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第21話 「恐ろしい宣告」
名台詞 「お願いよナンシー、おば様にすぐ来ていただいて。今おば様がおっしゃったのは本当じゃないって、本当じゃないって言って欲しいの。おば様〜っ、おば様、お願いよおば様〜っ。嘘だと言って〜っ。おば様ぁ〜っ!」
(ポリアンナ)
名台詞度
 名場面シーンを受けてポリアンナの病室に飛び込んだナンシーは、ポリアンナがベッドから転落したのを見て悲鳴を上げてポリアンナの元へ走り抱き寄せる。そこでなんとか半身を起こしたポリアンナがナンシーに訴えるのがこの台詞だ。
 この台詞にはポリアンナの絶望が全て表現されていると言ってもいいだろう、二度と歩けないと知ったポリアンナの前から全て希望が消えてしまったのである。足が治ればみんなに逢える、足が治れば学校へ行ける、足が治ればまた野山や町を駆け回れる…そうやってこの自動車事故の病床の中からもポリアンナは「よかった」を見つけて希望を持っていたのだ、だがたった今玄関から聞こえてきた会話はその「よかった」をポリアンナから全て剥ぎ取ってしまったのである。
 そしてポリアンナがこの絶望に対処する方法は今のところ持ち合わせていなかった。ポリアンナはこの恐ろしい宣告を受け入れることが出来ず、パレーに向かってこう叫ぶしか出来なかったのだ。そのパレーまでもがあまりの衝撃の強さに倒れてしまった事などポリアンナは知る由もなく、ナンシーも対処方法が分からずポリアンナを抱きしめることしか出来なかった。
 またこの台詞の直前のナンシーの絶叫、それにこの台詞を吐く前後のポリアンナの泣き声、この台詞を吐くポリアンナの絶叫、さらに加えれば倒れる直前のパレーの声全てが迫真の演技となって視聴者に迫ってくる。この3人の演技力こそがこの物語一と言える緊迫シーンを盛り立てていると感心させられるシーンでもあるのだ。
名場面 恐ろしい宣告 名場面度
 ニューヨークから来たという名医の診察を受けたポリアンナをダルギンが見舞うところからこの一連のシーンが始まると見て良いだろう。ポリアンナはそろそろチップマックが厨房を抜け出してこちらにやってくるはずだからと、ダルギンに玄関への扉を開けるように頼む。ダルギンがその通りに扉を開き、立ち去って静かになるとポリアンナの耳にはたった今の診察結果を語る声が聞こえてきた。
 「お嬢さんは今の医学では手の施しようが…」という名医、「では先生、あの娘は…あの娘は…二度と…二度と歩けないと仰るんですか? 立つことも出来ないと?」診察結果を聞いたパレーの絶叫…それらの声はポリアンナの耳がしっかりと捉えていた。ポリアンナがそのショックで目を見開いているのを知らずに「そんな…そんなむごいこと…ああ、どうしてポリアンナに…」と泣き声を挙げるパレー、その声に反応したポリアンナはハッと我に返ると静かに自分の足へと視線を移す。30秒間の沈黙の間、ポリアンナの心理状態を示す心音とポリアンナのかすかな呻きだけとなってこの緊迫シーンを盛り上げる。そして遂に大声で泣き出すポリアンナ、「いかん、聞かれてしまった」と名医が言えばその場に静かに崩れ落ちるパレー。「おば様〜っ」と繰り返して号泣するポリアンナはなんとか自力でパレーの元に行こうとするがそれは叶わずベッドから転落する。声に気付いたナンシーが見たものは、倒れて鎮静剤を打たれるパレーの姿と、ベッドから転落したまま泣きじゃくるポリアンナの姿だ。そして名台詞シーンへ続く。
 ここまでの何事にも挫けず、どんな辛いことからでも「よかった」を見つけて明るく進んできた物語が急転直下辛い展開に変わったシーンだ。自動車事故で恐らく神経系をやられてしまったのだろう、ポリアンナは半身不随になったことを医師から宣告されたのである。しかもその治療は不可能と…それだけではない、その衝撃の事実をポリアンナが知ってしまうのだ。
 自分の身体の異変について、登場人物が真実を知る展開というのは「世界名作劇場」シリーズに限らず多くの物語に存在するだろう。ポリアンナの場合は自分の足が治ると信じていて、そこから「よかった」を見つけ出して前向きになるという方法にすがっていたのである。ところがその希望が一瞬にして消え去り、ついにはポリアンナが完全に絶望してしまうのだ。
 ポリアンナのその絶望への対処は…名台詞欄に書いたとおり。
今回の
「よかった」
 4話に続きここまでの最高記録タイとなる6回。殆どが「ぬかよかった」になる運命だが、それらもポリアンナが病床で必死に考えた「よかった」だから全て数に入れた。特に病床シーンでは「よかったをたくさん見つけた」とナンシーに語るので、この欄に書ききれるかな?と不安だったが。こんな展開でこんなに「よかった」を見つけてしまうポリアンナはネ申だな。 「よかった」の回数
感想  事故で足を怪我して歩けなくなってしまった事を知ってしまうって、何処かで見た展開だなー。そうそうダニーだ、前々回に松葉杖で歩行練習するペンデルトンを見てダニーを思い出したばかりなのに…ってそんな事はどうでもいい。
 それより本当に覚えてたの自動車事故の瞬間だけだったなー。今回事故のシーンの繰り返しで始まり、事故直後にポリアンナがあっさり立ち上がって歩き始めた時は驚いた。「あれ、半身不随は別の話だったか?」と真面目に考えてしまった。「記憶喪失はルーシーで間違いないんだけど…」なんて考えている間にポリアンナが再度倒れて、やっぱポリアンナ=半身不随という記憶が間違ってなかったと再確認できた。でも事故後にポリアンナがあっさり立ち上がって歩いたシーンは記憶がなかった、言われてみれば歩けなくなったポリアンナがどうやってパレーの屋敷に戻ったかは覚えてなかった。てっきり事故を知ったティモシーとかチルトンとかに助けられるのかなと思っていた。
 あとはありきたりのみんなが不安になったり心配したりするシーンなのだが、その中でもパレーが突然優しくなっているのは驚きだ。今までのパレーにはなかった表情、とくにあったかくて人間らしい表情をさせて来ているのは印象的だ。しかしそのパレーも、こんな状況でもチルトンの件については譲れないのね。こういうところにさりげなく、前回までの推理小説のような展開を残しているのも自然でいい。その謎を全て解いてみんながしあわせになるためにポリアンナが半身不随になったようなもんだろうから?
 で乗り物が出たからキチンと考察を残しておくが、ポリアンナを撥ねた自動車は間違いなくあの有名な「T型フォード」だろう。アメリカのフォード社が世界で初めてベルトコンベアによる流れ作業で大量生産を実現させ、「自動車」という乗り物を一般大衆が買えるようにしたあのクルマの事は多くの人が学校で習っただろう。前回の考察でポリアンナを撥ねそうになったときの運転操作がリアルに描かれている旨を書いたが、T型フォードの運転方法(緊急停止)としてハンドブレーキを手前に引いて(自動的にクラッチも切れる)からブレーキペダル(右足のペダル)を踏み込むというアニメの描写が正しいらしいことはインターネットで調べればすぐ分かる。『ウィキペディア(Wikipedia)』のこの自動車の紹介に簡単にこのクルマの運転方法が載っているので、興味のある方はご覧頂きたい。ただあの頭でっかちのクルマが、アニメの描写のようにドリフトしたら、そのまま横転しそう…。

第22話 「足が動かない!!」
名台詞 「ポリアンナをあんなにした俺には、この家の子供になる資格なんかありません。今日は俺、そのことを言いに来たんです。ごめんなさいペンデルトンさん。さよなら。」
(ジミー)
名台詞度
 ペンデルトン邸を訪れたジミーから、ポリアンナが二度と歩けない身体になってしまったこと、どのような経緯で事故に至ったのかをペンデルトンは知る。そして自分のせいでポリアンナが事故に遭ってしまったと自分を責めるジミーに、ペンデルトンは「もし君の素性が確かなら、僕が養子にすると言ったのが事実だとしたら君はどうするかね?」と問う。そのジミーの返事がこれだ。
 この台詞にはジミーのポリアンナを助けられなかった悔しさ、自分のせいで事故が起きたと自分を責める彼の思いが全て詰まっているだろう。それだけではない、自分のためにポリアンナを事故に遭わせてしまったという事実を真正面から受け入れ、そのポリアンナという娘が大変気に入っている人物の家に厄介になることは出来ないとする判断も見て取れる。普通のジミーならこのような申し出があればもっと違う反応(すがるにはすがるがタダではすがらない)をしたはずだ。
 この台詞を聞いたペンデルトンがなんか決意したように頷く、これは何かの伏線だろう。えっと、たしか何らかのきっかけでジミーはペンデルトンの養子になるんじゃなかったっけ? とにかく今までは「自分が気に入っている娘の友達」程度にしか認識していなかったジミーを、心底気に入った瞬間であろう。
 この台詞を吐くときもそうだが、今回のジミーの自暴自棄の演技も迫力がある。
名場面 パレーとナンシー 名場面度
 足が動かないことで大泣きして、一人にしてくれと叫んだポリアンナ。その扱いに困ったパレーは、かつての姉との思い出からポリアンナの心を癒すヒントを見つけて何をすればポリアンナが喜ぶかをナンシーに聞く。プリズムが作る虹がポリアンナのお気に入りと知ったパレーは、自分がそれを用意するからナンシーはポリアンナの好物をたくさん用意するようナンシーに命ずる。
 その過程でナンシーは自分が診察結果は間違いだと誤魔化してしまったことでかえってポリアンナを悲しませてしまった事をパレーに詫びる、パレーは優しくナンシーにその判断が間違いでなかったことと、一時的とはいえポリアンナが元気を取り戻したのだから感謝している旨を伝えた上で「いけないのはそのまま誤魔化し続けた私なんです」と言う。「いいえ、パレー様」とそれを否定しようとしたナンシーに、パレーはポリアンナが喜ぶことはどんなことでもしてやりたいこと、ポリアンナの事をよく知っているナンシーの力を借りたいのだと言い切る。ナンシーは涙ぐみながら笑顔になって「はい」と返事する。
 このシーンはこの二人の関係が大きく変わったことを意味している重要なシーンだ。これまで気難しくて人使いの荒い主人と、それに対して嫌々ながらも従順に働いてきた使用人、この二人の関係はそれ以上でもそれ以下でもなく互いにそう割り切っていた関係だっただろう。だがポリアンナの不幸をきっかけにパレーはポリアンナの力になるためには自分はあまりにもポリアンナの事を知らなすぎたこと、一緒に食事したりポリアンナ本人も大好きだと言っているナンシーがその自分にない部分を補ってくれるはずだという判断が働いたのだろう。それはそれまでのナンシーのポリアンナに対する姿勢を評価することに繋がり、パレーの中には明らかにナンシーに対する信頼が生まれ、それを初めて本人に伝えたシーンである。
 またナンシーの側から見れば、自分の働きが初めて主人に認められたシーンとなる。最初は嫌々ながら始めたこの仕事も、ポリアンナという存在によってやり甲斐を感じ、そのポリアンナのためにと思って精一杯やってきた事がやっと認められたのだ。無論ナンシーの中にもパレーに対する信頼が生まれ、二人の間についに主人と使用人以上の関係が生まれたことになるのだ。
 こんな労使関係を通じた人間関係を描いてしまうのも、「世界名作劇場」シリーズの良いところだと思う。
今回の
「よかった」
 これまでどんなに少なくても最低2回は「よかった」を見つけたが、今回はポリアンナの半身不随発覚という大きな不幸を前についに「よかった」は1回だけとなった。しかもナンシーがその場を取り繕うために行った嘘に対しての「よかった」だから、厳密には数に入れないべきかも知れないが、この「よかった」で一時的とはいえ元のポリアンナに戻ったのだから数に入れておこう。 「よかった」の回数
感想  いよいよポリアンナが絶望のどん底に落ちる。「よかった」の回数が微妙な1回だけというのがそれを物語っているだろう。今回は言ってしまえば前半と後半で同じ事を二度繰り返しているだけで、1.ポリアンナが足が動かないと知る→2.大泣き→ナンシー(またはパレー)が取り繕う→3.一時的にポリアンナに笑顔が戻る→4.なんかのきっかけでポリアンナが足が動かないと悟り自暴自棄になる→2に戻るを繰り返しただけだ。だがその中でポリアンナの絶望とそれに対するパレーやナンシーの思いがしっかり描かれ、合間シーンでジミーを中心にその波紋が広がる様を上手に画いたと思う。ポリアンナが歩けなくなって本人もそれを知って気を落としているという事実の衝撃の大きさが描かれているのだ。
 それにしても、パレーの子供時代の声が突然変わってないか? どう聞いても前回出てきたダニーの声じゃなかったぞ、と思ってスタッフロール見たら確かに声優さん変わってた。ダニーの声やってた人の微笑みは特徴的で他の人には真似が出来ないのでバレバレ、その前の「ああっ、待ってよ!」で勘のいい人は「ダニーじゃないっ!」って気かついただろうけど。
 ポリアンナがこの絶望からどう立ち直るのか、そしてクララやダニーのように足が治って歩けるようになって物語が終わる事になるのか? 前々回までの推理小説のような展開に加え気になる点が増えてきた、早く次が見たいと思わせる上手いつくりだと思った。

第23話「よかったが探せない!」
名台詞 「パレー様、お嬢様はここにいらした時、第一番におば様に覚えていただいて、一緒によかった探しをしたいと仰いました。でもよかった探しは亡くなられたお父さまが始められたゲームだから、どうしてもお父さまの事をお話しすることになる。だから…だからお嬢様は諦めなさったんです。それがどんなにお辛いことだったか…」
(ナンシー)
名台詞度
 「よかった探し」の存在に気付いたパレーが、それについてナンシーをはじめとする使用人達を問い詰める。そして自分だけが「よかった探し」を知らないという事実を思い知るのだ。なぜ自分に「よかった探し」を布教してくれないのかということで少し気を悪くしたパレーに、ナンシーが涙ながらに突きつける台詞がこれだ。この台詞を聞いた後のパレーの後悔に満ちた表情を見れば、パレーの心境がよく分かるだろう。
 詳しくは名場面欄に譲るが、これこそがパレーがポリアンナに心を開くきっかけとなった台詞である。ポリアンナによってこの家の使用人達だけでなく街の人々まで明るく元気になった事実を知ったパレーは、自分だけがその枠から外れている事に気付くが、この台詞によってパレーは自分の何が悪かったのか、これからどうすれば良いのかを全て悟るのだ。詳しくは名場面欄で語ろう。
名場面 パレーがポリアンナに心を開く 名場面度
 ポリアンナが歩けなくなったと知った街の人たちが大挙してハリントン邸に押しかける。それをきっかけにパレーもついにポリアンナが「よかった探し」を布教して歩いていた事実と、それによって多くの人々が希望を得て街そのものが明るくなったという事実を知る。そしてナンシーを問い詰めて「よかった探し」について知るが、その影にはポリアンナが父のことを話せばならないという理由でパレーに「よかった探し」を布教できなかった事と、本当はポリアンナはパレーと「よかった探し」をしたかったという事実を知る。ここまではこの名シーンを語るのに必ず必要な前段である。
 そしてポリアンナの気持ちを知ったパレーは涙ながらにポリアンナの部屋へ向かう、部屋に入るとパレーは一人で泣いているポリアンナに気付き、それを見ると今までポリアンナがやっていたようにドアをバタバタとさせるのだ。驚くポリアンナにパレーは「嬉しいことがあると、静かにドアを閉めてられないものなのよ」といつかポリアンナが語った台詞を言う。そして街中の人たちがポリアンナを見舞いに来て、みんな「よかった探し」のおかげで元気になれたことを感謝し、ポリアンナも「よかった」を見つけて元気を出すようにと伝言された事を伝える。それを聞いて「でも、私ダメなの…」と答えるポリアンナ、涙ながらに「せっかく自分のよかったを見つけてもそれがかえって…」と語る。そんなポリアンナにパレーは「私に手伝わせてちょうだい」と言う、「一緒によかった探しをしましょう」…このパレーの言葉を視聴者とポリアンナはどれだけ待っていたことか。「そのためにははじめからちゃんと教えて欲しい」というパレーに「…でもそれは…」と答えるポリアンナ、だがパレーは続ける。姉を奪っていったポリアンナの父を憎んでいたこと、だけど今はポリアンナをこの世に送り出してくれた二人に感謝していること、今まで恨んだり憎んだりしていた自分を恥ずかしく思うことを伝える。ここまで来るとポリアンナの瞳は感涙で一杯だ。そんなポリアンナに「お父さんのこともお母さんのこともみんな話してちょうだい、お前が大好きな人たちのことは私も知っておきたいの」とパレーはとどめの一言を言う。涙を流しながら「本当によかった」と語るポリアンナ、パレーは「私もお前と一緒にいられて本当によかったと思っているの」とパレーにとってはじめての「よかった」を語る。あとは感動の抱擁だ。
 文句無しのパレーがポリアンナに心を開いたシーンだろう。これまでのパレーは少しずつ優しくはなっていたが、「心を開く」という状況ではなかったようでまだ若干のよそよそしさを残していた。そこでパレーはポリアンナの外出時の様子を初めて知ったことで、ポリアンナという存在の大きさに気がつく。ポリアンナは自分やこの家にだけではなく、街の人々にも明るさを振りまいて人々に生きる希望を与え、今や街になくてはならない存在になっていたのである。多くの人に愛されているポリアンナを見たときパレーは自分がその枠から外れていることに気付く、それが「よかった探し」である。これまでのパレーなら仲間はずれにされたと感じて逆上したかも知れないが、街の人々の様子を見て自分もそれに加わりたいと強く感じたに違いない。だがナンシーに聞けば自分の心の中にある「恨み」や「憎しみ」によってこの枠に自分が入れないままでいることに気付き、本当にポリアンナのためを思うならばそれらを全て捨てねばならないと強く悟ったのだ。このパレーの心境変化は瞬時にパレーの心の中から「恨み」と「憎しみ」を吹き消し、ポリアンナという存在の感謝の気持ちへと変化したのである。「恨み」や「憎しみ」で醜くなっていた自分を元の自分に戻してくれたからだ。ポリアンナの存在に感謝することを覚えたとき、パレーは心の底からポリアンナに尽くすこととした。その第一歩が「よかった探し」であり、その実践こそがポリアンナに心を開く証になるのだ。
 パレーがポリアンナにどのようにして心を開くのかは物語をずっと見てきた視聴者にとっても最大の関心事だったことだろう。ついにこのシーンに到達した名場面として多くの視聴者の記憶に残るはずだ。
今回の
「よかった」
 4回、その4回目は記念すべきパレーの「よかった」デビューである。なおスノー夫人が外出出来るようになったとポリアンナが聞いたシーンは、「よかった」の台詞はないものの明らかに「よかった」と感じているので回数に入れた。「よかったが探せない!」というサブタイトルの割に、「よかった」が多いというギャップを楽しむ回なんだろうな…。 「よかった」の回数
感想  ポリアンナの半身不随、という展開は一気に物語をたたみかけてきた。今回は特に物語が大きく動いているのが特徴で、名場面といえるシーンも多かった。まずパレーとペンデルトンの不仲の理由がハッキリする、それだけではなく唐突に二人は和解するのだ。かつてペンデルトンが恋心を寄せていたポリアンナの母、ジェニーが他の男と駆け落ちして気落ちしていたところを慰めようと考えたなんてかつてのパレーがどれだけ優しかったかが分かるなぁ。だけどそんな二人を襲ったのが根も葉もない噂だったとは…でも逆説的に見れば問題は単なる噂だけだったということで、それが現在忘れ去られているならばもう二人が諍い合っている理由はないのだ。ポリアンナの事故がなくても実は和解は時間の問題だった(もちろんポリアンナがいるからこそだが)かも知れない、事故が「その時」を早めただけだという見方も出来るわけだ。
 そしてペンデルトンは「ポリアンナのため」と言うことで大胆にもジミーを引き取る。前回のペンデルトンとジミーのシーンを見ていればそうなることはだいたい想像できたが、こんなに早く「その時」が来るとは思えなかった。だがポリアンナの事故が無ければこちらは上手く行かなかったはずで、ジミーも「ポリアンナのために」とこれに承諾し、ペンデルトンと生活をすることになる。
 あと解けていない謎はチルトンの事だな。だけどここまで見れば多くの人がもう気付いているだろう。ポリアンナの事故でそれどころじゃない人も多いだろうし、チルトンの存在をすっかり忘れている人もいるかも知れないが。
 で今回のもっとも重要なシーンは街の人たちが大挙してハリントン邸に押しかけてからだろう。パレーの心境変化と、それによってポリアンナに心を開くという展開が今回最も重要な話だ。そのパレーについての点は名台詞欄・名場面欄で書いたが、この欄ではポリアンナの側から見つめてみたい。この物語の構成としてはポリアンナが「よかった」をみつける→だけどその「よかった」が自分の「よかった」に出来ないという繰り返しを続けるのである。ポリアンナの「よかった探し」のひとつに、見つけた「よかった」を他の人と一緒に喜ぶという構図があったことを視聴者にまざまざと見せつける。それには大きな意味があり、パレーが「よかった探し」を知らないという事実はポリアンナにとっても大きな痛手だと言う点を見せつけることにある。病床にあって唯一頻繁に会話できるパレーが「よかった探し」を知らないことで、「よかった」を見つけたときに共通の喜びを分かち合える人間がいないことになるのだ。つまりポリアンナの「よかったが探せない」という理由は、近くに「よかった探し」を知っている人間がいないことで、ここでポリアンナを立ち直らせるには何としてもパレーに「よかった探し」を覚えてもらうしかないのである。パレーはポリアンナの父であるジョンを恨んでおりその話も聞きたくないとしていたが、そんなタイミングでパレーが恨みや憎しみを自分の中でうまく精算してポリアンナの前に現れ、ポリアンナに心を開くのだ。同時にポリアンナもやっとパレーに心を開くことになる。
 つまりこの物語はポリアンナの側とパレーの側の双方から「パレーがよかった探しを知らない」という事実による不都合を描き、それによってポリアンナが精神的に疲弊してゆく点と、その不都合解消へ向けてパレーの心境の変化を同時に描いている二面的な物語であるのだ。
 しかし、牧師夫人が突然声変わりしていたぞ。スノー夫人と牧師夫人が並んで立っているシーンで「これは凄い一人二役シーンが見られる」と期待していたら、あっさりと裏切られた。まぁミンチン先生はナレーター入れれば三役になってしまうから、さすがに…ということになったんだろうな。

第24話「もう一度歩きたい!」
名台詞 「いや、僕は最初から独り相撲だったんだよ。それなのに牧師なんぞに負けるはずはない、ジェニーは当然ここに来ると勝手に思い上がっていたんだ。ポリアンナと付き合ううちに、ふふっ、僕は残念ながらジェニーの選択は間違っていなかったと認めずにはいられなかった。今ならパレーさんを責めずにいられなかった君の気持ちがよく分かる。」
(ペンデルトン)
名台詞度
 痺れるねぇ、私もこういう台詞を落ち着いて語れる男になりたい。
 自分とパレーの過去を語ったチルトン、そのチルトンがペンデルトンがジェニーを失ったときにその気持ちを理解しないままの言葉をかけてしまった事を詫びるとペンデルトンがこう答えたのだ。自分を選ばずに他の男を選んでしまった愛しい女性、その人が遺した子供を見て、ペンデルトンは初めて敗北を認めて素直に受け入れることが出来たのだろう。この台詞を落ち着いて言える辺りに、この男の懐の大きさと「傷」を感じ取ることが出来るのだ。
 だからこそジョンとの幸せを素直に祈ることが出来なかったパレーのことを、責めてしまったチルトンの気持ちが理解できるのだ。当人達が自らの選択で選んだ道、それによって確かな「愛」を二人とも感じたのだ。そしてその結晶であるポリアンナの事が気になって仕方がないのも容易に想像ができるのだ。
名場面 パレーとジミー 名場面度
 ジミーはペンデルトン邸でのペンデルトンとチルトンの会話を聞いてしまう。その内容はチルトンの知り合いの医師ならポリアンナを治すことが出来るという事実で、ペンデルトンやチルトンが語っていたようにジミーもポリアンナの足が治るかも知れないというチャンスを黙って見過ごすわけに行かなかった。二人の会話の内容を理解するとジミーはある決心を持ってハリントン邸へ走る。その決心とはポリアンナがチルトンの診察を受けるようにパレーを説得することで、色々なしがらみがある大人よりも何のしがらみもない自分こそが適任だと瞬時に悟ったに違いないのだ。
 ハリントン邸の玄関で対面するパレーとジミー、挨拶のあとジミーは単刀直入に言う「おの俺、思うんだけど、ポリアンナがもう一度歩けるようになるためなら、おばさんはチルトン先生を呼ぶべきだと」…当然パレーの表情は見る見る曇り、「何ですって?」と答える。ジミーは一瞬ひるむが、それでも「だから、せっかくポリアンナが歩けるチャンスなのに、大人達の事情のために治るチャンスを逃したんじゃ、ポリアンナが可哀想だって言ってるんだ」と力説する。「ポリアンナが治る」…この部分にパレーは即座に反応する、表情を変えてどういうことかとジミーに問い直すのだ。ジミーは自分が聞いたペンデルトンとチルトンの会話の事を言うとパレーは驚きの表情を見せる。だがパレーが考えたことはチルトンを呼ぶのでなくその博士を直に呼ぼうということだった、ジミーからその先生の名を聞き出そうとするがジミーは幸いにもそこまで覚えておらず、「でもその先生に診てもらうにはチルトン先生が診察しなけりゃならないんだって」と返すだけだ。また表情を曇らせるパレー、「おばさんはチルトン先生を頼まないからポリアンナを治してやりたくてもそれができないって、二人ともとても辛そうに話してたんだ」とジミーが言うとまた驚くパレー。「だから俺、自分でその役を務めようと決心してそれで…おばさん、お願いだからポリアンナのためにチルトン先生を頼んでよ! 何にもしないであの娘を一生歩けないままにしておくなんて、可哀想だよ! 可哀想過ぎるよ!」というジミーの台詞はもう絶叫だ。その台詞を聞きながらパレーは振り返る、過去の自分とチルトンとの事と、現在のポリアンナと板挟みに遭っているのだ。ここでポリアンナを治すためには過去の事を全て水に流さねばならない、一瞬怒りがこみ上げたのだろう、全身が震えるがパレーは遂に決心した。パレーの身体の震えは止まり、ジミーの方へ振り返って言う。「ありがとうジミー、よく知らせてくれたわ。せっかくのチャンスを逃したらポリアンナにお詫びのしようがないわ、早速ティモシーを迎えに行かせましょう」と。この言葉にジミーはハイジャンプで「よかった」と叫ぶ。
 ジミーの決断とパレーの決断。これが上手く表現され、ジミーの決断がパレーの決断を促す結果となった。まずジミーはこの状況で自分の立場や役割というものをキチンと理解して行動したと思う。大人達がしがらみに縛られて動けないなら彼しかパレーを説得できる人間がいないのだ。恐らくチルトンとペンデルトンにとっても最良の結果だったはずで、彼らもいろいろ考えた末に話を聞いたジミーが暴走してくれないかと願うことくらいしか出来なかったはずだ。またジミーの行動理由にその自分の立場や役割という概念だけでなく、ポリアンナに対する感謝の念と事故に対する責任というものもあっただろう。ルシエンじゃないが自分が何とかパレーを説得してチルトンの診察を受けさせ、それでポリアンナが治る可能性があるのならば彼にはそれに賭ける義務があったのだ。これでジミーは自分のことが理由でポリアンナが事故に遭ったという事実の責任を取ったことになる。
 続いてパレーの心境を言えば、過去の事を思えばいくらポリアンナに心を開いたからと言ってもチルトンに診察させるという事だけは譲れない問題だった。この辺りについては今回の序盤で、寝言でチルトンの名を出したパレーの反応として描かれている。ところがその「過去」と現在の自分が板挟みになる事態が起きる、それこそがジミーによる「チルトンに診察させれば直してもらえる先生を紹介してもらえる」という事実だ。パレーの「現在」はジョンに対する恨みや憎しみを捨て、ポリアンナのために誠心誠意尽くすことであった。ところがこのパレーの「現在」を最高の形で実行するためにはどうしてもチルトンの力が必要になってしまったのである。パレーはチルトンに対する恨みと憎しみを捨てねばならない状況に追い込まれたのだ。だがよく考えればパレーがチルトンを恨むようになったきっかけは、ジョンに対する恨みが原因だったわけで、今はポリアンナのためにその上位理由であるジョンに対する恨みを捨てたのだから、パレーのチルトンに対する恨みも自然に消えるはずなのである。パレーはジミーに背を向けて全身を震わせている間、こう思ったことだろう。
 いずれにしろ、このシーンは主人公が半身不随というお先真っ暗の展開の中で、やっとその主人公が元通りになる方向性が確定するという意味で物語進行上重要なシーンであろう。そして最後のしがらみであるパレーとチルトンの関係も解消に向かい、物語は前半戦の総まとめに向かって一気に突き進むのである。
今回の
「よかった」
 2回、一度は名場面欄に記したジミーの「よかった」。そしてもう一度は目を覚ましたら目の前にチルトンがいて、チルトンの診察を受けられると知ったポリアンナの「よかった」である。ジミーの「よかった」シーンはとても人間業とは思えないすごいジャンプ力を見せてくれるぞ。それだけポリアンナの足が治るという事実は嬉しいことなのだ。 「よかった」の回数
感想  ダメだ、ハリントン邸へ向けて走るジミーと雪山に挑むルシエンの姿が重なって見えてしまう。山田栄子さんキャラが「歩けなくなった登場人物の足を治すために一大決心をして行動する」のはルシエンに続いて2度目で、しかもどちらも「その登場人物が自分のせいで歩けなくなった」と自分で自分を責めた挙げ句に責任を取るための行動だという共通点まである。もうダメだ、今後はジミーがルシエンにしか見えなくなってくるぞ。ま、ルシエンの場合はその行動をきっかけに登場回数が激減したが。
 いよいよ最後に残った謎、パレーとチルトンの関係と不仲の理由も明らかになった。パレーとチルトンは恋仲にあったで確定でしょ? そしてその二人が一生顔も見たくないほど仲が悪くなった理由も分かった、それが前話でパレーが捨てた「ジョンに対する恨み」と密接に関わっていたとは。さらに20話でのチルトンの名台詞も伏線として有効に回収されており、つくりの細かさに本当に脱帽した。
 だがチルトンが知らなかったことは、パレーがポリアンナのためを思っているうちにジョンに対する恨みは感謝へと転化していたことだ。チルトンはそれを知っていれば実は仲直りのチャンスが到来していると感じただろうが、さすがにパレーの胸の内は知らないから仕方がない。いずれにしろチルトンがポリアンナを治す術を発見すること、それにパレーの心境変化、その二つをうまく繋いだジミーという3点の要素でもって、主人公ポリアンナが寝ているだけで物語はまた大きく動いたのだ。今回の主役は明らかにポリアンナではなく、ジミーとチルトンだろう。

第25話「危険な手術」
名台詞 「それなら私、手術するわ。私、どうしても歩けるようになりたいの。だから10のうち2つでも、ううん、1つでも歩けるようになるっていうんなら、やってみたいの。ねえ先生、私のお父さんはいつも言ってたのよ。どうしてもやりたいことがあって、それが正しい良い事だと思ったら、どんなに苦しくても辛くてもやってみるべきだって。お父さんもお母さんもそういう風に生きてきたつもりだって。だから私、手術を受けてみようと思うの。」
(ポリアンナ)
名台詞度
 ポリアンナに忍び寄る死の影、名場面欄を受けてチルトンはポリアンナに正直に告げる。手術が成功して歩けるようになる確率は10のうち2つだけだと。その事実を突きつけられたポリアンナは、手術の間ずっと一緒に居てくれるかどうかをチルトンに問うた後、こう言い放つのだ。
 結論だけ言えばポリアンナは「20%に賭ける」という選択をした事になる。その過程でポリアンナが思った事はやはり両親の事だった、視聴者もポリアンナの両親が多くの反対を押し切って結婚したことや、それによって苦しんだ事も知っているだろう。だからポリアンナが親の背中を見てこう言う事に非常に説得力を感じるし、また感動する台詞でもあるのだ。ポリアンナの両親は死んで居なくなったのではなく、ポリアンナの心の中にしっかりと生き続けている事を思い知らされるシーンだ。
名場面 パレーとチルトン 名場面度
 博士の診察結果である「ポリアンナの足が治る確率は20%」という説明を聞いたパレーとチルトンは、廊下でこの「20%」について語り合う。パレーは手術すれば必ず助かると信じているポリアンナにどう言って諦めさせるかで悩む、生命の危険を冒してその20%に賭けるというのはパレーは出来ないというのだ。そしてポリアンナのいない生活に耐えられないから自分がポリアンナの足になるとの決意を語る。しかしチルトンはパレーがポリアンナに一生付き添うことは出来ないと訴える、歩けない上に身寄りがないポリアンナが一人きりになったらどうなってしまうのかという重要な問題を語るのだ。そしてチルトンはポリアンナの意思も尊重しようという。ポリアンナに何て言えばいいか分からず涙を流すパレー、それを見たチルトンは「私が話します」と力強く言う。「主治医としてここまで引っ張ってきた責任がありますからね」と言い残して立ち去るチルトン…かっこいいぜ。その背中に向けてパレーは小さい声で「ありがとう、トーマス」と言う。
 このシーンに見え隠れしているものは、ここでようやくパレーとチルトンの関係が「ポリアンナの足を治すためにやむなく呼んだ医者」から昔の事も含めた元の関係に戻って行く事実である。その証拠に最後にパレーが「先生」ではなく「トーマス」と名前を呼ぶことにあるだろう。かつて全く違う価値観や考えで対立していた二人は、今ここで足並みを揃えて「ポリアンナの足を治す」という共通の目的に向かって心をひとつにしていることに気付いたのだろう。パレーは20%の重みに打ちのめされ、その事実を本人にどう伝えるべきかで悩んでいるときにチルトンは自分たちの取るべき道をしっかりと示した。そんなチルトンの誠実な行動がパレーの心をまた動かしたシーンなのだ。
今回の
「よかった」
 今回は冒頭の繰り返しシーンでの「よかった」は前回カウントしているので数に入れなかった、従って3回である。物語中盤、ポリアンナが検査を受けているときに隣に来た女の子に「よかった探し」を布教しながら怖がらないよう説くシーンも好印象だった。 「よかった」の回数
感想  ケイトキター!!!!! いや、クララ(ハイジの方)でもいいんだけど、車椅子に乗っているのも歩けるようになるのは違う方だし、私にとってはケイトかマチコ先生が一番印象に残っている人なので。でもクララやケイトやマリーとは全く違う演技で出てきたので、最初誰か分からなかったぞ。しかし、本当にこの物語、色んな声優さんが出てくるなぁ。それは置いておいて。
 ジミーがポリアンナを見送るシーンはやっぱアンネットとかぶってるぞ、ジミーとルシエンはほんとうにかぶりが多い。ナンシーを置いていったのは正解だな、もしナンシーも一緒だったら本当にアンネットと同じになっちゃう。それも置いておいて。
 ここまで話が一転する展開が多かっただけに、今回は重要な物語の転換がなくてちょっと気が抜けた。今回は前回や前々回のように重要な謎が解けるわけでもないし、パレーとペンデルトンやチルトンといったこじれた仲が直るものでもない。ただ診察結果を受けてローザンヌボストンの著名な病院へ行き、ポリアンナが手術を決意するまでという平凡な展開だ。ここまで怒濤の展開が続いていただけに、ここで一息入れて欲しかったのもあるがポリアンナの足があれじゃ面白い展開にも出来ないし、意外に制作側が作るのに一番苦労したのは第一部ではこの回なんじゃないかと私は思う。
 それにしても、今回は20%という数字をどう見るかがテーマのような気がする。パレーは20パーセントを「20%しかない」と感じた、だが医師は明らかに「20%もある」と話をしている。ポリアンナの足を「直る確率が20%しかない」と見るか「直る確率が20%もある」と見るかで、この物語の見方も変わってくるだろう。チルトンとポリアンナはつとめて後者に解釈しようとした。彼らの考えは例え難しくても僅かな可能性に賭けるという生き方で、対してパレーが前者に取ったのは何処か保守的な考えがあるのかも知れない。自分だったらやっぱ前者にとってしまいそうで、後者に取るのは非常に難しいと思う。
 やっぱ最後に一言、ポリアンナのヌード(?)があったが、ちっとも萌えねー。

第26話「死なないでポリアンナ」
名台詞 「もし手術が失敗だなんて言ったら、俺はどうすればいいんだ? 俺のために怪我したのに、俺が無理にチルトン先生に頼んでもらったのに。それがダメだったら…。ポリアンナ…ポリアンナーっ、元気になって帰って来いよな〜っ! ポリアンナーっ!」
(ジミー)
名台詞度
 よせばいいのにジミーの前で暗く落ち込むポリアンナの事を思うペンデルトン、そのペンデルトンの姿を見てジミーの不安が煽られてついには外にかけ出してしまう。そして例の橋の上でジミーはこう言うのだ。
 ジミーこそが今回の事故とその結果に一番責任を感じているという事をよく表現している台詞である。確かにポリアンナが事故を起こしたのは、ジミーの素性を調べようと孤児院へ向けて走っているときだった。ジミーを孤独から救うために…その結果ポリアンナの思い通り、ジミーはペンデルトンに引き取られて孤独から解放されるのだが、ジミーの心の中に残っているのは自分がポリアンナをあんな目に遭わせてしまったという責任感である。だからこそチルトンに診せれば治ると聞いたときは居てもたっても居られずにチルトンを呼ぶよう、パレーを説得しに行ったのだ。これで彼の責任は果たしたかに見えたが、ジミーは感付いてしまったのだ。手術は難しいものである事と、もし失敗したらやはり自分の責任なんじゃないかと。
 この自分の責任に押しつぶされそうになっているジミーを上手く表現した台詞と思う。
 やっぱジミーって、ルシエンとかぶってるよな…。声優が違ってもそう感じたに違いない。
名場面 ポリアンナが目を覚ます 名場面度
 ポリアンナの足が治る。うんよかったよかった。
今回の
「よかった」
 2回、ポリアンナが麻酔から覚めた時にパレーが「よかった」と言うであろう事は予想通りだった。いずれにしろ長い長い不安なシーンの終わりにパレーの「よかった」とポリアンナの手術が成功して「よかった」のぶつかり合いで、今回の話が終わるしかないのは当然だ。 「よかった」の回数
感想  前半はもう総集編と化していた、いや総集編というよりポリアンナとパレーの語録集だったと言った方がいいかも知れない。パレーが手術を待っている間のシーンはもっと何とかならなかったのかな? あの回想シーンはパレーの心がどれだけ変わったかという事を示すのに必要なのは理解できるが、ちょっと冗長すぎる。ま、アンネットに対しての森雪エリザベスに当たるキャラがいないから手術中は退屈にしているしかないので必然的にああいうつくりになってしまうんだろうな。
 前半はそんなんで回想シーン満載のパレーの物語となったわけだが、後半ではハリントン邸の使用人達の様子やペンデルトンやジミーが出てくる。う〜ん、アンネットと似たような展開だ。ただその中でペンデルトンがわざわざジミーを煽るのは今までの手術シーンになかった味付けだ。ジミーがペンデルトンの事をごく自然に「父さん」と呼んでいる点についてはちょっと驚いた。
 今回は正直言って、名場面欄で凄く悩んだ。

第27話「第一部 完 愛になりたい」
名台詞 「私、あの時あんな酷いことを…。14年前です(中略)。でも私、今はポリアンナを遺してくれた姉とジョン牧師には、本当に感謝しているんです。あの人たちやあなたに、どんなにお詫びしたかったか…。」
(パレー)
名台詞度
 ポリアンナとジミーの策略により二人きりで話し合う機会ができたパレーとチルトン、パレーはポリアンナがこんなことまでして二人だけで話せる機会を作った理由がわからない。だがチルトンはすぐにポリアンナの気持ちが分かり、それをパレーに説明するのだ。そのポリアンナの気持ちを理解したパレーは、チルトンにこう語って泣き出すのだ。
 ハッキリ言ってしまうがこの「ポリアンナ物語」の第一部ってとうのは、パレーがこのような台詞を吐く心境になるまでの物語だ。この台詞を持って物語の結論がひとつ示されたのである。24の名場面欄に書いたように、チルトンはパレーの姉やジョン牧師に対する恨みが感謝に変わっていることなど知らなかった。だからこそチルトンは今までパレーを待ち続けていたことをパレーに言ってしまっていいのかどうかで悩んでいたのであって、ここにその答えも示されることになったのだ。
 またパレーも姉やジョン牧師に対する恨みが感謝に転化し、しかも仕事とはいえポリアンナに精一杯尽くしてくれたチルトンを恨む理由も消えてこれまでも感謝に転化してしまっていたのだ。だからパレーも今こそチルトンにキチンと詫びて元の関係に戻らねばならないと感じていたのだ。恐らく西部へ旅立った姉とジョン牧師は、パレーとチルトンの幸せを願い続けていたに違いない。この二人に今までの恨みを詫びるとすれば、チルトンと元通りになるしかないのだ。
名場面 第一部ラストシーン 名場面度
 名台詞シーンを受けてパレーとチルトンの感動の抱擁、これで物語は決まったのだがアニメではちゃんとアニメらしいオチをつけてくれた。まずは第一部キャラの大集合、どうでもいいが最後の方のチョイ役でしかなかったデラの扱いが大きすぎるぞ。
 その歓喜の輪の中で立ち上がり、歩こうとするポリアンナ。皆はこれを見守り、ついにポリアンナは大地にしっかり立ってパレーの元まで歩く。どっかで見たようなシーンだがこれで上手に第一部大団円となった。
 確かに物語的にはパレーとチルトンが仲直りすればそれで終わりだが、万人受けする名シーンとしてはここでポリアンナに歩いてもらわねば話は終わらないだろう。こうして単なる古い恋人同士が元に戻るだけでなく、物語をキチンと締めるラストシーンとしてこの物語が完成したのである(←ここで言うべきではないのを承知で言うが、「ポルフィの長い旅」にはこういう要素がなかったから締まりが悪かったんだよな〜)。やはり大けがした主人公が完治に向かって決定的な一歩前進、これがないとね。ポリアンナが車いすに乗ったまま微動だにせず終わったらゃっぱり気持ち悪かっただろう。
今回の
「よかった」
 第一部最終回は4回の「よかった」が出てきたところで終わった。リハビリの時に痛がりながら「これで歩ける日か一日早くなると思えば…痛くてもよかった」というポリアンナ最高。ほかのどの「よかった」よりも面白い。 「よかった」の回数
感想  デラの中の人の演技がだんだんケイトやマリーの雰囲気になってきた。やっぱ間違いなく同じ人だわ、「デラ」って聞くと鉄ヲタの私としてはどうしても昔の東武特急(「デラックスロマンスカー」…略して「デラ」と呼ばれていた)を思い出してしまう。
 愛と感動の第一部最終回、この話をみていると第一部の本当の主役ってパレーだったように感じてくる。パレーが長年の憎しみを捨て、心を開き、そしてかつて恋仲であったチルトンとの関係を取り戻すまでの物語だったと考えることもできるだろう。そのきっかけはやはりポリアンナという姪が側にいたことだが、パレーの心境や変化を追ってゆくと改めてこの物語の奥深さやおもしろさがわかるのだ。
 しかし最後、ポリアンナが立ったシーンは覚えてた。当時はテレビに向かって「クララが立った!」と言いそうだったのはハッキリ覚えてる。思わず手が出そうになるパレーとあくまでも見守ろうとするチルトンの違いこそが、本来の二人の違いのはずだ。14年前に喧嘩したときは互いに逆のことをしてしまったからこじれてしまったのだろう。それでも14年間待ち続けたチルトンは凄い。パレーは「待ち続けていた」のではなく、恨み続けていたのだろう。「誰か止めて〜っ!」と思いながら。
 ラストシーンは何だかんだで第一部の主要登場人物が全員揃って終わった。ダルギンとティモシーは集合写真の欠席者みたいな扱いだったが、どうせなら一瞬でもポリアンナの両親を出してやりゃよかったのに…さすがにホワイト婦人の出番だけはどうにもできなかったな。
 それとこの回からオープニングが変わるというのはおかしくないか? 違和感ありありだったぞ。でもエンディングのスタッフロールみてみたら、オープニングはまだ前の曲ってことになっていたからこれってNHK−BSオリジナルだったのかも?

・「ポリアンナ物語」第一部エンディング
「愛になりたい」
 作詞・岩里祐穂 作曲・芹澤廣明 編曲・和泉一弥 歌・工藤夕貴
 「世界名作劇場」シリーズを再視聴し始めたことをきっかけに気になっていたのは、「エンディングにドールハウスが出てきたのは何だっけ?」という事。その謎が今回の視聴で解けた。実はこのエンディング、「ポリアンナ物語」のものだったという事はすっかり忘れていたし、曲も覚えていなかったが、背景画像のドールハウスと出てくるおもちゃだけは何故かよく覚えていた。見ていて楽しそうなあの背景画像は、物語とは何の接点もないとはいえかなり印象に残る。特に途中に出てくる回転式のオルゴールが、ゼンマイ仕掛けでだんだん遅くなって止まっていく様子のリアルさは今見ても感心した。
 曲の内容は…覚えてなかった。ただ今回聴いてみて一つ感じたのは…この人にバラード調の曲歌わせちゃダメだよ。 

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