前ページ「クレヨンしんちゃんアッパレ!戦国大合戦」トップへ次ページ

…ひろしは車に乗って再度泉のところへ行ってみるが、やはり21世紀に戻ることは出来ない。一方、大蔵井高虎は康綱からの廉姫の姫入りを断るとの文を見て、戦支度をはじめる。
名台詞 「廉ちゃんお嫁に行かなくなったからって、ご機嫌になっちゃって…。」
(しんのすけ)
名台詞度
★★★
 夜、又兵衛の家ではひろしが持ってきたビールでささやかに盛り上がる。始めてビールを呑んだ又兵衛が「30年生きていてこのような美味いものは初めてだ」というと、ひろしやみさえは又兵衛が思ったより若いのに驚く。そのやり取りの後、しんのすけは「お嫁さんもいないうちから老けちゃって、おじさんも大変だね」と前置きした後で、ボソッとこう言うのである。
 しんのすけが又兵衛の思いをピタリと言い当ててしまう面白い台詞だ。物語の展開には影響のない台詞であるが、ひろしやみさえが戦国時代にタイムスリップしてくることがきっかけで物語が混乱する中、物語の行くべき方向がブレていないことを明白にしているのは確かな台詞だ。
 この台詞に対して、又兵衛は怖い顔をしてしんのすけに「おいっ!」っと迫るが、しんのすけは口を塞いで「言ってないゾ」と返すだけだ。そう、しんのすけが指摘したのはあくまでも廉の嫁入りが中止になった又兵衛の気持ちだけで、又兵衛の「想い」までは口にしていない。その意味でもうまく言葉を選んだなーと重う。
 何よりもここでのしんのすけと又兵衛のやり取りは大好きだ。
名場面 廉から見た野原夫妻 名場面度
★★★
 大蔵井が攻めてきたとの報に接し、城内では戦の支度が始まる。城内の女子供は「一曲輪」に避難し、野原家の面々も廉姫と一緒に一曲輪に避難する。落ち着いたところで廉姫が「それにしても不思議、北と南で生まれた二人が江戸で出会い夫婦となって、春日の私の一番好きな場所に住んでいるなんて…」と語り出す。突然の廉姫の言葉に、ひろしもみさえもどう反応してよいかわからぬ様子だ。構わず「だからこそ、あなたたち家族はそんなにも仲睦まじく、幸せなのだと思いたい」と廉姫が続ける。「ま、いろいろ言えないこともありますが…」としんのすけが口を挟むと、「だとしたら、私は嬉しい。本当に……きっと、きっと帰れます。あなたたちに不幸に似合いません」と廉姫が続け、みさえとひろしは照れながら礼を言う。「廉ちゃんにも不幸は似合わないぜ」と格好つけた後に照れ笑いするしんのすけを見て、廉姫が微笑む。
 廉姫はこの夫婦に、自分の姿を重ね合わせたのであろう。一国の姫でありながら、やはり彼女が求めているのはひろしとみさえのような平凡で幸せな夫婦と、家庭であることがこの台詞からよく伝わってくる。彼女は東北出身のひろしと、九州出身のみさえという二人の距離を、自分と自分が想い焦がれる又兵衛との身分や家柄などの距離に例えたのだろう。そしてその距離を乗り越えて夫婦になった二人の幸せが羨ましく、自分もこうありたいと願うようになったのだろう。そらにその夫婦が、自分が気に入っている場所に住んでいるのは純粋な驚きだ。
 このシーンを見るに辺り、ひろしが秋田出身、みさえが熊本出身という設定を知らない人は訳が分からなくなるだろうなぁ。
研究 ・曲輪
 今回、戦の時に女性や子供が避難する場所として「一曲輪」という言葉が出てくる。「曲輪」というのは城内の区画を指していて、廉姫達が戦の時に避難した場所「一曲輪」は、現代風に言えば「第一区画」という意味であろうか。春日城ではこの1番目の区画に、戦時は女性や子供の避難先として充てているようだ。
 ちなみに戦国時代では、城下に住む民衆も戦時はシロに匿われることになっていたようだ。庶民は国を治める大名に年貢を納めるなどの負担が課せられると同時に、戦時は城に避難して敵をやり過ごすという権利があったのだ。だが劇中でも描かれているように、戦になれば自分の身体は助かっても家は焼かれ、畑は荒らされることになる。戦で城に匿われるということは、家や畑を捨てるようなものであり、いくら城に匿われるからといって戦で民衆が犠牲になるのは今も昔も変わらないと言うことだ。

…どうでも良いけど、本作のDVD。今回の名場面欄シーンで字幕を見てみると、廉ちゃんが「避難」と言うべき場所が「非難」って文字になっているゾ。

…夜明けと共に、戦の火ぶたが切って落とされる。大蔵井の軍勢は春日城を取り囲み、空堀を挟んだ攻防戦が繰り広げられる。
名台詞 「おまたのおじさん大丈夫かな? オラ、ちょっと見てくる!」
(しんのすけ)
名台詞度
★★
 城から戦の様子を見る野原一家だが、付いていた武士に流れ弾が当たるから逃げるよう言われる。慌てて建物の中に引き込むみさえとひろしをよそに、しんのすけはこう呟いた思うと駆け出し、城の階段を下って戦場へと走る。これを止めるべくひろしがしんのすけを追いかける。
 この台詞を吐くしんのすけをどう見るかで、この物語の印象が変わるかも知れない。又兵衛がいる場所は戦場という危険な場所であり子供が近付くような場所でないことを知っているか、さもなくばそんなことは考えてない「天然」なのかという問題だ。
 個人的には前者だと思う。前者だからこそ又兵衛が心配でなって危険を冒して様子を見に行くのだ。又兵衛との間に芽生えた友情のようなものもあるだろうし、何よりも又兵衛にもしものことがあったら廉姫が悲しむであろう事をしんのすけは知っている。だからしんのすけは戦場へ向かって走らずにはいられないのだ。
 もししんのすけが「天然」であれば、又兵衛をだしに「面白そうだから言ってみよう」という行為となる。私はそうでないとは思うが、そちらにも受け取れてしまうのはしんのすけはこの戦を見て「お祭りみたい」と感想を述べた点である。何だか盛り上がっていて楽しそうで、そこで何が起きているかわからず暴走するしんのすけ、とこの台詞を見る事は出来るのだ。
 そしてこの台詞に関連するシーンを、どちらとも取れるように描いた点は注目に値すると思う。このようなこれまでの「クレヨンしんちゃん」にない物語で、視聴者が持つ主役のイメージをいかに壊さずにストーリーを進めるかという点においてこれは重要だ。このしんのすけが前者か後者が、これはそれぞれの人が持つ「しんのすけ像」から、それぞれの人が判断してみればよいだけの話だ。
名場面 名場面度
★★★★★
 本作の物語以外での最大の見どころは、この部分で演じられる戦のシーンだ。「クレヨンしんちゃん」というアニメとはいえ戦国時代の戦が忠実に再現され、その再現度は歴史研究家も正確だと認めているという。
 またNHK大河ドラマなどの実写では再現不可能な点の再現をしているのも見物だ。何よりも実写で再現するとお金がいくらあっても足りなくなってしまう、武士用個人の旗印や鎧を描き分けている点は凄い。
 その上で「子供向け」と言うことで、やられた武士が倒れるシーンはあっても明確に「死ぬ」シーンは描かれていない。又兵衛や仁右衛門に刺されて倒される武士も、刺されるときには画面の外である。忠実な戦国シーンの再現と、子供への配慮の両立をしている凄いシーンである。
 このシーンは多くの人にDVDを買うなり借りるなりして見て頂きたい、この戦の迫力や、別のメディアで見た戦国時代の戦いとは違う様々な発見を、見る者がすることになるだろう。
研究 ・ 
 

…夕刻になり、最初の日の戦が終わる。又兵衛は無事に戻ったが、翌早朝に又兵衛が隊を率いて撃って出ることに決まる。同時刻に野原一家は、隙を見て自動車で城を脱出することになった。
名台詞 「死ぬことだけが、武士の道ではありませぬぞ。」
(吉乃)
名台詞度
★★★
 又兵衛が廉姫と野原一家に今後の事について語る。評定があって又兵衛が隊を率いて撃って出ることになったこと、その隙を突いて野原一家が自動車で城下から脱出すること。廉姫とともにこれを聞いた吉乃は「無謀な…」と返すが、又兵衛は覚悟が決まっている事を語る。すると吉乃はこのように返すのだ。
 この物語に出てくる又兵衛や仁右衛門など武士の台詞を聞き、その生き様を語られたときに現代人の多くが同じように感じた事だろう。何故そんなに死に急ごうとするのか…これは平和な世を生きている我々にはとても解りづらいことだ、その疑問を劇中の吉乃が代弁してくれる台詞である。
 でも本当は武士は死に急いでいるのではない、守るべき者があるからこそ戦場で死を覚悟して戦うことが出来、周囲にその覚悟を語ることが出来るのだ。それが仁右衛門であれば妻のお里であるし、又兵衛ならば廉姫である。そしてその守るべき存在を守っている殿という存在、国という大きなゆりかご、これらを守らねば愛する者を守れないことも知っている。だから乱世では彼らは殿に従い、国に従い、生命を賭して戦える。
 吉乃はそんな世界に生きてきたからこそ、そんな男達の気持ちは重々知っているはずだ。だがそんな吉乃がわざわざこんな台詞を吐く理由はただ1つ、彼女は又兵衛の廉姫への想いと、廉姫の又兵衛への想いの双方を知っているという伏線だ。特に廉姫がどれだけ又兵衛を想っているか、廉姫に長年仕えてきたであろう吉乃は誰よりも知っているに違いない。だからこそこんな台詞で又兵衛を止めようとするのだ。
 もちろん、又兵衛がこんな言葉で止まる男でもないし、こんな言葉で止まる男でならば廉姫が惚れるはずがない。吉乃はそこまで含んで、廉姫の気持ちを考えたら「言わずにいられなかった」のであろう。そんな背景がよく見えてくる台詞だと、私は思う。
名場面 又兵衛と手ぬぐい 名場面度
★★★★
 夜明け前、戦いの始まりに乗じて城から脱出すべく、野原一家が自動車を止めている又兵衛の家に着く。その際に仁右衛門が又兵衛を呼ぶのだが、この時の又兵衛は野伏に襲われたときに怪我をし、その際に廉姫が怪我をした手に巻いてくれた手ぬぐいを黙って認めている。そして仁右衛門の声に反応すると、決意したようにその手ぬぐいを握りしめる。
 ほんの一瞬に近いシーンである。だがこのとても短いシーンから又兵衛の色々な気持ちが見えてくるとても良いシーンだ。又兵衛の廉姫への想いだけでなく、戦に出る決意や何としても廉姫を守るという決意がうまく演じられているのである。それだけではなく、この時に又兵衛が「もし戦に勝って無事に帰れたら、姫に想いを打ち明けよう」という決意をしたのは考えすぎだろうか?
 又兵衛はこの手ぬぐいを戦場へ持って行くのでなく、家の物置に片付けてしまう。これは手ぬぐいをすぐ返却するのでなく、戦場から戻ったらその処置を考えるという事である。すぐに返すのでなくわざわざ後回しにする辺り、「戦場から生きて戻ったら」を考えてしまえるシーンになっているのである。もちろん不器用な又兵衛のことだ、片付けたまま忘れるかも知れないし、何も考えずに普通に返すだけかも知れない。でも又兵衛は姫の気持ちに気付いているし、溢れ出す想いが止まらないのも確かだろう。だから告白する決意もしたと解釈することが可能なのだ。
 ものすごく短いシーンだが、本作ではかなり印象に残っている1シーンだ。
研究 ・握り飯
 今回部分では、廉姫やみさえが戦場への差し入れとして握り飯の炊き出しを行うシーンが描かれている。戦場とおにぎりという関係は日本では有史以来続いており、戦国時代でも武士の携行食として、または本作のように炊き出しを行っての差し入れとして食されたことは記録に残っている。持ちやすく食べやすく栄養もあるおにぎりは、現在も戦場の携行食として必需品の1つだ。
 前述のようにおにぎりの歴史は古く、その歴史は弥生時代の遺跡にまで遡ると言うから凄い。古墳時代の遺跡からは弁当箱に入ったおにぎりが発掘されており、遠出する際の「弁当」としておにぎりが古くから定着していたのは間違いない事実だ。鎌倉時代からはうるち米が使われるようになり、江戸時代に入ると海苔を巻くようになる。江戸時代に海苔を巻くようになると、米粒が手に付かないという実用性も相まっておにぎりと海苔は切っても切れない関係になったとされている。現在のおにぎりは江戸時代にその形態が決まったものと考えてよい。
 劇中で出てきたおにぎりは海苔が巻かれていなかった点を考えれば、時代考証的に間違っていないようだ。みさえが作ったおにぎりが大きすぎて、しかも塩がききすぎてしょっぱいというように描かれているが、この時代は現代より薄味であったらしいことは解ったがおにぎりの塩の量はどうだったか調べてみても解らなかった。よってみさえが現代人だからしょっぱいおにぎりなのか、それともそれはみさえ個人の個性なのかは解らないままだ。ただ当時は、塩の強いおにぎりは敬遠される傾向があったらしい。
 ちなみにおにぎりに塩を降るのは、衛生上の理由と必要な塩分の摂取のーだけでなく、塩と米の組み合わせには栄養分を早く体内に吸収させる役割があるのだという。そういえば山歩きなんかしていても、おにぎりを食べたらすぐ満腹感が湧くと共に疲れもあっという間に取れる。おにぎりというのはこのように優れた食べ物なのだ。

…夜明け直前、いよいよ又兵衛が兵を率いて大蔵井の陣へ突入を開始する。同時に野原一家も自動車に乗って春日城から脱出する。廉姫は居ても立ってもいられなくなり、遂に戦場へ向かって駆け出す。
名台詞 「今日は晴れそうだ…」
(又兵衛)
名台詞度
★★★★
 出撃体制を整え、後は突入の頃合いを見計らって城から飛び出すだけ。その時刻を待っている時に、又兵衛が空を見てこう呟く。
 この台詞、個人的には又兵衛の台詞の中で最も好きだ。恐らく自分が戦国武将であったら、突撃を前にした緊張のひとときは空を見て過ごし、思わずこう呟いてしまうだろうと思った台詞だ。台詞自体は短いし、かつ物語の本編にも全く影響のない台詞であるが、どうしても取り上げずにはいられなかった。ここのシーンには名台詞と言える台詞が多いが、敢えてこれを選んだ。
名場面 野原一家突撃 名場面度
★★★★
 最初は又兵衛の奇襲が成功し、春日勢有利で進んでいた戦だが、やがて大蔵井勢が体勢を立て直したことで戦況は膠着状態となる。奇襲のため小部隊でだった春日の軍勢は、大蔵井勢に勢力を分断されそうになるなど、一転してピンチとなる。そこへ野原家の自動車が突っ込んでくる、「野原一家ファイヤー!」のお決まりの掛け声と共に野原一家が戦場に自動車で突進してきたのだ。「春日部住人野原一家、儀によって助太刀いたす! いざーっ!」ひろしは叫びながら、パッシングとクラクションを繰り返しながら大蔵井の軍勢に飛び込んで行く。そのスピードと音と光に大蔵井勢は驚き、軍勢は総崩れとなる。「どけどけーっ! ぶつかっても保険は降りねーぞー!」と叫びながら突進を続けるひろしの台詞に、緊張シーンにかかわらず吹き出した人は多いことだろう。又兵衛は敵が大混乱に陥って総崩れとなったのを見逃さず、野原一家に笑顔を送ると軍勢を一気に前へ進める。ひろしは先頭を切って自動車を前進させ、その後を又兵衛らが突進。大蔵井高虎は何が起きたかわからず、鎧を着て自らが戦に出る支度を開始する。
 いよいよ野原一家が戦に加わる。そのシーンは「自動車での突進」という、現代と戦国時代が融合した不思議な光景だ。この光景を見て昔あった「戦国自衛隊」という映画のワンシーンを思い出した方も多いことだろう。
 このシーンは前々回部分の名場面欄でじっくりと戦国の戦を描いたからこそ活きてくるシーンだ。この直前までも戦国時代の戦いを可能な限りリアルに描き、そしてそのリアルさを維持したからこそ、野原一家が自動車で突っ込んでくるという本来は「ありえねー」と言われそうなシーンがとても盛り上がるのである。
 またこのシーン中のひろしの言動がいちいち面白いのもこのシーンを盛り上げる要素であり、「クレヨンしんちゃん」が本来ギャグアニメであることを忘れさせない要素の1つだ。こんな形で合戦を他の戦国ものでは味わえない形で盛り上げ、いよいよ話をクライマックスへともって行くのだ。
研究 ・ 
 

ひろしの活躍で形勢は逆転し、野原家の乗用車に続いて又兵衛が大蔵井高虎の本陣に切り込む。
名台詞 「待って! もういいでしょ? オラ達、勝ったんだよ。こいつ悪い奴だけど、もう大丈夫だよ。おじさんが強いのわかったから、もう攻めてこないよ! だから許してやろうよ。」
(しんのすけ)
名台詞度
★★★
 名場面欄で戦いに決着が着くと、又兵衛は倒れている高虎のところへ駈けてくる。しんのすけが「何するの?」と聞くと、「首を取るのよ」と返答があって野原家の一同は驚きの声を挙げる。「目の前に敵の大将が倒れていて、その首を取らぬ馬鹿はいない」と又兵衛は言い切る。そして小太刀を高虎の首に掛けようとした又兵衛に、しんのすけはこう訴える。
 又兵衛の言動は戦国時代を武士としては当然だ、生命を賭して戦で戦い、その戦に勝たねば自分達に未来はない。そしてその未来が目の前に転がっていれば、その首を取って勝利を勝ち取るのが武士の本分だ。
 だが現代っ子のしんのすけとしては、目の前で人が死ぬと言うことにどうしても抵抗があるはずだ。そしてそれだけではなく、しんのすけは自分が高虎を倒したことで十分と考えていたはずだ。倒されたことで自分達の強さ、そして又兵衛の強さを知り、再び戦を起こすことの無意味さをしんのすけはこの戦いで知ったのであろう。だからこそ高虎はこの敗北で攻めてこないと思い、こう訴えたのだと思う。
 この訴えに又兵衛も反応する。又兵衛は高虎の鎧を外して小太刀を掛けるが、切ったのはもとどりだけであった。彼はこの訴えを聞いて、「許す」ことの大切さを感じたに違いない。野伏だった彦蔵と儀助も「許す」事で心を入れ替え、野伏から足を洗って武士として立派に働くようになった。それを感じると共に、戦に明け暮れて殺すか殺されるかだけの状態を、廉姫が何よりも嫌っていることも知っていた。高虎の首を取って帰っても廉姫は喜ばない、高虎を許し活きて返すことこそ彼女が望むのではないかと考えたのだろう。
 いずれにしても、これに対して又兵衛は高虎のもとどりだけを取り、高虎を討ったのは野原一家だと勝ちどきを挙げることなよって戦を終わらせる。
名場面 決着 名場面度
★★★★
 大蔵井の陣に切り込んできた又兵衛達は、そこにいる親玉が高虎であることを確認すると一気に名乗りを上げて、大蔵井の馬廻衆との戦いとなる。この戦いの隙を突いて高虎は逃亡を謀ろうとするが、そこをしんのすけに見つかり逃げ道を阻まれ、しんのすけに「逃げるのか?」と追求を受ける。溜まらず刀を抜きしんのすけに斬りかかる高虎だが、ここにみさえが割り込んで高虎の刀を食い止める。さらにひろしが何故か車に積んであったボディーブレードを高虎の顔を殴ると、高虎は少し怯むがまた立ち上がる。そこをすかさずしんのすけが高虎の股下に走り、金的を食らわす。すると高虎は気を失い、その場に倒れる。
 やはりここは敵の総大将を野原家の連係プレーで討つからこそ、この映画が面白くなったと思う。またもし又兵衛が高虎を討つとなれば、その悲惨な死のシーンを流すことになり子供達も驚くことであろう、そういう面からも野原家の連係プレーで高虎を討つというのはうまく考えたと思う。
 そしてその内容は、「クレヨンしんちゃん」らしいものであったのは言うまでもないだろう。しんのすけの暴走に始まり、これをみさえが食い止め、ひろしが相手に決定打を与え、とどめはしんのすけの金的である。このパターンは「クレヨンしんちゃん」の王道として完成しており、「真面目なしんのすけ」と「両親の愛情」と「お下品ギャグ」の3拍子がうまくまとまっていると感心する。この王道パターンで敵の大将が倒される事で、この先に今まで途は違う「クレヨンしんちゃん」が描かれる事になっても、本作品は「クレヨンしんちゃん」として完成したと思う。
 しかし、この本陣に切り込んでからの一連のシーンは名場面をひとつ選ぶのに凄く悩んだなー。
研究 ・ 
 

…野原一家が大蔵井高虎を討ち取ったと勝ちどきを挙げた又兵衛は、しんのすけ一緒の馬に乗せてに城へ戻る。廉姫は又兵衛の無事を知り、又兵衛の姿が見えると櫓の上から大きく手を振る。
名台詞 「うん、こんなに人を好きになることは、もう二度とないと思う。だから、私はこれから先、誰にも嫁がない。」
(廉)
名台詞度
★★★★
 又兵衛の死の後、野原家一家は元の世界に戻るべくあの泉のところへやってくる。見送りに来た廉姫はしんのすけと並んで腰を掛け、「又兵衛が戦で生命を落とすことを、私は判っていたのかも知れない。多分、又兵衛自身も。私の願いが届いたせいで、しんのすけには辛い思いをさせてしまったな」と語り出す。これに対ししんのすけは「廉ちゃんはおまたのおじさんと結婚したかった?」と問うと、廉姫は遠くを見つめてハッキリとこう答える。
 私はこの台詞で本作が「又兵衛と廉姫の恋物語」として完成したと思う。又兵衛は死の間際に廉姫への想いを語りかけ、それに対するアンサーとして廉姫のこの台詞があるのだと思う。その廉姫は又兵衛への想いが一点の曇りのない確かなものであったことをこの台詞を通じて見る者に訴える。二人が想い合い、そして片方が生命を落とし、遺された者はこのように想いを継いで生きて行く、こうして「恋物語」が完成したのである。
 この台詞に対してしんのすけは「本当はおじさんも廉ちゃんのことを…」と言いかけるが、廉姫は「もうよい!…もうよいのだ、しんのすけ」と涙を流してその言葉を遮る。これは廉姫に又兵衛の思いも通じていたことを示唆していて、廉姫は又兵衛を失った後でその想いを改めて知らされるのが辛かったのである。しんのすけは危なく又兵衛の気持ちを喋ってしまいそうになった事を反省し、ここで又兵衛の形見の小太刀で「金打」をする。
 こうして物語が上手く成立したところで、戦国時代での物語は幕を閉じる。
(次点)「しんのすけ、お前が何故俺の元へやってきたか、今わかった。俺はお前と始めて会ったあの時、撃たれて死ぬはずだったのだ。だが、お前は俺の生命を救い、大切な国と人を守る働きをさせてくれた。お前は、その日々を俺にくれるためにやってきたのだ。お前の役目も終わった、きっと元の時代へ帰れるだろう。馬鹿、泣くな、帰れるのだぞ。そら、これをやろう。お前の言う通り、最後にそれを使わないでよかった。きっと姫様も同じことを…」(又兵衛)
…又兵衛の最後の台詞である。又兵衛は生命と引き替えにしんのすけ達が何で自分のところに来たのか、それによって自分に何が出来たのかを知ることになる。彼は「大切な国と人を守る」と言っていたが、それが両方とも廉姫に掛かっているのは言うまでもない。そしてしんのすけに感謝するのはそんな働きをさせてくれたことだけではない、前回部分の名台詞欄で語ったように戦とはいえ、廉姫がむやみに人を殺すことを願っている訳ではないことを知っている。敵の首を取ることではなく、自分が無事に帰ることが廉姫にとって一番大切であり、それを気付かせてくれた事にも感謝しているのだ。そのしんのすけへの感謝が上手く表現されている台詞だ。
名場面 又兵衛の死 名場面度
★★★★★
 戦を終えた又兵衛達が城へ戻ってくる、その又兵衛達の姿を櫓の上で廉姫が見下ろしていた。廉姫は大きく手を振ると、しんのすけが「あれ廉ちゃんじゃない?」と又兵衛に声を掛ける。大きく手を振る廉姫を見て、又兵衛は頬を赤らめて見上げる。そして安堵のため息を付く廉姫…その戦の後ののんびりした光景を打ち崩したのは、一発の銃声だった。
 画面が「何?今の音?」と言うしんのすけに変わる、すると又兵衛は力無く落馬するのだ。「おじさん? どうしたの?」しんのすけは落馬した又兵衛の元に走る。「撃たれたらしい…」力無く言う又兵衛の声に、しんのすけだけでなく仁右衛門達にも動揺が広がる。そして名台詞次点欄の長い台詞を吐く。この台詞が終わると、又兵衛はそのまま絶命する。しんのすけは又兵衛からもらった小太刀を手にして、大粒の涙を流して泣く。その涙が小太刀を伝って流れる様と、倒れた又兵衛の青地に白い雲の旗印。「誰じゃ、誰がやった!?」叫ぶ仁右衛門、「おのれか?」「出てこい!」と敵兵に刀を向ける儀助と彦蔵、そしてその迫力に鉄砲を捨てて退散する大蔵井の武士達。櫓の中で静かに泣く廉姫…。
 戦に勝って国を守った又兵衛が、突如倒れる。そしてそのまま又兵衛が死ぬシーンはこの映画最大のヤマ場であり、感動シーンであると行っても良いだろう。しんのすけは目の前で信用していた大人の、廉姫はこれまで想い続けた人の、仁右衛門達は尊敬する主人の、それぞれの死を目の当たりにし、それに対する反応を見せる。
 さらに又兵衛はしんのすけに、しんのすけに欲しいと言われた際に「父の形見」だとして断った小太刀を渡す。これは名台詞次点欄の内容の通り、又兵衛のしんのすけに対する感謝の気持ちだ。そしてしんのすけはその感謝の気持ちを、幼いながらもしっかり受け取った。だからしんのすけは他作品では見られないような大粒の涙を流すことに説得力が出るし、その大袈裟な泣き方で白けることもない。しんのすけと又兵衛の間に確かな友情が生まれていたことがハッキリして、このシーンで涙した人も多いことだろう。
 そして仁右衛門達の気迫は彼らがどれだけ又兵衛を信頼していたかがわかる、特に儀助や彦蔵は明確に又兵衛に助けられたシーンが描かれていることもあり、これまた彼らの言動も説得力があるものとなっている。
 そして廉姫は画面に顔を向けず静かに泣くシーンが数秒間映るだけだ。だが廉姫についてはこれだけで十分その想いが伝わってくる。彼女が面と向かって泣きじゃくるようでは大いに白けてしまう。この廉姫の静かな泣き姿こそが、名台詞欄のシーンに説得力を持たせたと言って良いだろう。
研究 ・誰が又兵衛を殺したか?
 「又兵衛の死」は本作では避けて通れないエピソードである。又兵衛の死を通じてしんのすけと又兵衛の間にしっかりした友情が生まれると共に、しんのすけは又兵衛から男としての生き方を教わったことを知り、同時に「死」というものの悲しさを知る。
 ではこの物語を作るために、又兵衛は誰に殺されたのかという問題に迫ってみよう。
 そのヒントは又兵衛が撃たれて馬から落ちたシーンにある。又兵衛は胸に銃創があり、急所を一撃されたことがわかる状況だ。又兵衛の身体を撃ち抜いた弾丸は、馬に乗っていた又兵衛の姿勢などを考えると人の背丈より少し高いところを抜けていったように考えられる。つまり銃を撃った相手も馬に乗っていない限り、地面に近いところから斜め上へ向かう銃弾に撃たれたと言うことはわかる。
 一般的に銃創というのは、弾が身体に入る方はきれいな形で、出て行く方は乱れた形になってることが多いという。又兵衛の胸の銃創はきれいな丸なので、銃弾は又兵衛の胸から背中に抜けたと考えたいが、この説を採ると大問題が発生する。それは又兵衛としんのすけが馬に乗っていた姿勢を考慮すると、同時にしんのすけは頭を打ち抜かれて死んでしまうことになってしまうのだ。しんのすけが無事でいるためには又兵衛は背中の低い位置から撃たれ、貫通した弾は心臓付近の胸から出て行ったと考えたい。そうすれば弾丸はしんのすけの頭上を通過するはずだ。そうだ、又兵衛の胸の穴はあくまでも鎧に開いた穴で、銃創ではない、そう解釈すべきだ。
 すると一番怪しいのは又兵衛の後ろに続いていた春日の軍勢である。彼らの誰かが持っていた鉄砲が暴発したのだろう。だが城へ帰る春日の軍勢の隊列を見ていると、前の方にいるのは槍を持っている武士だけで鉄砲隊はいない。つまり春日側の鉄砲隊に、上述の形で又兵衛を撃てる位置にいた武士はいない事になる。
 又兵衛が死んだ直後、仁右衛門らが大蔵井側の鉄砲隊に「誰がやった?」と叫んでいた。つまり又兵衛が落馬した付近に敵の鉄砲隊がいたのは事実のようだ。この中の負け戦が信じられない誰かが又兵衛を狙って引き金を引いたか、あるいは銃が暴発したかのどちらかであろう。もし故意であればこの状況だとすぐに返り討ちに遭う事は明らかなので、草陰に隠れてコッソリ撃ち、すぐ逃げたに違いない。
 個人的な解釈としては、しんのすけが戦国自体にタイムスリップして最初に出てきた岩月の武士ではないかと思う。彼らは戦の時に敵陣に潜伏し、敵の大将を撃つのを専門にしているゲリラ部隊なのだろう。その彼らが大蔵井の命を受けてコッソリと又兵衛に近付き、撃ったと私は解釈している。野原一家が高虎を討ち取った瞬間に停戦となり、彼らにも引き上げの指示が出ていたに違いないが、その前述シーンに続いて二度も又兵衛を逃がすことを由とせず、引き揚げ命令に逆らって又兵衛を撃った…と私は考えているのだ。

…野原家は無事に現代の自宅に戻ってきた。そしてふと空を見上げる。
名台詞 「おい、青空侍!」
(廉)
名台詞度
★★★
 野原家がタイムスリップして去った後、廉姫も空を見上げた。するとタイムスリップした後の野原一家か見た雲と同じ形の雲(名場面欄参照)が廉姫の頭上に浮かんでいたのだろう。廉姫は目を潤ませ、そして涙を流すと最後にこう呟く。そしてそのまま物語が幕を閉じる。
 名場面欄でも語るが、名場面欄で語るシーンはこの台詞まででひとつのシーンである。野原一家が自宅の庭先で又兵衛の旗印そのものの雲を見るが、廉姫もやはり同じ雲を見たことが示唆されている。そして廉姫も「又兵衛が見守っている」と感じて、この雲に向かって呟いたのだ。
 この台詞がこのまま本作のラストシーンとなり、映画はそのままエンディングテーマへと流れて行く。
名場面 自宅に戻ってきた野原一家 名場面度
★★★★★
 野原一家は廉姫と別れの挨拶をすると、唐突に現代の自宅の庭にタイムスリップする。ため息を付いてから自動車から降りる一家の中で、しんのすけがふと空を見上げて「あっ!」と叫ぶ。画面はしんのすけ目線で見た両親が叫びに反応した姿から、徐々に上へ移動する。そこには真っ青な空に又兵衛の旗印そのものの雲がひとつだけ浮かんでいた。「おじさんの旗だ!」しんのすけが声を挙げると、画面はこの雲がアップとなり、続いてこれを見上げて目を潤ませる一家全員とシーンに変わる。続いてしんのすけが又兵衛の形見である小太刀を雲に向けて掲げる。
 このシーンは名台詞欄シーンと一体でひとつのシーンであり、物語のオチである。同時に「人の死」というものに対するひとつのメッセージが込められていると感じた。それは先に他界した者は、天から我々を常に見守っているというものである。
 そう、又兵衛の生命を失ったが、彼の魂は野原一家を、そして廉姫を見守っていることをこのシーンは示唆しているのである。物語の序盤から(うわ、この考察ではそのことに全然触れてなかった!)又兵衛の旗印が青地に白い雲であることを強調していたが、それは又兵衛が空を見るのが好きという伏線だけでなく、このラストシーンへの伏線だったことはこれで誰もが理解するところだろう。ここで出てきた雲は又兵衛の魂であり、彼が時を越えて野原家と廉姫を見守っていること、そして野原一家や廉姫がそう受け取った事をうまく示唆している。このシーンから多くの人々は、「先に逝った人は自分達を見守っている」というメッセージを受け取り、何人かの視聴者は身の回りで最近逝った人の顔を思い浮かべたりしたことだろう。
 こうして、物語は又兵衛の死を通じて物語の前面に出した「死」というテーマに、ひとつの答えを出した。肉体は有限でも魂は無限だというこの考え方こそ、又兵衛の死で登場人物と視聴者に伝わったことだ。
 しかし、本当にこのシーンは名台詞欄の部分も含めて上手く作られている。雲が大写しになった後は、野原一家のシーンも廉姫のシーンもこの雲から見下ろしたカットになっているのは驚きだ。やはりこれも「又兵衛が見守っている」事の表現だろう。下手に又兵衛の顔を上空に描くイメージシーンにするよりも、このシーンは何倍も効果があったと思う。本作が高評価を得る作品として完成したのは、このラストシーンの効果は大きいと思う。
研究 ・その後の康綱
 物語は無事に決着が着くが、この物語を見た人達が気になるのは春日康綱や廉姫がこの後どうなったかであろう。
 まず廉姫であるが、戦国時代に殿の姫が独身を貫くことが出来たかどうかが問題のような気がする。彼女の決意が固く、どうしても独身を貫くなら早い段階で出家して仏門に入ったと考えるのが自然であろう。
 続いて康綱であるが、まずひとつ気になるのは跡取りがないことである。男子は全て戦で生命を落としたようで、家督を誰が継ぐかは廉姫の出家もあって大問題になったことだろう。このために何処かの男子を養子にしたに違いない。そして康綱亡き後の体制を作り始めていたのは確かだろう。
 だがその後、劇中に描かれた時代の16年後に、豊臣秀吉が関東地方を支配する後北条氏を征伐することを目的とした「小田原合戦」が勃発する。これが春日家の命運を分けたはずである。恐らく関東地方奥深くに春日の国は、後北条氏の支配下にあったと考えられるので、この合戦の勃発で後北条氏側についたと考えられる。劇中に出てくる大蔵井や岩月といった武将も、同じく後北条氏側について戦ったことだろう。豊臣側の進軍は早く、関東地方の諸城が次々に陥落する中で、春日城も同様の運命を辿ることになり康綱以下生き残りの武士は小田原城籠城戦へと流れて行く。そして小田原城陥落の過程で、春日勢は全滅して途絶えたと考えるのが自然だろう。
 廉姫は劇中では嫁入り適齢期であったため、17歳前後と考えたいが「又兵衛と幼なじみ」という設定からすると20代後半だった可能性がある。もし「小田原合戦」まで生き延びていれば40代に差し掛かったところであろう。彼女は尼僧として戦国時代末期を生き、徳川家康が江戸幕府を開く頃までは存命だったと想像出来る。彼女の死によって、春日家は完全に途絶えたと考えるべきだろう。

・「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」の主題歌
二中のファンタジー〜体育を休む女の子編〜」 作詞/作曲/編曲/歌・ダンス☆マン
 では、最後の最後で本作品の大批判としよう。ここで本作を劇場版「クレヨンしんちゃん」中で最も駄作だと言い切るのでそのつもりで読んで頂きたい。
 正直、この主題歌がこのとても素晴らしい映画を台無しにしている。物語の内容とは無関係な歌詞内容、戦国時代という作品のプロットに似ても似つかぬアレンジ、歌詞が聞き取れないやる気のない歌声。本作と無関係なだけでなく曲自体がお世辞にも素晴らしい言えるものではなく、正直何度聴いてもこの曲がなんでこの映画の主題歌に起用されたのか理解に苦しんでいる。
 だいたい、「体育を休む女の子がいました、その女の子がいつの間にかいなくなりました、それで僕はシュートを外しました」ってそれだけの歌と、今回の又兵衛と廉姫の恋物語や、野原一家が見せた物語は何の関連があるのだろう。この映画にこの主題歌をと決めた人を何時間も問い詰めたい思いである。
 正直、本作を始めて見たとき、最後の廉姫の台詞でモーレツに感動していた。そして「クレヨンしんちゃん」を題材にこんな映画をでっち上げられるんだと素直に感動し、作品に対して心からの拍手を送りたい心境だった。だがこの感動と感心も、この曲が瞬時にぶち壊してくれたのである。この曲の内容や伴奏の何処にも本作の余韻に浸る要素はなく、逆にそれまでの感動をぶち壊された事で作品自体への印象がとても悪くなってしまった。
 もちろん制作側にも色々な「事情」はあるだろう。アニメがテレビ放映されている漫画が原作なので、テレビ局の意向が作品製作に入るのはやむを得ないのは認めよう。それで一時的な流行で今は名前が忘れ去られているような「お笑い芸人」やタレントやアイドル歌手を声優として起用したり、テレビ局が最も売り込みたい歌手を主題歌に使うのは映画製作の予算を取るためにはどうしても必要だ。
 だが、それでも「やり方」ってものはあるはずだ、歌手本人にどうしても物語に見合った詩が書けないなら他の人に頼めばいいし、曲調がどうしても映画と合わないならオープニングで先に見せてから物語でその印象を消すように作ればいい。そのような工夫もなくスポンサーから押しつけられた歌手を、そのまま使ったという点もへ本作への批判点となりうるだろう。現に次作「嵐を呼ぶ!栄光のヤキニクロード」ではスポンサー側に押しつけられた歌手をオープニングで起用し(あの華原朋美の曲はここまで酷くない)、主題歌としてエンディングに流された曲は野原一家の歌声による「クレヨンしんちゃん」らしい曲であった。本作のエンディングを野原一家にして上手く行くはずはないが、他の手段はいくらでも考えられたはずだ。
 私は物語だけでなく、作品全体を通じて見た場合、本作は劇場版「クレヨンしんちゃん」で最も駄作だと考えている。理由はこの主題歌、それだけだ。この主題歌は本作の高評価を統べてなかったことに出来るだけの破壊力を持った駄作で、この駄作が物語全体をむしばんでいる。これだけ本作の印象をぶち壊した映画主題歌を私は知らない。本作に対してこんな主題歌で、よく当時の映画作品賞を色々と取ることが出来たなと驚きだ。

前ページ「クレヨンしんちゃん アッパレ!戦国大合戦」トップへ次ページ