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・「南の虹のルーシー」のエンディング
「森へおいで」 作詞・深沢一夫 作曲・坂田晃一 編曲・坂田晃一 歌・やまがたすみこ

 私が少年時代見た「世界名作劇場」の中で、今年再会するまでずっとメロディと歌詞(といってもTVサイズのみ)を完全に覚えていた曲である。つまり空で歌えるほどにである。私にとって「南の虹のルーシー」は物語よりもこのエンディングの方が記憶に残っていたと言っても過言ではなく、今年「南の虹のルーシー」を再視聴するにあたって真っ先に思い浮かんだのがこのエンディングであった。
 ちなみに「世界名作劇場」で言えば、最近まで空で歌える程までメロディと歌詞が頭の中に残っていたのは、「母をたずねて三千里」オープニング「草原のマルコ」、「トム・ソーヤーの冒険」オープニング「誰よりも遠くへ」、「牧場の少女カトリ」オープニング「Love with You 〜愛のプレゼント〜」、「愛の若草物語」の初代オープニング「若草の招待状」であり、エンディングが空で歌えるほどに記憶に残っていたのはこの「森へおいで」のみである(曲と物語の印象度が別だ)。
 この曲はメロディラインが非常に特徴的かつ、軽快で覚えやすいこと。それに歌詞もわかりやすく覚えやすいと私は思う。特に2番のワライカワセミが鳴く部分は耳につくと離れない。またアレンジも軽快なメロディと物語の内容に見事マッチしたウェスタン調で、どちらかというとオープニングより渋めに来るはずのエンディングがとても明るい内容になっていて印象に残るのだ。
 またこの曲の背景に流れるアニメーションもコミカルで楽しい。水色の画面の上か下にある白い帯の中を、ルーシーとケイト、それにモッシュが走り回ったりするのだがこれが見ているだけで楽しいのだ。音楽に合わせてモッシュが巨大化したり小さくなったり、ルーシーがケイトを追いかけたり(よく見ると1番と2番で関係が逆になってる)、二人並んで気取った感じで歩いて出てきたかと思えば転んだり、二人でモッシュを追いかけたり…最後は一度は画面の外に消えたルーシーとケイトとモッシュが慌てて画面に現れて整列して終わるというものだ。これは劇中での二人の底抜けの明るさを再現していて、物語を見た余韻を十分に味わうことの出来る素晴らしいエンディングで、これも私が「世界名作劇場」最高傑作に挙げる理由の一つである。
 「世界名作劇場」のエンディングでここまで和ませてくれるのは他にないかも知れない。「小公女セーラ」のエンディングなんかこの対極だと思えるし…。

・「南の虹のルーシー」の総評
・物語について
 単純な日常生活を描いているように見えて、実はそうではないというのは概要に書いたとおりで「南の虹のルーシー」の印象に残る点でもある。つまり物語が二段構えの構図になっていて、前面ではルーシーを中心にした日常生活を明るく楽しく描き、背景で物語の本筋となる一家がオーストラリアに来て農地を入手するという物語が流れているのは概要で書いたとおりだ。
 この点を改めて検証し直すと、物語の最初の「オーストラリア上陸」という点こそは物語の始まりという点で背景に行くはずの本筋だけで始まったが、1話の後半から早速本筋部分は物語の背景へと潜り込んでルーシーとケイトを中心とした日常生活へと切り替わる。上陸してすぐに土地を入手して持ち込んだ家を建てるという計画が破綻したことにより、一家の思い通りにならない展開が始まるのは6話以降、この切り替わりの時点で本筋部分が一度は表面に出てくるがまた背景に潜り込む。あとは本筋部分が背景に潜り続け、たまに大人達の会話でその点が話題になる以外は29話まで本筋部分が物語の前面に出てくることはない。32話までは本筋部分の物語が展開するが、33話以降物語が1840年に飛ぶとまた本筋部分は背景に潜り込む。しかし今度は物語の表面に顔を出す頻度は高くなるのだ。記憶喪失編を挟んで46話の後半からはいきなりその本筋部分が中心に話が進むようになる。そして最終回で全てを解決させるという方向だが、これは自分たちの思い通りに行かず暗くなりがちな本筋を背後に隠すことで物語を明るく楽しく描く工夫だったと思われる。原作でもこの本筋は背景に回り込んでいる部分が多く、一家の日常の描写の方が多いようだ。
 それと本筋部分につきまとう「暗い影」の表現が見事である。いくらルーシーとケイトが表舞台で明るく物語を進めても、6話から一家を多い続けていた暗雲は拭いきれず、それと対峙している家族も同時に描いている点だ。この暗雲は最初に出てきた時(6話)は見ている方も不安になるが、10〜20話代では暗雲が存在しつつもそれを感じない程度のものとなっている。だからこそ一部の最後のシーンでの落胆は見ている者も一緒に落胆させられるし、33話以降で突然その暗雲が厚くなっているのも頷けるのである。暗雲は6話からほぼ厚くなる方向への一方通行で、32話前半と48話前半では晴れかかるがそれも完全ではなくてまた暗雲に包まれてしまう。一つ本筋に絡む事件が起きるごとに暗雲は濃くなり、クララの結婚式直後の家の暗さの表現は秀逸だと思う。だからこそ最終回で泣けるのだが。
 その暗い物語の本筋を背景に押しやり、前面では本当にルーシーとケイトが明るく頑張ったと思う。本人が自覚しているかどうかは置いておいて、これは本当に頑張ったという表現が的確だろう。しかも無理に明るくするのでなく二人を自然な明るさを持つキャラクターと位置づけた上で自然に動かした結果があの明るさである。後述する「家族」という視点の他に、この二人は「明るく生きる」という事を視聴者に投げ続けていたと思う。どんなに辛くても笑い続けること、これによって苦労を乗り越えて行くことの大事さをルーシーとケイトは演じてきていたに違いない。
 この物語は最後まで「家族の絆」という点を訴え続けていたと思う。見ず知らずの土地に放り出された一家、夢と希望と計画を持ってその土地にやって来た一家は全てについて予定通りに行かない。その苦労と子供達の明るさを重ね合わせ、さらにその子供達も自分の夢ややりたいことを後回しにしてまで一家の夢のために力を尽くすその姿に、多くの視聴者が家族について考えさせられただろう。一家は常に団結し、ルーシーが行方不明になった記憶喪失編では皆が心の底から不安になって探し回る。その結果が家族がバラバラになってはいけないという皆の思いで、夫婦はルーシーを養子に出すことに反対を貫き、ルーシーは一家がバラバラになるような仕事を父にして欲しくないという願いを言うことでこの点を見せつける。そして家族の幸せを思うためなら自分のことを顧みずに行動する49〜50話のルーシーに心を打たれることだろう。
 またそれとは別に個別に視聴者に訴えているキャラクターもある。デイトンは自分勝手な人間が徐々に義理と仕事を大事にする人間へと成長することを見せてくれたし、ジョンはクララとの恋愛を通じて「大人の純愛」を見せてくれた。ベンは「夢」と「現実」の狭間に立たされた苦悩を見せてくれたし、アーサーは夢に手が届かない苦悩を見せてくれた。プリンストン夫妻も偏愛と後悔を我々に見せることになった。
 動物達の登場も見逃せず、特に最後のファニーについては一家に飼われた動物は全て幸せという偽善に走ることを防止し、野生動物が人間に飼われることの意味を視聴者に投げかけている。この点については特筆される点であろう。
 様々な要素が詰まっているこの物語だが、最後は本当にきれいにまとまったと思う。特に最終回はこの物語の集成大と考えて良いだろう。ルーシーとケイトの明るくコミカルな動きは真面目なシーンでも失われずに明るく楽しく物語を展開させた。
 物語の進行は概要でも書いたが、物語はルーシー中心に展開するが、ケイトがナレーションを入れるなど案内役をつとめ、視点は常にケイトなのである。「世界名作劇場」では主人公を外から見た構成の物語はこれが初めてじゃないかと思う。これはある程度視聴者に自由な想像を入れさせることが可能であり、また主人公の感情に走る展開の少ないこの物語では効果的に物語の展開を解説できる手法だと思う。よって見ている人にとってケイトの印象は非常に強いものとなる。ただしサブタイトルはルーシーの視点で入れられていて、次回予告もルーシーがルーシーの視点で行うなど統一性はないが、これはこれで悪くないと私は思う。
 この手法は主人公に常に一緒にいる兄妹がいるから可能なのであり、私が知る限りこのような手法を取った「世界名作劇場」作品は「愛の若草物語」しか知らず、主人公が常に兄妹と一緒という共通点がある物語だ。


・登場人物
 この物語の登場人物は大きく分ければ家族とそれ以外と動物に分けられるだろう。
 やはり一家の配置は絶妙である、十代後半のクララ、前半のベン、そろそろ生意気になり始めるケイト、まだまだ可愛いルーシー、幼児のトヴという子供の配置に両親という組み合わせは、このアニメを見そうな世代全てをカバーしている。またこの子供達を途中で2年成長させる事で見ている子供達に「君たちも2年すれば姿形が変わる」という成長を教えているようにも見える。いずれにしろこの組み合わせはアニメとしては成功で、原作のみ登場のアナベル(移民船上で死去したルーシーの妹)やアダム(鉱山の穴に落ちて死去したトヴの弟)はアニメではキャラがダブるため必要なかっただろう(死という結末も理由になると思うが)。
 その性格付けも絶妙と思う。兄妹で最も年上で色んな事を知っているからこそたまにネガティブな発言をするクララ、長男の自覚があり家のために働き続けるベン、行動力より口が先に出てしまい失言も多いケイト、見つけた動物をすぐ捕まえに行くなど行動力が強いルーシー、ひとつの物事に熱中しやすいトヴ、とまあ個性豊かな兄妹が描かれている。この性格はいつも実在の兄妹にありそうだ。
 両親の性格も見物で、父アーサーは頑固で器用だがたまに子供達に理解を示すなど優しい点や、簡単に子供の言葉に丸め込まれてしまう頭の柔らかさを持つ。希望が遠のき酒に溺れたり、酒をやめると決めてもすっぱりとやめられない点など「世界名作劇場」に多い聖人君子的な性格の父からはかなりかけ離れた存在で、人間くさくて好感が持てる。母アーニーも頑固だが家族や子供を守るための頑固であり、また夫アーサーの性格を知り尽くして上手く操縦する。また豪快さも兼ね備えており、酒に酔うデイトンにいきなり水を浴びせかけるなどの強い面もある。「世界名作劇場」に出てきた母親の中で最も強くて優しいのはこの人だと思う。
 この家族の性格が物語を大いに盛り上げ、最後には感動させてもくれるのだ。
 家族以外の人物も様々だ。物語の大半で一家の居候として過ごしたデイトンは悪者ではないが「酒」という要素で面白い騒ぎを引き起こすが、それが自分にも他人にも良くないと自覚をして成長する。物語の全編で悪役だったデイトンは本来は情けないキャラで、本気を出した時だけ本当の悪人になるという人物として描かれたが、ルーシーによって盗まれた大金が手元に戻るとキチンと礼を言うという謙虚さもあるが、基本的には金でしか動かない男として描かれた。このような人物が目の上のタンコブとして物語に君臨するのはある意味面白い。
 ジョンは誠実な青年として描かれ、この辺りはバーナードと共通点も多い。ジョンの出番が増えるとバーナードの出番が減っていたのは確かで、この二人が同時に出てきて何かをしたというシーンは無かったと思う。性格的には区別されており、猪突猛進で体力勝負のジョンと、行き当たりばったりで頭で勝負するバーナードという区別がされているように感じた。この二人によるクララの奪い合いになるかなと思ったけど、バーナードは案外あっさり引っ込んだなぁ。
 物語をハッピーエンドに導いたプリンストン夫妻も面白い存在だ。冷静だけど「若さ」がたまに出てくるフランクと、目の前の幸せに奪われがちなシルビア。このような性格の二人ならルーシーを溺愛してしまっても無理はないという設定にした。またルーシーを他人のこと一線を引くことが出来たフランクと、これができなかったシルビアの対比がこれまたいい味を出したと思う。シルビアにそれは違うと気付かせたのはルーシーの一途な行動力によるものという設定も良かったと思う。
 最後に動物に触れよう。ステッキーやスノーフレイクは物語全般を通じて家畜として以上の活躍はなかったが、スノーフレイクは売られることによってルーシーの動物に対する愛情を引き出させる重要な役を負った。ステッキーも出産を通じて見ている者に子供の誕生という感動を教えてくれた。モッシュは物語序盤こそは物語全体のキャラクターとして登場していたが、中盤からはリトルに押されたのと、日常生活系の物語では小動物の活躍の場が無いことで出番が大幅に減った。やはりこの物語で一番印象に残る動物はディンゴのリトルで、ルーシーに対して忠犬ぶりを何度も誇示し、行方不明になったルーシーを捜しに行ったり、記憶を失ったルーシーの記憶復活のきっかけとなるなど物語を大いに盛り上げてくれた。

 さて、最後に名台詞の数である。私としては今回、この物語の面白さであるルーシーとケイトの楽しい会話についてもひいきすることなく公平に見たつもりだ。つまりそれによって他の重要なシーンを見落とすことがないようにと思ったためである。それでもルーシーとケイトの名台詞数は圧倒的で、その「面白い会話」の中で名台詞に取り上げたところも数カ所ある。
 ルーシーとケイトの次に名台詞登場が多かったのは誰かというと…意外な事にポップル家の誰かではなく、居候のデイトンだった。第一部はデイトンの成長も描かれており、ここで一番成長したのがデイトンだということだ。それ以外に目立つところでは、ルーシーの男兄弟の順位の低さでトヴにいたっては「次点」が一度だけ、しかも殆ど言葉をしゃべらない3歳時点の台詞である。また最後の10話しか出てこなかったはずのシルビアの順位の高さは驚きだろう。

名台詞登場頻度
順位 名前 回数 コメント
ルーシー 10 やはり主人公、物語の要所で印象度の高い台詞が多い。最終回の冒頭の台詞は健気で見ているこっちが一緒に泣いてしまいそうだった。
うち1回は記憶喪失中のエミリーとしての台詞。
ケイト ルーシーとダブル主役とも言えるこの物語では、ルーシーにもっと迫っても良かったように思うが。49話の希望を失った台詞が印象的。
うち2回はナレーターとしての台詞。ナレーターとしては17話の台詞に尽きる。
デイトン 上記2名をダブル主役と考えれば、主役以外のトップが家族以外の人間とは…。ケイトとナレーターを分割すれば堂々の2位だ。
物語の展開的には12話だろうけど、私は13話の台詞も強烈に印象に残っている。
アーサー 父の語る台詞には初期は重みが大きかった。特に23話のリトルを飼う条件提示の後の台詞が、この男の父性が表れていて強印象だ。
アーニー 夫婦揃って同率順位。32話の台詞と最終回の最後の台詞(次点になったが)は「南の虹のルーシー」という物語を象徴し、後者ではそれでうまく物語が締まる。
クララ 主人公姉妹以外の兄妹ではトップで長女の面目は保たれた。31話の問題発言と36話のネガティブクララの台詞は強印象で、そういうキャラになってしまった印象も。
シルビア 最後の10話しか出てこないのにこの順位。この女性のルーシーに対する偏愛がそれだけ印象に残ったということ。
ジョン どちらかというと9話までのジョンの方が印象が強い。9話でのクララとの別れの台詞は涙が出た。
ビリー 普通の展開なら家族以外で一番登場頻度が高いだろうが、1840年編で完全に忘れ去られたのが痛かったか。
バーナード 登場頻度の割には名台詞は少なかったと思う。11話の「血の叫び」は強印象。
ベン ポップル兄妹の男がいい台詞を吐いても、その回ではほぼ必ず別の姉妹が強印象の台詞を吐く法則。
12 パーカー この人も後半完全に忘れ去られた人。この人はもっとポップル家に絡んでくると想像していたが…一度だけの名台詞はいい味出していた。
ライト大佐 実在の人物が史実を元に、架空の登場人物と会話をするあのシーンは強印象。
ペティウェル 悪役か情けない男のどちらかとして登場ばかりで、登場頻度の高さの割に名台詞に恵まれなかった。

注記…当サイトでは登場人物について、ルーシーの母は「アーニー」、ルーシーの弟は「トヴ」という表記で統一した。これについては多くのサイトや書籍等で「アニー」「トブ」等の表記が見られるが、アニメエンディングでのスタッフロールの表示(アーニーの場合)、アニメの設定を完全踏襲している小説版の表示(「アーニー」「トヴ」)を公式設定と解釈してこれらに倣ったものである。なお小説版ではプリンストン邸の飼い猫は「プロスペロー」と表記されているが、こちらはアニメでのルーシーとシルビアの発音(「プロスペロ」と言い切っている)と、名前の由来であるシェイクスピア劇中の登場人物名が「プロスペロ」と訳されている例が多いこと、その他の地名および人名の「Prospero」が「プロスペロ」と訳されている例が多いことから、「プロスペロ」で表記を統一した。

・はいじま的「南の虹のルーシー」解釈
1.登場人物その後
 1841年秋の時点をもって物語が完結した「南の虹のルーシー」、では物語の後一家はどうなっただろう。私なりの想像をオリジナルストーリーとしてまとめた。

 はいじまオリジナルストーリー・「南の虹のルーシー」その後
 「立派なお姉ちゃん」


2.登場動物を見てきた
 2008年大型連休、埼玉県の某動物園へ行って「南の虹のルーシー」にも出てきた動物を見てきた。

 「南の虹のルーシー」考察番外
 「動物園へ行って来た!」


3.はいじまオリジナル・夢の異作品キャラ対談

はいじまオリジナル異作品ハイブリッド対談
夢の酒好き医者対談



4.「南の虹のルーシー」総集編考察

「南の虹のルーシー」完結版について

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