前ページ「南の虹のルーシー」トップへ次ページ

第41話 「見知らぬ町 見知らぬ人」
名台詞 「そうよ、あのエミリーが生き返ったんだわ。」
(シルビア)
名台詞度
★★★
 物語の最後の方、名場面次点のシーンでいよいよ「記憶を失った少女」は「エミリー」になる。買ってあげたばかりの青い服を着て階段を下りてくる少女の姿に、夫婦からはそれまで見られなかった明るい笑顔が飛び出す。
 この笑顔の中でシルビアは名前がないのは不便だとして少女を「エミリー」と呼ぶことに決める。ここまでの物語をキチンと見ていた視聴者には、エミリーというのは夫婦がかつて亡くした赤ん坊の名前であることに既に気付いているだろう。前話でフランクが医者にその話をし、眠っている少女にシルビアが「エミリー」と呟くシーンがあった。
 さすがのフランクもこれには驚き、「おい、エミリーというのは…」とシルビアに声をかける。そのシルビアの返事がこれだ。
 シルビアは少女が家に来た時点からこの少女にかつて亡くしたエミリーの姿を重ね合わせていた。だがここまではこの少女がすぐに記憶を取り戻すに違いないとその気持ちを表に表すことはなかったのだ。しかし、少女を馬車に乗せてアデレード中走り回っても少女は記憶を取り戻さなかった上に家族にも発見されなかった。そこでシルビアの心の何処かにあった「この子がずっと記憶を失ったままだったら…」という思いが心の前面に出てきてしまったのだ。そして少女がシルビアが買った服に着替えると…もう少女はシルビアのエミリーになってしまったのだ。
 このシルビアを見て夫フランクは早速不安になる、顔を曇らせて「何を考えているんだ?」とエミリーを連れて行く妻の背中に向かって呟くのだ。
 この台詞はシルビアが心の中に「他人の子である」という一線を引けなかったことを示す重要な台詞で、以降シルビアは偏愛とも言える形でエミリーに接して行くのである。これを見た視聴者はまた新たな不安に直面する、ルーシーは本当に家へ帰れるのだろうか、そして帰ったとしてもこのシルビアから逃れられるのだろうか…と。
名場面 トヴがルーシーが乗る馬車を目撃 名場面度
★★★★
 フランクは少女の記憶を取り戻すべく妙案を考えた。それはまず少女を倒れていたアデレード橋に連れて行く、そこで記憶を思い出さないようならアデレードの街を馬車で走る。その際、少女を馬車の窓際に乗せておくというものだ。そうすれば少女の家の前を通る可能性があり、自分の家を見た少女が記憶を取り戻すかも知れない。そうでなくても家族や知り合いに少女が目撃され、身元が分かるかも知れないと言う作戦であった。
 これはすぐ実行に移された。そしてこの作戦はフランクの思惑通りに進む…が少女の身元が分かるようなことはなかったのだ。
 アデレード橋で記憶を取り戻せなかった少女を乗せた馬車はアンガス通りに入り、そしてポップル家の前を通過するのだ。しかし幸か不幸か、ポップル家の前で馬車を見上げていたのは…幼い弟のトヴだったのだ。
 トヴは玄関先で虫取りをしている最中に近付く馬車の音に気付く。恐らく、あの辺りでは二頭立ての馬車の存在自体が珍しいのだろう。だからこそトヴはその馬車の窓を見てどんな人が乗っているか見てやろうと思ったに違いない。その窓の向こうにあった顔は…姉のルーシーだった。
 トヴも幼いとはいえ姉が行方不明になっていることは理解できている。馬車が走り去ると慌てて台所にいる母を呼びに行く、だが母は最初はトヴの言葉を信用しない。この間に貴重な時間が過ぎてしまい、馬車は遠ざかるのだ。やっとの事で母を連れて外に出ると…もうその馬車の姿はなかった。
 ここは記憶喪失編での見せ場のひとつだろう。そこまでもさりげなく馬車がクララのすぐ脇を通るシーンなどが出ていたが、ポップル家の前で家族の人のが確実にルーシーだと分かるかたちで目撃させるのには、ルーシー捜索において手がかりを置き家族がこれにすがるシーンを作るためにも重要である。そのためにルーシーを目撃するのが幼いトヴであるという作りは、その唯一の手がかりの信頼性を揺るがせるという効果もあり、かつ視聴者に対してもどかしい思いをさせてこの記憶喪失編自体を深く印象づける役割を持っている。
 またこれまで目立った活躍はなく、どちらかというとマスコット的存在に近かったトヴがルーシーについて唯一の手がかりを持つという形で初めて活躍し、その存在を印象づけるシーンでもある。ただしこれが幼いが故に役に立たないと言う点でも、視聴者に対してトヴの印象を強く植え付けるシーンとなっただろう。
(次点)エミリー登場シーン
…「記憶を失った少女」が「エミリー」になる。シルビアに買ってもらった青い服はエミリーとしてプリンストン家で過ごすルーシーを象徴するものだ。この服装の変化はこれまでの服装変化と全く意味合いが違い、一人の人間が別の人間になってしまった事を意味する。その登場シーンを上手に表現したと思う。
登場動物 飼われているもの→リトル・プロスペロ(プリンストン家の飼い猫・初登場)
野生のもの→
感想  物語の描写が本格的にポップル家とプリンストン家の二元中継となってゆく。ルーシーが帰らない不安が徐々に高まって行くポップル家ではアーサーまでもが冷静さを失い、深夜のアデレードの街へと飛び出そうとしてしまう。対してプリンストン家では少女が記憶を失っていると知り、今後の対応をどうするかを検討し始める。夜が明けても少女は記憶を失ったままで泣き出すが、プロスペロの登場によって久々にルーシーに笑顔が戻ってホッとした。
 今回は第一次接近遭遇(どちらかが相手を目撃しその自覚がある遭遇)としてトヴがルーシーを目撃し、第二次接近遭遇(相手を目撃せず互いに自覚のない遭遇)としてルーシーが乗る馬車がクララの横を通過し、第三種接近遭遇(通過時刻がずれたすれ違い)としてついさっきまでルーシーがいたアデレード橋にケイトとアーサーがすれ違いで現れ、さらにクララがつい今までいた洋服屋にすれ違いでルーシーが行く。このような記憶喪失ものの話では接近遭遇は付き物で、否応なしに話が盛り上がる。
 その中でもトヴの第一種接近遭遇は重要だ。幼いから何も出来ないと言う事を見事に描きあげ、場合によってはここでルーシーは家へ帰れたのに…と、もどかしい思いをしながら見ることになる。これは遭遇したのがトヴだからであって、もしケイトだったら馬車を走って追いかけて「ちょっとルーシー、あんた何やってんのよ〜!」とか叫べばプリンストン夫妻がこれに気付いてめでたしめでたしである。ケイトの声で記憶が戻るかも知れないし。それに思いが及ばない年齢のトヴにこの役割をさせて心憎さが今も昔も好きだ。
 それと最後のシルビアがルーシーをエミリーと呼び始めるシーンではどっちかというと寒気が来た。服装の変化と呼び名が変わることで一人の人間が別の人間になってしまったみたいで…これは本放送時の感想も今の感想も同じである。ルーシーの変身としては面白いエピソードであるが、シルビアがルーシーを知らないのもあるが、その少女を完全に別人にすり替えようとしている怖さに、背筋に冷たい物が走ったのだ。
研究 ・プリンストン氏
 この記憶喪失編は原作にないアニメオリジナルの話だが、記憶喪失編で最も印象に残るミスタープリンストンは原作から流用の人物である。どちらも実業家でアデレード周辺に多くの土地を持ち、農園経営や鉱山経営をしている青年実業家として描かれている。
 ただし原作では登場の仕方がかなり違う。原作プリンストンは1840年に話が飛ぶとすぐに出てくる。原作の1840年編最初のエピソードはルーシーが郵便局へ遣いに出されるというもので、この帰りに競売場の前で馬に乗ったプリンストンとルーシーがぶつかりそうになったという話が最初の登場だ。金持ちのプリンストンに貧しい人が生活費を得るために色々な生活品を競売にかけるとルーシーは説明するが、この時のルーシーはおどおどしていたとのこと。
 続いて一家が港へ行く時に二度目の登場をするが、この時はルーシーに一声かける程度でしか出てこなかったようだ。
 三度目はルーシーが道で1シリングを拾うエピソードの際、そのお金で中古の鋤を買ったルーシーを馬車で家まで送る。そこでアーサーと知り合いになり、農業について語り合うという展開となる。ここまでが原作プリンストンのアニメにおける記憶喪失編までの足取り…つまり一家と出会うきっかけな訳だ。ちなみにプリンストンの妻シルビアは原作には出てこないようだ。
 前述したとおり、原作のプリンストンは競売を見せ物の一環として思っていないなど、かなり世間知らずな点もあるように見える。アニメのプリンストンがそのような世界をどれだけ知っているかは描かれていないが、原作のプリンストンはもっと若い人を想像するような描かれ方で、ひょっとして独身かと疑ってみたくなるくらいだ。
 アニメではここまで見てきたとおり、アデレード橋に倒れていたルーシーを助けるところからプリンストンとの物語が始まる。つまり1840年編に入って少し経ってから出てくるということになっているのは言うまでもないだろう。原作では1840年編自体がプリンストンとの物語になっていて、特に大きな事件がないままアーサーは農園にする土地を入手するストーリーだ。この違いはやはりアニメには万人受けする見せ場が必要だという判断で改編されたと見るべきだろう。

第42話 「エミリーと呼ばれる子」
名台詞 「エミリー…エミリー…。私の名前はエミリー。お母さんの名前はシルビア。いいえ、違うわ。私は一体誰なんだろう? ねえ教えて、私は一体誰なの? プロスペロ。教えてちょうだい。」
(エミリー)
名台詞度
★★★
 名場面シーンを受けて、部屋で一人になったエミリーがこう呟く。口の中で何度も「エミリー」と言う名前を繰り返し、母の名前がシルビアだと言ってみるが。やはりそれがそれまでの自分でないことには気が付いているのだ。でも何も思い出せないという不安…この不安をプリンストン邸で自分が唯一心を許せる存在となったプロスペロに言うのだ。
 その「何かか違う」というエミリーの思いと、不安を見事に「独り言」という形で表現したのがこの台詞なのだ。
 だけどハッキリしているのは「お母さん」と呼ぶとシルビアが非常に喜ぶことで、エミリーは記憶を取り戻すその瞬間までシルビアの娘を見事に演じきる。そのエミリーの生粋の優しさこそが、記憶が戻った後にシルビアを傷つけることになってしまう。
名場面 シルビアがエミリーに自分を母と呼ばせる 名場面度
★★★★
 夕暮れのプリンストン邸の庭でシルビアがエミリーを呼ぶのだが、当のエミリーはなじめない名前で自分が呼ばれているとは気付かずにインコと戯れている。シルビアはインコと戯れるエミリーを発見するが、エミリーは自分が呼ばれているのに気付かなかったと告白する。と同時にエミリーは自分のことが少し分かったとシルビアに報告、それは自分がとても動物好きであるという点だった。
 それを聞いたシルビアは「あなたってとてもいい子なのね」と思わずエミリーを抱きしめる。抱きしめられたエミリーは「とてもいい臭い、こうやっているとお母さんに抱かれているみたい…」と言う、この言葉にシルビアは反応する。この反応は「自分が母になれるかも知れない」と言う反応だ、そして「エミリー、お母さんって呼んでみて。」とエミリーに頼む。エミリーは驚いた表情を見せるが、シルビアは「もちろんあなたが記憶を失っている間だけよ、お願い、呼んでみて。」と懇願する。「お母さん…」とエミリーが言うと、シルビアは目に涙を貯めてエミリーを強く抱き寄せる。
 ここではシルビアの「喜び」がきっちりと再現されている。以前に娘を失い、その娘が生きていれば同じ年頃の少女に「お母さん」と呼ばれる喜び。前回口に出した「エミリーが生き返ったんだわ」に引き続く目の前の少女を自分の娘と錯覚するシーンで、少女を母と呼ばせるに至って「他人の子である」という一線を引けないままの偏愛にブレーキが効かなくなるのだ。
 視聴者はこのシーンを期待と不安で見ることになるだろう。この記憶喪失という状態がいつまで続き、シルビアの偏愛がどうなるのかという不安。そしてこの偏愛が物語の展開にどう絡むのかという期待だ。このシルビアの偏愛も物語の展開にどのような効果をもたらすのか…この記憶喪失編自体の展開と共にシルビアの偏愛に対しても、視聴者は引き込まれて行くのである。。
 
登場動物 飼われているもの→リトル・プロスペロ
野生のもの→インコ
感想  やっぱりアーサーとケイトがリトルを連れてゴーラーまでいったわけだが、本放送時はこの組み合わせで珍しくて妙な気分を味わったものだ。そこにペティウェルがやってきて一方的な勘違いをするのもいい。しかしペティウェルというのは第二部に入ってから色んな役割を持たされて忙しい人だ、根っからの悪人になったり、哀れな被害者になったり、相手が子供でも礼儀を見せることがあったり…で今度は勘違い男。ペティウェルってある意味都合の良いキャラクターなのかも知れないが、本来はこの男は情けない男でしかないはずなのだ。
 そのペティウェルがプリンストン邸でルーシーと第二種接近遭遇をするのも良い。あそこでエミリーが振り向いていたらペティウェルはどう反応したのだろう? 案外、「ポップル家のお嬢さんによく似ている」と心の中で思っただけで言ってしまうような気がする。プリンストン邸の召使いに「なぜポップルの娘が…」とか言ったりして記憶喪失編を解決させたりはしないだろう。
 プリンストン夫妻とエミリーの3人の食卓も良い、最初はペティウェルに対して怒っているフランクが場を殺伐とさせるが、その後すぐに子供と一緒の食卓はいいもんだと明るくなるのが良い。それと食前のお祈り、夫婦が目を閉じて祈っているのにエミリーはそれにすぐに反応しない…これを見りゃ少なくともこの娘が上流家庭の出でない事くらいわかるだろうに…。
 対してポップル家の暗い食卓、ここにルーシーという可愛い盛りの10歳の娘がいなくなって一家がどうなったかという現実が表現される。これは家族がバラバラになって行く事に抵抗感を感じる伏線となって行くはずのシーンだ。玄関が開いた音で藁にもすがるようにルーシーの帰りを期待する一家、そこに現れたベンを見て「なんだベンか…」と落胆する様子もベンには悪いが上手く描けていると思う。
 フランクがシルビアにエミリーと呼ばせている件と、お母さんと呼ばせている件について注意するシーンは、エミリーについて「他人の子である」という一線が引けたかそうでないかの違いが見事に表現されていて秀逸である。一線が引けたフランクは基本的に少女をエミリーと呼ばないし、シルビアはずっとエミリーの記憶が戻らないことを期待までしている。フランクの妻に対する心配はもっともで、このままエミリーが記憶を取り戻したらどういう事になるのか…本放送時からこの辺りも不安だった。でも深夜にシルビアがエミリーの様子を見に行った時、エミリーが自然に「お母さん」と呼んで抱きついたのは驚きだったなぁ。
 ちなみにルーシーの着替えシーンはこの話が最後だと思う、ちなみに第二部では唯一。さすがに10歳のルーシーは着替えシーンでこっち向かないな。でもまだ色気もクソもあったもんじゃない。
研究 ・「ゴーラー」について
 今回の話はアーサーとケイトがルーシーを捜してゴーラーの町まで行ったことから始まっている。またペティウェルもゴーラーヘ行っているし、フランクもゴーラーに同情を持っていると語られる。39話でデイトンが仕事を求めて移住した先もゴーラーである。ゴーラーとはどんな町なのか?
 ゴーラー(Gawler)というのはアデレードから北北東に約40キロほど離れた場所にある町である。アデレードの都市圏の中にある行政区分のうちの一つでもあるようだ。現在の人口は19000、ふたつの川が合流する地点に開かれた南オーストラリアでもアデレード以外では最初のまとまった町で、街路の設計にウィリアム・ライトのプランが取り入れられているという。
 当時の馬車は、画面上から推察すると現在の自転車並みの速度で走っているようだ。これを時速20キロと考えれば、アデレードからの所要時間はだいたい片道2時間の道のりと考えればいいだろう。現在なら自動車で1時間、鉄道なら45分程度ってところだろうか? 空中写真で見る限り、町の周囲は広大な農場に囲まれており、川があることを考慮すれば農業に適した場所だったのであろうと考えられる。
 でもアデレードの1衛星都市にしか過ぎないこの町について、日本語で解説されているサイトがなくて苦労した…。

第43話「すれ違い」
名台詞 「可哀想だな、父さんは。希望を失いかけてるんだ、父さん。もう一生涯農場なんか持てないんじゃないかと思い始めている。はるばる南オーストラリアにやって来たのは、素晴らしい農場を作り上げるためだったのに、今は全くその望みがなくなってしまったみたいだものな。」
(ベン)
名台詞度
★★★★
 夜明けの庭、リトルがいない犬小屋の前ででベンとケイトが語り合う。ベンがなぜルーシーがいなくなったのかと問えば、ケイトはスノーフレイクを売らなければよかったと父を責める。お金がないから仕方がなかったんだろとベンが父を擁護するが、ケイトは最近の父の実情をベンに語る。最近働かなくなったこと、朝から酒を呑んでいること。
 これを聞いたベンの返事がこの台詞だ。この台詞は父も気持ちを理解し、父を責める妹にそれを分からせるだけというものではない。ここまでの物語の展開上、ベンにしか言えない台詞であるのだ。ベンはこの南オーストラリアの地にやって来たことで自分の夢を失っていた。医者になって人々を助けるという夢が散った彼にとって、今目の前から夢が逃げかかっている父の気持ちが一番理解できる立場でもあるのだ。
 自分の夢はまだやり直しが効くかも知れないとベンは自分自身に言い聞かせることである程度逃避が出来る年齢だが、父が年齢的にも立場的にもそうではない事も知っているのだ。そんな父の力になることが、今は自分の長男としての役割であることも十分に知っている。
 だからケイトが父を一方的に責めるのは許せなかったのだろう。でもベンは人の良い兄だ、妹に怒鳴って分からせるのでなくちゃんと筋道を立てて説明する。これにより妹も兄に反発するのでなく、素直に「もう父さんを責めない」と兄の言葉を理解するのだ。ここは長男ベンで一番の名台詞と言っても良いだろう。
 この後、ベンは朝から酒を呑もうとしている父を叱る。父は自分の気持ちを少しだけでも理解している長男と、それを心配している長女に理解を示してこの日は酒をやめる。だからと言ってスパッとやめられない人間臭さがまたいい。
名場面 エミリーが人形をもらう 名場面度
★★★
 シルビアはエミリーへのプレゼントとして人形を買ってくる。もちろんエミリーはこれを喜んで受け取り、「例え昔のことを思い出したとしても、こんな素晴らしい人形は見たことがないと思うわ。」と喜んで言う。シルビアの足下で泣くプロスペロに、エミリーは人形を見せて「ほら私の妹よ、名前は…」と言いかけて固まる。
 この時、エミリーの頭の中にある名前が一瞬だけ浮かんだのだ。でもそれが何だったのか思い出せないが、懐かしいようなよく知っているような名前だったという。きっとそれは自分の名前に違いないとエミリーは言い出すのだ。
 このシーンで視聴者はエミリーの記憶復活が近いことを知ることになる。そうは簡単に名前を思い出せないのもお約束であるが…それよりこのシーンの注目どころは、名前を思い出せそうと感じたシルビアの反応だ。シルビアはこれに対し喜んだり安堵する表情を浮かべたのでなく、不安な表情を浮かべたのだ。この時のシルビアが恐れていること、それはエミリーの記憶復活であり、それは自分とエミリーとの楽しい母子生活の終わりである。その時にまた娘を失った時と同じ悲しみをすることを、シルビアは何よりも恐れていることがこのシーンで表現されているのだ。
  
登場動物 飼われているもの→リトル・プロスペロ
野生のもの→インコ
感想  間違いない、この話は本放送時に見逃した。「記憶喪失編」のどれか1話を見逃したのはハッキリと覚えていたが、それはこの話だ。本放送放映日は1982年11月7日、12歳の自分の誕生日はハッキリ覚えている。この日は当時所属していたボーイスカウトのハイキングで奥多摩の三頭山登山へ出かけ、リーダーが道を間違って遭難しかかった日だ。予定を大幅に遅れて「ルーシー」が始まった時間はまだ奥多摩駅にも到着していなかったはず。無論大河ドラマにも間に合わなかった。
 次回予告でまだルーシーの記憶が戻らないであろう事は理解できていたが、この目を離せない展開で一回見逃すというのが悔しかったのはハッキリ覚えている。
 つまり感想は今回再視聴したもののみになる。冒頭のベンとケイトの会話に続くベンが父を叱るシーンだが、ベンと同じ年齢の私だったらそこまでは出来ないな〜と感じながら見てた。ま、ここに長男と次男の違いってもんがあるわけで、現在の私の兄妹もそうだが、長男は両親の事をしっかり考えているが次男はのんびりしているものである。私の兄ならば15歳時にここまで言えたかも知れないが、私には無理だ。
 前半の半分をポップル家の「本筋」に費やし、その後やっと行方不明のルーシーの話題になる。父が大声を出して後悔し、母が台所仕事をしながら涙するシーンでは文字通り「この家から家族が一人いなくなるとどうなるか?」という、ポップル家側から見た記憶喪失編の主題だろう。二人とも子供が一人いなくなって身が割かれるような思いをしているのである。また前々話でのトヴとルーシーの第一種接近遭遇がこんなところで蒸し返されるとは思わなかった、トヴが見たのは間違いないのだが誰もそれをあてにならないとしているのが見ていてもどかしい。よく見りゃトヴの証言から得られる状況をまともに考えているのは、家族でないジョンだけじゃん。そのジョンが「馬車」というルートでルーシーを捜すことを言いにくい状況だったに違いない。
 あとはしばらくこれと言って何もない、フランクとベンが新聞社の前で第三種接近遭遇をするのはお約束。ベンがその場で新聞原稿を出さないのもお約束。こうして手がかりがすぐ目の前にあるのに届かないという演出を見せて、視聴者にもどかしい思いをさせるのは、古今東西記憶喪失ものの王道だ。
 あとは名場面だ。私の見どころはエミリーの頭に名前が過ぎった事じゃなく、それを見たシルビアの反応だ。それだけではない、エミリーのことを新聞に載せると言った時のシルビアの賛同しない表情もだ。
 これを本放送時に見ていれば、次話の見方はかなり違ったものになっただろう。
研究 ・アデレードタイムス
 今回、フランクがエミリーの記憶を取り戻すべく次の作戦を思いつく。思い切って新聞に広告を載せようと言うのだ。そして手にしている新聞は「アデレードタイムス」という劇中によく出てくる新聞である。
 私の調査結果では「アデレードタイムス」という新聞社の存在は確認できなかった。ただ現在のアデレードに「Advertiser Newspaper」というアデレードの地方紙が存在し、この地図の「5」地点に本社があることは19話の考察に記した。偶然にもこの位置は19話でルーシー達と新聞社を訪ねてきたバーナードが会った地点がある範囲と一致するので、これを根拠にこの新聞社が劇中の「アデレードタイムス」のモデルであることは間違いないと思う。
 さて、今回フランクが目を通している新聞の一面記事に「The Painful Change to Thinking Small.」と書かれている。直訳すれば「小さく考えることは辛い変化」とか訳が分からなくなってしまうが、ネット上での使用例をみれば「小さなニュース」とかそんなものだろう。英語弱くてごめんなさい、それでよくここまでこの解説書いてきたなぁ…。

第44話「リトル! リトル!」
名台詞 「キャハハハハ、やめて、キャハハ、やめなさいったら、くすぐったいじゃないの、リトル。」
(ルーシー)
名台詞度
★★★★
 もう何も言うことは。エミリーがルーシーに戻るこの瞬間の台詞は「世界名作劇場」でも有数の名台詞だろう。
 でもルーシー最強の名台詞ではないんだな。
名場面 リトル! リトル! 名場面度
★★★★★
 エミリーに興味を持った公爵夫人のところへ出かけた帰り、新しい靴を買ってご機嫌のエミリーはフランクとシルビアに馬車を止めて欲しいと頼む。何も思い出せないがアデレード橋に立ってみたいというエミリーの願いを聞き入れ、フランクは馬車をアデレード橋の上に止めさせる。
 馬車から降りて橋の上に立つエミリーを見て、シルビアは「何か思い出したんだわ」と不安になり、フランクは「何か思い出せそうかい?」とエミリーに聞く、エミリーは「何も思い出せないわ!」と橋の欄干に顔を伏せて泣き出す。「焦らなくていいから帰りましょう」と促すシルビアに「もう少しこのままいさせて」と訴え、エミリーは泣き続ける。フランクとシルビアは遠巻きにこれを眺める。
 エミリーがしばらく泣いているといつしか橋とのたもとに1匹の犬がいた。犬は吠えながらエミリーの元に走ってくる。フランクが「あれは…」と言うのは走って近付くのが犬ではなくディンゴであることに気が付いたのだろう。ディンゴがエミリーに飛びつくとシルビアが「あなた、エミリーが…」と言ってエミリーを助けようとするが、フランクは「待ちなさい」とシルビアを止める。そう、よく見たらディンゴはエミリーを襲っているのでなく、顔を舐めながらじゃれているのだ。
 エミリーも最初は怖がっていたが、いつしかディンゴと楽しそうにじゃれている。そして名台詞の通り、思わず口からリトルの名が出る。
 リトルの名が出ると今までの記憶が走馬燈のように蘇った。馬車にはねられたこと、スノーフレイクが売られたこと、リトルとの思い出…そして家族のことも。ルーシーはリトルの名を何度も呼びながら、リトルを抱きしめて涙を流す。
 その光景を遠巻きに見るフランクとシルビア。フランクがポツリと言う、「もうあの子は、エミリーではなくなったよ。シルビア。」
 記憶が戻り、エミリーと呼ばれていた少女がルーシーに戻った瞬間であるこの光景は、ルーシーの忠実な愛犬であるリトルがルーシーを発見するということになった。そのリトルの飼い主、ルーシーを思う忠犬ぶりと、何よりもルーシーがリトルが大好きで記憶が戻ると涙を流して再会を喜ぶその光景に涙が出る。さらにルーシーの記憶喪失という物語の不安な要素が晴れて、物語が最終局面へ向け突き進むことも約束され、視聴者がホッとするシーンでもある。
 対してプリンストン夫妻が寂しそうにこの光景を見ているのにも涙が出る。二人にとって楽しかった「子供との日々」、フランクも「他人の子」だという一線を引いていたとはいえ死んだ娘が生き返ったと思って充実した日々を過ごしていたはずだ。だからこそ「あの子はエミリーではなくなった」という台詞はフランクから出てきたのだ。
 喜びと悲しみ、両方が入り交じるこのシーンは。ここからハッピーエンドまでの重要な物語の転換となる。いよいよ「南の虹のルーシー」という物語は最終局面に入るのだ。
 
(次点)ルーシーの帰宅
…不安な表情で夕食の支度をするアーニーとケイトは、リトルの声に気付いて今度こそは本当にルーシーを見つけてきたに違いないと表に出る。すると市街の方から二頭立ての立派な馬車がやって来て唖然とするが、中からルーシーが降りてきて「母さん」と言う。そして母に抱きついて泣くのだ。
 「ルーシー、お前なのね…」のルーシーを抱きしめて泣く母、それを見て ┐(´д`)┌ ヤレヤレ という表情のケイト。ケイトはその後、「あんた、今まで何処行ってたのよ、心配していたのよ!」と目に涙を浮かべながら妹を叱ったことであろう。
 何はともあれ、いなくなった娘が帰ってきたシーンまでを通じて、ここまでが「ルーシーがいなくなって家族に何が起きたか」を描いていた部分であろう。
登場動物 飼われているもの→モッシュ・リトル・プロスペロ
野生のもの→
感想  まず、前回を見逃した本放送当時はこの回の冒頭を見てホッとした。何しろ「記憶喪失編」がまだ終わってなくて続いていたのだから。見逃したのが1回後だったらどうなっていただろう? ひょっとしたら「南の虹のルーシー」と言う物語が記憶に残らなかったかも知れない。この回はエミリーが記憶を取り戻してルーシーに戻るだけでなく、色んな意味で印象に残っているのだ。
 まずは冒頭でルーシーが帰ってこなくて不安な気持ちで眠れない一家を強調していること。これも「記憶喪失編」では重要な「ルーシーがいなくなって家族に何が起きたか」を印象づける光景である。ケイトが健気にもお月様にルーシーの居場所を聞いているのが可愛くて良い。それとエミリーが見た夢、のっぺらぼうのケイトが怖かった。何よりもこの回の前半でプリンストン家のメイドがエミリーに言う台詞が怖かった。ずっと記憶を取り戻さずにプリンストン家の子になった方がいいなんて、記憶を取り戻そうと必死の少女によく言えるなーと。でもこれが今後の伏線になって行くとは。
 公爵夫人のところへ行った件についてはあまり印象に残ってなかったな。ここで第二種接近遭遇があることも。そして名場面、名台詞のシーンは当時も今も涙が出る。ルーシーが記憶を取り戻したからじゃない、ルーシーとリトルの絆というものに涙が出たのだ。あのシーンではルーシーを見つけたのがリトルだからすぐに記憶が戻ったのであって、他だったらどうなったか分からない。
 そして帰宅後のシーン。最後にフランクが「是非農業についてのお話を…」と言い出した時、やっとハッピーエンドが見えてきたと思った。このフランクこそがハッピーエンドの鍵を持っていたのだと。でも鍵を開くのはフランクではないとこの時は気付かなかったな。
 いずれにしろ記憶喪失編はめでたしめでたし、これでラストに向けて一直線…って事にならないとは思いもしなかった。馬車の中で泣いているシルビアの存在を考えれば分かるのに。このシルビアの涙が強烈に印象に残った。
 それともうひとつ、今回のラストシーンはルーシーが家に戻りポップル家がまた明るく賑やかに戻ったことを象徴している。ここも今後の伏線になって行くのだが…。
研究 ・ルーシーの服装は何種類?
 ルーシーの服装については12話研究欄で考察したが、この44話でルーシーの服装については全部出そろったと思うので整理してみたい。
 まずルーシーが7〜8歳時では、赤いワンピースにピンクの前掛けという普段の格好、夜間シーンで出てくる寝間着姿、上陸時の下着姿、12話で出てくる黄色のワンピース、上半身裸(着替え途中でなくこのまま一定時間物語に絡むので服装の一種と認められるだろう)、24話のちょっとオレンジかかった服、さらに普段着にマフラーを巻いた風の姿。以上7種類の服装で出てくる。
 次に33話以降の10歳時。赤いワンピースという普段の姿、夜間の寝間着姿、プリンストン家滞在中の青いドレス、プリンストン家滞在中のピンクの寝間着、ヨーク侯爵夫人宅へ行った際の赤いドレス(記憶復活時も着用)。ちなみにクララの結婚式では記憶復活時と同じドレスを着ていたようだ、つまり5種類となる。
 合計12種類もの服装でルーシーは画面に出ていたことになる。7歳時と10歳時の寝間着のデザインが一緒なのでこれを同一とカウントしたとしても11種類。さすがに金持ち時代に状況に合わせて着替えをしていたセーラ(全部で15種類…セーラの場合は普段着と寝間着しか持ってなかった期間が劇中の殆どを占めているのにこの数値だ)に及ばないが…。前にも書いたとおり、「世界名作劇場」の主人公はルーシーと違い途中で数年話が飛んでも服装が全く変わっていない例が多い、その中で年齢と共に服が変化し、さらに色んな格好で画面に登場するルーシーは間違いなく「世界名作劇場」の主人公では服が多い方の部類に入ると思われる。
(注記…ルーシーの上半身裸や下着姿やマフラー姿を数から引くとするとセーラの基本的な服装+コートという姿も数から差し引くべきではないかと思う)
 ちなみにケイトは10歳時の普段着と寝間着、24話の黄色いワンピース、13歳時の普段着と寝間着、クララの結婚式の際に着たドレスと6種類。多分普通の「世界名作劇場」主役がこれと同等かさらに少ないかだと思う。だが他のキャラクターはせいぜい普段着と寝間着程度しか出てこない。その普段着についてもクララ・ベン・トヴは33話で変わる(トヴだけは冬にセーター姿がある)。
 この服装の数だけで、「南の虹のルーシー」がどれだけ力を入れられたかが想像できよう。

第45話「トヴが消えた」
名台詞 「ジョンと相談してみろ、お前達そろそろ結婚してもいい頃だ。と私は思ってるんだが」
(アーサー)
名台詞度
★★
 夕食の席でアーサーは家族に鉱山に勤めようと考えていること、同時に鉱山の近くに引っ越す必要があることを告げる。その時ネガティブクララが「マックさんのパン屋に通えない…」と言い出す。その解決案としてアーサーがいう言う。
 この台詞は単にクララとジョンの結婚が許されたと言うだけではない。記憶喪失編が終わって物語が次の段階へ入ったことを視聴者に知らせるだけでもない。初回からずっと続いたクララとジョンの恋物語の終結…つまり物語の最終局面で二人が結婚することを示すものだ。
 初めてこの物語を見た視聴者としては、この結婚が物語の最後を飾るのに相応しいと考えるだろう。残り数話しか無いがこの中で何らかの形でアーサーが土地を手に入れ、そしてクララとジョンの結婚式で大団円…この物語の視聴が初めての人は誰でもそう思う。そういう固定観念を見ている者に植え付ける役割がこの台詞にはあるのだ。
 ところが、この物語はそうは簡単にいかない。これから最終回まで視聴者を裏切り続けるのだが、その予兆のひとつがこの台詞とは誰も思うまい。
名場面 ワラビーが銃で撃たれる 名場面度
★★
 父が鉱山会社の人へ顔出しに行っている間、ルーシー・ケイト・トヴの3人は鉱山の近くの草原でワラビーを捕まえようと走り回っている。そこに猟師がカンガルーを求めて銃を持ち彷徨っていた。普通人間の子供がいるところじゃ猟はしないだろーにというツッコミは無し。
 トヴが1匹のワラビーを見つけて接近する、ワラビーが接近する人間の子供に気を取られているのを猟師は見逃さない。猟師が放ったたった一発の猟銃がトヴが捕まえようとしたワラビーに当たる。
 幸いワラビーは軽傷で済んだようだが、育児嚢にいた子供を落として逃げていってしまう。その子供を捕まえようとするがやはりすぐ逃げられる。その子供のワラビーを追ったトヴが…瞬時に姿を消して行方不明になるのだ。
 ワラビーが銃で撃たれたのも印象的だが、ここではトヴがまるで手品の鳩のように瞬間で消えてしまったことに視聴者の視線が行くはずだ。なんてったって何にもない平原の真ん中である。視聴者が次回まで推理をする要素があってこれまた物語を面白くする要因の…と考え出したら次回予告でネタバレと。
 子供達の目の前で動物が撃たれる衝撃もさして大きくなかったことも付け加えよう。銃でワラビーを撃とうとしていた猟師をあれだけ批判した子供達がワラビーが銃で撃たれても動じてなかったのは、何処かで食べ物をこのようにして手に入れていると分かっている面もあったに違いない。どっちかというと視聴者がショックを受けるシーンだったろう。
 
登場動物 飼われているもの→ステッキー・パンジー・ソッピー・リトル・その他ポップル家で飼われている鶏等
野生のもの→ワラビー
感想  前半は前話までの「記憶喪失編」をまだ引きずっていた。ルーシーが心配でこれまで眠れなかった一家が全員寝坊するというのはやっぱりなと当時も感じた。その中でトヴも寝坊せずにキチンと起きていたようだ。ただプリンストンがやって来て人形とドレスを届けに来たのは以外だった。だってルーシーはあの赤いドレスを着て帰宅したじゃん、届けるならプリンストン家で普段着として着ていた青いドレスの方じゃないの?と当時は画面に向かってツッコミを入れちゃったよ。嫌な小学生だ。
 後半はクララとジョンの結婚が許されたシーンを挟んで鉱山での話となる。いよいよアーサーも頑固に磨きがかかり、他人の農場では働きたくないと我が儘を言い出すが、この我が儘が物語にさらに暗い影を落とすことになるなんて当時は考えもしなかった。終盤のここでクララの結婚が決まれば、どう考えたって土地を手に入れてクララの挙式でオールキャスト勢揃いで終了って展開が頭に浮かぶからね。もう物語が紆余曲折するには話数も足りないだろうし…と当時も考えながら見ていたもんだ。
 ワラビー捕獲ではテレビの前の自分がルーシー達以上に衝撃を受けた。まさかよい子の「世界名作劇場」であんなハッキリした銃撃シーンを流すなんて…でも撃たれたワラビーも軽傷みたいだからいいか。
 でトヴは何処へ消えた?と次回を楽しみにしていたら次回予告で思い切りネタバレだもんな〜。
研究 ・「パーカー山」の鉱山
 今回のエピソードは久々に原作から転用している部分が出てくるが、その点については46話で研究する。
 今回のエピソードで出てくるのは「パーカー山の鉱山」。鉄鉱石を露天掘りしていると言うことだが、南オーストラリア州で鉄鉱石の露天掘りをしている場所はアデレード近隣には存在せず、あったとしても300キロほど離れている。つまり一家があんな軽装で足の遅い馬車で行ける場所ではなく、これは架空の場所と考えざるを得ない。それ以前にアデレード付近に「パーカー山」は存在せず、「マウントバーカー(Mt Barker)」ならば存在するが空中写真で見る限りここに大規模な露天掘り鉱山は見つからず、「ゴーラー」に似たような街の外側を広大な農場に囲まれている町のようだ(「パーカー山」は原作にも出てくる)。
 ここで原作の設定を持ち込んで考察するが、原作ではプリンストンと知り合ったアーサーはすんなりとプリンストンの元で働くことになり、その仕事のひとつに「グレンオズモンド」で鉱脈を調べるための試掘をするというものがあるのだ。この時に一家はこのグレンオズモンドへピクニックへ行っている(この際にアニメの45話の元になったエピソードが出てくる)。つまりアニメのこのエピソードではこの「グレンオズモンド」へ行ったのだが、実在しない露天掘り鉱山が出てくる関係で原作にも出てくる架空の地名「パーカー山」を転用したのだと思われる。
 では上記の仮説に従ってグレンオズモンドの場所を紹介しよう。34話で参照した地図を見て欲しい、この「5」地点が34話で事故が発生してアーサーが怪我をした石切場の位置でないかと推測した。この位置から地図を北西に移動するとすぐに「Mt Osmond」という地が出てくる、空中写真モードにするとゴルフ場がある辺りだ。45話はこの一帯での出来事と考えられる。または「5」地点がその鉱山の可能性もある。
 またこの位置ならば一家が軽装で、しかも足の遅い馬車で出かけても何ら不自然はない。「パーカー山」を架空の地名と割り切ってしまうだけでこんなにスッキリと話の研究が進むなんて思いもしなかった。

第46話「穴の中のウォンバット」
名台詞 「私ね、あなたがこの家にこれから先ずうっといてくれたら、とても幸せ。」
(シルビア)
名台詞度
★★★
 「記憶喪失編」をきっかけとして物語がついに動き始める。鉱山を見に行った翌日、「是非農業について話し合いたい」とプリンストンが言っていたことを思い出したアーサーは、ルーシーを連れてプリンストン邸を訪れる。そしてフランクとアーサーは書斎で農業について話し合い、ルーシーはシルビアと庭で二人きりの時間を過ごすことになる。
 シルビアとルーシーを二人きりにしちゃダメだろーに、と視聴者が思う頃にシルビアはルーシーに「ねえルーシー、この家が気に入ってる?」と聞く、「ええ、きれいで大きいわ」と答えたルーシーにシルビアはこの台詞を浴びせかけるのだ。言われたルーシーは驚いた表情でシルビアを見上げる。
 いよいよシルビアとポップル家のルーシーを巡る壮絶な綱引きへと物語が展開するのである。この綱引きの結果は当然ポップル家の勝利のはずだが、その過程で土地をどうやって手に入れるのか? それとも「フランダースの犬」並みの壮絶なバッドエンドが待っているのか? 色んな想像をこのシーンから巡らせることになるだろう。そのようにシルビアが「ルーシーを自分の子供として欲しい」との気持ちを露わにしたこの台詞は、次の展開…つまり最終局面に視聴者を引き込むには十分すぎる効果を持っている。
名場面 ウォンバット捕獲 名場面度
★★
 穴に落ちたケイトとトヴ、トヴはなんとか脱出したもののケイトは脱出できなくなってしまった。そこでルーシーは父に助けを求めるべき走る。
 その間、好奇心旺盛なケイトは穴の奥に少しだけ入って行く。すると穴の中から奇妙な動物の鳴き声が聞こえてくるのだ、暗くて何がいるか全く見えずケイトは恐怖に震える。穴の外に向かって「トヴ、ルーシーまだ帰ってこない?」と思わず聞いてしまうが、「今行ったばかりじゃないか」と冷静に返答するトヴが良い味出してる。「あたしはやくでたいなにかいるの!」と句読点無しで言うケイト、ここは恐怖感がよく出ていてこれまた良い味出していると思う。「穴の奥になにかいる」と恐怖の声を上げつつ穴の中を覗き込むケイト、ここで父の元へ向かって走るルーシーに画面が切り替わる、こちらも臨場感溢れている。話を聞いたアーサーが思わずロープを忘れる点も「焦り」が出ていていい。
 「おねえちゃん何がいるの? ヘビ? トカゲ?」と聞くトヴにシーンが戻る、「みえないからわからない」とこれまた句読点無しで答えるケイト。そうしている間にも鳴き声はケイトに迫る、ケイトの顔には冷や汗が流れ、既に恐怖で顔が歪んでいる。穴から鳴き声の正体が見えるとついに耐えきれず「あ゛あああああ!」と悲鳴を上げる。この悲鳴は両親の元にも聞こえる。
 正体が分かってもまだ恐怖感が抜けないケイト、震えたままの声で「うぉんばっとだわ…」と呟きそのウォンバットを抱き上げる。そして引きつったままの声で笑うのだ。
 このシーンは穴の中に何かがいるという臨場感と、その正体が分からず恐怖に震えるケイトの表情が何とも言えず、実は何度見ても笑ってしまうシーンである。笑えるのはその正体を知っているからだが、出てきたのがあんなに可愛い動物ならば笑うしかないだろう。記憶喪失編が終わって物語が平坦になったところでの清涼剤とも言えるシーンだ。
 でも物語が平坦なのは、ほんの僅かなんだよね、ここの場合。
 
登場動物 飼われているもの→リトル・・ファニー(捕獲したウォンバット)・プロスペロ
野生のもの→ワラビー(前回の繰り返しシーンのみ)
感想  名場面欄でも書いたが、穴の中でのケイトは最高。ウォンバット捕獲シーンだけでなく、トヴを穴の外に出そうと必死になっているシーンのケイトもなかなか良かった。トヴを肩に乗せ、頭に乗せ、その後は口だけで何もしていないのもいい。おしりを痛がるケイトも良い、ルーシーがおしりを痛がってから何話すぎたったけ? また「ごめんね〜」と謝るトヴに「謝るとすればこんな穴を掘ってそのままにしといた人よ」と愚痴るのもいいじゃないか。当時もこの話、結構気に入ってた。
 後半はシルビアの話になる。シルビアがポップル家を訪れるが、これはクララの言うとおりルーシーに会いに来ただけだろう。そして遂にシルビアの本音が来る、ルーシーにこの家にずっといて欲しいと。名台詞欄でもルーシーの驚いた表情はこの物語の展開を物語っているだろう。そう、シルビアがルーシーを自分のものにしようという恐怖のストーリーが始まるのだ。いよいよ物語は終盤、目の離せない展開になったなーと、本放送時も感じていた。
研究 ・穴の中の…
 前回から今回にかけて鉱山へ行く話については、前話研究欄で説明したとおり原作からの流用である。だが原作をそのまま流用したのでなく、大幅に話が書き換えられている。理由は33話研究欄に書いたが原作ではトヴの下に弟アダムが存在しており、その末っ子の役割が大きすぎるためにそのまま使えなかったと思われるのだ。
 アニメではワラビーを追っていたトヴが穴に落ち、それを探していたケイトが穴に落ちるという展開だった。原作では大きく違い、前提としてこの時にクララとジョンが同行している点が違う。カンガルーを銃で撃つ猟師が出てくる点はアニメもそのまま踏襲しているが、穴の中に落ちるのはトヴでもなければケイトでもない、末っ子のアダムなのだ。
 ここまでならアニメでもアダムを出してそのまま使えるじゃないかと思えるだろうが、アダムは穴に転落した時に頭を強打して死亡する。つまり原作ルーシーは移民船で妹を失った上に、今度は弟を失うということになったのだ。原作ではこの時点でプリンストンがポップル家に土地を譲ることが決まっており、その幸せの絶頂でこの事件が起きてまた家族に暗い影を落とすという展開になっている。
 ここまで書けばこのエピソードがそのまま転用されなかった理由はおわかりいただけただろう。よい子の「世界名作劇場」で幼児、しかも主人公の弟がこのような事故で死んでしまうシーンを描くわけにはいかなかったのだと思われる。替わりにアニメでは愛嬌のあるウォンバットを捕獲し、次話のネタバレになるがこの新しいペットがすぐに別の事故で死んでしまうという話に設定した。ウォンバットの死でルーシーは野生動物を簡単に捕まえてきてはいけないという教訓を得ることになる。
 またアニメの場合、ここでは土地の入手どころかプリンストンが農場で働けるという話自体が出ていない。一家は原作以上に濃い暗雲の中にいるのだ。子供が一人いなくなった一家の状況については記憶喪失編でさんざん描かれた、これ以上暗雲を濃くする必要性もない、つまりここで幼い子供を一人失う物語を展開させる必要性が無いのである。このアダムの存在も原作とアニメの大きな相違点の一つといっていいだろう。
 アニメでは家族はずっと7人で固定されている。実は「南の虹のルーシー」というタイトルについて、7色の虹と7人家族を掛けたものなのかなと本放送視聴時はずっと思っていた。最近になって原作では家族の人数は9人(同時に全員出てくることはないが)となると知って驚いたのなんの…。

第47話「とうさんの決意」
名台詞 「お姉ちゃん! 冗談でもそんなこと言うもんじゃないわ。私の家はここよ、どんなことがあっても私はルーシー・メイ・ポップルだわ。」
(ルーシー)
名台詞度
★★★★
 風邪でダウンしてプリンストン邸へ行けなかったケイトに、ルーシーがこの日のことを話す。そして今度はケイトと二人でいらっしゃいと言われたこと、行くならケイトと二人がいいとルーシーは告白する。「どうして?」と聞くケイトにルーシーは怖いからと答える、シルビアが怖いというのだ。
 ルーシーとシルビアが二人きりの時に何が起きたかをケイトに話すと、「奥さんが好きなのはルーシーではなくエミリーなのね」とケイトは核心をつく台詞を吐く、そして「それだったらいっそプリンストンさんの子供になったら? 名前もエミリーに変えてしまうのよ。」と言ってしまう。この返事としてルーシーは怒ってこの台詞を吐く。
 この台詞にはルーシーが家族の一員であって家を離れたくないという単純な思いだけではない。記憶を失って数日間家を離れ、帰ってきた時に「家」を実感したこと、そして家族全員の心配を体感したことも含んでの台詞だ。自分のことを思ってくれる親や兄妹がいる「家」というのをルーシーは普通の同年齢の子よりも自覚している。その上で何が何でもこの家族から自分が離れてはならず、また別の家族が家から離れて行く事も出来ないという考えを持つに至ったのだ。
 ここのケイトとの会話でルーシーはハッキリとそれを口にする。今までのルーシーならばこれをケイトの冗談とすぐに受け取って冗談なりの反応をしたはずだが、これを冗談でも許さなくなったのだ。そしてこの台詞は、これからどんどん家族が離ればなれになって行く際、ルーシーがそれを悲しむ発言をする伏線になって行く。クララの結婚というめでたい出来事の裏で「家族が離れてしまう」という事をしっかり認識して抵抗感を感じるのもルーシーであるのだ。
(次点)「ねえルーシー、あんたの動物好きは知ってるけど、これからは野生の動物はなるべくそのままにしておきましょう。人間に飼ってもあんまり幸せにならないんじゃない? 動物達って。」(ケイト)
…病床でファニーの死を聞いたケイト、ベッドに座って大泣きするルーシーに向かってこう力説する。人間が飼うと言うことは野生動物にとって必ずしも幸せではないという事実を、ファニーの死を通じてルーシーに説くのだ。24話でも似たような趣旨の台詞を吐いているが、その意味を最も最悪の形で思い知らされることになってしまったのだ。
名場面 アーサーがポップルの元で働くと決意する 名場面度
★★★
 アーサーはフランクから自分の農場で働いて欲しいとの申し出に散々悩む。アーサーは農業をやりたいのは確かだが、それはあくまでも他人の農場で他人の命令で働くのではなく、自分の農場で自分の思い通りにやってみたいという夢だ。我々サラリーマンで言えば会社に使われて働くのでなく、誰でも社長になって自分の思い通りの仕事をしてみたいと考えるだろう。それに掛けて南オーストラリアまで家族と一緒にやって来たアーサーにとって、「夢」というのは妥協できないものなのだ。
 アーサーの思考回路は「ここでプリンストンコンツェルン(←勝手に命名)で働けば、一生他人に使われて農業をやらされるだけで人生が終わってしまう。」というものであっただろう。そのように思考回路が行ってしまったなら、アーサーにとってこの話は「断る」という選択肢しか無いのだ。フランクにしろアーニーにしろ「プリンストンコンツェルンで一生懸命働けいてそれが認められれば、いつか自分の土地が手に入れられるかも知れない。」とアーサーを説得することを思いつかなかったのも痛い。フランクはともかく、賢いアーニーがこれを思いついていればまた展開は違っただろう。
 結果、アーサーは単身でプリンストン邸に乗り込み、農場で働いて欲しいという話を断りに行った。断りに行ったはずだった。
 しかし、ここで思わぬ横やりが入る。アーサーが断って帰ろうとした瞬間、フランクの来客にペティウェルが来るのだ。フランクはアーサーに「このままでは土地はペティウェルに売るしかない」と言う、アーサーはペティウェルの名を口の中で呟くと、「考え直しました」と言ってプリンストンコンツェルンの農場で働くことを決意する。
 視聴者は一時はどうなることかと思っただろう、アーサーがこの話を断れば彼にはもう二度と農業そのものをやる見込みが無くなってしまうのだ。これではハッピーエンドはあり得ない…と思ったらポップル家の疫病神であるペティウェルの登場だ。もうダメだ、またしてもペティウェルにポップル家の幸せを奪われるのか…と思っていたら逆、珍しくペティウェルの登場がポップル家にとってプラスになるのだ。
 アーサーはその時、2年前のあの日を思い出していたに違いない。手にしかかった土地をペティウェルに横取りされて、一家全員で虹を見上げたあの日のことだ。そして思ったに違いない、またペティウェルに取られるのか…でも待てよ、今ならペティウェルが手にしかかっている土地を今度は自分が奪えるかも知れない、あの時の仕返しは今しか出来ないんじゃないか…。アーサーはそう考えたはずだ。
 そんな思いでアーサーは考え直してフランクの元で働く決意をしたのだ。これを見た視聴者もここでハッピーエンドが約束されたと感じたことだろう。
 ちなみに、この場面をもって1話から憎まれ役でほぼ全話に出ていたペティウェルが退場となる。
登場動物 飼われているもの→リトル・ファニー(今回で死亡)
野生のもの→
感想  アーサーがフランクの元でで働くことになった。これで決まったな、残り放映回数は3回、次は一家でプリンストン農場を見学しに行ってアーサーが働き出すまでの話、その次はクララが結婚でオールキャスト大集合の盛大な結婚式に続いてジョンとベンもプリンストン農場に来る話、そして最終回は皆プリンストン農場で一生懸命働いた成果が認められてフランクが土地を譲ってくれる話で大団円だ。…よかった、本当によかった、1月から一家と共にずっと耐えてきてよかった。これで家族全員幸せになれる、うんうん。
 この展開だとルーシーを偏愛するシルビアに救いが全くないまま終わってしまうと気付かないまま、真面目に上記のような展開を信じて安心しきっていた。あ、次回予告が新番組の予告になった。次はアルプスが舞台なのか!と関心はそっちへ行っていた。まさか次回でまた引き戻されるなんて…。
 序盤のルーシーがケイトにプリンストン邸で何が起きたか説明する時の回想シーン、特にシルビアがルーシーを抱きしめるシーンはルーシーでなくても怖かったよ。目の前にいる少女が強く抱きしめたら過去に死んだ自分の娘になるんじゃないかという錯覚、確かにあれじゃルーシーはまごつくどころの騒ぎじゃないと感じた。でも最後のシーンで安心しきって、シルビアの偏愛を翌週まですっかり忘れた。今回は本当に視聴者を安心させ、油断させる回なんだと次回を見ればよく分かる。
 ファニーは出てきていきなり死んじゃったけど、野生動物と人間との関わりという問題をルーシーだけに出なく、視聴者に対しても教訓として残しておきたかったんだと思う。これまで野生動物を見ては飼う飼う言うルーシーを描いてきた制作者側にとって、このまま物語を終わらせるのでなく絶対に取り上げないといけないテーマだったに違いない。ルーシーに拾われた動物が全部幸せになる偽善的な物語で終わらず、ルーシーに拾われたことによって死んでしまった動物を出すことによって野生動物を飼うにあたってのリスクや、動物の幸せについて描いた点も私がこの物語を「世界名作劇場」最高傑作と思う理由の一つだ。
研究 ・ウォンバット
 前回、鉱山近くの穴の中でケイトによって拾われてポップル家で飼われることになり、今回は残念な結果となってしまったウォンバットのファニー。ファニーは2話しか出てこなかったが、ルーシーと視聴者に野生動物を飼うということについての教訓を残していった。ルーシーが飼ったペットの中では最も登場期間が短いが、リトルの次に印象に残るペットだろう。だんだんモッシュの立場がなくなって行く…。
 フクロネズミ目ウォンバット科に属する動物の総称で、南オーストラリアの草原や低木林に生息する。ご多分に漏れずオーストラリアの動物の多くがそうであるように有袋類である。体長は大人になると1メートルとのことなのでファニーはルーシーが言うとおり子供のウォンバットである。ウォンバットの名前の由来はアボリジニの言葉で「平たい鼻」から来ているそうだ。
 写真を見る限り短い足や尻尾、それに平たい鼻など見た目はネズミというよりブタのようである。鋭い前歯と爪でトンネル状の巣穴を掘り、昼間はそこで寝ている。夜行性なので餌を求めるなど歩き回るのは夜間だ。
 ポップル家で飼われたのは「ヒメウォンバット」と呼ばれるものと推測される。模様のない体毛や顔つきがヒメウォンバットの特徴をしているのだ。

第48話「大金持ちの子に…」
名台詞 「お願い、あなた。ポップルさんに土地を差し上げてください。どうか土地をあげて、ゴーラーの農場にはまだ開墾してない土地もたくさんあるんでしょ? その土地を…」
(シルビア)
名台詞度
★★★
 フランクじゃないけど、「シルビア、お前は一帯何を考えているんだ」と見ている方も聞きたくなったぞ。何かをシルビアが思いついたのは事実で、結果を行ってしまうと名場面欄に書いたとおりなんだが…この台詞はまた物語が転換する予兆であり、視聴者を不安にさせる。物語全体の中盤とかでこのような転換があるならともかく、もう次回と次々回で終わりだからこそここでの物語の転換が意外なのだ。
 そしてこの台詞は、シルビアが救われる方向へ行くための重要な転換点でもある。ルーシーが記憶を取り戻して実の子供をなくしたようなショックから立ち直れないでいるシルビア、シルビアにとっても納得できる形で終わらないことには「南の虹のルーシー」という物語は完結できないのだ。この台詞で視聴者はやっとそれに気が付かされる。つまりトントン拍子にハッピーエンドへ行きそうだった物語が、この土壇場でまたひっくり返る理由を知ることになるのだ。
(次点)「家族がバラバラになっちゃうじゃない。」(ルーシー)
…乳搾りをしながらプリンストン農場への転居について語り合うルーシーとケイト、ケイトはこの案に前向きだがルーシーは気が進まない。ケイトがその理由を聞くとルーシーがこう答えたのである。記憶を失っていたとはいえ家族と数日離れて暮らしたルーシーは「家族一緒に生活する」という喜びと幸せを誰よりも感じているのだ。多分、普段別居しているベンも同じ考えを持ったことだろう。
名場面 フランクがルーシーを養女に欲しいと告白する 名場面度
★★★★
 ルーシーとケイトが港に帰るベンを乗合馬車乗り場まで見送った帰り、馬車でポップル家に向かうフランクに会う。二人は家まで送られるが、ケイトがフランクの二頭立ての馬車に憧れていた事もあってトヴも含めて馬車で一回りしておいでと言う。そんなこんなでルーシー・ケイト・トヴの3人はフランクの馬車でアデレードの街を周遊することになるのだが、これは子供の前では話せないことを話すためのフランクの策略であった。
 子供達が馬車で出かけ、ポップル夫妻とフランクの3人だけになった家の居間で話は始まる。ところがリトルが馬車を追いかけて走ってきてしまったため、ルーシーは馬車を降りてリトルと一緒にすぐに帰ってきてしまったのだ。台所に帽子を置いたルーシーはすぐに3人の会話が普通で無いことに気付く。フランクが何かを言うのに非常に言い辛そうにしているのだ。
 ルーシーは耳をそばだてていたわけではないが、物語の序盤でその地獄耳ぶりを何度も披露したルーシーである。聞く気がなくても3人の会話は聞こえてしまう、フランクが言い辛そうに両親に行った言葉、それは「ルーシーを養女にいただけないでしょうか?」
 もちろんアーサーも、アーニーも、台所で会話が聞こえてしまったルーシーも驚愕の表情を浮かべる。この4人だけではない、テレビの前の視聴者も驚愕の表情を浮かべたに違いない。
 名台詞欄にあるように、ついにシルビアはハッキリとルーシーが欲しいと自覚するに至る。そしてシルビアが思いついた作戦は、土地を交換条件にしてルーシーを養子にもらうという事であった。普段のフランクならば「そんなことはいけないよ」とシルビアを窘めて止めるところだろうが、この時だけはフランクも「これならルーシーを養子に出来るかも知れない」と考えてしまったに違いない。フランクはシルビアを止めるのでなく、シルビアと一緒になってこの作戦を実行してしまう。
 そしてこれを夫婦と夫婦の話で進めるために、ルーシー・ケイト・トヴの3人を馬車で遊覧させたのだ。ただし誤算だったのはルーシーだけが帰ってきてしまったこと、ルーシーはこのような会話がされた事実を人づてに聞くのでなく、自分で全部聞いてしまうのだ。
 ここまで平和に話が進んでいた48話。視聴者は皆このままトントン拍子で農場見学へと話が進むと感じていたに違いない、でもプリンストン邸で名台詞のシーン辺りからまた暗雲が立ちこめ、この意外なところでまた物語が転換点を迎えてしまうのだ。ルーシーはどうなってしまうのか?という物語に不安な影が出てきて、ますます物語に引き込まれる重要なシーンだ。
 ここまでずっと見てきた視聴者はアーサーやアーニーの性格がよく分かっているから、次回に持ち越されたこの結論がどうなるかも十分に分かるだろう。だからこそ物語の展開が見えなくなる。どう考えてもルーシーがプリンストン家の養子になるとは考えられないのだ。ここに記憶喪失編の設定が十分活きて活用されたのだ。
 
登場動物 飼われているもの→ステッキー・パンジー・リトル・ポップル家で飼われている鶏等
野生のもの→
感想  前回の話を受けて今回はこんなでプリンストン農場の見学へ行くんだな。そして広い農場を見てみんなではしゃぐんだ。出かける前の時間もみんな幸せそうでいいな、一家を覆っていた暗雲がやっと晴れたんだ。でも何故だ? なんで出かける前に前半全部費やすんだ? あれ、マックスさん一人で来たぞ、え? 農場へ行けなくなった? ありゃりゃ、どうなっちゃうの? これ?
 農場へ行けなくなったというだけで嫌〜な予感がするんだけど、まさかこの回も入れてあと3話なんて土壇場で話をひっくり返さないよね? あれ、シルビアが何か企んでる…この物語はこの土壇場へ来てまた話をひっくり返す気だ、と思ったら案の定フランクからルーシーを養子にしたいと言われてしまう。続きは次回だがあの両親のことだ、断るだろう。となると農場で働く件は…とまあ本放送時もこんな気持ちで見ていた。
 シルビアが何か企んでいる以外、フランクが馬車で現れるまでは本当に平和な話なんだよね。もう土地を巡る暗雲も消えているし、何よりもルーシーとケイトが第一部のような軽快なノリの会話に戻っているし。特にケイトの寝坊が笑えた、どーでもいーがケイトの着替え早すぎ。
 でも最初の乳搾りしながらの会話は重かった。ルーシーは家族がバラバラになることを何よりも恐れていて、記憶喪失編でルーシーが家に帰れなかったという設定をうまく活かしていると思った。今回のフランクに養子に欲しいと言われた件で、その思いはさらに強くなるんだろうな…。
研究 ・プリンストン農場
 今回の話ではアーサーとベンがプリンストン農場の地図を見ながら語り合うシーンがある。ではプリンストン農場とはどんな場所だろう?
 まず位置である。その位置はこの地図を参照して頂きたい。ゴーラーの中心部から南東へ約2キロのこの辺りにプリンストン農場があると考えられる。これはアーサーが見ていた地図が根拠である。ゴーラーの周辺、かなり広範囲の地図を見てみたが、劇中の地図のように南北方向に並行している川と道路が、川は西へ、道は東へとカーブしながら分かれる地点が地図で見る限りここしか無いのだ。また南オーストラリア開拓が始まって間もないこの時期であること、大実業家が保有する農場であることを考えれば町から大幅に離れていることも考えにくい。恐らくシルビアが言う「ゴーラーのまだ開墾していない土地」もこの辺りだと推測される。

 広さは100エーカー以上と言っているが、ここではわかりやすく100エーカーと決めてしまおう。ざっと405000平方メートルなのでおおざっぱに言えば一辺が640メートルの正方形と考えればいい。31話で紹介したウィルソン農場が20エーカーで一辺が285メートルの正方形と言ったが、我々にわかりやすい数値で言えばウィルソン農場は東京ドームの二倍弱の面積を持つ土地となる。ではプリンストン農場の100エーカーという広さを分かり安く言えば…東京ドーム9個分、東京ディズニーランドより若干狭い程度の広さの土地と言うことになる(劇中では100エーカー以上と言われているからほぼ同等かも)。
 さらに「開墾していない土地」というのはこれとはまた別にある可能性もあるのだ。
 これでプリンストンコンツェルン(←勝手に命名)のすごさが分かるだろう。これだけの農場で働ければ普通は文句ないと思うんだが、アーサーさん。

第49話「クララの結婚」
名台詞 「無理みたいね。このままじゃだんだん悪くなるばかりですもの。」
(ケイト)
名台詞度
★★★★★
…「広〜い広い麦畑。父さんと母さんもお兄ちゃんも、そしてジョンもお姉ちゃんもみんなで刈り入れ作業をしている。今年は豊作なのよ、あんたも私もトヴも、刈った麦を束ねている。み〜んな汗を流して働いている、とっても辛いけど楽しい。イナゴがリトルの鼻の先に止まる、リトルがびっくりしてあっちこっち走り回って吠える。みんなは楽しそうに笑う…夢ねぇ。いつかはそんな風になるかと思ってたけど、もうダメね、きっと。せめて楽しい夢を見たいわ。」
 次話で出てくるケイトのこの台詞に続いての会話と思われる(小説版ではそういう流れとなっている)。父が酔って帰った来たその日、ルーシーとケイトはどうしたら父が元通りになるかを語るがやはり土地しかないという結論になる。そしてここに引用した最終回での台詞、ルーシーはこれを聞いて不安な表情を見せて布団に入った姉を黙って見下ろすのである。そして自分も布団に入ると「父さんが土地を手に入れて、家族全員で働ければいいわね。いつかそうなるかしら? なれると思うお姉ちゃん?」とケイトに聞く、その返事がこれだ。
 遂にケイトまで希望を失ってしまったのだ、ルーシーが「希望はなくなってしまった」といえば「まだ大丈夫」と言い続けていた最も信頼する姉がである。ケイトまでもが家族が描いていた夢を語れば「もうダメだ」と言い出すようになり、妹にも包み隠さず希望が消えてしまった事を語るようになってしまったのだ。
 こんなケイトを見たルーシーは強烈な不安感を感じたことだろう、そして「自分が何かしなければならない」と考えるように至るのだ。数日間自分が姿を消しただけであんなに心配してくれた家族、この家族の笑顔を取り戻すには…そうだ、プリンストンさんだ。プリンストンさんに頼めば…とひらめくことになったのだろう。でも行きたくないという本音との葛藤もあったに違いない。学校へも行かねばならないし…でもそれを振り切って、ルーシーはある作戦を実行する。家族のために、もう二度と家族と会えなくなるかも知れない作戦を。
 つまり37話で解説したとおり、ケイトが希望を失った時に「何か」が起きたのだ。最終回直前という最後の最後で話をひっくり返し、最終話1話前ラストシーンというこの期に及んでまた新しい展開に突入するのだ。この意外な流れに視聴者は最終回へと引き込まれて行くのだ。
名場面 結婚式の後 名場面度
★★★★
 盛大に行われたクララとジョンの結婚式だが、この物語において結婚式自体は次なる暗雲への予兆に過ぎない。父は「ルーシーを養子にくれれば土地を譲る」と言い出したフランクに怒りを覚えてプリンストン農場で働くことをやめてしまうが、これはまた父の農場への夢が遠ざかると共に、一家が消えかかった暗雲に再び包まれてしまうことを意味していた。そんな暗い状況でも、物語はルーシーとケイトの底なしの明るさでもって「いつものテンポ」で進む、まるで次が最終話とは思えない様相で。
 ところがこの暗い影がハッキリと現れるのはクララの結婚式の後だった。ルーシーとケイト、それにトヴが疲れ果てて居眠りしてしまい、父は誰もいなくなった披露宴会場で一人酒に溺れる。そして淡々と「クララのいない日常」の描写を始める、家族の誰も台詞を吐かないまま淡々と描写が続く。
 これは無言でいまこの家族に起きてはいけないことが起きてしまったことを物語っている。それは家族の誰かがもう一人いなくなってしまうと言うことである。無論、一家がこんな暗雲の中にいなければクララが家からいなくなることは問題は無かったはずだが、父が農業で生きて行く最後の望みが絶たれ、もう夢も希望を失いつつある状況下で家族が一人減るのは耐えられないだろう。それは記憶喪失編でルーシーが示したことでもあり、「家族がバラバラになる」というルーシーの危機感は当たってしまったことになる。
 このような状況を理解した父アーサーは、もう立ち直れないほどのショックを受けてしまった。もう農場が手に入る見通しはない、それどころか今日の生活をするのが精一杯で土地どころではない、そのうえ家族も離ればなれになってしまう…何もかも忘れたくてまた酒に溺れるのだ。
 この一家に立ちこめる「暗雲」を誰もがされと分かる形でハッキリ描いたこのシーンは、この回のラストでの話の転換においてどうしても必要な要素だ。この状況を見たケイトが遂に希望を無くし、ルーシーが立ち上がるために必要なシーンなのである。
登場動物 飼われているもの→リトル
野生のもの→
感想  あれ、あれ〜。ハッピーエンドが遠のいて行く…。え、養子の件を断った上にプリンストン農場で働くことまで断るなんて…、クララの結婚で大団円じゃなかったの? ちょっと、ポップル一家はこれからどうするつもりなの? え〜、ルーシー本気か? 本気でプリンストン家の養子になっちゃうのか? ちょっと待った、それじゃ土地が手に入ってもハッピーエンドになり得ないぞ、これでハッピーエンドになるのはシルビアだけだぞ…って感じで本放送時は見ていた。
 序盤のフランクがルーシーを養子に欲しいと言い出した件については、やはり予想通りの結論となった。あの夫婦がルーシーを手放すわけはない、例えそれで土地が手に入るにしてもである。アーサーがルーシーの養子の件、土地の件、そしてプリンストン農場で働く件、どれを断った時もアーニーの表情は賛同の表情だった。アーニーもこう言われてまで夫が彼の元で働くべきではないと考えたのだろう。
 でも最初に土地の話が出た時に一瞬だけ心が揺らいだアーサーは人間味があっていい、なんか「分かりました」って言いそうでドキッとしたけど。でも一度は餌に釣られかかるアーサーの人間性、それに辛い現状から逃避したくて酒に溺れるアーサーの人間性はこの物語の魅力であろう。フローネの父のような聖人君子的な父よりも好感が持てる。
 また「作戦」が上手く行かず力を落とすフランクと、「私は諦めない」と言い切るシルビアも好感が持てる。特にフランクはこれまでも貧しい人の側に立ってモノを考えたことのある人物だったのだろう、少なくとも自分でそう思っていたのだろう、それをアーサーに「あなたはお金持ち流の考え方しかできない」と罵られたのは堪えたに違いない。その上でアーサーを怒らせてしまった後悔がよくにじみ出ている。
 そして盛大な結婚式、成長したビリーがカッコよかったねぇ…じゃなくて。その後の静けさの表現は鳥肌が立った。普通の物語なら終盤、しかも最終話を目前としている状況の主人公家族の結婚式はプラスの方向で話を盛り上げるのだが、この結婚式は逆にマイナスの方向へ盛り上げて行く。この期に及んでまだ家族に試練を与え、再び家族を覆いだした暗雲を描写する道具にされてしまったのだ。
 最後のルーシーがプリンストン邸に乗り込んで「私をこの家の子供にしてください」って言い出した時は、本当にびっくりした。この物語がどのような結末を迎えるのか、本当にハッピーエンドになるのか不安だった。故に最後まで物語に引き込まれ、最終回を絶対見逃さないと当時は決意しながらこの回の放映を見届けたものだ。
研究 ・最終話1話前
 「南の虹のルーシー」は全50話中49話に達した。なのにまだどのような結末を迎えるのか見当がつかない状況である。アーサーがプリンストン農場で働くと決意し、47話の感想欄で書いたとおりの筋で平和的に話が進んでおしまい…と思っていたらこの最終話1話前で2回も話がひっくり返ってしまった。この2回というのはもちろん、ルーシーを養子にするのを引き替えに土地を譲ると言い出したフランクに対して仕事も含めて全て断るシーンと、ルーシーがプリンストン邸に乗り込んで養子にしてくれと頼むシーンである。この二つの物語の転換でもってどのような結末を迎えるか全く分からなくなってしまった。
 「世界名作劇場」の多くは最終話1話前までに物語の結論が出て、最終話はその結論を受けて話をまとめて大団円に持って行くストーリー展開となる。前々回に当サイトで研究した「小公女セーラ」はその典型で、45話でセーラがクリスフォードの養子となって再び富豪に戻るという結論を迎え、最終話の46話はみんなが幸せになるための「オチ」をつける話となる。「わたしのアンネット」ではダニーの足が治って村へ帰ってくるという結論は最終話1話前で、最終話では卒業式という設定で大団円へ持って行く。「ふしぎな島のフローネ」では無人島を脱出して無事にオーストラリアに到着すると言う結論は最終話の1話前、最終話ではオーストラリアの生活が始まることで一家が無事に戻ったことを印象づけて大団円としている。「赤毛のアン」でもアンが進学ではなく地元で教師をしながらマリラと共に生きて行く「曲がり角」に入るという結論は最終話1話前だし、「母をたずねて三千里」でもマルコと母が再会するという結論は最終話1話前である。「世界名作劇場」前史に当たる「アルプスの少女ハイジ」ではクララが歩けるようになるという結論は最終話1話前で、最終回はクララが父や祖母に歩くのを披露するなど大団円となる話で終わる。。
 つまり「世界名作劇場」で多くの作品が最終話1話前に物語結論を持ってきており、ここで物語を象徴するような名場面や名台詞が出ていて多くの視聴者の印象に残っているのだ。
 ただし例外はある。ひとつは「フランダースの犬」、これはネロが力尽きるという結論そのものが最終回ラストシーンとなっている。「愛の若草物語」では戦場で倒れた父との再会という結論は最終話2話前に来ている。
 「南の虹のルーシー」の結論は最終回に出てくる。つまり前例で言えば日本アニメ会最強レベルのバッドエンドで終わる「フランダースの犬」くらいしかないのだ。つまり「ルーシー」もまたバッドエンドで終わる可能性もあったわけで、このようなデータを潜在的に知っている視聴者はさぞかし不安だったと思われる。
 さらに「ルーシー」の場合、最終話1話前というこの状況において話が二転三転するのだ。最終回を全部見れば「なるほど」と思える終わり方だけど、ここまでしかみていないと本当に先の展開が見えないのだ。ここまで話をギリギリまで引っ張る物語は、アニメの中でも少ないと思うのだ。

第50話「虹に向かって」
名台詞 「お願いです、プリンストンさん。やっぱり私をここへ置いてください。そして、父さんが…父さんが可哀想なんです。すっかり希望を失ってしまって、昔はあんなんじゃなかった、父さんは。今はお酒を呑むし…」
(ルーシー)
名台詞度
★★★★★
 前回のラストシーンでプリンストン邸に乗り込んで「私をこの家の子供にしてください」と涙ながらに訴えるルーシー。フランクはそんなルーシーを思わず抱きしめる。フランクにはすぐ分かったのだ、ルーシーが家族を捨てて自分の子供になりたいなんて考えるわけがない、ルーシーは父に土地を入手させたくてこうしてやって来たのだと。
 そんなことにまだ気付かずにルーシーを抱きしめようとするシルビアを止め、フランクはルーシーに聞く、「君が私たちの子供になりさえすれば、お父さんは自分の土地を持てるようになる。そう思ってここへ来たんじゃないのか?」と。これにルーシーは小さく頷いた後、フランクの目を見てまるでしっかりとこの台詞を言う。
 前話の最後と今回のこの台詞の直後に流れる回想シーン…つまりこの時点から見れば昨夜のケイトの台詞、最も信頼している姉までもが希望を失ってしまった現況を見てルーシーは自分がなんとかしなければと思った。そして思い出したのがルーシーを養子にくれれば土地を譲るというフランクの話であった。ルーシーは家族が幸せになるならたとえそれで自分が家族と会えなくなることになっても…やるしかないと決意したのだ。
 この台詞で心を入れ替える人間が一人いた、それはシルビアである。シルビアは自分の偏愛に気付き、ルーシーをポップル一家という家族から引き離すことは間違いだったと気付く。そしてルーシーにこの間違いに気付いたことをハッキリ伝えた。フランクの馬車で家へ帰るルーシーに「希望を失ってはダメよ、どんなときも。きっと良いことがあるわ、それも近いうちに。」とフランクの顔を見ながら言う、「それは今日かも知れないわね、あなた。」とフランクに言うシルビアは、エミリーを求めてルーシーを偏愛する彼女の姿ではなかった。ルーシーのこの台詞によって、シルビアも一回り大きくなったのだ。
 そしてこの名台詞を伴うシーンが、劇的にハッピーエンドへと物語を転換するのである。
(次点)「そうね、虹の橋を渡るのね。いつかきっと。」(アーニー)
…「南の虹のルーシー」における最後の台詞。母アーニーが上手く物語にオチをつけて締めてくれた。ルーシーが「私たちの行く先は、ちょうどあの虹の橋のたもとあたりよ」と言った返事であるが、この二人の会話によってこの家族の今後は視聴者の想像に委ねられたのだ。これは家族にとって本当のオーストラリアでの生活が始まったに過ぎないという事を示している。でも物語はこの台詞で上手くまとまり、2台の牛車の背景に大きな虹が架かるシーンに「おわり」の文字が浮かんで幕を閉じるのだ。印象にの残るラストシーンであった。
名場面 フランクの来訪 名場面度
★★★★★
 今回も絞りきれなかった、本当ならこの最終回全部を名場面として上げたい位だ。やむを得ず最後まで絞り切れなかった2シーンを名場面として挙げる。どちらも甲乙つけがたいのだ。
 フランクはルーシーと一緒にポップル家を訪れた。たった今プリンストン邸で起きた出来事にフランクは感動し、大事な用件を伝えるためにやって来たのだ。それはポップル家に破格の条件で土地を譲るということであった。
 茶を入れながら学校をサボってプリンストン邸へ遊びに行ったとルーシーを叱るアーニーに、フランクはルーシーは遊びに来た訳じゃないと告げる。アーニーが「何のために…?」と聞くと「実は私たちの養女になりたいと言ってきたんです」と正直に告白する。これを聞いたケイトは思わず紅茶を吹き出す。
 フランクは続ける、ルーシーが養女にしてくれとやって来たのはあることを実現させて家族を幸せにするためだと。その意味が分からないアーニーを横目にケイトがピンと来て「ルーシーはわが家に土地をプレゼントしようと思ったんだわ」と言う、「その通り、ルーシーが私どもの子供になりたいなんてどう考えても思われない」というフランク、そのやり取りを聞いて ( ゚д゚)ポカーン とするアーニーと照れながら紅茶をかき混ぜるルーシーの表情がよい。
 「ご迷惑を…」というアーニーにフランクはルーシーのひたむきな心に深く心を打たれたという、その言葉を聞きながら涙を流すアーニー。そしてフランクはゴーラーの土地を譲りたいと申し出るのだ。その土地がポップルさんの手で素晴らしい農場になるのをこの目で見てみたいと。
 この言葉にアーニーだけでなくルーシーとケイトも ( ゚д゚)ポカーン とした表情で固まる。しばらく固まったかと思うとアーニーが慌てて「それはとてもありがたいんですが、私どもには今お金が…」と言いながら、自分の紅茶に角砂糖を次から次へと放り込む。そしてそれをかき混ぜて一気に飲もうとしたところであまりの甘さに顔をしかめるアーニー、これまで出てきた中で最高の笑えるシーンだ。
 そんなアーニーを見て一瞬笑顔になったフランクは、このアンガス通りの家を売って土地の頭金にすることと、残りはポップル農場が暇な時にプリンストン農場を手伝ってくれればいいという破格の条件を提示する。笑顔のルーシーとケイト、一瞬 ( ゚д゚)ポカーン とするアーニー、「プリンストンさん!」とフランクの名を呼ぶだけで喜びの言葉が続かない。
 このシーンはルーシーの活躍によって土地が入手できることを登場人物も視聴者理解できる重要なシーンだ。やっとハッピーエンドの結末が見えてきたシーンで、かつ「世界名作劇場」では最終回1話前で出るのが通例の「物語の結論」がやっと提示されたのである。
 またこのような重要なシーンをただ淡々と描いたのでなく、茶を吹き出すケイトや紅茶に角砂糖を次から次へと放り込むアーニーなどを滑稽に描いているのも面白くてこの物語らしくて良い。さらにルーシーの照れくさそうな表情と動きも秀逸だ。ここに「南の虹のルーシー」という物語の面白さが詰まっていると思う。
  
アーサーの涙
 仕事を終えたアーサーは、この日は酒を呑まずに真っ直ぐ家へ帰ってくる。すると家の前ではルーシーとケイトとトヴが待っており、今日はとても良いことがあると伝えられる。この時のケイトの「話したい」という心情の表現がいい。
 そして家の中でアーニーからフランクが土地を買って欲しいと言ってきたことを伝えられる。最初は金がないと一言の元に否定するアーサーだが、アーニーから「破格の条件」を伝えられると座っていた椅子から立ち上がり、「夢じゃないな」と呟く。「夢じゃない」とアーニーが家と感極まった様子で「私は遂に自分の土地を手に入れることができるんだな」と言う。そして夫婦で喜びの抱擁。
 「お前達、知ってて黙っていたな」と今度は子供達の方へ向き直るアーサー。アーサーは土地入手の立役者であるルーシーに感謝の言葉を言う。嬉しいと言い合いながら涙目で見つめ合う父と三女、「私はおかしいぞ、涙が出てきた。」と涙を流しながら言うアーサーにルーシーは思わず抱きつく。感動の名シーンだ。
 帰ってきたアーサーを見てルーシー達が「父さんどんな顔するかしら」「喜ぶわ」「バッカね、当たり前のこと言わないで」「笑うわ」「そうね笑うわね」「近頃父さんが心から楽しそうに笑ったを聞いたことないわ」という会話をしている。視聴者としてもアーサーは笑うと思うことだろう、だがこの予想は外れてアーサーは笑うのでなく泣くのだ。ここまで一度も泣いたことがなく、絶対に泣かないだろうと思っていたキャラクターが涙を流して喜ぶのだ。この涙はアーサーがここまでどれだけ苦しんできたかずっと見てきた視聴者の涙をも誘うのだ。
 そしてこのシーンは6話で最初に暗い影が出てきて以来、やっと一家を覆っていた暗雲が全部晴れた瞬間なのだ。その暗雲の中でも家族が力を合わせて頑張り、それが報われた瞬間なのだ。その苦労と時間が全てアーサーの涙に詰まっている。だから一家と一緒に耐えてきた視聴者にとっても泣けるシーンなのだ。
登場動物 飼われているもの→モッシュ・リトル・スノーフレイク
野生のもの→
感想  私もおかしいぞ、涙が出てきた。
 本放送時もこの最終回で涙が出た。多分リアルタイムで見た「世界名作劇場」で最初に涙したのはこの「南の虹のルーシー」最終回だと思う。あのアーサーの涙はずっと見てきた視聴者には来るものがあるはずで、この物語での苦労が全部詰まっているように感じたというのは名場面欄での説明通り。
 最終回として本当に上手くまとまったと思う。ハッピーエンドへ向けた最後の物語の転換が最終回に押し込められているのを見て「詰め込みすぎ」と見る向きもあるかも知れないが、私は本当にきれいにまとまったと思う。その要素を挙げるならば、まずシルビアの偏愛がキチンと解決したこと。ルーシーを諦めないと言うままうやむやにするのでなく、ルーシーの本当の気持ちを知って諦めるだけでなく「エミリー」の幻影を追っていたに過ぎない自分の偏愛に気付くという展開は上手くシルビアを救ったと思う。それにもうひとつがスノーフレイク、売却された時にあれほど主人公が悲しんだのにそれで終わりではこの羊もルーシーも救われないと感じていた。そういう点で優れた最終回だと思う。
 かつこれまで例え表面上だけでも明るく展開してきた「南の虹のルーシー」らしく明るく最終回が進んだと思う。名場面欄で説明した紅茶を吹き出すケイトに、、アーニーの甘い紅茶、それに玄関前で父の帰りを待つ3人の会話なんかは「南の虹のルーシー」らしく展開していたと思う。最終回でもシリアスシーンでも物語の良いところを失わず、「らしさ」を残したまま話を展開させた作りは秀逸で、ここも私が「南の虹のルーシー」を「世界名作劇場」シリーズ最高傑作に挙げる理由の一つだ。
 この物語も今回で終わりと聞いて非常に寂しかった、まぁ私の心を鷲掴みにした「セーラ」の時は、寂しさではこの上を行ったが。このほのぼのとした物語の終わりが非常に惜しく、あと3ヶ月位やってくれないかなと当時も思っていたものだ。まさか次の「わたしのアンネット」があんな殺伐とした物語だと当時思ってなかったからなぁ。でも「アンネット」も印象に残っており、機会を見つけ次第ここで取り上げたい物語なんだけど。
研究 ・物語の終わり
 「南の虹のルーシー」は見事な急展開で幕を閉じた。最終回1話前のラストシーンという土壇場から急激に物語が展開し、ルーシーが自ら土地入手話を家族に運んでくるという物語となって終わった。この結末は記憶喪失編の全てが伏線で、それによりプリンストン夫妻がルーシーを養女にしたがるという展開となって初めて可能となる物語であった。またクララの結婚式をきっかけに家族が一人減り、その寂しさと暗さを強調したことは、もちろんケイトまでもが希望を失うために必要な展開であったし、ケイトが希望を失ったことでルーシーが「自分がなんとかしなければ」と立ち上がるという展開上必要なものであったと思う。
 さらに感想欄に書いたとおり、この大団円はルーシーにエミリーの影を追っていたプリンストン夫妻にとってもハッピーエンドとなった。スノーフレイクにも再会して本当にみんなが幸せになるという形で物語が締まった点についても、私がこの物語を「世界名作劇場」最高傑作と考える理由のひとつである。
 ちなみに原作ではアーサーがプリンストンの元で働くと決まった後は、47話感想欄冒頭に書いたような展開で話が進む。それと違う部分があるとすれば土地入手が先で、クララの結婚式で大団円となっている点位のようだ。ページに限りがある小説ならばそういう終わり方でも十分だと私は考える。
 このハッピーエンドの鍵を最初から持っていたのはフランクである。どう考えてもあれだけの富豪が出てきて、実業家で土地もたくさんもっているという設定はこの人が何らかの形でアーサーに土地を譲って終わるしかないのだ。ではその鍵を出させたのは誰か、鍵を開けたのは誰かという話になるとこれはフランクではない。フランクは鍵を持っていただけである。
 フランクの懐から鍵を出させたのは当然ルーシーだ。ルーシーが健気に家族の幸せのために養子にしてくれ、というシーンはまさにフランクが「ハッピーエンド」という鍵を懐から出したシーンであるのだ。でも鍵を開けたのはルーシーではない、そのフランクに目で合図を送ったシルビアである。シルビアがルーシーに対する偏愛に気付き、ルーシーを養子として迎え入れることが間違いであると気付いた時に物語は回った。そしてルーシーに「きっといいことがある、それは今日かも知れない。」と言いながらフランクに目で合図を送った瞬間、ハッピーエンドへの鍵が開かれたのだ。農場を持ちたいというアーサーだけでなく一家共通の夢、これが現実になった瞬間はまさにここなのだ。
 土地が手に入らないことによる一家の暗い影はアニメでも鮮明に描かれた、しかも物語序盤で何もかもが上手く行かないという形で暗雲が現れてから、それがずっと晴れたことがないという描写を物語の背景に描き続け、終盤ではこれが前面に出てきた。だからこそこの暗雲に対峙する一家を見て、共に耐えてきた視聴者は涙を流せる。最後の怒濤の展開に行き当たりで感動するのでなく、全体の流れを思い起こして感動できるのだ。こんな素晴らしいアニメの最終回をあまり見たことがない(他が全て悪いとは思わないが)。そういう意味でもやはり「世界名作劇場」最高傑作だと私は思うのだ。

前ページ「南の虹のルーシー」トップへ次ページ