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…野原家一行はなんとか夕日町からの脱出に成功、続いて「臭い拡散装置」のあるタワーの展望台へ向けてひたすら階段を上る。その後ろからも前からも「イエスタディ・ワンス・モア」構成員が迫る。
名台詞 「おじさんたち、みさえのケツでかいんだからどいてよ! ケツでかいし、お便秘5日目なんだゾ、どいてよ! 母ちゃんのケツ…」
(しんのすけ)
名台詞度
★★★
 この台詞に至る過程の詳細は名場面欄を参照して戴きたいが、しんのすけが迫り来る「イエスタディ・ワンス・モア」構成員にこの台詞を吐くときの迫力は凄い。
 最初に「おじさんたち」と構成員を睨みながら鋭い声を上げるしんのすけを見て、しんのすけがどう対処するのかをこの映画を見ている多くの人が期待したし、不安でもあっただろう。その緊張感が高まったところで、出てくる言葉はみさえの尻の話ばかりでズッこけた人も多いに違いない。この台詞を吐くときのしんのすけの表情、声の鋭さは、「みさえの尻」について力説するとは思えない真面目な物だからこそ笑えるのだ。
 またこの台詞が尻切れになっているのは、しんのすけが言い切らないうちにみさえに「ケツケツ言うな!」と怒鳴られたためである。この怒鳴り返すみさえもこれまた凄い迫力だ。このシーンにおいてはしんのすけ役の声優さんと、みさえ役の声優さんのあうんの呼吸みたいなものもあるに違いない。
 あとは名場面欄参照。
名場面 鉄骨上の反撃(ギャグ要素) 名場面度
★★★
 タワーへの階段を上る野原家一行だが、後ろから「イエスタディ・ワンス・モア」の構成員に追われ、前方も構成員に塞がれる。そこで野原家一行が取った手段はタワー点検用通路への逃走だ、この点検用通路はタワー外側の照明設備に達したかと思うと途切れており、あとはタワーを構成する鉄骨が中空へと続くだけだ。しんのすけが迷わず鉄骨へと逃げ、ひろしとみさえは恐怖に怯えながら鉄骨上へ逃げる。ここで何度も落ちそうになりながらも、野原一家と構成員達の戦いが繰り広げられ、鉄骨から逃れる通路を制圧している構成員が優勢な戦いを展開するのである。
 ここで取り上げるのはこの戦いの最後だ。みさえがひまわりを抱いたまま転落しそうになったのを何とか助け上げると、ひろしが「しんのすけ〜っ、戻れっ!」と叫ぶ。しんのすけがこれに「ブ・ラジャー」と答えながら振り返る、構成員を睨む野原一家…どうやってこの危機を乗り切るのかと思うと、しんのすけが名台詞欄の台詞のように叫ぶ。大写しされるみさえの尻、みさえは今までの恐怖も今置かれている自分の状況も忘れ、「ケツケツ言うな!」と怒鳴ったと思うと鉄骨にしがみついた姿勢のまま、尻を前にしてしんのすけを追いかけ始める。「ケツが来た〜っ」としんのすけが慌てると、釣られて構成員達もが鉄骨上をみさえから逃げ始める。構成員達が照明設備のところまで逃げ切ると全員転倒、しんのすけはそれを踏んづけて逃げ回り、みさえも構成員達を尻で踏んづけてからしんのすけを追い回す。最後にひろしが構成員達を睨み、シロが吠えると鉄骨上での戦いは終わる。
 ポイントは「どうやって鉄骨上に追い込まれたピンチを脱するか?」という視聴者の緊張感が高まるはずのこの展開に、こういうギャグを持ってきたという取り合わせが面白い。そしてそのギャグの内容、「みさえの尻」をネタにして迫る来る構成員達を排除するという「クレヨンしんちゃん」らしい展開。それにしんのすけが真剣に「みさえの尻」の怖さについて語る点と、それを聞いたみさえが状況を忘れる点などは、これまでの緊張シーンを瞬時に解かして「クレヨンしんちゃん」らしいノリに戻すだけのパワーと迫力に満ちている。しんのすけというキャラと、みさえというキャラを上手く使った上に、上手にギャグをやって「クレヨンしんちゃん」らしい戦いの終結に持って行ったのは素晴らしいと思ったシーンなのだ。
研究 ・タワー
 物語は「20世紀博」の外観を特徴付けているタワー上での駆け引きへと進んで行く。このタワー上での野原家と「イエスタディ・ワンス・モア」の戦いもこの映画を盛り上げる重要な要素だろう。ここではこのタワーの大きさについて考察したい。
 まずは「20世紀博」の建物の外観をよく見てみよう。DVDに収録されている設定資料や美術資料をよく見直してみると、「20世紀博」の建物は12階建てのようだ(前の方では8階建てとしたのは劇中シーンから階数を数えた結果で、設定資料を見る限り12階建てが正しいと思われる、よく見ないで前を考察して申し訳ない)。その12階建ての建物の上に建物の3倍の高さのタワーが載っている事が、これらの資料から見て分かる。
 「20世紀博」の建物は鉄筋コンクリート製と思われるので、鉄筋コンクリート製のビルと比較すれば「20世紀博」の本体ビルの高さは約40メートルとなる。その上にビルの3倍の高さのタワーが乗っているのだから、タワーの高さは120メートル、ビルとタワーの高さを足した「20世紀博」の全高は160メートルとしていいだろう。タワー単体の高さでは札幌テレビ塔より2割低い大きさで、それが8階建てのビルの上に載っていると考えればいい。タワーの展望台はタワー単体の高さを基準に、2/3のところに存在しており、展望台の高さは地上から120メートルということになる。関東平野のど真ん中、しかも田園地帯にこれだけの展望台があればさぞかし眺めがよかろう。
 今回、野原一家が戦いを繰り広げた鉄骨の高さも気になると思われるので考えてみた。タワーの最下部と展望台のちょうど中間に桟となっている部分があり、ここがこの次のシーンでケンとチャコがエレベータを止める部分だと推測される。ここは建設時の資材集積場だったと考えられ、また今後タワー上部に改装の必要が生じたときに資材置き場として使用されることが想定されているはずである。つまり下のビルから展望台までの間で、エレベータが停止階として考えられる唯一の地点なのだ。この地点がタワー単体を基準にすれば1/3地点、地上80メートル地点ということだろう。
 野原家が戦った鉄骨の位置はこの桟より下と言う事は、みさえが鉄骨の上にしがみついているシーンで下に桟が見えないことからも確認できる。それどころかこのシーンはみさえがしがみついている鉄骨の位置を教えてくれる重要なシーンでもある。画面をよく見ていると、ここから下には横方向への鉄骨が存在せず、下部のアーチ状になっている鉄骨があるだけなのだ。つまり下から登って最初の横方向への鉄骨がある高さと見て間違いないだろう。
 前述の設定資料に物差しを当てて測ってみた。この位置の高さまでタワー単体基準で言うと展望台までの高さの1/6になる。ビル屋上から展望台まで80メートルであるから、ビル屋上からここまでの高さは約17メートル、地上からは57メートルだ。「17メートル」と言う数値は結構微妙で、地表と平行な距離として見るとそんな離れていないように感じるが、地表からの高さとしてみるとかなり「高い」と感じることだろう。ビルの高さにすれば4階建ての高さ、落ちたら下にクッションがない限りは死ぬ高さである。
 でも17メートルって、「世界名作劇場」の皆さんが落ちた高さと比べたらずっと低い。チルトン(「愛少女・ポリアンナ物語」)のように亡くなったキャラもあるが、ダニー(「わたしのアンネット」)のように、この5倍以上の高さから落ちて複雑骨折だけで済んだ人もいますからねー(笑)。ちなみに「こんにちはアン」のバートも、これとほぼ同じ高さから落ち、しかも落下の際に子供を庇ったがやはりケガだけで済んでいる。と言うわけでこのシーンは、「アニメなら死なない高さ」に認定しよう。

…鉄骨上での戦いでなんとか「イエスタディ・ワンス・モア」構成員を振り切った野原一家は、さらにタワー上部を目指す。その野原家一行を、ケンとチャコを乗せたエレベーターが追い越して行く。
名台詞 「ない! 俺は家族と一緒に未来を生きる!」
(ひろし)
名台詞度
★★★★
 タワー中央部の桟部(全階研究欄参照)まで登ってきた野原家一行を、ケンとチャコがエレベーターを止めて待っていた。野原家一行はエレベーターが停止してドアが開いているのに気付くと、ケンとチャコに向き直る。そこでケンがひろしとみさえに「戻る気はないか?」と問うと、ひろしは力強くこう答える。このひろしの台詞に続き、しんのすけのシロが、みさえが、ひまわりが力強く頷く。
 「クレヨンしんちゃん」は一家の結束を通じて家族の絆を視聴者に考えさせる作品が多いが、この作品ではこれに明確に「未来」というテーマを添えている。そして過去の懐かしむだけでは前進しないという現実を、多くの視聴者に見せてきた作品だろう。この台詞はそれを象徴する、まさにひろしが「懐かしい過去」に決別して「家族との未来」を選択したことを明言した台詞なのだ。
 また劇場版「クレヨンしんちゃん」の家族愛シーンはひろしが牽引することが多いが、その中でもこのたった一言が最も印象に残っている。過去は懐かしいものの家族がいれば未練がないと力強く訴えるこの台詞は、短くて単純ではあるが心に響くものがある。
 ひろし担当の声優は藤原啓治さん、この人の「野原ひろし」の演技は原作「クレヨンしんちゃん」のひろしを上手に再現していると感心している。家族を愛するだけでなく、その家族にコケにされたり一人でしょうもないボケをかましたりという、家族の中での「いじられ役」としての面も丁寧に再現している。実はアニメの「クレヨンしんちゃん」を初めて見た時に、最も「原作に近い」と感じたのはひろしだと思った(現在でもそう思ってる)。ちなみにこの人を最初に知ったのはこの野原ひろし役、他作品では1999年にNHKで放映されたアメリカ制作の「くまのパディントン」日本語吹き替え版で主人公パディントンとして出てきたのを覚えている。
名場面 エレベーターでの争い(感動要素・ギャグ要素) 名場面度
★★★★
 名台詞欄シーンを受けて、「つまらん人生だったな」と言い残してエレベーターの扉を閉めるケン。それを見たひろしは抱いていたひまわりをみさえに託し、エレベーターの扉に突っ込む。いつの間に追いついていた構成員に制止されるが、ひろしはなんとかエレベーターの扉に手を挟んでエレベーターが動くのを阻止する。後ろで声を上げるみさえとしんのすけに「行け」と叫ぶと、ひろしはエレベーターの扉をこじ開け、「俺の人生はつまらなくなんかない。家族がいる幸せをあんた達にも分けてあげたいくらいだぜ」と言う。そこへ構成員が殺到し、なんとかひろしを引きはがそうとするが、ひろしはエレベーターの扉にしっかり手を掛けてなかなか離れない。振り返りながら階段を上って行くしんのすけやみさえのシーンを挟み、構成員とひろしの力比べシーンが続く。業を煮やしたチャコがひろしの手を蹴飛ばそうと足を上げた瞬間、ひろしは頬を赤らめながら笑顔になって「見えた!」と叫び声を上げる。慌ててスカートを押さえて後ずさりするチャコに、「Oh! モーレツ。やっと人らしい顔になったな、いいじゃん」と声を掛ける。それに怒ったチャコがひろしの手を思い切り蹴り、ひろしの手はエレベーターの扉から離れてしまい扉が閉まる。するとたちまちひろしは構成員達に引きずられ、「チャコさんのパンツを見やがって…」とひろしを袋だたきにする。だが構成員の台詞はまだ続く「何色だった?」、これに真正直に「白だよ、白」と答えるひろしがいい。ひろしはこの後、自慢の靴の臭いで構成員達に立ち向かったようだ。
 もちろん、ここは感動させるシーンとギャグシーンの融合シーンとして印象に残っている。ひろしに家族の絆を語らせ、その家族との未来を取ったという感動シーンを作らせた後は、どのようにテンポ良くギャグへ持って行くのか、どのようにオチを付けるのかはこの映画の評価を左右する重要な要素になることだろう。この映画は基本はギャグアニメなのだから、いつまでも感動シーンを入れるのはクライマックスの1回だけで良いのだ。そのためにこのシーンに前に野原一家がエレベーターで上昇するケンとチャコに追い越させるシーンを、伏線として入れて置いたのは正解だろう。ここでしんのすけが「(チャコの)パンツが見えた」として、ひろしがそれに釣られて鼻の下を伸ばすというこのシーンは、次の感動シーンが終わりしだい瞬時にギャグへ切り替えるためのわざわざ用意したシーンなのだ。その「わざわざ用意した」シーンである割には、しんのすけとひろしの性格を上手く利用しており流れが自然だったのでわざとらしさが全く無かった。だからこそこの感動シーンをギャグに切り替える時も、ひろしの言動に不自然が無く、自然に切り替わるのである。また切り替わった瞬間のひろしの台詞が、「20世紀」モードになっているのもさりげなくこの切り替わりを印象付けるものであろう。
 だが、この物語もこの次のシーンからがクライマックス、これを最後にギャグは少しばかり息を潜めることになる。
研究 ・テレビ放映
 今回のシーンでひとつ明らかになることがある、それはこの野原一家とケンやチャコを筆頭とする「イエスタディ・ワンス・モア」の戦いの様子が、夕日町でテレビ放映されていることだ。タワーの要所にテレビカメラが仕掛けられており、これが野原一家の行動を追尾して撮影するという仕組みになっているようだ。
 問題はなんでこんなところにカメラが仕掛けられていたのかという問題だ。「防犯カメラなんだろう?」と考えたアナタ、それは甘い。防犯カメラシステムには大きな問題があり、多くのものが劇中に出てきたような首振りタイプではなく広角レンズによる固定視点で監視する物で、さらにはピント固定なので劇中に出てきたようなシーンを撮影するのには不向きなのだ。また防犯カメラシステムはカメラが多数あったとしても個々に記録するものであって、テレビ放映のようにそれを記録した物を瞬時に編集できるようにはなっていない。つまりテレビ放映のためには編集機材が必要なのであって、防犯カメラのシステムにはそれはないのが普通であり、劇中に出てくる物は防犯カメラとしてはオーバースペックなのだ。
 これらのカメラは防犯カメラとして設置した物ではないと考えられる。これらのカメラはある程度のズームも出来るし、撮影したい方向へレンズの方向を自由自在に変えられるし、撮影対象に合わせてピントも変えられるのだ。さらに複数のカメラは1つのシステムで統括され、その時に必要なカメラの画像だけを取捨選択して夕日町に放映することが出来る…つまりテレビ局の移動中継車のようなシステムを内包しているはずなのだ。いや、このカメラシステムの画像は「20世紀博」内部の夕日町にあるテレビ局内の編集装置に繋がっているに違いない。
 これらのカメラは元々は「お天気カメラ」のような性質のものだったと考えられる。タワーの各所から外の様子を夕日町内部に放映できるようにしてあったのだ。やはり外部から隔離されている生活を続けるにしても外の様子が分からないことには人間は不安になるだろう、夕日町のテレビ局ではこれらのカメラを使って外の様子を定期的に放映しているに違いない。しかも様々な角度や高さから毎日違う光景を見せるなど、手の込んだことをするつもりだったのだ。
 この様子をテレビ放映すると決めたのはケンであろう、恐らく逆らったらどうなるかの見せしめとなると考えていたに違いない。だがこのテレビ放映こそが、「イエスタディ・ワンス・モア」敗因の原因になるとは、誰も思っていなかったことだろう。

…エレベータでケンやチャコを食い止めるひろしとは別に、しんのすけはみさえやひまわりやシロとともに階段を駆け上がる。その後ろから構成員達が迫ってきた。
名台詞 「オラ、父ちゃんと母ちゃんやひまわりやシロともっと一緒にいたいから。喧嘩したり、頭に来たりしても一緒がいいから。あとは、オラ大人になりたいから。大人になって、おねいさんみたいなきれいなおねいさんといっぱいお付き合いしたいから…。」
(しんのすけ)
名台詞度
★★★★★
 ケンとチャコの企み…「20世紀の臭い」をばらまいて世の中を20世紀に戻してしまうという企みは、しんのすけの「走り」によって失敗に終わる。半死半生の状態で展望台に駆け上がり、なんとかケンの足に食らいついたしんのすけは、そこで力尽きて起き上がれずにいた。そこで倒れたままのしんのすけにチャコが「どうして? 現実の未来なんて醜いだけなのに」と問う。それに立ち上がりかけながらしんのすけがこう答え、鼻血を出して力尽きる。
 これはしんのすけが持つ「未来」なのだ。いつか大人になってきれいな女性とお付き合いしたい…これだけの事なのだが、こういう夢を持つことでしんのすけの夢は限りなく広がっている。一方チャコは「過去」にこだわるあまり「現在」と「未来」の区別かつかなくなって、ここではそれを混同してしまっている。チャコは現在に諦め過去に逃避することで、未来に向かう夢を何処かに忘れてしまったのだ。この台詞はそんなチャコの真実を浮き彫りにし、それをしんのすけが描く未来と対比させ、これを見る大人に過去にしがみついてないで子供達の未来を見て欲しいというメッセージを与えていると思う。私はこの映画を最初に見たとき、このしんのすけの台詞に震えた。
 そしてこのしんのすけの夢は、「きれいなおねいさん」は別にしてもこの年頃の子供だったら誰もが持っているのだ。そんな子供達には過ぎ去った「過去」など関係なく、未来は無限なのだ。こんな台詞を主人公に吐かせるこの映画は素晴らしいと思う、劇場版「ドラえもん」でも主人公ののび太がここまでの台詞を吐いているのを私は知らない。他のアニメ映画にいたっては想像も付かない、ジブリ作品ですら「子供の未来は無限」と思わせてくれる要素がない。「アンパンマン」も道徳的なことばかりで、「未来」は語らない。
 だからこそ「未来」を痛切に訴えるこのしんのすけの台詞が心に響いた。正直、最初の視聴では涙が出た。まさかあの野原しんのすけに泣かされるなんて…「クレヨンしんちゃん」という漫画を最初に読んだときは想像も付かなかったぞ。
名場面 走るしんのすけ(アクション要素・感動要素) 名場面度
★★★★★
 展望台へと駆け上がるしんのすけとみさえ達だが、そのすぐ背後まで構成員達が迫ってきた。このままでは追いつかれてしまうと判断したみさえは階段の途中で足を止め、駆け上がってきた構成員達に尻から飛び込む。突然の出来事に構成員達は全員転倒し、彼らの足も止まった。「母ちゃん!」と叫ぶしんのすけ、「止まらないで! 早く行って!」と叫び返すみさえ。その言葉にしんのすけが走り出すと、構成員のうち二人が立ち上がってしんのすけを追いかけようとする。そのうち一人はひまわりが頭突きで食い止め、もう一人はシロが身体を張って食い止める。その光景に一度だけ振り向いたしんのすけだったが、決意に満ちた頷きを見せると走り出す。ケンとチャコを乗せたエレベーターが追い越して行くが、それにも構わず走る。何度も転び、身体は汚れ、鼻血を出しながらもしんのすけは走る。
 「モーレツ!オトナ帝国の逆襲」を最も象徴するシーンだ、家族が構成員の追跡に足を止められ、遂に主人公しんのすけ一人になって敵役に単身で対決するシーンだが、それは戦いなどではなく「ただ走る」というシーンとして描かれた。暴力的なものは微塵もない、本当にただしんのすけ走るだけでこの野原一家とケンとチャコの最終決戦が描かれてしまったのだ。そしてその「走る」という行為は、テレビ中継で戦いの様子を見ていた夕日町の住民を改心させるという意外な結果をもたらし、「20世紀の臭い」が消えてしまうという戦果に繋がる。しかもこれはしんのすけが何か特殊設定による特別な力に頼ったわけではなく、他人の力を借りたわけでもない、自分の実力だけで戦っているのだ。この設定は「大人も子供も楽しめる」アニメ映画としてとてもよく考えられたと思う。
 またこのシーンでのしんのすけの描き方が大迫力だ。必死に走るしんのすけを常に真正面から映し出し、かつタワー通路など背景の動きを大袈裟にしてスピード感を高めた。しんのすけが転倒して遅れても画面の移動速度は変えないことで「動き」を止めず、最後の方でしんのすけが疲弊してくるのに合わせて画もわざと崩すという手法で「疲れ」まで表現されている。そしてこのシーンに上手く合わせて演じられているしんのすけの声、特に転んだ時の声や息を切らしている声は秀逸だ。
 こうして直接戦うわけでもないのに、ただ走っているだけなのに、とりあえず私が見た劇場版「クレヨンしんちゃん」(概要に記したほかこの考察執筆までにさらに三作見た)の中で最も迫力がある対決シーンとなっている。しんのすけがスーパーヒーローになったり、象に変身したりするよりも凄い迫力の戦いだ。
研究 ・しんのすけが走る速度
 しんのすけが走る、「イエスタディ・ワンス・モア」の野望を阻止して未来を手にすべく、必死になって地上120メートルの展望台に向かって階段を駆け上がる。このシーンは劇場版「クレヨンしんちゃん」だけでなく、日本のアニメ映画の中で屈指の名場面だと私は考えている。
 だが、このシーンでどうしても気になることがある。それはしんのすけが走る速度がどう考えても速すぎるのではないか?という点だ。今回は劇中のシーンからしんのすけの走る速度を計算してみたいと思う。
 「しんのすけが走るスピードなんて測りようがないじゃないか」と思っている方も多いと思うが、実は手がかりは劇中にちゃんと存在している。タワーの階段がエレベーターを螺旋状に囲んでいる。そのらせん形状は正方形になっており、この1辺の長さが分かればいいのだ。そうすればあとはしんのすけが走るシーンを見て、コーナーを4回曲がるのに何秒かかったかを測ればいいだけだ。それだけではない、走り始めて最初の方のシーンではこの螺旋状のコースを斜め上から見たカットがあり、このカットのまましんのすけがこの螺旋を1周半する様子も描かれている。この斜め上からのカットをパターン1、走るしんのすけを真正面から見る後半シーンをパターン2として計算してみよう。
 その前にこの螺旋を作る正方形の大きさだ。この階段はエレベーター1機を囲うように作られていて、エレベーターの側面で10段の階段を登るようになっている。エレベーターの大きさはこの前のケンとチャコがエレベーターに乗るシーンから想像すると、ケンとチャコの二人が壁面に寄り添ってかなりの面積を消費しているので、定員6人程度の公共用としては小さなエレベーターであることがわかる。するとエレベーター走行路の寸法がおおよそ横幅1.6メートル、奥行き2.5メートルということになる(参考・三菱電機 エレベーターエスカレーター)。この走行路の寸法に左右の空間を考慮すると、通路の内径は3メートルの正方形と考えて良いだろう。通路幅はみさえの体格と比較すると、1メートル強と考えられるがここでは分かり易く1メートルとしてしまおう。しんのすけが通路の中心を走るとすれば、彼が走るべきコースは1辺4メートルの正方形であり、1周16メートルと言う事になる。
 まずパターン1だ、しんのすけがこの正方形を1周回るのに3.7秒だった。つまり秒速4.3メートルで、時速にすれば15.5km/hとなる。だいたいちょっと早い自転車程度の速度(ママチャリだと出すのが大変な速度)で、100メートル走なら23.3秒、フルマラソンを2時間45分程度で完走する速度だ。う〜ん、やっぱり早いなぁ。
 続いてパターン2、こちらは3.9秒でこの螺旋を一周している。ま、計算してもほぼ同じ結果になるだろうからもういいだろう。
 去年と今年の箱根駅伝で話題をさらった「新・山の神」こと東洋大学柏原君は、今年の箱根駅伝5区で平均速度18.2km/hで走っている。同じ区間の最下位タイムランナーの平均速度が15.8km/h。つまりこのシーンのしんのすけは、箱根駅伝のランナーに匹敵するスピードで走っていたことになるのだ。関東地方各大学の陸上部は今からしんのすけをスカウトして、訓練すればきっと箱根駅伝で良い成績が出せるぞ。
…って、またヤボな事を調べちまった。

…しんのすけの活躍でケンとチャコの野望は阻止されるが、野原一家がしんのすけに追いついたとき、二人は展望台の屋上に上がっていた。
名台詞 「おかえり、父ちゃん、母ちゃん。」
(しんのすけ)
名台詞度
★★
 この映画の最後の台詞だ。「イエスタディ・ワンス・モア」の野望を打ち砕いて帰宅した野原一家であるが、一緒に帰って来たはずのしんのすけがこう言うのである。もちろんこれはいつもの「クレヨンしんちゃん」に見られる「ただいま」と「おかえり」を取り違えているギャグではなく、真剣にこう言っているのだ。
 この台詞はただ単に「おかえり」と言っただけではないだろう。映画が始まってからここまでずっと「20世紀」に夢中になり、一度は過去に戻ってしまった両親に対して、家族に戻ったこと、現在に戻ったこと、そして自分達と未来を作るという空間に戻って来た事に対して「おかえり」と言っているはずだ。このしんのすけのありふれた台詞こそがこの物語のキチンと締めるオチとして上手く作用し、ラストシーンがきれいに決まったのだ。
名場面 展望台の屋上(芸術要素・感動要素) 名場面度
★★★
 野原家に野望を阻止されたケンとチャコ、チャコの「私、外には行かないわよ」の一言である決意をして展望台の屋上に上がった。そこに現れる野原一家、彼らが見たものは展望台の縁へ向かって歩くケンとチャコの姿だった。これから何が起ころうとしているのか理解できたひろしとみさえは、二人を止めようと走り出すが、チャコの「来ないで!」という鋭い一言に立ち止まってしまう。縁にたどり着いた二人は改めて手を握り直す、思わず目を閉じる野原一家…と思いきやしんのすけが「ずるいゾ!」と叫ぶ。するとその声に驚いた鳩がケンとチャコの前に現れる、この鳩はケンとチャコの足下に巣を作っていたので二人を威嚇するのだ。鳩が去ると10秒の沈黙、チャコか静かにしゃがみ込んで「死にたくない!」と涙を流す。「また、家族に邪魔された」と静かに語るケン、「ずるいぞ、二人だけでバンバンジージャンプ(昔発売されていたインスタントラーメンを元ネタにしたパロディと思われる)しようなんて、オラにもやらせろ」とケンに訴えるしんのすけ。「もうやめた」とケンが答え、野原一家は力が抜けたようにしゃがみ込む。その一家の様子をよそに、ケンは泣き崩れたチャコをそっと抱きしめる。
 もちろん、野望を阻止された二人が考えていたのは自殺である。しかしギリギリのところで止められて、チャコがギリギリの心境を口にするのだ。彼女が思ったことは、いくら過去が素晴らしくてももうそこへは戻れず、結局は現在を生きるしかないということで、これはこの映画が言いたいことでもあるだろう。チャコの心境としてはそれにもうひとつ、愛する人…ケンと一緒にという意味も含まれるだろうが。
 彼らが死を選ぼうとした直前に見せられたもの、それは家族が未来を育む姿であり、野原家にされを見せられた後に鳩の一家の様子を見せられ、自分達が奪おうとした過去は人間ものでしかなく、動物や大自然にとっては意味のない物だという現実だ。その現実をやっと直視し、チャコに死にたくないというギリギリの心境を吐かせることになったのだ。そして自分達にも「未来」が開けていることを悟る。
 こうして物語は、「家族」と「未来」というテーマをハッキリと提示したところで幕を閉じる。このシーンで本編部分は終了し、残り(名台詞欄シーンおよび次点欄)は大団円のためのオチだ。
(次点)ラストシーン(ノスタルジー要素・感動要素)
…ケンやチャコとの戦い決着が付くと、「イエスタディ・ワンス・モア」に捕らえられていた大人も子供も全員開放され、さらって行った時に使ったオート三輪の荷台に乗せられて家路につく。BGMは吉田拓郎の「今日までそして明日から」(作詞・作曲 吉田拓郎)、その歌声がノスタルジーを誘う中、みさえが「あの二人どうするのかしら?」と聞くとひろしが「何処かで生きていくだろう」と答える。このBGMの歌詞に合わせるように、愛車2000GTで走り去るケンとチャコの姿に切り替わる。このシーンでは妙な事件から解放されたという安堵感の他、ケンとチャコの旅立ちをしっかり描いている点が好印象だ。またひろしがいつも通り、しんのすけの「あのおねいさんきれいだったね」の一言で顔をとろけさせているのも「何もかもが元に戻った」という感じを出していてよかったと思う。
研究 ・臭い拡散装置
 最後の研究はタワー展望台にあった「臭い拡散装置」だ。これは夕日町で作られた「20世紀の臭い」を広く全国に散布し、人々の心境を「20世紀」にまで戻してしまうことで世の中を20世紀にしてしまおうという「イエスタディ・ワンス・モア」の野望において、核となる装置だ。
 構造的には夕日町で作られた「20世紀の臭い」をこの装置に導入し、タワー展望台上部の排気口からまとめて出すというものであろう。だが人々の心を惑わすような強烈な臭いを出すにはちょっと規模が小さいようにも感じるがこれは無視するとして、この装置についていろいろ気になる点がある。
 まずはその制御板がなぜ展望台の上にあるのかだ、展望台に置くのは臭いを拡散する排気口だけで良いはずで、後は任意の場所から遠隔操作をできるようにしておけば良いだけの話だ。結局この構造的欠陥が野原家によって野望を打ち砕かれる最大の要因になってしまう。展望台から世の中が20世紀に戻って行くのを眺めながら、臭いを拡散するつもりでだったのでは?という意見も出ると思うが、展望台から見える範囲の人々は既に確保して建物内部にいるからその必要は無いと思われる。恐らく、この装置のシステムもわざわざノスタルジーのために遠隔操作ができないようにしたのだろうか? だとすれば「イエスタディ・ワンス・モア」は自分達の方針によって墓穴を掘ったことになる。
 また夕日町で作られた「臭い」を、展望台の装置へ導くためにかなり太いダクトが必要になると思われるが、これがタワーにある様子はない。そのダクトはエレベーターの走路よりも太い物が必要だろうから、あれば相当目立つはずなのだ。これについては、実は夕日町が「20世紀の臭い」を製造する工場として存在するのでなく、「20世紀の臭い」の成分を分析するための施設でしか無く、これによって得られた結果を展望台の装置で合成して臭いを拡散するシステムだと解釈すればいい。
 夕日町と臭いの関係について、上述の解釈を取ればひとつ解決する問題がある。それはケンが野原一家を自宅に案内したシーンで、臭い拡散装置による臭いは強烈で靴の臭いでも元に戻れない旨をひろしに言っているのだ。もし拡散する「20世紀の臭い」が夕日町で作られた物であるなら、この町に入った段階でひろしやみさえはもう元に戻れないほどの洗脳を受けてしまうことになるはずだが、そうではなかった。つまり夕日町で作られた臭いはレベルが低く、そこまで人を洗脳することは出来ないのだ。だから展望台の「臭い拡散装置」は、夕日町の臭いの成分を合成して作り、そらにそれを圧縮して散布するに違いない、うんうん、そうに違いない。
 と思って安心したが、よく考えたら彼らの野望が打ち砕かれたのは野原家の奮闘を夕日町の人々がテレビで見て、それによって気が変わって「21世紀を生きたくなった」から臭いのレベルが下がったという事だった。すると「臭い拡散装置」はやはり夕日町の臭いをリアルタイムで散布する装置という事になってしまう。すると夕日町に足を踏み入れたひろしとみさえが正気でいられた事の説明が付かなくなる…この臭いや拡散装置の設定について、色んな解釈を考えてみたが劇中全ての台詞やシーンと合致する解釈はついに思い付かなかった。
 しかし「20世紀の臭い」ってどんなものだろう?

・「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」のエンディング
「元気でいてね」 作詞・白峰美津子 作曲/編曲・岩崎元是 歌・こばやしさちこ
 ノスタルジーなだけでなく、家族や親というものの暖かさを感じさせてくれる曲だ。子供時代の思い出を綴りながら、後になったからこそ親に「ありがとう」と心を込めて言えるようになったことを語り、その親がいつまでも元気でいて欲しいという願いを込める曲。こういう曲は私の年代になると凄く身に染みる、映画が凄く良かった上にこんな主題歌を聴かされて涙腺を刺激された人は多いだろう。内容的にも雰囲気的にも、この映画にこれほどぴったり合う曲はないだろう。
 歌うはあの小林幸子(劇場版「クレヨンしんちゃん」主題歌の時は名義が平仮名となる…子供でも歌手名が分かるようにとの配慮とのこと)、「クレヨンしんちゃん」ではこの前作となる「嵐を呼ぶジャングル」の主題歌を担当しているだけではなく、声優としても出演しているという。小林幸子のアニメ声優出演と言えば2008年12月の「ヤッターマン(リメイク)」を思い出す、本人役として声優出演しただけでなく、「天才ドロンボー」を熱唱したのは本当に驚いた。歌手としてはやはり思い出すのは紅白歌合戦のあの衣装、だけど豪華衣装を使用しなかった2004年の「雪椿」の熱唱がここ数年では最も印象に残ってる。

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