前ページ「あにめの記憶」トップへ次ページ

第31話 「ただひとつの希望」
名台詞 「君は夢見る事をやめちゃいけないんだ。君のお父さんも、きっと夢見るようにプリンスエドワード島に憧れていたんだよ。アン、アン・シャーリー!」
(マクドゥガル)
名台詞度
(名場面欄参照)
(次点)「ねぇ、おじさん。どうして人は死んでしまうの? おじさんは今、何処にいるの? バートおじさんとおなじところなの?」(アン)
…物語の最初に、アンが多くの人間にとっての生きるテーマを口走ってしまう。人間は死んだら何処へ行くのか…これはそのままイコールで自分は何処へ向かっているのかという問いでもある。こんな哲学的な台詞をまだ少女のアンに語らせるとは…。
名場面 たったひとつの希望 名場面度
 いよいよ孤児院行きを告げられたアンは、シャーロットの親類の未亡人だと名乗る女に孤児院へと連れて行かれることになる。いよいよ出発、という時になって教師のマクドゥガルがハモンド家に現れる。ビオレッタともう一度話をしたいというアンの願いすらも、この孤児院へアンを連れて行くことになる女は聞き入れない。これによってアンは完全に心を閉ざし、マクドゥガルの呼ぶ声にも反応しなくなる。
 心を閉ざしてフリーズしているアンを、ハモンド家の親類の男が無理矢理馬車に乗せる。マクドゥガルもアンと話をさせて欲しいと懇願するが、これも聞き入れてもらえない。マクドゥガルは心を閉ざして何ら反応を示さないアンに、プリンスエドワード島の写真を持たせる。そしてアンの父が好きで憧れている場所だったとされる言葉「波間に揺れるゆりかご」はプリンスエドワード島の昔の名前なんだと何とか言い残す。アンの父も憧れたという自分のふるさとの写真をアンの手にしっかり握らせると、女は「では失礼します」と馬車を走らせる。マクドゥガルが馬車に向かって名台詞欄のように叫ぶと、アンは彼が自分の名を呼んでいることに気付いて再起動する。そして手に持たされていたプリンスエドワード島の写真に気付き、その写真を眺めるとマクドゥガルが「君が思い続ければいつかきっとプリンスエドワード島に行ける」と言った事を思い出した。
 ケンドリックの死、ハモンド家の家族崩壊、そしてアンの孤児院行き…アンの生活を支えていたもの全てが崩壊した上で、アンは自分の気持ちを発散させる「ビオレッタとのお話」すら禁じられるという絶望を味わう。これは恐らくアンを再起不能にさせるほどの衝撃の連続であろう。マクドゥガルは教師という多くの子供と接してきた人間だからこそ、アンに勇気と希望を手渡さなければならないという自分の使命を知っていた。それだけではなくアンによって教師という仕事から挫折しかかっていたのを、救って貰った感謝の念もあったに違いない。彼はその使命に忠実に動き、ハモンド家まで来るが…そこで彼が見たものは何もかも失い、その上で「親友」との会話まで禁じられてしまうアンの姿だった。彼はアンの心が挫けないようにと必死に声を掛ける、しかしそんなマクドゥガルの声にも反応しないほどアンは精神的に疲弊していた。
 そして彼が持ってきた「希望」は自分の故郷であるプリンスエドワード島の写真だった。アンの父が「そこに希望がある」として憧れだったという「波間に揺れるゆりかご」というのはプリンスエドワード島のかつての通称で、アンはその希望に向かって進まなければならないという事を伝えたかったのである。その島へ行ってみたい、こんな小さな事でいいから夢を持てばどんなに辛いことがあっても乗り越えられるはずだという彼の子供に接する大人としての論理として、全身全霊でこれを伝えようとするのだ。そう、どんなことにも夢を失ってはならないという教訓が、このシーンと名台詞欄に挙げた台詞に込められているのである。
 マクドゥガルという教師は、そんな大事な事をアンに伝えるための役割を持った。それはこの物語に出てくる脇役の中で最も印象に残る、当たり役となるであろう。夢へ邁進することをアンに伝えたヘンダーソン、夢を実現させるための教訓を教えたエッグマン、夢を持ち続けることの大切さを語ったマクドゥガル…この物語の脇役は「夢」という一本の線で繋がっているのだ(これに父の夢を伝達しに来たスコットが加わる)。
感想  ハモンド家での物語は今回が最後。私は、アンがハモンド家に来たときに「トマス家と同じ事の繰り返しではダメ」とし、ケンドリックが死んだ前回の考察で「ケンドリックの死をどのようにバートの死と差別化するかで物語に対する評価か決まる」とした。今回の物語はこの物語全体への評価が決まりかねないキーとなる話だったというのは見てみた後にも感じた。
 で上記で問題とした2点については、見事に差別化出来たと思う。まずハモンド家での物語を引っ張らなかったこと、これでアンにハモンド家の人たちに必要以上の感情を与えずに済んだ。この短さはアンがケンドリックに心を開きかけたという微妙な状況でケンドリックの死を描くこととなり、アンがケンドリックに多少の感情移入をさせる理由付けとしてはもってこいだ。これがケンドリックに心を開いてなければアンは対して悲しまないし、かといって必要以上に感情移入してしまえば葬式直後のエピソードでアンの悲しみや苦しみの矛先が変わってしまう。アンのケンドリック逝去に対する悲しみの度合いは、実際に描かれたような「ほどほど」でちょうどいいのだ。
 またこのアンの微妙な心境は、ケンドリックの葬式で話数を割いて物語のテンポを落とすことを防いだ。バートとケンドリックでは物語への貢献度が全く違うし、出てきた回数も全く違う。この程度の人物の葬儀で1話潰せば、視聴者がしらけることは明白だ。ケンドリックは主人公がそこまで悲しむべき人物ではない、だから「トマス家の繰り返しにならない」「バートの死との差別化」という面だけでなく、物語のテンポを優先させればその葬儀を描く必要など全く無いのだ。
 続いて家族の母親役についてだ。ここではジョアンナとシャーロットの「アンから見た立場の違い」を明確にしたと思う。ジョアンナはアンを赤ん坊の頃から育てているので、「自分の子ではない」と自覚しつつも何だかんだでそれなりの愛情があって全てそれが後手となったという描かれ方をされた。だからバートが死んだとき、ジョアンナはアンを頼りにした。シャーロットについては画面から去るまで「アンはあくまでも我が家の子守でしかない」という態度で一貫させた。だからシャーロットは部屋で落ち込んでいるとき、アンに声を掛けられても反応しなかった。もしあのシーンで、シャーロットがアンの言葉に元気づけられるようであればそれこそ「トマス家での物語の繰り返し」となってしまうところだった。だからあのシーンはあれでいいのだ。
 そして子供達。トマス家の子供達は何だかんだでアンを慕い、紆余曲折はあったものの長男のフォーレスについては「アンは家族の一人」という自覚を持つまでに至った。だがハモンド家の子供達にはそこまでの感情はない。自分の面倒を見てくれる大事な人、という概念だけでそれ以上の絆で結ばれることはなかった。ハモンド家の子供達が余所へ引き取られるとき、「アンも一緒に」と訴えるシーンはあったが、これも「アンが面倒を見てくれるから」という域の外には出ていない。それはそれが叶わぬと分かった後のハモンド家の子供達が、泣きわめいたりしないのを見れば明白だ。
 さらにトマス家はバートの死後、アンが出て行かざるを得なくなった以外は家族としての体を成していた。だがハモンド家の子供達はケンドリックの死後、兄妹も母親もばらばらになって家族が崩壊するという結果を迎えている。これはアンが物を分けるように子供達を分配する大人達の態度に腹を立てて、かんしゃく持ちの性格を爆発させるというきっかけとなった。もうトマス家にいた頃の穏やかなアンは、画面上には存在しない。
 以上、「トマス家での物語との比較」「バートの死とケンドリックの死の違い」という論点で書いてみたが、ここまで違えば「同じ事の繰り返し」にならなかった事は明白だろう。そして物語はいよいよ終盤へと突入する。アンの孤児院での生活、そこでの人生最悪の経験、そしてカスバート家への道のりがどのように描かれるのか、この物語の最後の注目どころについに到達したわけだ。

第32話 「最悪の始まり」
名台詞 「アンは孤児院へ向かっていました。家族のないアンがただひとつ持っているものは、ジョアンナが持たせてくれた鞄だけでした。その鞄に入っているものだけが、アンが生きてきた11年の証だったのです。」
(ナレーター)
名台詞度
 メーテルっっ!! ←野沢雅子さんの声で読もう(…意味不明)
 じゃなくて、冒頭にメーテルがアンの現況を上手く語る。アンが現在行っている行為…孤児院へ向かっている、アンの現状…家族を失い行く宛てもない、アンの持ち物…鞄に詰め込んだ自分の人生の全て。その3点の要素のうち、持っている鞄についてだけは何故か詳しく語る。鞄の中のものはこれまでの流れを覚えていれば、何も今更詳しく語る必要のないものばかりなのだが、それをわざわざ「アンが生きてきた証」と強調する辺りにこの物語の展開を示唆する部分があるのだ。
 つまりこの解説は、アンがその手に持っている「11年の証」を失うことを意味しているのだ。かつその事実を前面に押し出すこともなく、そういうものが存在していますよ〜とさらっと流すだけなのだが、それがかえって「アンがその中身を全て失う」と視聴者にうまく感じさせるように計算されている。この解説を最初に聞いて、私はそう思った。
 いずれにしろ前回流された次回予告で、アンがそれ等の持ち物を全て没収される事が示唆されていた。その上でのこの解説は物語が「それだけ」で無いことを視聴者に感じさせ、「冒頭で見ている者を物語に引き込む」という役割をうまく果たしていると感じるのだ。この解説があれば視聴者の視点は「アンの鞄」と「その中身」へと自然に流れて行くはずなのだ。
 しかしメーテルの解説がやっと名台詞欄に載った。今までいくつも名解説をしてきたのだが、その都度他のキャラクターがもっと印象深い台詞を吐いているので、なかなかここに単独で載ることが無かったのだ。
名場面 最初の授業 名場面度
 アンが孤児院へ来て最初の授業が始まる。その科目なんか何だっていい、ここで問題なのは最初に孤児院の他の子供達と対峙するアンの姿が問題となる。
 もちろんアンが教室に来られないことは予想通りだろう、そこで先生に呼び出される形で教室に来たアン。既に寄宿室でのアンの態度に、同室の少女達からは嫌われており、生徒の一人に脚を掛けられて転倒。そのまま他の少女から「赤毛」「名無し」とバカにされる。
 先生に自己紹介を促されるが、アンは「私は名無しじゃない」と怒鳴り声を上げる。そして立ち上がって「私はアンよ、アン・シャーリー、eのつくアンよ」と名乗りを上げる。アンはそのまま床を踏みつけながら「私はあんた達と同じじゃないわ、何処の誰かも分からないみすぼらしいあんた達とは違うの」と根拠のない罵声を同級生達に浴びせる、でもアンはその根拠を「ロミオとジュリエット」の台詞から引用して言う。「傷の痛みを感じたことのない者だけが、他人の傷をあざ笑う」と、これはよく言ったと思うが。同級生達にまた「あんた達には知識も想像力もなくて、シェイクスピアが誰かなんて知らない」と根拠のない罵声を浴びせて、「ここにいる全ての人を軽蔑する」と宣言する。
 二度にわたって根拠のない罵声を浴びせられれば、同級生達の怒りも誰もが納得できるだろう。このシーンはそれを狙ったのである。「孤児院へ来た」だけで相当なショックなのに「自分の人生全てを没収された」怒りでアンから冷静さを奪い、普段のアンなら吐かないような「他人への罵声」が主体となる台詞を吐かせる。これによって孤児院でのアンと同級生達の対立構造を明確化するためにこのシーンは描かれたのだ。同強制達の対立がいつまで続くのか、それともずっと対立したままなのかは展開を待たないと分からないが、この対立というのは孤児院での物語の初期において重要な役割を果たすはずなのだ。その対立を分かり易くするために、アンに「同級生達から嫌われる原因」となるきっかけを持たせることにしたのだ。
 そしてこのシーンによって、多くの人々が「アンが孤児院の同級生達から嫌われた」と明確に感じることで、物語は次のステップに進んで行くのだ。
感想  「こんにちはアン」がまたまた新展開、「ハモンド家編」が前回で終わっていよいよ終盤戦となる「孤児院編」に入る。残り話数8話で新展開もクソも無いような気もするが…私はハモンド家での物語でもう2〜3話引っ張ってから、孤児院の話は数話であっさりと描くと予想していたのでちょっと意外に感じた面もある。

 まず↑こんな感じの姉妹(手前にいるメイドは除く)が孤児院を運営しているのはちょっと笑った。あの二人はどう見てもミンチンとアメリアですね、テレビドラマ板「小公女セイラ」に対抗しているのか? 気が強く冷徹な院長と、弱気で誰にも逆らえない教師というコンビはまずこの姉妹を思い付く。この孤児院の二人が姉妹なのかどうかはわからんが。
 そしてここで「世界名作劇場」シリーズの華である「火事」を使ってきた。コッソリ部屋を抜け出して、藁が沢山積まれている倉庫で悪ガキ共が悪巧みをしているというシーンが出てきた瞬間に、咄嗟に「火事だ」と思ったあなたは「世界名作劇場」に完全に毒されているので注意すること。「こんにちはアン」では「世界名作劇場」シリーズにある3つの華のうち、「主人公または準主役の病気」(=ノアの埋没事故)と「火事」という二つを使ってきたわけだ。ちなみにもう一つは「序盤での主人公親子の別れ」だからこれは出てきようがない。
 「火事」とピンと来た人には、冒頭のメーテルの解説(名台詞欄参照)と繋がることも瞬時に分かるだろう。何かの間違いであの鞄がこの倉庫にやってきて、中身が灰と化す…そして物語がその通りに展開し、アンは自分の人生全てを失い、しかも火事場からアンの荷物が発見されるわけだからアンが放火犯と間違えられるという「世界名作劇場」の王道的な展開となるのだ。いや、マジで今回のノリは懐かしかった。
 これが孤児院に来てからかなり立っての展開だったら「出て行け!」と言うことになるのだろうが、来たばかりではそうはいかない。次回ではアンは独房に入れられるようだ…さて、次回の考察書くまでにどうガンダムネタでボケるか考えておかなきゃ。(←アホ)

第33話「恐ろしい一夜」
名台詞 「抱っこして…お願い。私、お母さんが生きていたときは、いつも抱っこしてもらってたの。髪を撫でて、そしたら怖くないから。お願いよ、だってお父さんとお母さんが死んじゃってから、誰も私の髪を撫でてくれないんだもの。寂しくてたまらないんだもの。」
(テッサ)
名台詞度
 窓の外に原因不明の光るものを見つけたアンとテッサ、二人はあまりの怖さに震え、テッサはアンに必死になってしがみつく。そして困惑するアンに震えながらこう懇願するのだ。
 テッサがこの台詞で語ったもの、それは彼女の心の中にある「両親の面影」なのだ。彼女は物心が付いてから両親を突然の出来事で失ったのだろう、だからこそ彼女の全身には両親が自分を守ってくれた感触がしっかり残っているのだ。その感触はひとつの喪失感として彼女の心を支配していて、このような恐怖の状況の時にその喪失感が一気に噴出するのである。そんな両親を失っても健気に生きる少女の現実を、しっかりと描き出している台詞だ。
 その喪失感というのは両親が髪を撫でてくれたときの感触であり、髪を撫でられているときの何とも言えない包まれている感触なのである。テッサは自分の心が恐怖感に包まれる度、この感触を思い出してはそれがないという事実に気付いてしまうのだ。
 この台詞を聞いたアンは困惑する。そう、テッサの心情が理解できないのだ。アンは物心が付く前に両親を失っているから、両親に愛された記憶がない。彼女が知っている両親は、その足跡だけなのだ。この二人を見比べてどう感じるか、それを視聴者に試しているのかも知れない。この二人についてどう感じ取るかで、今後の物語の見方までもが変わってしまう可能性があるのだろう。
 私は幼いうちに両親を亡くすなら、いっそアンのように両親の面影を記憶していない方がマシだと感じた。テッサのような両親の感触がないという喪失感に苛まれるよりも、アンのようにそれを想像力で乗り切る方が幸せなんじゃないかと。ここで私は、この孤児院にはあんよりも不幸な子供の方が多いと感じ取ることになった。
名場面 反省の部屋 名場面度
 言いたいことは一言だけ。こーゆー話は真夏にやれ!
 (注意・これは褒め言葉)
感想  まずは今回、ビデオ録画に失敗して現段階で次回予告だけは見る事が出来ていない。エンディングテーマの途中で何故かビデオデッキが停止してしまうというトラブルに見舞われてしまったのだ、従って今回の考察は本編視聴のみで次回予告は視聴していないことを明記しておく。
 いや〜、いい怪談話だった…って違うか。アンは放火の罪を着せられて…放火の濡れ衣を着せられた人がもう一人いましたっけ? 父親を失ってロンドンの寄宿学校でメイドにさせられた…そりゃおいておいて、放火の疑いをかけられてアンは独房入りとなる。で隣の部屋の捕虜が脱走を図ろうとして、アンに一緒に逃げないかと誘うわけだな、そうなったアンは大声で人を呼ぶって、ガンダムネタはガンダムのコーナーでやりましょう。
 この独房入りの一件で一貫しているのは、院長は「正直に話せば許してくれる」と大人達がささやくことだ。あれだけの子供を背負っている院長は、多分子供達の心境を見抜いているのだろう。だから院長はアンが物置に忍び込んで自分の荷物から何かを抜き出したことは見抜いている、恐らくそういう子供達が今までもたくさんいたに違いないのだ。その上で実は最初から「アンアンが放火」という疑いに関しては懐疑的なのかも知れない。院長がアンに反省を促し、事実を語るように問い詰めているのはあくまでも「部屋を抜け出して自分の荷物から何かだしていないか?」という点であり、放火のこととは別問題なのだ。アンがこれを見抜いていなかった点と、正直に言えばさらに叱られるという悪循環を予測してしまったことで話がややこしくなる。それだけではない、テッサの独房来訪によって放火の真犯人がわかりかけているのにこれを告白することも出来ないという別の悪循環を呼んでしまったのは展開としてもどかしかった。
 そして話は「アン&テッサ」と「孤児院の大人達」という二元中継になって行く。後者の方はアンが放火犯ではないという証拠が出てきてしまったがために、真犯人捜しに躍起になるのだがアンとテッサがこの事実に気付かないというまたももどかしい展開になる。そしてテッサがアンに孤児院からの脱走を持ちかけ、アンに考える間も与えず行動に出てしまう辺りは視聴者に不安を煽るという点では優れた展開だろう。ま、次回ではあのアメリア先生みたいなのに見つかるか、さもなくばアンの一言で脱走劇が終わるかどちらか何だろうけど。テッサは孤児院の他の仲間を裏切ってアンと仲良くなるのかなぁ?
 いずれにしてもここまでの物語に「子供達だけの展開」というのがほぼ無かっただけに、今回の事件はちょっと新鮮だと感じた。さ〜て、今度の土曜日の再放送で次回予告だけ見るか。

第34話「遠い町へ」
名台詞 「テッサのお母さんは、今もテッサを守っていると思うわ。アンのお父さんとお母さんが、今も何処かでアンを見てくれているのと同じように。ねぇアン、あなたはここの子供達を『何処の誰かも分からない見窄らしい子達』って言ったわね? でも本当にそうかしら? テッサだけじゃないわ、みんなにも大切な人がいたの。ニーナ・スミスは病気で亡くなったお母さんを、最期まで看病してここへやってきたわ。キャシー・メーガンは優しいおじいちゃんと暮らしていたの、亡くなったおじいちゃんが教えてくれた歌を今も歌ってるわ。ここにいる子供達は、誰もが人を愛し愛されたいと願っている。あなたの生命が一つしかないのと同じように、たったひとつの生命を生きている子供達だわ。あなたも多分よく知っているはずよ、人の生命には限りがあることを。だからこそ、今を生きていることが大切だと思わない? 今、あなたの側にいる人を大切にして生きる事が、そしてあなたも周りの人に助けられて生きる事が。助けられる事は少しも恥ずかしい事じゃないの、幸せなことなのよ。」
(ケール)
名台詞度
 う〜ん、長い。でもこの台詞全部を紹介したかった。「小公女」でいうところのアメリア先生的キャラかと思われたミス・ケールが、脱走から戻って来たアンと怖くて脱走出来なかった事と自分の過去を語ったテッサに対し、こう語りかける。
 ここまでキチンと物語を見ていた人は理解できていただろう、アンが自分がそう言われて最も深く傷ついた言葉でもって孤児院の同級生達を誹謗していたことを。誰にも引き取ってもらえずまるで腫れ物に触るような扱いをされたアンが、冷静さを失って暴走してしまうことは理解できるが、そろそろその暴走を止める役と台詞が必要であることも物語を見てきた人にはよく分かっていたことだろう。今回の話ではその暴走を止める役が誰で、どんな言葉でそれを果たすのか、それがひとつの注目点であったかも知れない。その役はアメリア先生キャラという情けない役どころであったミス・ケールが引き当て、この長い台詞がこれに該当するのだ。
 もちろん、アンが脱走して経験した恐怖も彼女が反省に転じるのに必要だった要素だが、ここでアンが学ばなければならないことは「ここにいるみんなが自分と同じ境遇だ」という事実であった。みんな両親を失い、誰も引き取り手がなかっただけではない、全ての子供達が孤児院に来る前は誰かに愛され、大事にされてきた事実である。
 それはテッサが自分の過去を語り、今でも両親の教えに従っているとしたところから始まった。両親に教えられた通り毎晩祈っているのに、ちっとも良い子になれずこんな事件を引き起こした事を苛むテッサの姿を見て、アンの心の中で何かが弾けたはずなのだ。そこへケールがこの台詞でアンに言い聞かせることになる。そのタイミングや言葉の選び方などからして、この人は教師の素質には恵まれていると感じた人も多いだろう。
 まず二人にいない「両親」について語った後、アンに対し実例を挙げながら多くの子供達が「何処の誰かも分からない見窄らしい子」などでは無いことを言い切る。そしてみんなは愛に飢えていて、この境遇の中で必死に生きているとするのだ。そしてここに来る子供達に最も響く言葉…「生命には限りがある」とした上で、とにかく今を大事にすること、仲間達と助け合いながら生きねばならないと結論づける。
 特に最後の部分、「助けられる事は恥ずかしいことではない」という基本は忘れることが多いかも知れない。自分一人でも生きていけるような錯覚に陥って、周囲の人をないがしろにしてしまう事って人間には多いことなのだ。実はこの回の前半までのアンもそうだった、ところが脱走して知らない土地に一人で放り出されたことで「力の無さ」を痛感し、他に居場所が無いことを知ったことでアンは一人では生きていけない事に気付く。そしてこの台詞で今までも助け助けられて生きてきたことを、やっと思い出すのだ。
 この長い台詞、ちょっと胸にじーんと来た。ちょっと個人的に悩んでいる事があったのだが、背中を押されたような気になった。よ〜し、やるぞっ。
名場面 判決 名場面度
 上記の名台詞によって「全てを院長に打ち明ける」と決意し、テッサには「一緒に罰を受けよう」と語ったアン。院長が帰ってくるとその言葉の通り、事件の関係者とともに院長の前に整列し、何が起きたのかを全て語った。夜中にベッドを抜け出して倉庫の鍵を持ち出したこと、大事にしていたプリンスエドワード島の写真を鞄から持ち出したこと、夜中に独房にテッサが来た事、あまりの仕打ちに耐えられず脱走したこと…。もちろんテッサも「一緒に罰を受ける覚悟がある人間」が側にいることで勇気を出したのだろう、彼女も自分が倉庫からアンの鞄を持ち出した事が原因で火災になったことを正直に語り、アンに脱走するよう唆した事も離したに違いない。
 そしてアンは自分が持ち出したプリンスエドワード島の写真を、テッサは自分がアンの鞄から持ち出したリボンを、それぞれ院長に返還する。
 話を聞いた院長は、アンとテッサが真実を語ってくれたことに安堵し、放火でなかった事は救いだったとする。その上で倉庫の鍵を持ち出すという規則を破ったことは反省の必要があるとするのだ。また倉庫の火事に関わった4人には真実を隠し続けたという事で厳しく対処する必要があるとする。という理由で判決は「朝晩1時間ずつの掃除及び夕食後に2時間の時間外学習、期間3年間」となった。さらにアンとテッサは脱走騒ぎの反省として判決による掃除箇所を「院長室」と決定される。最後に院長が「毎日の勤めを果たしながら、それぞれが自分の行いを見つめ直し、深く反省なさい。二度と同じ過ちを繰り返してはなりません」と結論を述べてこのシーンは終わる。
 院長にとって「何が問題」だったのかがよく分かるシーンだと思う。院長は火災の原因よりも子供達が正直に申し出るかどうかを問題にしていたようだ。それは判決を見れば分かる、脱走騒ぎを起こしたとは言え最終的に正直に名乗り出たアンとテッサの方が労働量が少ないのだ(院長室という緊張する空間の掃除だが)。悪ガキ4人組の方は孤児院の廊下や教室全体だろうから、遙かに大変なはずだ。
 また院長がアンとテッサを「院長室の掃除」という刑に処したのは、この二人に興味が出来たからに他ならないと思う。興味があるから近くで見てみたい…自室の掃除を担当させればこの二人の何かが見えてくるはずだと思うのだ。もちろん院長が二人に興味を持った理由は、「正直に名乗り出た」からだろう。あのような恐怖政治を運用していれば、子供達が怯えて正直に出てこないことを、院長は誰よりも知っているのだろう。
 ひょっとすると、そういう正直さこそが孤児院を正当な理由で出て行くチャンスなのかも知れない。もし子供を引き取りたいという人が孤児院に現れたとき、孤児院としても悪ガキよりも正直な者に引き取らせたいと考えるだろう。孤児院から出て行った子供がどう育つかによってその孤児院の評判が決まるはずだからだ、こうして院長は「親以外の大人に引き取られても上手くやっていける子供」を判断している可能性がある。
 いずれにしろ、この件は何らかの伏線だと信じたい。
感想  独房入りの次は脱走か、なんか「機動戦士ガンダム」の中盤ストーリーを逆になぞっているなぁ。
 今回最も強く感じたのは、トマス家編との展開の相違だろう。某氏のブログにコメントさせて頂いた事と重なるが、トマス家での物語ではアンの天性でもって周囲の大人達が取るべき道に気付くという展開が多かった。アンは天使であり頭の良い子供であり、その存在そのものが大人達の付き合う武器だったのである。ところが今回のアンは、周囲の大人から自分が進むべき道を教えられたのだ。初期の無邪気で天才的な想像力のアンは姿を潜め、大人がしっかりと行き先を指し示さないと何処へ行くか分からない「普通の子供」としてアンが描かれている。その好例は前々回辺りからのアンの暴走で、それがどう止められるかが今回の焦点だというのは名台詞欄に書いた通り。
 しかし孤児院にいる子供達に一人一人に哀しい物語がありそうでちょっと興味が、テッサの両親については前回の流れからして何処かで触れられると感じていたが、他の悪ガキ共は? 一部は名台詞欄に登場していて、子供が親と永遠に別れるという悲しみを直に訴えているようにも見えた。ちょっと今回の話は重いなぁ、誰かか死ぬ話とは違う方向で重い。
 しかし、見ている方が「もうどーでもいーや」と思っていた独房の幽霊話を、最後の最後でメーテルがぶり返すとは全くの予想外だった。あんなことしちゃったんだから、幽霊話についてもうまいオチをつけてくれよ…。

第35話「テッサの涙」
名台詞 「デラ。私ね、デラにお母さんが見つかったって聞いたとき、アンみたいに喜べなかったの。私がどんなに可愛がっても、デラはお母さんの所へ帰って幸せになるんだって思ったら、悲しかった。私は二度とお母さんに会えないのに、デラはお母さんに可愛がってもらえるんだって思ったら、デラが憎らしかったんだよ。ごめんね…ごめんね…。私、もっと強くなるよ。もっと…どんなことがあっても、デラを守るよ。だから、私を見ていて。小さな瞳で…。」
(テッサ)
名台詞度
 テッサがひとつ成長する。テッサはデラという赤ん坊の世話については本気のつもりだったが、やはり何処か足りない部分があった。それは真に愛情を注ぐこと、テッサはデラに母親が見つかったと知って急に赤ん坊の世話に対する興味が薄れ、級友が子猫を見に誘ったことでデラを一人で放置してしまう。この一件のショックから冷めないうちに、デラは母親と疑われる人物の元へ連れ去られ、そして夜中になってその母親が既にこの世の者ではないという結果でもって帰ってくる。その過程を話し合う院長達の会話を盗聴し、院長の口から孤児院の存在理由や自分達の役割…つまり院長の孤児達への愛情が語られたときにテッサは気付く、自分が私情を優先させてしまって赤ん坊に対して真の愛情を注げなかったことを。ひれに気付いたテッサが一人でデラのゆりかごへ歩き、こう呟きながら涙を流す。
 この台詞から分かることは、テッサの孤独と成長であるのだ。テッサの孤独は何よりも両親を失ったことがきっかけで、以来自分がひとりぼっちだとずっと感じていた。だが院長達がどんな思いで自分達を引き取って育てているかを知ったとき、テッサは自分が決して一人ではないという事を知ったのだろう。孤児院という設備そのものが自分とともにあり、院長や教師達の愛情があるからこそ生きていけるのである。それを知ったテッサは自分がデラにとってのそのような存在にはなり得てなかった事に気付いたのだ。院長達には「何が何でも孤児達を守る」という思いがあるが、自分にはどんな思いがあってデラの世話をしていたのか?と感じたのだろう。
 それを思い知ったからこその「もっと強くなる」という決意であり、強くなった自分の背中をこの小さな生命に見せていきたいという思いなのだ。ここに彼女は初めて本気で母性というものに気付いたのだ。それこそがテッサの成長であり、そのキャラの存在理由であろう。
 またこのキャラは、前々話の名台詞に引き続き両親がいない孤独感を見せつける役となった気がする。彼女が孤児院の子供達を代表して、孤児院の子供達の孤独や寂しさを視聴者に訴える役割を持っているのは間違いなさそうだ。
名場面 デラとの別れ 名場面度
 孤児院の玄関に捨てられていた赤ん坊のデラ、だが唐突に母親が判明して別れの時がやってくる。これを聞いたテッサは「この子には母親がいる」という嫉妬感を感じて、急激に赤ん坊の世話に対する興味が薄れ、他の子に子猫を見ようと誘われたことでデラの転落事故を引き起こしてしまう。そのショックから冷めないうちにデラは母親と疑われる人物の所へ帰されることになって孤児院から姿を消す。アンは唖然とその馬車を見送り、テッサはデラがいなくなったゆりかごを見つめて立ち尽くす。
 物語が幸せモードから急転直下する部分だが、この時のテッサの哀愁がたまらなく印象に残った。幼いデラに怪我をさせてしまったという後悔の念、ついさっきまで自分を幸せの絶頂に持ち上げていた存在に対する喪失感、そして「この子には母親がいる」とていう嫉妬心…数秒とない無言シーンによくこれだけ詰め込んだと感心した。
 この後悔と喪失感と嫉妬心がテッサを成長させる、それについては名台詞欄参照。。
感想  さすがに赤ん坊の声は野原ひまわりちゃんとはちょっと違うようだ。喃語の部分を聞いたときはまたか?と思いかけたが、以外のシーンではノアと声が違うし。まぁスタッフロールに配役が出ていないので断定は出来ないが…。
 今回は名場面・名台詞欄ともその考察に注ぐことになった「テッサの成長」という部分がしても大きい。私は今回の展開を、テッサが主役を持って行ったと解釈している。名場面・名台詞欄に挙げた以外でも、テッサが悪ガキ共の言いなりにならなくなった点も彼女の成長点としていいだろう。赤ん坊の世話をするテッサを冷やかした悪ガキ共に、もうあんたらは必要でないと突き付けるシーンは痛快であり、テッサはこの悪ガキ共からのいじめに打ち勝ったシーンとして記憶に残りそうだ。だがこれは物語の本筋から外れるため、名場面・名台詞欄には取り上げなかった。
 また孤児院の理念を語る院長も良い、テッサの最後の台詞(名台詞欄)が無ければ間違いなくこっちを名台詞に挙げただろう。アンですら定員一杯の所に無理矢理押し込まれただけであり、決して歓迎される存在ではないがそれを受け止めるのが自分達の役割だとし、そうでなければアンだって行き場がないのだからそれを作ってやらねばならないというのは院長の愛なのだ。嫌〜なおばはんに見えるが、愛情に満ちた人間でなきゃ孤児院なんて経営できないだろう。
 いよいよ次からカスバート家への道のりが開けるようだ、残りあと4話。どういうラストを迎えるか楽しみになってきたぞ。

第36話「希望の手紙」
名台詞 「ねえ、ケティ、ビオレッタ、あなたたちは今どうしてる? 私は独りよ。こんなに大勢の子が周りにいるのにね。ここへ来てからは、自分が猛烈なおしゃべりだったことを忘れてしまいそうだわ。この頃、ここへ座って大好きだった人たちの事ばかり思い出しているの。誰かを大切にしたり、誰かに大切にされるのって、本当に素敵な事ね。勉強ができたり、人気者になったり、大きなお屋敷に住んだり、そう言うことも素敵だけど、誰かを大切にして誰かに大切にされて、私にはそれが一番幸せなことなんだわ。ああ、波間に揺れるゆりかご、プリンスエドワード島。もし、もし私がプリンスエドワード島に行けたら、空には虹が架かっていて、ささやくそよ風が通り過ぎるの。花の咲く小径の向こうには美しい屋根のお家があって、沢山遊んで、お家に帰ると夕ご飯を作るいい臭いがしているのよ。ただいまってドアを開けると、おかえりアンって抱きしめてくれる人がいるの。そんな日が来たら、本当に来たら…私、世界中の日だまりを独り占めしたような、幸せな気持ちになるでしょうね。」
(アン)
名台詞度
 現段階においての、そして物語終盤へ向けてのアンの心の中の全てがここに吐露された台詞だ。デラの相手はテッサに全部取られてしまい、孤児院で同世代の友人に恵まれていないアンは孤独の時間が多く、納屋の側で独りの時を過ごす。その時のアンの独り言がこれだ。
 この台詞にはアンの持つ過去、現在、そして未来の希望が全て詰め込まれている。
 過去というのはアンが心を開いていた友人達の名を挙げるだけでなく、そういう人々に教わった「人を大切にしたり人から大切にされること」の重要性と幸せを語る点である。
 続いてアンの現在は、自分がおしゃべりであったことを忘れてしまうほどの孤独を味わっている事実。アンの孤独を味わうシーンは、トマス家でもハモンド家でも描かれているが、孤児院での孤独はそれを大きく上回っている。その理由はアンも語っている通り、大勢の同世代の子供達がいるのに話し相手がいないという事実だ。恐らくアンの話し相手として機能しているのは、テッサ一人なのだろう。
 そしてこの台詞の後半、プリンスエドワード島について語るところからがアンが希望する未来である。彼女が求めている物はありふれた物でしかないが、そのありふれた物が今のアンには欠けているという現実をも示唆してくれる。実は人間が未来に希望するものというのは、現在の現実において欠けている物であることが多い。
 この台詞は終盤へ向け、アンの現況を再確認するために存在していると思う。恐らく交通整理的なものだ。ここまではアンが孤児院にやってきたことによるドタバタが中心であり、物語の展開は殆ど止まっていたが、ここでアンの現況を再確認したことで視聴者に「物語が進む」と示唆することになる重要な台詞だ。そしてその通り、次のシーンでは新展開への伏線としてのシーンに入って行くことになるのだ。
名場面 テッサの涙 名場面度
 それは前回のサブタイトルだろーって突っ込みを入れたくなる人は多いと思うが、前回のテッサの涙より今回の方が胸にじーんと来る物があった。アンかエドナのどちらかか「楽しいプリンスエドワード島行き」と決まり、浮かれているアンを悲しそうな目で見るテッサ。浮かれたままテッサに声を掛けたアンに、「よ、よかったねアン、選ばれると良いね」と言うと涙を堪えることができなくなり、遂にデラがいる部屋へ走り出す。
 アンがテッサを追うと、テッサはデラに声を掛けていた。今までドジでバカで無視されていた自分に声を掛けてくれたアンがとても好きだと言う事、そのアンがプリンスエドワード島に行きたがっていること、だけど自分は何処へも行かない事…「ずっとそばにいるよ、デラを守るから、ずっと…」と泣きながらデラに声を掛けるテッサの姿があった。
 このシーンでは「楽しいプリンスエドワード島行き」の選外になった者達の悔しさや悲しさがキチンと描かれている。アンとエドナが候補に挙がり、リリーに付いては決定していることで「めでたしめでたし」とはせず、キチンと選外となった者の気持ちを描いた点で評価できると思うのだ。もちろんテッサにはやっとできたアンという友人を失うこと、デラを一緒に育ててきた同士を失うことの悲しみもあっただろう。それだけではない、テッサも孤児院を出ていって親代わりとなる人と出会える日を夢見ていたはずだし、アンのプリンスエドワード島に対する想いほどではないにしろ、行きたい土地があるはずなのだ。息苦しい孤児院を脱して、そのようなチャンスが巡ってきたアンに対して嫉妬の感情が生まれるのは容易に想像できるだろう。
 それとは別に、友人であるアンにそのようなチャンスが巡ってきた事を嬉しく思うテッサも、心の何処かにいるはずだ。だからこそ最初は、浮かれているアンの様子を黙ってみていられたのだし、「よかったね」という言葉が口から出てきていたりしたのだ。
 このテッサの涙は、前話より複雑なテッサの感情がよく再現されている。そのような理由で、前回のアンから主役を奪ったテッサの姿よりも印象に残った。
感想  スペンサー夫人キターーーーーーーーーーーー!! カスバート兄妹キターーーーーーーーーーーー!! ついにこの人たちの名前が出てくるようになったか。ちなみにリリーって、前回まで通りすがりで出ていたあのハイジ顔の子供だったのね。声がタラちゃんじゃないのはがっかり、声優さんが同じ声で演技できるのだからタラちゃんにすればよかったのに…って予算の都合かな?
 エドナについては悪知恵の働く少女というものをうまく描いたと思う。名場面シーンの直後、「みんなと別れたくない」と振り向いた直後の不気味な笑顔でエドナの悪女ぶりを見抜いた人は「世界名作劇場」シリーズに毒されている人と見ていいだろう。あの笑みに気付くと、この後のアンとの感動的なシーンでは「嘘はないが何か企んでいる」と見抜けるし、何よりもそれにホイホイ騙されてしまうアンを見て不安になったりするものだ。いや、前述の通りエドナが母親に捨てられたという設定は嘘ではないだろう、多分次回はその辺りの話だろうし。
 そう言えば去年の「ポルフィの長い旅」にもこのテのキャラは二人いたが、一人はあっけなく死んでしまい、もう一人はポルフィの味方側の人物だったからこのような面を出すことはなかったなぁ。「こんにちはアン」でもミルドレッドがこの役割になるかと思ったら、意外にあっけなく和解してしまうし。今回ももう残り話数を考えればそんな活躍は望めないところだ、企みがバレた後にいろいろあった末、和解して「楽しいプリンスエドワード島行きはアンが…」とかマジで言い出しちゃったりする分かりきった展開…だったら面白くないなぁ。
 孤児院は屈折した奴が多いから、アンやテッサのような真っ直ぐな性格の人間には辛いところだという描写は上手く行ってると思う。端から見るとアンは対して苦労していないように見えるが、よく見てみると孤児院のアンはハモンド家より辛い立場にあるのは確かだ。 

第37話「ひだまりに抱かれて」
名台詞 「憶測でものを言ってはいけません。全ては事実を明らかにしてからです。」
(カーライル)
名台詞度
 「楽しいプリンスエドワード島行き」の条件に当てはまっていた2名が喧嘩をするという騒ぎを起こした翌日、院長室でジョセフが「アンは自ら断りに来た」「喧嘩をふっかけたのはアン」だという理由で「楽しいプリンスエドワード島行き」はエドナにすべきだとする。確かに状況を見れば騒ぎを立て続けに起こしているアンには不利だが、院長はあくまでも慎重で簡単に結論を出そうとしない。特にエドナの母親の消息が明らかになろうとしているこの段階ではなおさらで、エドナの母親が健在であるならばエドナをプリンスエドワード島に行かせるには母親の承認が必要になるからだ。ジョセフはエドナの母親について「捨てていったりだから娘が何処へ行こうが興味など無いと思われる」と憶測を言うが、その見極めが必要だと言う説明を院長はこのたった一言で済ませる。
 この台詞から「孤児院」というところや、そこにいる子供達やその親の特殊性というのが見えてくる。エドナのように母親が子供を孤児院に捨てていったという例は少なくないはずだが、その全てが「子供が邪魔」だという理由ではないことを院長は知っているのだ。病気や経済的困窮など、止むに止まれぬ事情で子供を手放さざるを得ない大人の存在を院長は知っており、親がそのような事情がある場合は時間が掛かっても親に「迎えに来る」意志がある場合が多いのだろう。だからこそ院長はエドナが捨て子であって孤児のアンとは立場が違うから判断に慎重で、もし母親が健在ならエドナを捨てた理由が明らかにしない限りはエドナを孤児院から出すわけには行かなかったのだろう。
 多分この「楽しいプリンスエドワード島行き」の選出者は、院長の中ではアンで内定していると推測される。もちろん理由は上述の通り、アンは孤児で身寄りが全く無く、エドナは母親が健在である可能性が高いからだ。母親が健在ならば孤児院の長として、その子供を親元へ返すのが使命だと分かっているのだろう。逆に孤児ならば責任を持って親代わりになる人に託さなければならないという自分の使命も知っているはずだ。その使命に従えばエドナについては母親の所へ返す努力をするべきで、アンを引き取りを申し出ている人の元へ送ってやるのが筋だと彼女は考えているに違いない。そういう院長の考えもこの台詞を通じて見えてくるのだ。
名場面 「ジュディ」の秘密 名場面度
 アンはエドナが川に捨てた人形「ジュディ」を何とか拾おうと、日が暮れても川で四苦八苦していた。孤児院ではアンが日が傾いても帰ってこないと大騒ぎになり、「アンは川にいる」と打ち明けたエドナを先頭にジョセフ先生達が川辺でアンを探す。すると川沿いの林の暗闇から「ジュディ」を抱いたアンが現れるのだ。アンは川に落ちてびしょ濡れになりつつも何とか拾った「ジュディ」をアンに渡す、そこへジョセフ先生が現れて孤児院へ帰るが、その帰り道にエドナの母親がケール先生に連れられて現れる。エドナの母親は「ジュディ」を見て「持っててくれたんだね」と歓喜したあと、その人形を取り上げて背中の縫い目を開いて中を探る。「あった」と小さく声を上げたと思うと、「ジュディ」の背中から指輪が出てくるのだ。その指輪はエドナの両親の結婚指輪であった。
 エドナの母は最初に出てきた時から、エドナが「ジュディ」という人形を持っているかどうかを気にしていた。それだけにしていると言う事は何かしらの秘密がこの人形に隠されていることは間違いないと、視聴者は注目してみることだろう。そして背中から出てくる両親の結婚指輪、母親は病気を理由に娘を孤児院に託さざるを得なくなったが、親子の絆は離すまいとエドナに自分の手作りの人形を持たせた。そしてその人形の中にはエドナを孤児院に置いて行くより以前から、結婚指輪を隠していたのだろう。これこそが離ればなれになっても親子は繋がっているという絆そのものであり、母親の「いつかは迎えに行きたい」という意志の現れでもあるのだ。つまりあの人形には母親の愛と、家族の絆が隠されていたのだ。
 この事実を知ったエドナは当然母親の胸に飛び込んで号泣する。その光景を見てケールももらい泣き、あのいつも怒鳴ったばかりの男教師であるジョセフももらい泣きしている。そしてその光景を少し離れたところで見守る院長、恐らく彼女はこの瞬間に「楽しいプリンスエドワード島行き」はアンと心の中で決断したと思われる。エドナにはいつか迎えに来る母親がいると判断したことだろう。
感想  いやぁ、アンとエドナの喧嘩シーンは見ていて大迫力だったなぁ。「こんにちはアン」も含めて色んなアニメで喧嘩シーンを見ていたが、このシーンは近年稀に見る迫力だったと思う。それに喧嘩した罰を二人に与える院長先生の迫力も近年稀に見るものだ、罰を受け入れなかった場合に体罰に使用する杖を振り回してたもんなぁ。その院長は「あなたほど騒ぎを起こすのが得意な子供は初めて」し評する、言われてみると孤児院に来てからアンは何度事件を起こしたことか…そういやマリラ・カスバートは後日アンを「ゴタゴタを起こす天才」と評することになるんだよなぁ。
 今回からの残り3回の間でアンの「楽しいプリンスエドワード島行き」が決まるのは間違いないと思われるが(正式決定は次回だろう)、恐らく今回はそのたったひとつの切符を巡るエドナとの攻防戦だったわけだ。だが私の解釈としてはエドナの母親の行方が分かりそうだという事実でもって、プリンスエドワード島行きはアンに内定したと解釈している。その理由は名台詞欄や名場面欄に書いた通り。そして今回のラストシーンではその解釈が間違いないと判断できるものであった、理由はどうあれ母親が健在のエドナを見せられたらそう感じる人は多いだろう。
 残り2話、次はアンが再度独房入りになったり、エイミー・トンプソンの謎が解けるだけの話ではないのは確かだろう。それらの展開を通じてどのような形でアンに「楽しいプリンスエドワード島行き」が告げられるのかが焦点になるはずだ。そして次々回、最終回は話を大団円に持って行くためのエピローグ的な話であろう。まさか去年の「ポルフィの長い旅」みたいに、本編が終わったらオチも大団円もなく終わりなんて展開はやめてくれよ。

第38話「花咲ける朝に」
名台詞 「(前略)私は先生のような穏和な人格者には程遠く、子供が苦手なのです。だから何か迷ったとき、大事な決断をするとき、この道を辿り先生の眠る場所へ行って先生ならどうするかと考えるのです。あなたがここへ来た夜もそうでした、火事に平静を失ってあなたにほんの僅かでも疑いを掛けてしまった。誤った判断をしたかも知れないと、先生に相談に行かずにはいられませんでした。いくつになっても反省とやり直しの繰り返しです。先生はよく口癖のように言っていました、「人は愛されて生きて行く」のだと。」
(カーライル)
名台詞度
 院長先生がアンに自分の過去を全て語る。アンはエドナの人形を追った事を「二度目の脱走」と判断され例の独房に放り込まれるが、そこへエドナから事情を全て聞き、さらにテッサから「楽しいプリンスエドワード島行き」をアンにするよう懇願された院長がやってきたのだ。そして彼女はアンに「エイミー・トンプソン」について語り、自分の過去を語る。そして先代カーライル院長の墓所を目指して歩くシーンで語られた結論部分がこの台詞である。
 本来ならば院長の語りを全部この欄に挙げたかったが、とにかく長すぎるのでこの部分をここに紹介することにした。ただ偉そうにしている嫌味なおばさんではなく、弱みを持った一人の「人間」としてこの院長かとても人間くさく描かれているのだ。自分が人格者ではは無いことをしっかり認識し、子供が苦手で本来このような孤児院で院長をやるには向いていないかも知れないと感じている部分もキチンと吐露する。その上で自分が子供達と対峙するに辺ってはいつも苦悩の連続であり、苦悩したときに自分を育ててきた人間についすがってしまう人間臭さを、アンと視聴者に見せるのだ。孤児院編での冒頭を飾った火事のシーンでもそれは同じで、同時にアンが独房から見た森の中の灯りについての正体も、実は院長がランプを持って墓所に向かっていたという事がハッキリする。
 そして苦悩して、「やり過ぎた」と反省して、またやり直す…そう言えば33〜34話の流れがこの台詞に合致していて、実は院長がこのループをしていたことがよく分かる。これらの過去の語りでもって院長の人間くささ、弱さ、そして優しさが表に出てきて、この院長も「世界名作劇場」シリーズを彩ってきた「最初は嫌なおばさんとして描かれるが実はいい人」の一人として記憶に残ることだろう。
 そして、今院長が先代カーライル院長の墓所へ向かっていると言う事は、まさに重大な決断をしようとしているところである。それは名場面欄に。
名場面 花咲ける朝 名場面度
 先代カーライル院長の墓所を訪れたアンと院長、名台詞欄の通り院長がここに来たと言う事は「何か重大な決断が控えているから」という意味であることは、多くの視聴者が感付いたことだろう。そして院長はアンにこう言う。

「アン、私はあなたがいつも直向きだったことを知っています。あなたは一度も嘘を吐かなかった、起きた出来事にどんなときも誠実でした、規則はたびたび破りましたがキチンと罰を受け反省もしました。ここへ来る前も、あなたはきっと人を裏切らず、今という時を心を込めて生きてきたのでしょう。カーライル先生ならこう仰るはずです、『あなたは今その真心に相応しい贈り物を受け取る時です』。アン・シャーリー、プリンスエドワード島に行きなさい。テッサのデラのことは私たちに任せなさい。テッサもそれを望んでいます。プリンスエドワード島にはきっと、あなたを愛する人が待っています。」

 そう、もちろん院長は「楽しいプリンスエドワード島行き」をアンにするという最終決断の報告と、先代カーライル院長に本人を見せて安心させるべくこの墓地を訪れたのだ。院長は先代カーライル院長も「アンにすべき」と語ったように感じたのだろう。この言葉でもってアンに「楽しいプリンスエドワード島行き」を告げる。
 もちろんアンは、しっかり返事した後、喜んで空想の世界に入り込んでしまう。と思うと突然その場に倒れてしまう。実はアンは高熱を出しており、にも関わらずこのような行動を取ったため限界だったのだ。それに対し、「最後まで人騒がせな子、だから子供は苦手なのです」と言い残す院長は、人間くさくて大好きだ。
 こうして物語の「結論」が得られ、「こんにちはアン」は本編的な展開を終える。以降は物語にキチンとオチを付けて大団円にすべく付録みたいなものだ。この物語の「結論」が得られる大事なシーンは、さわやかな朝のシーンとして仕上げられた。美しく咲く春の花、朝日を浴びて舞う蝶の姿…ここまでの陰鬱な展開を吹き飛ばすような爽快シーンとして上手く描かれている。そう、ここまでの展開はずっと「夜」で、このシーンでやっと「朝」が来たのだ。物語全体をそう投影できるよう、このシーンを描いたのだ。
 ちなみに、去年の「ポルフィの長い旅」の展開をこの「こんにちはアン」と置き換えたら、その「こんにちはアン」このシーンで終わりだ。今更批判するのも難だが、「ポルフィの長い旅」のラストは「物語に結論が出た」だけであって大団円のない、全く締まりのない終わり方でやっぱスッキリしない。「物語の結論」と「みんなが幸せになる大団円」は別物であり、「こんにちはアン」はここから「みんなが幸せになる」ための大団円へと話が進んで行く。以降は「オチ」だ。
感想  エイミー・トンプソンの正体を知ったとき、「そうきたかーっ」とテレビに向かって叫んでしまった。先代院長が「カーライル」という名前であると分かったとき「まさか…」と思い、院長が「あの時の痛みは、今も私の胸にしまわれています」と行ったときの私の反応はアンの台詞と全く同じ、自分の声とアンの声がハモって気持ち悪かったぞ。
 んで後半は、エッグマンキターーーーーーーーーーーー、ヘンダーソン先生キターーーーーーーーーーーー。マクトゥガルが久々に出てきてどういう展開になるかと思ったら、エッグマン夫妻に話が繋がるとは思いもしなかった。3人とももう出てこないと踏んでいたので、ここでの復活は意外だった。しかもジョアンナも名前だけ出てきて、アンに小包を送るなどそれなりに愛情を注いでいるし、もう「そう言えばそんな奴いたなぁ」状態のエリーザからの手紙なんて言うのも出てくる。最終回の大団円に向けての準備万端という展開になったわけだ。
 それより、院長の語りはこの人の「人の良さ」「誠実さ」がとてもよく出ていて涙が出そうだった。詳しくは名場面、名台詞シーンに書いたが。今回は良い台詞が多く、名台詞を選び出すのに苦労した。さすがは「世界名作劇場」シリーズの最終回ひとつ前だと感心した。

第39話「プリンスエドワード島へ」
名台詞 「アンはこれから始まる毎日を想像しました。家族として、友として、迎えてくれる人々の顔を時を忘れて思い浮かべるのでした。幸せの翼に守られた日々が、今始まろうとしていました。」
(ナレーター)
名台詞度
 最終話の名台詞は凄く悩んだ。序盤のエッグマンはいくつも名台詞と言える台詞を吐いているし、中盤の院長先生の台詞もこれまた印象深い、アンが孤児院を去ったシーンでケールがボソっと呟いた一言もたまらないし、連絡船のタラップでのアンの呟きも印象深い。正直言ってこの日のサイト更新のアップがいつもより遅い時間になった理由は、名台詞欄の台詞を選んだからに他ならない。悩みに悩んで選んだのが最後のメーテルの解説となったこの台詞である。
 もちろんこれは物語の終わりを告げる台詞である、だが「物語の終わり」を決して感じさせない台詞なのだ。それはあまくでもアンの心が前向きで、これからの生活に思いを馳せるという状況であったことだろう。その結果この「物語の終わり」を告げるはずの解説が、物語の続編の存在を示唆する台詞となって仕上がり、この後に続く物語が先にあるという「こんにちはアン」の特殊事情を象徴する解説となった。
 またアンの今後を「幸せの翼に守られる」と表現したのは、もし「赤毛のアン」という物語が先になくてもここで区切りを付けて終われるという作りになっていて興味深い。それは当然「赤毛のアン」を知らずにこの物語を見る人への対処であろうし、続きが気になるなら「赤毛のアン」を見てくれという宣伝でもあるだろう。宣伝効果を控えめにしている点で秀逸な解説だ。これで「続きは赤毛のアンがある」みたいなことをメーテルが言い出していたら、白けに白けてエンディングテーマを待たずにテレビのスイッチを切ったであろう。
 今回は名台詞欄に挙げる候補の台詞が多すぎたので、そのうちどれかを「次点」として挙げる事はしません。これ以上悩んだら日付が変わる前にアップ出来なくなる。
名場面 孤児院からの旅立ち 名場面度
 荷物をまとめて着替えたアンは、孤児院の悪ガキ4人組を除く主要メンバーの見送りを受けて旅立つ時が来た。アンが玄関から出てくるとテッサがデラを連れて出てきて、「今日は絶対に泣かないよ」と言い切る。そんなテッサとデラにアンはサディから貰ったリボンを譲る、2人の髪にリボンを付け終えるとアンはテッサを抱きしめ「泣き虫テッサも大好きよ」と言う。そこでテッサの涙腺が瞬時に緩む、アンも涙を流しながらテッサを強く抱きしめると「早く行って、涙がこぼれちゃうから」とテッサが涙ながらに訴えるが、アンはテッサを抱きしめる腕を緩めようとしない。アンが気が済むまでテッサを抱きしめると、今度は逃げるように馬車に乗り込む。そして馬車が発車すると、アンは振り返って別れの挨拶の言葉を掛ける。号泣しながら見送るテッサは「私、絶対に幸せになるよ!」とアンに返す。
 この場面を名シーンに選んだのはこの先だ、見送りに出なかった悪ガキ4人組の様子に場面が切り替わるのだ。そこでエドナがアンがエッグマンから受け取った花を持って、前々話でアンがエドナのために泣いたことを思い出す。そして「さよなら、お人好し」と呟くのだ。
 このシーンを持って「こんにちはアン」単体として物語が終わったとしてもいいだろう。残りは過去に画面から去った人の近況報告と彼らを大団円に持って行くための追加ストーリーと、「赤毛のアン」という続編に繋げるための物語である。それは必要かつ大事な要素だが、物語本筋からは若干逸れているように感じるのだ。それと置いておいて、ここではアンの孤児院での物語の終章を美しく描いたと思う。特にテッサのやりとりは多くの人が2人の成長を感じ取ったことだろう。互いに孤児院で初めて出会った気心が知れる相手であり、最終回という局面でもその2人の別れと成長をキチンと描く事を忘れなかった点は評価できる。
 それにエドナの様子がこれまたいい。これでエドナがテッサばりに表に出てきて、泣いたりしたらこのシーンは完全に白けたと思う。そうせずにエドナはエドナで、悪女らしい別れ方をするという点はうまく考えたと思うのだ。その時の台詞まで本当にうまく選んだと思う、本当は良い子なのに悪女を装って最後までそれに徹するエドナを描いた点は、この孤児院シーンの最後で白けるのを防止した最大の要因だと思う。
 こうしてアンはいよいよ、「こんにちはアン」から「赤毛のアン」の物語へと進んでいくのだ。今回は最終回だけど完結じゃない、難しい話だ。
感想  とてもいい終わり方だった。この物語の続きとなるべく「赤毛のアン」が、プリンスエドワード島への連絡船の船上で始まることを考えれば、船上で前を見据えるアンで終わるのは正解だ。ただアンが孤児院を出るときに、孤児院の中の木に別れを言うシーンが無かったのだけは心残り。だがアンだけではなく、スペンサーやリリーも「赤毛のアン」第1話と全く同じ服装なのは恐れ入った。さらに言うとアンが乗ったプリンスエドワード島への連絡船も、船影や色が「赤毛のアン」第一話で描かれたのと全く同じだ。
 それはともかく、物語としても上手くオチをつけた最終回だと思う。前話で物語の結論を出し、今回は「孤児院編の完結」と画面から去った登場人物の「その後」を追う展開へ持って行った。エッグマン夫妻の登場、エリーザとジョアンナからの手紙。それらの中で出てくるミルドレッドやトマス兄妹の近況、エリーザのそれからと娘に「アン」と名付けたという事実…特に19話でミルドレッドに渡しただけでほったらかしにされていた「魔法のどんぐり」が、ここで伏線として回収された点は評価したい。それによってミルドレットがろくでもない親の下で、自分に与えられた運命に体当たりし、今でもアンに支えられながら一所懸命やっているという事実が明確にされ、多くの視聴者が安心したことだろう。
 伏線と言えば、ちゃんとアンの生まれ故郷でもある「小さな黄色い家」や、ジョアンナが語るアンの両親についても語られた。これで語りこぼしや、食べかけの設定はほぼなくなっただろう。この辺りは去年の某長い旅とは大違いだ。
 それだけではなく、内容的にも、画面上でもオープニングテーマと一致させたのも興味深い。いろいろと作りが細かい最終回で驚いた。ただ欠点を挙げるならば、最後の方はちょっと話を延ばしすぎだと思う、最後にアンが旅立ちの気持ちを語るのはちょっとしつこいと感じた。
 さらにラストシーンまでをちゃんと本編の規定時間内に終わらせ、いつも通り「やったねマーチ」で終わらせた点も評価したい。無理に感動させるわけでもなく、いつも通り終わるのはこの先に「赤毛のアン」という物語が存在していることを示唆していると受け取れるのだ。
 正直言って、去年の「ポルフィの長い旅」がろくでもない終わり方が何度も脳裏に浮かんで、「やったねマーチ」が流れるまで気が気じゃなかった。決して大団円ではない単なる「物語の結論」を大袈裟に感動的に描いて、いつもと違うエンディングで大仰に終わらせる無茶をここでやられたら台無しだったからだ。この「こんにちはアン」では、既に「物語の結論」はあっさりと描かれた後だから心配することは無いはずなのだが…去年の「ポルフィの長い旅」の終わり方は、それほど私にとって悪影響を及ぼしているのだ。
 いずれにしろ、4月の放送開始からこの考察にお付き合い頂いた皆さん、どうもお疲れ様でした。それに初回から欠かさず見ていた皆さんはお疲れ様でした。今年は次回作の予告がこの期に及んでまだ入ってませんが、来年の新作に期待しましょう!

前ページ「あにめの記憶」トップへ次ページ