしてその償いとしてノアの方舟を作ったに違いないと。
 ペギンはルシエンにもう一度やってみようと繰り返す、それでも絶望感のどん底にあるルシエンには否定的な考えしか思い浮かばない。そんなルシエンに向けてペギンはこう言って諭すのだ。
 そう、アンネットがどんな態度を取ろうがルシエンは間違ったことをしていなかった。ダニーが喜びそうなものを作って償いにそれをプレゼントするというのは間違って無いのだ。間違っていないのなら何度も繰り返せばいい、そうすればいつかは思いが伝わる日が絶対に来るはずなのだ。今のルシエンに必要なのはその日を信じることだ。
 現にノアの方舟がアンネットに拒絶されるまでは、ルシエンはそれを信じていたはずである。だからもう一度信じることが出来るはずだ、信じることが出来れば希望が湧いてくるはずだ。そしてその思いが伝わる日を「幸せ」と表現して、ルシエンの再起を促すのだ。
 ルシエン派として見ていた私だが、ノアの方舟が拒絶されてルシエンと一緒に落ち込んだけど、この台詞を聞いてなんだかルシエンより先に立ち直れたと思った。そういう意味で印象に残った台詞でもある。
(次点)「でも父さん、僕の足が治るとつまらなくなるね。だって松葉杖をついているといつもみんな僕の方を見るけど、足が治ったらもう誰も僕の方を見なくなるよ。」(ダニー)
…多分ダニーの関心はみんながどれほど自分に優しくしてくれるかってことだろう。我が儘なのか単に無垢なのか判断に困るけど、とにかく印象に残った台詞だ。
名場面 ノアの方舟の拒絶 名場面度
★★★★★
 ダニーの足の具合が悪くなり、それに落ち込んで外に出たアンネット。そこへノアの方舟を抱えたルシエンがやってくる。ルシエンはアンネットの前に立ち、大作「ノアの方舟」をダニーにあげるといって差し出す。ダニーの症状について母が村で聞いてきたとおりに語ると、アンネットの唇が震える。ルシエンの耳のもその話が…と思ったのだろう、そして「ダニーの足は治らない」と事実を告げる、それを聞いて「うそだ…」と驚くルシエン。そしてアンネットはルシエンから受け取ったノアの方舟を投げ捨てるのだ。そして「何にも要らないからダニーの足を返してちょうだい」と泣き叫ぶアンネット。
 ルシエンの最初の償いがアンネットによって拒絶される、事故後最初のヤマ場でもある。アンネットはダニーの足が治らないという悲しみと、それをダニーや村の人々に隠し通さねばならないという現実とで精神的にも疲弊し、それはさらなるルシエンへの恨みとなって重なっていたところだろう。一方のルシエンは、ここでアンネットに自分の償いの気持ちを拒絶されただけでなく、自分がダニーから足を奪ってしまったという衝撃の事実を知ることになる。そしてまた絶望のどん底に突き落とされるのだ。
 私はアンネットがルシエンを拒絶したことよりも、ルシエンが衝撃の事実を知ったことの方が印象に残っている。母が村人から聞いた話ではダニーは完治するとのことだった、ペギンに木彫りを認められたことだけでなくそれもルシエンの償いの行動を盛り立てる要素だったはずである。そこでルシエンの希望の一つ「ダニーの足は完治する」というものがなくなってしまい、ルシエンの罪悪感と絶望感がまだ呼び覚まされるシーンであるのだ。この次のシーンでルシエンがペギンに繰り返し言った「もう終わりだ」というのはこの辺りの気持ちであるはずだ。
  
今回の
アンネット
VS
ルシエン
  
「こんにちは、アンネット」「ルシエン…」「あの、これダニーにあげる。僕が作ったんだ、ノアの方舟だよ、ダニーが受け取ってくれると嬉しいけど…あの、ダニー家にいるの?」「いるわ、でも今は足が痛いってベッドで寝てるわよ」「足が痛いって…どうしての? また悪くなったの?」「元から悪いわ、あんたがダニーを谷に突き落としてからずっと悪いわ」「でも…でも少し良くなったんでしょ? 母さんが村の人たちから聞いてきたんだ、もしかしたらこの秋にはダニーの足は治るかも知れないって。そう言ってたよ…ねぇ、治るんだろう?ダニーの足。ねぇ、治るんだろう?アンネット。意地悪しないで教えてくれよ、ダニーの足は治るんだろう?」「ダニーの足は治らない、もう絶対に治らないわ」「嘘だ!」「お医者さんがハッキリ言ったわ、ダニーの足はもう治らないって。一生、一生松葉杖が必要だって」「嘘だ…」「えいっ!」がしゃ〜ん。「これでわかった?ルシエン。ダニーの足はもう一生治らないの、あんたが何を持ってきても元通りにはならないわ」「ダニーの足は治らない…」「ダニーの足を返してちょうだい。何も要らないから、ダニーの足を返してちょうだい!」
感想  今回の見どころはルシエンの大作「ノアの方舟」がどうなるかに尽きるだろう。その前提条件としてダニーの足はもう治らないという診察結果、そしてダニーの前では本当のことが言えずつい「この秋には治る」と言ってしまうピエール、そのピエールの言葉がルシエンの耳に入ること。これら全てが事故後最初のヤマ場となるノアの方舟拒絶シーンへと繋がるのだ。
 またルシエンが方舟を持ってバルニエル家へ来た時、たまたまダニーが足を痛めて寝込んでいるというのもルシエンにとって不幸だっただろう。原作はともかく、アニメのダニーならまず受け取ってくれたはずなのだ。そこにいたのがアンネットだったのがルシエンの絶望の始まりだっただろう。
 つまりあとはアンネットがノアの方舟をどのような形で拒絶するのか、そこに焦点が絞られるだけだ。原作を先に読んでいた人は知っているシーンだが、原作を知らなかった当時の私はそれが怖かったのを覚えている。ルシエンの苦労が全て水の泡となるのが分かっているのだから…それに既にダニーをあれだけの谷から突き落としたのだ、アンネットの拒絶がどんな形でも驚かないだろう。
 で出てきた結果が有名なアンネットがノアの方舟を投げ捨てるシーンだ。これは強烈に印象に残った、平手打ちを一発食らわせて方舟を突き返すというシーンを想定していたのだが、そうでなくてルシエンの苦労や償いというそのものを投げ捨てたのだから…。でも突き返すのでなくそれをその場に捨てたというのは、これが何らかの形で誰かに拾われるのだろうという予測はついた。つまり次の展開へともう既に入り始めているという手の込んだ作りになっているのだ。
 またルシエンは罪悪感と絶望感にうちひしがれることになる、そんな彼を見て「どうすれば良いのだろう…」とルシエン派の視聴者も思うことだろう。だがペギンがそこにいい答えを用意して待っているのもまた印象的だ、ルシエンの側も次の展開に入ろうとしている。だがルシエンの希望を取り戻すにはもう一ヤマ必要だなとも感じたものだ。
研究 ・ノアのはこぶね
 ルシエンがダニーへの償いとしてノアの方舟を作り、それがアンネットに拒絶されるのは当然のことながら原作を踏襲した話である。しかし原作ではこのエピソードにアニメほど重要な意味は持たせておらず、それほど印象に残るシーンとしての描き方はされていない。ルシエンがノアの方舟を作った動機は全く同じだが、ノアの方舟が拒絶された内容が原作とアニメでは全く違い、役割も違うのだ。
 原作の場合はこのシーンの前提条件から違う。アニメではダニーの足はもう治らないとの医師の宣告があった直後の展開と位置づけられ、ルシエンがその事実を知るという役割も持たされているのだが、原作ではまだこの段階ではダニーの足が治らないという診断結果は出ていない。つまりルシエンがダニーに取り返しの付かない事をしてしまったという衝撃の事実を知るという役割は当然無いのだ。
 原作ルシエンがノアの方舟をアンネットに差し出すと、原作アンネットは問答無用でそれをひったくるように奪い取り「よくもまあずうずうしくここに来られたものね! おまけにまたダニーにプレゼントしようなんて! あっちへ行ってちょうだい。もう二度とここに来ないでね!」と吐き捨ててノアの方舟を放り投げるのだ。それを見たルシエンはしばらくアンネットの顔を見たかと思うと、逃げるように走り去る。頭の中はアンネットに対する怒りで一杯だったが、しばらくして落ち着くと自分がノアの方舟を作りながらダニーの笑顔を想像してきたことが嬉しかったと気付き、これからも我慢強く愛を込めて何かを作ろうと思い直す。そう、原作ルシエンはこの事件を通じて希望を失うのでなく、逆に希望を失っていない事に気付くという展開なのだ。
 実はこの辺りをきっかけに「わたしのアンネット」は「雪のたから」と似て非なる物語を展開することになる。前述したとおりダニーの足が治らないと宣告を受けてからノアの方舟を拒絶される事件が起きるなど物語の順序が入れ替わっているのだ。まだこれは些細な方で、原作ではこの事件の段階で既に展覧会の準備が始まっていてルシエンは例の馬の製作に取りかかっている。アニメではこの直後に来るペギンが過去の罪をルシエンに語るシーンは、原作では展覧会の後だ。このように時系列的な変更もあって、結論とエピソードは同一ながらも「わたしのアンネット」と「雪のたから」は全く違う物語として進んでいくのだ。

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