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第41話 「お医者様の約束」
名台詞 「そうよ…こんなところで車椅子なんか使えないわ。でもそんなこと当たり前だわ、ここだけじゃない、フランクフルトだって車椅子なんて何にもならなかったわ。車椅子でクララが何処を動き回ったって言うの? 車椅子なんてなくなっていいのよ! 車椅子車椅子って、先生は車椅子のことばかりおっしゃるけど、クララだって本当はあんなものに乗っていたくはないんだわ。あんな車椅子に乗っているより、この草の上で座っている方がずっといいに決まってるわ。クララの、クララの気持ちなんか、先生には、先生になんか解らないのよ…。」
(ハイジ)
名台詞度
★★★★
 夜のうちに医師は、「おじいさん」にクララがアルムに来るに当たっての最大の懸念事項を語っていた。それは斜面がきつすぎて車椅子では危険だという問題である。その話を知ったハイジは、朝一番に搾りたてのヤギの乳を医師に飲ませて懇願するが、「おじいさん」と二人でここで車椅子を使用する危険性を語られる。その過程でバケツが斜面を転がり岩にぶつかって破壊される、皆にはそれがクララと車椅子に重なって見えてしまい重苦しい空気に包まれるが…その中でハイジが医師に訴えた台詞がこれだ。
 ここまでの医師による「アルムで車椅子は危険」という指摘はごもっともだが、このハイジの指摘はそれを上回る。クララが車椅子で生活しているとはいえ殆ど家から出たことが無いという指摘、だからクララが外で車椅子を使う事など今まで誰も考えたことがないというツッコミ、その上で車椅子の事ばかりで本人の気持ちや思いが無視されている矛盾、クララにとって本当に良いのは車椅子に頼るのでなくそこから立ち上がる事だという提案。これがこの台詞に全て込められている。ハイジという少女が泣きながら語る台詞としては、不思議なほど理路整然としていると言ってもいいだろう。
 もちろん、車椅子なんかより自分で立って歩くのが最も良いというのはハイジの一方的な価値観に過ぎない。クララの価値観は他にあることは、物語が進んで始めて解ることだ。だがクララにその気があろうが無かろうが、クララがそう思わないことにはクララがいつまでも歩けないままであることは事実。この医師はその大事な点をこれまで見落としていて、このハイジの台詞によって目覚めさせられたのだ。
 だから医師は考えを改める。車椅子なんか無くなって良い、クララがここに来ることが大事だと。恐らくくららがこの自然に触れれば、自分で立って歩きたいと感じるようになるに違いないという判断もあるだろう。またクララの車椅子ばかりに頼る気持ちを改めさせるには、車椅子を取り上げた方が良いとまで考えているかも知れない。
 いずれにしろ医師の「このままではアルムにクララをやれない」という判断を改めさせ、クララが山に来るという物語に転換したこの台詞は、その重要度だけでなく内容的にも色々と考えるところがあって好印象だ。
名場面 クララ来訪決定 名場面度
★★★
 名場面欄を受けて、泣き崩れるハイジを見て「おじいさん」が「ここで草の上に座らせておくだけでもフランクフルトにいるよりはずっといい」と提案する。医師は「ちょっと待って下さい」と言ってしばし思考に耽る、「車椅子に頼っているから、いつまでも歩く気にならないのか…」と。そして思い付いたように「例え不便でも車椅子から降りて、この自然に触れ合う方が早道かも知れんぞ…クララは車椅子に乗っている必要は無いんだ、あるいは車椅子に乗らない方が…」と語り出す。そしてハイジに「ありがとう」と礼を言った後、今度は「おじいさん」に「クララを預かって下さいますか?」と問う。「じゃクララは?」と問うハイジに「約束するよ、必ずクララを来させよう」と医師が言うと、「わーよかった! ありがとう先生」とハイジは医師を押し倒す。立ち上がった医師は「おじいさん」に、「あなたとハイジになら安心してクララを任せられそうです」と語る。
 まさにクララのアルム来訪が決まるシーンだ。ハイジは途中までずっと泣き崩れているが、その手前で「おじいさん」と医師がクララ来訪に考えが傾き物語が進むことが丁寧に描かれる。その過程も、「おじいさん」はハイジの言葉にすぐに考えが変わるが、医師は慎重に論理を組み立ててという回り道をすることでこのシーンがリアルになった。医師がすぐに答えを出さず論理を組み立てたことで、彼のキャラクター性は壊れず、またクララのアルム来訪が考え抜かれたうえでのことであるという設定が固まり、物語に説得力が出ると同時にこの決定シーンを白けさせることなく盛り上げたのは言うまでも無い。
 もし医師までもが「おじいさん」と一緒に、ハイジの台詞だけで気がふらりと変わってしまったらこのシーンが白けるだけでなく、彼がここまで積み上げてきた「医師」というキャラクター性が破壊されるところだった。第33話では「科学者」としての落ち着いた視線と、「医師」としての冷徹な態度でハイジを救ったこの医師が幻となりかねないところだった。
 もちろんハイジの表情の変化も良い。喜ぶだけなのにわざわざ飛び回るのは、このシーンの前後でさんざんヤキモキさせられたからだという点を上手く表現している。話がひとつ前進するという点も含め、ここはとても印象的なシーンだ。
 

 
感想  前話でまず医師がアルムへ視察に行く事が決まった事と、今話のサブタイトルを見れば今回でクララのアルム来訪と滞在が決まることは誰の目にも明かだろう。同時に前話でハイジが「クララが来る」と勘違いした点についても、今話でどんなオチになるか見られる。そういう意味で「クララが立った」編最初の注目点は今話であると言って良かっただろう。
 そして蓋を開けてみると、冒頭で「ハイジの勘違い」を片付けようとするところから始める。「おじいさん」はもうハイジの勘違いに気付いているが、ハイジがそれを言わせないというのは見ていて楽しい。ハイジだからこそこのような暴走は「あり」で、これもハイジが第1話からずっとキャラクター性を積み重ねてきたところだと言っていいだろう。こうしてハイジの勘違いが暴走したところで、満を持して医師が登場してペーターと出会い山小屋に到着。ハイジが予想通りショックを受けるが、医師が単独で来た理由を知ればハイジの立ち上がりは早い。彼女は医師にアルムに良い印象を持ってもらおうと必死になる。なんかまるでIOC委員を迎えるオリンピック招致委員会の人達みたいだ。クララ招致活動、みたいな。
 そしておやくそく通り、医師が「クララが来る」に当たっての致命的な問題点を発見する。これが出てこなかったら今話は白けて終わるだけなのだ。問題点が出る→これを解決するというのが今話の主題でなければならないのは、この作品を見ていればわかることだろう。その中で「おじいさん」があくまでも冷静で、ハイジに懇願されても曲がりそうで曲がらなかったのはいい役回りだったと思う。そのおかげで「問題解決」をハイジの台詞(名台詞欄)でしてしまうという展開に持って行けたのは、今話の中で最も注目すべき点だ。
 しかし、医師がクララに持たされたお土産は凄かったなぁ。特にペーターへの土産として出てきたソーセージだが、一番大きいのは間違いなく医師が持ってきた鞄より大きかったぞ。この流れの中で「ペーターが食いしん坊」という設定も上手く使ったのは面白い。「アルプスの少女ハイジ」の醍醐味として、それぞれのキャラクター性が上手くでき上がっているという点はあるが、今話はそれが存分に生かされている形だ。

第42話 「クララとの再会」
名台詞 「だがな、ロッテンマイヤーさん。ご自分のことはご自分でなさるおつもりでいらっしゃったのだと、私は思っておりましたが。」
(「おじいさん」)
名台詞度
★★★★
 クララ一行が滞在先となるデルフリ村の「冬の家」に到着する。ハイジはクララと共に先に家に入り、セバスチャンもそれに同行したため「おじいさん」とロッテンマイヤーの2人だけになる。そこでロッテンマイヤーが「おじいさん」に問うたのは、「村に召使いになるような人はいないか?」ということであった。「おじいさん」は村の者は皆忙しく他の仕事をやっている余裕など無いことを言うと、ロッテンマイヤーは「金はいくらでも出す」というが、「おじいさん」は「だったら自分で探しなさい」と突き付け、これでたじろいだロッテンマイヤーにとどめの一言としてこう告げる。
 ここは都会ではない。住んでいる人も限られ、食べ物なども限られていることだろう。これを総じて不便と言うが、本話冒頭でこの「不便」によりクララがフランクフルトのような誰かが何かをしてくれる生活では無いことを理解するシーンがあった。だからクララは自分で出来る事は自分でやらなければならないという覚悟を持ってきたことだろう。だがその覚悟が無い人が一人いた、それがロッテンマイヤーだという事を上手く示唆しているのがこの台詞である。
 恐らく、ロッテンマイヤーはフランクフルトの生活をそのままアルムに移動させるつもりでいたのだろう。だがそんな彼女の企みが、この「おじいさん」の一言で瞬時に打ち砕かれたのだ。ロッテンマイヤーは人を使うプロであるが、自分が動くという事には慣れていない。それはフランクフルト編でさんざん描かれ、視聴者に印象付けられた重大なポイントだろう。
 「おじいさん」はゼーゼマンや医師の手紙などで、それを事前情報として知っていたに違いない。そしてこう判断していたのだろう、「クララが歩けない理由の1つはロッテンマイヤーの存在だ」と。ロッテンマイヤーがゼーゼマン家の財力を使ってクララに何不自由のない生活をさせてしまう、これがクララの足に良くないと判断していたと思う。だからクララとロッテンマイヤーをデルフリ村で暮らすように仕向けたのだろうし、事前に二人が何不自由なく暮らせるような段取りを取らなかった。このような彼の判断と行動は、この台詞から簡単に推測出来る。
 そして何よりも、この台詞でロッテンマイヤーと「おじいさん」の劇中での立場がハッキリしたことだ。ロッテンマイヤーをしても「おじいさん」には太刀打ち出来ないという構図が、この台詞で決まっただろう。そういう意味でもこの台詞は、とても重要である。
(次点)「うわーっ、つまんない! ロッテンマイヤーさんもついて来るんだわ!」(ハイジ)
…ハイジの気持ちはよく分かる、冒頭でクララも顔を曇らせたし。クララは表情を曇らせるだけだったが、ハイジは誰に遠慮することなく大声でこう言うのが、「らしい」と思った。
名場面 再会 名場面度
★★★★★
 クララとロッテンマイヤー、それにセバスチャンを乗せた馬車がデルフリ村に入る。二頭立ての立派な馬車が来ることがこの村では珍しく、村の子供達は大騒ぎだ。その馬車をハイジが見つける。「クララーっ、こっちよーっ!」ハイジの声に車内のクララはすぐ反応する、「ハイジーっ!」「クララーっ!」。クララが馬車を止めるよう指示すると、ハイジは馬車まで駆け寄るが、クララの手に届かないのがもどかしい。「やっと会えたのね、待ち遠しかった」「私も、私もよ。会いたかった」…セバスチャンが馬車の扉を開け「こんにちは、お嬢様」と言うと、村の子供達が「ハイジがお嬢様だってよ…」と語り合う。セバスチャンがハイジに乗るように促すと、「こんにちは、アーデルハイド」とロッテンマイヤーの声が飛ぶ。ハイジはロッテンマイヤーに丁寧な挨拶をしてから馬車に乗り込む。「乗っちゃったよ、ハイジ」と村の子供達。走る馬車の中で、ハイジとクララは手を取り合って再会を喜ぶ。
 印象的な再会だ。何が印象的って、ハイジとクララの再会だけでなく、セバスチャンやロッテンマイヤーとの再会をもとても「らしく」描いたことである。そしてハイジとクララは嬉しくて言いたいことがなかなか声にならない感動を上手く描いており、それは二人が交わす会話が最小限であることから理解出来るだろう。そしてセバスチャンはフランクフルト編同様にハイジに丁寧な対応で接し、ロッテンマイヤーはキチンと挨拶をしてハイジも丁寧にこれを返す。再会した者同士のやり取りが本当に「らしい」し、フランクフルト編で積み上げてきたこれらのキャラクター性を壊さない上手い再会シーンだったと思う。
 そしてこのシーンに彩りを添えているのは、何と言っても野次馬の子供達だ。彼らが画面に現れては口を挟むが、これはハイジがゼーゼマン邸でどう扱われているかという点と、ゼーゼマン一行がどれだけ凄い人かというのをうまく示唆している。つまり今さらながらにフランクフルトでのハイジの地位というものがさりげなく示唆され、これを印象付ける狙いがあったということだろう。
 このような再会劇を挟んで、いよいよ物語は最終局面であるアルムでのハイジとクララの物語へと突入する。その「クララが立った」編導入部で最も盛り上がるのが、この再会と言っていいのは誰もが否定しないであろう。
  

  
感想  今回は名場面も名台詞も沢山あって困ったぞ。冒頭のクララのアルム来訪許可がクララに告げられるシーンもなかなか良かったし、クララからアルム行きを告げる手紙が届くシーンも外せないと思った。クララ来訪を「おばあさん」に告げたときの「おばあさん」の台詞も捨てがたかったし、最後の方のクララのペーターの初対面シーンも実に印象的だ。そんな中から名台詞と名場面をひとつずつ選ぶというのはとても難しかった。
 冒頭ではクララがアルム行き許可を聞いて喜ぶのも束の間、「ロッテンマイヤーも一緒」と聞いて顔を曇らせるのが印象的だ。やっぱりクララもロッテンマイヤーが好きではなかったんだ。だがこれはロッテンマイヤーの仕事だから仕方が無いことだけでなく、ロッテンマイヤーもロッテンマイヤーなりにクララの身体を案じているというゼーゼマンの説明に嘘はないだろう。そうしてロッテンマイヤーの同行が決まると、多くの人は彼女と「おじいさん」の関係がどうなるかで不安になるが、「おじいさん」はロッテンマイヤーを上手く制御するのは名台詞欄に書いた通り。「おじいさん」にはフランクフルトでロッテンマイヤーがハイジを苦しめたという恨みはなく、あくまでも冷静に彼女に対処するのが見どころだ。
 そしてアルムに場面が変われば、ハイジも「ロッテンマイヤーが一緒」と聞いて顔を曇らせる。だがそれよりも「クララ来訪決定」の喜びが上だったことが上手く描かれている。前話での必死の誘致活動が実ったというところだ。
 そして冬の家をクララ達が住めるように改造し、再会、迎え入れへと物語が流れる。冬の家に着いたときのロッテンマイヤーの行動が面白い。フランクフルト編で悪役を演じさせられた彼女は、今度はコケにされる役へと変化するようだ。考えようによっちゃ物語で一番可哀想な女性かも知れない。
 そして最後のペーターとクララの対面は面白すぎた。真っ赤な顔のペーターは「可愛い女の子と知り合えた」と言うことより、「食いしん坊」をネタに恥をかかされたことの方が大きかったんだろうな。だけど、それで文句ひとつ言わず照れるだけなのは、彼の性格の良いところであり、彼らしい点でもあるのだ。
 こうして物語の構成を振り返ると、今話は本当に良くできていて印象深い一話だ。セバスチャンがあんな夜に何処へ消えたかという謎を除けば、文句のつけようのない素晴らしい話であろう。

第43話「クララの願い」
名台詞 「ロッテンマイヤーさん、そういう特別扱いが一番いけないんじゃありませんか? ハイジが暮らしていけるのなら、クララだって暮らせるでしょう。お医者様は、ここで思い切って暮らしてみることが、クララの足を治すことにつながるという結論を持ってお帰りになったはずです。そして今、クララはその気になっているのです。その気持ちをどうして大事にしてやれないのですか?」
(「おじいさん」)
名台詞度
★★★
 クララが始めて山小屋まで登った日の夕方、村まで帰る時間が迫ったところでクララはロッテンマイヤーに山小屋で生活したい旨を申し出る。もちろんロッテンマイヤーは危険だとして猛反対、「ここは人の住むところではない」と批判する。その言葉にハイジが「私もおじいさんもずっとここに住んでいる」と反論すれば「お嬢様は別」と答えるロッテンマイヤーに、「おじいさん」はこう突き付ける。
 これが「おじいさん」のロッテンマイヤーに対する「本音」であろう。彼は昼間のうちにクララから「ここで暮らしたい」と持ちかけられており、それに対し反対はせず「クララのことは自分とハイジ戸で何とかなる」と言い切った上で、自分からロッテンマイヤーに申し出るように告げた。これが「おじいさん」なりの「クララに自分の事は自分でやらせる」という行動をさせるものであるが、同時に「自分とハイジで何とかなる」の一言の中にはクララにもそうなるよう努力することを訴えているのはもちろんだ。
 その上での目の上のたんこぶがまさにロッテンマイヤーであり、ロッテンマイヤーがクララをカゴの中に入れようとするからこそクララがいつまで経っても足が良くならない。これはここまでの物語を見れば多くの人が感じる事で、劇中では「おじいさん」と医師が見抜いている「クララの病の本質」だ。ロッテンマイヤーによりクララに与えられる不自由のない生活は、よく見れば裕福なものでありロッテンマイヤーの愛情と取る事も出来るが、悪く取れば単なる甘やかしである。この単なる甘やかしの部分を排除しないことには、クララはいつまで経っても歩けないよ。この「おじいさん」の台詞にはそれがうまく訴えられている。
 恐らく、「おじいさん」はクララを山小屋に入れてしまった後の事も考えているはずだ。それはロッテンマイヤーがこの小屋まで上がってこないようにすることである。彼はクララの足を治す最大の障害はロッテンマイヤーであり、クララのアルム探訪の趣旨を最も理解していないのもロッテンマイヤーであり、クララを治癒させて帰すという構想の上で最も大きな障害がロッテンマイヤーだと感じている。だからここはクララとロッテンマイヤーをいかに切り離すかが勝負所であり、この台詞にはそんな部分も込められている。
 そしてこのロッテンマイヤーの態度こそが、フランクフルト編でハイジを失って変わる前の自分と同じであることも「おじいさん」は承知していることだろう。ロッテンマイヤーにも自分と同じように、しばらくクララと離れてもらって、その間のクララの成長ぶりを見れば…とも思っているはずだ。
名場面 昼食 名場面度
★★★
 ハイジとクララの二人での山小屋での時間はあっという間に過ぎ、昼食の時間となる。「おじいさん」は樅の木の下に食卓を用意し、これを囲んでの昼食だ。ヤギの乳を次から次へとおかわりし、パンとチーズも沢山食べるクララを見てロッテンマイヤーが「あんなに食の進まなかったお嬢様が…」と語ると、「だっておいしいんですもの、今まで食べたどんなご馳走より美味しいわ」と返す。「おじいさん」が笑いながら「山の空気のせいだよ」と語り、クララはロッテンマイヤーに「ヤギの乳飲まないのね?」と尋ねる。ロッテンマイヤーは「ヤギの乳はちょっと…」と答えれば、クララは「こんなに美味しいのに」とまたチーズを載せたパンを口に放り込む。
 これと言って何にも起きないシーンではあるが、このシーンの見どころは何と言ってもクララが本当に美味しそうに食事をしている点だ。「今まで食が進まなかったのに、ここに来たらよく食べる」という彼女の変化を上手く描いているが、それはクララの食いっぷりが良いだけでなく、そこに並べられている食べ物がパンとチーズだけにも関わらずとても美味しそうに描いてある。だからクララの変化に説得力がある。
 そしてこのシーンを見て、山に登って外で食事をするというのに憧れた人も多かろう。外でバーベキューなどを楽しむ人でハイジ世代の人は、絶対にこのシーンの影響を受けていると断言出来る。こういうところで食事をする楽しさというのが、たったこれだけのシーンによく描かれているのだ。
  
感想  クララ、いよいよアルムの山小屋へ。そしてクララとハイジと「おじいさん」の3人による、山での本格的な生活が始動する。だがこの中で邪魔なのはロッテンマイヤーだと言うことを、ハッキリと示唆するのは今話である。クララの足が悪いのもロッテンマイヤーの過保護が原因というのは、名台詞欄前後のシーンを見ていると痛いほど解る。ロッテンマイヤーを排除しないことには物語が「クララ大地に立つ」に進まないことが明白であることを、視聴者に突き付ける重大な一話だ。
 だが基本的に、今話のロッテンマイヤーもコケにされる役だ。序盤こそは食事の用意を村の主婦に依頼し、その間にクララと自分が山小屋まで登る手配を整えるという切れ者ぶりを発揮、ここだけはフランクフルト編で見せた「仕事が出来る」人間としてのロッテンマイヤーであったのは確かだ。だが山小屋に登る馬に乗せられた瞬間、ロッテンマイヤーの権威はがた落ちとなりあとはコケにされる役に徹する。馬を怖がったり、ヨーゼフを怖がったり、崖下を覗き込んで倒れたり…クララがロッテンマイヤーの心配をするのも無理はない。こうしてコケにされたからこそ、名場面欄直後で「ロッテンマイヤーは邪魔者」とハッキリと感じ取れるという寸法だ。そしてこの傾向は間違いなく次話も続き、ロッテンマイヤーはクララの足を治すのとは全く違う事を劇中で一人で続けることになる。要は彼女は、アルムにフランクフルトの生活をそのまま持ち込むつもりだったのだろうけど、それはクララの思いとは違うし、クララの足にとって良くないことも気付いていない。
 でも今話を見てひとつ強烈に感じたのは、これは名台詞欄に少し書いたが、ロッテンマイヤーの立場にフランクフルト編以前の「おじいさん」がいたら、やはり同じことをしただろうということだ。だが彼は変わった。ハイジと引き離され、その間にハイジが大きく成長したのを見て自分を改める必要性に気付いたのだ。そして今、同じ立場にロッテンマイヤーが立っている。ここはロッテンマイヤーはクララと引き離され、その間にクララに成長してもらうことがロッテンマイヤーにとって重要な所なのだ。クララが大地に立つ日はロッテンマイヤーがいるうちはあり得ないし、ロッテンマイヤーの前でと言うわけにも行かないのだ。
 いよいよ次からは、ロッテンマイヤーがクララを失う物語へと流れて行く。この辺りの物語は本当に面白く、裏番組の「宇宙戦艦ヤマト」が視聴率で惨敗したのは仕方のない話だ。

第44話「小さな計画」
名台詞 「わぁ、行ってみたい。私も歩けたらなぁ。山のお花畑か…。」
(クララ)
名台詞度
★★★
 小屋の近くで花を摘むのに、少しだけ自分で動くことが出来たのが嬉しかったクララ。自分で花を摘んだ喜びをハイジに語り、「これで花飾りが作れる?」と問うがハイジは花が少なすぎることを語る。そして山の上にある花畑まで行けば…と語り、花畑の魅力を語るハイジに、クララはこう返す。
 実際に山の自然に、そして景色に触れ、その上で「もっと良い場所がある」と知ったクララに沸き上がる「歩きたい」という気持ち。この台詞はクララが始めてそれを口に出したものだ。クララはハイジから話を聞かされて、このアルムの様々な景色やものを「事前情報」として知っていて、それに出会うためにここへ来た。そしてそれはクララが思い描いていた通り、いやそれ以上の美しいもので、クララはこのような景色をもっと見たいという欲が出てきたのだろう。そして山の上へ行けばもっと美しい景色があることも知っている、ここまで来ればそれを見たいと思うのは当然だ。その思いが「歩けたら…」という気持ちに繋がるのだ。
 ここは自分の病に対するクララの明るく前向きになれた部分だ。物語の最終局面でクララは自分の足で大地に立つことになるが、その下敷きには「自分で歩きたい」という気持ちが本人に無いことにはどうにもならないのは確かだろう。今話の重要なテーマのひとつに、クララのそんな前向きな気持ちがあることを浮かび上がらせる点があり、この台詞はまさにその部分でとても印象的だと言わざるを得ない。
 しかし、クララには病気に対して「負」の部分も持っているのだが、それが表に出てくるのはまだ先の話だ。
名場面 秘密の計画 名場面度
★★
 山小屋での夕方、ペーターがヤギを連れて牧場から戻ってくる。ロッテンマイヤーはクララに下山と翌日の注意事項を告げると一人で下山を開始する。するとペーターが「さっきの話大丈夫か?」とハイジに問う、不安そうに頷くハイジに「あの人がいちゃ…」とペーターは不安を見せるが、「大丈夫、何とかなるわよ」とハイジはペーターに静かにするように促す。「ねぇ、どうしたの? 何の話?」とクララが問うと、「その…」と言いにくそうなペーターをよそに「何でもないの!…でもとっても良いこと」とハイジはクララに語る。「ずるい! 私にも教えて!」とクララが語れば、誰もそれに返答する間もなくロッテンマイヤーがペーターを呼ぶ声が飛んでくる。ロッテンマイヤーが羊に囲まれて難儀しているのを見て、一同は「たいへんだ」と笑う。その様子を見たペーターが去ると、ハイジが意味ありげに「明日ね!」とその後ろ姿に声を掛ける。
 計画が何であるかはもう誰の目にも明らかだ。クララをコッソリと山のお花畑まで連れて行こうというもので、ペーターがおぶって行けば何とかなるという計画だ。だがこれはあくまでもクララには内密に準備が進む。その「クララに内緒」という事が描かれ、クララがそれに気付いて問いただそうとした瞬間、ロッテンマイヤーの声が飛ぶということで秘密は漏れない…それだけのシーンだが、皆の表情がとても良くて印象的なシーンだ。
 特にここでロッテンマイヤーの「動物嫌い」という設定と、「コケにされ役」という今の立場をうまく使っている。クララが「ずるい」と言った後に誰かが邪魔をしなければ、クララが「仲間はずれになった」と臍を曲げてもおかしくないシーンで、そこでロッテンマイヤーが面白おかしく出てきて今までの内緒話は皆の頭からすっかり消えてしまうという、楽しいシーンかつ説得力のあるシーンとして仕上がったと思う。
 でもこのシーン、本当に何にも起きてないな。今話はこのシーンだけでなく、多くの「何でもないシーン」が印象的に描かれているのがポイントだ。「アルプスの少女ハイジ」はたまにそういう話がある(全話ではないが)からこそ、日本アニメ史上に残る名作として今も語り継がれているのだろう。うん、裏番組の「宇宙戦艦ヤマト」が苦戦したわけだ。
  
感想  今回もこれと言って何も起きない平和な話だ。クララの山小屋での生活が「おじいさん」主導で転がりだし、ロッテンマイヤーはその構図にあくまでも邪魔をする。そして全話にも増してロッテンマイヤーは「コケにされ役」という立場は大きくなり、フランクフルト編でのハイジに仕返しされているかのように彼女が山の生活に慣れずに困惑する様子も描かれる。ロッテンマイヤーが自分の思い通りに行かないのにキレるかと思いきや、彼女が慣れない生活に疲れている様子もキチンと描かれてそうならない事に説得力を持たせる作りは見ていて気分がよい。
 そして今話はそんな展開の中で、名台詞欄に書いた点がテーマのひとつだ。クララに「山の上にあるというお花畑へ行きたい」と思わせること、これは短期的な展開では次話に掛けての「クララを山の上へ連れて行く」という「計画」のきっかけになるし、最終回を睨んだ長期的なことで考えればクララに「歩きたい」という意欲が出て彼女が大地に立つという展開への重要なポイントとなる。今話で描かれればいいのはまさに名台詞欄のあの一言だろう。そこに今話の展開をはめ込んだ上に、名場面欄で語ったように「何でもないシーンを印象的に見せる」点がとても多く、面白くて笑ったり、思わず頷いてしまったり、ズッこけたりと視聴者も様々な表情で今話を視聴した事だろう。
 しかし、「おじいさん」はロッテンマイヤーの操縦法を完全にマスターしたと言っていいだろう。だがペーターは扱いづらい様子、ペーターが思わず「おばさん」と呼んじゃったのは笑ったなぁ。ロッテンマイヤーのプライドが一番壊されたのは、あの瞬間だったりして。

第45話「山の子たち」
名台詞 「ああ、羨ましい…歩きたい…立って歩きたい。この中をハイジのようにはしゃぎ回ったり、お散歩したらどんなに素敵かしら。ひとつずつ名前を覚えながら、お花とお友達になれたら…。」
(クララ)
名台詞度
★★★★
 クララは夢にまで見た「山の上のお花畑」に到着する。夢のような花に囲まれた景色は、ハイジが語ってくれた通りの素晴らしい場所だった。「岩陰の向こうに違う花がある」と走り出したハイジの後ろ姿を目で追って、クララはこう独り言を語る。
 前話の名台詞と同じような内容だが、クララの心の中は違う気持ちにあると言っていい。前回のクララにとって「歩きたい」という気持ちは、あくまでもハイジが語る素晴らしい場所へ行ってみたいという、その「手段」としての「歩きたい」だ。立って歩ければ自分で好きな場所へ行けるという、健常者にとって当たり前の事が出来るという意欲である。だからこの「思い」は「お花畑へ行く」という夢が実現したところで、消えてもおかしくないものだ。
 だが夢が実現したところでクララが見せられたのは、この場所に来るだけではとても物足りなかったという現実だ。確かにこの花畑は素晴らしい、クララにとって生まれて初めての絶景のはずだ。クララはこの景色だけで満足しなかった、彼女の次の思い…この絶景の中を心ゆくまで楽しむには、その中で立って走り回ること。これが心の底から羨ましいと感じたのだ。
 もちろん彼女がここで語った「ここを自分の足で走り回りたい」という思いもあるが、彼女がもうひとつ気付いたことは「歩ければいつでもここに来られる」という事実である。山小屋での生活の間、自分が行きたいと思った時に花畑だけでなく好きな場所へ行ける。これも強く感じていたことだろう。
 つまりはクララの気持ちはただ単に「歩きたい」=「歩けば好きな場所へ行ける」という漠然とした気持ちではなく、「歩く」事によってその場所へ行くだけでなく、さらに楽しみが拡がることをここで知ったのだ。それを知った事で「歩きたい」という漠然とした気持ちが「希望」へと変化したのである。
 そしてクララはこの気持ちを口に出したことで、自分が歩けないということでどれだけの人が自分の足代わりに頑張っているのかという事を考え始めたに違いない。クララがお花畑まで登山する事で、クララは自分を見つめ直すことになり、この独り言はやがて「思い」ではなく「決意」に変わって行く。そのクララの気持ちが大きく動いたきっかけは、このこの台詞だろう。
名場面 クララの悲しみ 名場面度
★★★★
 クララが始めてお花畑まで行って帰って来た夕方、ペーターがヤギを連れて村まで降りる際にハイジが見送ると言って立ち去り、ロッテンマイヤーも村まで下山するために立ち去る。ロッテンマイヤーが転んだりと滑稽な印象を残して立ち去ると、山小屋の前にクララと「おじいさん」二人だけで取り残される形となる。
 そこで「おじいさん」が聞いたのは、静かに泣くクララの声だ。「どうした?」と「おじいさん」が聞くと、「ハイジも…ペーターも…私のために…」とクララは泣きながら語る。「私、とっても嬉しかったの。でも、私のために…みんなが私一人のために…」と泣き続けるクララを、「おじいさん」は車椅子ごと抱き締める。
 これだけのシーンだが、これは名台詞と連動している。「歩きたい」と思ったクララは、自分が歩けないことでどれだけの人が自分の「足代わり」になっているかを考えたはずだ。そんな思考回路のクララが見た物は、山への往復で自分を背負い続けたがために疲労困憊しているペーターと、それを助けようと「おじいさん」を呼びに走るハイジの姿である。特にペーターは「大丈夫」と語り、気丈にもクララを山小屋まで送り届ける。ペーターには必要のない体力を使わせ、ハイジには要らぬ気遣いをさせ…二人が歩けない自分のためにどれだけ頑張ったか、自分の「花畑を見たい」という希望のためにどれだけ力を尽くしてくれたか、それを思い知らされる形となったのだ。クララは心の底から「申し訳ない」と感じるとともに、「歩けない自分」がこんなに情けなく思えたことは今までなかったはずだ。同時に「歩けない自分」がどれだけの人に迷惑を掛けているか…ロッテンマイヤー、セバスチャンなども含めて感じた事だろう。まぁこれは、「いつも語りすぎ」のナレーターが解説してくれることだが。
 クララはこの時始めて、「歩けない自分」が当然のものではないと気付いたのだろう。「歩けないから」といって人に助けてもらうのが当然であるという考えを改めねばならないと気付き、もちろんこれもクララが「歩けるようになる」と決意するための重要な要素である。
 そして「おじいさん」もこのクララの変化は見逃していない。クララを歩けるようにする大きなチャンスが目の前に転がってきたと感じた事だろう。だが彼はあくまでも急かさない。クララを歩かせるという偉業には時間が掛かることをよく知っており、今は事を急ぐことよりもクララのその気持ちを膨らませることが第一と考えているのだ。だから彼はクララの気持ちを受け止めるだけで、何も言い返さないし何も提案しない。この無言の反応に、「おじいさん」の父性を感じるシーンで、「父性」にも飢えているクララにとって「この人は信用出来る」と感じたところでもあるだろう。
  
感想  前話から今話でクララの「歩きたい」という漠然とした思いを「決意」に方へ引っ張るべく話を拡げてくる。クララの気持ちが漠然と「歩きたい」と思っているだけでは弱すぎ、それだけでは彼女が大地に立つことは許されないことは多くの視聴者が感じている事だろう。
 そこでクララに突き付けられる2つの要素、それがそれぞれ名台詞欄シーンと名場面欄シーンだ。名台詞欄は簡単にいえば「行きたい場所に行ける」だけの話では無いということで、「歩く」という行為に無限の可能性があることを示唆している。そして名場面欄では「歩けない」ということでどれだけのマイナス面があるかをクララが思い知らされる形だ。この2点をクララが理解し受け止めないことには、クララは大地に立つことを許されない。
 物語はペーターとハイジが勝手に「クララを山の上のお花畑へ連れ出す」という所から始まるが、ここで「おじいさん」がどんな反応をするかと思って見ていたら何も言わずにごく普通に送り出したのにビックリ。だがその謎解きは忘れていない。クララが「行きたい」と思う場所に行かせるというだけでなく、そこに「大人に連れていってもらう」のでなく「子供同士で一緒に行く」という論理をロッテンマイヤーに語り出すのだ。言われてみれば「連れていってもらう」のではクララが持つ「依存心」を払いのけることの解決にはならず、困ったことがあれば大人が「解決してくれる」のがダメなのだ。一方子供だけで「一緒に行く」のであれば、問題があったら自分で判断して解決しなければならない。クララは足が悪いことでそのような「子供同士の付き合い」を経験しておらず、何かがあった際の判断力に欠けているという「おじいさん」の論理があったのは凄い。つまり判断力が決定的に欠如しているのでは、歩く以前の問題だと彼は考えていたのだ。
 もちろんそれだけでない。ハイジやペーターを見てクララが「歩きたい」と強烈に感じる事を期待していたはずだし、問題が発生すればクララが「歩く」ことに対しての必要性を強く感じることだろう。結果的には物語はその通りに動く、クララはハイジとペーターの奮闘を見て「歩けないことで皆に迷惑を掛けた」と考えるようになり、これが「歩く」という決意に繋がって行く。
 つまり今話はクララの「漠然とした気持ち」が「希望」を経て「決意」になり掛かるまでの話だ。だがまだ明確な「決意」にはなっていない。そこへ辿り付くにはもう少し時間が必要だと言うことも、この物語が訴えている。少なくともロッテンマイヤーが画面の中で口うるさく言っているうちは、クララはそこに甘えようとするので「その時」は来ないのだ。

第46話「クララのしあわせ」
名台詞 「おばあさん、ありがとうございます。そんな風に仰って下さって。私、とっても嬉しいんです。ありがとう、おばあさん。私には本を読むくらいしか出来ません、けれどそれでよいのでしたら、いつでも私を呼んで下さいね。おばあさん……私嬉しいんです。また呼んで下さいね。」
(クララ)
名台詞度
★★★★
 ある日、ハイジはクララを連れてペーターの家にやってきた。そしてこの日はクララがあの詩集を「おばあさん」のために朗読する。読み終えるとハイジが「おばあさん」に「クララは本を読むのが上手でしょう?」と問うと、「おばあさん」は声がきれいなだけでなく、心がこもっていて言葉の意味が分かりやすいとクララの朗読を批評し、「私には天使の声のように聞こえました」と締めくくる。するとクララは一度下を向いて涙ぐむ…12秒の沈黙の後、クララが「おばあさん」の手を取って本当に嬉しそうに語るのがこの台詞だ。
 ここまでのクララは、特に山での生活では自分が動こうとすれば他人に迷惑が掛かるだけで、誰の役にも立っていないと密かに自分で自分を責めていた。それは前話の名場面欄を思えばお分かり頂けるだろう。その気持ちのままで今話が進むが、その最後にクララが「自分が誰かの役に立った」と強く感じることになる。自分が詩を朗読することで喜んでくれる人がいる…これは今話のクララにとってどれほどの支えになったことだろうか。
 「おばあさん」にとってもこれは大袈裟な褒め方だったり、社交辞令で言った褒め言葉ではない。これまで自分に詩集を読んでくれる者など無かった。孫のペーターは本を読むのが苦手でこう言うのには決定的に向かないし、ハイジも詩集を読んではくれるが字を覚えたばかりであり片言になることも多く、口には出さないが満足はしていなかったはずだ(ハイジの気持ちを喜んだのは確かだが)。そこへ来てちゃんと勉強をした都会のお嬢様が、分かり易く心を込めて詩を朗読してくれたことは、「おばあさま」にとってとても嬉しかったのは事実だ。
 だがクララの喜びはその上を行く。彼女は生まれて初めて「人の役に立った」事を実感したのだろう。だから最初は自然に出てくる涙の正体が解らず、それが喜びと感動の涙だと解ったところでやっとこの台詞が出てきた。自分が役に立ったことの嬉しさだけでなく、「こんな自分でも役に立つ」事が何処か信じられず、台詞の節々に謙虚になっている部分があるのも見逃せない。
 こうしてクララは「持ちつ持たれつ」という関係を学ぶ。確かに自分は山の上の方へ行きたいとしたことでペーターに迷惑を掛けたかも知れない、だけどそれは別の「自分が出来る事」で埋め合わせが効くという事を学んだのだ。これはロッテンマイヤーの言う「お勉強」よりも何倍も大事なことであり、しかもこれを自分で体験したのだから、とても意義深いことだろう。
名場面 雨上がり 名場面度
★★★★
 クララを背負子に乗せて山の上の牧場まで登ったハイジとペーターは、突然の雨に降られるが即席テントでこれを凌ぐ。だが雨上がりの牧場は滑りやすく、背負子に掴まったクララはそのまま滑ってしまい結局は濡れてしまい、そのクララを助けようとしたハイジとペーターも濡れてしまう。
 仕方なく下着姿ではしゃぎ回る3人の元に、雨でクララの様子が不安になったロッテンマイヤーがやってくる。雨の中の強行登山のため、ロッテンマイヤーも泥だらけだ。その姿を見てクララは楽しそうに「まぁ!」と口を開き、ハイジは予想外の展開に唖然、そして笑い合う。ロッテンマイヤーは濡れたことと下着姿であることを批判するが、クララはロッテンマイヤーも素敵な格好だと笑う。濡れた経緯をペーターとハイジが説明したかと思うと、彼らは毛布を干すのに走り去ってしまう。取り残されたクララに「服は何処に?」とロッテンマイヤーが問いただすと、クララはその返事をせずに虹が出たと言い、ハイジとペーターにも虹の出現を告げる。ロッテンマイヤーも含めた一同が虹に見入っていると、徐々に雲が晴れて山の下の方が見えてくる。
 このシーンではとにかく3人の楽しさがまず目につくことだろう。下着姿であることも忘れてはしゃぎ回るハイジとクララとペーターのシーンを覚えている人は多いことと思う。そこにロッテンマイヤーが来れば雷が落ちそうなものだが、簡単にそうならないのが良い。いや、ロッテンマイヤーはそうしようとしているのだが、様々な要素がそれをさせずに「話をぶち壊さない」のが素晴らしい。フランクフルト編ならばロッテンマイヤーが雷を落とすことで話が成立するが、ここはフランクフルトではなくアルムのしかも山の上だ。
 そしてそこにうまく添えられる「虹」という要素が、雷を落とそうとしたロッテンマイヤーまでをも癒してしまったことを、シーンを見せるだけで上手く表現したと思う。クララの声に思わず虹を見たロッテンマイヤーの喉元まで出掛かった叱責は止まったはずだ。下着姿でいることや服を濡らしたことでクララだけでなくハイジやペーターに雷が落ち、「おじいさん」の責任問題になるはずだったが、大自然の美しさに癒されたことでそんなことはどうでも良くなった。そんなロッテンマイヤーの心境を上手く描いたと思う。

     
   
感想  前々話、前話とクララの心境変化を描いてきた。前々話で「歩きたい」という漠然とした思いが描かれ、前話でそれが「歩けたらいい」という明確な考えに変わると同時に、自分が動くことが大変な事でそれで迷惑が掛かっていることに気付いてショックを受ける。そしてクララをここまで落としたのだから、今話ではそのクララの気持ちを持ち上げることが大事になってくる。
 しかし、物語はそんなことを感じさせないまま「今度はクララが牧場まで登る」という、火に油を注ぐ方向に暴走する。その過程でクララとロッテンマイヤーの対峙が再び描かれ、一度はロッテンマイヤーの「静養し勉強しなさい」という指示を聞きかけるが、ペーターの背負子を見てその気持ちは吹き飛んでしまう。だがここでクララは「ロッテンマイヤーの指示に従うために山に行くのをやめたわけではない」と明確に言い、自分の気持ちに正直に生きる事を取る。ここで彼女が「自分が動けばそれだけでハイジやペーターに迷惑が掛かる」という考えに至ったことが上手く使われ、同時に今日は特にペーターへの負担が軽減される事、自分を山へ連れて行くためにペーターが頑張っているという「気持ち」を知り「断るわけに行かない」という設定を取った。
 そしてハイジらが山に行っている間の降雨、この事態に「様子を見に行く」と出かける「おじいさん」に、ロッテンマイヤーは気丈にもついていく。ロッテンマイヤーの気持ちは分からんでも無いが、もう少し子供達を信用しても良いのではないか…と思ったところで測ったかのように毛布で作った簡易テントが出てくるのは上手くできていると言わざるを得ない。
 そして名場面欄シーンに繋がり、山小屋まで下山したときのペーターの一言で、翌日の「おばあさん」訪問が決まる。後は名台詞欄という流れで、クララの気持ちが持ち上げられる。その要素は名場面欄で語った通りだ。
 今回はとにかく、名台詞欄シーンまでは飛ばしたという印象が強い。様々な意味でまさにノンストップで、しかも一部は半ば強引に話を暴走させるが、見ている時は強引さも感じないし、暴走という感触も感じないのが面白い。その中でクララの心境変化だけでなく、簡易テントのシーンで「クララ得意なこと」という面をさりげなく強調したのは大きく、このおかげでラストでは上手く話が転がったと言っていいだろう。

第47話「こんにちはおばあさま」
名台詞 「おばあさま、クララのおばあさま。辛いことばっかりだったフランクフルトの思い出の中で、ただひとつ、雲の隙間から差し込む日差しのように、その下の暖かい陽だまりのように、懐かしく思い出されるあの楽しかった日々。懐かしいおばあさま、くまのぬいぐるみ、コップの音楽、ジャンケン遊び、馬車のピクニック、花嫁さんごっこ、やさしいおばあさま、グリムの絵本、魔法の国のオルゴール、燃える山の大きな絵、クララの病気…そして辛く悲しかった毎日。ミーちゃん、ミーちゃん、今何処にいるの? どうしてるの?」
(ハイジ)
名台詞度
★★★
 ある朝、ペーターが「おばあさま」からの手紙をハイジとクララに届ける。そこには近日中に来訪する旨が書かれており、ハイジもクララも大喜びだ。だがハイジは喜んで「おばあさま」の事を思い出すうちに、フランクフルトでの日々のことを思い出し、いつしかその辛い思い出に涙してしまう。その際の心の中の声として流されるのが、ハイジのこの台詞だ。
 この台詞ではハイジの中の心境が、まさにハイジが思った通りに順序立てて語られていると言っていい。最初は「おばあさま」に事を懐かしむだけの内容で始まるが、その中で辛い日比野中で「おばあさま」の存在が唯一の救いだったことが明確にされる。その思い出の一つ一つを具体的に挙げている間に、「おばあさま」によって生み出された楽しい思い出だけでなく辛いことまで思い出してしまう、そういうハイジの心境が上手く描かれている。れ
 そしてこの台詞を吐いて泣いてしまうハイジの中では、まだフランクフルトでの辛かった日々のことが昇華できていない事が分かる。あの日々をどのようにして「過去」の教訓とし自分の中で生かしていくかという所まで、まだ達していないということだ。帰って来た事で元の自分に戻れたことはよいが、字の読み書きが出来るようになった程度でしかない。だから辛い思い出が辛い思い出のままだというハイジの気持ちが上手く表れている。
 そしてこのハイジの辛い思い出を「過去」のものにするにはどうするべきか、それはただ1つ、自分の存在によってそれ以上の喜びがゼーゼマン家の誰かもたらされることたと言うことは、物語を外側から見ている視聴者には理解出来ることだろう。それが「クララの病気が治る」「クララが立って歩けるようになる」という要素であることは異論は無いはずだ。クララが立って歩けばそれはハイジの存在があったからこそであり、辛い思い出が誰かの役に立ったことでそれを「過去」のものとして処理することが出来るようになるのだ。

名場面 「おじいさん」と「おばあさま」 名場面度
★★★
 「おばあさま」がアルムに着いた日、彼女はハイジやクララからクララの山での生活ぶりを聞き驚く。何とかクララと下山しようと頑張るロッテンマイヤーの話を使って、クララとハイジはお勉強タイムとして、その間に「おじいさん」からクララの生活についての方針をじっくり聞こうと考えた。
 家の中で向き合った二人、「おじいさん」はこの山の生活でクララを歩けるようにするつもりだと単刀直入に言ったのだろう。「おばあさま」は「歩くですって?」と驚き、「クララが立って歩く…クララの足が治る」とその言葉を噛みしめるように呟く。だが「おばあさま」はそれは「おじいさん」が自分に希望を持たせるために語った言葉だと思い、最初はそれを素直に飲み込まないまま感謝するだけだ。「いいえおばあさま、これは夢でも慰めでもない」と「おじいさん」が語り出す。そして彼はクララの身体について語る。抱き上げた感触、身体や腰の使い方、それらを見ているとクララは立って歩けるはずだという「おじいさん」の所見だ。驚く「おばあさま」にだからもうしばらくクララを預からせて欲しいと続け、クララが大人に頼らず子供同士の世界の楽しさを知れば「自分の足で立ちたい」と心から願うようになり、そこに励まして助けてくれる友がいるとする。「おばあさま」のその考えに共感し、「おじいさん」の手を取って「クララをよろしくお願いします」と訴える。
 物語が「ハイジとクララとペーターの楽しい日々」から、最終局面の本題である「クララ大地に立つ」という方向へ明確に舵を切ったのはこのシーンだろう。ここで視聴者に対しても語られてこなかった「おじいさん」のクララに対する方針が明確にされ、「おじいさん」は本気で「クララを歩けるようにする」という困難に一人で立ち向かっていた事が明確になる。その結果として彼はクララをペーターに託して山の上まで行かせたり、多少の雨でも「子供達だけで対処させる」という方針を採った。クララが知らない「子供だけの世界」を教えてやることで、クララに「立ちたい」「歩きたい」という気持ちを植え付けることを、彼は既に始めていたのだ。
 それを聞いた「おばあさま」は、即座にそれこそが「クララに欠けていること」だと気付いたと思う。本来自分がいるべき世界を体験していないクララは、「立って歩く必要性」そのものを感じていなかったという事実に気付いたのだ。だからその論点に気付かされたとき、「おばあさま」には「自分が生きているうちにクララが歩けるかも知れない」という希望を持つに至る。そしてその希望の火を灯してくれた「おじいさん」に感謝し、信頼し、クララを託す事になる。
 そして「おばあさま」も、この偉業を達成するために誰が邪魔であるかが解ったはずだ。厳しい顔して実はクララを最も甘やかしているロッテンマイヤーこそがこの計画の最大の障害であることだ。だが「おじいさん」は立場上その障害を排除することは出来ない。それこそ息子のゼーゼマンから全権委任されてきた自分の出番だと感じた事だろう。こうして次のシーンでクララが立つためにどうしても必要な「ロッテンマイヤーの排除」へと物語が転がることになる。物語がゴールへ向けて動き出したのだ。
  
感想  名場面欄で語った通りの要素で、今話はとても重要な話だ。物語の最終局面である「クララが立った編」に入ったとはいえ、ハイジとクララとペーターの楽しい日々が流され、ロッテンマイヤーがコケにされるだけで物語は遅々として進んでいなかった。確かにこの流れの中で「クララの歩きたいという思い」は成長し、それを実現するために「ロッテンマイヤーが邪魔」という要素も強くした。「おじいさん」の方針もある程度は解読可能なところまで話は盛り上がっていた。だがまだ「クララ大地に立つ」と決定的な要素は何もなかった。だがここでこれらが明確になったのである。名台詞欄シーンで「クララが立って歩く」ということのハイジにとっての意味が明確となり、名場面欄にあるように「おじいさん」がクララの歩行が夢ではなくやり方次第で実現可能だと言い切ること、それをゼーゼマン家の全権委任者である「おばあさま」が知ったことでゼーゼマン家の面々にとって希望の光となること。これらの物語で「クララ大地に立つ」という要素は物語の終わりに必要な要素となり、その方向へ明確に舵を切るのが今話なのだ。
 そして今話の前4分の3をゆったり使って物語の方向性が明確になって舵を切り終えると、休む間もなく「邪魔者の排除」へとコマを進めてしまう。この潔さは見ていて気持ちよい、今のアニメなら時間がない割にはこう言うところで無駄な時間を使いそうなところだ。しかもロッテンマイヤーを悪役のまま退場させるのでなく、彼女も彼女なりにクララを気遣っていたことだけは明確にする。ロッテンマイヤーはクララに厳しく当たっていたが、その奥底にはクララへの愛情があり、結局はクララを甘やかしていたという構図は見ていて上手く作ったと感心する。
 いよいよ物語は最終盤、「クララが立った」編の核心部分へと突入する。残り話数は5話、ここからの5話を記憶している人は多いことだろう。ヤマトと一緒にイスカンダルへ向かっている場合ではなかったのは、ここまでの物語を見ていれば誰もが思うことであろう。

第48話「小さな希望」
名台詞 「ヨーゼフ! クララが立ったのよ。クララが…クララが立ったの! ハハハハ、ハハ、ハハハハ、ハハ…ハハハハ………クララの足が、クララが立った。」
(ハイジ)
名台詞度
★★★
 名場面欄の直後、牧場へ行っていたハイジが小屋まで降りてきた。クララと「おじいさん」と「おばあさま」の様子が変なのにすぐ気付くか、何があったかを知らされるとハイジはそこら中を走り回って喜ぶ。そして「見たかった」「もう一度立って見せて」というが、「おじいさん」に「急に言われても無理だ」と言われる。しかしハイジは喜びの涙を目に浮かべ「よかったね」とクララに語りかけ、これにクララが笑顔を返したのを見届けると、小屋の前で寝ているヨーゼフのところへ駈けてゆき、そして前半は嬉しそうに、笑い声の後は泣きながらこの台詞を吐く。
 「クララが立った」という事実に、ハイジが喜びを爆発させる。だがその喜びは感動となり、思わず涙を流してしまった事によって生じた行動であろう。ヨーゼフのもとにかけて行ったのは、家族の一員であるヨーゼフにこれを知らせると同時に、止めどなく流れてくる涙を止められなかったからであろう。そして最後の「クララの足が、クララが立った」の部分はその意味を噛みしめているのだと思う。自分が出会った足の悪い友が、自分が存在したことによって治る方向に向かっている喜びだ。クララが立つと言うことはハイジ自身の喜びであることが、ここでは上手く表現されている。
 そして一方のクララは、このように涙を流して喜んでくれるハイジを見て、驚きの表情を見せている。これは彼女がこれまで友に恵まれてこなかった証であり、まるで自分の事のように喜んでくれる友を始めて持ったという事に気付いたのだろう。彼女もまた自分の喜びがハイジの喜びだと気付いたのである。
名場面 クララが… 名場面度
★★★★
 今日はハイジだけがペーターへの伝言を持って牧場へ上がり、クララは「おばあさま」と過ごすことになる。その午後、クララが小屋の近くの木の下で「おばあさま」に本を読んでいると、「おばあさま」はその朗読する声のリズムと山の心地よい風により睡魔に誘われる。「おばあさま」が居眠りに落ちたその時、クララは牛の鳴き声に気付く。牛は草を求めて彷徨っているが、そのうちに明確にクララに向かって歩き出すではないか。クララの顔が恐怖に歪む…クララの悲鳴に「おばあさま」が目を覚まし立ち上がる、同時にクララは座ったまま後ずさりしたかと思うと…立ち上がって背後に寄りかかり、目の前を悠然と歩く牛を見送る。牛が去ると「おばあさま」はさらなる異変に気付き「クララ、お前…」と声を上げる。何とクララは驚いて立ち上がっていたのだ。クララはそれに気付くことなく、そのまま気を失ってその場に倒れる。
 クララが最初に立ったシーンはここであることは、多くの人の心に残っているだろう。牛というクララにとって未知の生物の接近による恐怖で、クララは無我夢中になって立ち上がるという「火事場の馬鹿力」的なものだが、クララが自らの二本の足でしっかり大地に立ったのは間違いない。
 前話の名場面欄シーンで「クララ大地に立つ」という方針が明確になったが、まだ明らかだったのは方針だけである。このシーンはそこで「おじいさん」が語った「クララは立てるに違いない」という発言の裏付けをすると共に、「クララ大地に立つ」という展開が可能であることを視聴者にも劇中のキャラクターにも指し示すという重大な場面だ。もちろんここでのクララは無自覚で構わない、「火事場の馬鹿力」とは言え彼女が思わず自分の足で立つ「事件」が起きればそれでいいのだ。
 このクララが立ち上がったという事実に、いつもは冷静な「おばあさま」が完全に舞い上がってしまうのもこれまた良い。彼女がどれだけ「クララが立つ日」を待ちわびていたかが上手く再現されているし、その感動も上手く演じられている。その事実にあの「おじいさん」までもが落ち着きを失い、通常の状況で急に「立て」と言われても無茶な話だという事を忘れてしまっている。だがハイジが牧場から降りてくる頃には、二人とも落ち着きを取り戻しているのがこれまた面白い。もしここで二人が落ち着きを取り戻していなかったら、またクララは立ち上がる練習をさせられた事だろう。

   
   
感想  前話で「クララ大地に立つ」へ明確に舵を切った物語だが、その方向へ話を持って行くのに1つ足りない要素があるとすれば「クララが立てる」という物的証拠だろう。今回の「小さな希望」というサブタイトルには、「クララ大地に立つ」が「願い」から「希望」へと変わることが明確に示唆されており、クララが「立てる」と誰もが明確に解る出来事が起きると視聴者は身を乗り出して見る事になる。
 そしてクララの身に降りかかる恐怖、それはクララにとっては「得体の知れぬ生き物に襲われる」という出来事だ。むろん周囲から見るとただ単に「牛がクララのすぐ側を通過しただけ」であるが、そこは都会っ子でしかも歩けないときているクララだ、放し飼いの牛に恐怖するのは当然だ。そして「その時」は、初見の視聴者にとっては「あれっ」と思った瞬間に唐突にやってくる。私のように何十年ぶりの視聴で、記憶が薄れている視聴者にとってもそれは唐突だ。
 クララが立ったことで「おじいさん」「おばあさま」ハイジの3人の反応は名台詞欄や名場面欄に書いた通りだが、クララの反応がこれまた面白い。なんと立ったことについては無自覚なのだ。だからその後「もう一度立ってご覧」と言われたときは無理だと言い、そして「怖い」とする。これはクララに「立つ」事に対する恐怖を植え付けたことに他ならない。クララが「立ちたい」という意欲だけでなくこの「恐怖」を克服しないことには、立つことは許されないというそういう設定が植え付けられたのだ。そしてクララが持つ病に対しての「負」の部分が表に出てきて、彼女が立ち上がるための障害になって行くのは見たことがある人なら簡単に理解出来ることだろう。
 今回はこの部分が本題で、後はついでだ。冒頭のロッテンマイヤーが村を去るシーンはわざわざ流す必要性を感じなかったし、最後のクララと「おばあさま」が氷河湖まで上がるシーンは芸術的な面では優れていて印象的だ。そしていよいよ、物語は「クララが立つ」事に関して、「願い」→「希望」に続いて「誓い」へと変わって行くのだろう。

第49話「1つの誓い」
名台詞 「どうだね? みんな楽しそうだろ? クララもああしてみんなと一緒に走り回りたいだろ? いいや、心配ないよ。お前が心から立ちたい、歩きたいと思って、一生懸命努力すれば必ず足は治るんだ。うんも、本当だとも。もちろん、慣れない事をするんだ、思うようにはいかないだろう。いたいかも知れない、すぐには立てないかも知れない。だが、それでも挫けちゃいけないよ。今、クララに一番必要なのは頑張りだな。そうだ、明日から立つ練習を始めてみようじゃないか。」
(「おじいさん」)
名台詞度
★★★
 「おばあさま」主催の「お別れパーティ」は、ハイジの学校の子供達も出席することになって大騒ぎ。そこで突然鬼ごっこが始まる。だが鬼ごっこのようなハードな遊びにクララが加われるはずもなく、「おじいさん」に抱かれて一行を追いかけながら見守るだけだ。その皆が遊ぶ様子を見守っているクララに、「おじいさん」はこう語りかける。
 最初はクララへの問いかけだ。クララにあの仲間に加わりたいかどうかを単刀直入に問うており、もちろんクララはこれに頷いて返答したあと「でも…」と言い掛ける。クララの思いは何と言っても「立ちたい」という思いと、「立つ」事に対する不安と恐怖が入り交じっていて今は「不安」が大きいのだ。そんなクララに「おじいさん」はクララに必要なことを説く。まずは心の底から「立って歩きたい」という気持ちを持つこと、そして努力することだ。
 多分クララにとって一番の障害は、ロッテンマイヤーが画面から去った今では「自分自身に勝つ」意欲なのかも知れない。クララは富豪の娘として何不自由ない暮らしをしてきた。そのこれまでのクララの育ちに「足が悪く歩けない」という要素が加わることで、本当にクララには「努力」「頑張り」といったものが必要のない生活を送ってきたのだ。そのクララの人生にこれまで無かったものを体験しない限り、立って歩くことは許されないと物語はクララに告げている。
 そのクララに足りないもの、クララが歩くために必要なものを、「おじいさん」はこの台詞で持ってクララ本人と視聴者に突き付けた形となる。これを受けたクララ本人も視聴者も思うはずだ、クララに「努力」や「頑張り」というものが備わるのかと。こうして視聴者はクララと同じ不安をテレビの前で感じる事になるのだ。
名場面 「おばあさま」との別れ 名場面度
★★★
 「お別れパーティ」が終わると、「おばあさま」は夜道をマイエンフェルトまで馬車で降りて行くことになる。「おばあさま」は「立つのを楽しみに待ってますからね」と言うと、これにクララは不安な表情を見せ「頑張るわ」と返す。そして「さよなら」の挨拶とともに馬車を走らせる。遠ざかる馬車に向かって「おばあさま! きっと立てるようになるわ!」とクララは手を振りながら叫ぶ。これを喜んで見上げるハイジと、驚いて見上げるペーター。
 これこそが今話のメインテーマ、「クララの誓い」である。クララは名台詞欄の「おじいさん」の台詞によって、歩けるようになるには自分に何が必要なのかを知る。だがそれは今までの自分に経験のないものであり、大きな不安となっている。しかし一度クララが立ったのを見た「おばあさま」の期待は大きい、予定を変更してまで自分にすぐ会える場所に留まってくれる。その「おばあさま」の思いに応えねばならないという思いもあっただろうが、とにかくクララはここで「自分の足で立ち上がる」と決意し、その「誓い」を立てたことになる。
 もちろん、今話でさんざん描かれたクララの不安は完全には払拭されていない。だが彼女がひとつ気付いたのは「それに立ち向かわねばならない」という事だろう。それに立ち向かうために、彼女は彼女なりにここへ来られる最も近い身内にこのような誓いを立てることしか思い浮かばなかった、そんな所かも知れない。
 この「不安を払拭出来ないまま」でたてた「誓い」というのが、クララが大地に立つ瞬間まで上手く効いてくると解るのは、次話以降の話だ。クララ本人には「自分は立てるようになる」という確証は何にもないのだ。だがその点がリアルであり、クララの気持ちを上手く描いていると感じる点だ。もしここでクララが誰かの言動により、安易に不安を払拭したらそれこそ白けたであろう。
 

 
感想  いやーっ、「クララの誓い」をラストシーン(名場面欄)に上手くまとめたなー。話がそこへ向かうようにうまく転がっている。登場頻度が非常に低い子供達も、第42話の時同様にちゃんと「役割」が与えられていて、決して通りすがりやご都合主義で出てきたわけではないのに感心した。細かいところで言えば本当に通りすがり程度の村人(ペーターとヤギの番を代わる若者や、「おばあさま」の馬を引く男など)にもちゃんと役割と使命が与えられている。そういう名もないキャラにまで役割がちゃんとあてがわれているのは「母をたずねて三千里」で見られた傾向であり、とても凄い物語だと思う。ま、ハイジにしろマルコにしろそういう話は全部ではなくて、全話の中の一部なのだが。
 物語はちゃんと前回のラストシーンを引き継いで、クララと「おばあさま」を伴って氷河湖まで上がった所から始まるのも良い点だ。ここでさらにクララの「自分で歩きたい」という気持ちを盛り上げる事から始めるのである。そして山小屋まで降りれば、今話からクララが大地に立つ瞬間まで引きずることになる「クララの不安」を明確にする。ここで前話、クララが立ち上がったことが「無自覚」であったことが効いてくる。話を聞いた周囲は「明日にでも立てるかも知れない」と感じるが、クララは「そんなことはない」と思っていて、この温度差を演出することでクララの不安を上手く表現するのに成功していると思う。特にハイジが無理矢理クララを立たせようとするシーンは、その意味ではとても上手くできている。
 そして名台詞欄、クララが「立つにあたって自分に必要なこと」を知るが、それでも不安が払拭出来ないという点を上手く表現する。だが彼女は彼女なりに「自分がどうしなきゃならないのか」は理解したはずだ。その結果が名場面欄シーンであり、クララは「立てないと思う」という不安を抱えながらも「立つ」という誓いを立てる。本当に上手くできた物語だ。
 そして次回、いよいよクララは大地に立つ。あの名場面だ。

第50話「立ってごらん」
名台詞 「クララのバカ! 何よ意気地無し、一人で立てないのを足のせいにして。足はちゃんと治ってるわ。クララの甘えん坊! 恐がり! 意気地無し! どうしてできないのよ? そんな事じゃ一生立てないわ! それでもいいの?(嗚咽)クララの意気地無し! 私、もう知らない! クララなんかもう知らない!」
(ハイジ)
名台詞度
★★★★★
 クララの必死の練習が実り、やっと「つかまり立ち」までできるようにはなったが、どうしてもその先へ進めない。そんなある日、自立して立つ練習中に転倒、クララは「手を捻ってしまった」として今日の練習を終わらせるようハイジに言う。だがハイジは「これくらい大丈夫」として練習の続行を促すが、クララは「おじいさん」がゆっくりやれと諭したことを理由にこれを拒否。さらに「それにダメなのよこの足、ハイジが言うようにすぐに立てないんだわ」と付け加える。このクララの言動にハイジがついにブチギレ、クララに向かってこう言ったと思うと走り去ってしまう。
 この台詞と、ここに至るクララの台詞はクララの足について、クララ自身が持っている「負」の思いが隠されている。それは「この足で立てるわけがない」というクララの思い込みであり、常に自分で自分にそう暗示をかけてしまっていることだ。そしてさらにクララはその思い込みや暗示には無自覚で、足が悪いのを足のせいにすることで今まで生きてきた。それで不自由がなかったのがクララのこれまでの生き様であり、クララが何事も頑張ることを避けてきた真意である。
 このクララの態度に、ハイジは今話の早い段階から苛立ちを見せていた。確かにハイジのクララに対する「歩ける」という期待や、今話冒頭での無理矢理の練習は行き過ぎの感はある。だがハイジはフランクフルトからこのアルムでのクララとの生活で、クララのこの欠点を無自覚ながらも見抜いていたのかも知れない。そういう論点に立てば、ハイジはここまでよく耐えたと思う。だがハイジも気付いた、それを指摘しないことが甘やかしであることに。
 だからハイジはクララに対してもそうだが、自分に対しての怒りも爆発させこの台詞を語ったに違いない。その証拠がこの台詞の途中に出てくる涙である。ハイジは心を鬼にしてクララを罵らねばならないときが来たと感じ、ここまでクララと自分を追い込んでしまったことに怒っているのである。
 もちろん、ハイジのこの怒りが「クララ大地に立つ」という今話のラストシーンに繋がる。この為にこの台詞が強く印象に残っている人も多いはずだ。でもハイジが何故友であるクララを罵らねばならなかったか、その台詞になぜ涙が含まれているか、そこまで考えるとハイジのこれまでの辛抱と、何よりもクララを思う気持ちが見えてきてさらに印象深くなる。色んな意味で文句なしの★×5だ。
 
名場面 クララ大地に立つ! 名場面度
★★★★★
 名台詞欄シーンを受け、ハイジは名台詞欄の台詞を吐いたかと思うと走り去ってしまう。クララはこのハイジの怒りに驚き、そして焦ってハイジを呼び止めようと、柵に掴まって立ち上がりながらその後ろ姿に向かって叫ぶ。だがクララはハイジの名を三度叫ぶと突然静かになる、その異変にハイジも気付いてそっと振り返ると…そこには自分の力で立ち上がっているクララの姿があった。信じられない物を見たという表情でフリーズしたまま目から涙をこぼすハイジに、「ハイジ…私…私…立てたわ」と呟くクララ。「クララが立ってる…」ハイジは呟くと号泣、「ハイジ!」「クララーっ!」ハイジはクララに駆け寄り、クララがハイジに抱き付こうとして前のめりになったところを受け止める。「よかったねクララ」「ありがとう、ハイジ」…感動の抱擁で今話は幕を閉じる。
 「クララが立った」編に入ったところから、いやクララが始めてこの物語に登場してから、このシーンを待っていた視聴者は多いことだろう。その「クララ大地に立つ」のシーンは、「自分は立てない」と無意識に自分で暗示してしまって心が挫けそうなクララに、ハイジが罵声を浴びせるという意外な展開から始まった。そしてクララの焦り、ハイジの怒りが本当だったからこそクララは真剣に焦ったに違いない。これではハイジに嫌われてしまう、何とかしないと…その思いがクララに「立ち上がる」という力となった。クララがハイジを好きでたまらないという有情が生んだ「力」であり、多くの人の印象に残ったシーンであることだろう。
 そしてハイジも必要性があったから起こって罵ったこと、クララがそこから力をもらった事。二人は瞬時にそれを理解する。だからこその抱擁シーンだ。あんなに罵っても罵られても、この二人の信頼感は揺らぐことはない。こういう点もこのシーンには上手く込められている。ここも色んな意味で印象に残っている人は多いだろう。
 しかし、「アルプスの少女ハイジ」の話題になるとハイジが「クララが立った!」と騒いでいるシーンを連想して語る人は多いが、それにこのシーンは該当していない。ハイジが「クララが立った」事をそのようにはしゃいで喜ぶシーンは、第48話のシーンだったのだ(第48話の名場面欄参照)。ここではハイジとしては比較的静かに、しかも喜ぶと言うより感動している。このハイジの反応も今見ると「同じことの繰り返し」にはさせず、場を盛り上げ印象的にしたひとつの理由だ。

     
   
感想  「立ってごらん」というサブタイトル、後半に入ってもまだ続くクララの苦悩。これを見て今話のうちに「クララ大地に立つ」を見る事が出来るとは思わず、油断した方も多いだろう。それだけ制作側も「クララ大地に立つ」を印象的に見せようと考えたに違いない。ひとつ間違えれば白ける展開だが、そうさせないように上手く緩急をつけた。特に名台詞欄シーンでハイジをキレさせたのはこれまでに無い展開で、それにクララが焦るという構図で「立つ」きっかけを作ったというのは本当に上手く作ったと思う。また名台詞欄の台詞も言葉が上手く選ばれていると感心した。
 今話の4分の3をかけて描かれたのは、クララの苦悩だ。ハイジやペーターだけでなく「おじいさん」や「おばあさん」の期待が大きいからこその苦悩と不安を時間を掛けて描き出す。一度はクララはこの苦悩と不安に押しつぶされて泣きながら「フランクフルトへ帰る」と主張するが、「おじいさん」がうまくクララを諭してすくい上げる。だがクララの「歩けない」という決めつけは、今話の前半で描かれたような「周囲による期待の大きさ」ではなくてもっと根が深いことが、名台詞欄シーンまで行くと解るというこれまた面白い展開だ。
 そして名台詞欄で語った通り、その根の深さにハイジは気付いていただろう。さすがの「おじいさん」もこの根の深さには気付いていなかったかも知れない。それだけ根が深ければいつか誰かがキレるのは当然だが、それを「誰かがキレる」まで明らかにしなかったのは物語を陰鬱にさせないという点で正解だろう。ここまでのクララの言動に付いても、そこまで足に対する負の思いの根が深いという点で矛盾点が全く無いのも気持ちよい。
 そしてクララをそこまで追い込んだのは言うまでも無くロッテンマイヤーであり、クララが立ち上がるためにロッテンマイヤーを排除したのは大正解と言うこともここで解るだろう。
 そしてその「誰かがキレる」というのを、その状況がハッキリした瞬間に唯一クララと一緒にいたハイジが背負うのは仕方が無いし、むしろそうならなければ話は余計に複雑化するだけだ。だがクララの心境は、「信頼出来る誰か」がキレること…つまり今までの自分は間違っていると心の底から思える事で解決するのだ。そういう意味でもキレる役がハイジだったのは的確で、これが「おじいさん」だったらクララにとって怖いだけで終わってしまうし、ペーターだったら臍を曲げて「フランクフルトに帰る」だっただろう。もちろんどちらもクララは立てないままで…。
 「クララ大地に立つ」というミッションは、2話を残したここで実現したと言うことは、次なるミッション「歩く」が物語の最終結論だと、今話を見た多くの人が気付くであろう。本当に目が離せない、宇宙戦艦ヤマトが太陽系を離脱した頃で面白い展開のはずだが、ハイジを放っておいていきなりそっちを見ろと言うのは不可能だのは頷ける。

第51話 「クララが歩いた」
名台詞 「いやいや、恥ずかしいことなんかちっともないさ。よーくわかるよ、クララの気持ちは。それよりどうだ? 久しぶりに山の牧場へ遊びに行こう。対象も寂しがっていることだろうしな。干し肉でも持って、みんなで行ってやろうじゃないか。」
(「おじいさん」)
名台詞度
★★★★
 クララは誰も見ていないところで一人で歩くことに成功するが、同時に転倒してしまい「歩く」ことに恐怖を感じる。その恐怖で頭が一杯のクララは、歩行練習のために物置にしまわれてしまった車椅子を悪戦苦闘の末、一人で取りに行くが、物置から出す際に勢い余って車椅子は斜面を暴走し破壊されて失われる。それを見て泣き崩れたクララの元にハイジと「おじいさん」が駆けつけ、「私、恥ずかしい…」と泣き崩れるクララに「おじいさん」はこう言葉をかける。
 「おじいさん」は何が起きたのかを、泣き崩れるクララと破壊された車椅子を交互に見て瞬時に理解したに違いない。クララにまた「甘え」の心が戻ってしまったこと、それによって歩くより車椅子の方が良いと感じてしまったこと、それによりクララは伝い歩きで物置まで移動して車椅子を引っ張り出そうと悪戦苦闘したこと、結果クララは車椅子を暴走させてしまい破壊されて失われたこと、結果を見てクララは「歩く」「だから車椅子はもう使わない」という決心したはずなのに結局は車椅子に頼ってしまった事が間違いでありそれを恥じて泣いていること…。その出来事とクララの気持ちを瞬時に理解した「おじいさん」の口から出てきた言葉はもちろん叱責ではないし、励ましの言葉でもなかった。クララの気持ちに理解を示しただけで触れず、あとは無関係の楽しい事をしようと声を掛けただけだった。クララはこの「おじいさん」の言葉に感謝し、胸に飛び込んで泣き続ける。
 そう、恥ずかしいことをしてしまい心に傷を負った人には、それを理解しつつも触れないのが一番だ。だがそれって、なかなか出来る事ではない。それをこの「おじいさん」が上手く手本を示してくれたとも言える台詞だ。またここで「おじいさん」がクララを励ましたりしたら、クララはかえって心を閉ざしてしまうはずで、それによって解決したらこのシーンは白けてしまうし、ラストシーンでクララが歩くことに繋がらない。そういう意味でも印象的な台詞だ。
 そしてクララは、この「おじいさん」の対応があったからこそ、山の牧場でこの恥ずかしい出来事を忘れることができ、そこで自力歩行を成功させる。「クララが歩く」という方向に繋がるきっかけとしても、この台詞はとても重要だ。
名場面 クララが歩いた 名場面度
★★★★
 名台詞を受けて、「おじいさん」はクララとハイジを連れて山の牧場へ向かう。牧場に着くとクララは周囲の風景に改めて感動し、ここで歩く練習をするようペーターとハイジを促す。二人の手を借りて立ち上がったクララは、自分の足で立ち上がって見た周囲の景色に感動する。そしてハイジとペーターの手を借りた歩行練習が始まる、「おじいさん」は黙って事態の推移を見守る。練習中、クララは近くの岩陰に赤くて小さな花が咲いているのを見つける、と思うとクララは二人の手を離して花のある方向へ一歩、また一歩と歩き出す。その様子を横で見守るハイジとペーター。そしてクララは花の所まで歩き、腰を下ろし花を摘む。「クララが歩いた!」ハイジとペーターは飛び上がって喜び、「摘んだわ、生まれて初めて自分で歩いてお花を摘んだわ」高らかに宣言するクララ。「クララが歩いた!」ハイジとペーターの叫び声の中、本話が幕を閉じる。
 「アルプスの少女ハイジ」の物語に結論が出た。ハイジと「おじいさん」とクララの成長物語として、最後に残っていたクララの成長が「自力歩行成功」と言う形で描かれ、物語は本編を終えた形になる。あとは最終回でオチをつけて大団円とするだけだ。
 そしてこのクララの自力歩行成功については様々な要素の集成大という描き方をされている。クララの努力と挫折と根性だけでなく、それを見守ってきた「おじいさん」、それにハイジとペーターの友情、さらにはその背景に拡がるアルムの大自然までもこのシーンの中にしっかり描かれている。何よりもクララが自力歩行をする直接のきっかけが、クララ自身の中に起きた欲求…「あの花を摘んでみたい」という点であるのも場を盛り上げた要素だ。そこにクララの努力と根性だけでなく、結局は本人の欲求が必要というという部分が上手く描き込まれ、クララの自力歩行成功に説得力をつけた。
 物語の結論、という大事なシーンであるので白けさせるわけには行かない重要なシーン、しかもひとつ間違えれば前話の「クララ大地に立つ」と同じ展開になりかねないところ、舞台を山の牧場に移すなどしてうまく話を転がしたと思う。そのような「つくり」という点でもここは強印象だ。。
  

  
感想  物語は前話の名場面欄シーンの後半部分だけを繰り返し、同時に「おじいさん」がクララが立っているのを確認するシーンで始まる。これを受けてクララは歩行訓練へと移行するが、立つことに成功したことでクララが前向きなのが立つ訓練とは違う。そしてそのまま行くと思わせてクララにもう一度挫折を味合わせる。それがクララが「視聴者以外誰も見ていないところ」で自力歩行に成功し、同時に転倒して「転ぶ」という恐怖を知ると言うことで描かれた。一度ここでクララの自力歩行を密かに成功させてしまうのは、ラストシーンのクララの自力歩行成功シーンに説得力を持たせる。
 そして「転ぶ」恐怖はそのままクララの挫折に繋がる。「転びたくない」という思いは「思うように歩けない」という思考回路へ繋がり、本人の希望で片付けた車椅子のほうが良いという結論を出させてしまう。このクララの思考の変化に説得力を持たせ、クララが一人で物置へ行き車椅子を引っ張り出し、これに失敗して車椅子が破壊され失われる。クララは「自力で歩かねばならない」という状況に追い込まれるが、物語はそのような現実路線を取らずに「おじいさん」の優しさで解決させてしまうのが名台詞欄シーン→名台詞欄の流れだ。
 こうして名場面欄にも書いたように、「アルプスの少女ハイジ」の本編は今話までと言っていいだろう。様々な物語を消化し、最後に残った「歩行可能になる」という物語を通じたクララの成長という物語も上手く結論付いた。残った最終回は拡げてしまった風呂敷を畳みながら物語に上手く「オチ」をつける、どっかの某長い旅にはなかった展開を残すだけとなった。

第52話 「また会う日まで」
名台詞 「さよなら、樅の木さん。さよなら、丸い窓。さよなら、アルムの山…。」
(クララ)
名台詞度
★★★★
 夏の終わりも近付き、いよいよクララは下山してフランクフルトへ帰ることとなる。「おじいさん」の背負う背負子に乗り、小屋を出発したクララはヨーゼフに別れの挨拶をした後、「おじいさん」ら立ち止まるように言う。そして小屋をじっと見つめたまま、静かにこの台詞を吐くのだ。
 クララのアルムに対する想い、「来て良かった」と心からの思い、そして自分を成長させてくれた場所との別れ…この場所がクララにとって忘れられない場所になったというという彼女の気持ちが、ここでは上手く演じられている。まさに「後ろ髪を引かれるような」というのは、こういうことをいうのだろう。
 私も旅先でこのような思いをしたことは何度かある、だから今の私がこの「アルプスの少女ハイジ」最終回を見ると、自分の経験談と重なって最も印象に残る台詞はこれだったのだ。
(次点)「そうね、クララが春を運んでくるんだわ。」(ハイジ)
…名場面欄シーンの後、ハイジは「早く春にならないかな」と語る。ペーターが「クララが来れば春だよ」と返すと、ハイジがこう語る。この台詞もとても印象的で、ハイジがクララの再訪を春の訪れと共に待っているという思いが上手く込められている。名台詞欄をどっちにするか最後まで悩んだ。
名場面 クララ再訪の期待 名場面度
★★★★★
 冬のある日、ハイジとペーターはいつものようにソリ遊びを楽しむ。その途中にマイエンフェルトを出発して行く汽車が見えた。「あの汽車に乗ればクララの所へ行けるのね」「クララもあれで来るんだね」と語り合うと、二人は「クララーっ! 早くおいでーっ!」「クララーっ! 早く来いよ〜っ!」とそこらに向かってクララを呼ぶように叫ぶ。すると「ハイジーっ! ペーターっ!」叫びながらクララがこちらに向かって走ってくるではないか。3人が抱き合うと辺りの風景は唐突に夏の景色に変わり、3人は走って山の上のお花畑まで駈けて行く。ヤギ達も嬉しそうに駈けてくる、山の動物たちも顔を出す。3人はお花畑で思いきりはしゃぐ、3人で花を撒き散らせてはしゃぎ花のシャワーの中にいるような景色だが…その景色が徐々に雪が降るシーンとなり、辺りはまた雪景色に戻る。そして名台詞次点欄シーンへと続く。
 「アルプスの少女ハイジ」のラストを象徴するシーンだ。既にクララもフランクフルトに去っているが、ハイジやペーターはクララの再訪を心待ちにしている。それだけでない、まだヨチヨチ歩きだったクララが、今度の春には走れるようにまでなってここへ再訪するという期待にまでなっているのだ。このクララの再訪という期待と、雪国の人々には待ち遠しい「春の訪れ」を重ね合わせ、二人が持つクララへの友情と次の再会ではクララと共に走り回れるという予感を上手く描き出している。
 そんな理論的なことはともかく、このシーンは本当に上手く作られていて、最終回のラストを飾るに相応しい爽やかなシーンとして描かれていてとても印象的だ。このシーンで物語にうまく「オチ」がついて締まり、「アルプスの少女ハイジ」という物語は完成したと言っていいだろう。とにかく長編小説を時間を掛けて最後まで読んだような爽快感と、登場人物達が「春」に何を望んでいるかが見えてきて、さらにその期待通りになるという事まで想像させられる素晴らしいシーンだ。ホント、どっかの某長い旅には見習って欲しいラストシーンだ。
  

  
感想  「アルプスの少女ハイジ」は、名場面欄で上手く話がオチた。あのラストシーンは子供の頃に見たのをハッキリ覚えている。序盤のゼーゼマンや「おばあさま」がクララの自力歩行を見て盛大に驚いたシーンと同じ位、私の印象に残っていた。もうホント、今回はどの台詞を名台詞欄にして、どの場面を名場面欄シーンにするか悩んだ。
 序盤のゼーゼマンと「おばあさま」に自力歩行を見せつけるシーンは、ここまでの展開を考えればどうしても必要な食べ残しだったシーンで、これが無ければ「アルプスの少女ハイジ」は終われないというのは誰もが同意するところだろう。そして次は「おばあさん」の事も忘れずにうまくオチをつける。それはゼーゼマン家からクララ自力歩行の「御礼」をハイジが辞退し、代わりにそれを「おばあさん」に進呈するという展開で描かれた。こうして「おばあさん」が「フランクフルトのハイジのベッド」を進呈されるという事で、「おばあさん」がハイジの優しさを受け取るという形で「ハイジとおばあさんの物語」もうまく結論付いたと言っていいだろう。
 こうして語り残しや食べ残しを消化した後で、物語はクララとの別れという物に行く。ここは典型的な別れが描かれたが、この中でもクララの名台詞は自分の体験と照らし合わせるととても印象的で、名台詞欄はこれに落ち着いた。そして物語はクララとの別れを描いて終わるかと思ったら、ここからがこの最終回の本題だった。
 クララが去るとアルムにはあっという間に冬が訪れ、ハイジらの冬の生活が描かれる。その中でクララが日に日に足が良くなっていることが明確にされ、ワンシーンではあるがフランクフルトでのクララとロッテンマイヤーの様子が出てくる。ロッテンマイヤーはクララの成長に心を入れ替えた様子が、このワンシーンだけで分かるという優れた物だ。そして名場面欄へと展開し、最終的にハイジやペーターとクララの友情をしっかり描いて、物語が終わる。
 実に印象的な最終回だ。事務的にあっさり「クララが歩きました、そして山から去りました、終わり」ではなく、皆の思いやキャラクター性が落ち着くところへ落ちたという感じである。その中でロッテンマイヤーの変化をちゃんと描いたのは秀逸。だがデーテは結局画面に再登場せず、印象の悪いまま消えてしまったことになるが、再び画面に出すには完全に機を逸していたのでそれで良いだろう。風呂敷は上手く畳まれ食べ残しもなく、最後は爽やかに終わったのは本当に好感が持てる。
 これで本編考察は終わるが、総評と追加考察で皆さんにはもうちょっと「アルプスの少女ハイジ」の世界に付き合って戴こう。

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