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第21話 「さよならの雪」
名台詞 「最後の言葉だけは、教えられない。覚えていて欲しい、言葉のいうのは不完全なものなんだ。今、私たちがどんなに君に感謝しているか、どれだけ君を愛しているか、ぴったりの言葉はどんな辞書にも見つからないのだよ。」
(エッグマン)
名台詞度
 アンが残留を決意し、エッグマンはアンに自分の人生を変えてくれたことを感謝している旨を伝える。それに対してアンはエッグマンに「最後の言葉を教えて欲しい」と懇願するのだが、その返事がこれだ。
 今までアンにたくさんの言葉を与え続けてきたエッグマンが、アンに最後に告げたことは「言葉で伝えられない事がある」という点である。言葉というのは人と人がコミュニケーションを取るのに大きな役割を果たしているが、だがそれは万全ではないと言うことだ。それをエッグマンは「アンに対する感謝を言葉では伝えきれない」ということでアンに伝えようとする。その上で「言葉では伝わらない思い」を見事言葉で伝える唯一の方法まで見せてくれたのだ。
 それこそ「感謝の言葉の浮かばない」という言葉である。人は本当に嬉しかったり、感動したりしたときにはそれを表現する言葉が浮かばないほどの状況になるはずだ。アンもそれを知っているからこそ「その言葉が浮かばない」という表現自体が、格好の表現方法となる。だがこの表現方法は相手もその気持ちを知らないことにはどうにもならないものだ。
 その上でエッグマンは本当の「最後の言葉」を伝えていないのもポイントだ。ここで伝えるべき最後の言葉は「さよなら」だったはずだ、ここにエッグマンがまたアンに逢いたいという気持ちが残っていることを想像させてくれるのが、この前後の会話の面白いところだ。
(次点)「全てを真っ白に包む冬が始まろうとしていました。」(ナレーター)
…物語の最後、メーテルがこの解説で締めてくれる。だがこれは時節を語った物ではなく、アンの運命を指し示したものなのだろう。
名場面 アンが家を出る 名場面度
 ヘンダーソンとエッグマンがアンを引き取りたいと手紙を書き、それを読んだバートがアンにコッソリと家を出て行くように命じる。無論、アンに異論などあろうはずはなく、喜んで荷物をまとめて出て行く支度をするのだ。そして当日の朝、家を出て行こうとしたアンは皆の朝食の支度をする。食卓に皿を置くときにアンはその一人一人にメッセージを残すのだ。
 このシーンにアンがどれほどこの家族を愛しているか、どれほど恩義を感じているかが描かれている。我が儘放題の子供たちや、怒鳴ってばかりのジョアンナ、収入が少なくいつも家族とアンに辛い思いをさせているバート。だがそんなトマス家の人々にアンは恨みはなく、孤児だった自分をここまで育ててくれたということで感謝をしているのだ。そしてその感謝の心が、この先の物語の展開が決して平坦でないこと…つまりこの回においては、最終的にアンがヘンダーソンと行く事を断るというどんでん返しがあることを示唆しているのだ。
 またこの一言一言がアンがこの家の誰よりもみんなのことを知っていると言うことを示唆している。その声を掛けた言葉が全部、バートやジョアンナが忘れたままの愛情表現でもあるのだ。
感想  久々にノキンバーが物語の前面に出てきた。このところずっと存在を忘れ去られていたので、このまま忘れ去られたままになったらどうしようかとも思ったが、今回はキチンと出てきた。まぁまだどっかのジャンプやボナパルトよりは存在感は上だが…そう言えば前回の放送で、アポロが出てなかったか?
 またアンが岐路に立つ。前回の岐路ではアン本人がその分岐点を知ることがないまま、ジョアンナがこれを誰にも語らずに闇に葬り去ったという展開を取った。今回は逆にジョアンナだけがこれを知らないという展開を取った。アンも現金な物でこの話を聞くと鼻歌交じりで家を出て行く準備をするもんなぁ…ま、結局アンにはトマス家に対する「愛着」というものがしっかりとあるので簡単に家を出て行けないというのは、多くの視聴者が予測した通りだ。何てったってこの物語では、アンがストレートに幸せになる方向へは行かないはずだからだ。
 いずれにしてもここでエッグマンとヘンダーソンという「メアリズビル編」を彩った二人が退場となった。最初は「おじゃる丸に出てくる宇宙人の星野君」みたいなしゃべり方だったエッグマンは、あれよあれよというまに「普通の人」になって結婚相手まで決めてしまうとは…この物語で今のところは唯一の「当たり役」かも知れない。ヘンダーソンも初登場ではなんか事件を置こしそうな臭いを漂わせていたが、やっぱりこういう幸せな「退場」となったのはちょっと予想外だった。
 ただ物語はまだ物語の展開途中のはずである。バートが仕事を失い、アンが学校へ行けなくなるという程度の展開では済まないように感じる。最後のメーテルの解説(名台詞欄次点)を聞くとやっぱりまだアンの運命が変わるのはこれからだと思う。次の話が見逃せないわ。

第22話 「素晴らしいお客様」
名台詞 「神様が落とし物をしたのよ。それを今、拾った気分だわ。」
(アン)
名台詞度
 馬車が雪にはまって立ち往生した男、スコットを助けたことでアンは彼を茶に招待する。その席でアンがいつもの空想力とブラウニーの詩によって自分の世界を語ると、スコットはブラウニーの詩が好きだった恩師の話を始める。その恩師の名はウォルター・シャーリー…アンの父であった。それを知ったアンはフリーズするが、スコットは構わずアンがその恩師に似ていると続ける。その状況下で再起動したアンが最初に口にした言葉がこれだ。
 アンが知りたかったことの一つに「自分の両親のこと」というものがある。彼女は物心つく前に両親を失ったため、自分の親のことを何一つ知らないのだ。バートもジョアンナもそれについてはなかなか語ってくれず、メアリズビリに来てしまった今は周囲にそれを知っている人などいようはずもない。その自分が求めていたものについて知っている人間が突如目の前に現れたら…その気持ちを、衝撃を、短い言葉上手に表現した言葉だと思う。
 目の前の少女が自分の恩師が残した娘だと知ったスコットの衝撃も秀逸だ。「なんてことだ、そんな偶然があるなんて」…ご都合主義とかとか言っちゃダメですよ。
名場面 ウォルター・シャーリーの言葉 名場面度
 名台詞シーンを受け、スコットは自分の恩師のことを語り出す。病弱で学校を休みがちだったスコットは、学校の仲間達から取り残されて何もやる気が起きなかったという。そんなときスコットの家を訪れたウォルターが彼にこう語る、「誰でも必ずついてない時期があるんだよ、何をやっても他人より後れを取っているような気がするときがね。今は休み時間なんだって思えば良いんだよ、人生にはたくさんの曲がり角がある。次の曲がり角を曲がったら全く別の人生が開けているんだ」。
 この台詞を語っている間はスコットの回想シーンとなり、この言葉もウォルターの声になるのだが。ベッドに寝ている少年時代のスコットの姿が、ウォルターの背中で隠れて再び姿を現すとそれは現在のアンの姿になっている。アンが「父の言葉」をしっかりと受け止めた瞬間であるが、その大事なシーンを上手に再現したと感心してしまった。
 もちろん、これまで両親がどんな言葉をアンが知らなかったからこそのシーンである。アンがここで触れたのは、「亡き父の足跡」ではなくて「父が遺した生きた言葉」であり、父そのものに出会ったのだ。そしてアンはその父の言葉を背に、現況を打破して力強く歩み出そうとするのだ。
感想  唐突に2年の月日が流れた。でも登場人物たちはノアとジョアンナを除いて基本的に変わっていないようだ。子供たちは背が伸びただけ…ノアは年齢相応の成長をしているので一安心と、ジョアンナはこの2年ですっかりやせ細ってしまったようだ。しかしフォーレスとエドワードは学校へ行ってもあまり意味が無かったようだ、子供が大勢の子供たちの中に飛び込んだときに最初に気付くこと…思いやりの精神を得ることは無かったようだ。これで二人がDQNになるのは確定、普通の精神構造の子供ならアンが一人で家事とかをやっていれば少なくとも気に掛けるはずだ。ま、アンの話を聞いている限りおかしいのはフォーレスだけのようだけど。
 感動的なのはもう名場面欄に書いた通り、アンが初めて父に出会うことだ。父が遺した言葉はスコットという青年によって見事「生きた言葉」として娘がしっかり受け止めたのである。この言葉を前提にしていると「赤毛のアン」のオチまで見えてしまうぞ。前半でランドルフやミルドレッドまで出して「アンが取り残されている」という伏線を張ったのも上手くやったと思う。これで唐突にアンの父の話になっていたら多くの人が萎えただろうからね。
 それと今回はノアだ。もうノアが動く度に何かやらかさないかと不安で不安で…その先は来週の感想欄になるのかな?
 話が2年飛んだ今回からが、「こんにちはアン」の第二章と言っていいかもしれない。

第23話「小さな命」
名台詞 「俺は、何を探していたんだろう? (中略)そうだ、大事なものはすぐそばに…手の届くところにあったのに…。神様、俺の命をくれてやる。あの世でどんな償いでもする。ノアを助けてやってくれ!」
(バート)
名台詞度
 やっとの思いで医師から薬だけ受け取ったバートは、馬そりで家へ急ぐ。しかし途中で馬そりは横転してバートは崖下に転落。落下したバートはなんとか立ち上がってその台詞を吐きながら自分のポケットからこぼれた薬を拾い、この台詞を言い切るとその場に倒れる。
 子供が死にかけ、そのために医師を呼びに行くも突き返され、なんとか薬を受け止めがその帰りに絶体絶命のピンチに陥るという事態に遭遇してバートは目を覚ます。自分の守るべき物、自分が生命を賭けるべきもの、それに気付いて彼は立ち上がる。だが崖下でどうにもならない自分の存在に気付いたとき、彼には「祈る」ことしか出来なかった。今まで神の存在すらもあざ笑っていたような彼は、自分の全てと引き替えに息子を助けてくれと全身全霊を込めて祈るのである。
 無論この祈りは神に通じノアだけでなくバートも助かるのだが、その彼が生命を賭けた行動はちゃんと見ている人間がいたからこそ救われたのである。多分今回だけ登場であろう医師はバートの行動と思いを全て見届け、破格の条件でノアを診察したのだが、これは間違いなくバートのこの台詞が行動を伴ったものであったからだろう。
名場面 バートとジョアンナ 名場面度
 医師が帰るのを見送ったバートが玄関の扉を締めて振り返ると、そこにはジョアンナが立っていた。ジョアンナは夫を気遣い濡れた服を着替えるよう勧める。いつものような素っ気ない返事で部屋に戻ろうとするバートだが、ジョアンナはその背中に向かって涙を流しながら感謝の言葉を掛ける。一瞬立ち止まったバートは、静かに頷いて部屋に消える。たったこれだけのシーンだ。
 このシーンはジョアンナの行動でふたつの記念すべきシーンとなった。ジョアンナが頑張った夫を気遣う台詞を掛けたこと、そしてジョアンナがバートに心からの感謝を述べたことである。それに対するバートの反応にこの夫婦の悪い部分が見えてくる。直情的かつ照れ屋の二人は、感情を素直に表すことが出来ないのである。妻は素直に夫を労ったり感謝したりする言葉が掛けられず、夫もそれを素直に言うことが出来ない。だが何かのきっかけがあって「珍しく」それが成されたときには、お互いにそれを素直に受け止めることが出来ない。だから二人はいつも言い争っているという構図がこの「二人の和解」とも見えるこのシーンから見えてくるのだ。な〜んかこういう夫婦見たことあるよ、最近離婚した…(ゴニョゴニョ)。
 でもこの夫婦の面白いところは、少なくともバートが犯罪者の片棒を担がされるまではお互いに認め合っている部分もあったこと。だから離婚せずに夫婦を続けていたんだけどね。あの事件をきっかけにバートは妻を見失い、ジョアンナは夫を認められなくなって関係がおかしくなったのは確かだろう。だからこそこういう印象的な事件によってバートが目を覚まし、ジョアンナと「和解」するシーンが必要だったのだ。
感想  まずは私の展開予測が違ったとここでハッキリ言い切ってよさそうだ、「赤毛のアン」で語られたアンの生い立ちから物語を逆算すれば、ここいらあたりでバートが事故死して「双子が三組いる家」での物語になるのかと思っていたが、「こんにちはアン」では先にあった「赤毛のアン」の設定を無視してトマス家での物語を最後まで展開する気のようだ。前話で話が2年飛んで「赤毛のアン」設定から大きく逸れ、今回でその設定の違いを取り戻す方向へ行かなかったという事はそう見るしか無いだろう。ここからは私もそろそろ視点を変更し、「赤毛のアン」とは全く違う別の物語として物語を見て行くことが出来そうだ。
 そしてここで「世界名作劇場」シリーズの華でもある「主人公、もしくは主要登場人物の病気」という武器を使ってきた。私は今回見るまで「このノアの事故がきっかけでバートが事故死する」という展開を予測していた。途中までその通りに展開しそうだったので、「やっぱりな…」と思った矢先に崖上で例の医者が立っている描写になって…あれよあれよという間にバートは救出され、ノアは助かって一件落着。その上でバートが正気を取り戻すという展開へ持って行った。こうなっては確かに「赤毛のアン」設定で行くのは難しいだろう。
 前回の次回予告でバートが医者を呼ぶシーンが出てきた時に、こりゃ間違いなく描かれるなと思ったのはこれまでのバートの不摂生によって突き返されるシーンである。確かにそういう展開になったが医者があそこまでいいヤツだと…よく考えれば「世界名作劇場シリーズ」の医者に悪い人はいない。問題人物はいたとしても、相手が貧乏だろうがなんだろうが「人道的な見地」で診察してくれるひとの方が多い。例外は「母を訪ねて三千里」でフアナを診察した医師くらいしか知らない、あれはマルコが旅費を使い果たそうが何だろうがお構いなしだったから。
 しかし末っ子が死にかかろうが何だろうがあの兄弟は相変わらずだ。相変わらずフォーレスは見ていて頭来るガキだ、あんなんが実世界にいたら大人から嫌われるのは間違いないし、何より私も近付かないだろう(理由は前話感想欄を)。
 それと今回は、バートの落下距離は計算できない。自由落下ではなく、斜面を何度もバウンドしながら落下しているから。画面描写から推察すれば落下距離は10メートルはあると思う(普通なら死亡、よくても骨折などの重傷を追う高さで、吹雪の視界不良下では崖上から目視できる高さではないはずだ、あの状況で「痛かった」程度で済むならせいぜい1メートル程度からでないと…)。

第24話「クリスマスの魔法」
名台詞 「よ〜し、分かった。考えておく。約束だ。」
(バート)
名台詞度
 バートの「死亡フラグ」が確定的になった台詞だ。職探しと1人になりたい時間を求めて夜明け前に家を出て行くバート、その背中に向かってアンがクリスマスプレゼントにもらったぬいぐるみに名前を付けて欲しい旨を伝える。それに対するありきたりな返事で、バートはこう言い残して雪道へと消えて行く。
 このような物語において、主要な登場人物の内の1人が死ぬときによく描かれる設定は「約束」だ。この「約束」の内容は当人にとってはとても重要なもので、その「約束」が果たされないままその人物の死を迎えるというのは定番だろう。この台詞もわざわざ最後に「約束だ」と付け加えているが、この一言がなければ視聴者はアンのぬいぐるみに命名する約束というのが引っかからないのだ。これをわざわざ引っかかるように描いたというのは、この約束が果たされないままとという事を予感させるに十分だ。それでここまでの流れを見ていると、この台詞そのものがバートの死を予告しているという考えに行き着くのは当然である。
 束の間の幸せ、しかもその幸せが絶頂的だったが点がこれまでの「ひょっとしてこいつ死ぬんか?」という漠然とした予感を視聴者に与えていたが、それを感じた人はこの台詞を聞いて、ここでわざわざ約束を残すことでその「予感」が「確信」に変わる。そしてその「確信」を感じた人はこのシーンこそがアンとバートの最後の別れだと、襟を正して見ることになるのだ。
名場面 バートが家を出る 名場面度
 夜中とはいえもう明け方も近い時間だろう、眠れずに居間にいたバートとクリスマスの魔法が夢ではないことを確認しに来たアンが語り合う。2人はそれぞれの生き様を語った後、アンはバートに「世界の最初の日と思ってやり直せる」と告げ、これを言われたバートはアンを学校に行かせてやれなかったことを悔やみアンに今度こそまともに働いて学校へ行かせてやると宣言する。感激するアンの頭を撫で、さらに「お前は俺の家族だ」と続けるとアンはバートの胸に飛び込んで泣く。
 しばらくすると「さて、出かけるか」と腰を上げるバート、こんな夜中に彼は職探しに行くというのだ。町まで歩いていって、歩きながらいろいろ考えたいと。後は名台詞欄の通り。
 ここで前々回辺りから感じていたバートの「死の予感」が確定的になってくるだろう。バートはアンに思いの全てを打ち明け、アンを家族と同じに扱い続けることを宣言し、学校へやることも誓う。アンにとってこれほどの幸せはない。だが「世界名作劇場シリーズ」を見慣れている人はよく知っているはずだ、このような幸せは最終回間際でない限りはスルスルと逃げて行くためにあるのだと。この幸せは壊れる運命にあると分かる人には分かるシーンだ。
感想  実は前々回辺りから感じていたのが「バートに死亡フラグが立ったのではないか?」という疑念であった。だが前回の吹雪の崖から生還したエピソードを見て、その雰囲気が一瞬でかき消されてしまった。だからこその前回感想欄の記述な訳なのだが、その一方で某氏のブログに「世界名作劇場だからこそ幸せの絶頂から一気に突き落とすのでは?」というような予測を入れている私の矛盾。いずれにしろバートの周囲に漂っている「死の影」は本当なのか、それとも気のせいに過ぎなかったのか、それがハッキリするのは今回だと思って見ていた。
 今回は前々回に見えた「死亡フラグ」がハッキリ形になって見えてしまった。「死亡フラグ」が確実になったシーンは名台詞欄に回すとして、正直言ってあのラストが無くても、あの次回予告が無くても、「次回でバートは他界する」とハッキリと断言できる内容であっただろう。
 生命の危険を賭して息子を生命を救ったという武勇伝で家族だけでなく町の人々からの信頼を取り戻し、家族にプレゼントを買いたいと言えばボロボロのダンスシューズを高値で買ってくれるという程彼の信頼感は回復した。そしてそのプレゼントを得た家族の笑顔…そのトマス家の「幸せの絶頂」は今後の不幸を予感させるに十分すぎるほどであった。「世界名作劇場」でよく描かれる「不幸」は、往々にしてこのようなシーンの直後に描かれるものなのだ。
 いずれにしろ、これで物語は「赤毛のアン」でアンが語った自信の過去に合流するのは確かのようだ。

第25話「雪よりも冷たく」
名台詞 「俺は弱虫じゃない。これからは父ちゃんがしていたことは俺がやるんだ。馬の世話も、屋根の修理も、薪割りも。(中略)約束したんだ、父ちゃんと。アン…これからは俺が母ちゃんとチビ達とお前も守る。守るんだ!」
(フォーレス)
名台詞度
 父の死を知るとしゃがみ込んで泣いてばかりだったフォーレスを、アンが「弱虫だ」と責める。アンは長男であるフォーレスが泣いてばかりだから弟たちが泣いてばかりなのだと責め、その上で自分だって座り込んで泣きたい気持ちなのに自分は泣かないと宣言する。この言葉に長男は目を覚ます。そしてつい昨日まで父がそこでしていたように、薪割りを始めるがどうしてもうまくいかない。この台詞の前半部分を吐きながら。
 さらにフォーレスはつい一昨日の父との会話を思い出す。父が「自分が教えられることは薪割り位だ」と言ってたこと、「ちっぽけな勲章より家族の方が大事…それとアンも」と言っていたこと、「アンは家族がいないから自分達がいなければひとりぼっちになってしまう」ということ、その上で「これからは母ちゃんとチビ達とアンを守って生きよう」と約束したこと。そしてこの台詞の後半部分を言いながら、薪割りを成功させる。
 フォーレスは父の死をもって初めて「自分の立場」というものを思い知ったのかも知れない。いや、父にああは言われていたけれどそれを実感することは出来なかったのだろう。母が必死になって働き、アンがそれを傍らで支えるというこの一家の構図の中で、この家の実の子である自分は何もせずに遊んでいたという事にやっと気付いたのだろう。それを気付かせたのは父であるが、その父もノアの一件までは酒ばかり呑んで何もしていなかった。だが父が目覚めたことによってその力は長男にまで及ぶのだが、フォーレスは父を喪うまではそれ(自分の立場)を実感として感じることが出来なかったのだろう。父がいなくなったことで、自分が父に代わらなければならないということに気付いたのだ。
 このフォーレスというキャラは、男の子にとって「父親」という存在がどれほど重要かを指し示していると思う。これまでバートという男は長男であるフォーレスと向き合ったことがなかったのだろう、だからフォーレスはあんな酷い子供になってしまった。今回もその酷さの一端を示しており、父の死を知る直前、ジョアンナとアンが暗く沈んでいるという空気を読まずに自分の我が儘を先に通そうとした。だがバートが死を目前にした段階で初めて息子と向き合い、その息子が「父の死」を通じてその事実を初めて実感として受け取ってやっと、この息子は目を覚ましたのだ。フォーレスがここまで徹底的にDQNとして描かれた理由はそこだ。
(次点)「な、なに言ってんだよ、アンは…。なあ、母ちゃん。」(フォーレス)
…この台詞、一昨日の晩に「臼井儀人さん遺体確認」のニュースを知って、それを告げる携帯画面に向かって私が呟いてしまった言葉とほぼ同じ。父の死の報せを聞いたフォーレスの信じられないという気持ちが良く出てる。またこれに対するジョアンナの震えた声の返事もうまい(名場面欄も参照)。
名場面 バートの訃報が家族に伝わる 名場面度
 朝、何も知らないアンが目を覚まし、「おじさん帰ってきたかしら?」と居間へ行き「おはよう」と椅子に座っているジョアンナに声を掛ける。アンが覗き込んだジョアンナの表情は、一昨日のまるで魔法に掛かったようなクリスマスパーティからは信じられないやつれたものであった。そして「バートが死んだ」と小さな呟くような声でアンに告げる。「えっ?」と小さな声を上げるアンにジョアンナは続ける、「バートが死んだんだ。列車に轢かれて…夜中に会いに行ったよ。あの人、雪よりも冷たくて…」。アンはその言葉に衝撃を受けて言葉を失う。
 そこへ悪ガキ3人登場。ハリーがおねしょをしてしまって大騒ぎで、フォーレスは早く服を着替えさせて欲しいとジョアンナとアンの空気を読まずに訴える。されでも返事がないので「おい、アン!」と怒鳴るフォーレスに、アンが震えながら声を絞り出す。「バートおじさんが…亡くなったの」。何のことかよく分からずフォーレスは、名台詞欄次点となるわけだ。その返答はジョアンナの「明日はお葬式だから、喪服を出しておかなくちゃ」という呟くような声であった。「…母ちゃん」と小さく声を上げて驚くフォーレス、「何? 何? どうしたの?」と訳が分からずパニック状態のエドワード。その驚きの光景を尻目に「しなくちゃならないことがたくさんある」と声を出しながら立ち上がったジョアンナだったが、すぐにその場に倒れてしまう。アンと息子達がジョアンナの元に駆け寄る。
 「バートの死が家族に伝わった瞬間」である。ジョアンナは夜中に鉄道会社の人に呼ばれて駅(?)へ行き遺体の身元確認をしてきたのだろう、ジョアンナは精神的に疲弊し、どのように息子やアンに事実を伝えたらいいかなんて事は考えてなかったと思う。いや、アンが起きてくるまで何も考えていなかっただろう。そしてアンに告げ、息子達に告げ…その瞬間の「信じられない」という最初の気持ち、そしてそれを事実として受け入れた後の「悲しみ」を見事に、しかもキャラクターごとの年齢相応に表現した。
 特にここではバートが一家の主としての覚醒し、これから生活が変わるに違いないという希望があったことも大きい。多分酔っぱらいのままでバートが死んだなら、ジョアンナはここまでも疲弊しなかったと思う。これに息子達にも言えることだろう…しかしアンだけは家に置いてもらえたという感謝を持ったに違いないが…そのアンについてだが、「赤毛のアン」ではバートが酔っぱらって汽車に轢かれたという設定になっていた。だがその設定をそのまま踏襲せず、キチンと自覚に目覚めるという全段を置いたことで、アンはバートが色々と得たという設定変更は好ましいと思う。もし「赤毛のアン」設定のままだったらこの死は家族を悲しませるだけ…ひいては視聴者をテレビの前にとどめておくだけの力を持たなくなったであろう。
 バートは死の直前に「幸せ」というものをキチンと家族に置いていった。さらに前々話の名台詞のように、はからずともバートはノアを助けて自分の生命に終止符を打つことになってしまった。このような形でバートの死には物語の進行に関わらない「死の意味」というものが生じてしまった。前作「ポルフィの長い旅」でポルフィの両親が「大勢の中にあるたったひとつの死」以外の意味を持たず、災害死というものの残酷さをリアルに見せつけたのとは対照的だ。
感想  まずは奇しくもこの回の放映が、私が現時点で最も大好きな漫画家を喪い大きなショックを受け放心状態の日だったことが良い意味でも悪い意味でも私に影響を及ぼしていることを明記しておこう。
 いよいよ「バートの死」という「こんにちはアン」最大のヤマ場と思われる物語へとコマが進んだ。この死をきっかけにアンはこれまで育ってきた「トマス家」という生活の場を失い、新たな人生を歩まざるを得なくなるのである。このような展開がある事を「赤毛のアン」でアンの生い立ちを知っていた人たちは予測していたはずだ。
 私としては「赤毛のアン」のアンの生い立ち設定はちょっと無理があると感じていた。なぜならアンが本当に誰にも愛されないような悲惨な人生を歩んでいたなら、ああも真っ直ぐに育つはずはないと感じていたからだ。人は他人の愛を受けることで精神的な成長をするはずで、アンがかんしゃく持ちだろうが勉強が若干遅れていようが、マリラとマシュウに引き取られたときの性格ならば必ず何処かで「愛」というものに触れていなければならなかったのだ。
 それをどのように表現するか、これが私の「こんにちはアン」を視聴する上での焦点だったと言っても過言ではない。アンがマシュウやマリラとあのような物語を紡ぐ事が出来るように育つ物語にして欲しい、それによって多少設定が変わるのも構わないと思って視聴していた。正直、バートが「赤毛のアン」の設定のままで「酔っぱらって汽車に轢かれた」という死に方をするならば、例え「赤毛のアン」設定に忠実でもこの物語は多くの人々の支持を得られることは出来なかったであろう。誰にも愛されないというのは「物語が生まれない」ということだ。
 今回までにアンがバートから受け取った「愛」がたくさん描かれた。だがこれはバートに「引き取ってもらった」という事実以外に何ら恩義も感じていないという「赤毛のアン」設定からは外れる。設定から外した事で「物語」が生まれて、その「物語」によって「赤毛のアン」に出てくるアンの性格的な設定にリアルさが生じた。私はこれは上手くやったと感じている。
 アンがマリラに生い立ちを語ったときとのズレは…そんなのは「各自脳内補完のこと」でいいんでないかな?
 個人的に、私は大好きな漫画家である臼井儀人さんの死の直後だったでフォーレスの気持ちに少し感情移入出来た。そういうせいもあって、今回はフォーレスが見せ場を作ってくれたことも手伝って、フォーレスの回だったのかも知れないと感じた。彼はこれでDQNに育つことはなくなっただろう、彼も「父親の愛」をしっかり受け止めて自分の物語を作り、成長したのだから。

第26話「さようならトーマス家」
名台詞 「なんであの子に言ってやらなかったんだろう? いつも冷たく当たって悪かったって。今になって気が付いた、あの子がいたから私はやってこられたんだ。あの子が私の支えだったんだ。あの子を愛してた。もっと優しくしてやればよかった。あの子にウェルターとバーサの話をしてやればよかった…。あの子はもういない。」
(ジョアンナ)
名台詞度
 アンが荷物をまとめているときに言い出せなかった言葉、それがアンが出て行った後に怒濤のように独り言として出てくる。アンに帽子を渡そうと思い立ち、倉庫をあさっている内にアンは旅立ってしまった。その後ろ姿を家の中の窓から見送りつつ、ジョアンナはこの台詞を吐きつつ泣き崩れる。
 ジョアンナは最後の最後までアンに対して素直になれなかったことをここで後悔する。本当はアンが可愛くて、本当はアンに何度も救われていて、本当はアンにもっと優しくしてやりたくて、本当はもっと…この女性もバートと同じ位不器用だ、バートは素直すぎるからそれを隠すために酒に走った点もある。ジョアンナは自分が素直であることを人に見せたくないという意地がある。だから特にアンのような存在に対して素直に優しくすることが出来ない、いつも虚勢を張っては冷たく接する。
 ジョアンナだってそんな対応に疲れていたはずだ。だが日々の忙しさや夫の不摂生が先に立って、それに気付くことが出来なかったのである。そして夫が死に、アンが手から離れて行くときにやっとこれに気付いた。自分がアンに対しどう接すべきだったかに気付いた。どれだけアンが大事だったか思い知った。
 だがそれにやっと気付いて素直になれたときというのは、得てしてその対象人物がいなくなってしまった時なのである。そんな悲しみをこの台詞に全て込めている。いや、この台詞の最後の部分「あの子はもういない」に込めているのだ。こうしてジョアンナはこのときだけでなく、自分の生命が尽きるまでアンに対して後悔の念で一杯の人生を送らねばならなくなるのだ。
 そしてこの台詞、ここまで物語を彩ってきたトマス家の人々の最後の台詞となった。
(次点)「多分、牢屋みたいなところだ。狭い部屋に子供が一杯押し込まれて、一日中ぶたれて働かされるんだ。なのに俺、なんにも出来ないんだ。」(フォーレス)
…エドワードに「孤児院ってどんなところなのか?」と問われたときの返事。フォーレスが持っている「孤児院」というところの偏見も重要で、それほど苦しい場所に連れて行かれるアンを守ってやれないという「男の子の悔しさ」が滲み出ている。亡き父に誓った「弟たちとアンを守る」という約束を果たそうとしても、あんまりにも自分の力がなくてどうにもならないことに、この少年は初めて挫折を覚えるのだ。この少年が、父親を失ってから大きく成長し「男」になってきたと思わせてくれる台詞だ。
名場面 アンの決断 名場面度
 別れは突然にやってくる。トマス家に突然、製材所社長のハモンドと名乗る男が現れ。男が名乗るとジョアンナは「バートはそちらからもお金を…」と条件反射に問うが、彼はアンを子守として引き取りたいと主張するのだ。名家の令嬢と結婚したがその夫人が身体が弱く、しかも妊娠中なので子守がどうしても必要だと言うのだ。この言葉に今まで「孤児院に連れて行かれる」とテーブルの下で泣いていたアンはそこから這い出てきて、ジョアンナは驚きの小さな声を上げる。
 「急なお話なのでよく考えないと…」とジョアンナは力無く言うが、ここではもう彼女の答えは決まっていたのだろう。彼女は静かに窓辺へ歩くと、「孤児院へ行くよりは製材所の社長のところの方が…」と呟く。これに反応したのは長男のフォーレスだ、母親に「一緒にに引っ越すわけにいかないの?」と猛抗議をする。それに「仕方ないじゃないが、(私の)母さんがああいうんだもの…」と力無く返答し、今度は椅子に座って「どうしようもない…」と泣き出す。バツが悪そうな顔をするハモンド氏、悔しそうな顔をする兄弟達…「私行くわ」と静かにアンが決断を下す。驚く一同、「だから泣かないで」と続けるアンに、「そんな、お前いいのか!?」と問うフォーレス。「だって仕方がないんですもの、私は孤児なんだもの。それに孤児院へ行くのはこの世の希望が全て消えてしまうような気がして嫌なの」とアンは続ける。「ではいいんですね?」とハモンド氏が問うと、ジョアンナは立ち上がりアンに背中を向けて小さく頷く。
 このシーンには「アンがいなくなる」という現実と戦うジョアンナとフォーレスが克明に描かれている。ジョアンナは自分の母親に「アンは孤児院へ引き取ってもらえ」と命じられていたのも関わらず、ここまでアンと別れるという事実を現実として受け止められていなかったのだろう。少なくとも彼女は自分で決断することを避けた。アンは孤児院へ行くよりもハモンド氏に引き取ってもらった方がいいに決まっていると自分で自分に言い訳をしたし、自分がどうしてもアンを連れて行けない立場だと息子に言い聞かせた。だが自分で決断して「連れて行って下さい」と言うことは出来なかった。ここに彼女がアンと別れる決心がつかなかったことが見てとれる。
 フォーレスについては名台詞次点欄で語った通り。ここでも彼は男として力の無さを痛感したはずだ。
 アンはジョアンナの気持ちを察していたのかも知れない。だからこそ自分で決断の台詞を言うしかなかった。アンの決断理由は前述した通り、「孤児院に行くよりはいい」と言うことだろう。トマス家と一緒に行くことは不可能だろうし、このまま流されていたら孤児院行きは確実、だったらそれを回避する唯一の手段に見えたのかも知れない。
 こうしてアンは物語の新たな舞台であるハモンド家へと引き取られることになった。しかもトマス家の人々と別れを惜しむ間もなく、今すぐ出て行くのである。何処まで話を辛くするんだ、この物語は?
感想  「こにんちはアン」第二部「メアリズビル編」最終回。いよいよ「赤毛のアン」設定にあったハモンドのおじさんが登場する。同時にここまで物語の中核であったトマス家の面々が全員退場、作品のマスコットになると思われたぬこのロキンバーも退場。これは「世界名作劇場」シリーズで目立たなかった主人公のペットの一匹として記憶に残りそうだ(どっかのボナパルトと一緒に)。ここ数話で存在感を急に強くし、ロキンバーよりも印象に残った赤ん坊のひまわりちゃんノアも当然お別れ。ぬいぐるみの行方がどうなるかと思って見ていたら、ノアのものになったというのは上手くやったと感心。
 前作「ポルフィの長い旅」では「別れ」というのに深い意味を持たせなかった。そりゃ当然で旅モノであって出会いと別れを繰り返すのだから、いちいち別れを細かく描いていたら大変な事になる(その中でもポルフィとデイジーの二度にわたる別れは印象に残るものであったが)。だから「ポルフィの長い旅」では回想シーンが邪魔だったのだろう。逆に「こんにちはアン」で描かれたトマス家の人々の別れは、それまで家族として一緒に暮らしてきた人との突然の別れであるので、これは印象に残さねばならない別れなのだ。回想シーンも上手く使っており、安易に過去の名場面を繰り返すのでなく、異次元背景の前にトマス家の人々とメアリズビルで出会った人たちが笑顔で並んでいるというイメージとしたのは、彼らとの思い出が変に鮮明にならずにいい効果だったと思う。「ポルフィの長い旅」で回想シーンを全く使わなかったのと同じ効果だ。
 しかし、引っ越していなくなってしまったという設定のサディはともかく、ランドルフとミルドレットは出してやって欲しかったな。まぁアンの旅立ちが突然だったから、彼らを出してしまうと逆にしらけてしまったかも知れないので正解だったかも知れないが。 

第27話「あの丘の向こうに」
名台詞 「ジョアンナおばさんの今夜の夕食は何だったかしら? 私はトーマスさんのお家に置いてもらえなかった、ハモンドさんのお家も私を置きたいと思ってくれているわけじゃないの。私を大事にしてくれる人は誰もいないのよ。でも私は、何処の誰かも分からないみすぼらしい子なんかじゃない。バートおじさんは私を家族だって言ってくれたわ。それに私のお父さんとお母さんは先生で、私は小さな黄色いお家で生まれたのよ。お父さんは背中に翼が生えていて、お母さんは本が大好きで、お母さんはバラのようなほっぺの私を抱いて、お父さんは言ったのよ。『この子の名前はアン・シャーリー…』。」
(アン)
名台詞度
 製材所の社長で、妻は令嬢だというハモンドという男に言われるがままについてきて、やってきた家でアンは真実を知る。この家は子守として自分を引き取りたいと考えていたのでなく、自分を引き取って子守にするという事自体がこの男の思いつきでしかなかったことに。そこでアンは夫人に言われて最もショックを受けた一言があった、それが「何処の誰かも分からないみすぼらしい子」という言葉だった。アンは懇願されて来てみたらいきなりこのような扱いをされた事が悲しくて悔しくて、仕事が終わり部屋で一人になったらこのように独り語り泣いたのだ。
 トマス家に対する未練、トマス家の暖かさ、これが暗い屋根裏部屋に一人になった瞬間にこみ上げてきたのだ。理由はどうあれそのトマス家に捨てられた事実と、新たに引き取られることになったこの家でも決して歓迎されていない事実。アンはトマス家もここの決して自分の居場所ではないという事実を突き付けられ、自分が想像した「両親の愛」を思い出して悲しみが止まらなくなったのだ。
 ただアンのこれまでの人生の中で、唯一本当の味方だった人物がバートだった事だけは心の支えになっているようだ。バートだけはアンに対ししっかりと「ここが居場所だ」と告げている、その一言がどれだけ暖かくて嬉しい物なのかはアンでないと分からないかも知れない。
 この台詞が今回からの新展開の「始まり」を示している。この感情がハモンド家の生活でどのように変化するのか、これがここから先の展開になって行くことだろう。
名場面 「ビオレッタ」との出会い 名場面度
 ハモンド家に無事赤ん坊が生まれた直後、ハモンド夫妻はアンについて語り合う。シャーロットが陣痛で苦しんだときに機転を利かせて産婆を呼びに行ったことで、母子共に生命が救われたのであるが…その行為に対する夫妻の答えは冷たかった。アンを引き取るには引き取るが「役に立たねば孤児院行き」という条件付き、しかもアンをここに連れてきたケンドリックはアンをかばうわけでなく、それを約束として受け入れる。
 これだけならアンはまだ耐えられたかも知れない、だがそう言う傍らで生まれたばかりの子供を可愛がるケンドリックの姿に、アンは耐えられなくなったのだ。やはりここは自分の居場所じゃない、自分の居場所を与えてくれた人々がことごとく自分の目の前から去ってしまった…その事実を思い出してアンは泣き叫びながら外に駆け出す。
 やがてアンが斜面を滑り落ちながら到着した場所は、付近の山を見晴らせる場所だった。そこでアンが大声を上げて泣くと、その泣き声がこだまになって帰ってくる。その声に思わず「誰?」と聞いてしまうアンは、このやまびこもそばかすだらけでやせぽちでひとりぼっちなんだと思い、先ほど生まれた双子の赤ん坊を見て自分の双子の姉妹なのだと想像する。そしてやまびこに「ビオレッタ」と名付け、自分の思うことを話しに来ると誓う。
 つまりアンはトマス家におけるケティ・モーリスと同じ効果を持つ「友人」を発見する。アンにとって辛いとき、悲しいときの乗り越え方として自分の空想の中の「友人」と会話することが「気持ちの切り替え」を行う上での大事なことなのだ。辛いときに一人で黙りこけているより、口に出して発散させた方が楽だと言うことをアンは知っているのだ。だからケティにしろ今回のビオレッタにしろ、「自分を映すもの」に名前を付けて「友達」にして、辛いときに全てを語るのだ。
 その相手も運命的な「出会い」の上でないと意味が無い、理由もなく思いつきで相手を決めた(つまり自分で作った)のではまるで意味が無いのだ。辛く悲しい瞬間、または希望を見いだした瞬間にポンと出現する…これが大事なのだ。ケティ・モーリスの時も「ノアという新しい生命が生まれた」ということで希望を見いだした瞬間、ポンと目の前に現れたからこそ意味があった。
 今回は悲しみの底辺に来たときにポンと現れた。自分の居場所だと思っていたトマス家に捨てられ、新しく来た家でも理由を付けて追い出す事ばかり考えられていて誰も自分の味方になってくれない。それを思い知った瞬間にそこにいたのが、「ビオレッタ」だったのである。
 この「2人」の共通点はアンが引き取られていた家で「赤ん坊が生まれたときに出現した」という点、逆に相違点は「ケティはアンが希望を見いだしたときに出現したが、ビオレッタは悲しみのどん底で出現した」という点だろう。アンはこういう存在を見つけないとやっていけないと自覚していたかどうかは分からないが、こうして物語に必要な基本キャラが揃ったというところだろう。
 この「ビオレッタ」とどのような物語を紡いで行くのか、これもここから先の見どころだろう。
感想  「こんにちはアン」第三部、「ハモンド編」スタート。登場キャラクターが一掃され、アン以外は全員新キャラという展開となった。私はオープニングテーマやエンディングテーマも変わるのではないかと思っていたのだがそれはなく、代わりにCM前後のアイキャッチが変わった。メーテルが「アン・シャーリー!」と大声で呼ぶあのアイキャッチ、好きだったんだけどなぁ。
 そして「赤毛のアン」でさんざん語られた「双子が三組」のハモンド家、ケンドリックとシャーロットの夫婦に、長女・エラ、次女・ガーティ、長男と次男の双子でトミーとジミー、三男と四男の双子でジョージとヒューゴ…前回見た時に「双子が二組しかいない」と思ったのは正解のようで、もう一組の双子がシャーロットのお腹の中にいて、今回の劇中で生まれたという寸法だ。
 そしてトマス家の悪ガキ以上に我が儘で言うことを聞かない子供達と、ジョアンナ以上に「なにもかも夫が悪い」と決めつける具の強いシャーロット、バートとは正反対の方向で駄目な夫を演じるケンドリック…どれもアンがこれまで以上に悲惨な生活を送るために生まれてきたような人たちだ。アンは深夜まで働かされ、なんか「小公女セーラ」でマリエットがベッキーの一日を語るシーンを思い出すような光景だったぞ。アンに与えられたのはあの屋根裏部屋だ。
 でも声を聞いていて、「ひまわりちゃん使い回すなよー」と思ってしまった。あの感動的なノアとの別れが台無しじゃないかよー。声優さんの起用法についてもしっかり考えて欲しかった。
 問題は今後の物語である。ハッキリ言ってこのまま「アンがハモンド家の信用を得る」とか「アンがハモンド家を出て行く時に感動シーンを用意する」なんて安直なシナリオはやめて欲しい。だってそれをやってしまったら「同じ事を二度繰り返す」だけで面白くない、前回で視聴をやめた方が正解だって事になってしまうのだ。ここでは制作陣に対し「赤毛のアン」との整合性もどうでもいいから、トマス家での物語とは一線を画したものを期待したい。この「こんにちはアン」というアニメの評価は、その辺りで決まると思うんで。

第28話「ひとりきりの授業」
名台詞 「アン・シャーリー、僕で良かったら好きなだけおしゃべりしていいんだよ。君が今まで我慢してきた分を…。僕は君のおしゃべりを聞くために今日、この教室に来たような気がしてきたんだ。」
(マクドゥガル)
名台詞度
 やっとの思いで学校に来ることを許されたアンだったが、学校に来てみると既に夏休みに入っていて先生が一人いるだけだった。そのマクドゥガル先生が自分のために特別に授業をやってくれると聞いて興奮したアンは、自分の思いや心境をマクドゥガルに吐露する。そしてしゃべりすぎたと反省すると、マクドゥガルはアンの隣に座ってこう語ったのだ。
 学校シーンの冒頭、マクドゥガルがこの学校の生徒の不甲斐なさに呆れ、自分はもう辞めると息巻いていたシーンがあったが、それとこの台詞は関連しているだろう。彼は自分が出会うべき教え子にやっと出会えたと感じたに違いない。その少女があまりにも悲惨な生活を送っている、しかも心を閉ざしたままと知って何とかこの少女の心を開いてやることが自分の仕事だと感じたのだ。それは一人の少女を救うことであり、例えこの少女の記憶に自分の名前が残らなくとも、この少女の人生を大きく左右するはずだと感じたはずだ。
 またアンの側から見れば、この地では誰に対しても心を開いてはならないという意地があったかも知れない。この先生はその意地の「鍵」を開いてくれたのは確かなのだ、その「鍵」となった台詞がまさにここなのだ。ビオレッタとは違い、相手の側から「話を聞いてあげよう」と言ってくれた幸せ。この台詞はメアリズビルを去って以来、初めてアンに訪れた束の間の幸せでもあるのだ。
名場面 プリンスエドワード島 名場面度
 メーテルの解説によると、アンは夏の日が西に傾くまで心のおもむくままにマクドゥガルにいろいろな話を語り続けたと言うのだ。アンの話を一通り聞いたマクドゥガルは窓辺で一度涙を流す。そしてアンに「君は僕に想像できないような辛い日々を長い間送ってきたんだと思った、それなのに僕は君に名にもしてあげられないんだ」と語る。アンはそれにマクドゥガルが自分の話を聞いてくれたことと、教師だった両親もこうして生徒の話を聞いたに違いないこと、だから自分は両親に出会えたようで幸せだと返答する。それを聞いたマクドゥガルは自分が故郷にいたときの気持ちを忘れていたと語る、自分が故郷で見ていた夢がどんなものだったかを彼はアンに語るのだ。そのマクドゥガルの故郷は…プリンスエドワード島であった。彼はアンにプリンスエドワード島の写真を見せ、この美しい島で見た夢を思い出したと力説する。
 アンはそのマクドゥガルがかつて見ていた夢と、プリンスエドワード島の美しい風景を重ね合わせ、「波間に揺れるゆりかご」というかつてスコットという父の教え子だった男から聞いた父が好きだったという言葉を思い出す。そしてアンは、自分が後日「喜びの白い道」と名付けることになる並木道の写真を見ながらこの島の名をもう一度繰り返す。「君が行きたいと思い続ければ必ず行ける」とマクドゥガルは力づける。
 ここで初めてアンの「未来」が暗示される。科学的なことはともかく、人間には「虫の知らせ」というものがあって、自分の未来に関わる物が出てくるとそれに妙に愛着を持つように出来ているようで、アンはここでそれを感じたのかも知れない。マクドゥガルの口から出てきたこの島の名前が、なんか他人事とは思えない大事な物に感じたに違いないのだ。それを上手に引き出し、表現したと思う。
 22話で出てきたスコットはアンの「過去」を暗示したが、マクドゥガルはアンの「未来」を暗示するために物語に出てきたのだろう。この物語の原案となった「赤毛のアン」に通じるひとつの道筋が出来上がったのである。ここまでどことなく「赤毛のアン」に繋がるかどうか不安な展開が多かったが、このシーンをしてこの物語はその一本道に寄り添ったり、離れたりを繰り返しながら「プリンスエドワード島」というアンのゴールに向かって突き進むことになるのだろう。
感想  新展開に入っての第一ラウンド、とりあえずは前回の感想に書いた「トマス家での物語とは一線を画したものを期待したい」という期待通りになっているようだ。物語の最初からトマス家の面々を信用していたアンとは違い、ハモンド家での物語ではアンは心を閉ざしているという描写で始まる。これは視点を変えればアンはトマス家では、少なくともバートやエリーザといった信用してくれる人物がいたのだが、ハモンド家ではそれに相当する人物がいないという違いとなるはずだ。アンを連れてきたケンドリックでさえ、アンの事など考えていないというのは前回までにしっかり描かれた点だ。
 冒頭に出てくるアンの労働シーンは、「小公女セーラ」を彷彿とさせる物があったなぁ。次から次へと怒濤の如く流れ込む仕事を淡々とこなすしかない、しかもそれがいつ果てるか分からない不安というものをキチンと描いていたように感じる。その次のシーン、ケンドリックの作業場のシーンでは、ケンドリックがアンに何度も「ベッドを作る」と約束し、そのたびにそれがなかったことになっている事実を連想させてくれる。この前半の一連のシーンで「アンにとっていいことはなにひとつない」という事を、視聴者にしっかり印象付けることに成功していると思う。
 アンがハモンド夫妻を「悪い人じゃないのだけど、何かいつも他のことを考えている」としたのは上手いと思う。実はバートもジョアンナとの共通点だったりするのだが、この夫妻はトマス夫妻とはまた違う意味でこういう性格だと言うことも面白い。彼らがいつも何を考えているか…多分ジョアンナとシャーロットは同じ事を考えていたはずだ、つまり「いつこれが終わるのか」と言うことである。シャーロットの病気というのは精神的なものではないかと推察できるのだ。バートはツイてない自分を呪ってばかりだったが、ケンドリックが何を考えているのかは全く想像できない。
 そんな中で「救い」を得るのが今回の物語であった。アンの「救い」となったのはハモンド家の誰かではない、ハモンド家の地下倉庫にあった書物であり、一度だけ行く事が出来た学校の先生であった。そしてその「救い」は、名場面欄に記した通りアンの「未来」を暗示するという展開となったのだ。
 アンの過去と現況だけでこの物語はここまで進んできたが、ここへ来てしっかりと「未来」という展開を見据えるようになった。この意味でもこの新展開はトマス家と共に生活していたこれまでの物語と一線を画していると強く感じることが出来る。次回では前話で出てきた産婆さんの女性が話を引っ張るようだ、ここでどんな新展開があるのか期待したい。

第29話「ハガティさんの秘密」
名台詞 「人に侮られるのだって悪くはない。第一、謙虚になれる。そして、少しでも侮られないようにと努力をすることが出来る。だからねぇ、人間見た目ではないんだよ。そんなものに関係なく、要はその人自身の心の問題だ。神様はなにもかもお見通しなのよ。」
(ハガティ)
名台詞度
 ハガティのひみつその1、彼女はかつてアンと同じように赤毛だったこと。アンが赤毛にコンプレックスを持っていると知って彼女は素直にその過去を打ち明ける。アンがハガティの赤毛について聞くと、彼女は若いうちに赤毛が全て白髪になってしまったという。そのおかげで見た目老けて見えるので仕事はやりやすかったと言うが…それに対しアンが「赤毛でそばかすで痩せぽっちで信用されない自分はどうすればいいのか?」と聞くと、ハガティはこう答えるのだ。
 この台詞には「何故人は調子に乗るのか?」という疑問の答えが含まれていると思う、どんな人にだって他の人より劣っている点を持っているはずで、それをしっかり自分の中で認識していられるかどうかで他人への接し方がかなり変わると思う。もちろんそうして謙虚になれば他人との付き合いもしやすくなるし、その欠点に打ち克とうと努力することができる。私が好きな歌人、故・村下孝蔵が歌詞に遺した「他人に勝つより自分に克て」という言葉の意味はこんなところでもあると思う。
 そしてその自分が謙虚になり努力し続けられるかどうか、それがうわべだけでなく真のものかのかという事はその人と付き合っていれば全て見えてしまうというが最後の「神はなにもかもお見通し」という部分だろう。謙虚になったつもりでも努力を怠ってはいけない、そういう人は何処かで躓くという事実を、この人は何度も見てきたのだろう。その自らの体験に裏打ちされた教訓、つまり生きた言葉をアンに語るのだ。
 だがアンにはこの言葉はまだ理解できなかった。アンの返答は「神様に叱られてもいいから黒髪になりたい」という年相応の少女らしいものであった。彼女が「見た目だけではない」という事実を体験するのはまだ先の話、こればかりは自分でそれを体験してみないと分からない部分もあるという事をアンの返事が示唆している。こうして物語は重要な教訓をアンと視聴者に与えつつも、アンにはまだそれが伝わらないというもどかしい展開でもって、「赤毛のアン」と話を整合させているのだ。
名場面 ハガティの過去 名場面度
 アンと庭でティータイムを過ごしたハガティは、身体の調子が悪いからとベッドに入る。そのベッドでアンがハガティに尋ねる、何故産婆になったのか?と。
 ハガティは自分の過去を語り始めた、自分が15人姉弟の第一子であったこと、だからさんざん子守をさせられたのでもう子供の相手はしたくないと独身を貫く決意をしたこと、だが新しい生命が生まれる瞬間に立ち会えるこの仕事が好きで辞められなくなったこと。これらの過去を語ると彼女はアンに自分が残していたノートを見せる、そのノートには自分が取り上げた赤ん坊のことがびっしりと書かれていた。アンがそのノートにある名前を読み上げるだけで、ハガティはその子が何年前のどんな季節にどんな状況で生まれたのかを語り出す。彼女は全て覚えているのだ。そして彼女はこのシーンの最後をこう締めくくる、「生まれてこなければなにも始まらない、赤ちゃんが生まれるのは幸せになるため、周りの人を幸せにするためなのよ」。そしてハモンド家の双子を取り上げたのを最後に引退したと宣言するのだ。
 このシーンで主題歌の1フレーズ、「泣いて生まれたのは幸せを作るためさ」という部分に繋がったと思う。誰も不幸になるためになんか生まれてこない、生まれた以上は幸せを探さなきゃいけないという事を示唆しているシーンだと思う。その「幸せがうまれる瞬間」を何度も見てきた彼女は、そんな幸せをたくさんの新生児に与えられていたのだろう。それをしみじみ実感してちょっと感動するシーンだ。
 アンが見たノートはハガティの生き様の全ててある、生まれた来る生命と向き合った彼女の人生は、例え今孤独な晩年を迎えているにしても幸せだったのか? いや、それしか残すことが出来なかったという不幸と背中合わせであったという事実をも訴えてきているのだ。ハガティは今回の物語の最後に思う、「アンみたいな子供なら欲しかった」…彼女に必要なのは、心からの安らぎをくれる話し相手だったのかも知れない。
 アンはこの彼女の生き様から「不幸」を見つけることは出来なかったようだ、彼女の頭の中に湧いてきたのは生命が生まれる瞬間に何度も立ち会ったという彼女の仕事のいい面ばかりだ。だからハガティが引退すると言ってもそれを理解できなかったのかも知れない。だから「続けていればきっといいことが…」と思ってしまうのだ。
感想  アン、「そばかすの数」にこだわりすぎ。今までこーゆー設定はなかったと思うけど…こういうのは唐突にやるんじゃなくて伏線が欲しかったなぁ。
 私に言わせれば名台詞欄に挙げたハガティの台詞に尽きる。いじめている人といじめられている人、どちらが「努力できるか」といえばいじめられている方なんだよ…と私は訴えてみたい。侮られる立場だからこそ努力が出来る、それ以上になろうと努力しなきゃならない。裏を返すと努力しないと侮られる立場から脱することは出来ないと言うことも出来る。躓いたら立ち上がる勇気と強さは努力しないと持てないんだよ。
 こういう強いメッセージを持ったアニメってやっぱり少ないと思う。今回はこの台詞だけで「こんにちはアン」を見ていて良かったなと思った。今回はあの台詞があれば他はなくてもいい、物語的には今回の話はケンドリックが倒れる前の前置きでしかないみたいなんだけど…。
 しかしケンドリックに舞い込む大きな仕事、これは死亡フラグに見えてしまうのはここまでの展開を見ていると…でも今回はまだ大事には至らないみたいだね。。

第30話「そよ風荘の思い出」
名台詞 「春はもうすぐそこまで来ている。僕の生涯で一番大きな仕事が始まるんだ。やり遂げなくては…だって僕は、これまでなにひとつこれをやり遂げたんだということがなかったんだからね。」
(ケンドリック)
名台詞度
 買い物へ行こうとしたアンが製材所を訪れると、そこには具合が悪くて倒れているケンドリックの姿があった。彼はアンにこれからホテルを作る相談のため町へ行かなければならないと言うが、もちろんこんなケンドリックを見たアンは不安で、どうしても今日でなければならないのかを問う。その返事がこれだ。
 彼は自分の生命が短いことに感付いていたと思う。この体調はとてもじゃないが立てるはずもなく、むしろ横になって安静にしていないと生命を落とすということも感付いていたに違いない。だが彼は生命を賭して守らなければならないものがあった、それが男の意地でありプライドなのだ。
 彼は今まで自分の暢気な性格と意気地と決断力のなさによって、実は何も出来ない人生を歩んでいたに違いない。シャーロットという妻を娶るときも、「製材所の社長」という自分が「目指しているもの」に自分がなっているかのように語り、それでそのまま連れてきてしまった形になった(アンだってそうだ)。だからその立場にならねばならないのは彼の責任である。彼には製材所を大きくして人も雇い、本当の「社長」にならねばならないという責任があったはずだ。それこそが彼の妻を、子供達を幸せにする唯一の手段なのだ。
 彼が口走った「春」という言葉の意味には、季節としての春がやってくるという意味合いもある。だが大きな仕事をやり遂げることで、やっと自分が目指しているものになれるチャンスであり、家族を幸せに出来るという意味も含まれているだろう。
 それだけではない、彼はいつも口だけは大きな事を言っていた。視聴者から見れば「アンのベッド」は一番分かり易い例だろう。仕事があって、その次に、その次にと決断しないままその件もほったらかしにされてしまった。
 彼は自分で自分のそんな性格が嫌だったに違いない。ホテルの仕事はそんな自分から抜け出す可能性があると信じていた。だから彼はこの台詞の通りに立ち上がった、自分の全てを賭けて立ち上がったのである。
名場面 ケンドリックの最期 名場面度
 シャーロットに買い物を頼まれたアンは、途中でケンドリックの製材所に立ち寄る。そこにはケンドリックが苦しそうな表情で倒れていたが、何がなんでもホテルを作る相談をしなければならないと立ち上がる(この間は名台詞欄を参照)。そして買い物に向かうアンを馬車に乗せて、町へ向かう。
 その道中、アンは語り出す。どんなに辛くて嫌な事も時が経てば忘れられる、だからシャーロットも将来幸せになれれば今の辛さを忘れるはずだと。ケンドリックは「アンがそう言うならそんな気がしてきた」と答えるのが精一杯だ。アンはそのまま自分の想像を語る、ケンドリックとシャーロットがいつの日かハモンド家の子供達を連れて「そよ風荘」と名付けたかつてのシャーロットの実家の別荘に行くことになるはずだと…だがアンが語っている途中、ケンドリックは突然意識を失い、馬車は止まってしまう。
 ケンドリックの異変に気付いたアンはすれ違った馬車の男に助けを求める。ケンドリックが近くの小屋に収用されると、助けた男は医者を呼びに行くと出て行ってしまった。アンがケンドリックに水を飲ませようと外へ出ようとしたところでケンドリックが意識を取り戻し言う、「行かないでくれ」と訴える。アンがケンドリックの脇に座ると、ケンドリックは「僕はもう駄目だ」と言った後に、先ほどの想像の続きを話して欲しいと訴える。アンが想像の続きを語ると、「見えるよ、何もかも…」と言いながら目を閉じるケンドリック。そして力無く「アンにベッドを作ってあげたかった」と言い切ると、ケンドリックの手から力が抜けてゆく。絶句するアン、止まるBGM…だがアンは「眠ってしまったのかしら?」と言うと、水を入れに外へ飛び出す。幸せそうな顔で光に包まれるケンドリック…そこに「ケンドリックが天に召されたのは、もうすぐ春が訪れる3月のことでした」とメーテルの解説が入る。
 ケンドリックは常に「苦悩の人」であったのだろう、運とツキから見放されたのは自分の性格のせいだと彼はずっと悩んでいたに違いない。だがそれを打破できるかも知れない転機を目前にして彼は力尽きる。妻と子供達だけでなく自分に夢すら見せてやれなかった自分、だが彼は最期にアンの想像力で夢を見ることが出来た。彼が到達するはずだった、家族との楽しいひとときを夢に見たまま彼は逝くことになるのだ。
 アンの養父の死はバートに続いて二人目、二人は似たような生き様をしつつも、全く違う発散方法をしてきたという違いがある。またその最期に関してもバートは自分が変わる転機を激動のかたちで迎えていたが、ケンドリックの場合はそれが日常の延長からの変化であるという違いがある。またバートは死ぬ気配が全く無かったが、ケンドリックは初登場の次の回(27話)から度々発作を起こすという「死の影」が描かれていた点も明らかな相違点だろう。何よりもバートは自分がその日に死ぬなんて考えてなかった突然の死だったが、ケンドリックは自分がそろそろヤバイと気付いていた点も違う。
 またアンから見た場合も変わってくるだろう、トマス家の場合、アンは何だかんだで家族を信用していたし信用されていた。ジョアンナのような屈折した信頼の仕方もあったが、少なくとも家族に疑われてはいない。だがハモンド家の場合、アンがケンドリック以外の家族を全く信用していないし、シャーロットも何かにつけてアンを疑っているのがよく分かる。そう言う意味でケンドリックというのはアンが「家の中で唯一気を許せる相手」だったのだ。
 「同じ事を二度繰り返すだけなら面白くない」とハモンド家編に入るときに声を大きくしていったが、一家の大黒柱が他界するという「同じ事」については相違点は多いのだ。そしてなによりもアンはケンドリック以外の家族からは信頼される段階に行っておらず、ここで唯一気を許していたケンドリックの死というのはそれだけでアンがこの家にいられなくなると言う一大事である。周囲に知人が殆どいないアンにとって、ほぼ無条件で孤児院行きというのは確実だろう。このような「条件」を変化させアンを絶望させたところで…まだ希望があるという驚きで話に変化を付けた。こりゃ次回が楽しみだ、ま、最期の希望はハガティなんだろうけど。
感想  まだベッド作ってなかったんかいっ!?
 ケンドリック逝く、前話のラストを見た後に今回の始まり方では、「倒れたケンドリックは放置かい?」とテレビ画面に向かって叫びたくなったが。ちゃんとそれを収拾する形になって終わった。だがケンドリックの死が予想以上に早くて驚いた。もう2〜3回引っ張るかと思って見ていたのだが…。
 シャーロットが何が不満なのかよく分かる回でもあった。アレだ、「会社社長」っていうからついて行ってみたら単なる自営業だったって感じで嫁に来ちゃったんだね。ケンドリックは自分が嘘を言ったと後悔しているが、仕事内容からしてそれを目指していたのなら嘘ではないし、なによりも家の片隅でやってるのではなくてちゃんと「製材所」を持っているのだからやはり嘘ではない。ただシャーロットはそうは思っていないようで、彼女のケンドリックに対する不信はその辺りから来ていると思う。でもシャーロットって人はなんだかんだでケンドリックが好きなんじゃないかとも思う。大風呂敷を広げる性格を欠点としてとらえ、他の長所と付き合っているという形じゃなきゃあんなに子だくさんになるわけがない。
 問題はこの「死」をどう処理して行くかだ、ケンドリックが死にました、アンはハモンド家にいられなくなりましたではそれこそ「同じ事の繰り返し」でしかない。次回予告に早速その「処理」が示唆されていた。トマス家との違いはどうもハモンド家という家族自体が破綻する模様である、トマス家はアンが出て行かざるを得なくなっただけで他の家族はそのままだった。それとアンが孤児院行きとなる前に一山ありそうだ。この「ケンドリックの死」をどのように「バートの死」と差別化するかで、この物語への評価が決まりそうだ。

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