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第1話 「アルムの山へ」
名台詞 「ええ、もし引き受けるのが嫌ならどうとでもしたらいいわ。どうなったっておじさんのせいなんだし、だからってそれを気に病むようなおじさんでもないでしょうからね。」
(デーテ)
名台詞度
★★★
 デーテは姪であるハイジを連れ、姉の夫の父…つまりハイジを祖父の元に連れた来た。そしてデーテは自分が働きに出ねばならないなど小さな子供の面倒を見ることが出来ない理由を一方的にまくし立てた後で、最後にこう告げる。
 この一言で「デーテ」というキャラクターが自分勝手な女性として印象付いた凄い台詞だ。そこまでデーテが語ったハイジの世話を出来ない理由は、手前勝手ながらも理解出来る点があったのだが、この最後の一言はデーテが自分の都合を言っているのでなく、明かな「おじいさん」に対しての誹謗中傷。相手が自分を理解しようとせず、隣にいる子供を引き取るかどうかもハッキリさせないので、逃げさせないために出てきた言葉であろうが、いくら何でも行き過ぎだ。
 もちろん、この台詞に対する「おじいさん」の返答は「帰れ!」である。私が彼の立場であってもこう答えただろう。
 このデーテの台詞によって印象付いた彼女の「自分勝手な女」というイメージは、今後の物語の伏線になっているなどとはこの時点では誰も想像していないだろう。原作を知らなければこの女性はもてあましている女の子を存命の祖父に押しつけただけの、「物語冒頭だけのキャラクター」だけだと信じていることだろう。この台詞の重要性は後になって「来る」のである。
名場面 「おじいさん」登場 名場面度
★★★★
 ハイジはペーターから「アルムおんじ」と言うのがただ者ではないと聞かされているが、そんなことはお構いなく「おじいさん」の家へ向けて山を駆け上る。やがて山の中に見える一軒の家、「あれがおじいさんの家ね」と指さしてはしゃぐハイジが画面から消えると、次に出てくるのは「おじいさん」の視線でキセル越しに見るハイジの姿、そして「おじいさん」が足下から徐々に映し出され、その険しい表情が画面に映される。
 ここまで劇中でさんざん、これからハイジの養父となる「アルムおんじ」についての悪評が流されている。その上でのこの険しい表情は、ハイジがそんなこと気にせずに明るさを爆発させればさせるほど視聴者が不安になるだろう。視聴者はそこまでのシーンのイメージで「こいつは偏屈」と思わされているだけなのだが、この登場方法にはそれが的中したという不安を上手く煽るだけの仕掛けは沢山ある。前述の画面説明は全てその効果があると言って良いだろう。
 そしてこの「おじいさん」の表情こそが、彼に取っての物語の始まりだ。これから52話かけて彼がどうなるのかは、物語上の注目点の1つだ。
感想  ドロンジョ様キターーーーーーーーーーーー!!!!! 院長先生キターーーーーーーーーーーー!!
 でもペーターの声は、ドロンジョ様というよりのび太ですな。デーテの声は確かにそこここにあのミンチン院長を彷彿とさせる雰囲気がある。
 物語は一緒独特のムードで幕を開いた。最初は主人公ハイジに殆ど台詞が無く、厚着をさせられて暑がっているだけである。その背景で「アルムおんじ」なる人物への悪評が流され、「人殺しをした」というとんでもないものを聞いて視聴者は不安に陥ることであろう。そんな場面設定をよそに、ハイジがペーターと出会って野山を駆け回るようになると物語が一変する。ハイジが厚着させられていた服を脱いで下着姿になると、もうここからハイジが裸足でアルプスの山を駆け回る「アルプスの少女ハイジ」らしい画面が展開するようになる。
 そして「アルムおんじ」の家に到着し、「おじいさん」とハイジの最初の対峙はあっさりと描かれた。これは「おじいさん」にあまり反応させないことで視聴者の不安を大きくする効果を狙ったのだろう。そして「おじいさん」とデーテが対峙すれば、デーテには「自分勝手な女」、「おじいさん」には頑固者というレッテルが視聴者によってつけられる。こうしてこの二人を強く印象に残しておく必要はあったのは今後の物語展開を見ていればわかる。
 この第1話、子供時代に確かに見たのを覚えている。厚着させられて暑がるハイジの姿が妙に印象に残ったからだ。個人的にはその後のハイジが服を脱ぎ捨てるシーンが印象に残っても良さそうなものだけど。

第2話 「おじいさんの山小屋」
名台詞 「あの子はわかって見ておるわい。目がちゃんとついておる。」
(「おじいさん」)
名台詞度
★★
 今話の「おじいさん」はハイジの一動作一動作をかなり細かく見ている。半話としないうちにすっかりハイジのペースに乗せられ、笑顔まで見せていつつもやはり突如現れた女の子への軽快は怠っていないという所だろう。
 そしてこの台詞は、食事用の椅子を作ってもらい嬉しくて椅子を持ち上げて喜びはしゃぐハイジを見た「おじいさん」の台詞だ。ここに至るまでハイジは、自分が椅子を作っていることを見抜き、それを「自分の椅子」だと見破った。だがそれはハイジが自分の存在から漠然と導き出した答えではなく、椅子の形や大きさで「自分の物」だと判断したことを「おじいさん」は見逃してはいなかったということだろう。つまり幼いとはいえハイジには最小限の「物を見る力」があり、自然と直接対峙することになるこの家での暮らしに耐えられると判断したことを口にしたのだろう。
 ちなみに同じ趣旨の台詞が物語前半にもう一つある。名場面シーンの中で「おじいさん」は「あいつはバカではなさそうだ」と呟く。これも「干し草の心地よさ」を体感し理解していると言う意味であり、見当違いの快適さを喜んでいるわけではないと判断しての台詞だろう。
名場面 干し草のベッド 名場面度
★★★★
 「アルプスの少女ハイジ」で印象的な物のアイテムのひとつに、ハイジとおじいさんが屋根裏に作った「干し草のベッド」がある。屋根裏に上がったハイジは、干し草の気持ちよさに喜んで「ここにベッドを作って寝る」と宣言するのだ。それを聞いた「おじいさん」は物置からシーツを取り出し、ハイジと一緒にベッドを作る。このシーンで「おじいさん」は完全にハイジのペースに乗せられてしまう。
 この「干し草のベッド」が何故印象深いか? それは特に我々都会っ子には周囲にないアイテムで「ベッド」という日常生活に欠かせない物を作ってしまったことにあるだろう。このシーンを見た多くの子供が、「一度干し草のベッドに寝てみたい」という願望を持ったことは想像に難くない。
 そしてさらに、このベッドを作るハイジと「おじいさん」の楽しそうなこと。これも「干し草のベッド」が印象に残った理由のひとつである。特にシーツを敷く際にハイジの身体があり得ないほど飛び上がるのは、現実的にあり得ないとしてもかなりポイントが高い点であろう。
  
感想  なんか、全話では気難しさや性格の悪さが前面に出された「おじいさん」が、半話と経ずにすっかりハイジのペースに乗せられちゃっているし。でもここはこう描いておくのは正解だと思う、ここで「おじいさん」がハイジに馴染めず殺伐とした展開になったら、いきなり視聴者に逃げられたことだろう。
 だがその「きっかけ」は丁寧に描いたと思う。それが名場面欄に挙げた「干し草のベッド」だ。ここでのハイジは「おじいさん」の家を純粋に楽しんでいて、「おじいさん」もそれがとても嬉しかったに違いない。そしてベッド作りが楽しかったからこそ、「おじいさん」はハイジに早くも心を開いたと見るのが正しいところだろう。
 前半から後半の途中までは、こうして「おじいさん」がハイジに心を開く過程が簡潔にも無理なく描かれていると思う。そして最後の方ではペーターの再登場、でもハイジがペーターを通り越してユキちゃんに行くのはおやくそく。第1話でペーターが遅れたのは寝坊が理由だったのか…。
 そして最後は「アルプスの自然」が描かれる。日があるとはいえもう夜であり寝る時間であることから始まると、夏でも山に吹き付ける風が再現されて、見ている者は不安になるが…ハイジがそんなことお構いなしに天使のような寝顔を見せれば、「おじいさん」同様に安堵するところだ。

第3話「牧場で」
名台詞 「わぁ…ペーター、ペーター! 燃えてるわ、山がみんな燃えてるわ。あっちの雲も雪も、何もかも火の中よ!」
(ハイジ)
名台詞度
★★★★
 牧場での楽しい一日が終わりに近付く、陽が西に傾くと周囲の山々や雲が黄昏の日差しに照らし出されてきれいな橙色に染まり始める。その景色を見てハイジはこう叫ぶ。
 これはハイジの子供らしい可愛い台詞と受け取ることは簡単だ。だけど実際に自然の中に飛び込み、本当に美しい夕景を目の当たりにした経験があると、この台詞の本当の意味が見えてくる。そう、大自然に沈む夕陽が創り出す雄大な夕焼けは、本当に「燃えている」ように見えるのだ。
 これはその光景を体験した者でないと分からない。私は今から25年前、高校の修学旅行で北海道へ向かう時に乗った青函連絡船「羊蹄丸」船上でそんな光景に出会った。津軽半島に沈む夕陽を見ながら、子供の頃に見た「アルプスの少女ハイジ」のこのワンシーンとこの台詞を思い出したのである。まさに津軽半島も、海峡の海そのものも、夕陽に照らされて燃えているように見えたのだ。
 そして燃えた後には、薔薇色の光景となるのも今回の劇中で描かれていた通りだが、その部分は忘れていて思い浮かばなかった。さらに時間が進むと今度は圧倒的な「青」に支配される。こんな大自然の夕景を見た者でないと、この台詞の本当の良さは理解出来ない。
 そしてこういう私も、あの津軽海峡で見たような雄大な夕景に、それから25年を経てもまだ再会出来ていない。
名場面 昼食 名場面度
★★
 牧場での昼食、ペーターは周囲の目が届く範囲内に山羊を集め、パンとチーズを一気に食べ、そしてヤギの乳を直接飲む。その昼食の量はペーターにとっては明らかに少なく、まだ食べたりない感じだ。一方のハイジにはたっぷりと昼食が持たされ、しかも急いで食べる理由も無いのでのんびり食べている。もちろんピーターはそのハイジの昼食がまだ残っているのが羨ましく、ハイジをまじまじとみつめてしまう。
 ハイジがその視線に気付くと、パンとチーズをペーターに差し出し「これ、あげる」と言う。驚くペーターに「わたし食べきれないもん」とハイジが言えば、ペーターは遠慮無くパンとチーズを受け取る…と思いきや「本当にもらって良いんだね?」と確認し、ハイジが頷くのを見てからパンとチーズを一気に食べ始める。
 ここで見えてくるのはペーターの「育ち」かも知れない。ナレーターが解説によると、ペーターは人から食べ物をもらったという経験がない。だから食べ物というのは親から与えられた分しか食べられないと感じているのだ。そしてその量は育ち盛りのペーターには少なすぎ、いつも「もっと食べたい」と思っていたのだろう。
 その願望が不意に叶った驚きと困惑を上手く描いていると思う。そしてこの食べ物のやり取りによって、ペーターがハイジを信用するようになったのも否めない事実だろう。
  
感想  だんだん自分の少年時代の記憶にある「アルプスの少女ハイジ」らしくなってきた。「山の上の放牧地」「山羊使いの少年」「裸足で駆け回るハイジ」というのは、本作のあらゆるシーンの中でも「定番」のシーンであろう。
 その中でも、最初にこの放牧地に上がってきた今話では、そこにある自然の楽しさと美しさを描くことに重点を置いている。人間が自然から受けるものは常に「有情」と「非情」であるが、今回はその「有情」の面をたっぷり描くことで、多くの視聴者に自然の醍醐味を伝えているのは確かだ。だからハイジとペーターの物語はついでに描かれているに過ぎない。
 特に名台詞欄で挙げた夕景のシーンは、正直言って当時の技術では「アニメの限界」もあって物足りない部分があるかも知れない。だが当時のスタッフが当時の技術で可能な限りの描写をしたことは間違いなく、迫力はなくても作った人々の「暖かさ」は伝わってくる。今のアニメならCGで美しい夕景が再現出来るが、作った人々の「手」を感じる暖かさは伝わってこないように感じることもある。
 そしてそれ以上のことを言ってしまえば、大自然の中で見る雄大な夕景はアニメで再現することは不可能だ。写真でその迫力を再現するのも無理だ、ひょっとすると作り手の側はその辺りを分かっていたのかも知れない。私も前述したようにそんな景色に出会うまでは、それがどれだけの美しさを持っているか知らなかった。
 そして物語の最後、「おじいさん」は自分の今の生き様を空を飛ぶ鷹に例えて力説する。なんとまぁ、手前勝手で寂しい論理なんだろうと視聴者が思えば正解である。「おじいさん」が心を許しているのはハイジだけとあのシーンで鮮明になったと言って良いだろう。でもそれに動じないハイジもすごい。

第4話「もう一人の家族」
名台詞 「ハイジにとっては、またまた新しい経験でした。自然の変化の恐ろしさ、山の天候は急に変わることがあるのだと、初めて知らされたのです。」
(ナレーター)
名台詞度
★★★
 今話冒頭では、アルムの山々は前話のような「有情」ではなく、「非情」をハイジやペーターに突き付ける。急に空が黒い雲に覆われたかと思うと、雷鳴が轟き激しい雨に見舞われる。最初は雨が運んできた涼しい空気を楽しむハイジだったが、稲光と雷鳴に恐怖して岩棚の下で耳を塞いで震える。そんなハイジをバックに流れるナレーションがこれだ。
 ここまでの3話で始めて描かれた「自然の驚異」というものを、上手く解説していると思う。劇中でもついさっきまでは前話までと同じような穏やかな山の風景だった。これが本当に短時間に激しい雷雨に変わるが、都会っ子がこの物語をみればそれを信じられない光景だろう。だがこれが山の現実である。
 私はこのナレーションを「うん、うん」と思って聞いていた記憶がある。小学生の頃に夏を過ごした軽井沢で、まさに劇中に描かれたように天候の急変を何度も経験していたからだ。外で遊んでいたら急に空が暗くなって、突然の雷雨にびしょ濡れで帰ったことや雨宿りを余儀なくされたことも複数回ある。家で過ごしていたら外の天候がこんな風に急変したのも一度や二度でなく、今年(2012年)の夏にもそれを経験している。
 そういう意味で、自然の「おいしいとこ取り」だけではない物語に感心し、自分の実体験と合わせて印象に残ったナレーションだ。
名場面 ヨーゼフVSピッチー 名場面度
★★★
 山で小鳥のピッチーを拾って育てるハイジだが、目の前でカタツムリを食べたヨーゼフにピッチーが食べられるのではないかと不安でたまらない。「おじいさん」は大丈夫だと一笑に付すがそれでも信じられず、ハイジはヨーゼフを警戒する。
 だがよせばいいのに、ハイジはピッチーの餌取りに夢中になってしまい、ピッチーやヨーゼフに目が届かない状況になってしまう。ピッチーはハイジのベッドを抜け出し、屋根裏から階下に落ちると…そこにヨーゼフが登場する。逃げるピッチーに追うヨーゼフ、ヨーゼフの吠え声が聞こえるとハイジは家の中に飛び込む。ハイジはピッチーを助けようと追い回すが…ピッチーは煮立っている鍋へ向かって飛んで行ってしまう。「ああ、焼け死んじゃう!」ハイジが叫ぶと、そのピッチーにヨーゼフが飛びかかりピッチーを口の中に入れてしまう。その牙の怖いこと怖いこと。「ああ、食べちゃった…」叫ぶハイジ、「バカバカバカ、ヨーゼフのバカ」とヨーゼフにすがって泣くハイジにヨーゼフが向き直り口を開く、口の中ではピッチーが元気そうに泣き声を上げている。ヨーゼフは口の中のピッチーを床に下ろすと、そのまま歩き去る。ハイジはピッチーを抱き締めて安堵する。
 いやー、面白いシーンだ。ここまでの流れからして、「おじいさん」がああ言って笑っていたとしてもヨーゼフがピッチーを食べたとしか思えないわけで…。だが本当はヨーゼフにはそんな意図は無かったことがこのシーンの最後まで見ていればわかる。そして視聴者も、ハイジもヨーゼフに対する不信が解けて信用出来るようになることだろう。
 こうして主人公と視聴者が一体になって、ヨーゼフというキャラクターへの見方をガラリと変えることが出来るこのシーンは、約30年ぶりの再視聴でもハッキリと覚えていた。
  
感想  この話、子供の頃に確かに見た。「もう一人の家族」というサブタイトルに、小鳥を拾い育てるエピソード。この小鳥の話かと思ったら、最後に実はヨーゼフの話でしたというオチが付く。最後まで見て「それかいっ!」ってツッコンだ記憶がある。
 この話の冒頭の悪天候は本当に見物だ。山の中での稲光というのが実に雰囲気良く描かれている、特に山の向こうで稲光が光っている様子は秀逸と言わざるを得ない。山の中での稲光って本当にあんな感じなんだよね、本場のアルプスでもああいう風に見えるかは知らないけど、少なくとも日本でアルプスと呼ばれている場所ではああいう風に見える。
 でも、ペーターは劇中であの悪天候を「嵐」って呼んでいたけど、状況から言って「夕立」というのが正解だと思う。「夕立」という言葉で「夕方に起きるもの」と勘違いしている人は多いが、「夕立」の「夕」は「夕方」という意味ではなく、「夕のように暗くなる」って意味だからあれも「夕立」で正解なのだ。だから朝に起きても、午前中に起きても「夕立」なのだ。
 そして「夕立」をきっかけに話が進む。ハイジが巣から落ちた小鳥を拾い、育てるという展開になるのだ。この中で小鳥に夢中のハイジに嫉妬するペーターの様子がこれまた良い、でもナレーターよ、あれはまだ喧嘩とは言わないと思うぞ。
 そして当欄の最初にも書いたが、このまま小鳥の話として展開するのかと思ったら、今回のテーマがヨーゼフに対する不信の除去という大どんでん返しが待っている。ここまでヨーゼフを無愛想に描き、何を考えているのか分からず、決してハイジと仲良くしたり、ハイジの側で打ち解けているような描き方をしなかったことが、今話で上手く処理されていると思う。この1話でハイジも視聴者もヨーゼフに対する信頼を持つことになるが、ヨーゼフの側ではなにも変わらないという今後の展開まで見えてくるのはとても面白い。

第5話「燃えた手紙」
名台詞 「今日ねぇ、おじいさんが迎えに来てくれて、とっても嬉しかったの。おやすみ。」
(ハイジ)
名台詞度
★★★★
 山小屋の夜。ハイジが就寝のために屋根裏へ上がると、「おじいさん」はデーテからの手紙を読み、その内容のあまりの勝手さに身体を震わせる。そんな彼の背中に、「おじいさん」とハイジの呼び声が突き刺さる。屋根裏から顔を出して笑っているハイジに「なんだね?」と問うと、ハイジはこれだけ言って屋根裏に引っ込む。
 この台詞にはハイジが昼間に感じた恐怖や、「おじいさん」の姿を見たときの安堵など、昼に起きた一連の出来事の思いが全て込められている。怖かったからこそ身内である「おじいさん」が来てくれたことはとても嬉しかったし、安心出来た。そしてそんな時に助けに来てくれたからこそ、おじいさんが大好き。そんなハイジの気持ちが良く表れている。
 そして「おじいさん」もこのハイジの気持ちを受け取ったに違いない。デーテがハイジを取り戻す事を示唆する手紙を見て怒りに震えていたところでハイジのこの言葉だ、彼は「ハイジを手放すまい」と心に誓ったのは、この台詞による作用はとても大きい。一連のシーンはナレーターの解説もあり、その構図がとても解りやすいものになっている。
 しかしこの台詞を語るハイジは、どんな姿勢で屋根裏から顔を出しているのだろう? かなり無理がある姿勢をしているぞ…。
名場面 遭難 名場面度
 放牧中の山羊のうち、シロ・クマ・ユキの3頭が行方不明になる。これは大変とハイジとペーターは周辺を探索するが、谷間に掛かる丸木橋を渡ったところで濃い霧に巻かれてしまう。3頭の山羊は見つかったが、この霧のせいで2人は帰り道を見失ってしまう。
 このシーンでは「霧」というこれまた大自然の「非情」を上手く描いている。特に霧の中から二人が姿を現したり、霧の中にペーターが消えるシーンなどはとてもよく描かれていて、霧の中の緊張感やその中に人が解けるように消えて行く恐怖感を上手く描いている。たしか「わたしのアンネット」にも似たようなシーンがあったと記憶している。
 この緊張感や恐怖感は、今話の今後のシーンに上手く活かされている。特にラストシーン(名台詞欄)へ至り、本話のサブタイトルへの伏線となっている点としても重要だ。
 もちろん、前話の夕立シーンと同じく、山で遭遇する霧を上手く描いたなぁと感心して見ていた。しかし、この霧の中からどうやって助かるのかと思ってワクワクしていたら、ああいうオチだとは…。
  
感想  うんうん、この話も確かに子供の頃に見た。霧の中の緊張感たっぷりのシーンも、何故か放牧場に「おじいさん」が現れるという展開もよく覚えていた。
 前半はハイジとペーターが仲直りするが、あっさりと行かずにペーターがしばらく意地を張るのが面白い。相手が年下でしかも女の子なだけに、プライドがあったんだろうな。でも仲直りの後は放牧場でのピッチーを加えての楽しいひとときを、本当に楽しく描いたのは後半との対比という点ではとても重要だったと思う。また楽しいだけでなく、ピッチーが鷹に襲われるというピンチを含んでいたことは、前半の物語に緩急をついて見ている者を飽きさせない素晴らしい「つくり」だ。
 そして後半はハイジとペーターの遭難へと暗転するが、これも唐突な展開であっさり助かる。遭難シーンは名場面欄に書いたようにとても緊張感があるのだが、あっさりと助かることでこの後の展開も無理なく進むのは本当に見ていて気持ちいい。今話は普通なら約25分に色々詰め込み過ぎという見方をするところだが、ぎゅうぎゅうに詰まった感じが無く、自然に4つ位の物語が流れていったのだから面白い。
 でも本題は名台詞欄のラストシーンだろう。ハイジがハッキリと「おじいさん」を頼れる人と認識し、「おじいさん」はハイジを愛すべき存在と確認する。今回の色々と詰め込まれた物語でデーテまで引っ張り出して伝えたかったのはその点のはずだ。全ての展開がそこへ落ちるように、ちゃんと出来ているのだから、大人になっての視線でみると本当に恐れ入った話だと思った。

第6話「ひびけ口笛」
名台詞 「ううん。やっぱりまだ、私ヤギ飼いにはなれないわ。口笛だって鳴らないもん…」
(ハイジ)
名台詞度
★★
 ハイジがアルムに来て始めて味わう挫折。ペーターが腹痛で倒れているときに、シロとクマが岩の上で押し合いをして危険な状況。「ヤギ飼いを目指す」と今話は意気揚々であったハイジだが、ペーターが腹痛で用足しに消えたのでどうして良いか分からず慌てる。
 結果、2頭はハイジの必死の声に応える形で岩から降りてくる、そこへ用足しから戻ったペーターが現れ「よくやったじゃないか」と言うが、ハイジは力無くこう答えた。
 結局、この日のハイジは「ヤギ飼い」らしいことが何も出来なかった。昼食時にはヤギを集めることも数を数えることも出来ず、結局はこれをペーターがひっそりとこなしてしまった。その上で乳搾りを教えてもらうなどの形で足を引っ張ったという思いもあったのだろう。この2頭の危機を自分で救えなかったという事実は、ハイジにさらなる追い打ちをかけて彼女に「挫折」を味合わせることになった。
 だが神はがんばったハイジを見捨ててはいない。この台詞の直後にハイジは唐突に口笛が吹けるようになる。やはりこの娘には「素質」があったのかも知れない。
名場面 ハイジの口笛 名場面度
★★★
 名台詞欄シーンを受け、ハイジは口笛を吹いてみた。すると唐突に口笛が吹けるようになっているではないか。ハイジは喜んで口笛を吹く、その口笛の音はこだまを残して周囲に響き、その声を聞いたヤギが集まってくる。ヤギが集まってくるのを見て喜ぶハイジは、さらに口笛を吹く。
 今話はラストの「おじいさん」と二人で口笛を吹くシーンに行くように話が出来ていたが、ここのシーンが最も重要だ。名台詞欄シーンでの挫折と、その後にそれが覆された喜び。出来ない出来ないと悩んでいたことが出来るようになった喜び。こんなハイジの表情を上手く描いている。
 最近、自分自身がこんな喜び方をしていないなーと思って見てしまった。もちろん、このシーンも小学生時代に見たのをしっかりと覚えている。
  
感想  鉄郎キターーーーーーーーーー!!!!!
 「アルプスの少女ハイジ」に端役で野沢雅子さんが出ていたのは、今回初めて知ったなぁ。冒頭に出てくる2人の少年のうち、背が高い方は確かにあのお声だった。
 今回は「口笛」というのがとても印象的に使われている。冒頭シーンではペーターが村のヤギを集めるシーンで効果的に使い、その後もヤギが出てくるたびにペーターが印象的に口笛を使う。それを見てハイジが「自分も口笛が出来れば…」と思うようになるのはある自然だ。さらに口笛と一緒に軸に据えたのが、「乳搾り」だ。2ちゃんねる辺りだったら下ネタにされそうなシーンもあったぞ。
 そして「口笛」についてはハイジが挫折を味わいながら、乳搾りについてはハイジが最初から敗北を認めた上での「教えてもらう」という流れで、それぞれ習得してゆく展開が描かれている。
 だがハイジが口笛と乳搾りを習得するのに、ちょっと急ぎすぎた感は否めない。どちらも前話以前でペーターや「おじいさん」によって行われていたものであり、ハイジがもっと時間を掛けて「やってみたい」と感じ、時間をかけて習得してもおかしくないものだ。乳搾りはともかく口笛は少し前から真似くらいさせていてもよかったんじゃないの?と少しだけ思う。
 また今話では、「おじいさん」がどのように生計を立てているかがハッキリする。木製の食器やチーズを行商して食べ物を仕入れていたとは…こんな生活で突如幼女とはいえ一人増えたのはかなり大変だったと思うけどなぁ。

第7話「樅の木の音」
名台詞 「ハイジが…ハイジが、あんまり甘やかすからいけないんだ!」
(ペーター)
名台詞度
★★★
 放牧中に子ヤギのユキがペーターの元から脱走し、ハイジがいる山小屋まで降りてきてしまう。ハイジがユキをペーターの元に連れて行くと、ペーターはムチを振るってユキを叩こうとする。制止するハイジに「逃げ出したときは叩いていいとおんじに言われた」としてペーターはユキをムチで叩き、目を伏せるハイジにペーターはこう吐き捨てる。
 この台詞を子供の頃に聞いた時は、「そりゃ言い過ぎだろ」と思った。でも大人になってこの台詞を聞くと、「ペーターの言うことはもっともだ」と思う。人間の子供も家畜の子供も、人間の社会に取り込まれて生きている以上は「躾」は大事だ。「躾」がなってないことで逃げ出したりしたら、その家畜によって得られる利益を失うことになる。ユキだって将来は乳を沢山出すことで社会に貢献し、飼い主に利益をもたらすはずだ。
 ここまでのハイジはそこまで考えていない。ハイジにとってのユキは「自分に懐く可愛い存在」であり、遊び相手でしかないのだ。ユキが誰の物かということすら考えたことがないだろう。だから優しく接する愛玩物であり、懐いてくれるだけで嬉しかったのだ。
 だがこの一言でハイジはユキは他の誰かの所有物であり、絶対に逃げ出したら困る存在であり、そのために好き勝手動かれたら困るということに気付いたのである。ハイジはユキが脱走して自分の所に来たのが嬉しかったはずだが、この台詞によって「それは困ったこと」であると認識したのだ。これを分からせたペーターのこの一言は今話ではとても印象深い。
 これがハイジのショックに繋がる。ユキが罰としてムチで叩かれたことではなく、その原因を自分で作ってしまったというショックだ。もしユキが自分に甘えてきたときに、もっと厳しく「ピーターの所へ行け」と言う事が出来たら…ユキが自分の所に逃げ出してくることはなく、ムチで叩かれることもなかったと感じたのである。
 こうしてハイジは自分で自分を責める状態になってしまった、そしてその上さらに名場面欄の出来事へ繋がるのである。今回の物語はこの台詞がきっかけで物語が動くと言っても過言ではなく、今話で最も重要な台詞だ。
名場面 ハイジの帰宅 名場面度
★★★★
 ペーターの元にユキを届け、名台詞欄の台詞で自分の落ち度が明確にされて意気消沈のままハイジは山小屋に戻る。ハイジは「チーズ作り」の続きをしようと考えたのだろう。だが、火に掛けられていたはずの乳が入った鍋はなく、「おじいさん」が焦げ付いた鍋を掃除している光景が目に入る。
 無言で鍋の掃除を続ける「おじいさん」にハイジは「おじいさん、ごめん」と声を掛け、自分が何をしていたかを語る。すると「いいんだよ、ハイジ。おじいさんの方が悪かったんだ」と予想外の返事でハイジは驚く。「お前にこんな事を頼むのが無理だったのさ」と続く言葉に、ハイジは強い衝撃を受ける。「さ、チーズ作りはまた明日にして、今日は…」と続きを言いかけた「おじいさん」は、戸口に立っていたはずのハイジの姿が消えいてることに気付く。ハイジは一人で外に飛び出し、小屋の裏の樅の木を見つめていた。
 名台詞欄に続いて、今度はハイジの失敗が明らかになる。この展開は視聴者にも予測出来ていたはずで、多くの子供達はハイジは「おじいさん」に叱られると思ってテレビ画面から目を逸らしただろう。だが彼はハイジを責める言葉は一言も言わず、自分の責任だと言い張った。
 だがそれがハイジにとってとても辛かった。乳をかき混ぜるという自分でも出来る仕事で失敗し、信頼を失ってしまったのである。ハイジは思ったに違いない、これで一人で何かを任されることはなくなるのではないかと。ハイジのような幼い子供でも「信頼」という意味を知っていて、それを失ってしまった事が悲しかったのだ。
 そしてその理由を辿って行くと、やはりペーターの名台詞に辿り付く。自分がユキに厳しく接していれば、ユキが逃げてくることはなく自分はチーズ作りに集中でき、「おじいさん」からの信頼を失わずに済んだはずだと。
 だがハイジは賢い、このショックで打ちのめされて終わるのでなくちゃんと解決法を見いだしている。樅の木を眺めていたハイジは、「同じ失敗を繰り返さない」と樅の木に言われたと感じる。そして次の日からユキなどの子ヤギに厳しく接するようになる。このトラブルシューティングを的確に出来るのだから、ハイジは賢いのだ。
  
感想  う〜ん、深い話だ。
 最初はアルムでの季節の変化が描かれるだけかと思って見ていた。ハイジが放牧場へ上がることを禁じられるのはその一環程度にしか思えなかった。だけどペーターの言うことを聞かないユキという子ヤギの存在が大きく描かれる事から始まって、そのユキが脱走騒動を起こす。その結果ハイジに足りなかったことがあぶり出されると同時に、「失敗」を通じて「おじいさん」からの全幅の信頼を一度は失うという深い内容だ。
 ここまでの物語がそこまで深く描かれていなかっただけに、今回の視聴では突然やってきたテーマの深さにとても驚くと共に感心させられた。さらにハイジがちゃんとこの欠点と失敗に対して、的確な答えを出してこれを実行するという点も面白い。物語自体も、「欠点と信頼」というテーマで上手く1話をまとめるために、今話はハイジ、おじいさん、ペーター以外の人間は出てこない。
 また、ハイジの放牧場行きが禁止されるというのは、この深いテーマに入る最初の兆候だったのかも知れない。でも考えて見れば、あんな危険な山に子供だけでおっぽり出すなんて、現在の世の中なら絶対に考えられないなぁ。ダニーが落ちたのと同じクラスの崖もあるし…。
 う〜ん、やっぱ「ハイジ」と「アンネット」を見ていると無性にチーズが食べたくなるなぁ。

第8話「ピッチーよどこへ」
名台詞 「やっぱりかごはいらないわ。小鳥はみんなと暮らす方がいいんだもん。ねぇ、小鳥さん。ペーターには明日謝るわ。さ、みんなのところへ飛んで行ってね。」
(ハイジ)
名台詞度
★★★
 ピッチーが巣立ったことで、ハイジがまたひとつ成長する。名場面欄シーンでペーターから小鳥をもらったハイジは、「おじいさん」にこの鳥も冬は暖かいところへ行くことを確認すると、この台詞を吐いて小鳥を大空に放す。
 ピッチーを通じてハイジが教わったこと、それは「他人の幸せ」だろう。ピッチーはハイジにとって可愛い存在で手放したくない物であったが、それがピッチーにとって必ずしも幸せでないということを教わったのだ。ピッチーにはアルムの厳しい冬が負担であり、さらに同じ小鳥の仲間もいない。つまり人間と共に一人寂しく暮らさねばならないという、小鳥の立場から見た「幸せ」を見られるようになったのだ。
 だから今手にある鳥についても、このまま自分が飼い続けていたらこの小鳥にとって幸せではないと気付く。「鳥かごを作る」という「おじいさん」の申し出を断り、小鳥を放したのはそんなハイジの優しさによるものだ。
名場面 ペーターのお詫び 名場面度
★★★
 この日の昼、ピッチーが巣立ったこととペーターと喧嘩したことで意気消沈していたハイジを、「おじいさん」が栗や山葡萄が沢山実っている森へと連れ出す。それから帰ると、山小屋の前でペーターがハイジの帰りを待っていた。
 最初はペーターに冷たい態度を取るが、そんなハイジのペーターは黙って捕まえた小鳥を差し出す。「昨日はごめん、ピッチーの代わりに捕まえてきたんだ…」と笑いながら語るペーターに「ありがとう」と答えて小鳥を受け取るハイジ。「じゃ、さよなら」と言って立ち去ろうとしたペーターを呼び止め、ハイジは今採ってきた山葡萄や栗をペーターに差し出す。そして「さっきまでペーターのこと悪く思っていたの。ごめんね」とハイジが正直に語り、二人の仲直りが成立する。
 今話序盤で、ピッチーの行方について器用な返事が出来ないペーターとハイジはまた喧嘩してしまう。次の日の朝もハイジはペーターを見送りに出ず、ペーターもハイジとの仲が険悪になったことを気に病んでいた。そこでペーターは放牧中に小鳥を捕まえ、これをハイジにあげようと考えたのである。その悪戦苦闘ぶりは今話後半で描かれ続けた。
 そのペーターの気持ちが上手く通じた点が、自然に描かれて上手く話に決着をつけたと思う。この件を通じてハイジは、ペーターには悪気があったわけではなく、不器用なだけなんだと理解したはずだ。「どうして小鳥がいなくなってしまったのか」と悩む少女に、代わりの小鳥を進呈するというやり方はとても不器用であることは、幼いハイジにも分かったはずだ。そして喧嘩の原因がその不器用故であったことも。
 そういう意味で、このシーンに繋がる一連の展開は、ペーターの「不器用」というキャラクターが上手く出ていたと思う。このような1話とこのシーンがあるからこそ、ペーターが本作で印象深いキャラクターになったのだと思う。
  
感想  ピッチーという小鳥が画面に現れたときから、その小鳥が「巣立ち」という形でハイジの元を去ることは小学生時代の視聴でも予測出来ていたことだ。そのピッチーがどんな教訓をハイジに残すのか…その答えが本話と言っていいだろう。
 もちろん、ハイジは「巣立ち」など理解出来ない。最初はピッチーが「逃げた」と判断して、なんでなんだろうと悩むだけだ。その悩みの答えが出ないうちにペーターに相談したのは失敗だった。不器用なペーターは思ったことをそのまま言ってしまい、ハイジから反感を買うことになる。その過程を経てから、「おじいさん」に「巣立ち」ということを教わる点は上手く作ったと思う。
 この順序によって本話の本題がサブタイトルになった「ピッチーが消えた事」ではなく、それによるハイジの成長ということで固まったことは誰もが理解するであろう点だ。サブタイトルの「ピッチーが消えた事」は、本題のきっかけに過ぎないということだ。
 こうしてハイジとペーターの喧嘩へと主題が移り、そのペーターがその仲直りの道具に「ピッチー行方不明」を上手に使うのだから面白い。それも彼の「不器用さ」を前面に押し出したままでである。本当、細かい作りだ。
 アルムにも秋が来た、ということはこれからは冬だ。「アルプスの少女ハイジ」では冬の話って、あまり記憶に残っていないけど…見りゃ思い出すかな?

第9話「白銀のアルム」
名台詞 「ハハハハッ、ハイジ、一度で仲良くなろうたって無理だよ。動物と仲良くなるには根気がいるもんだ。慣れるまで木の下に干し草を置いておいておやり。」
(「おじいさん」)
名台詞度
★★
 冬、小屋が雪に閉ざされ始めた頃、小屋の裏の樅の木に一頭のシカが現れた。ハイジはシカと仲良くなろうと干し草を持って樅の木のところへ行くが、シカに逃げられてしまう。「逃げちゃった」と消沈するハイジに、「おじいさん」は笑いながらこう語りかける。
 この台詞を言われてみて気付いた、ここまでのハイジは動物をいともあっさりと手懐けていたのだ。だが本来、動物というのは人間の気持ちを理解するのに時間が掛かる生物であり、簡単に動物と仲良くなることは難しいはずなのだ。「世界名作劇場」シリーズで動物好きでは一・二を争うあのルーシーですら、なかなか手懐けられない動物がいたのだから。
 この台詞はそんな動物付き合いの「基本」を思い出させ、ハイジに初心に返らせるという意味でとても印象深い。この台詞があったからこそ、冬の間ハイジはシカという楽しみが生まれ、長い冬を乗り切ることが出来たに違いない。
名場面 来客 名場面度
★★★
 アルムの山にある小屋には、冬の間訪れる人はない。ところがその小屋の戸を叩く音が聞こえた。「おじいさん」は「気のせい」だとしてハイジも納得しかかるが、やはり誰かが戸を叩く音が繰り返し聞こえる。「やっぱり誰か来たんだわ」と言うハイジに「雪男がハイジを食べに来たのかも知れんぞ」と「おじいさん」が笑いながら言う。「脅かしたって怖くないわよ」とハイジは弾むように答えると、戸をそっと開ける。ところが吹き込んでくる雪の向こうに何かを見ると、ハイジは悲鳴を上げて「おじいさん」に泣きついてしまう。小屋に入ってきたのは全身雪まみれの何者かだった、「おじいさん」が笑いながら「これは誰かと思ったら…」声を上げると、全身雪まみれの何者かは自身の身体に付いた雪を払い、それがピーターだと判明する。ハイジは大喜びだ。
 ただ小屋にピーターがやってきただけのシーンなのだが、このシーンが面白さと「間」がとても大好きなシーンだ。最初は「おじいさん」までもが「気のせい」だと言い、視聴者に「ここには誰も来るはずがない」という大前提を植え付ける。その上で「間違いなく誰かが来ている」という事を明確にし、「雪男がハイジを食べる」という子供だましの脅しが入る。そしてその「子供だましの一言」の余韻が消えないうちに、ハイジの悲鳴と全身雪まみれの来客者だ。そして来客者の正体が解るまでを、とても良いテンポで描いていて何度見ても面白い。
 このシーン、劇場用長編でもわざわざ入れてあった記憶がある。それこそまでに見ていて面白いし、印象に残るシーンなのだ。子供の頃にこのシーンを見たのもハッキリ覚えているよ。
 

 
感想   これと言って何も起きない回、ただ淡々と小屋の冬の暮らしを描いているだけである。シカが樅の木の下にやってきたりするのは、そんな「冬の暮らし」の一コマにしか過ぎない。しかし、ハイジが朝目を覚ましたら、雪の中で寝てたって…よく凍死しなかったなぁ。
 秋があっという間に去り、雪が降ったらペーターが山に来ないという点まで淡々と書いたのには恐れ入った。いまどきのアニメだっらた、あそこでペーターが「もう僕、春まで来ないんだ」なんて言い出して、ハイジとペーターの別れが大々的に演じられて大いに白けたことだろう。気が付いたら来なくなっている…まるで季節の風物詩のように描いたのだから、その後のペーター来訪が色んな意味で盛り上がるし印象に残るのである。特に「雪が積もってペーターが来ない」とハイジが知ったら、そのまま物語自体がペーターの存在を一時忘れてしまうのうまいつくりだと今でも思う。視聴者まで一緒になってペーターのことを忘れるからこそ、ペーター来訪が盛り上がるのだ。
 またペーターの話し下手という設定は、ここではちょっと前面に押し出しすぎたかも。この物語のナレーターは意外に五月蠅いというのは、今回の視聴によって生まれた感想だ。こんな子供の頃には五月蠅かった記憶がないのだが…。
 次回、いよいよハイジ・「おじいさん」・ペーター以外のレギュラーキャラが新登場する。デーテは…レギュラーではないよなぁ。

第10話「おばあさんの家に」
名台詞 「ああ、もういい。分かった。このわしのことをお前達が何と思っておるか、ちゃんと知っておる。具合の悪いところはわしが調べる、中へ入ってなさい。」
(「おじいさん」)
名台詞度
★★★★
 ハイジの鶴の一声で、ペーターの家の修理に降りてきた「おじいさん」。前日にハイジが約束したとはいえ、ペーターの「おばあさん」も母ブリギッテも本当に来るとは思っていなかった。突然の物音に騒然とし、狼狽えているところへハイジが状況を説明すると、ブリギッテは是非ともお礼が言いたいから家の中に入ってくれるよう「おじいさん」に言う。その返事がこの台詞だ。
 もうこの台詞には彼の「本当は来たくないんだが孫のためなら…」という本音が溢れているとしか言いようがない。村人達が自分の事をどのように噂しているか彼にはお見通しで、本当はブリギッテも「おばあさん」も自分を嫌っているのではないかと思い、バリヤーを張っているという彼の本音がよく出ている。
 だから、彼に言わせればこの修理はハイジからの依頼であって、ペーター一家の依頼ではないのだ。関係ないから引っ込んでろと叫びたい心境であっただろう。
 これに対するブリギッテの対応は素晴らしい、なんとこういう「おじいさん」を放っておいたのである。この理由についてはナレーターが五月蠅く解説しているが、「優しいことをしてくれていてもこの人には何を言っても無駄」だと理解しているのだ。「おじいさん」の側でもそう感じて放置してくれた方がやりやすかったはずだ。
 だが、「おじいさん」はまだ気付いていない。ハイジに言われたこととはいえ、ここに来てしまった以上、ゆくゆくは自分が村人に心を開かねばならないことになるということを。
名場面 ハイジと「おばあさん」 名場面度
★★★★
 ハイジが始めてペーターの家へやってきて、「おばあさん」と初対面する。ハイジは家の雨戸が外れている事を言うが、「おばあさん」はそれが見えないと言う。ハイジが「窓を開ける」と言っても、「真っ白な雪の中を歩いてみたらどう?」と言っても、ハイジが夏の夕景を語っても、「おばあさん」は見えないと繰り返すばかり。「この世界は私には明るくならないんだよ、もう決してね」と「おばあさん」が語ると、ハイジはあまりのショックにフリーズしてしまう。9秒の沈黙を置いて、ハイジは突如泣きだす。それも大粒の涙を流し、「おばあさん」にすがりついての号泣だ。
 恐らくハイジは生まれて初めて、障がいを持つ人に出会ったのだろう。しかもその内容は、目が見えないというものだ。美しい景色も、きれいな自然も、この人には見えないのである。特にハイジは山に来てからというもの、色々なものを「見てきた」からこそそのショックが大きいのだ。
 またこのシーンではハイジと「おばあさん」の間が素晴らしい。「目が見えない」「おばあさん」と、「目が見えない」という事自体が想像出来ないハイジ。どちらの台詞の内容も、その台詞を発するタイミングもうまく出来ていると感心してしまうシーンだ。そして二人のやり取りの後、ハイジがやっと事を理解した時の9秒の沈黙とそれに続く号泣は、ハイジが受けたショックを上手く描き出している。これらによってこのシーンが印象に強く残っている人は多いことだろう。
  
感想  サブタイトルからして今回は「おばあさん」の話と思わせているが、実は今回は「おじいさん」の話である。第4話もそんな感じだったけど、今回違うのは本来は「おじいさん」の話として物語を落とすはずだったのが、「おばあさん」の印象があまりにも強烈で本題を飲み込んでしまったことだ。「おばあさん」がただのおばあさんならこんな事にならず、また主人公少女がハイジであったことで、今回の本来の主役である「おじいさん」の印象を完全に飲み込んでしまった。
 その「おばあさん」が強烈に印象に残った理由は「失明」という設定によるものだし、それを知る過程のハイジの反応がこの設定を大きくして「おばあさん」をより目立つ存在にしてしまったのだ。今話をよく見ていると「おばあさん」は何もしていない、ハイジと知り合いになるだけである。「おじいさん」を悪く言って名台詞シーンに繋げるのは、あくまでもブリギッテの役割だ。
 今話はとにかく名場面欄シーンがよくできているというのは、大人になっての印象だ。あのハイジと「おばあさん」の会話は本当にうまく計算されている。途中まで二人の会話を徹底的にかみ合わないようにしておいて、あるきっかけでスイッチが入りハイジが全てを理解するという流れを本当に上手く演じている。このシーンは劇場用長編でもカットされていなかったと記憶している。あちらでは「おばあさん」は全く物語に絡まないのに…。
 しかし、ハイジ・「おじいさん」・ペーター以外のレギュラーキャラが増えたのは本当に久しぶりだなぁ。第1話以来だったりして。

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