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・「アルプスの少女ハイジ」エンディング
「まっててごらん」
 作詞・岸田衿子 作曲・渡辺岳夫 編曲・松山祐士 歌・大杉久美子&ネリー・シュワルツ(ヨーデル)
 オープニングはとても印象的だったが、エンディングは個人的にはあまり印象に残ってなかった。少年時代の再放送では流れてなかったのかな?
 とてもまったりした歌だ。歌詞はただ「待っててごらん、ほらあの子がかけてくる」ってだけ。オープニング同様に非常に覚えやすいのが特徴で、その単純な詩にヨーデルが彩りを添えている歌だ。このオープニングとエンディングをセットで「ヨーデル=アルプスの少女ハイジ」という方程式が頭の中に出来上がっている人は多いことだろう。
 背景画像はコミカルで面白い、最初はペーターの家のヤギが画面の中を走り回って激突するところから始まる。激突する前には何の問題もなくすれ違っていたからこそ、そこが印象に残る。後はヤギが列を成して歩くだけだが、その行列にハイジとユキちゃんが混じっていたり、ソリに乗ったハイジとペーターが混じっていたりと変化があって面白い。そして歌がヨーデルまで進むと、行列にヨーゼフのご馳走であるカタツムリが現れる。そのカタツムリが画面の左端まで進むと、これが唐突に家になって画面のヤギが全部入って行くと、窓からハイジとヤギが顔を出しておしまい。という内容だが、このカタツムリが出てきて背景画像の方向性が変わるタイミングが、曲がヨーデルになって調子が変わるタイミングと同期していて、とても印象深いところだ。
 エンディングを歌うのは大杉久美子さん、彼女はここからしばらく「世界名作劇場」シリーズのオープニングやエンディングを何年にもわたって担当するのは、多くの人がご存じの通りだろう。

・「アルプスの少女ハイジ」の総評
・物語について
 本考察では、1〜15話を「アルム編」、16〜31話を「フランクフルト編」、32〜39話を「再びアルム編」、40〜52話を「クララが立った!編」の4編に分かれているとして本作について解説をしてきた。この切り替わりとなるそれぞれ第16話、第32話、第40話を境に物語が行こうとしている場所が変化し、その章で成長する人物も変わって行くのである。

 最初の「アルム編」であるが、ここは物語の初期設定と言っていいだろう。ハイジが「おじいさん」の元に預けられるという物語のきっかけを描くと同時に、これに端を発したハイジとアルムの自然との物語を通じてハイジと「おじいさん」という劇中で変わって行く人物の初期の姿を印象付ける。ただし、それらの初期設定部分を前面に出さず、淡々とハイジと自然との関わりを通じる物語を主として進めるのは好印象だろう。その中でペーターがハイジをこの自然の虜にするための役割を上手く演じており、「おじいさん」はその世界に積極的に入るのでなく遠くから見守るというスタンスを貫く。これは物語の終盤に入ると重要だ。

 その物語で「ユキちゃん」の危機という、ハイジの頑張りを見せたところで「フランクフルト編」にコマを進めるが、この序盤では物語の舞台をフランクフルトに移動することを焦らないのがポイントだ。まずハイジがこの山で育って行くに当たっての問題点と、「おじいさん」のハイジに対する姿勢の問題点を浮き彫りにすることから始める。これがハッキリしたところで解決する時間も与えずにデーテが再登場することで、物語はハイジと「おじいさん」を引き離すという方向へ向かい出すのは多くの人が驚いた点でもあろう。このような過程を辿ってハイジがフランクフルト入りし、クララやロッテンマイヤーに出会うまでが「フランクフルト編」の前置きであり、前置き部分から本題部分も急激に物語を動かさず、時間を掛けて自然に入って行く。
 「フランクフルト編」本題部分では、ハイジを「慣れない生活での苦悩」と「クララへの思いやりや友情」という2つの心でゆさぶる。そうすることでハイジの性格をさらけ出すと同時に、ハイジが成長して行く姿をうまく描き出して行くのだ。クララの存在で人に対する思いやりの心が育ったところで、ハイジが「おばあさま」と出会うというストーリーは、ハイジが性格や情緒面だけでなく、学業面でも成長を見せることに説得力を与える。
 こうしてハイジの成長が描かれて「おばあさま」が去れば、「フランクフルト編」で語る物はもう無くなり、次の物語へとコマを進める。

 次の「再びアルム編」では、疲弊したハイジがアルムへ戻り元のハイジに戻るのでなく、「フランクフルト編」前と「変わった」点を見せつけることが主題であろう。同時にハイジがアルムに戻り元の日常に戻った事を強く印象付ける狙いがある。
 その最初に「ハイジが山へ帰る」という理由付けをハッキリさせるために、ハイジの疲弊をこれでもかという程描いたのは辛いけど印象的でもあろう。ハイジが苦しんで疲弊するからこそ、誰の目から見ても「アルムに帰る」が最適解であることを明確にするストーリーを経る点は説得力があって良い。
 ハイジがアルムに戻り、「おじいさん」やペーターだけでなく山の様々な物との「再会」に時間を費やしつつ、その過程でハイジの日常がフランクフルト前に戻ったことを上手く示唆し、同時にフランクフルト編を経た後のハイジの変化を描き出し、これが「おじいさん」の変化へと繋がるよう物語がうまく転がる。つまりこの章では「おじいさん」の成長が描かれているのだ。
 「おじいさん」の変化はハイジが学校へ行くという物語の変化を生むが、その変化により生じる物語を何話も描くほど話数が残っていなかったのも事実だ。ハイジの学校生活や、ペーターとの冬の暮らしを1話ずつ描いたと思うと、話は唐突にフランクフルトのクララに戻る。

 「クララが立った!編」ではクララの「ハイジに会いたい」という思いと、ハイジの「クララを待っている」という思いを強烈に印象付ける事から始める。だがその思いのままにすぐ再会させるのでなく、医師を登場させてクララがアルムに来るに当たっての問題点をキチンと示唆するのも忘れない。あくまでも慌てずにあるはずの問題をひとつずつクリアしながら、感動の再会へと話が進むこの展開は何度見ても頭が下がる。
 そしてクララが山へ来てしまえば、後は話は自然に転がってくれる。クララの「歩きたい」という気持ちを様々な角度で盛り上げ、同時にクララが「子供同士の世界」を知ってそこへ溶け込みたいと感じるように話を進める。その気持ちが頂点に来たところで「おばあさま」を再登場させ、代わりにロッテンマイヤーを退場させる過程を経て、クララが歩くためには何が障害で何が必要かを上手く描くことになった。そしてクララが立ち、歩くという物語の結論を得ることになる。
 そしてそれだけでなく、クララがこれまでの何不自由ない生活に気付くと共に、出来る事をやることで人の役に立てるという事を理解する物語も上手く描かれる。こうして最終編は「クララの成長」という物語で上手くまとまっていることが解るだろう。

 こうして物語は、「成長」とそれによる人々の変化を描いている。成長することや挑戦することの大切さ、それに楽しさというので一貫したメッセージとして描いている。同時にハイジやペーターとクララの友情物語としての側面もあり、また自然も多く描かれている事で、物語の「伝えどころ」は非常に多彩だと見て良いだろう。


・登場人物
 「アルプスの少女ハイジ」を今見直してみると、意外にキャラクターの数が少ないのに驚いた。物語を左右する台詞を吐くキャラクター(声優さんランキングに載せる基準)は22人、当サイト考察済み作品でテレビシリーズ作品に限定すると、これより少ないのは「宇宙戦艦ヤマト」の17人、「南の虹のルーシー」の19人、「愛の若草物語」の20人、「ふしぎな島のフローネ」の19人。途中打ち切りの「宇宙戦艦ヤマト」や、無人島が舞台の「ふしぎな島のフローネ」を別にしてもまだ人数が少ない作品はあるだろうと思われる方もいると思うが、うち9人は一度か二度しか物語に出てこない端役だと言えば「キャラクターが少ない」という意見にもご理解戴けるだろう。
 だが、それぞれのキャラクターにはちゃんと「存在理由」と「性格」が与えられており、その中で視聴者が様々なキャラクターに感情移入して見る事が出来るだろう。

 主人公ハイジは、最初はほぼ「無」からスタートしていると言って良いだろう。そこから様々な体験を経て大きくなって行くという少女を上手く描いていると思う。最初は叔母であるデーテに言われるままにアルムに来て、そこでの経験はハイジの性格に大きな影響を与えることになるが、ここでは本当に純粋に育ってしまうのが問題となる。この純粋さは「フランクフルト編」の入り口でデーテに騙されるという弊害を生み、人を疑う事を知らなかったからこそ自分の望まない将来を選択させられるという状況を上手く描いた。またここまでのハイジは様々な経験で精神的に豊かになったのではなく、経験に偏りが出る事でかえって精神的に貧しくなったという設定が「アルム編」でしっかり描かれる。
 それらは「フランクフルト編」ではハイジの欠点として描かれる。特にここではハイジの「精神的貧しさ」と、それに対するクララの「精神的な豊かさ」というのが対比される。ハイジは自然での体験は多くても、学力だけでなく童話などを通じて生まれる想像力の豊かさに欠けている事でただでさえ辛いフランクフルトでの生活がさらに辛くなるという状況を描く。同時にクララや「おばあさま」からその想像力を得る事で、精神的に豊かになって行くだけでなく、その想像力から「興味」が生まれて学力も身につくという成長を見せた。
 そしてハイジは、物語後半ではその成長した姿で物語を積極的に牽引するようになる。前半のハイジは物語に巻き込まれる事が多かったが、後半では明らかに変わっている、これも制作側が「ハイジの成長」を意図して描いたのだと思われる。

 ペーターは良い意味でも悪い意味でも「ハイジの兄貴分」として描かれている。いつも二人でいることで仲良く駆け回ることもあるが、時には対立して喧嘩する点などは年相応の関係としてとても面白い。だがこの二人の関係はよく見ていると、ペーターが上でハイジが下という関係で一貫している。ハイジはペーターに反抗することはあってもペーターを顎で使うような事はしなかった。ただペーターには「口下手」という設定があり、このために印象的な台詞が少なく「顔は覚えていてもどんな台詞を言っていたか覚えてない」という人は多いことだろう。

 「おじいさん」もこの物語では成長する一人だ。彼は「アルム編」では単なる「おじいさん」だが、「再びアルム編」ではハイジの成長を見せつけられたことで自分がハイジに対してどうあるべきかと言うことを知ることになる。そしてハイジを学校へやったり、村人と積極的に関わらせるなどの変化を見せ、この変化が「クララが立った!編」ではクララを自力歩行へと導く原動力になったのは確かだろう。もし「おじいさん」の変化が無ければ、クララはハイジと共に山小屋に住むことすら許されなかったかも知れない。

 クララは「フランクフルト編」とそれ以降では役割が大きく変わる。「フランクフルト編」では「ハイジとの対比」がその役割であり、常にハイジの対極にあったと言っても過言では無い。前述した「精神的豊かさ」の面、健康なハイジと病弱のクララ、田舎者のハイジと都会っ子のクララ、決して頭の良くないハイジと頭の良いクララ…それだけでなく「フランクフルト編」では様々な形で、ハイジの対極を演じていたのは確かだ。
 だが「クララが立った!編」では物語の主人公と言って良い立場に躍り出る。「病気で足が動かない」という設定は、「訓練次第で立てる」という物語方針を生み出し、「クララが立った!編」はそのために必要な「気持ちの変化」が描かれる事から始まる。そしてクララの苦労や頑張りを中心に物語が進んで行くことになり、クララがこの方針を果たすことで感動の名場面が生まれているのだから、主役級と言っても差し支えないのだ。

 ちなみに、本作を見るに当たって、視聴者が一番気を付けねばならないのはクララに対する認識だ。クララは車椅子に乗っているが身体障がい者ではないと理解しておかないと、車椅子に乗っている人全てが努力次第で歩けるようになると勘違いする人も出てくるだろう。クララが歩けないのは障がいを持っているからではなく、既に治った病の影響であり健全であれば歩くのが普通の少女として見なければならない。そして病が治っているのに歩けない理由が「ロッテンマイヤーによる過保護」であり、だからこそ訓練次第に歩けるようになるという認識をしなければならない。特に子供に見せるときは、この点は要注意となる。

 ペーターの「おばあさん」は素朴な年寄りというのを上手く描いている。この人の役どころは「常に他人の力を必要としている人」であり、それに従って最初はハイジが、次に「おじいさん」が、そしてクララがこの「おばあさん」の役に立つことで自分の行くべき方向を知るという感じだ。

 デーテは「主人公を引っかき回す」役であり、この物語において唯一の完全な悪役と言っていいと思う。この人の基本行動は根本的幼さから来る「押しつけ」であり、自分のやることは全て正しいと信じてそれを周囲に押しつけるというとても厄介な人だ。もちろんハイジがこの人の行動により最初はアルムへ、物語中盤ではフランクフルトへ「押しつけられる」ことにより物語が始まって進んだのだから、このキャラクターの存在価値はとても多い。デーテはハイジをゼーゼマン邸に押しつければそれで役割完了であり、二度と出番が無くなるのはとても頷ける。ハイジがアルムに帰る過程でこの人が出てきても、役も台詞も何もなかったことだろう。

 ロッテンマイヤーも物語では悪役を張っているが、その内容は「押しつけ」が存在理由のデーテとは根本的に違う。主人公が成長するに辺りその手前に立ちはだかる大きな壁としての役割を担っているのだ。ハイジはクララや「おばあさま」やセバスチャンの力でその壁の裏側を覗き込んだときだけ成長を見せるというとてもややこしい描き方で、そのためロッテンマイヤーにはハイジの成長が見えないという事で、それに応じた言動でさらに悪役視されるというロッテンマイヤーにとっての悪循環が、物語を盛り上げたのは言うまでも無い。
 対して、「クララが立った!編」のロッテンマイヤーは、最初こそは「フランクフルト編」での悪役面を引きずっていたが、「おじいさん」のペースに呑まれ始めるとその面はどんどん薄まって行く。そして「悪役」という看板を失ったロッテンマイヤーの役どころは、滑稽で常にコケにされる役という美味しい役どころだった。同時に「この人の存在がクララを甘やかせ、クララが立って歩く壁になっている」という点を上手く描き出し、誰がクララを過保護にしたのかという解まで物語の中で自然に出されるのだ。そこまで行くとロッテンマイヤーの役割は終わり、物語の要請に応じて上手いタイミングで退場して行く。

 ゼーゼマン家の「おばあさま」はお茶目なだけでなく、物わかりがよいいう気さくな老人を描いている。「フランクフルト編」ではハイジのオアシスとしてではなく、ハイジを成長に重大な鍵を握る人物として描かれる。そして「クララが立った!編」での彼女の役割はただひとつ、「ロッテンマイヤーの排除」だけである。だからロッテンマイヤーが物語から去ると、この人は画面の中で大袈裟に騒いでいるだけになってしまった。何だかんだ言ってこのキャラはロッテンマイヤーの存在で持つのである。

 他にも様々なキャラクターが出てくるが、解説が必要なのはこの辺りだろう。それぞれのキャラクターがちゃんと使命を持って物語に登場し、それが終わると自然に画面から去るという繰り返しは本当に見ていて気持ちよかった。クララがアルムを訪問した際にセバスチャンの登場は最小限で、チネッテについては存在すら忘れられていたのはその最たる例だろう。

 最後に名台詞欄登場頻度だが、やはり主人公のハイジがトップだが16/52回というのは他の考察済み作品の主人公としてはき標準的なところだろう。2位にはこれも予想通りで「おじいさん」がつけてきた。「アルプスの少女ハイジ」という物語は、主人公ハイジ以外に前話通じて出てくるキャラクターが無く、これだけ名台詞欄に名が出てくるというのは頻度の上では主人公の上を行くかも知れない(数えてみたら11/37回でハイジの方が頻度でも勝ってた)。
 その次はクララ、頻度で言えば8/29回なので順位通りと考えて良い。これも予想通りと言えば予想通りだろう。
 だがその下の少数になると驚きの結果だ、デーテは登場話数5話に対して3回登場、対してペーターは登場話数37話に対して3回、口下手な設定のキャラがここでは不利なのはお分かり頂けよう。後はご覧の通りで、無口なチネッテも一度名台詞欄に出てきたのは自分でも驚いた。

名台詞登場頻度
順位 名前 回数 コメント
ハイジ 16 主人公だから首位は当然で、頻度的には他考察作品主人公の標準的なところである。個人的にハイジの台詞で最も印象的なのは、やはり第50話でクララを罵って見せたあの台詞だろう。あれのおかげでクララは大地に立ち、歩くという目標をなしえたのだから。
「おじいさん」 11 日本アニメ界で「おじいさん」と言えばこの人を思い付く人も多いと思う。名台詞にも恵まれ物語の要所で印象深い台詞を吐いて、物語をひとつの方向に導いている。第43話の名台詞は、ロッテンマイヤーにハッキリと「お前のせいでクララがダメになるんだ」と言っているように聞こえ、とても印象的だ。
クララ もう一人の主人公、実はクララの台詞で一番印象に残っているのは第25話の「オオカミと七匹の子ヤギ」の語りなんだけど、さすがにアレは長すぎて名台詞欄に挙げられない。第46話で幸せを感じたクララの台詞もとても良い。
デーテ 上記解説にある通り、この人がハイジを「押しつける」という行為で物語が成り立っている。第18話はミンチン院長の名演が光り、大したことない台詞に重大な印象を持たせることに成功。第19話では多少強引な理論でロッテンマイヤーを言いくるめてしまった。
ペーター 主人公と常に一緒にいる兄貴分という役回りでありながら、名台詞に恵まれなかったのは「口下手」という設定による物であるのは言うまでも無い。だが物語のあちこちでドロンジョ様の演技が光っていたのも事実。個人的に気に入った台詞は第39話でハイジからの手紙を読み上げる台詞だ。
ロッテンマイヤー 登場回数の割に名台詞欄への登場が少ないのは、その役どころのせいかと思う。第22話ではハイジに山を思うことを禁じるストレートな台詞で、物語の空気を凍らせる。あのフネさんがこんな怖い女性を演じていたとは、今になって見ると驚きだ。
セバスチャン 登場回数は少ないが印象的な台詞はとても多い。名台詞欄に挙げた台詞以外でも印象に残っている台詞はいくつか出てくる。第23話の名台詞はクララへの思いを上手く垣間見せているし、第34話でのハイジとの別れの台詞はとても印象深い。
ゼーゼマン この人も登場回数の割にここへの登場頻度が高い。第33話ではロッテンマイヤーを叱りつけつつも、その信頼を垣間見せる演技でとても印象に残った。
ナレーター ハイジ以外で唯一全回登場の声だが、このナレーションは「語りすぎ」てしまう事が多く、どうにも印象が良くない。だが第4話のナレーションでは、ハイジの経験を視聴者に上手く突き付けているという点で印象に残った。。
「おばあさん」 どの作品にもいる「この人が良い台詞を言うと、他の人がもっと良い事を言ってしまい台詞が印象に残らない」という外れクジをひいた形なのが、本作ではこの人だと思う。第12話では春の訪れと言うのが彼らにとってどんなに楽しみでいるか、上手く印象付けてくれた。他にも良い台詞は沢山言ってるんだけどなー。
「おばあさま」 「Wおばあさん」が当欄に並んで出てくるとは…そして共通点は、やはり良い台詞を言うと他の人にもっと良い台詞を言われてしまう点。第28話での名台詞は、ロッテンマイヤーに対して視聴者が言いたいことを、劇中で代弁した形で印象的だ。
医師 名もない医師だからてっきり一発屋かと思っていたら、登場頻度も多くアルムに単独で乗り込んでくるとは予想外だった。第29話ではハイジとクララに必要なものを「おばあさま」が持っていることを明確にしてくれる。この台詞があったからこそ、第41話での主役級の活躍に説得力がある。
チネッテ 無表情の上に無口で喋っていた記憶が無かったが、今回改めて見てみると実に様々な表情で色んな台詞を語っているのだと再認識したキャラ。名台詞欄登場は第31話、「おばあさま」が消えたゼーゼマン邸の現実をうまくハイジと視聴者に突き付ける台詞で、見ている者を不安に陥れた。


・「アルプスの少女ハイジ」の追加考察
・劇場版「アルプスの少女ハイジ」(新作)
 1979年に劇場公開された「アルプスの少女ハイジ」の総集編、声優が代わるなどの変化はあるが、本作の雰囲気を上手く再現している。

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