第34話「遠い町へ」 |
名台詞 |
「テッサのお母さんは、今もテッサを守っていると思うわ。アンのお父さんとお母さんが、今も何処かでアンを見てくれているのと同じように。ねぇアン、あなたはここの子供達を『何処の誰かも分からない見窄らしい子達』って言ったわね?
でも本当にそうかしら? テッサだけじゃないわ、みんなにも大切な人がいたの。ニーナ・スミスは病気で亡くなったお母さんを、最期まで看病してここへやってきたわ。キャシー・メーガンは優しいおじいちゃんと暮らしていたの、亡くなったおじいちゃんが教えてくれた歌を今も歌ってるわ。ここにいる子供達は、誰もが人を愛し愛されたいと願っている。あなたの生命が一つしかないのと同じように、たったひとつの生命を生きている子供達だわ。あなたも多分よく知っているはずよ、人の生命には限りがあることを。だからこそ、今を生きていることが大切だと思わない?
今、あなたの側にいる人を大切にして生きる事が、そしてあなたも周りの人に助けられて生きる事が。助けられる事は少しも恥ずかしい事じゃないの、幸せなことなのよ。」
(ケール) |
名台詞度
? |
う〜ん、長い。でもこの台詞全部を紹介したかった。「小公女」でいうところのアメリア先生的キャラかと思われたミス・ケールが、脱走から戻って来たアンと怖くて脱走出来なかった事と自分の過去を語ったテッサに対し、こう語りかける。
ここまでキチンと物語を見ていた人は理解できていただろう、アンが自分がそう言われて最も深く傷ついた言葉でもって孤児院の同級生達を誹謗していたことを。誰にも引き取ってもらえずまるで腫れ物に触るような扱いをされたアンが、冷静さを失って暴走してしまうことは理解できるが、そろそろその暴走を止める役と台詞が必要であることも物語を見てきた人にはよく分かっていたことだろう。今回の話ではその暴走を止める役が誰で、どんな言葉でそれを果たすのか、それがひとつの注目点であったかも知れない。その役はアメリア先生キャラという情けない役どころであったミス・ケールが引き当て、この長い台詞がこれに該当するのだ。
もちろん、アンが脱走して経験した恐怖も彼女が反省に転じるのに必要だった要素だが、ここでアンが学ばなければならないことは「ここにいるみんなが自分と同じ境遇だ」という事実であった。みんな両親を失い、誰も引き取り手がなかっただけではない、全ての子供達が孤児院に来る前は誰かに愛され、大事にされてきた事実である。
それはテッサが自分の過去を語り、今でも両親の教えに従っているとしたところから始まった。両親に教えられた通り毎晩祈っているのに、ちっとも良い子になれずこんな事件を引き起こした事を苛むテッサの姿を見て、アンの心の中で何かが弾けたはずなのだ。そこへケールがこの台詞でアンに言い聞かせることになる。そのタイミングや言葉の選び方などからして、この人は教師の素質には恵まれていると感じた人も多いだろう。
まず二人にいない「両親」について語った後、アンに対し実例を挙げながら多くの子供達が「何処の誰かも分からない見窄らしい子」などでは無いことを言い切る。そしてみんなは愛に飢えていて、この境遇の中で必死に生きているとするのだ。そしてここに来る子供達に最も響く言葉…「生命には限りがある」とした上で、とにかく今を大事にすること、仲間達と助け合いながら生きねばならないと結論づける。
特に最後の部分、「助けられる事は恥ずかしいことではない」という基本は忘れることが多いかも知れない。自分一人でも生きていけるような錯覚に陥って、周囲の人をないがしろにしてしまう事って人間には多いことなのだ。実はこの回の前半までのアンもそうだった、ところが脱走して知らない土地に一人で放り出されたことで「力の無さ」を痛感し、他に居場所が無いことを知ったことでアンは一人では生きていけない事に気付く。そしてこの台詞で今までも助け助けられて生きてきたことを、やっと思い出すのだ。
この長い台詞、ちょっと胸にじーんと来た。ちょっと個人的に悩んでいる事があったのだが、背中を押されたような気になった。よ〜し、やるぞっ。 |
名場面 |
判決。 |
名場面度
? |
上記の名台詞によって「全てを院長に打ち明ける」と決意し、テッサには「一緒に罰を受けよう」と語ったアン。院長が帰ってくるとその言葉の通り、事件の関係者とともに院長の前に整列し、何が起きたのかを全て語った。夜中にベッドを抜け出して倉庫の鍵を持ち出したこと、大事にしていたプリンスエドワード島の写真を鞄から持ち出したこと、夜中に独房にテッサが来た事、あまりの仕打ちに耐えられず脱走したこと…。もちろんテッサも「一緒に罰を受ける覚悟がある人間」が側にいることで勇気を出したのだろう、彼女も自分が倉庫からアンの鞄を持ち出した事が原因で火災になったことを正直に語り、アンに脱走するよう唆した事も離したに違いない。
そしてアンは自分が持ち出したプリンスエドワード島の写真を、テッサは自分がアンの鞄から持ち出したリボンを、それぞれ院長に返還する。
話を聞いた院長は、アンとテッサが真実を語ってくれたことに安堵し、放火でなかった事は救いだったとする。その上で倉庫の鍵を持ち出すという規則を破ったことは反省の必要があるとするのだ。また倉庫の火事に関わった4人には真実を隠し続けたという事で厳しく対処する必要があるとする。という理由で判決は「朝晩1時間ずつの掃除及び夕食後に2時間の時間外学習、期間3年間」となった。さらにアンとテッサは脱走騒ぎの反省として判決による掃除箇所を「院長室」と決定される。最後に院長が「毎日の勤めを果たしながら、それぞれが自分の行いを見つめ直し、深く反省なさい。二度と同じ過ちを繰り返してはなりません」と結論を述べてこのシーンは終わる。
院長にとって「何が問題」だったのかがよく分かるシーンだと思う。院長は火災の原因よりも子供達が正直に申し出るかどうかを問題にしていたようだ。それは判決を見れば分かる、脱走騒ぎを起こしたとは言え最終的に正直に名乗り出たアンとテッサの方が労働量が少ないのだ(院長室という緊張する空間の掃除だが)。悪ガキ4人組の方は孤児院の廊下や教室全体だろうから、遙かに大変なはずだ。
また院長がアンとテッサを「院長室の掃除」という刑に処したのは、この二人に興味が出来たからに他ならないと思う。興味があるから近くで見てみたい…自室の掃除を担当させればこの二人の何かが見えてくるはずだと思うのだ。もちろん院長が二人に興味を持った理由は、「正直に名乗り出た」からだろう。あのような恐怖政治を運用していれば、子供達が怯えて正直に出てこないことを、院長は誰よりも知っているのだろう。
ひょっとすると、そういう正直さこそが孤児院を正当な理由で出て行くチャンスなのかも知れない。もし子供を引き取りたいという人が孤児院に現れたとき、孤児院としても悪ガキよりも正直な者に引き取らせたいと考えるだろう。孤児院から出て行った子供がどう育つかによってその孤児院の評判が決まるはずだからだ、こうして院長は「親以外の大人に引き取られても上手くやっていける子供」を判断している可能性がある。
いずれにしろ、この件は何らかの伏線だと信じたい。 |
感想 |
独房入りの次は脱走か、なんか「機動戦士ガンダム」の中盤ストーリーを逆になぞっているなぁ。
今回最も強く感じたのは、トマス家編との展開の相違だろう。某氏のブログにコメントさせて頂いた事と重なるが、トマス家での物語ではアンの天性でもって周囲の大人達が取るべき道に気付くという展開が多かった。アンは天使であり頭の良い子供であり、その存在そのものが大人達の付き合う武器だったのである。ところが今回のアンは、周囲の大人から自分が進むべき道を教えられたのだ。初期の無邪気で天才的な想像力のアンは姿を潜め、大人がしっかりと行き先を指し示さないと何処へ行くか分からない「普通の子供」としてアンが描かれている。その好例は前々回辺りからのアンの暴走で、それがどう止められるかが今回の焦点だというのは名台詞欄に書いた通り。
しかし孤児院にいる子供達に一人一人に哀しい物語がありそうでちょっと興味が、テッサの両親については前回の流れからして何処かで触れられると感じていたが、他の悪ガキ共は?
一部は名台詞欄に登場していて、子供が親と永遠に別れるという悲しみを直に訴えているようにも見えた。ちょっと今回の話は重いなぁ、誰かか死ぬ話とは違う方向で重い。
しかし、見ている方が「もうどーでもいーや」と思っていた独房の幽霊話を、最後の最後でメーテルがぶり返すとは全くの予想外だった。あんなことしちゃったんだから、幽霊話についてもうまいオチをつけてくれよ…。 |