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第11話 「吹雪の日に」
名台詞 「なぁに、ほんの一時の出来事さ。雲の動き具合や、遠くの山の見え具合で、おじいさんにはそれがよく分かるんだよ。」
(「おじいさん」)
名台詞度
★★★
 雪が上がり、「おばあさん」の家へ行こうと支度を始めようとしたハイジは「おじいさん」にそれを止められる。そして彼は「あと2・3時間もすれば吹雪になる」と宣言する。ハイジが周囲の様子を見て晴れ間が拡がっていることなどを指摘すると、彼はこう返答した。
 現在は天気予報で「空もよう」を見て今日の天気を判断し、その予想が外れれば天気予報を出した気象庁のせいにすればいい、そんな時代だからこの台詞の深さには気付かない人は多いかも知れない。だが本来、気象というのは自然の出来事だから、自然をしっかり見ていればそれを体感することで予測出来るはずだし、元来個人的な気象予測だってそうするべきなのだ。それを教えてくれて、私に「気象」に興味を持たせてくれたのはまさしくこの台詞だ。
 この台詞には天気予報を鵜呑みにするのでなく、天気の予報には自分が自然を体感することが最も大事であることが込められていることだろう。山に行くにしても海に行くにしても、そのような体感を知らなければ、本話に出てきたハンターのように酷い目に遭う可能性がある。そんな今話のストーリーを先読みしているようにもこの台詞は重要だ。
 しかし、似たような台詞が「ふしぎな島のフローネ」第16話にもあって、同じようなことを書いた記憶があるぞ。
名場面 「おじいさん」とハイジ 名場面度
★★
 「おばあさん」に会うために村まで降りたいハイジだが、降雪のため行く事が出来ず退屈している。

ハイジ 「ねぇおじいさん、いつになったらこの雪止むのかしら?」
おじいさん 「さてね、ひとつ雪に聞いてみるかな? いつ止みますか?って」
ハイジ 「おじいさんは雪とお話ししたことあるの?」
おじいさん 「時々話しかけてみたことはあるがね」
ハイジ 「うん」
おじいさん 「まだ一度も返事をしてもらった事がないんだ」
ハイジ 「なぁんだ。それなら私と同じだわ」
おじいさん 「ハハハハハ、そうか、ハイジも同じだったか。ハハハハハ。」
ハイジ 「もう、おじいさんったら…」

…こういう会話、結構好きだ。
  
感想  確かにこの話も子供の頃に見た記憶がある。名台詞欄の台詞は覚えていたけど、「こんな話だったったけ?」という思いがした。私の記憶からハンター遭難のエピソードが完全に抜け落ちていたのだ、前話で見た次回予告でも「こんな話しあったっけ?」と思いながら見ていたし…でも名台詞欄の台詞は覚えている。あれで「天気を予報するには、天気予報だけでなく自分が自然を体感すること」という事を教えてもらい、それは今でも実行しているから。天気予報に任せきりで予報はずれを他人のせいにしていたら、いざって時の「自己責任」すら取れはしない。
 またペーターがハンターの道案内という、悪役の片棒を担ぐ役で出てくるとは思わなかったなぁ。まぁあのハンターには「おじいさんの言うことを聞かなかったから酷い目に遭う」という役割でけでなく、「ハイジを心配させる」「おじいさんを変わらせる」という役を演じた上で本人達もおじいさんの大きさを知るのだから、よしとするしかないな。
 しかし、アルプスの物語とハンターは切っても切れない関係だなぁ。「わたしのアンネット」第12話でもハンターが出てくるが、こちらのハンターは主人公達に蹴散らされるだけで、遭難しないし「救い」はない。ハンターの一人は救助後に手に包帯を巻いていたけど、凍傷でもしたのかな?

第12話 「春の音」
名台詞 「本当に良い匂い。春なんだねぇ…春が来たんだねぇ…ブリギッテや。ほら、春の匂いだよ。春の匂いを運んできてくれたんだよ。」
(「おばあさん」)
名台詞度
★★★★
 春先のある日、ペーターとそり遊びをしていたハイジはペーターの家に立ち寄った。そこで「おばあさん」に差し出したのは、途中で見つけた雪割草の花だった。その花を手にして匂いを感じると、「おばあさん」はこう語る。
 「おばあさん」は失明したからは家に閉じこもりがちで、「季節」の訪れを体感することは殆どなかったのだろう。それがハイジが持ってきたプレゼントによって、思わぬ形で「春」を体感することになった。その「春」という季節の訪れにより、暗く沈みがちだった彼女の気持ちが途端に明るくなったのは言うまでもない。それを上手く表現する台詞だ。
 また、ハイジも雪割草をプレゼントすることで、目の見えない「おばあさん」に春を感じてもらおうとは本当に良く考えたと思う。それは頭が良いとかそういう問題でなく、ハイジが「おばあさん」のことを心配しているからこそ、瞬時に心に浮かんだ事であったのだろう。
 そして、今話で「おばあさん」の声を担当している沼波輝枝さんの名演により、この台詞に「春の訪れ」とその喜びを全部込めたと言って良いほどの台詞に仕上がったと思う。視覚以外の感覚だけで「春」という季節の訪れを感じ、暗い季節が終わったと感じ取れる見事な台詞だ。沼波輝枝さんといえば思い出すのは、「わたしのアンネット」のおばあちゃんだ。
名場面 そり遊び 名場面度
 アルプスが舞台のアニメで冬のシーン、というとどうしても頭に思い浮かぶのは「そり遊び」だ。本作から10年目に放映された同じアルプスが舞台の「わたしのアンネット」でもこの「そり遊び」は存分に描かれている。どちらの作品も、登場人物達の「そり遊び」はとても楽しそうなんだよなー。
 もちろん、私が小学生だった時代に本作を見た我が家でもそりを購入し、大雪の日やはたまた出かけたスキー場で「そり遊び」をしたのは言うまでもない。あれは間違いなく本作の影響だ。
  
感想  これと言って何も起きない回だ。春が近付きました、雪割草が咲いたので「おばあさん」に届けました、ペーターとそりで遊んでいたら村の子供達に喧嘩を売られました、帰りに雪崩に巻き込まれ掛かりました。おしまい…って、なんじゃそりゃ?
 でも今話は当時見たのをちゃんと覚えていた。そり遊び、本当に楽しそうに見えたもんなぁ。でも名台詞欄シーンの「深さ」に気付いたのは今回の視聴でだ。春の訪れの喜び、冬が過ぎ去る安堵、あの台詞にはそれ以上の何かがちゃんと詰まっている。別にハイジが立ち去った後にハイジを持ち上げなくても、視聴者にはそれがちゃんと伝わったはずだ。「アルプスの少女ハイジ」を今改めて見てみると、そのように視聴者にちゃんと伝わっていることを登場人物がわざわざ口に出して確認するシーンが散見されるのが気になる。ナレーターの五月蠅さと同じ位気になる。こんなアニメだったかなぁ?
 それだけでなく、ラストの春の訪れのシーンも素晴らしい。ハイジと「おじいさん」が何をするわけでもなく、動物たちに囲まれてただ座っているだけというのが心憎い演出だ。そこにいるだけで楽しくなってしまいそうな、そんな「春の訪れ」がちゃんと表現されている。直前の雪崩シーンと対比させ、「冬が厳しく辛く危険だからこそ」春の訪れが待ち遠しくて楽しいものだという事が、今話1話で上手く詰め込んだ事はとても良かったと思う。まさにサブタイトルの通りだ。

第13話「再び牧場へ」
名台詞 「よせよ、言いがかりじゃないか。そうじゃないか、自分がボンヤリしていたからヤギを迷子にしたんだろ? 君が悪いんだ! 君が!」
(ペーター)
名台詞度
★★
 山での急な雨、岩棚で雨宿りをしていると見知らぬヤギが迷い込んでいた。すぐに持ち主が現れるが、ハイジとペーターをヤギ泥棒だと罵る。特にハイジには「おじいさん」の悪口まで言って罵るこの若者に、ペーターがキレてこう告げる。
 まぁ、図星としか言いようのない台詞だ。この男は先にピーターに、自分がどんな気持ちでこのヤギを追いかけてきたかを語っていたが、この台詞に「それ以前の問題」であるという指摘があるのは確かだ。ペーターは居眠りをしたりハイジと遊んだりはしているが、ヤギの行動に付いてはある程度目を光らせている上であることはこれまでに何度も描かれている。ヤギが1頭いなくなればすぐに気付き、捜しに行ったシーンも描かれている事からそれは明白だ。
 もちろんこの男もそうだと思うのだが、だからと言ってヤギが他のヤギに紛れ込むというのは大問題だ。複数のヤギ飼いがいる以上、それぞれの牧場にはそれなりの広さと隣までの距離があるだろう。ペーターが世話をしているヤギはそれを冒したシーンは描かれていない、つまり危険な谷の向こう側であっても他人の領域までは荒らしていない。しかしこの男は荒らしたのだ。それを厳しく指摘するこの台詞は、これまでのペーターの言動と比較するととても印象に残る。
 もちろん、この男はこれをいわれてキレる。当然だ、自分が恥をかかされたのだから。だがこの男が気付いていないのは、相手にそれ以上恥をかかせたという点だろう。ペーターと大喧嘩の上、ヨーゼフに吠えられて負け犬のように去っていくその姿に、見ている子供達は「他人を一方的に悪く言ってはいけない」という教訓を得たことだろう。
名場面 帽子 名場面度
★★★
 久々の牧場から帰ってきたハイジとペーターを、「おじいさん」が出迎える。ハイジが「おじいさん」に今日の出来事を話しかけたと思うと、「おじいさん」が何かを背中に隠しているのに気付く。「町のおみやげだ」と「おじいさん」がハイジに帽子をかぶせると、ハイジは喜んでペーターの所へ行き帽子を見せる。「おじいさん」は牧場で何があったのか問い直すが、それすら聞こえいてないようだ。
 今話ではここまで、ハイジとペーターが牧場で「春」を感じて喜ぶシーンで構成されていたが、最後には殆ど画面に出てこなかった「おじいさん」も「春」を感じて浮かれていることが示唆されて終わる。それを示す唯一のアイテムが、ハイジにおみやげと買ってきた帽子であり、このおみやげには彼の「春が来て嬉しい気持ち」と、それによって「おもわず孫にみやげを買ってしまった」という気持ちが上手く出ている。
 そして「おじいさん」にも春が来ていることをオチとして、今話は上手くまとまると言って良いだろう。春が来て楽しいのは子供や動物だけでなく、万人に共通のことなのだ。そして「おじいさん」には「孫との生活」というもうひとつの「春」があることも忘れてはならない。
  
感想  この話、子供の頃に見た記憶が無いなぁ。もちろん最初から「ただ春が来て浮かれるだけの話ではない」と思って身構えてはいたが、余所のヤギが迷い込んでその飼い主とペーターが喧嘩になるという事件はあるものの、それもあっけなく決着が着いて物語進行には大きな影響がない。
 「なんだこの話」と思って最後まで見ていると、最後の最後で「おじいさんの春」というオチがついて「なるほど!」と感じた。名場面欄にも書いているが、彼に訪れている季節としての「春」と、「孫との生活」という人生の最晩年に突如現れた春、彼のふたつの春をさりげなく、かつとても印象的に描き視聴者の印象に残した。もちろんここまですると言うことは、近かれ遠かれ「おじいさんとハイジの別れ」が演じられるからであるが、物語にはそんな雰囲気は微塵もないのがこれまた面白い点だ。
 おかげで今話では、ラストシーン以外の展開がなかなか記憶に残らないかも知れない。ペーターは隣村のヤギの飼い主と殴り合いの大喧嘩をするが…最後の「おじいさん」をみるとその印象は消えてしまう。もちろん、これは大人になってからの感想であり、娘が一人いるからこそのものかも知れない。
 ペーターがヤギを連れてくる牧場についてひとつ解った事があった。それはそこが「標高1776mの峰」と思われることだ。牧場の標高が一番高いところに石が積まれていて、そこに何かしらの旗か標識があることはこれまでもさんざん描かれていた。だが今話ではこれに明確に「1776」と書かれていることが解ったのだ。この「1776」は標高を示していると見て間違いないだろう。
 その通りでこの標識が「標高1776m峰」を示しているのであれば、彼らはかなり標高の高いところにいることは解る。日本で言えばこの標高まで上がる道路もかなり少なく、ロープウェイで登るような観光地の標高だと思えばよい。日本で有名な山では、最も近い標高の山は鳥取県の大山(1729m)、そんな高い場所での物語なのだ。

第14話「悲しいしらせ」
名台詞 「ハイジ、村の連中がヤギを飼うのは可愛がってやるためじゃない。暮らしのためなんだ。おじいさんだってそうなんだよ。シロやクマの乳を飲んだり、チーズを作って食べたり、売ってパンと換えたりするためなんだ。だから乳の出ないヤギは…」
(「おじいさん」)
名台詞度
★★★★
 牧場でペーターから「ユキを潰す」という話を聞かされたハイジは、帰宅後にその胸の内を「おじいさん」に語る。「おじいさん」は「シュトラールのヤギだから仕方ない」と言うと、ハイジは「シュトラールさんが決めたことならユキちゃんが殺されてもいいの?」と激高する。その返事として「おじいさん」は静かにこう語る。
 「おじいさん」はハイジの話を聞いて、その気持ちを知って、ハイジが大事な事を知らないことに気付いたに違いない。それは「何故ヤギを飼っているのか?」という、ヤギを牧場に連れて行くにあたり最も基本的な事だ。これを知らないからこそ第7話で、「山羊を厳しくしつける必要がある」という事も知らなかった過去も浮かび上がってくる。ハイジはこの基本を知らないから、「役に立たないヤギ」というのはどんなに可愛くても飼い主にとってお荷物でしかないという現実を知らないでいたのだ。
 だから「おじいさん」はこの基本中の基本から語り出す。何故人々はヤギを飼うのか、ヤギを飼わなければならないのか…ヤギの乳が生きて行くための栄養源であり、生活を立てるための収入源であるのだ。そして乳が出ないヤギは、人に飼われて生きて行くことは出来ないという現実だ。
 この台詞を聞いたハイジの反応は、「おじいさん」が全てを語り終わらぬうちに泣き出してかけだして行ってしまう。実はこの台詞でハイジは「おじいさん」が語った現実の意味を理解したのだ。ハイジが物わかりがよいからこその悲劇であり、ハイジはこの現実に対し対策の立てようがないと思ってしまい追い詰められてしまったのだ。
 もちろん、この状況のハイジに与えるべき話は、現実を理解させた上で「どうやれば最悪の事態を回避出来るか」という提案だ。現実というのは多くの場合、「最悪の事態」とそれを回避する方法がセットになっている。この台詞とこの後の展開を見ていると、そのような社会の仕組みを自然に子供に教えるいい「つくり」になっているから驚きだ。だからこそこの台詞が印象に残る。
 子供の時の視聴でも、この台詞でヤギ飼いの「現実」を知り、牧場のヤギたちも競争社会を生きているという現実を知ったものだ。
名場面 ユキが潰される 名場面度
★★★★
 牧場でのひととき、ハイジが昼寝をしているとペーターとがユキがいないのに気付く。探してみるとペーターはユキに崖に生えている草を食べさせていたが、何か様子が変なのはハイジにも解った。「どうも変よ」とハイジが語りかけると、「ねぇ、ハイジ」と彼は深刻な表情で語りかける。「なによ?」と笑顔で答えるハイジの顔を見て、ペーターは言葉が続かない。しばらく無言で見つめ合ったかと思うと、「お昼にしようか」とペーターははぐらかす。「ああ、お弁当のこと? チーズもパンもどっさり持ってきたわ」とハイジが答えるが、ペーターは「そんなことじゃないよ」と語りながら立ち去ってしまう。その様子のおかしさに気付いたハイジはペーターを追い、「どうしたの? なんかあったの?」とと問う。「どうせ言わなくちゃならないんだ」とペーターは呟き、「ユキが潰されるんだ」と意を決して言う。驚くハイジに「ユキがこの夏が終わったら殺されるんだよ!」とさらに続ける。ハイジはペーターの胸ぐらを掴み「そんなのウソでしょ?」と問うが、「ウソだったらいいんだ…」と返し、飼い主のシュトラールから聞かされた事を言う。なおも「ウソでしょ?」と問い詰めるハイジに、「ウソなもんか! 乳が出ないヤギを潰すなんてよくあることさ」と叫んでしまう。ショックで「ペーターは平気なの?」と問うハイジを、へーターは「バカ!」と突き飛ばしたと思うと、今度は「平気なもんか…」と呟く。そして泣きながらユキにすがりつくハイジを、ペーターは黙って見る事しかできない。
 ユキの身に何が起きようとしているか、ハイジが真実を知る瞬間だ。この時のペーターの言動がとても良い。「言い辛いことを言おう」という年相応の少年の動きが見事に再現され、「ユキが潰されるんだ」の台詞はまさに怖いところを一気に通り過ぎようかという感じで上手く語っている。ハイジを傷つけることになるのは百も承知だから、その瞬間を短く済ませようというペーターの気持ちが上手く表れている。
 それに対するハイジのショックも上手く演じられている。最初は何を言われたのか理解出来ず、続いて驚き、悲しみへと流れる表情の変化は自然でとても良い。これに名台詞欄で「怒り」がついてくる。
 しかしここにペーターの本心が上手く現れている。彼もハイジ同様にユキには特に目をかけている事はこれで明白だろう。名台詞欄に書いた基本中の基本を知り、乳が出ないヤギの現実を知っている彼ですら「平気なもんか…」である。この微妙な彼の気持ちの再現は秀逸であると言わざるを得ないワンシーンだ。
  
感想  基本的に平和な話が続いていたが、ここでユキの生命の危機が訪れる。それは牧場で怪我をすることでもなく、病気に罹ることでもなく、「人間の都合」で生きてゆけなくなるという「人に飼われている動物」について回る「現実」である。飼われている以上は飼い主にとってプラスがないと生きていけない、こんな動物たちの現実を本話は突き付けてくる。
 同時に、名台詞欄に書いたように「最悪の事態」と言う現実には「回避手段」があることも今話は強く訴えてくる。ハイジもペーターもこの「回避」を実現するために、必死になって動き回る。結果二人は崖から落ちてしまうのだが、本人達はそんなことには構っていない様子だ。
 今話までにユキというヤギをとても可愛く描き、視聴者に「可愛いヤギ」として印象付けてきたのはまさに本話のためであったと言って良いだろう。視聴者に「可愛いヤギ」として印象付けられることで、ハイジだけでなくペーターと「おじいさん」までもがその延命のために必死になることに説得力を与えている。そういう「伏線回収」という意味でも本話は重要な話だろう。
 そして、本話の良いところの1つは結論を急がなかったこと。ユキの危機に対してそれが回避されるという結論を本話中に出さず、結論話は次回に独立させたことだ。これで3人の必死の努力が今話でゆっくり描けるようになり、また現実を知ったハイジの気持ちを忠実に再現出来たのはとても大きい。「アルプスの少女ハイジ」というアニメが名作として今でも語られるようになった理由の1つに、ささやかながらも本話の存在はあることは外せないと思う1話だった。

第15話「ユキちゃん」
名台詞 「あいつめ、ハイジに負けおった。」
(「おじいさん」)
名台詞度
★★★★
 ハイジやペーターの必死の懇願により、ついにシュトラールはユキをもう一年飼うことを宣言する。喜んだハイジはシュトラールに抱き付き、シュトラールは思わず嬉しくなる。だがとなりにいたのがあの「おじいさん」だったこともあり、すぐに表情を変えて立ち去る。その背中に向けて「おじいさん」がこう呟いたのだ。
 恐らくだ、これは私の個人的な解釈にすぎないが、「おじいさん」はこの台詞に続いて心の中で「そして、わしもな…」と呟いていたに違いない。ハイジの純粋な心に触れるにつけ、この「おじいさん」も少しずつ人格改造されているのは誰も否めないだろう。今回はハイジがユキを家に連れ帰るという事件を起こし、ペーターが来る前に連れ帰る気満々だった「おじいさん」はハイジの必死さに心を打たれ、シュトラールを説得しようと試みるに至った。つまり、「おじいさん」も今回の件ではハイジに負けたのである。
 この台詞でこう考えるにいたる理由は、やはりハイジやペーターがユキを救おうと必死になっていたことで、前話の身を挺しての草取りがこの台詞でじわじわ効いてくる。そしてそれだけでなく、その草取りによってユキから「良い乳が出る」という成果まで得た。「おじいさん」もシュトラールもこの彼らの行為に負けたのであり、その行為を2話掛けて大きく描いたからこそ、このユキちゃん編の2話がこの台詞で上手く落ちたのである。同時に、次話から新展開になるので「序盤」の物語も上手くオチがついたと言えるだろう。
名場面 説得 名場面度
★★★★★
 山小屋の朝、いつも通りペーターがヤギたちを連れて登ってくるが、一緒にユキが帰らないことで怒り心頭のシュトラールがついてきた。「おじいさん」はシュトラールを家の中に入れ、ユキから搾った乳を飲ませ、シュトラールに「ユキは必ず良い乳が出る、それを潰そうなどとは馬鹿者のすることだ」「お前は自分が飼っているヤギの乳の飲んだことがないのか」と批判するが、シュトラールはますます怒りあることないことまくし立て「おじいさん」を泥棒呼ばわりする。
 ここで「シュトラールさん、おじいさんは泥棒じゃないわ」とハイジが天井裏から顔を出す。ハイジは自分がユキを引き止めた事と、放牧中に乳がよく出る草を沢山食べさせた事を説明する。そして「少ないけどとても良いお乳が出るわ」と言い、シュトラールの手を引いてヤギ小屋に連れて行く。そしてハイジはシュトラールの目の前でユキから乳を搾り、シュトラールに飲ませる。シュトラールは躊躇いながらも乳を飲むが、美味いという表情をする。シュトラールはペーターにこの件について何故黙っていたのか問うが、ペーターはすぐに怒鳴られたから報告出来なかったと返す。そしてハイジがユキを殺さぬよう懇願すると、「お前は変わった子だね、そんなにユキが可愛いのか?」とシュトラールが問うと、ハイジが満面の笑顔で「お願い!」と返し、シュトラールは遂に「よし、もう一年待ってみよう、またユキをペーターに預けることにするよ」と宣言する。この言葉にハイジは満面笑顔で、シュトラールに抱き付く。
 ユキを潰さないように説得するのは最初は「おじいさん」が買って出たが、彼は余計な事を言ってしまい逆効果になってしまった。そこでハイジが登場し、ハイジは百語るよりも一の現実を見せる。それは前話でハイジとペーターが試みていた「ユキの体質改善」の成果を見せることだ。ユキは搾られた乳が上質なだけでなく、突然のこの状況でも乳が出るようにまで改善している現実を見せられれば、ヤギ飼いとしてのシュトラールは考えを変えざるを得ない。そこへハイジはシュトラールの「父性」に訴えかける、ハイジは自覚してやっているわけではないが、女の子による真剣な懇願に続く満面の笑みでの「お願い!」はおじさん達に対しては最高の武器だ。このハイジの攻撃をかわすことが出来ず、シュトラールはユキの延命を宣言する。
 こうして前話からの物語を総括するだけでなく、名台詞欄に続いてうまく「オチ」をつけるべくうまい流れのシーンだと思う。特にシュトラールが最終的にハイジの必死さだけでなく、「可愛さ」に負けるというのは美味く考えたと思う。もし私がシュトラールなら、やはり同じ決断をしただろう。
 そんな男としてのシュトラールを美味く描いたこのシーンは、「アルプスの少女ハイジ」序盤戦では、今回の視聴で最も印象的なシーンになった。こんな印象的なシーンを残して、いよいよ次話から中盤の「フランクフルト編」が幕を開く。
  

  
感想  ユキちゃん2部作は本当にきれいにまとまった。今のアニメだったらこの2話を1話で済ませてしまうだろう、いやこの話に2話かける余裕がないだろう。取りあえず2クールで視聴率悪けりゃすぐ終わらせるのが前提のアニメに、こんなゆったりした話は描けまい。
 前話ではハイジのショック、それに「最悪の事態には回避する手段もある」というテーマに従い、ハイジやペーターだけでなく「おじいさん」までもがユキを救おうと悪戦苦闘している状況が時間を掛けて描かれた。それを受けて今回は、冒頭でまずユキの処遇が発表されハイジとペーターをどん底に落とすことから始まった。そして「これが最後かも知れない」とユキに接するハイジとペーターを丁寧に描くことで、彼らのユキに対する愛情を説得力のあるものにし、その上でハイジがユキを連れて帰ってしまうという事件に発展する。この流れがゆったりしているだけでなく、説得力があり見ていてとても気持ちいい前半戦だった。
 そして後半からはハイジとペーターの悪戦苦闘の「成果」が明らかになることから始まる。この成果無しでは本話が終われなかったのは言うまでもないだろう。この成果を見たことで「おじいさん」の態度が変わるところからが、「ユキ延命」を向けて落ち込んでいた物語が上へと上がって行くのは言うまでもないだろう。そして名場面欄、名台詞欄と流れて行く。
 ユキの延命について、何よりも「可哀想だから」とか「ハイジが可愛がっているから」というだけの偽善的な話にならなかったのがこれまた気持ちよい。ハイジやペーターがユキを救おうと、「乳が出るようになる草」を沢山食べさせるという対策を取ったからこその事であるという物語にしたのは、このユキちゃん2部作を振り返る上で重要な要素だ。誰かを助けるのは簡単でなく、努力と根性、そして身の危険も顧みない直向きさが必要だと、この2部作は教えてくれる。そういう意味でいまどきの子供達にも見せたい内容だ。

第16話「デルフリ村」
名台詞 「ううん。わかんない。ウフフフフっ、そういえばペーターも学校なんかちっとも面白くないって言ってたな。」
(ハイジ)
名台詞度
★★★
 ついに「学校」の存在と、そこに自分が行かねばならないことを知ったハイジに、「おじいさん」は語る。「学校なんか行ったってろくな事は無い。下らんことを覚えてくだらん奴になるのが関の山だ。それよりヤギやヨーゼフと暮らしている方が余程幸せなんだよ」と。そして「わかったかね、ハイジ?」と問うとハイジはこう返す。
 そう、「おじいさん」の言葉が分からないのは当然である。ハイジは「学校」の存在を今知ったばかりで、そこへ自分が行く事が幸せなのかそうでないのかという事も知らない。「学校」について自分が持っている情報は、ペーターが嫌いな場所だということだけである。それをうまく返したと思う。
 そしてこの台詞から見えてくるのは、「ハイジの将来」だ。「おじいさん」はもう歳だからハイジが成人するまで生きられるかどうか解らないだろう。もしものことがあったときに、ハイジが一人で取り残されることになったら…この少女は生きる糧を全て失うことになる。「おじいさん」は学校へ行かせないだけでなく、自分の仕事をハイジに伝授するようなこともしていないからだ。
 つまりここで始めて、「おじいさん」がハイジをどう見ているかが浮かび上がってくる。彼はハイジとの「現在」が大事なのであり、その上でハイジを可愛がっているだけなのだ。
 そして今話からの新展開では、まずその「おじいさん」の姿勢が仇になりハイジを失うことになる過程が描かれることから始まるのだ。
名場面 ハイジとの夕食 名場面度
★★★
 今話の最後は、ハイジと「おじいさん」の二人の夕食だ。ハイジは夕食を食べながら、「おじいさん」にこの日の昼の出来事を語る。それは村の子供達と雪合戦をしたことである。そんなハイジを「おじいさん」は不安な表情で見つめる。「誰にも邪魔されずにハイジと二人きりで暮らしたいと思っているおじいさん、でもこれから先、果たしてその願い通りに行くのでしょうか?」とナレーターが解説し、雪が降り続く小屋の景色が描かれて本話が終わる。
 ナレーターの解説にある通り、「ハイジと二人の生活」は「おじいさん」の願いだ。そのためには彼にとって学校の存在すら邪魔なのである。だがハイジが村の子供達と交流を持ったことで、その願いの一端が崩れ始めている。「おじいさん」はそう感じているはずだ。
 もちろん、そんなハイジの動きを止めることも「おじいさん」にはできない。彼に出来る事はハイジを可能な限り人目につかせないことだ。これまではそれで上手く行った、だが今話でハイジの行動範囲が拡がったことが明確にされると「これまではそうは行かない」と「おじいさん」だけでなく視聴者も感じているはずである。この状況でのこのシーンは「おじいさん」の不安をあぶり出すわけでなく、その「おじいさん」の気持ちや願いが仇となって彼がハイジを失うことになることを前もって示唆するシーンとして重要である。
 こうして物語は、今後の展開を視聴者に予感させたが、次話ではハイジがアルムを去るという信じられない展開が用意されていることなど視聴者にはまだ予感出来ていない。あとになってこのシーンがその「心の準備」のためであったことわかるという、そういうつくりになっているのは今見ると感心だ。
  
感想  自分で作った落とし穴に、自分ではまる少女ハイジ…これはうけた。

 さて、今話から新展開である。前話までの15話は冒頭の「アルム編」と言っていいだろう。今回からはいよいよ中盤、「フランクフルト編」に突入だ。その一番最初の展開に「おじいさん」とハイジが引き離される物語から入って行く。まず最初に「おじいさん」の「ハイジに対する姿勢」が描かれる。それは孫として可愛がっていると言うより、正直言ってペットみたいな扱いなんじゃないかとツッコミを入れたくなるようなものである。学校に行かせないなら行かせないで、彼はハイジに教えるべき事は沢山あるはずなのに、それをしないのだからそういわれても仕方が無い。そしてその姿勢こそが「ハイジを失う」という、彼にとっっての大事件へと結びついて行くという展開だ。
 もちろん、本話ではまだハイジが「おじいさん」だけでなくアルムの山から引き離されるような要素は出てきていない。ただ本話最後で「おじいさん」のハイジに対する姿勢が明確にされ、そのような展開を予感させるだけだ。めざとい人を除けばこの先数話で物語がガラリと変わってしまうことなど予想もしていないことだろう。今話で必要もないのにわざわざユキを出したことも、次話を見れば理解出来ることだ。
 それにしても、今話でのナレーターの解説では「ハイジは山での三度目の冬」とされたが、どこで1年進んだのかよく分からない。劇中に描かれた冬はこれで二度目なのと、5歳で山に登ってきたハイジが8歳になったことを考えれば、何処かで1年話がワープしていないと辻褄が合わないのだ。これは小学生時代に再放送を見た時からの謎である。 

第17話「二人のお客さま」
名台詞 「そうでございましたか! この次の冬に、凍えるような寒い朝に、まだ手足のか細い女の子を、嵐や雪の中をくぐって山を下らせる。そして2時間も歩かせる。そんな事が出来ますか? それからまた夕方には、わしらだって息も詰まりそうなくらいに雪が荒れ、風が吠えている中を登って来させる。わしがそんなことをすると、牧師さんは本当にお考えでございますか? そういう時にあの子はどうすればよろしいのかな? 無理をして病気にでもかかれと仰るのですか? 誰でも来るがよろし! そして取りたければ、あの子を取って行くがよろし! わしはあの子を連れて何処の裁判所へでも出かけます。そして、誰がわしの手からあの子を取り上げるのか、その顔を見てやりましょう。」
(「おじいさん」)
名台詞度
★★★★
 ハイジを学校へやるよう、村の牧師が説得に訪れる。牧師はハイジの将来について語ったが、それでもハイジを学校にやらないと言い張る「おじいさん」に「法的手段がある」と言ってしまう。「おじいさん」はそれに反応してブチ切れ、この台詞を叫ぶように語る。
 この台詞は前半と後半で言っている事が大きく違うのが特徴だ。前半は「おじいさん」がハイジを学校へやらないことについての、その場での思い付きによる建前だ。もしこの建前を思い付きなどではなく、最初からこう考えてのハイジを学校にやらないという判断であれば、牧師の説得に対してこれを言えば話は「おじいさん」にとって話が終わりだったはずである。だがそうではない。彼はこの台詞の前半内容を思い付きで語っているからこそ、冷静さを失い叫ぶように語っているのだし、頭の良い「おじいさん」の中でも対策や解決法など考えていない。牧師の説得を否定するために、この論理をまくしたてただけである。
 そしてこの台詞の後半、「誰でも来るがよろし」からがこの台詞の重要なところだ。ここが「おじいさん」の本音であり、「ハイジを手放したくない」という「学校へやらない理由」である。彼がハイジを学校にやらない本当の理由は、「ハイジの離ればなれの時を過ごしたくない」それだけである。その本心がこの台詞後半に強く表れている、「誰が自分からハイジを奪うことが出来るか!」という強がりであり、「誰でも自分からハイジを連れ去ればいい」という開き直りがそれである。この台詞に「おじいさん」のハイジを失いたくないという気持ちが、強く描かれている。
 だが彼はまだ気付いていない、それが人間の子供に対しては間違った愛し方であることを。「おじいさん」がハイジを溺愛するのは理解する、だがハイジのためにはいつまでも自分と一緒という訳にはいかないのは現実だ。彼は牧師の説得でそれに気付いたからこそ、牧師が帰った後に無口になったと解釈している。そして彼が自分の誤りに気付きつつもそれを受け入れられず、どうすればよいか答えが出ないうちに次の事件へと流れて行くのだ。
名場面 「おじいさん」の苦悩 名場面度
★★★★
 ハイジを学校にやるよう、そのために村へ下り村人達と生活するよう牧師に説得された「おじいさん」だが、彼は結局はそれらを全て断り牧師を帰らせてしまう。そこへハイジが戻って来て「お話って何だったの?」と問うが、「おじいさん」は深くため息をつくだけで答えようとしない。「おじいさん」の様子がいつもと違うのにハイジが驚くのに構わず、彼は立ち上がってヤギの乳搾りに出る。ハイジが後を追い「ねぇ、牧師さんて何をする人?」と問うが、「お前には関係ないことだ」と冷たく答えるだけだ。続けてハイジが「おばあさん」の所へ言って良いか問うが、「言ってはいかん」とこれまた冷たい。「どうして…」と問うハイジを無視し、「おじいさん」は乳搾り中に動くヤギをいつもより厳しい声で叱る。
 「おじいさん」が苦悩しているのはまさにここだ。牧師の説得は正論であった、ハイジの将来、心を閉ざす「おじいさん」のこと、村人の現状…正論なだけにまともな反論が出来ず、頑固に「ダメだダメだ」を繰り返しただけだった。これで気分が悪いのは、説得に来た牧師だけでなく「おじいさん」もそうだったのである。
 名台詞欄でも語ったが、「おじいさん」はハイジをどうするべきか、そして自分がハイジのためにどうあるべきか、それに対して今の自分のハイジへの愛し方はどうなのか、それらの論理に牧師の話で気付かされてしまったのだ。ハイジは学校へやらねばならない、そのためには自分は村に住みハイジが村での生活に困らないよう村人に心を開かねばならない、ハイジが人として正しく育つためにはそれは避けて通れぬ事で、今の自分が行っている「ハイジを自分だけの檻に入れる」という愛し方が大きな間違いであることに、彼は気付いてしまったのだ。
 だが「おじいさん」である、それに気付いてその通りに生かされる事は彼に取って「負け」を意味しているのだ。いや、周囲から見ればそんなことはあり得ないのは当然なのだが、彼はそう思ってしまっている。だから頑固なのである。彼は「負け」にならないようにハイジを正しく育てる方法を考えたが、その良案が出てこなくてイライラし始めている、そのイライラが苦悩となってついにハイジにまで当たり出している辛いシーンだ。
 そして名台詞欄で書いたことの繰り返しだが、この苦悩の決着が着かないうちに次の事件が起き、彼はハイジを失ってしまう。「フランクフルト編」序盤で彼の苦悩をしっかり描いたことは、「フランクフルト編」が終わった後にじわじわと効いてくることになる。


 
感想  ますます頑固になる「おじいさん」、牧師の波平さんによる説得にも動ぜず、ハイジをますます自分の檻の中に閉じ込めてしまう。それだけではない、その苦悩でハイジは「おじいさん」に異変が起きていることを感じ取っていて、ハイジもその対応に苦慮しているというのが正しいところだろう。
 その辺りの流れを前半を掛けて丁寧に描いたところで、満を持してデーテが再登場する。しかもデーテが直接山小屋に来るのでなく、村に立ち寄って「ハイジの現況」を聞かされた上で「あなたのせいだ」と批判されるのだからたまらない。この女の性格を考えれば、ハイジを何処かへ連れ去るという展開は多くの視聴者に自然に読めてくるといううまい展開である。
 そしてデーテが山小屋に登場し、「おじいさん」に「ハイジを連れ去る」と宣言したところで今話は終わりだ。いや〜、もうこういう嫌味のない切り方はいいね。ちゃんと今話でデーテの目的を明らかにして物語を終わらせたのは、今話を上手くまとめる上で重要だっただろう。
 もちろん、原作を知らずに本作を初見の人は「このままハイジが連れ去られる」とは微塵も思っていないはずだ。「おじいさん」がこの件を通じて改心し、ハイジが学校へ通うような甘い展開を多くの人は想像するだろう。この辺りの数話は容赦がない展開なので、目が離せない。
 しかし今話、久々にペーターが出てこなかったなぁ。でもエンドロールにはペーターとそれを演じるドロンジョ様の名があったけど。いよいよ次回、物語の舞台が変わる。怒濤の展開だ。

第18話「離ればなれに」
名台詞 「あんたには関係ないことよ。」
(デーテ)
名台詞度
★★★
 何とかハイジを騙し、ハイジをフランクフルトへ連れ出すことに成功したデーテ。彼女は足早にハイジを麓へと連れて行く、それはハイジが知り合いなどに会って気が変わることを恐れていたからに他ならない。
 そして案の定、麓へ降りる道でペーターと出会う。「何処行くの?」と問うペーターに「フランクフルトへ行くの!」と明るく答えるハイジ。だがその返事にペーターが浮かべた表情は驚きだ。ハイジは「おばあさんに会って行くわ」というが、デーテが「時間がない」とこれを制して歩き出す。その必死な制止にペーターは不安な表情で「いつ帰ってくるの?」と問う、ハイジが振り返って返事をするより先にデーテはこう答えて、さらに強くハイジの手を引く。
 この台詞の印象が強いところは、その台詞自体の内容ではない。この台詞が負っている「役割」だ。ペーターはこの一言で「ハイジが連れ去られ二度と帰ってこない」と理解するのだが、ペーターがそう感じることが不自然でないように上手く演じられている。適当に誤魔化すのでなく、「あんたには関係ない」と言い切ることで早くその場を去ってハイジの連れ去りを成功させねばならないというデーテの焦りが伝わってくるし、ペーターの立場で見ればその焦りに違和感を感じたのは確かだ。その違和感が「ハイジは二度と戻らない」という直感に繋がる。
 そしてその違和感を感じ取ったのはペーターだけでない、デーテに手を引かれているハイジもだ。ハイジはデーテのこの一言で、始めて不安に襲われる。恐らく今自分の身に何が起きているか、この時に潜在的に感じたのかも知れない。本当に今日中に帰れるのか、おじいさんやおばあさん? それにペーターにまた会えるのか? そんな不安がハイジの心の中に突き上げてきたのはこのシーンを見ていれば簡単に理解出来るだろう。だが人を疑う事を知らないハイジは、デーテを信じて「今日中に帰る」ために道を急ぐ。そんなこの先しばらくの物語の構図まで見え隠れしている台詞だ。
名場面 ペーターの悲しみ 名場面度
★★★
 ペーターの家の夕食、ハイジが連れ去られ消沈したおばあさんが「ハイジはいつ帰ってくるんだろうね? いいことも、楽しいことも、みんななくなってしまったよ…」と呟く。それを聞いたペーターはショックでさじを落としたかと思うと、唐突に家を飛び出す。向かった先はハイジが住んでいたあの山小屋だ。
 必死に山小屋のドアをノックするペーターだが、返事がないのでそっと戸を開けてみる。そこにあったのはこれまで見たこともないような寂しい表情で、小さくなって座っている「おじいさん」だった。その姿を見たペーターは山小屋を立ち去ろうとするが、「おじいさん」はペーターを呼び止める。その声にペーターが山小屋に戻ると、「よく来たな」と声を掛けられる。「ハイジはいつ帰ってくるの?」…ペーターが問うが、「ハイジはもう帰って来ん」と力無く答えるだけだ。「ねぇ、どうして?」とさらに問うペーターに、「ハイジは…もう帰って来ないのだ。わしには信じられん、まさかハイジがわしからいなくなるなんて…」と身体を震わせながら語る。「おんじのバカ! どうしてハイジを行かせちゃったんだ!」とペーターは声を荒げて言うが、彼は身体を震わせて黙っているだけだ。ペーターはたまらずまた走り出し、ハイジとの思い出が詰まっている牧場へと走り出す。
 ペーターの悲しみが上手くされていると思う。ハイジが消えた悲しみだけでない、老いた上に目が不自由な「おばあさん」を悲しませた怒りもあるだろう。ペーターはその悲しみと怒りをぶつける先に、まず「おじいさん」を選んだのだ。「おじいさん」に一言文句言わねば気が済まないという所だろう。
 「おじいさん」は悲しみに暮れ、ペーターが来訪したときはその悲しみを共有出来ると最初は考えたのかも知れない。だがそうはならなかった、ペーターはハイジが消えたのは「おじいさん」のせいだと思っているし、それを批判しに来たのだ。だがその二人が向かい合った間に、同じ者を失った悲しみというのがキチンとあり、それを見逃すことなくちゃんと描いていて二人に喧嘩をさせないこのシーンの素晴らしい点だ。
 そしてペーターは「おじいさん」に怒りと悲しみをぶつけることが出来なくなり、ハイジとの思い出の地へ行く事を思い付く。そこではやり場のない悲しみがこみ上げてくるだけだった。
  
感想  物語的には実にあっけなく、デーテ的には予想以上の困難さを持って、遂にハイジと「おじいさん」が引き離される。これは「フランクフルト編」序盤では避けては通れない最初のヤマ場と言ってよい。もちろんハイジには「おじいさん」の元を離れる気など毛頭なく、視聴者は「これはデーテがハイジを連れ出すのは困難だろう」と安心して見ていると、デーテは「おじいさんやおばあさんに土産を買う」という餌をハイジの前にぶら下げた上で、「今日中に帰れる」というあり得ない大嘘でハイジを騙し、ハイジの連れ出しに成功する。あとは名台詞欄シーン、名場面欄シーンとラストだ。
 デーテがハイジを連れ出すにしても、多くの人は今話一杯掛かると踏んでいたことだろう。だがデーテがハイジを騙したことで、以降の展開はとてもうまく流れて行く。特に村の近くまで降りたときにペーターと出会うという設定にしたのは上手い作りだと思った。
 それにしてもデーテってキャラは、徹底的に「自分勝手な女」にするのに成功していると思う。彼女が「おじいさん」に語る「一致しない言動」は、本当に上手く考えられている。片時も忘れないほど心配している人を、丸3年近くも放置しておくか?…これだけで答えは出るのだが、彼女はその後あることないこと並べ立てるのでそれに磨きが掛かった感じだ。まぁ結婚もしていないのにいきなり姪の世話を見なきゃならなくなった女性という目で見れば同情の余地はあるのだが、あの「一致しない言動」は視聴者に一瞬生じるそんな気持ちを見事にぶち壊すよう上手くできている。
 そして今話では、ハイジを失ったペーター一家と「おじいさん」の様子を長々と描いた後で、最後に「やっぱりハイジは騙されている」という点を強調したのは正解である。ハイジは一瞬不安を感じたものの、最終的にはデーテを信じて「早く用事を済ませて今日中に帰る」と一心で歩いている事が強調されたことで、ハイジが「連れ去られる」という要素を強くしたのだ。これによってハイジが悪人になることはなく、ハイジもやっぱり「おじいさん」やペーター達との生活を望んでいることが視聴者に印象つく。この展開の悪役はデーテ一人が一身に負っているのだ。

第19話「フランクフルトへ」
名台詞 「お言葉を返して恐れ入りますが、この子は全くお望み通りの子でこざいます。並とは違った個性の強い子、性格のハッキリした子というご注文でございした。ロッテンマイヤー様、この子こそピッタリでございます。クララ様のお相手としてこれ以上の子供は、おりませんでございます。さ、とんだ長居をしてしまいましたわ。そのうちまた、この子の様子を見に寄せて戴きます。ごめんあそばせ。」
(デーテ)
名台詞度
★★★★
 う〜ん、デーテがこの名台詞欄に頻繁に名が上がるとは、考察している自分でも予想外だわ。
 フランクフルトに到着したデーテは、ハイジを連れて真っ直ぐゼーゼマン邸に足を運ぶ。そして執事のロッテンマイヤーにクララの相手としてハイジを紹介する。だがロッテンマイヤーはハイジがクララに対して小さすぎること、勉強もろくにしていないので読み書きが出来ないこと、礼儀や言葉使いがなっていないこと、洗礼名すら知らないこと、これらを指摘してデーテに「これでは約束が違います、なんでこんな子を連れてきたのです?」と問う。このデーテの返答がこれだ。
 この台詞にはハイジの性格が上手く込められている。そしてロッテンマイヤーが望んでいた「クララの遊び相手」に必要な要素も全て揃っていることが上手く説明されている。つまりこの台詞は主人公ハイジの性格を明確にし、まだクララの性格設定が明らかになっていないこの段階で、クララとのベストマッチングを視聴者に期待させる効果がある。
 だがこの台詞でのデーテの言葉が真実であることが判明するのはまだ先の話で、その時になってデーテのこの台詞が思い出され、「効いてくる」台詞となる。
 しかし、デーテがここまで的確にハイジの性格を知っているのは、やはり「おじいさん」に預ける前にちゃんと育てていたから何だろうか? いや、それから数年にわたり放置していたことを考えれば、デーテが「ハイジの性格は当時から変わっていない」事を判断出来ようもない。恐らく、デーテは山小屋でのハイジとの再会でそこを見抜いたに違いない。この自分勝手な女には「人を見る目」はありそうだ。
 この台詞が印象に残る点はもう一つ、デーテの「嫌な女」としての設定を壊さなかった点であろう。だがその矛先が向かった先はロッテンマイヤーである。言いたいことを機関銃のように言い尽くしたら、「ごめんあそばせ」の言葉を残して一方的に立ち去る女…これでデーテの「自分勝手な女」としての性格付けは完璧になったと言わざるを得ない。こんな明確に「嫌な女」を演じきっているキャラクターは、本作では彼女だけだ。
名場面 別離 名場面度
★★★★
 デーテに連れられて麓のマイエンフェルトまで来たハイジは、ここで汽車に乗せられる。汽車に乗ると言うことでデーテが言っていた「今日中に帰れる」という話がウソであり、騙された事にハイジはやっと気付く。ハイジは「汽車に乗りたくない」と抵抗するが、デーテのがハイジを抱き上げて無理矢理汽車に乗せる。汽車はすぐに動き出すが、ハイジは下車しようと車内でまだ抵抗を続け、何とかデーテの元からは抜け出す。そしてデッキの扉を開いてハイジが見たものは…後方へと走り去るレール、そして遠ざかるアルムの山々であった。ハイジを追ってきたデーテもデッキに出てきてハイジの肩に手を置くが、ハイジは遠ざかる山々を見て涙を流すだけだ。
 もう解説のしようもない悲しいシーンである。ハイジの「まさか…」という思い、山との生活や「おじいさん」達と別れたくない心境、それらを全て見事に描き出している印象深いシーンだ。
 特にデッキのシーンでハイジに何も語らせなかったのは秀逸だ、このような悲しいとき人は無口になるものなのだ。アニメでありがちな光景として「おじーさーん!」とか叫びだしたら、このシーンは思い切り白けただろう。ハイジの静かな泣き声だけでこのシーンが終わったのは、本当に上手く作ったと思う。
  
感想  今回はハイジの移動だけ。マイエンフェルトの町まで来たハイジは、無理矢理汽車に乗せられてフランクフルトに強制連行される。一方ではハイジを失った「おじいさん」の背中を映すことも忘れず、彼にとってハイジの存在がどれほど大きかったかが明らかにされる。
 そして今話では、ハイジとロッテンマイヤー、それにクララとの初対面まで話が進む。クララとの会話はまだないが、良い感じのコンビになりそうだという予感がするように上手く作ってあるのは名台詞欄で記した通りだ。そして案の定、ロッテンマイヤーはハイジに否定的である。この綱引きの中から今後の物語が生まれるのだからキツイったらありゃしない。

 では、当サイトとしてはこれは外せない、前話から今話にかけてのハイジの旅路を考えて見よう。この地図をご覧頂きたい。
 赤い線の下側がハイジの言う「山」で「おじいさん」へペーターの住むところ、そして上側の「4」地点がフランクフルトである。まず下側を拡大して見て頂きたい。
 「2」地点が劇中で「デルフリ村」とされている地点だ。「デルフリ村」は架空だが、そのモデルはスイスのイェニンス村(Jenins)とされており、本考察では「デルフリ村」の位置もそこである解釈した。それからすると「おじいさん」の山小屋位置は「デルフリ村」から3キロほど山を登った「1」地点であって欲しいと思う。坂がきついのが山登りに1時間半、山下りで1時間となるこの距離なら劇中で出てくる小屋と村の距離感とほぼ合致する。さらにペーターの家がこの中間点にあると仮定すれば、ピッタリではないか。ただし問題は、これだと牧場の標高がかなり上がってしまうこと。小屋想定位置で既に標高1775メートルであり、牧場に「1776」と書いてある標識があるので標高1776メートルとした13話の考察と合致しなくなる。そもそもこの周辺には標高1776メートル峰はない(それより高い山ばかり)。牧場の標識「1776」の意味は標高ではないと解釈しよう。
 そして「デルフリ村」からマイエンフェルト駅まで約3キロ。これも歩けない距離ではなく、坂が緩やかになることも考えれば山登りで山登りで1時間、山下りで40分程度の道のりと考えられるだろう。デーテはハイジの手を引き1時間40分ほど山を下り続けたと考えると、劇中の描写と恐ろしく一致することもお分かり頂けるだろう。夏が近い時期の夕闇迫る頃に汽車に乗った事を考えれば、デーテがハイジと共に山小屋を出発したのは15時半〜16時と考えられる。
 そしてマイエンフェルトからは汽車の旅だ。地図を拡大した方も、リロードすれば元のサイズに戻るので見直して頂きたい。マイエンフェルトからフランクフルトまでは、ライン川に沿ってこのように移動したと考えられる。鉄道での移動距離は約580キロ、日本で言えば東海道本線で東京から神戸にちょっと届かない程度の距離だ(神戸の5駅手前、住吉駅が東京駅から580キロ)。
 この580キロを、ハイジを乗せた汽車は24時間掛けて移動したと考えられる。当時の汽車の性能や途中駅での停車を考えれば、これはあながち外れていないはずだ。それより問題は、デーテがハイジを連れてマイエンフェルトに着いた時に、よくぞ良いタイミングでフランクフルト行きの汽車が来たなぁという点だ。デーテはハイジを連れ出すことに成功したら、このフランクフルト行き夜汽車に乗る計画でいたのだろう。だから山の下りはじめでは急いでいたと解釈出来る。
 さて、このハイジの行程に似た行程を旅したキャラクターが「世界名作劇場」シリーズに存在する。勘の良い人はお気づきと思うが、それは「ふしぎな島のフローネ」のロビンソン一家だ。この地図を見ればお分かり頂けるが、一家はライン川を船で下っているのでハイジはこの一家の行動とほぼ並行して鉄道旅行をしていたことになる。ただし、ロビンソン一家のライン川の旅は、長い長い旅のほんの一部でしかないが。
 ちなみにペリーヌポルフィも、ハイジやフローネらの工程とダブることはない。双方とも大きく南側を通っていてライン川沿いに出る事がなかったからだ。もちろん、アンネットとも出会うことはない。

第20話「新らしい生活」
名台詞 「石ばかりだわ、おじいさん、ペーター、ここには何にもないわ。花も、木も、土も、水も、何にもない、何にも見えないわ。」
(ハイジ)
名台詞度
★★★★
 フランクフルトでの最初の朝、朝起きてからまた外の景色を見ていないハイジ。クララに外を見たいと訴えると「セバスチャンに頼めばいい」と提案され、その通りハイジはセバスチャンに窓を開けてもらい外を眺める。ところが窓から見えたのは周囲の家と舗装された道路だけ、この景色にハイジは心を痛めてこう呟き涙を流す。
 これまでのハイジの生活では、自然がその全てだったと言っていい。緑の草とその下の土、風で音を立てる樅の木、沢を流れる水は静かに音を立て、その上に拡がる真っ青な空と白い雲。ハイジの中にあった世界観はそれが全てだったのだ。
 だから、ハイジにとって都会の景色は「何もない」のである。そのようなハイジの価値観が見えてくると同時に、「世界の全て」を失った少女の悲しみというのが上手く演じられた台詞と言って良い。
 ハイジには自然が全てという価値観があるが、都会人には逆が言えるということは、子供の頃の視聴で感じ取ったことだ。都会で生まれ、コンクリートジャングルで育った人々が旅行などで田舎へ行けばやはり「何もない」と感じる。この時のハイジの気持ちはまさにそれなのだが、大きな違いは「それが全て」であったかどうという点だ。だからハイジはこの景色を見て「山へ帰りたい」という気持ちを強くするのだ。
名場面 ハイジの決意 名場面度
★★★★
 名台詞を受け、ハイジの様子を見ていたクララが声を掛ける。クララはセバスチャンを下がらせ、ハイジの元に近付くと「そんなに山に帰りたい?」「そんなに山がいいの?」と問う。ハイジが力無く頷くと「ハイジにはこのフランクフルトがつまらなくてしょうがないのね…折角言いお友達になれると思ったのに…」とクララが続ける。「ごめんなさい」と力無く謝るハイジに、クララは「いいわ、ロッテンマイヤーさんに言ってあなたのおばさんを呼んでもらう」と告げる。ハイジは喜んで振り返るがすぐに表情を曇らせる、そこには寂しい表情のクララがいたからだ。「ママは小さい頃亡くなったし、パパはお仕事でずっとパリ。明日からまた私は独りぽっち。独りぽっちに慣れちゃったわ」とクララが語ると、このことをロッテンマイヤーに告げようと部屋を出て行こうとする。その後ろ姿の寂しさに、ハイジは何かを感じクララを呼び止める。そしてクララを追って「私、帰らない」と宣言する。驚くクララに「しばらく私、我慢するわ」と続ける、「本当? ハイジ」と聞くクララに「だってデーテおばさんと約束したんだもん、しばらく我慢したらおじいさんにタバコを、おばあさんにパンを一杯持って帰れるって」と語る。クララは嬉しくてハイジの手を取る、「クララ、しばらくあんたは独りぽっちじゃないわ」とと優しく語るハイジに「ありがと、ハイジ」と返すクララ。そこへロッテンマイヤーの二人を捜す声が飛び込み、そして笑い合う二人。
 ハイジの強いホームシックを吹き飛ばしたのは、クララが持つ「現実」だ。病で足が悪く車椅子生活で外に出られず、外に出ないので誰にも会うことのない寂しい人生を送っているクララの現実に気付いたとき、ハイジは「この子を放っておけない」と強く感じたのだ。そして「自分が何のためにここに送り込まれたか」という論理ではなく、「この子を独りぽっちにしてはならない」という優しさから自分の犠牲を厭わず、この家出の生活を続ける決心をしたのだ。
 もちろん、この決心は並大抵の事ではない。山から引き離されたハイジの気持ちは、今すぐにでも押しつぶされそうなのだ。だけどこの優しい少女には、寂しさの淵にいて自分を必要としている女の子を放っておくことが出来ない。この辺りが上手く描かれている。
 ここで聞いてくるのは、「おばあさん」との初対面だ。ここでハイジは初対面の老女が「目が見えない」という現実を知り、同情して大泣きをしている。この記憶がある視聴者からしてみれば、この流れは至極当然と思うところで自然な成り行きと感じるところだ。
 こうして、ハイジのフランクフルトでの生活が始まる。いよいよこの物語で一番辛い展開の始まりだ。
 

 
感想  前話ではハイジのフランクフルト到着が描かれ、クララやロッテンマイヤーに対面するところまでが描かれた。それに続く今話ではハイジがフランクフルトに落ち着くまでの過程を描いた。この間でハイジが最初から山に戻りたいと感じている事が強く描かれ、今後の伏線を上手く張っていることは言うまでもないだろう。同時にその「帰りたい」という強い思いの上で、「クララのため」という気持ちでフランクフルト残留を決めたという過程も上手く描かれている。フランクフルト編の物語が本格的に始動するに辺り、とても重要な話だ。
 そんな重要点だから、名台詞欄に選ぶ台詞はかなり悩んだ。クララも印象深い台詞を吐いているし、ロッテンマイヤーもとても印象深い台詞がある。だがやはりここはハイジのあの台詞で彼女の本心を上手く表現したのが秀逸と判断した。
 また、冒頭では前話の最後のシーンを繰り返すが、そのまま繰り返すのでなく多少のアレンジが加わっていたのが面白い。そしてそのままハイジとクララの初会話のシーンに突入すると共に、ロッテンマイヤーがデーテの自分勝手さを愚痴るのがこれまた良い味を出している。またセバスチャンの反応も良く、ハイジのフランクフルトでの物語に不安だけでなく「楽しみ」も見いだせるように作ってあるのは面白い。
 しかしハイジ、ロッテンマイヤーに言われた通りにセバスチャンのことを「あなたとかセバスチャン」と呼ぶのは、今も昔もズッこけた。今回そのシーンに辿り付くまで、それがあったのをすっかり忘れていた。

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