第39話「二つの別れ」 |
名台詞 |
「ねぇルーシー、思い切ってスノーフレイクを売ることにしたら? 私は家のことを思ったら売るべきだと思うわ。自分のことだけ考えてはいけないわ。」
(ケイト) |
名台詞度
★★★★ |
スノーフレイクを競売にかけると聞いたルーシーは、当然のごとくこれに一人で反対する。父に説得されるがそれでも聞かず、母が「他に売れる物がないか考えましょう」と言うと居間での家族での会話は終わる。
でもその状況に納得できないのがケイトだ。昼間は母と二人で過ごすことが多いケイトは家の事情を必要以上に理解していた。前半で家に肉を飼う余裕が無い会話をするシーンや、それに続く父が働かない話題などがこの伏線に当たるだろう。そんな家の貧しい実情を実感として知るケイトは、「父さん達も辛いのよ」「家には本当にお金がないの」と家の状況を包み隠さず暴露して父を弁護する言葉を吐く。さらに父が仕事に出ると言うとルーシーは「スノーフレイクを売る必要はない」と答えるが、その返事としてケイトはルーシーにこう言う。
これまでのケイトならばルーシーと一緒になってスノーフレイクを売ることについて反対しそうだが、先の家族での会議では無言を貫き、その上でルーシーと二人になった時に思い切ってルーシーが取るべき道を姉として忠告するのだ。今はみんな家を守ることに必死で、ケイトより上の年齢の家族はみんな自分のやりたいことを押し殺して家のために働いている。そろそろルーシーも家のためを考えて欲しいと願い始めるのは、ルーシーの年齢を考えれば至極真っ当と考えられる。ジャムリングが10歳のビリーに対してそう思っていたのと同じように。
そしてこのような台詞を堂々と吐けるほどにケイトは成長していたのだ。ケイトは家のために勉強をしたいという気持ちを抑えて母の手伝いをして支えてきている。そのケイトの家庭での役割がケイトをここまで成長させたのだ。それだけではない、その家のために働くケイトの姿を妹はちゃんと見ているのである。この台詞を聞いたルーシーが大声で反論するのでなく枕に顔を埋めて涙を流すだけだったのは、この台詞をケイトが自分に向けて言うことに対し説得力を感じたためだろう。ルーシーはとりあえずこの現状を受け止めるが、現状を受け止めるのとスノーフレイクの売却に賛同するかどうかは別問題だ。
だが、ケイトという最も信頼する姉にこの台詞を言われたことは後のシーンの伏線になる。スノーフレイクが競売にかけられている時、この現実を直視してやめさせるような行為はしなかった(ちなみに原作ルーシーは止めようと走り出すがケイトとトヴに止められる)。その場を黙って見続けていられたのはケイトのこの言葉があったからこそだろう。プリンストン家から帰ってきたルーシーがスノーフレイクがいなくても表面上平然としていたのは、この言葉があったからこそだろう。
でも競売直後のルーシーはスノーフレイクという友を失った悲しみの方が何よりも上だった。それが次の事件を引き起こすのだ。 |
名場面 |
(デイトン編)デイトンとの別れ。 |
名場面度
★★★★ |
名場面は絞りきれないので、今回だけ特別に2シーン選ぶことにした。物語がCMを境に「デイトンとの別れ」と「スノーフレイクとの別れ」に明確に分けられるので、それぞれから1シーンずつ挙げることにする。
アデレードに来てからずっとポップル一家の一員のように過ごしてきたデイトンだが、アーサーとベンが建てた小屋を追われしばらく居候していたのもつかの間、医師不足に悩むゴーラーの診療所へ就職することになった。その別れの前にクララにアーサーの酒を止めさせてくれと頼まれ、デイトンは酒を断つ。酒を呑まないデイトンはケイトに体の具合が悪いのか?と聞かれるのはご愛敬。
そして別れの時、ベンとクララ以外の家族総出でデイトンを見送る。デイトンを乗せた馬車が走り出すと、ルーシーとリトルが走ってこれを追う。「さようなら」と言い合うと、「南オーストラリアに来て以来、家族の一員のようだったデイトン先生は、ゴーラーの町へ行ってしまいました。とっても辛い別れでした。」と静かにケイトのナレーションが入る。馬車に乗るデイトンが思わず涙する。
5話で初登場し、一家と一緒に楽しい時も辛い時も過ごしてきたデイトンとの別れは、ありきたりの別れシーンとして描いている。だが極端に派手にするより自然で良いと思うし、なによりもこの自然さがかえって悲しみを誘うように出来ている。デイトンはただ一家に居候していたわけでなく、家族の成長と同時に一緒に成長してきた人物である。このような人物が物語からいなくなってしまうことは、視聴者にとっても辛く悲しいことであるのは間違いないのだ。
いよいよ画面から主要登場人物がいなくなるという話も出てくるようになった。物語はここから終盤に入ると考えて良いだろう。
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(スノーフレイク編)ルーシーの事故。 |
名場面度
★★★★ |
スノーフレイクが3ポンドで売却されたのを見て、悲しみに暮れるルーシーはぼんやりしたまま町を歩く。横道から出てきた馬車にぶつかりそうになっても気が付かない、さらにはジョンに声掛けられても気が付かないのである。言葉も発せず、無表情のままルーシーはアデレード橋までやってくる。
ここで事件が起きる。アデレード橋の上を暴れ馬が駆けてきたのだ。橋の上は大混乱になり、暴れ馬との衝突を避けるため道行く馬車が全て脇に寄ろうとする。そのうちの馬車の一台が道ばたをぼんやり歩いていたルーシーをはねる。ルーシーは悲鳴を上げたと思うとその場に倒れて動かない。
今まで全体的にのんびりほのぼのしていて、暗いシーンは一家を包み込む暗雲に触れた時だけだった。その暗雲がだんだん厚くなってきて、ついにはルーシー一人のシーンにまで暗雲が立ちこめたところでの事故である。これはもう暗雲どころの話ではない、何かが起きるのだ。
さすがにルーシーが死ぬわけはないが、この突然の事故で初めて見る視聴者は今後の展開の予想が全くつかず、不安と恐怖に陥れられることだろう。だが「世界名作劇場」に慣れている人ならば、この事故が次の「華」である主人公の大怪我という事態につながりハッピーエンドへの転換点と予測できるようにもなると思われる。そう、物語は50話中39話にしてやっとハッピーエンドへ向けて転がり始めるのである。だが物語の雰囲気はまだジェットコースターのように落ちて行くだけだ。
だが多くの人、特に本放送時はこの展開が読めた人は少なかったはずで、突然の事故で話の展開自体に不安を感じたことだろう。ここまで全くハッピーエンドの要素が無いことも含め、この不安は視聴者を強力に物語へ引き込むのである。
そして物語は意外な方向に展開するのだ。
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登場動物 |
飼われているもの→モッシュ・ステッキー・パンジー・ソッピー・リトル・スノーフレイク
野生のもの→ |
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感想 |
デイトン先生退場。この人好きだったのに…最終回までずっとポップル家に居候するかと思っていたのに裏切られた感じだ、だから別れのシーン自体は普通の別れのシーンだったのに悲しかったのだ。感動したのでなく純粋に悲しかった。
その前のクララがデイトンに父の酒をやめるよう頼むのもこれまたいい。ちょっとネガティブクララモードに入っていたようにも感じるが、その位じゃないとデイトンに頼むことは出来なかっただろう。酒に溺れるアーサーの前で平然と酒は呑まないと言い切り、最後にはアーサーに酒をやめさせる言葉をクララに言わせる辺り、この男の人の良さを感じた。
そのアーサーは人間味があっていい。酒の呑みすぎについて肯定はしないが、呑んでないとやってられないという状況なのだろう。アーサーにのし掛かってきた重圧、それは家族の次に「お金がない」という事実である。お金がない以上は土地どころではない、つまりもう自分の夢を捨てねばならないというところまで彼は追いつめられたのだ。その悲壮感がアーサーからは伝わってきて、見ている方も不安になる。
スノーフレイク売却の話題については成長したケイトに尽きるだろう。ルーシーが反対する事が両親は織り込み済みだったのはまいった。ルーシーは心の何処かで家庭の厳しさや自分が我が儘言っている場合で無いことを理解したのは前述したとおり。その現実とスノーフレイクと別れたくないという希望との狭間に揺れ始める。そう、ここからルーシーの成長も始まるのだ。
そのルーシーの成長がこの最悪の心理状況からどうやって描かれるのかと思って見ていたら…あの事故だ。本放送時は背筋が震えた、こんな事ばかり続く家族なんて…と。ハッピーエンドの予兆すら感じないと言うのは、ある意味セーラがいじめられているところをずっと見せられるよりも辛い。セーラなら同じ頃の話で既にクリスフォード登場済みで、ハッピーエンドの予感がしていただけにまだ見ていられた。でもルーシーはそれが無くて一家を覆う暗雲はますます厚くなり、その上ルーシーが事故に巻き込まれるわけだから…正直本放送時は見ていられなかった。 |
研究 |
・記憶喪失編
「南の虹のルーシー」は全50話中40話に達しようとしている。本放送時は1〜12月まで1年かけての放送が10月に入ったところである。ここまででまだハッピーエンドの予兆も、そのキーワードすらも出てこない。一家を包む暗雲は厚くなるばかりで、そしてこの事故だ。
次話のネタバレになってしまうが、この事故でルーシーはプリンストンという男に救助される。そしてルーシーが目を覚ますと記憶喪失となっていたわけだ。アニメ「南の虹のルーシー」最大の見どころである「記憶喪失編」が今始まったのである。
記憶喪失のエピソードはアニメでは終盤の半分を占めるが、原作では出てこないエピソードである。原作ではルーシーとプリンストンは街で何度も会うことで顔見知りとなり、次第に家族ぐるみで付き合うようにな、アーサーがプリンストンの仕事を手伝うという段取りを踏んでラストに向かうのだ。原作プリンストンは1840年に話が飛んですぐの登場で、ルーシーと顔見知りになるまで数回の登場を重ねる。アニメではこの段階までそのプリンストンは出ていない。
アニメではそのプリンストン登場のきっかけがこの記憶喪失編である。事故で倒れたルーシーを助け、事故のショックで記憶を失ったルーシーと生活するという物語をアニメはとるわけだ。この改変については賛否両論があるようだ、私は現実的に考えれば記憶喪失編は不自然で原作の流れの方があり得る話だと思うが、万人受けしなければならないアニメで主人公が活躍する見せ場を必要とするアニメではこの方が良かったと考える。つまり現実的にはあり得なくても、物語として見た場合には面白く、かつこの物語の一貫したテーマ「家族の絆」という点でも必要だったのである。
原作の流れのままアニメを作ったら、さぞかしつまらないアニメになっただろう。「南の虹」という原作も紹介サイトを見ている限り悪くはない作品ではあるが、主人公をルーシーに決めたアニメではあのままの流れにはならない。「南の虹のアーサー」だったらあの流れでもいいと思うけど。
その理由は主人公ルーシーがハッピーエンドのために印象的な活躍をするシーンが無くなってしまうのである。ルーシーを主人公として強烈に印象づけるためには、ルーシーの手で土地を入手しなければならないのである。原作ではプリンストンとの出会いという土地入手のきっかけこそはルーシーが引っ張ってきているが、土地そのものはアーサーがプリンストンの元で一生懸命働いたから手に入ったのである。
ぶっちゃけ、最終回の改編のために記憶喪失編を伏線として入れたと考えて良いだろう。まずここで一家からルーシーという三女がいなくなって家族がどうなるかを徹底的に見せる。同時に成り行きでルーシーを助けて一緒に生活し、自分の娘と錯覚する夫婦を出す。この家族と夫婦によるルーシーの引っ張り合いの中で、ルーシーが自分の立場を認識して一家がどうあるべきなのかを考える。その上で家族の現況を把握して自ら土地入手の手段を考える。ここで数日間一家と離れて生活したという経験は必ず必要になる(その理由はその都度解説予定)、そのために記憶喪失編を入れたのだと考える。
さらに記憶喪失編の別の役割として、ルーシーを色々と変身させてしまうという遊び心や、平坦な物語を楽しくする工夫として入れられたであろう事も感じ取ることが出来る。金持ちの家に一時的に住んだため、色々な服を着飾って出てくるルーシーは記憶喪失編の見どころの一つでもある。
同時にここでの一家がルーシーを心配する姿、徹底的に探し回る姿は絶対に見落としてはならない。ルーシーが記憶を失ってプリンストン家に住むことより、この間のポップル家の動きの方が私には本題に見えるのだ。 |