前ページ「南の虹のルーシー」トップへ次ページ

第21話 「アデレードの設計者」
名台詞 「私は6歳の時に親元を離れてね、12歳の時に海軍に入ったんだ。その時私は、自分のことを一人前だと思いこんでたけど…そうか、12歳というのはまだまだ子供なんだな。」
(ライト大佐)
名台詞度
★★
 ライト大佐が12歳の少年、ベンとの会話の最初にこう言う。そうそう、12歳というのはそろそろ自分が一人前だと思いこみ始める年頃だ。ネットに「中二病」という言葉が出てくるが、自分が大人だと思って生意気を言う例えとして作られた言葉のようだ。その生意気が発病するのがまさにこのベンくらいの年齢である。
 「南の虹のルーシー」放映は私が小学6年生の時だった、この台詞を聞いたのも私があと数ヶ月で12歳になるというタイミングだった。当の私はまだ生意気というよりガキの雰囲気の方が強かったと思うが…この台詞をあと1〜2年後に聞いていたら、ムカっと来たかも知れない。
 でもベンというのは当時の私と年齢がほぼ同じとは思えなかった。言っていることは小学6年生当時の自分よりずっと大人だし、何よりも家のことを考えて行動したり働いたりしている。当時の私は遊んでばかりだったからなー。
 今になって見た場合の私の関心は、この台詞をベンがどんな気持ちで聞いていたかだ。
名場面 ルーシー・ケイトVSウサギ 名場面度
★★★★
 説明はいらない。とにかくウサギを追いかけるルーシーとケイトの動きがコミカルで楽しい。何度見てもこのシーンは論理抜きで楽しく、平坦な日常生活の描写を楽しくしてくれる。こんなシーンがあるからこそ「南の虹のルーシー」が「世界名作劇場」最高傑作と思えるのだ。
 
登場動物 飼われているもの→ステッキー・パンジー(ステッキーの子山羊でこの回で初めて名前を呼ばれる)
野生のもの→ウサギ
感想  マックさんの葬式がある以外はいつもののんびりムードで話が進む。ベンが釣りの時は妹が邪魔だったのだろう、彼は釣りがしたかったというより一人になりたかったに違いないのだ。オーストラリアに来てから働いてばかりまともな自由時間を過ごしているのを見たことがなかったから。当時はこの話でそれに気付いて「よく働くな〜」と感心した。この後、ベンの自由時間も増えてきて少しホッとしたような。
 そのベンは一人になるよりももっと貴重で嬉しい時間を過ごすことになる。アデレードの設計者であるライト大佐が目の前に現れるのだ、彼は大佐と色々な会話を交わす、ライト自身のこと、探検のこと、アデレードの街のこと。そんなひとときを過ごして笑顔で帰宅するベンがよかった。
 対してウサギを捕まえ損ねた上に、ディンゴに横取りされた妹二人の悔しそうな表情との対比が面白い。ウサギを捕まえようと二人が走っているシーンは何度見ても楽しい。ルーシーとケイトの会話と動きはこの日常描写で平坦な部分を楽しく見せる最大の要因だ、ストーリーは殆ど進行していない(家を増築→井戸を掘る→裏の畑で野菜を作り将来の農場経営に役立てるというストーリーは背景に回されて進んでいるが)のに退屈しないし、何度見ても飽きないのはこの辺だろう。
研究 ・ウィリアム・ライト大佐
 この物語の見どころは、アデレードの地にその名を残す歴史上実在の人物であるライト大佐と、物語では主人公の兄というレギュラーキャラの一人であるベンが同じ場所で釣り糸を垂れて会話することだろう。これほど物語に絡む「実在する歴史上の人物」は「世界名作劇場」シリーズでは他に知らない。これも平坦になりがちな物語を楽しくする工夫である。
 ウィリアム・ライト大佐は1786年にイギリスで生まれる。13歳(劇中では12歳とされているが)でイギリス海軍に志願し、その間にいろいろあって1835年に南オーストラリアの地にやってくる。ここでアデレードの位置を決めて街を設計した。位置は海辺ではなく10キロほど内陸に入った川沿いの平地としたのは、将来街が大きくなっても街の基本設計を変えずに済むことと、水を得るためだったようだ。街は1.6キロの正方形に近い形でその周囲を大きな公園で取り囲み、街路は碁盤の目状として大きな道路を最初から作った。街はその後大幅な発展を遂げるが、その際もアデレード中心部の街路には大きな変化はなく、街が広がっても中心部街路の延長で外側へと街を広げて行くことが出来た。公園で街を取り囲むという設計は大平原を吹き抜ける風を押さえる役目もあったようだが、それまでヨーロッパの街作りの反省を活かして環境に配慮した街を作るという意図だったようだ。
 ライト大佐はアデレードの街の設計を作り、この設計通りに街が作られつつある途中の1839年10月6日に結核のため他界する。享年53歳。劇中でもたまに咳き込む様子が出てきたり、1840年に話が飛んだ33話でケイトが「ライト大佐は去年亡くなった」と言うことで話の辻褄が合わせてある。ちなみにライト大佐は若い頃に結婚したがその妻がどうなったかの記録がないので早い時期に亡くなったと見られている。南オーストラリアでは愛人と暮らしていたようだ。
 彼の墓地はアデレード市街にあり、現在までアデレード中心街に埋葬が許された唯一の人物らしい。この地図の「2」地点のすぐ西にある「Light Square」がそれに当たるようだ。また劇中にも出てくるし私の研究でも名前がたびたび出てきた「King William Rd」も彼の名から取ったものらしい。トレンス川沿いの丘の上にある公園(ルーシー達が住む小屋の対岸あたりか?)には「ライト展望台」と呼ばれる場所があり、ここに彼の銅像がアデレード中心街を見下ろすかたちで建っているという。その碑文には「私の首都の地選択が正しかったかどうかは、後世の人達が判断するだろう。」と書かれ、彼の思いが現在に伝えられている。

第22話 「レンガとディンゴの子」
名台詞 「ベン、僕だってディンゴについてそれほど詳しい訳じゃない。でもね、もしもあの子犬が大きくなって、犬とはまるで違う危険な性質を現したら…いいかい、その時はこの親と同じように殺さなければならないんだ。いや、殺す勇気がないんなら始めから飼わない方が良い、今の内にどっかへ捨ててしまいなさい。そうすれば、あの子供は多分自分では餌を獲れないから、自然に死ぬかも知れない。」
(バーナード)
名台詞度
★★★
 拾ったディンゴの子を飼うと言い出したベンにバーナードが現実を突きつける。ディンゴという動物は凶暴であることを説き、飼うことに反対する。それでも「あの子犬は大きくなってもあのままだと思う」と根拠のない言葉を吐くベンに、バーナードがこの言葉で凶暴な動物を飼うに当たっての現実を突きつける。
 ベンはそれでも「捨てるなんて出来ない」と絶叫に近い返事をするのだが、飼おうとしている動物が人間に恐れられている動物である以上、このバーナードが吐いた台詞にある現実からは逃れられないのだ。人間や家畜を襲ったら飼い主の責任で殺さねばならない、この現実を強く突きつけるバーナードが非常に見えるが仕方のないことだ。
 一方のベンはバーナードに「ディンゴはディンゴであって犬ではない」と強く言われる。結局このように現実を突きつけられたことによって、このディンゴの子供を捨てることを決意するのだ。
名場面 ディンゴの子が逃げ出す 名場面度
★★★
 前回同様、コミカルで理論抜きで楽しいシーンを選んだ。物語の展開的にはバーナードがベンに凶暴な動物を飼うという事実について説くところだが、名台詞欄で説明し尽くしてしまったので…。でもこのシーンも数少ない「赤ちゃんリトル」が走り回るシーンであり、かつその動きが生き生きとしており見ている者を和ませる。それを追いかけるルーシーとケイトの動きも楽しく、やはりこの平坦な物語を楽しませてくれるのだ。
 それと間違いなく新しい家族の一員になるであろうこのディンゴの子を強く印象づけるシーンでもあるのだ。
 
登場動物 飼われているもの→モノクル・ロングの羊
野生のもの→ディンゴの子(まだ正式に飼われていない)
感想  リトル初登場、とは言っても命名は次回なのでここでは「ディンゴの子」としておくが。本放送当時もこのディンゴの子がポップル一家の一員となって今後の物語で何らかの活躍を見せるであろう事は容易に想像が出来た。ただ「世界名作劇場」で主人公に飼われた動物のうち、初登場時にこれほど強烈なインパクトを与えた動物と、これほど飼育を反対された動物はいなかったと思う。また今後の物語でリトルはルーシーのよき名犬となり大活躍を見せて強く印象に残って行くが、最初から出ているわけではなくて物語の折り返し点が近いところで初登場というのも、今思えば特異であると思う。
 レンガの方は父がアーサーの試行錯誤の始まりである。ここまで(土地の入手と組み立て式住宅以外は)大きな躓きもなく、色々な者を作ってきたアーサーだがこのレンガ造りで初めて躓く。アーサーというのは前作「不思議な島のフローネ」の父、エルンストと比較される事が多い。でも振り返ると前半の段階ではアーサーは家を造ったり畑を作ったりという面では失敗せずにすんなりこなしている、一方のエルンストは試行錯誤を繰り返して成功する事の方が多かった。このような点だけならアーサーの方が器用ともいえる。
 それとこの回ではアーニーの頑固さも忘れられない。パンを焼くかまどでレンガを焼くことには徹底的に反対した点については、台所を守って仕切っている誇りのようなものを感じたし、何より子犬がディンゴの子と知った時の反対ぶりは、何が何でも家族を守るという思いがにじみ出ている感じがある。ディンゴを飼うことに肯定的だったケイトですら、その迫力に押されてロングの意見を言い出すほどである。
 そのロングだが、今回はアデレード西側の公園で放牧をしていた模様。
研究 ・ディンゴ
 アニメ「南の虹のルーシー」に出てくるペットの中で最も印象深いのは次話で「リトル」と命名されることになるディンゴだろう。感想欄でも述べたとおり物語の中盤になって新たに加わるペットが最も印象強いというのは「世界名作劇場」では他に例を見ない。その存在感はここまでで最も登場回数が多く、エンディングにも出てくるハムスターのモッシュの存在感を一気に無くしてしまった程だった。この後、モッシュは信じられないくらい登場回数が激減する。
 このディンゴであるが、劇中でも語られたとおりオーストラリア外部から人の手によって持ち込まれた犬が野生化したものである。「南の虹のルーシー」というアニメが作られた頃は、オーストラリア先住民族が数万年前に外部からオーストラリア大陸に渡ってきた時に一緒に持ち込んだ犬が祖先と思われていた。しかし、最近の研究では4000年ほど前に東南アジアとオーストラリア大陸で交易があり、この時に東南アジアの漁師がオーストラリア大陸に持ち込んだと見られている。その後、野生化してオーストラリア全土に広がり、オーストラリアに先住していたフクロオオカミやタスマニアデビル(肉食有袋類であるフクロネコの一種)と食性が競合した結果、ディンゴが勝ってフクロオオカミやタスマニアデビルは海を隔てたタスマニア島を除いて絶滅に追い込まれた。
 外見は普通の犬と同じだが、最大の特徴は耳が立っている点である。犬と言ってもかなり原始的な犬だった時代にオーストラリア大陸に来たと思われ、祖先はインド狼と考えられている。犬より凶暴ではあるが、劇中でも説明があったとおりオーストラリア先住民が飼い慣らして残飯処理や番犬に使っていたらしい。
 現在でも野生のディンゴが存在し、羊などが襲われる被害が出ているため駆除の対象になっている。

第23話「お前の名はリトル」
名台詞 「いいか? もしお前が一生懸命に可愛がれば、どんな凶暴な獣でもお前になつくかも知れない。だがその場合、他の人たちにとって、やはり凶暴な獣に変わりはない。分かるか? 父さんの言うことが。あの犬はお前だけでなく、他の人たちにもなつくことが必要なんだ。なつかないまでも、敵意を持たない。お前はそういう風に育てていくんだ。できるだろう? お前なら。」
(アーサー)
名台詞度
★★★★★
 アーサーの台詞で私が気に入っているのはこれだ。アーサーはディンゴの子を飼うにあたって、3つの条件を出す。一つは「人間を襲ったら直ちに殺すこと」、二つ目は「家畜を襲ったら直ちに殺すか家畜のいない場所に捨てること」、三つ目が「ルーシーの言うことは聞くが他の人の言うことを聞かないなら森へ追放」である。この3つの条件は言ってしまえば常識だろう。
 3つ目の条件に「でも…」と反論しようとしたルーシーに、父はこの台詞を付け加えるのだ。凶暴な性格を持った動物を飼うというのはどういうことか、つまり何が何でも人間に敵意を持たせてはならない。平たく言えばどんな人間とも友達にならなければならず、例えひとりでも刃向かえる人間を作ってはならないのだ。そして誰にでも仲良く出来るように育てねばならないのだ。ま、ここまでなら多少厳しいがこのような動物を飼う心構えとしても当然であり、そんな印象の残らない台詞だろう。
 この台詞の印象度を高めているのは、最後の一言。ここまでルーシーに厳しく凶暴な動物を飼う心構えを言い続けた父の表情が少し緩み、その上で「できるだろう? お前なら。」と付け加えるのである。ここに父が見てきた娘の動物好きの性格を認め、そこに全幅の信頼を置いている思いが読みとれるのである。ルーシーのこの面に対する絶対の信頼があるからこそ、アーサーはディンゴを飼うことを認めたのである。この親子間の信頼関係ががっちりとした絆で結ばれていることを、この台詞の最後から読みとれるのだ。
 母アーニーもその点においてルーシーを信頼しているのは夫と同じで、反対と言いつつも最後は認めるのである。ここまでのアーニーを見ていれば、一度反対と言い出したらなかなか動かない女性なのは誰もが認めるところだろう。アーニーはただ飼うのでなく明確な条件提示を求めていたのだ。
(次点)「わかってる、私この野生の犬と友達になるの。本当の友達になれば、この犬も私を裏切らないと思うわ。」(ルーシー)
…これほどの名台詞が次点になってしまうとは。ルーシーの生き物に対する愛情を感じる台詞その3である。ベンにディンゴがどれだけ凶暴で、飼えば他人に迷惑がかかるであろう事を説かれた時の返答だ。凶暴な動物の子と分かっていて、この子ディンゴに愛情を込めて育てる決意をこのような言葉で表現するルーシー、「自分が優しく接すれば相手も優しくなる」という姿勢で生き物に関わるルーシーだからこそ自然に出てくる台詞。きっとアーサーはルーシーがそのような少女だからこそ子ディンゴを飼うことを認め、上記の台詞に行き着くのであろう。
名場面 ルーシーのふたつの涙 名場面度
★★★★
 テントからベンがいなくなったと聞いてルーシーはディンゴの子を捨てに行ったのではないかと不安になる。まず父と捜しに行くが、結局見つからずに一緒のテントで寝ているデイトンに話を聞きに行く。そうするとディンゴを捨てに行ったことが分かり、ルーシーは目に涙を浮かべたかと思うと大声を上げて泣き始める。その勢いはデイトンの髭と髪が揺らぐほどだ。デイトンになだめられるが逆効果で、ついにはデイトンをして「聞き分けがない」とまで言われてしまう。結局ルーシーは泣いたまま家に戻り家族を驚かせ、泣いたまま寝てしまう。

 夜中にこっそり起きてベンとデイトンが眠るテントを見に行くルーシー。兄が帰ったかどうかの確認もそうだが、何よりもディンゴの子を捨ててしまっていないかどうかの方が気になったはずだ。テントの幕を開くとすぐに兄が寝ていることに気付いた。そしてベッドの下にあるディンゴの子がいた箱の中を見ると…そこにはあのディンゴの子が静かに寝ていた。
 ルーシーは感激し、思わずディンゴを撫で、そして寝ぼけたのかルーシーの手にじゃれた来たディンゴを見つめる。その目には今度は嬉しい涙が溜まっていた。ディンゴを寝かすと、兄に布団を掛けてからお礼のキスをする。
 このシーンでディンゴを捨てに行ったと聞いた時の大泣きの表情と、この時の嬉しい表情、涙を伴うこのルーシーの気持ちの変化が上手に現れ、またディンゴが捨てられたと感じた時の悲しみや、やっぱり帰ってきた時の嬉しさがきっちり表現されている。ルーシーのこの子ディンゴにかけた思いが伝わってくる描写であり、声優さんの名演技もこれに拍車をかけた。
 本来なら二つのシーンに分かれてどっちかが次点になるシーンだが、ここではどうしても分けられず初めて例外的に「名場面」を二つの離れたシーンを一つのものとして扱った。
登場動物 飼われているもの→モッシュ・ステッキー・パンジー・リトル(今回命名)
野生のもの→
感想  本放送時からこのディンゴが捨てられるわけが無いと思って見ていた。だいたい、「南の虹のルーシー」という物語は次回予告でのネタバレが酷すぎる。いや、これは誉め言葉ですよ。次回まで楽しみにしていたいから黙っててくれ!と思うような事を平気でしゃべるルーシーに怒りが湧かないのが不思議なのだ。これも声優さんの名演技だと思うが。その中でネタバレ無しで、物語の本筋とは無関係なことばかりしゃべる次回予告もあったりするから、ネタバレが本当にネタバレなのかわからない作りになっていたりもすることがある。
 それはさておき、ベンがディンゴを捨てに行った時の最大の注目どころは、ベンが何を見て捨てきれなくなるかだった。結果はあまりにも臆病な姿を見せられたこと。ベンの父性が働いたわけだ。この物語は家族の中の二人の男、アーサーとベンの父性が物語を盛り上げているような気がする。アーサーの父性は名台詞欄で。
 そのふたつの父性の間で一番喜んだのはルーシーだという話、このような展開だとやっぱり主人公はルーシーなんだなと感じる。ぶっちゃけこの話はポップル家の中なら誰が主人公になってもいい話だと思う。極端な話、トヴを主人公にすることだって可能だ。この物語はこの大家族を次女から三女を見た物語というのが先に決まっていて、物語の展開では三女が家族愛を受けるシーンだけ抜き出したと考えることも可能である。他の家族が家族愛を受けるシーンなんていくらでも考えられる、その事実をなぜかこの話から感じるのだ。
 今回もルーシーの着替えシーンがあってまた上半身裸に…でも全然色気がない。別に女の子の着替えでも、それが明かな子供なら問題ないと思うけどな〜と思うのは自分に子供がいるからかな?
 最後に、アーサーの動きをひとつひとつ追ってみると分かるのだが、彼もあの子ディンゴが可愛くて仕方なかったんだろうな…。
研究 ・リトル登場
 いよいよ物語に「南の虹のルーシー」の中で最も印象深い動物であるディンゴの「リトル」が出てきた。物語の展開と同時にリトルがポップル家の一員として忠犬ぶりを発揮し、牧羊犬の代わりをしたり、パンジーやスノーフレイク(23話時点で未登場)がペティウェルのハッピーに襲われた時は敢然と立ち向かい、ポップル一家がアンガス通りに引っ越した後も、強盗逮捕に協力したり、行方不明のルーシーを発見するなど大活躍を見せる。
 このリトルというディンゴの子は原作には登場しない、ちなみにここまでルーシーのペットの代表格であったハムスターのモッシュも原作にはいない。原作に出てくる動物はペットではなくて家畜ばかりで、アニメからはいるとこの辺りが少々物足りないと感じる人もいたと思われる。
 「世界名作劇場」シリーズのお決まりのパターンとして、主人公が愛するペットが活躍する話が必要なのである。「大人の事情」を先に言ってしまうと、これはキャラクター商品として様々な文房具や家庭用品に描く際に彩りを添えると共に、将来物語が陳腐化した時のことも想定していたのだろう。さらにこのようなペットがぬいぐるみとして売られることもあり、「南の虹のルーシー」でも専用バスケット入りのモッシュのぬいぐるみがあり、現在でもたまにネットオークションで見ることが出来る。つまりこれらペットは制作者の貴重な収入源となるのであり、そのためには多少原作を改編することになっても劇中で活躍しなければならないのである。
 「世界名作劇場」でもこのようなペットは多く、「あらいぐまラスカル」のようにペットが主役を取っている例もあし、「わたしのアンネット」のクラウスのように原作通りのペットがそのような役割を立派に果たす例もある。逆にせっかく出てきたのに活躍しないまま終わってしまった例は「小公女セーラ」で出てくるジャンプとボナパルト。
 「南の虹のルーシー」ではハムスターのモッシュが物語序盤からルーシーのペットの代表で、エンディングでも巨大化したりと印象に残る出方をし、前述の通りぬいぐるみも売られていたほどだ。しかし物語を全部見ると、モッシュというのは印象に残らない。それはあまりにも活躍をせず、出てきてもルーシーのペットとして画面を華やかにする「マスコット」としての効果しかなかったのである。
 恐らく、リトルというペットが設定されたのはこんな事情からだと思われる。たとえば「母をたずねて三千里」のように主人公が旅をする話ならば、アメデオのような小さい動物でも主人公の心の支えとして活躍できる。多分「ポルフィの長い旅」のアポロにもそんな役が与えられるのだろう。しかし、日常生活がメインのこの物語では、あんな小さな動物が活躍するシーンなんて考えられないのだ。だがルーシーの「動物好き」という設定を活かすには、家にいる動物が家畜だけでは物足りないのは確かだろう。
 そのバランスを取るためと、オーストラリア特有の動物をルーシーが飼育するシーンを作るためにリトルというキャラクターが生み出されたのだと思われる。結果は大成功で、モッシュには出来なかったハッピー退治や、いなくなってしまった主人公を捜すなどの動作が出来るようになったのだ。
 リトルが物語に登場するのは全50話中22話以降、ざっと後半しか出てこない。なのにこんな印象に残る犬は「世界名作劇場」であっただろうか? リトル以上のペットはいるにはいるが、全て物語序盤、せいぜい10話辺りまでに初登場するものばかりだ。こんな動物達の印象度も私がこの物語を「世界名作劇場」最高傑作と感じる一因である。
 それとリトルが印象に残るもう一つの要因は、ルーシーがリトルを呼ぶ時のあの声だろうな。「リィトルゥ」とルーシーが呼ぶ時の声は耳に付くと離れない…。

第24話「夏の終わりの日」
名台詞 「あのカンガルーだって、この広々とした草原にいるからあんなに落ち着いていられるのよ。もし、狭い囲いの中に入れられたら、きっとおかしくなっちゃうんじゃない? そう、そうよ。あんたが動物好きならなおさらそうでしょ? あんたに飼われるのが幸せか、自由に大地を跳び回るのが幸せか、わかる?」
(ケイト)
名台詞度
★★★★
 変わった動物を見れば何でも「飼うわ!」だってルーシーが、ケイトからこの言葉でもって「動物の幸せを考える」と言うことを教わる。確かにルーシーは動物好きだ、だからどんな動物とでも仲良く一緒に暮らしたいという気持ちは分かる。だがそれがその動物にとって本当に幸せなのだろうか? という疑問を初めて感じるのである。
 この台詞の前段階にリトルを買い始めた事実を忘れてはならない。リトルの場合は事情が違う事を考慮しなければならないのだ。リトルの場合は親を失い、まだ幼くて狩りが出来ないからこのまま放っておいたら待っているのは「死」だけだったという事情がある。もちろんベンが捨てた場合もリトルに待っているのは「死」だけであった。リトルがこの世に生き続けるためには誰かが里親にならねばならない、そこいらでピンピン飛び回っている動物とは訳が違ったのだ。
 この台詞でルーシーは野生動物を連れ帰ることに慎重になったか…といえばそうでも無いのが残念。最終回近くでウォンバットを捕まえて持ち帰るのだ。だがこのケイトの台詞をルーシーは重みを持って受け止めたのは事実で、ここまでのケイトでは一番の名台詞かも知れない。
(次点…というか)「おねえちゃん…私死にたくない。」(ルーシー)
…誰が死ぬんだ? この物語で…と言ったら天国のマックさんに失礼か。ケイトがハンマー使うのが素人目に見ても下手だって事だ、この台詞を吐く時のルーシーの恐怖に満ちた表情がいい。
名場面 デイトンが酒を捨てる 名場面度
★★★★
 デイトンはベンに「ラテン語を教えてくれ」とせがまれる。医者になる者は誰でもラテン語を習っているはずだからという訳だ。ところがデイトンの返事は「酒の呑み過ぎで忘れてしまった」というものであった。それでも「思い出してください」というベンをなんとか振り切ってテントに戻る。
 デイトンはテントに戻るといつものようにウイスキーの瓶を取り出して開ける。瓶を口に付けようとしたところで思いとどまり、そのウイスキーを全部床に流してしまうのだ。そしてデイトンは再びベンの元へ行き、ラテン語の文法書を見せてくれたら少しは思い出すかも知れないと言うのだ。
 これはデイトンの成長である。酒ばかり呑んでいてもここには頼って来る人がいるという事を思い知ったのだろう。それが今回ラテン語を教えてくれと言ってきたベンであるし、診療所にやってくる患者達である。さらにポップル一家の人々も「医者がいると安心」と自分を慕ってくれる。なのに自分は酒ばかり呑んで酔っぱらっている場合でないと知ったのだ、もっとしっかりしなきゃならない人間なんだと。
 その決意の現れが酒を床に流すという行動に繋がったのだろう。以後デイトンが酒でべろんべろんになっている姿は出てこなくなり、自分のためだけでなく他人のためにキチンと働くようになる。
(次点)ルーシー・ケイトVSウサギその2
…やっぱこの二人とウサギの戦いは面白い。理論抜きで面白い。いつもと違う服でも中身は変わらずってとこか。
登場動物 飼われているもの→モッシュ・ステッキー・パンジー・リトル
野生のもの→ウサギ・カンガルー
感想  特に何が起こるで無い話だが、色々見どころはあって見ていて飽きない。いつもと違う服も出てくるし、今度はルーシーだけでなくケイトの着替えシーンまで出てきて、さすがに肌は晒さないが下着姿になる。
 序盤のルーシーとケイトに勉強をさせるという話、ベンがそれをうらやましがるという話もそうだろう。それと干し煉瓦を作る課程もケイトが自然に作業を行うことで再現されている。その中の会話でルーシーが兄がなりたいものを知らなかったのは意外だった、でも兄妹が多いと二人上の兄妹のことは見えにくくなるのかも知れない。私は真ん中だったからよく分からないけど。
 デイトンの人間的成長にはちょっと感動した。ベンにああ言われて何か変わると思っていたけど、まさか酒を捨てるとは…子供の頃もこのシーンは驚いた。酒好きな人間がそう簡単に酒を手放せるわけはないのを、私の父を通じて見ていたからである。ま、私の父は酒をやめる決心をしたわけじゃないが。
 最後の方のルーシーとケイトが草原へ行った話は大笑いしながら見ていた。ラストのステッキーとパンジーの綱引きは大笑い、ケイトが打った杭は抜けたが、ルーシーが結んだロープはゆるまなかったのだ…ダメぢゃん、ケイト。
研究 ・カンガルー
 オーストラリア独特の動物と言えば、真っ先にカンガルーを思いつく人も多いだろう。ご存じの通りオーストラリア大陸とその周辺にのみ住むフクロネズミの仲間である。恐らく劇中に出てきたのは色々な種類がある中でも巨大な「アカカンガルー」と呼ばれるものだろう。発達した後ろ脚で高速移動するため、現在では自動車との衝突事故が問題となっていて、オーストラリアの道路標識には「カンガルー注意」というのも存在する。日本のRV車に取り付けられている「グリルガード」は元々カンガルー衝突対策としてオーストラリア向けの車に装備されたものである。
 カンガルーの語源はオーストラリア先住民族の言葉で「跳ぶ動物」という意味だそうな。中学生の時に本で読んだ、欧米の探検隊が初めて見た時に先住民族に「あれはなんだ」と聞いたら、言葉が通じず現地語で「(あなたが何を言っているか)わからない」という意味となる「カンガルー」と言われた…という話はウソだったようだ。

第25話「ついてない時は…」
名台詞 「だが敢えて言わせてもらうぞ、あの本は今のお前にはいらない。お前は当面の仕事を一生懸命やればそれでいい。これが私の考えだ。」
(アーサー)
名台詞度
★★
 ラテン語の文法書がルーシーの悪戯によって川に流されてしまい、そのルーシーを許さないというベンは父に非難される。ベンはその本がどれだけ大事な本だったかを父に訴えるが、その父はベンにとって大事な本であったことを理解した上でこの台詞を言う。
 この台詞は現在のベンに現実を鋭く突きつけた。アーサーは単に息子に跡を継がせたいという感情でこの台詞を言うのでない、現在のところベンがラテン語を勉強してもベンの企みが上手く行かない事を示唆しているのだ。アーサーは息子が医者になりたいという夢を持っていることを知らないが、ベンが勉強を欲していることは農場を継ぐのでない夢を持っていること位は見抜いている。だがそれがどんな夢であろうと、今のところこのオーストラリアでは叶いそうもないのだ。その叶わない夢を追うより、今は目の前にあることを片付けて欲しいというのがアーサーの言い分のはずである。
 アーサーが息子のその夢を奪った自覚があるかどうかは分からない。ただ家族全員の幸せを考えればここでベンに頑張ってもらわねばならないのは動かし難い事実なのだ。
 この言葉にベンは憮然として部屋を出て行く。しかしこのアーサーの思いはベンには届いている。詳しくは名場面欄で。
名場面 ベンとルーシーの仲直り 名場面度
★★★
 アーサーに現実を突きつけられたベンだが、彼は憮然として食卓をあとにし、テントにある自分のベッドに横たわる。彼は父に突きつけられた現実が避けようのない事実であることは分かっていた。だがその現実が悔しくてたまらなかったのだろう、彼が正常な心に戻るまでには一人の時間が必要だった。それが分かるからベンもテントで一人になったのだ。
 テントに入ったベンを追うようにリトルがやってくる、リトルがベンに甘えるとベンは少し落ち着きを取り戻したようだ。そして「本はこれからも買える」と呟くのだ。そう、勉強は後でも出来ると気が付いたのである。
 そこへ家の中にシーンが戻る。ルーシーが泣きながら「もう一度謝る」というと部屋を出てゆき、テントへ向かう。先ほどのアーサーとベンの会話が聞こえたのもあるだろうし、今なら兄と二人だけで話が出来るかも知れないと考えたのかも知れない。
 「今はあの本は必要ないかも知れないが将来はきっと必要になる」とリトルに語るベンの前にルーシーが現れる。ルーシーとベンの目が合うと、ベンはリトルを放っておいたルーシーを避難する回り道がこのシーンにさらなる緊張感を与える。そしてルーシーがもう一度謝罪すると、ベンはルーシーの目を見ずに頷く。この行為がまだ完全に許し切れていないことを象徴している、これを見られたくないからだろうか、ベンはルーシーに食事へ行こうと言う。
 ルーシーはベンの言葉に喜ぶ。だが心のどこかに完全に許されていないとひっかかりが潜在的に残ることになるが、それは次話の話。こうやって二人が完全に仲直りをしたように見せかけておきながら、兄妹の複雑な心理状況を克明に描き、次話への伏線となる秀逸なシーンだ。
登場動物 飼われているもの→ステッキー・パンジー・ビリーの子山羊・リトル
野生のもの→ウサギ
感想  前半のルーシーの勉強シーンは見ていて辛かったな〜。集中力がなくて算数が出来なかったのは他人のこといえなかったし。6年生になってみればあの計算はそう難しくないが、ルーシーの歳だったらかなり高等な計算になるよ。繰り上がりや繰り下がりだけでパニクッたりしているんだろうな。
 後半は名場面欄で書いたが、ルーシーとベンの複雑な精神状況を克明に描いている。父に咎められた上に自分や家族の現状を再確認し、さらに妹が改めて頭を下げに来たから「とりあえず許すことにした」ベンと、潜在的に許されたのがとりあえず程度でしかないと見抜いたルーシー。歳の違いはあれど常に一緒に住んでいるのだから兄の微妙な動きの違いは分かるものだ。私にだって経験がある、兄妹喧嘩した時に兄が本当に謝罪する時と親に叱られてやむなく謝罪する時では、明らかに態度も違うし使う言葉も変わるのだ。無論、これは私の兄や妹が私を見た時にも感じていることだろう。
 普段のベンならルーシーがあれだけ謝れば、頷くだけなんて反応はしない。優しい言葉をかけられるいい兄でいられるはずなのだ。アニメを作った人はベンを本当に上手に、年相応の少年らしく描いた。次話ではルーシーがこの「違い」に見事反応する。私も本放送時にこのベンの違いを見抜いていた、次の話でベンがまた怒りをぶり返すか、ルーシーが許されていないことに気付いて反応するかと予測したら後者が大正解だったのだ。
 こんな兄妹の心理戦を克明に描くのも、この物語を面白くするスパイスに違いない。
研究 ・干し煉瓦の家
 前話辺りからの流れは、家族が行っている作業は原作を踏襲しているようだが、物語展開は全くのオリジナルである。つまりベンが中心になって干し煉瓦を作ったり煉瓦の小屋を作ったりしていて、アニメではそれを背景として独特の物語を展開させている。ルーシーやケイトが作る干し煉瓦が形が悪くて作り直しになることなど、原作からアニメに引っ張ってきた話も多い。
 この干し煉瓦というのは日本ではあまり馴染みがないだろう、日本の建築物で煉瓦造りというと赤い焼き煉瓦のものが圧倒的に多い。しかし煉瓦造りの建物というのは耐震性に乏しく、関東大震災で煉瓦造りの建物が多く倒壊したのと前後して鉄筋コンクリートの建物が増え、日本では数が激減した。
 元々煉瓦は干し煉瓦から始まったものである。メソポタミア文明で発明された干し煉瓦は今から6000年ほど前より使用されており、あっという間に多くの建物に普及した。5000年ほど前に赤い焼き煉瓦が登場、当初は建物の重要な部分のみに焼き煉瓦が使用され、徐々に建物全体へと使用範囲が広がった。しかし焼き煉瓦を作るための薪を集めるために無計画な森林伐採を行ってしまい、これがメソポタミア文明衰退の原因の一つとなる。
 干し煉瓦は劇中でも出てきたとおり、粘土を型枠に入れて固め十分に乾燥させたものである。アーサーが「泥の家」と言うから耐候性に不安がありそうだが、そうではなく非常に優れた建材であるのだ。ただし極端な集中豪雨には弱いとされており、乾燥地域向けの建材ということになる。
 焼き煉瓦と同様に地震に弱く、強度的にも耐震性は焼き煉瓦よりさらに劣る。「世界名作劇場」最新作「ポルフィの長い旅」では石造りの家が大地震で破壊されるが、石造りにしろ煉瓦造りにしろ単純に積んだ材料をセメントで固めて固定するだけなのでどうしても瞬時に巨大な力がかかる大地震では、その材料の継ぎ目から簡単に壊れてしまうのだ。その上建物全体が重量のある石や煉瓦だから、地震動に対する建物の慣性力が極端に大きくなるのも理由の一つだろう。日本のブロック塀が大地震でも壊れないものがあるのは、鉄筋が補強に入っているからである。

第26話「病気になった!」
名台詞 「ルーシーメイはいつも元気で明るい子だけど、決して鈍感な子じゃない。君が本当に自分を許してくれてないことが分かっていたんだ。正面では明るく振る舞っていても、心の中では君に悪い悪いと思い詰めていたんじゃないかな?」
(デイトン)
名台詞度
★★
 前話でのルーシーとベンの複雑な兄妹の心理状況について謎解きするのがデイトンだとは…本放送当時、こういう台詞はケイトから出てくるんじゃないかと思っていた。
 兄妹の問題は兄妹だけで解決した方がすんなり行く場合もある。しかし、この物語ではこれを居候に気付かせるという手段をとった、兄妹よりも第三者が言った場合に解決しやすい場合もあるが、その時は言葉を慎重に選ばないとかえってベンを「僕はちゃんと許しました」と反抗させるだけの結果になりかねない。ベンを責めず、かつルーシーの内面についてしっかりとベンに言い切るために上手に言葉を選んだ台詞だと思う。
 これは効果覿面で、ベンはあの一件以来何処かでルーシーに冷たくなっていたことに気付く。そして今度はルーシーの病気の原因は自分にあると考え始める。そしてルーシーの心の中にある「兄に許されていない」という重荷を取り除き、病気を早く治してやることを決意するのだ。
名場面 ベンとルーシーの仲直り2 名場面度
★★★
 昼間、ベンがルーシーの看病をする。喉の渇きを覚えたルーシーが目を覚まし、枕元にいる兄に水を要求するところから物語は動く。
 ベンがルーシーに水を飲ませると、ベンは「僕が男らしくなかったみたいだね」と言う。そしてルーシーのうわごとのことを言う、ルーシーも自分がうわごとを言っていることをケイトに聞かされていた。その原因が文法書を川に落とされた時の事じゃないかとベンは言うが、ルーシーは「あれは許してくれたでしょ」と言う。ベンは「そのつもりだったが、どこかに許せないって気持ちがあったらしい」とした上で、「でも誓うよ、本当に許す、僕はもうなんとも思っちゃいない」と堂々と言い切るのだ。この姿こそがいつものベンのはずで、これに気付いたルーシーは「ありがとうお兄ちゃん」と呟く。ルーシーもこれこそが本来の姿だ。
 そのルーシーの感謝の言葉を聞き届けたベンは、まだイギリスにいた頃にルーシーが欲しがっていて、いつか作ってやると約束していた凧を本当に作ると約束する。だから早く元気になって一緒に凧揚げをしようというのだ。ルーシーはこれに喜び、兄の手を取り、目に涙を浮かべながら「ありがとう」と言う。すぐ作ると意気込むベンに「そんなに急がなくていい」と言うと、「早く作るから早く元気になれ」と言い残してベンは外に出るのだ。
 どこかに許せない気持ちがあり、それを妹に勘付かれていたことを知ったベンは、昔の約束を果たすという方法で「本当に許した」という気持ちを表現する。妹ルーシーもこの気持ちを素直に受け止め、自分の苦しみが消えた喜びを表現するのだ。前話から続く兄妹の複雑な心理戦にこれで決着が付く。ルーシーは兄に本当に許された喜びの中でまた眠りに落ちたに違いない。
 一方のベンは仕事が終わると早速凧作りに精を出す。彼の頭の中には妹の笑顔しかない事だろう。
登場動物 飼われているもの→ステッキー・パンジー・リトル・ハッピー
野生のもの→
感想  ルーシーが病気になってしまい、どうやって前回の兄妹の心理戦に決着を付けるのか不安に感じたが、病気を逆手にとって上手く切り返したと思う。しかしベンにルーシーの心理状況を説くのがデイトンの役目というのは意表を突かれた。デイトンの株がまた一つ上がるぞ。
 特に名場面で紹介したルーシーとベンのシーンでは、二人が「いつもの自分」をキチンと取り戻す。こうならないと本当の仲直りはあり得ないのだ。何よりもベンの兄としての優しさがじわじわとにじみ出ているだろう。さらに許す証拠として凧を作るという点も注目どころだ。
 ペティウェルが虫歯で大騒ぎするが、あの男が大騒ぎして愛犬を蹴り付けるとロクな事がないんだよな〜、でも今回はルーシーが病気だし…と油断をしていたらやられた。遂にパンジーまでハッピーの餌食になるのか?と不安が最高潮に達したところで「つづく」かよ、しかも次回予告でハッピーがパンジーを襲った件については一切触れられてないし…と不安がりながら本放送当時は見ていたよ。
研究 ・ルーシーの病気
 「小公女セーラ」の解説で「序盤での主人公親子の別れ」「主人公または準主役の病気(大怪我)」「火事」の3点が「世界名作劇場」の華だと書いたが、この「南の虹のルーシー」でもご多分に漏れず登場する。その最初のものとして、この物語のちょうどど真ん中で「主人公の病気」が出てきた。デイトンの診察によると風邪だが肺炎を起こしかけているという。肺炎と言えば古くは「母をたずねて三千里」のファナが罹って貧乏だという理由で医者から見放されたのを主人公マルコが救う物語が印象に残っている人は多いと思う。その他、「世界名作劇場」では「小公女セーラ」のセーラがルーシーと似たような症状で寝込んでしまう、この時の医師ワイルドの診察結果は「恐ろしい命取りの伝染病」だったがこれは明らかに誤診であろう。
 しかし、このルーシーの病気が発覚したシーンを見ているとこの一家の緊急医療体制が見えてくる。ルーシーの異変に最初に気付くのは隣で寝ているケイトで、ケイトはまず長女のクララを起こす。クララが妹の様子を確認するが、ここでクララが対処できる範囲内であればクララが対処して終わりというところだろう。クララの手に負えない自体だとすればクララが母を起こす。母が起きれば父も起きる。母が娘の様子を見て医者を呼ぶか一晩様子を見るか判断するのだろう。今回は明らかにすぐに医者に診せる必要があったので、母がクララにデイトンを起こすように指示したのだろう。
 この姉妹のリレーは船舶の当直体制にも似ている。状況に応じて上のランクの者を起こしに行くというシステムがこの姉妹の中で出来上がっているのだろう。これは忙しく立ち働く両親を無駄に起こさないようにという配慮で娘達がこうしたのだと思われる。

第27話「凧に乗って」
名台詞 「お兄ちゃん偉いわね、昨日のうちに凧を作っちゃったんでしょ? お兄ちゃん、ルーシーを喜ばせようと思って作ったんでしょ? 私なんか何にも作れない。私の不注意でリトルには怪我させちゃうし。」
(ケイト)
名台詞度
★★
 病気の妹のために凧を作り上げた兄を妹が尊敬を抱きつつ羨ましがる台詞であり、またケイト自身が病気のルーシーのために何も出来なかったことを悔やむ台詞でもある。
 ルーシーとの間にトラブルがあったのが原因とはいえ、兄はルーシーのために色々と考えてルーシーを元気づけるためのことをちゃんと実行した。それなのに自分は何も出来ないと悔やむ、ベンが「お前はルーシーの代わりにリトルや山羊の世話をした」と言っても、ケイトが自分の不注意でリトルに怪我をさせたことが重くのし掛かる。もしそれでリトルに何かあれば、ケイトはルーシーの足を引っ張ったことになる。
 ケイトのこの思いに対しての兄の反応がまた良い。すぐに話題を変えるのだ。しかもリトルの怪我に関連づけつつもケイトが完全同意する話題、ハッピーに対する陰口へと話題を切り替えてケイトの失敗を忘れさせようとするのだ。ベンの妹思いの性格が、このケイトの台詞によって際だつ。そんなささやかな兄妹愛を、この煉瓦を作りながらの二人の台詞から感じるのだ。
名場面 リトルvsハッピー第一ラウンド 名場面度
★★★
 ぼんやりしていたケイトから少し離れて草を食べているパンジーに起きる異変を、リトルは幼いながらも明確に感じ取った。恐らく自分の知らない犬の臭いを感じ取ったのだろう、リトルは異変を感じ取るとパンジーの元へ走る。
 パンジーに噛み付いたハッピーに、リトルは横っ腹から渾身の体当たりを食らわす。だがウェイトのないリトルの体当たりに、ハッピーは倒れるものの怯むことはなくリトルを睨み付ける。と思うとリトルの腹に噛み付いて押さえ込もうとする、リトルの口から悲鳴が漏れてケイトがようやくこの異変に気が付く。なんとかハッピーの押さえ込みから抜け出たリトルは、まだまだ怯まずにハッピーに正面から向き合う。しかしハッピーの方が圧倒的に戦力は上で、リトルを叩いたかと思うと器用に前脚で押さえ込むのだ。首筋に噛み付こうとするも上手く行かないが、それでもなおしつこくリトルを追い回す。リトルは何とかハッピーの猛攻を交わし、再度体制を整えてハッピーに向き直ったところでハッピーの牙がリトルの首筋に食い込んだ。あまりの痛みと傷のため倒れて起き上がれないリトル、ワン・ツー・スリー…カンカンカンカン!
 ここでケイトが木の棒を持って現れ、ハッピーをビシビシと何度も殴りつける。最初にリトルを押さえ込んでいる時に1発、逃げようとする時に1発、ケイトに向き直ったところで3発、また逃げようとする時に2発…画面からケイトがハッピーを7発殴った事が確認できる。このケイトの気迫にハッピーは悲鳴を上げて逃げ出す。決闘時間は僅か50秒であるが、私はもっと長かったような感じがした。
 戦いの後に残された傷だらけのリトルの身体に視聴者は胸が震えたことだろう。リトルはとにかく勇敢だった、愛する飼い主の山羊が襲われたのを助けようと頑張った。そんな感動と、ルーシーが病気なのにリトルまでも…という不安が交錯するのだ。このままリトルに何かが起きたらルーシーは立ち直れない、それは劇中でクララが代弁することになるが、この激しい戦いの結果は物語を否応なしに不安な方向へ持って行くのだ。
 またこの戦い自体が迫力を持って描かれている。リトルとハッピーの戦いもこの物語を盛り上げる一つの要素と考えていいだろう。
 
登場動物 飼われているもの→ステッキー・パンジー・リトル・ハッピー
野生のもの→
感想  冒頭のリトルとハッピーの対決は手に汗握った。この物語自体が手に汗を握るような展開になるなんて思っても見なかったのでびっくりした。さらにまだ小さいリトルが押されっぱなしで見ていられなかったのも覚えてる。こりゃリトル負けちゃうわ、との不安に襲われたのだ。案の定リトルが負けるのが見ていて辛かった、本当に辛かった。
 後はいつものほのぼのモードに戻るが、デイトンがペティウェルの歯を引っこ抜くシーンで大笑い。ケイトも大笑いだが話が断片的でアーサーには理解できないというやり取りも笑った。アーサーが「ペティウェルが歯を2本も抜かれたんだって」と確認した時の、アーニーの笑顔がたまらなく好き。この回のアーニーは本当に美しく描かれていて、年上好みの男性には目の離せない回であるはずだ。そこだけではない、ペティウェルの歯を抜いた話の詳細をアーサーが聞いた時の笑顔や、突然起きてリトルにご飯をやると言い出したルーシーを寝かせに行く時の一瞬の表情、不安そうに病床のルーシーを見つめる時や、ルーシーの枕元で居眠りしていて目を覚ます時など、アーニーのファンにはたまらないシーンは多かったと思う。この回のアーニーが美しいと思える人は、この母の女性としての魅力が分かる人だろう。
 え? 私は熟女好きなのかって?

 そのリトルにご飯をやると起き出した時のルーシーの顔が、痩せこけてやつれてとても見てられない顔だった。やっぱ可愛い主人公の病気シーンはあまり伸ばさないで欲しいなといっても、「世界名作劇場」の華だから仕方ないか。
研究 ・ユーカリ
 今回、久しぶりにビリーの父であるジャムリングが登場する。そして煉瓦の家の屋根についてアーサーと相談するのだが、その中にジャムリングがアーサーに屋根はユーカリの木の皮で作ろうと提案する。
 ユーカリは正式にはユーカリプタス(Eucalyptus)という名前である。和名ではこのユーカリプタスという正式名称を略して単に「ユーカリ」と呼ばれることになった。オーストラリア原産で大陸南東部とタスマニア島に分布する常緑樹であり、オーストラリア大陸の森は大半がこの木で占められている。
 ユーカリの葉から取れる油は殺菌や解毒、鎮痛に作用するためオーストラリア先住民族は薬品として使ったそうだ。また葉はコアラの主食でもあるが、若い葉は毒性が強いので十分に育った葉を食べるという。
 ユーカリというのは「脱皮」をする木であるというのが特徴で、一定のサイクルを置いて茶色い木の皮が剥けて木の下に落下するようになっている。こうすると根の周りの水分の蒸発が抑えられ、落ちた樹皮も自分の養分として使うことができるのだという。この樹皮が家の屋根にどう向いているのかは劇中で説明はないが、アーサーが原住民属の家の屋根がユーカリの樹皮である事を説明している。恐らくユーカリの材木としての性質、堅くて丈夫という点が利点とされていると推測される。またユーカリの皮は腐りにくいなどの性質もあるのではないかと思われる。ネットでこの辺りを調べてみたのだが、上手く出てこなかった…。

第28話「川の向こう岸」
名台詞 「どうしてなんだい? ベン。どうして君たち一家は私にこんなにまで親切にしてくれるんだね? 親戚でも昔からの友人でもない私に家まで作ってくれて、どうしてこんなに親切に…」
(デイトン)
名台詞度
★★★
 煉瓦の家の完成が近づいたところで、遂にデイトンはこの台詞を吐く。今までもこのような思いはデイトンにあっただろう、テントに住まわせてくれ、食事を作ってくれ、一家のように扱ってくれるポップル一家がなぜこんなにまで親切なのか? なぜ自分にこうまでしてくれるのか? これはデイトンがずっと抱き続けていた疑問だろう。
 それにベンは、自分たち一家は既にデイトンの友であると告げ、さらに先生のすぐそばにいたおかげでルーシーの病気が治ったのだと説く。それについてデイトンは謙虚に「ルーシーは元々丈夫な子だ、わしゃ大した医者じゃない。わしがいなくても治ったよ。」と答えるが、ベンはそれに「うちの連中は先生のそんなところが好きなんです」という。
 ここにデイトンの人柄が出ていると言えよう、医師という立場でもって偉ぶる訳ではなく、自分がいるから患者が治ったと調子に乗っているわけでもない。自分からこの名台詞のような疑問が出てくる謙虚な男なのである。恐らくデイトンは居心地の悪さは感じなくてもどこかに「これでいいのだろうか?」という思いがあるに違いない。このまま他人の一家にぶら下がって生きて行く生活でいいのだろうかと…いや、そう思えるからこそ「いい人」なのである。
 もちろん、ベンが言うとおりそんな性格の男だからこそデイトンは家族全員に好まれているだけではなく、頼りにされていて、尊敬もされているのだ。なぜデイトンがポップル家の居候でいられるかは、ここまでの説明で十分だろう。
(次点)「テマトーチョ」(「ヘラクレスさん」)
…本放送当時、これを聞いて「南の虹のルーシーに出てくるオーストラリア原住民語」が分かった。その前の「ターヤ!」でなんとなくそんな気はしたのだが。「Dr.スランプ」でも同じネタがあったような…(確かルーシーが先)。
名場面 デイトンのルーシー診察シーン 名場面度
★★
 ルーシーが遊びに行こうと家を出て行く時にデイトンはルーシーを呼び止める。そしてルーシーに「体の具合はどうだ?」と聞かれるが、ルーシーはそういう風に気遣いされるのが嫌で、デイトンに「もういや」って言ってしまうのである。だがデイトンはルーシーに病み上がりだから心配だと説き、診察するから来なさいと言うのだ。ルーシーは嫌がるがデイトンが押し切り、ルーシーはブツブツ言いながらテントに入る。
 ルーシーがテントに入ると、デイトンが鞄から何かを取り出して背中に隠したのが分かる。そしてルーシーに座って口を開けるように言う、ルーシーが口を大きく開けると、その口の中に飴を入れて舌の上でホラホラと動かす。
 ルーシーが飴だと分かると喜んで飴を口から出す。さらにデイトンは人数分の飴を与え、「おまいさんは完全に治っている」と付け加えるとルーシーは「ありがとう先生」と飴をなめながら言う。デイトンがルーシーに最後の診察結果を言うだけなのだが、その過程がほのぼのしていて楽しそうで大好きなシーンである。
(次点)凧揚げ前の相談シーン
…飴をくわえたまま、風向きなどを相談する3人。声優さんの名演技もあって本当に楽しそうで、見ているこっちまで楽しくなるシーンだ。なにがあるって訳ではないシーンなのだが、これもこの物語を面白くする工夫だろう。
(地震情報テロップのせいで該当シーンのキャプできず)
登場動物 飼われているもの→リトル
野生のもの→
感想  これといって何もなくて凧を揚げるだけの話になるのかと思いきや、その凧の糸が切れて飛んで行ってしまい原住民の子供達に奪われてしまうお話になる…こんな話しあったっけ? と思って本放送時の放映日を調べてみたら、この放送があった日はキャンプに行っていて見逃した回だった。そう、ベンが凧を作る話は知っていたけどそれを揚げたルーシーについては見覚えがなく、同時に小説版の口絵に飴をなめるルーシーとケイトが出ていて「こんなシーンあったっけな?」と思っていた疑問も解けた。長崎大水害があった頃の話である(もう1話見逃した回があるがこちらはハッキリ覚えている)。
 つまり感想は大人になって見てからのものしかない、ルーシーが家を出てから凧揚げのシーンまでは、みんな本当に楽しそうでほのぼの路線で気に入った。見ているこっちまでが楽しくなりそうな前半は、声優さんの名演もあると思う。飴をくわえながらの会話では声優さん達もなにかくわえながら声を入れていたんだろうな。多分この物語に声を入れること自体楽しかったんじゃないかと思う。
 後半は言葉が通じないながらも原住民の子供とのふれあいが描かれている。多分言葉は通じなかったが気持ちは理解していたであろう、その上で原住民の子供は意地悪をしたんだろうな。このように原住民とルーシーが対等に描かれているのは好感が持てる。ルーシーやケイトが彼らを毛嫌いするような表現があったらこの物語は取っつきにくくなったであろう。
研究 ・オーストラリア先住民族について
 物語冒頭以外と家を造っているシーン以外は原作を踏襲しつつ話を膨らませている。原作では凧揚げに出かけたのはルーシー・ケイト・クララの3人、クララは途中で帰り、2人で凧揚げしていると糸が切れて凧が飛んで行ってしまい。そこにビリーともう一人の少年が登場するという流れになっている。対岸に凧を取りに行くのは共通だが、凧は高い木に引っかかって取れず、そのまま原住民の祭りを見に行ったストーリーとなっている。
 この回ではオーストラリア先住民族「アボリジニ」の人々が出てくる。彼らは文字通り欧米人がオーストラリアに移住してくる前からいた人々で、歴史的には5〜12万年前にオーストラリアに渡来してきたと言われている。どこから来たかは諸説があり定かでないが、氷河期時代は現在より海面が低くて大陸間の移動が容易だった事からインドやアフリカなど様々な地域の人が渡ってきたというのが正解だと私は思う。以降オーストラリア大陸の上で混血を繰り返し、独自の文化を発展させて欧米人による「発見」の時を迎えるのである。
 しかし、欧米人によるオーストラリア大陸「発見」が彼らに受難の時代をもたらすことになる。欧米人によって免疫のない病気が広がり、飲酒文化がなかったために欧米人から得た酒に溺れてアルコール中毒になる者も多かった。さらに初期の移民である犯罪者達はスポーツとして彼らをハンティングして殺し、年頃の女性を捕らえて強引に妻にするなどの行為で彼らを虐待した。
 移民が犯罪者中心でない一部地域では欧米人と先住民族は平和な関係にあったそうだが、それがどの地域のことかはよく分からない。いずれにしても20世紀になるとオーストラリアは先住民族の隔離政策を始め、彼らを欧米人がいない地域に強制移住させた。さらに先住民族の子供達は「欧米の進んだ文化を学ばせる」との政策のもと、親元から無理矢理引き離されて専用の宿舎や欧米人家庭で育てられることとなった。このように親元から引き離された子供は「盗まれた子供達」と呼ばれる。このようにして大部分の先住民族は絶滅に追いやられ、不毛な土地に住む一部の民族が生き残っているに過ぎない。このような誤った政策について、2008年2月にオーストラリアのラッド首相が公式謝罪したことは記憶に新しい。

 「南の虹のルーシー」について、このような先住民族問題等の「負の歴史」に触れられていない点を問題として批判する声がネット上にあるが、私はそれは筋違いだと考える。理由は物語の主要登場人物であるポップル一家は先住民族に差別的な偏見が無いこと、主人公はルーシー達であって先住民族でないこと、視聴者が子供主体のアニメにこのような難しい問題を入れる必要性を感じないことである。
 それにもう一点、そういう批判をする人は当時のアデレードおよびその周辺での欧米人と先住民族の関係を調べ上げてからにして欲しい。物語の舞台になった時代と場所以外の話は無関係でだ。私はその辺りを調べても答えに行き着かなかったとしておくが、一部の都市では欧米人と先住民族が平和的に共存していたという事は分かった。それがもし当時のアデレードの事であれば、その批判自体が的はずれになってしまう(現に原作紹介を見ている限りは先住民族と共存しているように見える)。歴史的事実を根拠に批判するなら、それについてキチンと調べて欲しい、または結果に行き着かなくても調べる努力は欲しいと思う。物語に対して無責任に批判するのは簡単だが、だがそれは説得力に欠ける批判となるだけの話である。
 これが私のこのような問題で「南の虹のルーシー」を批判する人に対する、ルーシーへの弁護である。

第29話「リトルの訓練」
名台詞 「わしはまだリトルを信用していないようだな。は、まだドキドキしておる。(中略) なぁリトル、お前がさっきの男の子に噛み付くんじゃないかととても心配したぞ。(以下略)」
(デイトン)
名台詞度
 物語の冒頭、デイトンの患者の小さな男の子が無警戒にリトルに近づく。噛み付く訳は無いのだが、居合わせた登場人物達も視聴者もまさか…と思って見ることになる。サブタイトルからしてリトルが何かやらかしても不思議はない。つまりここでは不安な要素全てを使って見る者を不安にさせる。
 やはり男の子がリトルに近づいても何も起きないわけだが、このシーンで一瞬不安な表情で出てきたアーニーや視聴者の気持ちまでをデイトンが代弁する。この台詞でポップル一家やデイトンが持つリトルへの不安感を表現すると共に、視聴者ですら持っている「リトルがいつか何かをやらかす」という不安を引きずり出すのだ。これが今回の本題である「リトルの訓練」へ繋がっていくことになる。
 その通り、物語はロングの放牧場、ルーシーとケイトの口喧嘩へと続いてさらにリトルに対する不安の表現が露骨になり、訓練へと進むのだ。
名場面 ケイトと父の会話シーン 名場面度
★★★
 放牧場からの帰り道、ケイトはルーシーと口喧嘩をしてしまいルーシーは逃げるように先に帰ってしまう。その背後から突然父が現れてケイトと二人で家に帰るのだ。
 最初は父の仕事のことを聞くケイトであったが、話題は「いつになったら土地が手にはいるのか?」という点に変わる。ケイトが父に「早く農業をやりたいでしょう?」と聞くと父の表情が少しだけ曇る。その空気を察したケイトが「私、バカなこと聞いちゃった」と小さく言うのが、大人の世界がおぼろげに分かるようになるケイトの年相応な反応で、まずこれが上手に描かれている。
 そんなケイトに父は正直に話す、政府のやり方が悪くて測量が遅れているから土地が手に入らないこと、自分だけでなく多くの人々がそのような理由で土地が手に入らず困っていると。ケイトはそれを聞いて不安な表情になり、「土地はこれから先ずって手に入るあてはないの」かと聞くが、父は政府の土地じゃなくて他人の土地を売ってもらえるなら手にはいると言う。ここで安心したように「じゃ土地は買おうと思えば買えるのね」と答えるケイトがまた年相応の反応でいい。「土地はいつ頃買うの?」と聞けば父は「来年の春までにはなんとしてでも土地を…」と言いかけたところで、その返答を「来年の春に土地が手に入る」と勝手に脳内変換してはしゃぐケイトが少女らしくていいじゃないか。
 土地が手に入らない焦りと苛立ちが見え始めた父、これまでは家の増築に追われてそれどころじゃなかったが、遂に真剣に土地のことを考えねばならなくなってこの話題になると不安な表情をする。対してケイトは年相応の反応しか出来ず、将来への心配など無く無邪気である。久々に「物語の背景」で流れている本題に戻ったこのシーンでは、そんな父と娘の対比があって興味深い。
 ここで無邪気にはしゃいだ事は当然視聴者の脳裏にも残り、32話で購入が決まった土地がペティウェルに横取りされた時の家族の落ち込みに対する伏線となって行く。
登場動物 飼われているもの→ステッキー・パンジー・リトル・モノクル他ロングの牧羊犬・ロングの羊
野生のもの→
感想  上手くできた回である。本来ならばこの回全体を指して名場面としたい位だ。物語の起承転結がこれほどきれいにまとまっている回は「南の虹のルーシー」だけでなく、「世界名作劇場」全体でもなかなかないと思う。たいていの回で起承転結の結が次の回に持ち越されて次の「起」になったりしており、サブタイトルに書かれたことが「結」にはならずに、その回の全体の流れを指しているが多い。この回は前回から引き継いだエピソードも、次回へ引き継ぐエピソードもなくこの1回にちゃんと「リトルの訓練」という物語を収めている。それだけではない、その「起承転結」の狭間に物語の背景かつ本筋である「土地を手に入れる」というテーマにもスポットを当て、さらに物語の前提であるイギリスに置いてきた祖母への手紙まで登場してくる。恐らく、「南の虹のルーシー」全話を複数回見ると2回目以降でこの話が印象に残るようになるだろう。
 起承転結で追えば、「起」は冒頭のリトルが子供に近づくシーンであるし、「承」はロングの放牧場のシーンであり、「転」はルーシーとケイトの口喧嘩からその夜の仲直りまで、「結」でリトルの訓練シーンというわかりやすい展開である。
 この回は本放送当時に見たかどうか非常に怪しい。リトルの訓練シーンや今回限りの冬の描写は見覚えがあるのだが、他のシーンの記憶が無かったのである。なんかの理由で外出していて途中から見たのか、それとも他に何かしながらの視聴で頭に入ってなかったのか、単純に忘れたのか…当時は訓練シーンが楽しかったのは覚えているけど、冬の話が何回か続くのかと思っていたら唐突に春になって「何じゃこりゃ?」と思ったのは覚えているのだ。冬の話が殆ど無いから、オーストラリアって一年中暑いところだと勘違いしてしまう視聴者もいたことだろう。
研究 ・アデレードの冬
 「南の虹のルーシー」は全50話で、劇中では3年強の歳月が流れる。途中で話が2年飛ぶこともあるが、その物語の中において「冬」が訪れるのはこの29話だけである。しかも冬のシーンはたった1分で、ケイトの弾んだ声のナレーションと共に話は一気に春まで飛んでしまう。
 だから冬だからと言ってみんなの服装が変わることもない。ルーシーとケイト、それにアーサーとデイトンの4人はいつもの服装にマフラーを巻いただけ、アーニーとクララはいつもの服装に肩掛けを着用、トヴだけはセーター姿で出てくる。だがベンはこの1分間の「冬」に一度も出てこなかった。ちなみにマフラーの色は、ルーシーは水色、ケイトは黄色、アーサーは黄土色、デイトンは茶色。肩掛けはアーニーが深緑、クララが赤。それにトヴは黄色いセーターでの登場であった。
 オーストラリアの冬の描写は劇中にあるとおりで、葉を落とす木が少なく森の景色はあまり変わらないようだ。この辺りは劇中のクララの手紙にも出てくる。オーストラリアの森の木の大半を占めるユーカリが常緑樹で、四季を通じて葉を落とさない特徴がある。つまり日本の冬と違い森の木々が青々とした葉を付けたままなのだ。それに日差しが強く空も明るく、日本人がみれば「本当にこれは冬なのか」と疑いたくなる景色だそうだ。「アデレード 冬」でのキーワードで検索すればアデレードの冬景色の写真が載せられているサイトにいくつかぶつかるが、日本人の感覚で言えばどの写真も冬には見えない。
 気温も昼間は東京の3〜4月頃の陽気でそう寒くないらしい。ただし、昼間の暖かさが嘘のように夜間の冷え込みが厳しいとのこと。これを見ればルーシーやケイトが「いつもの服装」にマフラーだけで外に出て平気なのが理解できるだろう。
 劇中では空の色が日本の冬のように暗く冷たく描かれていた。これは日本人に向けた「冬」の演出だから致し方ないが、この固定観念が強いまま実際のアデレードの冬景色の写真を見たら…あまりの落差にショックを受ける。だが真実の通りの景色を描いたら、日本人には冬には見えないつまらないシーンになったことだろう。

第30話「誕生日のおくりもの」
名台詞 「私を置いていったくせに荷物を持てっていうの? 私は持ちません。さ、リトル行きましょ!」
(ルーシー)
名台詞度
★★
 ケーキを作ってくれると聞いたルーシーが上機嫌で家から出てくる。ちょうどそこにケイトとクララが買い物から帰ってくるのだ。二人は買い物に行く行くと大騒ぎしながら結局は置いていったことを思い出した。劇中には描かれなかったがルーシーは買い物について行くとだだをこねた挙げ句、置いて行かれて大泣きしたと推測される。その上機嫌なルーシーを見てクララは勉強をしていないのではと疑い、ケイトは荷物が重いから半分持ってもらおうと企てる。
 しかしそのケイトの企みはこの台詞によって打ち砕かれるのである。どんなに上機嫌でも買い物に置いて行かれたことを根に持っていて、何が何でも買い物の手伝いをしない、という思いを明るく言えるほど上機嫌なのだ。ケイトとクララはこれにすつかり調子を狂わされてしまう。
 この台詞と前後のルーシーの行動に、どれだけケーキを作ってもらえることが嬉しいかという点がキチンと描かれている。またこのルーシーの言い方自体が面白く、見ている者を笑わせる要素が詰まっている。これは台詞を選んだ人のかちだともう、台本にあったのか声優さんのアドリブなのかは分からないが。
名場面 ルーシーの誕生日 名場面度
★★★
 夜、ケーキを用意してささやかにルーシーの誕生祝いが行われる。やはり主人公だから誕生日というイベントは見逃せなかったのだろう…じゃなくて、それまで家族の誰の誕生日であろうとその祝いをしている余裕がなかった一家だったが、やっとケーキを作ったりささやかなパーティをしたりと生活を楽しむ余裕が出てきたのだ。これは家の増築などが終わり、父が働きだしたこともあって一家の生活が軌道に乗ったことを示す。
 ルーシーがケーキにのせられたろうそくの火を吹き消すというありきたりの誕生パーティの儀式が終わると、兄妹はルーシーにプレゼントを渡す。ケイトからはハンカチ、クララからは小物入れ、ベンからはロングにもらった子羊がプレゼントされる。続いて父が咳払いすると、近々土地を買うと皆に発表するのだ。
 父の発表の後、家族は何が起きたのか分からないという表情でしばし無言になるが、居候であるデイトンが「いや〜、素晴らしい」と拍手をする。これに釣られる形で皆が拍手で喜びを爆発させるのだ。この中でトヴだけがひたすらケーキをむさぼっているのも幼児らしくていい。
 このシーンは32話までの「第一部」でのクライマックスへ向けての序章的な場面である。第一部で迎えた家族の幸せ、土地が手に入る見通しを誕生パーティという形で描き、またその誕生日パーティもやっとそれをできる余裕が出来たという設定でもって、家族のそれまでの苦労を際だたせる。そしてここから物語は背景である「本題」について一気に動き出す。家族の幸せと落胆という第一部のマライマックスがここに始まったのだ。
 
(次点)死んじゃいない…
…リトルに連れられてやって来た森の中の小屋に倒れたロングを発見したケイトとルーシー。倒れたまま動かないロングを見て「死んでるの?」とルーシーが口走ると「死んじゃないない」と答える。二人は驚いてしりもちをつくが、この間が面白くて大爆笑した。笑うシーンじゃないのは分かっているけど。
登場動物 飼われているもの→ステッキー・パンジー・リトル・スノーフレイク(ロングからもらった子羊・初登場)・モノクル他ロングの牧羊犬・ロングの羊
野生のもの→
感想  「誕生日のおくりもの」というサブタイトルだから、平和にルーシーの誕生祝いがあって終わるだけだと思っていたらロングが倒れているし。考えてみればリトルが最初に人の役に立ったとも言えるシーンであろう。牧羊犬に吠えられながらもロングの臭いに気付き、そちらへ向かっていたリトルの活躍は素晴らしい。さらにそれでロングの生命を救ったとあれば大金星であろう。結果、これがルーシーに子羊が贈られる伏線となるのだ。
 で、後半こそは平和にルーシーの誕生会だと思っていたら、今度はその席上でアーサーが土地を買うと発表して一気に本筋が進む。そうか、誕生日のおくりものってこの土地のことが主題だったのかと物語の最後に気付かされて、本放送当時から話の作りの上手さに感心せずにいられなかった。父の発表は誕生日を迎えたルーシーだけでなく、家族全員の笑顔が約束された贈り物だったのだ。
 でもこの放送が8月、まだ最終回を迎えるには早いような…鋭い視聴者はこれに気付くことだろう。つまり土地はまだ手に入らないはずだと感じる人が多いと思われ、私も本放送当時はそう思っていた。ここで土地がすんなり手に入ったら残り4ヶ月のストーリーが持たないのは明白だし、何よりも見せ場がないまま終わってしまう。この先の展開にしばらく目が離せないなと感じたのもこの回である。見ていけば分かるのだが、この土地購入発表はここから数話分の見せ場の入り口でしかないのだ。本放送時は誰も、2話先で話が2年先に飛ぶなんて考えていないだろうからその予測は難しかっただろうな。
研究 ・ロングの放牧地2
 だんだん私が予測した「小屋」の位置に矛盾が生ずるようになった。しかしここまでの話をまとめると動かし難いのも事実だ。前回辺りから再びロングが出てくるようになるが、その放牧地の景色とルーシー達の動きに矛盾が生じ始めているのだ。
 今回も前回も、ロングが放牧をしていたのは間違いなくこの地図の「4」地点の付近と思われる。その前のアデレードの街を見下ろすシーンが、街の西側から見下ろした風景として描かれているためである。だがこの放牧地へ向かう登場人物はポップル家の位置(前掲地図「5」)から東へ向かって走り出している。これを上手く説明するにはこれしかないだろう、何らかの理由で「ノーステラス(North Terrace)」を西進出来なくなり、やむなく「キングウィリアム通り(King William Rd)」を南下してから西へ向かったのだろう。道路工事か何かで「ノーステラス(North Terrace)」が通れないのだ…あれ、じゃ買い物から帰ってきたケイトとクララはどうなんだ? 彼女らは「ノーステラス(North Terrace)」を西側から帰ってきたぞ。
 やはり解釈としては、西からアデレードを見下ろしたシーンは「イメージ」で、本当はロングの放牧場は街の北東側(20話で推測した地点)なのだろう。そう解釈してこれ以上ヤボなツッコミは…33話でまたしたくなるなぁ。
 今回の前半は原作に似たような話がある。ベンがロングにいなくなった羊を探すように頼まれて森の中へ行くと原住民に会い、その原住民は手振りでベンについてくるようにいい、ベンがそれに従って行くと羊飼いの小屋があって中にはいると羊飼いの老人が倒れていたという話があるのだ。その羊飼いは死んでしまうが、発見して看病してくれたベンにお礼として子羊をもらう。アニメではリトルとルーシーとケイトが活躍するが、原作ではベンの一人舞台になっているのだ。
 ルーシーの誕生日は原作には描かれていないが、アーサーが家族に重大事項を発表するシーンはある。原作では土地を買うのでなく、アンガス通りのもっと広い家を家を買って引っ越すことを発表し、いつかは土地を買うと宣言する。この発表に皆が喜んで乾杯したところで原作ではこの章は終わり、アニメでは33話以降となる1840年へ話が飛ぶことになる。
 この間にトヴが行方不明になるエピソードが原作にある。カモの親子と一緒に草むらから出てくるトヴをアニメで見てみたかったな〜。

前ページ「南の虹のルーシー」トップへ次ページ