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第31話 「さようならおばあさま」
名台詞 「とっくに裏から追い出されちまったわよ、ロッテンマイヤー女史にね。もうさっきまでのこの家とはまるで違うんですからね、あんまり世話を焼かさないように願いますわ。お嬢様。」
(チネッテ)
名台詞度
★★★
 前話で始めて素顔を見せたチネッテが、やっと名台詞欄に初登場! 正直言って、このキャラがここに出てくることはないと思っていたのだけど。
 「お嫁様ごっこ」の楽しいパーティの最中、ハイジは「おばあさま」が姿を消しているのに気付く。そして慌てて外に出て「おばあさま」を見送り、戻って来たハイジが見たのはあの楽しいパーティが既に消えていたことと、その跡を無表情で掃除するチネッテの姿だった。ハイジは「楽しかったわね」とチネッテに声を掛けるが、チネッテは「あんなことはもうお終い」と答える。ハイジがパーティのみんながどうなったか問うと、チネッテはいつもの無表情でこう答える。
 この台詞には「おばあさま」がいなくなった瞬間から、この家から「楽しみ」が全て消えてしまったことが上手く示唆されている。さっきまでの楽しいパーティがロッテンマイヤーに受け入れられるはずもなく、主催者の「おばあさま」が消えると同時に泡と消えてしまった。その構図を上手く表現しているのがひとつである。それだけでなく「おばあさま」がいることで、この家の空気は和らぎ、クララやハイジだけでなく召使い達も居心地が良かったはずだが、その空気がまた元の冷たい空気に変わったと、チネッテは冷たくハイジと視聴者に突き付けたのだ。
 そしてもう一つ、この台詞を語るチネッテの声に「イライラ感」が上手く込められている。つまりはチネッテも「おばあさま」が去ってこの家が元に戻るのをあまり歓迎していないと見える。それは前話から今話前半にかけて、チネッテが脹れっ面だけでなく様々な表情を見せたことから伺える。チネッテにとっても働いていて楽しい日々が終わり、また元の冷たい仕事に戻るのかと思うと気が晴れずイライラするというところで、その気持ちが上手く出ている。このチネッテのイライラ感がハイジと視聴者に今後のこの家での生活に対する不安感を煽り、物語を否応なしに盛り上げる。正直言って、チネッテが普段無表情という設定はこのシーンのためにあるんじゃないかと思った。
 チネッテついでにもう一つ書くと、彼女の無表情は彼女なりのこの家での辛い仕事を乗り切る術なのだと思う。主人やその家族は良い人だが、それに使われているロッテンマイヤーが彼女は嫌いなのだろう。だから彼女もロッテンマイヤーに使われるときは、ロッテンマイヤーの冷たさに「無表情」対処しているのだと思う。そして余計な表情を作らずに、無表情で反論せずに言われるままにしておくのが、ロッテンマイヤーの元で働く最良の方法と感じているのだろう。これはセバスチャンとは逆の対処方法である。
 チネッテの声はスパンクでお馴染みのつかせのりこさん。言われてみればこの台詞には、その面影が少しあるなぁ。
名場面 ハイジとおばあさま 名場面度
★★★
 「おばあさま」が帰ってしまう、そう聞かされたハイジはクララの部屋を飛び出して「おばあさま」の部屋へ向かう。「おばあさま」に「行かないで」と懇願するためだ。そして「おばあさま」の部屋の扉を開くと、そこには帰宅のための荷造りをしている「おばあさま」の姿があった。
 「おばあさま」の元に駆け寄るが声が出ないハイジの表情を見て、「おばあさま」は一瞬悲しそうな表情を作る。だがすぐ笑顔になり、「荷物を整理していたらこんなに端布が出てきた」とハイジにに端布を渡すが、ハイジは何も答えられないだけでなく遂に涙を流し始める。そして堪えきれなくなったハイジは泣き出して、「おばあさま」に抱き付く。「そうかい、誰かに聞いてしまったのかい…」と良いながら「おばあさま」は腰を下ろし、ハイジを抱き寄せる。「ずっといて…」と懇願するハイジ、「そうするわけには行かないんだよ」「どうして」「わかっておくれ、人間ってね、どんなに楽しいことでも、いつかは別れねばならないときが来るものなの…悲しいけれど仕方が無いのよ」…「おばあさま」はハイジに言い聞かせる。「また来てくれる?」と問うハイジに、「私があげた本を、お前が全部スラスラ読めるようになった頃、またきっと来るよ」と答える。これにハイジは力強く頷く。
 もう、今回はこのシーンだけあれば良いんじゃないかと思うほどのシーンだ。ハイジと「おばあさま」の別れが決まった時のシーンであるが、ここに二人の間に生じた「絆」は上手く描かれている。ハイジは「おばあさま」が無くてはならない存在だし、「おばあさま」はハイジが心配で仕方が無い。別れたくないけど別れなければならない、そういう悲壮感を描く標準的なシーンだろう。
 だがこのシーンには、それにひとつの味付けがしてある。これはハイジがまた「変わる」きっかけを上手く植え付けたことだ。「本がスラスラ読めるようになったらおばあさまがまた来る」と信じたハイジは、そのために本を読もうと必死になるのである。もう言うまでもない、これを「おばあさま」が狙っていたはずで、理由はどうあれハイジは「勉強する」事に目覚めたのだ。これはロッテンマイヤーには到底不可能であった事のはずだ。
 こうしてハイジと「あばあさま」の絆を印象的にしたところで、二人の「別れ」と、「おばあさま」がいなくなってゼーゼマン家がどうなるかと言う点までを残りで費やす。だが本話の本題はここのはずだ。
  
感想  前話で示唆された「おばあさまの帰宅」が、今話ではゆったりと描かれる事になる。今話冒頭でハイジやクララがその事実を掴み、ハイジと「おばあさま」の互いに無くてはならないという関係を強調出来れば、それが伏線となってハイジの成長という本題はもう終わる。残りは「おばあさま」がいなくなってゼーゼマン邸の中が元に戻る、いや元よりもっと悪い状況になるまでの展開はどうにでも転がるだろう。
 その中で、「ゼーゼマン邸が元に戻った」ことを上手く示唆するのに、チネッテという存在は本当に上手く活用されたと思う。これまで無表情でろくな活躍の場もなかった彼女が、そのような場面で効果的に使用されることで存在をアピールした形になったであろう。その辺りの詳細は名台詞欄に書いた通りだ。
 「おばあさま」はその初登場がお茶目でとても印象的だったが、このような状況での去り際も上手く演じたと思う。ハイジとクララを楽しませておいて、その間に姿をくらますとは…上手く行っていたら幻のような存在になりかねなかったぞ。それにしてもそんな消え方をしたら、ハイジやクララが辛い思いをすると気付かなかったのだろうか? ロッテンマイヤーは「おばあさま」が消えれば即座に「お嫁さんごっこ」を止めさせるだろうから、ハイジもクララもその楽しい場が消える瞬間と「おばあさまがいない」という事実のダブルパンチを食らったはずだ。現にハイジが「おばあさま」の不在に気付き追いかけた裏で、物語はその通りに進んでクララが深く傷ついている。もうちょっと考えと欲しかったなー。
 しかし、「おばあさま」がいる間にハイジも変わった。「本を読む」「積極的に字を読む」と言うことを覚えただけではない、階段でのジャンケン遊びからは「ルールに従って遊ぶ」という事を通じて「人との関わり」を覚えたはずだ。ロッテンマイヤーは「おばあさま」の行動を「単なる甘やかし」と思っていたが、子供の言うのは「優しさ」の中でないとなかなかものを覚えないという現実が上手く描かれている。ロッテンマイヤーにその「優しさ」が欠落している点も、「おばあさま」登場の数話でハッキリしたことだろう。もうひとつはものを覚えさせるには杓子定規的ではなく、個性に合ったやり方が必要だと言う事実だ。
 こうして、「おばあさま」が画面から消えたところで、「フランクフルト編」終幕で物語は一度一区切りだろう。いよいよ次話からは新展開、まずはこの家で楽しみを失ったハイジの精神的疲弊から新しい展開が始まる。
 そういえば今話のエンディング、なんかスタッフロールの順が変だった。いつも脚本が出るところに、「声の出演」が突然出てきておどろいたのなんの。

第32話 「あらしの夜」
名台詞 「ハイジ、何か言ってちょうだい。私に出来る事なら何でもするわ。ね、して欲しいことはなんでも言ってちょうだい。」
(クララ)
名台詞度
★★★
 ロッテンマイヤーが「クララのためにハイジが山の話はしないように、山のことを思い出さないように」と再びハイジに厳しく突き付ける。それに力無く「はい」と答えたハイジは、ロッテンマイヤーが部屋から出て行くと一人でベッドに座り込む。そこへクララがハイジの部屋を訪れる。「ハイジ」と声を掛けるクララに、ハイジは「いいの…いいの…もうなんだっていいの」と呟くと、ベッドに突っ伏して号泣する。その姿を見たクララが焦ってハイジにかけた台詞がこれだ。
 そう、クララは焦っているのである。「おばあさま」がいなくなってからハイジがまた変わってしまったことに。しかも今回は前よりも状況が悪くなっていることにクララは気付き、どうして良いのか解らず焦っているのだ。ハイジがおかしい証拠に顔も心なしか青白いし、ほっぺたの赤い丸まで消えている。そのハイジの変化にクララは慌てふためき、どうして良いか解らない焦りがこの台詞に上手く現れている。
 そしてクララは、ハイジがこのようにおかしくなってしまった原因の一端を自分が握っているという事など夢にも思っていない。自分の存在によりハイジは帰れないという点でなく、クララが見ていないところでロッテンマイヤーがクララをダシにしてハイジを追い詰めていることなど知る由もないからだ。それを知らないクララは、そのハイジの悩みを自分で解決できないかと考えるが、ハイジの「もういいの、もう何もしてくれなくてもいいの」というこの台詞に対する返答で、自分が悩みに乗れない存在になっていたことを知り、驚いたはずだ。
 ハイジから見てもロッテンマイヤーの叱責のせいで、その苦しい胸の内をクララに語ることすら出来ない。それを誰かに語り理解してもらえるだけでハイジはずっと気が楽になるはずなのに、誰にもそれを話せないという最悪の状況に追い込まれたのだ。このハイジの精神的疲弊を描き出すことにも、この台詞は一役買っているのは確かだろう。
(時点)「風だけは同じだわ、風だけが吹いている」(ハイジ)
…夜、ベッドの中でハイジはこう独り言を言う。そう、風だけは何処も同じなのだ。風という同じ者があるからこそ、思い出すことすら許されない「山」が「つながっている」と感じ、切なくなるのだ。
名場面 再び「魔法の国」 名場面度
★★★★★
 クララに花摘みを頼まれたとはいえ、また無断で外出したハイジはロッテンマイヤーの叱責を受ける。そして部屋を飛び出してしまったハイジは、「おばあさま」から「魔法の国」とされていたあのコレクションの収納部屋に一人立っていた。そしてあの山の絵の前で、アルムを思い出していたのである。
 だが思い出せば思い出すほど、ハイジの中に悲しみがこみ上げてくる。そこに後からロッテンマイヤーの声が突き刺さる。「まぁまぁまぁ、こんなところにいたのですか?」と言いながら、近付いてくるロッテンマイヤーの描き方が怖くて良い。ハイジがこの部屋に入れるようになった経緯を説明すると、ロッテンマイヤーはハイジに向き合って「いつまで山にこだわっているんですか? いい加減に忘れておしまいなさい。あなたはもう街の子です」と突き付ける。ロッテンマイヤーは例の絵画の前にハイジがいたことで、ハイジが何のためにここにいたのか瞬時で理解したのだ。「いやよ、山に帰るの」ハイジは力強く反論するが、ロッテンマイヤーは「お嬢様をひとりぼっちにしてもいいのですか」とハイジに突き付ける。ハイジが気を落として下を向いたところで「山のことを思い出したり、帰りたいなどと言ってお嬢様を心配させてはいけません」と告げる。「クララを…」「お嬢様はたいそう心を痛めておられます。あなたは山のことばかり言って、お嬢様のご病気を重くなさるつもりですか? 以後少しでも山のことを言ったら承知しませんよ」とクララをダシにしてハイジにとどめを刺したロッテンマイヤーは、ハイジの手を引き部屋の外へ向かう。ハイジは振り返って絵画を見ながら立ち去る。
 やはりハイジの心のよりどころは、収蔵庫にあったあの絵画だったのだ。「おばあさま」がいた頃は、「おばあさま」とともにここへ来て、「おばあさま」の前だけではアルムのことを思うことが出来たのだ。だが今は違う、自分の「山への思い」を受け止めてくれる人が誰もいない。ハイジが一人で絵画に向き合っているときは、そんなハイジの寂しさが上手に描き出され、視聴者も心を痛めるであろう。
 だがそれに追い打ちを掛けるのがロッテンマイヤーだ。クララに「このままじゃハイジがいなくなってしまう」と言われたロッテンマイヤーだ、さすがにハイジに優しい言葉を掛けるかと思って見ていたら…甘かった、と多くの初見の視聴者が感じた事だろう。ロッテンマイヤーはずるいことに自分の言葉や考えでなく、クララをダシにしてハイジを全面否定する。この「クララをダシにした」というのは大きなポイントで、この点があったためにハイジはクララにすら胸の内を語ることが出来なくなってしまったのだ。ここでクララをダシにしたことで、ロッテンマイヤーの「人の悪さ」が完成してしまっただろう。
 そんな辛い構図の中で、ハイジはこの家での唯一のよりどころであった絵画と引き離されてしまう。「アルプスの少女ハイジ」全編の中で、最も胸が痛むシーンはまさにこのシーンであり、強く印象に残っている。
  

  
感想  今回から物語は新しい局面に入って行く、その新展開最初の今話ではハイジの精神的疲弊がこれでもかという程描かれる。そして今話、何よりも見ていて辛いのは、ゼーゼマン邸の中でハイジの味方が1人もいないことだ。クララまで一緒になってハイジを精神的に追い込んでしまう。もっとも、クララまでハイジを追い込む結果になった理由のうちの半分は、クララ自身の「ハイジと一緒にいたい」と言う気持ちだが、残り半分はクララが見ていないところでロッテンマイヤーがクララをダシにハイジに叱責したためであり、半分はクララの責任ではない。
 そしてゼーゼマン邸でハイジが精神的に疲弊して行く中で、同時進行でゼーゼマン邸での幽霊騒動が描かれる。初見の人はこの幽霊騒動が物語の本筋と関係ないのではないかと疑いつつの視聴だろう。幽霊の正体は次話に回されるのが何とももどかしいが、ここではロッテンマイヤーは全く動じないところも見ていて面白い。最初はセバスチャンも動じていなかったが、二度目にはヨハンと一緒に逃げ出しちゃうし。何よりもいつも無表情のチネッテがこれまた今までと違う恐怖や驚きの表情を見せる点だろう。彼女の目が「線」でなかったことは、今回の視聴で再認識した点だ。目を丸く開いているチネッテなんて、記憶に無かったんで。
 「ハイジの精神的疲弊」と「幽霊騒動」を同時進行で描き、今話では前者に重きを置いて描いておきながら、どちらにもまだ答えは出ていない。物語はいよいよ目が離せなくなってきた。

第33話「ゆうれい騒動」
名台詞 「なんですって!? あなたはあの子にそんな残酷なことを命令したのですか!? あなたこそ、ハイジを幽霊にした責任者だ!……すぐに、あの子の叔母さんを呼んで下さい。」
(ゼーゼマン)
名台詞度
★★★★
 ゼーゼマンと医師が屋敷に現れる幽霊をついに捕まえる。その正体は精神的に疲弊して見るも無惨なハイジであった。医師がハイジを診察し、その結果をゼーゼマンがロッテンマイヤーに伝え、ハイジをすぐに山へ帰す必要があると述べる。それに対してロッテンマイヤーはクララがハイジを必要としている事を理由に反対し、これまでクララを心配させぬようにハイジに山のことを語ることも思い出すことも禁じたと説明すると、ゼーゼマンは厳しい声でロッテンマイヤーにこう突き付ける。
 フランクフルト編の物語を追ってきた者にとって、こんな気持ちの良い台詞はないと思う。夢遊病に罹るほどハイジを精神的に追い詰めたのはロッテンマイヤーであり、そのロッテンマイヤーにそれなりの沙汰が下る台詞はまさにこれだろう。視聴者の「このような事態に及んだのはお前のせいだ」とロッテンマイヤーに突き付けたい思いを、画面の中でゼーゼマンが見事に代弁してくれる。そんな意味で気持ちの良い台詞で、ハイジと共に耐えて来た視聴者の胸が晴れる瞬間であろう。
 その視聴者から見て「そりゃないだろ…」と思った点でこの事態の原因である点を、ゼーゼマンは「残酷なこと」と視聴者が感じた以上の言葉でロッテンマイヤーを批判し、この事態の責任者だと突き付けるのだ。そのゼーゼマンの激しい言葉を突き付けられ、唖然として言い返せないロッテンマイヤーの顔は、子供の頃に視聴したときもよく覚えていた。
 そしてこの台詞には、ゼーゼマンが「何故ハイジが夢遊病に罹るような状況にまで追い込まれたのか?」という点を理解しただけでなく、激昂とも言える怒鳴り声の中でロッテンマイヤーの言いつけが残酷でそれが全ての原因という単純明快な答えをキチンと言い切っている。短いながらも言い残しがない台詞だからこそ印象深くなる。
 そして、たじろいで言い返せないロッテンマイヤーを、彼はそれ以上追求しない。言うべき事を言ったら根に持つこともせず、すぐにロッテンマイヤーの次の仕事を落ち着いて命じる。ここにはゼーゼマンとロッテンマイヤーの間にある「信頼感」を見てとれる。一見するとゼーゼマンとロッテンマイヤーが喧嘩しているようにも見えるが、このやり取りは互いの信頼感の上で本音で相手を叱り、相手もその内容を瞬時に理解し反省するというやり取りで、そういう意味でも印象深い台詞とも言えるだろう。
名場面 名場面度
★★★★
 夜が明けると、ゼーゼマンは大事な事を告げるためにハイジの部屋を訪れた。ハイジはまだ眠っており、ゼーゼマンはその寝顔に「可哀想に、許しておくれ、ハイジ…」と声を掛ける。やがてハイジが目を覚ますと、枕元にゼーゼマンがいることに気付いて飛び起きるが、ゼーゼマンは優しく「いいんだよ」として、「今日、食事が済んだらお前は山に帰るんだ」と告げる。驚いて目を丸くしたハイジは「おじいさんやペーターの所へ帰れるの?」と問う。「そうだよ」とゼーゼマンがいうと、ハイジは笑顔を見せてベッドから飛び出し、飛び回って喜ぶ。だが一回りするとハイジは肩を落とし「ダメだわ」と呟く。「私、山へ帰っちゃいけないわ。だってクララが…クララが…私がいなくなったら、クララがひとりぼっちになっちゃうもの…」と続けるハイジの声を聞いて、ゼーゼマンは「そんなにクララのことを…ありがとう、ハイジ」と語りハイジを抱きしめる。そして「でもね、安心しておくれ。もうクララをひとりぼっちにはしないよ。これからは毎日私がついているからね。クララが元気になったのはハイジのおかげだろう、だからハイジはご褒美に山に帰ってもいいんだ。」とのゼーゼマンの言葉に、ハイジは一瞬笑顔を見せるがまた肩を落とす。その理由を悟ったゼーゼマンが「大丈夫、クララもきっと解るさ」と語ると、やっとハイジは笑顔で頷く。
 ここはハイジが「山に帰る」ということが決定したことを、始めて聞かされるシーンだ。もちろんハイジは最初は手放しで喜び、次にクララのことを心配する。そんなハイジを見て「そこまで娘のことを…」と抱き締めるゼーゼマンを見て、ウルっとこない父親は少ないだろう。ハイジはクララのことが心配でなかなか手放しで喜べない、そんな状況をとにかく時間を掛けて描いている。
 この背景には、ハイジが幼いながらも「自分がここにいる理由」をちゃんと理解している事だ。もちろんハイジ自身が「クララが気の毒」と思った点もあるが、何よりもクララの相手として自分がこの家に送り込まれたことをよく理解していたのだ。だから自分がクララの元にいることは役目だと思っているし、クララ本人から許可が出ないと帰れないとハイジは理解していたのかも知れない。
 そんなハイジに、ゼーゼマンは娘を持つ父親として上手く言葉を選んでいる。ここにはゼーゼマンの人柄というのがよく滲み出ていて、ハイジもこのおっさんのいうことだから大丈夫と感じたに違いない。その辺りが上手く描かれていて、二人の動作も細かくてとても感心したシーンだ。
 しかし、ゼーゼマンはハイジに「帰って良い」と伝える事よりも、クララに「ハイジを帰さなければならないならない」と告げる方が辛かったはずだ。実の娘が確実に悲しむであろう現実を伝える事は、父親にとって辛いものである。
  

  
感想  サブタイトルを見れば、前話のサブ展開として発生した幽霊騒動に決着が着くというのは誰もが理解出来るだろう。その正体がハイジであり、原因は精神的に壊れちゃったからというのも大方の予想がつくであろう。そしてその展開の中で、今話ではゼーゼマンと医師がとても印象深い働きをしたのは確かだ。今回は名台詞欄も名場面欄も選ぶのに苦労した一話だ。
 特に幽霊の正体がハッキリするまで、ハイジをこれでもかというほど病的に描いたのは効果が大きい。ハイジのほっぺの赤い丸が無くなり、もう誰が見てもハイジがここに居続けては行けないと判断出来るが、劇中のクララやゼーゼマンだけでなく医師までもが最初は「やせこけた」程度で済ませるのがプラスに働いている。ハイジの台詞も感情のこもっていない棒読みであることが、ハイジの精神的疲弊を明確にして見る者の心を痛める。ここまでやりゃ誰だって「幽霊の正体はハイジ」と感じるだろう。
 そして、夜のシーンとなりハイジが山小屋に帰った夢を見るのだから確定だ。あとはどうやってハイジの精神的疲弊が発覚するかだが、ここで医師の存在を上手く利用している。「これは私の領分だ」とゼーゼマンに告げた医師は、ハイジを寝室に戻して診察を開始する。この診察でもハイジは最初は気丈に振る舞おうとするが、限界が来て泣く。ここも名場面だ。
 そして医師がハイジの病状をゼーゼマンに語り、治すには今すぐ山へ帰すしかないと告げると、ゼーゼマンも最初はクララのことを思い反対する。ロッテンマイヤーも同じ反応をするが、ここれで同じシーンの繰り返しではなく名台詞欄のようになったのは秀逸だ。
 そして名場面欄へ流れ、その後にクララが「真実」を知りやはり反対する。だがここでの差別はクララが「今度は自分が山へ行く」と決心したことであり、いよいよここで物語のラストへ向けた伏線が張られるかたちになる。これはゼーゼマンやロッテンマイヤーの反応との差別点という意味だけでなく、物語全体としての方向性が定まった瞬間でもあり、名場面欄をどっちにするか最後まで悩んだシーンだ。
 ハイジはきれいな服を着て、ゼーゼマン邸の一同に見送られてセバスチャンと共に帰郷する。こうして第三部の展開が本格始動するのだ。

 そしてゼーゼマン邸の面々とは、しばらくお別れだ。

第34話「なつかしの山へ」
名台詞 「お嬢様、いつでも…いつでもまた帰ってらっしゃいよ。山が嫌になったら、また…」
(セバスチャン)
名台詞度
★★★
 マイエンフェルトで汽車を降りたハイジとセバスチャンは、デルフリ村へ行くという男の馬車に便乗して村を目指す。そして村に着くと、ハイジはもう待ちきれずセバスチャンに別れを告げて山へ向かって走ろうとする。そのセバスチャンがハイジを引き止め、ハイジの肩に手を置いてこのように言う。
 セバスチャンがハイジに掛けた最後の言葉として強印象だ。汽車の中で彼が語ったように、ハイジが来てからの生活は楽しいものであった。その楽しい一時をくれた少女を、彼は彼なりに愛しているし、今後を気にしているのだ。そんな彼の口から出たハイジへのこの別れの言葉は、彼の嘘偽りのない本音であり、ハイジがまた自分達のところに来ることを心から願っての言葉であろう。
 そしてこの「アルプスの少女ハイジ」という物語では、「おっさん」というキャラは殆どいない。このセバスチャンとフランクフルトの医師くらいのもので、ゼーゼマンは「おっさん」というにはちょっと若いだろう。医師はまた「おっさん」キャラとは違う地位におり、物語唯一という「おっさん」が最後の最後で印象深い台詞を言うのは、この歳になって見るととても好印象である。
 この台詞に対してのハイジの返事は、「ありがとう」と言う感謝と、「決して山が嫌にならない」という彼女にとって当たり前の事実と、「クララによろしく」という大事な一言だ。だがこのハイジの言葉も、この台詞によって引き出されたと言っても過言ではない。こうしてゼーゼマン邸の誰かとハイジの最後のやり取りも、この台詞によって印象が強くなったのだ。
名場面 再会 名場面度
★★★★★
 ハイジは「おばあさん」に白パンを届け、ブリギッテに元気な顔を見せて皆を喜ばせると、ハイジは一直線に「おじいさん」のいる山小屋を目指して駆け上がって行く。ゼーゼマン邸で着せられたドレスも既に脱ぎ捨てていて、下着姿で「おじいさん」と対面しようというのだ。森を抜け、山小屋が視界に入る。ハイジが「おじいさーん」と声を挙げるのをきっかけに、BGMに主題歌が流れる。次から次へと流れる山小屋の風景、ハイジの笑顔のアップ、近付く山小屋…もう一度ハイジが走りながら「おじいさーん」と叫ぶと、ヨーゼフがハイジに気付いて掛け出す。そのヨーゼフの声にここで始めて姿を現した「おじいさん」が厳しい顔を上げる。ヨーゼフはハイジを押し倒し、しばしのじゃれ合いタイムだ。ヨーゼフの吠え声に気付いて外に出てきた「おじいさん」は、目の前で起きている事を見て驚きの声を上げる。ハイジが「おじいさん」に気付くと、「おじいさーん…」と叫んで彼に駆け寄る。「ただいまー」と飛び込んでくるハイジを、彼はしっかり受け止め「お前は…ハイジ…ハイジ!」と言う。ハイジは「おじいさん」の胸の中で泣き続ける。その回りを、ヨーゼフが駆け回る。
 このハイジと「おじいさん」の再会を、今話では最後の最後まで引き延ばした。これはものすごい感動的ではあるが、この構成は一歩間違えると白けてしまう難しい状況だ。最後まで引き延ばしたが為に、「おばあさん」やブリギッテとの再会を先にやることになってしまい、それと同じことを繰り返せないだけでなく、長引かせたりするだけでそれが前の繰り返しになり「余計なこと」になってしまう危険性を孕んでいたのだ。
 だから説明は長かったが、このシーンはとても手短である。短いシーンに様々な要素を詰め込んで長く感じさせるが、決してそれにしつこさを感じさせない「バランス」がうまく出来ている。例えばハイジが山小屋に掛けて行くときに、ハイジの記憶にある山小屋内部の光景が出てくるが、これは本の数カットでとても短いのはうまくやった。何もしなければ物足りないし、余計にやればしつこい、その間をうまく縫っていると感じた。そしてハイジと「おじいさん」の対面も二人に殆ど語らせず、ただ抱き合うだけ。その前のシーンで「おんじはハイジがいなくなって余計に気難しくなった」という情報が視聴者の耳に入っているからこそ、二人が抱き合うだけでその「絆」が再現されてこの再会劇が感動的になったのである。どちらかが余計な台詞を言えば、このシーンは瞬時にぶち壊されただろう。本当に上手く作った。
 シーンそのものについてはもう言うことは何もない。お互いにもう会えないものと思っていた二人の再会…それだけで十分だろう。第三幕名付けて「再びアルム編」での最大の見せ場はここだ。
 

 
感想  今回はハイジがフランクフルトからアルムの山小屋へ帰る、たったそれだけの話である。だがたったそれだけとは思えない程長く感じる話であっただろう。前半はハイジとセバスチャンの旅行を通じて、ハイジの山への思いだけでなくクララへの思いもちゃんと表現される。それだけでなくハイジを失ったクララの悲しみもキチンと描かれる。そして名台詞欄のように、セバスチャンのハイジに対する想いというのもキチンと描かれる。こうしてフランクフルトでの話は完全に終わりを迎える。前半は「別れ」の話なのだ。
 そして後半は「再会」へと話が流れて行く。ハイジとアルムの自然の再会というのを「背景」として、「おばあさん」との再会劇に時間を割き、「おじいさん」とは手短に濃厚にというバランスが秀逸なのは、名場面欄で語った通りだ。「おばあさん」との再会は、以前に「おばあさん」が白パンを食べたいと語っていた伏線回収として重要なだけでなく、「おばあさん」にとっていかにハイジが大事な存在かという点を復習するためにも重要なポイントだ。「おじいさん」との再会は、もうお互いに無くてはならない存在なのが前提だから、あのように手短でも感動の名場面となる。それだけでなく、名場面欄で書いたように「ハイジを失ったおじいさんがさらに気難しくなった」という事前情報が、このシーンを盛り上げる要素のひとつになったのは言うまでもない。心の何処かに「おじいさん」が臍を曲げて「帰れ」と言うかも知れないという要素があったからこそ、そうならなかったことで感動するのだ。ま、ハイジがドレスを脱いで下着姿で帰ったのはそれを防止するという好判断だったのだろうけど、あの状況なら「おじいさん」はハイジがどんな姿でも受け止めた事だろう。
 ハイジの帰りの旅程は往路と同じ、この地図の通りのはずだ。フランクフルトから乗った汽車は恐らくベルン行きの夜行列車で、明け方にバーゼルでリヒテンシュタイン経由でマイエンフェルトに行く汽車に乗り換えたのだろう。そう考えれば劇中で描かれた汽車の光景と、ハイジの足跡は見事にかみ合う。しかし食堂車、羨ましいな。もう日本じゃまともな食堂車はないからねぇ。

第35話「アルムの星空」
名台詞 「ずっとここにいるわ、私。だってここが私の家なんだもん。私の家よ。そうでしょ? ねぇ、おじいさん。そうでしょ?」
(ハイジ)
名台詞度
★★★
 「おじいさん」がゼーゼマンからの手紙に目を通している間、ハイジは樅の木の音を聞いていた。そして手紙を読み終えた「おじいさん」に、「なんて書いてあったの? ねぇ、追い出された来たんじゃないでしょ?」と問う。すると「おじいさん」は「お前には山が一番良いと書いてあった」とした上で、「お前は本当にわしと一緒にこの山にいられるか?」と問う。その言葉にビックリしたハイジはこう返答する。
 これはハイジの嘘偽りない純粋な返事だ。「おじいさん」を喜ばせようとして考えた言葉ではなく、一瞬驚いた表情をしたあとに即答した形だ。それを瞬時に理解した「おじいさん」は「そうだとも…そうだとも…」と呟いた後、かすかに涙ぐむ。この台詞にはあの堅物の「おじいさん」ですら泣かせるパワーがあることは、大人になって今の自分の状況での視聴だからこそとても印象に残る。
 何てったって、これは物語が名場面欄参照だが、「おじいさん」はもうハイジが帰ってこないと思っていた。彼はハイジがデーテに騙される形でフランクフルトに連れて行かれた事を知らないので、都会での生活はハイジの希望だと思っていたのだ。その「出て行った」とばかり思っていたハイジが「ここは自分の家」だと強く訴えてくれる、彼にとってこんな嬉しいことはないだろう。
 私も実はこんな構図に、心当たりがあるからこそこの台詞がとても印象に残った。私だったらハイジにこう言われた瞬間、当人の目もはばからず泣いてしまったと思う。やっぱ「おじいさん」は男だなぁ。
名場面 干し草のベッド 名場面度
★★★★
 ハイジは久々に「山小屋」の中に入る。中は何も変わっていないのにハイジは大喜びだが、ひとつだけ違う事があった。屋根裏にあるはずの自慢の寝床である「干し草のベッド」が姿を消していたのだ。
 屋根裏を見回して「ないわ…」と呟いたハイジは、「私のベッドがないわ」と叫びながら梯子を下りてくる。「おじいさん、ベッドがないわ」と問うハイジに、彼は「実は片付けてしまったんだ」と答える。「どうして?」と問うハイジに「実はその、あんなに喜んで出かけていったお前が、もう帰ってくるとは思っておらなかったのだ」と答えると、「おじいさんは、私がもう帰ってこないと思っていたの? 本当にそう思っていたの?」とハイジに問い詰められる。「だがな、お前がデーテや街を好きになって、山やヨーゼフやペーターのことを忘れてしまうなんて、とても信じられなかった。これも本当の事なんだよ」と「おじいさん」が答えれば、ハイジは感激して「おじいさん!」と声を上げる。「そしてハイジはここに戻って来た。これは夢じゃない、本物のハイジだ」と言いながらハイジを抱き上げると、ハイジは喜んで「おじいさん」に抱き付く。そして彼は新しいベッドを作ろうと声を上げる。
 ここで始めて、ハイジが不在だったときの「おじいさん」のハイジへの思いが明かされる。それはハイジがデーテに騙される形でフランクフルトへ連行された事を知らないからこその「喜んで出かけていった」という誤解と「だからもう帰って来ない」という寂しい気持ちだ。その一方で「おじいさん」はハイジに絶対の信頼を置き「帰って来ないにしても自分達の事を忘れるはずがない」という確信があったのだ。そしてハイジがその通りに帰ってきたという喜びは彼の台詞から伝わってくるだろう。
 だが、「もう帰ってくるとは思えない」という気持ちは、家の中にあるハイジとの思い出を見るのが辛くなる原因だったはずだ。だから彼は耐えられずに「干し草のベッド」を片付けてしまったのだろう。もしハイジが帰ってきたら、それを見て悲しむと言うことに思い及ばずに。
 だがその「おじいさん」の本心は、ハイジのそんな気持ちを吹き飛ばすだけの力があった。そんな構図をここに上手く描いている。そういう意味でとても印象に残ったシーンだ。
 

 
感想  「アルプスの少女ハイジ」でこんな物語がゆっくり進んだことはあっただろうか? よく見ると今話は夕方から夜に掛けての僅か数時間の出来事だ。前々話から一話当たりの劇中の経過時間がどんどん短くなっている。前々話は多分20時間は経っていないし、前話は27時間くらいの出来事と思われる。そして今話は長く見積もっても17時頃から21時頃までの出来事だ。
 冒頭では前話ラストシーンの繰り返しから始まるが、これはさらに短縮してあくまでも「次のシーンに流すため必要な部分」だけに留めてきた。だからその後の流れがとても良かった。再会した二人が言葉を掛け合い、樅の木の音を聞き、「おじいさん」がフランクフルトで何があったかを知り、名台詞欄、名場面欄と流れ、ペーターの口笛が聞こえたところで前半が終わる。ここで話を切ったのもうまく、前半に様々な「再会」を挿入したので後半は同じ再会でも少し方向性が変わるということが明確になって良かった。そしてペーターやヤギたちの再会、ユキがあり得ないほど大きくなっていたり、シロが妊娠していたりと再会の中にも「変化」があることはCMタイムで区切ったところを境に、うまく差別化出来たと思う。
 そして様々な再会劇を見せつけたところで、夕食のシーンではハイジが我を失ってフランクフルトでの不満を語ったり、突然ペーターが来訪してきたりと忙しい展開だったが、最後はハイジが久しぶりに気も強く寝ているシーンで終わる。この終わりのシーンはハイジにとっての慣れない生活での苦労が終わったことを上手く示唆しており、サブタイトルの「星空」を効果的に使って彼女の安堵を示す印象的なシーンのひとつであろう。
 しかし、妊娠したシロを見て「食べ過ぎ」はないだろうに。まぁたしかに、電車の優先席の妊婦の絵が「満腹で動けない人」に見えることもあるけど。それより下にキャプを示しているシーン、第2話の使い回しなどではなくちゃんと描き直しているのは感激だ。今の忙しいアニメなら間違いなく使い回すだろう。よく見ると背景だけでなく、シーツのしわの位置や膨らみ具合が違う。

第2話 今話
似ているシーンを見比べてみよう。

第36話「そして牧場へ」
名台詞 「燃えてる…燃えてる。ペーター、燃えてるわ!」
(ハイジ)
名台詞度
★★★
 アトリを追いかけて山の上の氷河湖まで登ってきたハイジだったが、あっという間に夕方を迎えてしまう。ペーターがハイジに景色を眺めるよう促すと、そこには美しいアルプスの夕景が拡がっていた。その景色を眺めたハイジはこう叫ぶ。
 終わってみれば本話は、この台詞に行くつくように出来ていたと言っても過言では無いだろう。第3話の名台詞欄で紹介した、ハイジが山の夕景を見た感動の台詞は、そのままフランクフルト編でハイジが山を思う要素として上手く使われてきた。第28話名場面欄でハイジが唐突に山の景色に再会したときも、呟いた台詞は「山が燃えてる」で始まっていた。そして帰ってきたハイジがその思いを噛みしめるのは、やはり「山が燃えている」景色を見たことでなければならないのはここまでの展開を見れば誰の目から見ても明らかだろう。そういう形で今話はこの台詞に行くよう、物語が上手くできていたと感じさせられた。
 第3話で山の夕景を始めて見たハイジの感動は、彼女の記憶にしっかり刻み込まれていて、それが彼女にとって「山」を象徴する景色であったのだ。だからこそこの夕景を見た時に、ハイジは心の底から「帰ってきたんだ」と感じたはずだ。
 これは私の実体験にも言える。何度も語る私が見た津軽海峡に沈む夕陽は、私の記憶にしっかり刻み込まれていて私にとって「海」を象徴する景色だ。だが私とハイジの最大の違いは、まだ私はその景色に再会出来ていないことだ。旅に出るとその工程に「海で夕景を見る」というのを何度も入れているが、あの時のような美しい圧倒的な夕景にまだ出会えていない。私がそんな景色に再会したら、やはりこの時のハイジと同じ気分を味わえるのだと思う。
名場面 ピッチーを見た後 名場面度
★★★
 ハイジの留守中、ペーターはヒワの巣を発見してハイジに見せたいと思っていた。遂にそれが実現し、ハイジはヒワの巣を見ると「ピッチー」と声を掛けてなかなか離れようとしない。それでも何とか離れると、ハイジは改まってペーターに向き直り「ありがとう」と声を掛ける。照れるペーターは「よかったな、ハイジが帰ってきて。僕、これを見つけたとき、ハイジにどうしても見せたかったんだ。ハイジが見たら喜ぶだろうなと思って…」と語ると、ハイジは胸がいっぱいになって「ペーター!」と叫んでペーターに抱き付く。その勢いでペーターは転倒して医師に頭をぶつけるが、「ごめん」と謝りながら心配するハイジをよそに、ペーターはすぐ立ち上がって「平気平気」と語って走り出す。
 このシーンではペーターがどれだけハイジのことを考えていたか、どれだけハイジの帰りを待ったいたかということが上手く描かれている。ハイジが帰ってくるという保証は何処にもないのに、彼は一人で牧場に来てはハイジが見たら喜ぶものを探し、ハイジに見せたいと感じていたのだ。それはつまり、彼に取ってハイジが無くてはならない存在だと言うことであり、ペーターもこの行動を通じてその自覚が生まれたことだろう。だからこそ「よかったな」と心の底から思っている、そんな点が上手く演じられている。
 もちろん、ハイジはその気持ちを素直に受け取り嬉しくて仕方が無いのは言うまでも無いだろう。そしてそんな気持ちを素直に受け取って喜ぶハイジの姿に、ペーターはさらに喜ぶ、こんな二人の「互いにとって無くてはならない」という関係を上手く描いた。
 それだけなら名台詞欄シーンを差し置いてまで名場面欄に選ぶことはしない。その二人の関係を淡々と描くのでなく、ペーターが転倒して頭をぶつけるところがこのシーンの面白いところであり、他のシーンと差別化して印象的にしてしまったポイントだ。これでハイジが心配するもペーターが気丈にも立ち上がることを滑稽に描くことで、ペーターの嬉しさがさらに強調されるだけでなく「面白いシーン」としても視聴者の印象に残るのだ。
 そしてこのシーンを面白くて印象的にしたのは、そのような場面構成だけではなく、このシーンを演じた二人の声優さんの演技力も見逃してはならない。ハイジの心境変化もキチンと心がこもっていたが、何よりもここはドロンジョ様によるペーターの心境変化や嬉しさの演技が秀逸と言わざるを得ないところだ。
 

 
感想  今回は正直言って何も起きない。サブタイトル通りハイジが山の牧場に「帰る」というそれだけの話である。今回はどうやって二十数分も掛けて名台詞欄の台詞に持って行くか、それだけだと言っても良いだろう。本当な名台詞欄シーンが名場面となりそうだが、名場面シーンは印象度ではそれを上回った。
 特にハイジが山のひとつひとつに「再会」し、「ただいま」をキチンと言うのが彼女の「ここに戻りたかった」感が強く出ていていい。そして名場面欄と来たら、そのまま行けば「山が燃えてる」が第3話と同じになってしまうと多くの視聴者が気付いてしまうだろう。そこを見計らって、アトリが迷子になるというこれまでに無い要素を加え、それによって新しい絶景スポットを二人が見付けるという物語は、本当に上手く作ったと感心する。いまどきの忙しいアニメならダイジェストで第3話を繰り返しとっとと次の展開に進みそうだが、これに1話丸々使えるということがプラスの方向に作用したと思う。
 その合間を縫って「おじいさん」が村へ買い出しに行くシーンが描かれるが、ここでは彼が人前で笑ったり自分の気持ちを表すなど、堅物さが消えて行くことが描かれる。この「おじいさんの変化」という物語も、ここで本格的に動き出した形だ。
 今話でハイジとペーターが発見した湖は、間違いなく氷河湖だ。その証拠に湖に氷河が注いでいる光景も描かれており、地形も氷河地形独特のU字谷として描かれている。これらについては「アルプス物語 わたしのアンネット」でも考察しているので参照されたい。

第37話「山羊の赤ちゃん」
名台詞 「お手紙読みました。私も元気です。ヨーゼフは寝ています。早く来て下さい。待っています。」
(ハイジ)
名台詞度
 劇中の「おじいさん」だけでなく、視聴者も思ったことだろう…。

…それだけかいっ?

名場面 「おじいさん」の決意 名場面度
★★★
 ある日の夜、ハイジはクララのおばあさまから頂いた本を夢中で読んでいる。「おじいさん」が声を掛けても聞いているのかどうか解らない、生返事だけだ。ハイジが意味の分からない言葉に行き当たると、「おじいさん」は優しくその意味を教えてくれる。そんなハイジを見て「おじいさん」は立ち上がり、パイプに火を付ける。そして「ハイジ、学校へ行きたいかね?」とハイジに問う。だがハイジはこの質問をまるで聞いておらず、「なんか言った?」と返す。「おじいさん」が「あ、いや…」と返すと、「そう」と言ってハイジはまた本の世界に戻る。そのハイジに「そろそろ寝なさい」と声を掛けるが、ハイジはやはり夢中で「もうちょっと」と声を上げて本の世界に戻る。「おじいさん」が本を覗き込み、思考に耽る。
 本話は前半と後半でテーマが分かれており、その後半の最初のシーンでかつ後半のテーマとしての最初のシーンがこれだ。「おじいさん」のフランクフルト編導入部までのハイジへの偏愛を思い出して欲しい。彼はハイジを愛する余り「かたときも手元から離したくない」という屈折した愛し方をしていた。そしてその愛し方は間違いであり、その間違いによりハイジを失うという物語を演じてきたのは多くの人の心に残っている事だろう。
 そして今話の後半は、そんな「おじいさん」の変化が描かれる。彼が変わったきっかけは前述した失敗談もあろうが、それよりもフランクフルトで変わったハイジを見せつけられたことにある。字を読み書きし、本を読むことで他の世界への興味が湧き、それによりハイジ自身の世界観が拡がっている。このハイジの変化は自分の養育では出来なかった事で、これからも自分の手でそれを拡げて行くことは出来ないということを、彼は見せつけられたのだ。
 その結果、ハイジをこのままこの山小屋に閉じ込めておくのは大きな誤りだと気付く。ハイジの世界観の拡がりを止める事も不可能で、ハイジが外の世界に興味を持っているならそれに応えるのが本当の愛情だ。彼はそう気付いてその手始めに「ハイジを学校にやる」ことに決めたのだ。それがハイジが例え口先では嫌がるとしてもハイジが本来望んでいる道であり、ハイジのためと気付いたのだ。
 つまり、「おじいさん」はハイジの「成長」を目の当たりにし、さらに成長させることこそが自分の役割だと気付いたのである。そしてそれだけでなく、今話の展開を見ているとわかるのだが、その上でハイジの繊細な心を傷つけてはならないとも感じたのである。こうして「おじいさん」は本当の意味でハイジに心を開いて愛することを始めたのだ。そしてこれが、村人達への姿勢の変化に繋がることだろう。つまり「おじいさん」にも変化が訪れたのだ。
  
感想  今話辺りからアルムに戻ったハイジの日常に入って行くが、今話では前半で「ハイジの変化」が描かれ、後半ではこれを受けて「おじいさんの変化」が描かれる。ハイジの変化は「フランクフルト編」が語られてきた事の復習というより、フランクフルトでの変化を「おじいさん」やペーター一家の前で演じるというのが目的である。字を読み書きし、同時にクララという病弱の少女と接した来た経験から「困っている人(おばあさん)を助ける」という行為を実行し、当人を心の底から喜ばせる。そしてハイジがどうやって字を覚えたのか、前半ラストで「おじいさん」がハイジに問いただすと物語は後半の「おじいさんの変化」へと進む。でもハイジは正直だから、先生に字を教えられても全然ダメで、「おばあさま」の力があってこそという事をキチンと説明し、それによって「おじいさん」もハイジの変化の原動力のひとつが「本」であると知る。これはポイントとなるところだ。
 そして後半、名場面欄シーンでハイジの変化を見た「おじいさん」の決意が描かれ、その決意に従って「おじいさん」が行動する。ヤギに赤ん坊が生まれることはその過程で必要なスパイスであり、悪く言えばついでのことでしかない。「子ヤギを売ってその資金で家を借りる」という計画を立てた「おじいさん」だったが、ハイジが「子ヤギを売らないで」と泣いて懇願すれば必死の努力を覚悟でそれを決めてしまうのだから恐ろしい。もうハイジをヤギか犬と同じに見ているのでなく、人としてしっかり成長させてやる必要があるという決意と覚悟の行動であることは誰の目から見ても明らかだろう。しかし、ここまでサブタイトルと無関係の話が本題だとなぁ…でも小さな子どもが見ればそこだけが印象に残るんだろうな。
 そして家を貸すの貸さないので「おじいさん」と揉めていたあの人は、よく声を聞いたらボヤッキーじゃありませんか。「アルプスの少女ハイジ」のチョイ役をやっていたとは、知らなかったなぁ。

第38話「新しい家へ」
名台詞 「ぺーたーったら、あんなに約束したのに…。もし来なかったら本当に針千本呑ませちゃうから!」
(ハイジ)
名台詞度
 詳細はな場面欄に譲るが、今回のハイジが取った行動「友を信じて待つ」という一貫した行為は、是非とも多くの子供達に見て欲しい。
 でもこの台詞を吐くハイジ、怖い…。
名場面 ペーター学校に到着 名場面度
 あれほど約束したペーターが何故学校へ来ないのか、それが気になって勉強に身が入らないハイジに教師が声を掛ける。そのタイミングで教室の窓に顔色の悪そうなペーターがひょっこりと顔を出し教師が驚くと、窓の外のペーターは声にならない声を上げてその場に倒れ込む。何があったのかと心配になり掛け出すハイジ、それに教室の子供達が続く。外ではペーターが腹を抱えて座り込んでいて、ハイジが声を掛けると「マイエンフェルトから走ってきたんだ…あいたたたたた…横っ腹が痛いんだよー」と訴える。ハイジが「大丈夫?」と問うても頷くことしかできない。ハイジが「なぜマイエンフェルトに…?」と問うと、都合良くペーターに用事を言いつけたおばはんが出てきて、代わりに事情を説明する。ハイジはペーターが約束を破ったわけではないと知り笑みを浮かべ「よかった!」と抱き付くと、教室の子供達が二人を冷やかす。「何よ嘘つき! ペーターがすぐ約束を破るなんて! 針千本呑ますわよ!」とハイジが怒鳴り、子供達はその勢いに圧倒される。
 一連の学校シーンでは、ハイジのペーターへの信頼が上手く描かれている。同時にペーターは約束通りに学校へ来ていたのだが、その後が上手く行かずに使い走りをさせられ、その先では「お礼」として食事をおごられ、と本来ならペーターらしい役回りだが今回ばかりは悲惨という事が描かれる。
 ハイジは他の子供達がペーターをバカにしても、一貫してペーターを信頼し続け、ペーターは来ると周囲の子供達に言い返していた。これは子供達にとって出来そうで出来ない、しかも大切な何かであるはずだ。友を信頼し待つというこのハイジの行為、これは多くの子供達に見て欲しいシーンだ。
 

 
感想  今話は引っ越すだけ。何も話が進まない。名台詞も名場面も「友を信じて待つ」というテーマはとても大事で、今の子供達にキチンと伝えたい重要なテーマだが、「アルプスの少女ハイジ」という物語としては完全にサブ展開なので★は1個ずつとした。
 今話はともかくハイジのテンションが高すぎる。山小屋を後にして振り返るところまでは静かだったハイジが、「おばあさま」に挨拶する辺りから暴走を始める。新居に着く頃にはその暴走は止まらず、自分の部屋を見て大袈裟に感激したり、家を探検するだけでなくペーターを脅かしたり、ペーターに学校へ行くよう約束させるシーンでは有無を問わさずに約束のポーズを勝手に始め、相手の意向一つ聞かず約束させてしまう。この暴走は学校シーンでは「ペーターへの信頼」という良い意味に変わるからこれがまた面白い。
 対してのペーターは、完全にハイジに振り回されっぱなしだ。だが彼もその中から「雪で歩きにくくても学校へ行かねばならない」と感じたのは、ハイジという友の存在があったからだろう。だが彼が学校に着いてしまうと…今度はハイジではなく今話限りのおばはんやおっさんに振り回され、やはり自分の思い通り行動が取れない役回りへ変化する。今話のペーターはとことん損な役回りで、朝学校へ行きたがらないシーンとともに、のび太とタブるところが多かったように感じる。声も同じドロンジョ様だし。
 しばらくはこんなまったり展開が続いた記憶がある。このハイジがフランクフルトに帰ってからクララが山に来るまでの展開は、どうも印象が薄くあまり記憶に残っていない。

第39話「がんばれペーター」
名台詞 「ええっ? しっかたないなぁ。おばあさん、きょうは…ええっと、ええ…よみにいく…や…ええ…やくそくでしたが。えっと…ふぶきが、つよくなっていけません。はれてゆきが…うっ…ハイジの字は特別読みにくいよ…えっと…ゆきがかたまつたら、かならすゆ…きます。まっていてください。」
(ペーター)
名台詞度
★★
 吹雪が強いある日、ハイジは「おばあさん」のところへ行って本を読む約束であったが、吹雪のため行く事が出来ない。ハイジは心を痛めてペーターに「おばあさん」への手紙を託すのだが…ペーターの一家の中では字が読めるのはペーターだけ、そのハイジが書いた手紙を「おばあさん」のために読み上げるのがこの台詞だ。
 これはもうドロンジョ様の名演技の勝利と言うしかないだろう。「仕方ないな」が「しっかたないなぁ」になっている辺りや、途中で「字が読みにくい」と愚痴る辺りでペーターのキャラクター性を上手く出しているように感じた。そして、手紙の読み上げも「読みにくい字を読む」という演技が上手く入っている。正直、文字だけでは表現出来ない素晴らしい台詞だ。
 この台詞の途中で、ひとり「おばあさん」を思って窓の外を眺めるハイジの姿に画面が切り替わるのも、彼女の優しい気持ちを上手く表現していて、この台詞を盛り立てている。
名場面 ソリ大会 名場面度
 そっか、「わたしのアンネット」の第2話とか第38話は、これが元ネタだったのか!
 本筋とは関係ないが、このソリ大会も少年達がソリを操る姿がとても迫力を持って描かれていて印象的だ。そしてポイントは、ペーターが圧倒的勝利で「めでたしめでたし」とせず、名もない少年と同着で1位という結果にした点だ。ペーターのキャラクター性を考えると、ぶっちぎりで1位になるのでなく頑張ってこその同着首位だからこそ、「らしい」と思う。
  
感想  今回も特に何も起きない。物語の本筋部分に全く動きはなく、今回はサブタイトルに偽り無しでペーターのキャラクター性を使った物語が展開する。前半の学校シーンやハイジが「おばあさん」に手紙を書くシーンはペーターの「勉強が苦手」という面を浮き彫りにして、それを受けて次の展開では「だが手先は器用」というペーターの得意分野を明確にする。そのペーターの得意不得意が明確になったところで、ソリ大会の話を引っ張り出して「ペーターが自分でソリを作って大会に参加する」という展開に持って行く。今話の主役は紛れもなくペーターだ。
 だが物語の主役に登ってきても、このキャラクターは「喋るのが苦手」という設定はちゃんと忘れられておらず、口下手で比較的無口なのも変わらない。今話のペーターは他の話に比べたら口数は多い方だが、この手の物語の主役にまで引っ張り出されたという観点で見ればやはり台詞は少なめだ。だからこのキャラは、登場頻度の割に名台詞欄に上がる回数が少ないのだ。
 そして名場面欄にも少し書いたが、ソリ大会の結果が非常に心憎い。ペーターが優勝という「今話の主役に花を持たせる」という趣旨と、「簡単には勝つはずがない」というペーターのキャラクター性の中間を上手く取り、「名もない少年と同着優勝」という結果に落ち着かせた点だ。多分これでペーター一人が優勝していれば、話が出来すぎているだけでなく「ペーターが簡単に勝った」という印象がついてしまい白けたことだろう。かといってペーターが2着以下であれば「今話の主役」に花を持たせることがなく、ハイジの喜びも中途半端で盛り上がりに欠けるところだっだろう。この絶妙な結果がこの物語を印象付けたのは確かだ。
 そしてここでペーターが木工を覚えるのは、たしか何かの伏線だった記憶があったけど…違ったかな?
 しかし、今話のペーターものび太とダブるところが多かった。声が同じドロンジョ様のというだけではない、勉強苦手で成績は悪いが手先が器用な点はのび太との共通点だろう。のび太は手先が器用だからこそ「あやとりが得意」という設定があるのだし、器用だからこそドラえもんが出した未知の道具をホイホイと使いこなせるのだ。

第40話「アルムへ行きたい」
名台詞 「そう…じゃあ、先生がいけないとおっしゃったら? 私、身体のことで行きたいんじゃないの。ハイジに会いたいのよ。」
(クララ)
名台詞度
★★★
 クララの医師が「行き先を決めていない旅行」に行くと聞き、ゼーゼマンはその旅行の行き先をアルムにしてクララが行けるかどうかを見てくるように勝手に決めてしまう。だが旅先を勝手に決められて納得がいかない医師をよそに、ゼーゼマンが医師がアルムへクララが行けるかどうか視察に行くと説明する。だがクララは沈んだ表情で、ゼーゼマンにこう訴える。
 これはクララの本心である。アルムへは身体を治しに行きたいのではない、ハイジに会うのを目的に行きたいのだと。アルム行きの目的が「クララの治療」にいつの間にかに変わってしまったのは、ゼーゼマンがクララを山に行かせるための建前であり、その建前がいつの間にか目的と化してしまったからだ。だからクララは父に再確認する、「自分が何故山へ行きたいのか」を。それがこの台詞の後半部分であり、この台詞の本来の趣旨で、視聴者も「なぜクララが山へ行くのか?」という目的を再確認することになる。
 そして前後が逆になるが、この台詞の前半ではクララが最も恐れている事が語られている。それは医師によるアルム行きの許可が出ないことだ。自分がアルムに行けないなら、ハイジに会えない、そしてこの街であんな辛い思いをしたハイジをこちらに呼び出すわけにも行かないというクララの苦しみだ。このクララの思いはゼーゼマンも了解しているからこそ、彼はこの前半の質問に即答出来ない。
 そしてこのクララが語る自分の想いの強さに、考えを変えさせられた人間が医師と言うわけだ。医師は本当は仕事を忘れて全くの私用の旅をしたかったに違いない。だが彼のハイジに対する姿勢を見ればわかるように、子供好きで優しい医師はこのクララの思いを無視することは出来なかったのだ。医師はここで始めてゼーゼマンの意見に乗り、アルムへ行ってクララが行ける場所かどうか視察すると決断した。こうして話は「医師によるアルム視察」へと流れるわけだが、気乗りしない医師の心を改めさせ、物語がそちらへ向くように舵を切った台詞はまさにこの台詞だといって良いだろう。
名場面 クララが来る! 名場面度
★★★★
 本話のラストは朝の山小屋だ。いつものようにペーターがヤギたちを連れて山を駆け上がって来るのを、ハイジは家の前で待っている。ペーターが口笛を吹きながらやってくると、ハイジは「私の手紙出してくれた?」と問うと「出した」と返事が来て、ハイジは安堵の表情を浮かべ「今度はちゃんと読んでね」と独り言を語る。だがペーターはそんなハイジを見ると笑みを浮かべ、封筒を差し出すと「クララから手紙だよ」と告げる。ハイジは手紙を受け取り大喜び、早速封を切って読み上げる。その中には「私のお医者様がハイジのいるアルムへ行きます」と書かれており、「へぇー! 先生が来るんだって!」と言うとハイジは「おじいさん」のところへ走り、「クララがお医者様とここへ来るのよ」と告げる。そして手紙にあったお土産の話となり、ペーターや「おじいさん」も含めて大笑い。「よかったな、ハイジ」と「おじいさん」が言うと、ハイジは心の底から喜んで辺りを駆け回って喜ぶ。
 このシーンはナレーターが解説するまでもなく、ハイジが「クララがお医者様と一緒に来る」と勘違いしているのお分かり頂けるだろう。今話の肝はここであり、ハイジが「クララがすぐに来る」と勘違いするという点が強調されることが一番大事で、これがないと次へ向けて話がうまく回らないのだ。
 そしてこの勘違いはどうしても、「待ちわびていたクララからの手紙が来る」という重要なシーンの中で行わねばならない。このバランスがとても重要で、勘違いを大きくしすぎるとわざとらしくなって白けるし、かといって「待ちわびていた手紙」の要素を大きくすれば勘違いが印象に残らなくなる。このシーンはそのバランスが上手く考えられており、シーンの殆どを「待ちわびていた手紙」、「ハイジの勘違い」を手短にすることで描く重点を上手く配分し、どちらも見ている者の印象に残るように上手く制御されたと思う。
 前半はそんな「勘違い」があるとは思わせず「待ちわびていた手紙」を印象的に出し、ハイジが勘違いの台詞を吐いた後もまだ「手紙」で引っ張る。そこでクララの手紙の内容を面白おかしく表現し、一瞬視聴者がハイジの勘違いを忘れかけたところで、ハイジが「クララが来る」と勘違いの喜びを爆発させるとは、本当に上手く作ったと思う。
 こうして話は「ハイジの勘違い」という不安と期待を載せて次に突き進む。今話は新展開最初の話として、以前のことを引っ張らずに次へ次へと視聴者を期待させる展開だが、それはこのシーンが上手くできているからこそ決まったといって良いだろう。
  

  
感想  今話からは新展開、いよいよ「アルプスの少女ハイジ」の最終章「クララが立った!」編に突入だ。その冒頭では「春が来た」という要素でもって、ここからの物語はこれまでの物語とは違うという事を上手く示唆している。冬の間を村で過ごした家から、あの山小屋への「引っ越し」という展開が「春」という季節設定と重なって、視聴者にこれからの物語に期待を持たせる効果が大きい冒頭シーンだ。
 そうして「ここから新展開」であることが明確にされると、物語はアルムのハイジとフランクフルトのクララの二元中継だ。ハイジがアルムに戻って以来、クララを始め物語の前面に出てこなかったゼーゼマン邸の人々が久々に物語を牽引する。ハイジをぶっ壊しておいてロッテンマイヤーはそこから何も教訓を得ていない様子で、クララの言うことに耳を貸そうとしない。対してクララはハンガーストライキという手段に訴えてロッテンマイヤーを説き伏せ、何とか話は「クララがアルムへ」という方向性へ向かう。
 一方アルムでは、クララのそんな事情も知らずにハイジが一日千秋の思いでクララの手紙を待ちわびる。このクララの返事がなかなか来ないという要素は、ハイジが勘違いするのにどうしても必要だ。のちに手紙が来たときに、嬉しいからこそ肝心な所を読み飛ばすということに説得力が生まれる。
 そして名台詞欄に繋がるようにゼーゼマンが登場し、色々あって医師のアルム視察が決まる。これがアルムへ急報されると、ハイジが「クララが来る」と勘違いする。その結果は次話のお楽しみ。本当に新展開の最初としては、心憎い演出だ。
 しかし、ゼーゼマン邸のみんなが久々に出てきて少し懐かしかった。クララはもちろん、ゼーゼマンも出てきたし医師も出てきた、ロッテンマイヤーもセバスチャンも出てきた。懐かしかったなぁって…誰か足りないような気がするんだけど。よく見たらチネッテが出ていない。やっぱ彼女はゼーゼマン邸再登場で描き忘れられる運命にあったんだなぁ。

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