「あにめの記憶」5
世界名作劇場「アルプス物語わたしのアンネット」
・「世界名作劇場」シリーズ中で最も現在の子供達に見せたい作品
「世界名作劇場」シリーズで、私の記憶に強く印象に残っている作品を3作品紹介してきた。そしてこれに続く4作品目も私の印象に強く残っている作品のうちの一つである。
これが前々回に紹介した「南の虹のルーシー」の次に制作・放映された1983年作品の「アルプス物語
わたしのアンネット」(以下「わたしのアンネット」と略する)である。物語の内容もさることながら、自分と全く同じ年代と設定された少年少女が繰り広げる物語ということで興味津々で見ていたのだ。ただし自分にとって、この物語が言おうとしていた事をなんとなく理解して人生に役立てていったのは放送を見てから数年を経た高校生位になってからの事であるし、物語の中に出てくるキリスト教的な考えについて理解できたのは放映から6年もして別の小説を読んだときである。
当時所属していたボーイスカウトが神社を本拠にする隊だったので、日本の神社的な考えの宗教論を教わって育っていた私にはこの物語に出てくるキリスト教的な考えは新鮮であるとともに、多少の違和感も感じていた。「神様」というものの考え方が根底から違うこと、キリスト教が発生した欧米と神社が中心の独特の宗教観が中心の日本とではその環境や文化そのものが違うこと、何よりもキリスト教の神様は一人しかいないこと、これらを理解できていなかった当時の私には理解不能な点もあったし、新鮮にその考えを反芻する部分もあって私が「宗教」や「神様」というものを考えるきっかけになり、現在の自分の宗教観を作るスタート地点にあるのは間違いなくこのアニメである。
またこのアニメが言いたかったテーマのひとつに「友情」があろう。最初は些細なきっかけから仲違いが始まり、その傷が治らないままに次々と事件が続き、さらにこれが取り返しの付かない重大な事故へと繋がってその仲が修復不能と思われたアンネットとルシエンの物語は、本当に友として結ばれれば簡単には壊れない友情というものを視聴者に見せつけてくれる。どんなに憎しみあっても根底には仲直りしたいという思いが描かれ、二人の距離は離れたり近付いたりをしてやがては仲直りに繋がる。この友情の物語は現在の子供達にしっかりと見せておきたい、私はそう思うのだ。
それとこの物語には「重大な失敗をしてしまったらどうすればいいのか?」「絶望的な困難にぶち当たったらどう考えればいいのか?」という答えも描かれている。特に物語中盤のルシエンはその考えに沿って忠実に動き、アンネットはその考えにどうしても従えないという展開を見せる。またルシエンのそれは上手くいかないのだが、それでも一時は落ち込みながらも決して諦めずに誠心誠意尽くすルシエンの姿も現在の子供達にしっかりと見せてやりたい。クロードおばさんの説教も今の子供達にキチンと聞かせたい論理である。私もこれらの論理で救われたことが数回ある、特に中学生時代の中盤でいじめられていた頃、このアニメが教えてくれたこれらの論理でもって僅かに残った友人を失わずに済んだし、その友人達と些細なことで喧嘩してもすぐ仲直りが出来た。死にたいような辛いときもなんとか乗り越えることが出来たのである。
当時の私の感想もそうだし、現在見直しての感想も同じなのだが、私はこの「わたしのアンネット」という作品の主人公はアンネットでなくルシエンだと思っている。基本的にはルシエンが蒔いた種をルシエンが全部拾うだけの物語で、あとは主人公アンネットもその弟のダニー含めて悪く言えばそれに振り回されているだけなのだ。題して「ぼくのルシエン」(笑)。
ハッキリ言ってこの物語、ルシエンがいなければ物語が始まらないのだ。ある意味「小公女セーラ」なんかベッキーやアーメンガードの味方役からラビニアやミンチンといった敵役まで、誰が欠けても物語を始めることは可能だろう。「愛の若草物語」だってローリーがいなくても物語を進めることは可能である。でも「わたしのアンネット」はルシエンがアンネットと仲違いをするような事件を起こし、その過程でダニーに怪我を負わせてアンネットを怒らせないことには話が始まらない。事件の発端はルシエンであり、その後にアンネットが起こす事件は最初にルシエンが起こした事件に連動している、つまりこの物語の何もかもがルシエン抜きには語れないのだ。
さらにルシエンは最終的に物語のきっかけとなったダニーの怪我を治す手段を講じて自分の手で全てを元通りにして物語を終わらせるのだ。そう考えるとこの物語はルシエンの一人舞台と考えることも出来る。ただこのルシエンの行為に振り回されるアンネット他登場人物の人々の考え、行動、発言全てが素晴らしく描かれているし、また自分で蒔いた種を自分で拾おうとするルシエンの心境の変化や、ルシエン自身の成長も見物である。
従って当サイトでは、ルシエンを中心に物語を進めて考察していこうかと考えている。
この物語の原作はパトリシア・M・セントジョン著「雪のたから」(TREASURES
OF SNOW)。スイスの寒村(原作では村の名称や場所は敢えて指定していない)を舞台にアンネットとルシエンがダニーの重傷事故を乗り越え、神を信じキリストの神を信じるようになるまでを描いたキリスト教文学である。日本でも訳本は出版されているが、出版社直販でないと手に入らないようだが、アマゾンの古本検索で何冊が引っかかるので興味のある方には読んでいただきたい。ネット上の講評では原作アンネットの過激な台詞に注目が集まりがちだが、アニメでも的確に再現されているスイスの自然の情景や、人々の生活などがそのまま文章になって原作にも載っているのは驚いた。作者は小学生時代を物語の舞台となったようなスイスの寒村で過ごし、アンネット達と同じような生活をしていたのだという。劇中に出てくるクラウスというのは、元々は作者が飼っていた猫の名前だったそうだ。
原作とアニメとの相違についてもここで紹介するのでなく、考察をしながら紹介していきたい。設定上の大きな違いは、前述したように原作ではスイスの何処での出来事かを敢えて指定していないが、アニメでは実在する村であるロシニエールとしている点である。これは1980年代頃に原作がイギリスで映画化された際も舞台はロシニエールとされ、実際にこの地でロケも行われたとのことなので、アニメはこの映画版「雪のたから」の設定に倣ったものと考えられる。
また他の作品同様、アニメ「わたしのアンネット」を再度小説にした小説版、アニメ全編を90分にまとめたDVD完結版も存在する。小説版はアニメで言う30話のアンネットの夢シーンからの、DVD完結版はアニメでは39話にあたるルシエンの峠越えからの、それぞれ回想として編集されているのも興味深い。特にDVD完結版の方はこの編集によって完全に視点がルシエンとなっているのだ。
・「わたしのアンネット」と私
「わたしのアンネット」が放映されたのは1983年1月から12月である。私が小学6年生の正月に始まり、中学1年の年末に放映が終わったことになる。当時も日曜日の一家団欒の時間は「世界名作劇場」と決まっており、当時40歳となった父も一緒に真顔で見ていた。
私が印象に残っているのは番組が始まって冒頭に流れる「世界名作劇場」のタイトル表示である。これまでは地味な動かない模様を背景に「世界名作劇場」と文字が出るだけだったが、「わたしのアンネット」ではこの背景が動いたのである。しかも音まで出てびっくりした。なんだかよく分からないからくり人形が鐘を鳴らしており、これが物語の中に出てくるのかどうか楽しみだった事も含めて物語と同じ位印象に残ったのである。結局はあのからくり人形は劇中には出てこなかったが。
←これのことね。
この物語の中で私が注目していた人物はやっぱりルシエンである。アニメのルシエンはどこか臆病で、どこか情けなくて自分に似ている点もあったからだ。そしてルシエンの苦悩の連続に毎回耐えていたものだ。さらに途中でアンネットとルシエンの立場が入れ替わるという作りには非常に感心したし、ルシエンが自分が蒔いた種を収拾すべく吹雪の山に飛び出したときは正直感動した。一視聴者である私までもがルシエンに振り回されていたのだ。
ただ、物語の難しさは当時も感じていた(この辺りも考察して行きたい)。正直言って放映が1年前だったら理解できずに完全に記憶に残らなかった可能性が高い。少しずつ色んな事が分かってくる中学1年という自分にとって微妙な時期にこのアニメが放映された事が印象に残る最大の要因だったと思う。また1年後だったらどうだろう?
多分セーラと同じようにルシエンに心を鷲掴みにされた可能性が高い。私も中学2年の時は一時期のルシエンのように孤独だと感じていたから。
不思議なのはこの「わたしのアンネット」とその翌々年の「小公女セーラ」は強く印象に残っているのに、その間の「牧場の少女カトリ」がオープニングテーマ以外全く記憶に残っていないのだ。やはりどんな素晴らしいアニメでもその見たときの本人の状況や心理などが密接に絡んでくることをこの事実が告げているのだと思う。また以前にもこのサイドで挙げた主人公の年齢という問題もある、その点で言うとアンネットとルシエンは劇中の殆どが私と同い年だったわけだから、その意味でも物語を非常に身近に感じたのも事実なのだ。
・サブタイトルリスト
総評はこちらからどうぞ
エンディングテーマについては第48話考察の続きに入っています。
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