前ページ「あにめの記憶」トップへ次ページ

第38話「どうして幸福になれないの?」
名台詞 「お別れパーティをしましょう。ポリアンナには随分きりきり舞いさせられたわ、教会に引っ張り出されたり、公園を歩かされたり、私には考えられないくらいあの子のペースに乗せられて、あっという間に日が過ぎてしまったの。でもそれはポリアンナ流に言えば、この6年、暗い闇の底で死んだように暮らしてきた私にとって、生きてるって言える毎日だったのよね。あの子がいなくなったらどんなに寂しくなるでしょう? でもねデラ、今度こそ一生懸命ジェミーを探すわ。人任せではなく自分も参加して。そうすればきっと暮らしに張りが出るわ、生きていてよかったと思えるわ。」
(カリウ)
名台詞度
 デラからポリアンナの気持ちを聞かされたカリウは、ポリアンナが自分に言ってきたことを不意に思い出す。そしてポリアンナが自分に対してどれだけ心配してくれたか、どれだけ自分を変えてくれたかという事に気付き、ついにポリアンナに対して心を開こうと決意するのだ。これがこの台詞だ。
 この台詞にはカリウがポリアンナによってやらされた行為も多く含まれているし、またポリアンナの「よかった探し」の真意という部分も含まれている。そう、カリウの場合の「よかった探し」は甥のジェミーを探すことそのものでもあり、それをキチンと自分で行えば自分に「目標」が出来る…つまりそれが「生活に張りが出る」という事であり、カリウが見つけられる「よかった」なのである。「よかった探し」の原点は「生活の張り」であり、それこそがポリアンナの言う「生きている」と言うことになるのだ。
 ついにカリウもポリアンナの「よかった探し」の信者になったのだ。
名場面 カリウがポリアンナの寝室を訪れる 名場面度
 デラの説得によってポリアンナの気持ちを知り、いよいよポリアンナに心を開こうとするカリウ。彼女が深夜、ポリアンナの寝室を訪れる。ポリアンナの寝顔を見て「心配掛けてごめんなさいね、ポリアンナ。それから、本当にありがとう」と声を掛ける。
 短いシーンだが、ようやくカリウの表情が明るくなったシーンの一つであろう。ポリアンナの気持ちを知り、ポリアンナが自分のためを思って行動していた事を痛いほど痛感したカリウは、このようなかたちでポリアンナにその感謝の気持ちを伝える。本人が起きているときに言わないのはこの人らしいなぁと思う。
 だがまだカリウはポリアンナの気持ちを知り、ポリアンナに心を開こうとはしているものの本質的には何も変わっていないようにも見える。今回カリウが発した「優しさ」はあくまでも身内のためのものであって、ジェミーのことを考え直すなど身内以外への優しさは一切表現されていない。そしてこのシーンの次のラストで早速それがあからさまにされるのだ…いや〜良くできたアニメだと思う。。
今回の
「よかった」
 1回。いや〜、終盤まで「ひょっとして今回はよかった0か?」とずっとハラハラさせられたぞ。ちなみに回想シーン内の「よかった」と、ベルディングスビル帰郷を知ったときの様子はカウントしていない。後者は「よかった」と思えない描写として描かれているので。 「よかった」の回数
感想  まだ最終回までかなり話数を残したところで、カリウのもとからベルディングスビルへ戻る展開になるとは思わなかった。でもまだカリウにとっての結末が来ているようには見えないから、まだまだどう転ぶか分からないわけで、名場面欄に書いたとおりに「カリウの変化」に対する不安も残している。さらにポリアンナがベルディングスビルに帰れば何らかの事情でジミーこそがカリウの甥のジェミーだと分かる展開が待っている(決めつけてるし…)からそろそろポリアンナの帰りどきかも知れないとも感じた。確かにカリウやポリアンナとジェミーの件は決着着いてないし、エイミーサディとの絡みもなんか中途半端だ。ボストンでもう一悶着あってからポリアンナはベルディングスビルへ帰ると見ているのだが、どうだろう?
 それと久々にパレー登場、なんか初期の頃と全然違う人になってるぞ。ますます鉄郎と同じ人とは思えなくなってきた。そういや名台詞欄の台詞は、完全にメーテルだったなぁ。

第39話「さよならパーティ事件」
名台詞 「おば様、私せっかくジェミーとお友達になったのに、ポリアンナがいなくなったら二度と会えないかも知れないのよ。ねぇ、ジェミー。だからおば様、せめてポリアンナがいる間だけでも、一緒にいたいの。」
(サディ)
名台詞度
 お別れパーティの席でジェミーと仲良くなったサディは、翌日以降のポリアンナのボストン巡りにジェミーも一緒に行こうと誘う。遠慮するジェミーを説得して次はカリウの許しを請いに行く。無論ジェミーを引き取ると言ったら断られた事を根に持っているカリウはあからさまに嫌な顔をする。その時、サディがこの台詞でカリウに自分の気持ちを訴える。
 この台詞の裏にはサディとジェミーの間の超えられない「壁」が見え隠れしている。片やボストンの高級住宅街に住むお嬢様、片やボストンの貧しいアパートに住みしかも素性の知れない少年。この二人が対等に付き合うことなど当時の社会では出来るはずもなく、この二人の友情はポリアンナのボストン滞在中という期間限定のものになってしまうのだ。それが過ぎてしまえば二人が会うのはかなり難しいだろう、せっかく互いに気に入って友となれた相手を失いたくない、こんなサディの気持ちが良く出ている。なんかこれじゃ友達というより、一目惚れした男女の世界…ロミオとジュリエットだねぇ。
 そしてこの台詞に対するカリウの返事は…次回に持ち越しとなった。
名場面 パレーとカリウ 名場面度
 鉄郎とメーテルの会話キターーーー!!!
 じゃなくて、体調を持ち直したパレーがカリウ邸を訪れた。ポリアンナと二人の時間を過ごした後、客間でパレーとカリウは遂に対面する。パレーがポリアンナを預かってくれたことに対して礼を言うと、カリウは礼を言うのは自分の方だとして、ポリアンナがいたことで今までの暗い自分が変わったことを素直に認める。そしてポリアンナに言われたとおり「よかった」を探して生きることを宣言するのだ。さらにデラやエームスによって無理矢理押しつけられたと感じ、ポリアンナが面倒を起こしたらすぐに帰ってもらってまた一人の生活に戻りたいとばかり考えていたと正直に白状した上で、今はポリアンナが帰った後の寂しさを考えると怖いとも正直に言う。これにパレーは驚きの表情の後笑顔になり、自分もかつてそうだったと正直に告白する。二人は自分たちがポリアンナによって人生を変えられたという共通点を持っていることに気付き、大きな声で笑う。
 このシーンが印象的なのは、やはり二人の初登場や最初の頃の性格との比較で考えるべきだろう。二人ともかつては心を閉ざし、一人で静かに暮らすのを好んでいたはずだ。それが今はその頃には考えられなかったような笑顔を見せてくれる。ポリアンナの力をまざまざと見せつけるシーンであるのだ。
 それと二人がポリアンナという存在によって変わったという共通点、これだけであっという間にこの二人には何事にも変えられない絆が芽生えている。この二人は人生を一人で生きるという決断の辛さ、暗く生きてゆく事の悲しさ、そしてポリアンナというかけがえのない存在の重さというものを一瞬にして共有することが出来たのだ。こんな二人だからこそ、初対面にしてこれだけ笑いあえるのだろう。
今回の
「よかった」
 今回は5回、なお最初の「さよならパーティ」が決まった事に対する「よかった」は前回の繰り返しなので数から除外した。「まぁ、あなたたちお友達だったの?」「だったんじゃないわ、今なったところよ。ねぇジェミー」「えっ、えっ、ええ」「うわぁよかった、嬉しいわ私」というポリアンナとサディとジェミーのやりとり最高、顔を真っ赤にして照れるジェミーもね。 「よかった」の回数
感想  前回ああいう終わり方をして、今回のサブタイトルが「さよならパーティ事件」となれば、それだけで前回の「このまま終わらない」という予測は当たったと断定できてしまうだろう。その「事件」とは、ジェミーとミッキーが住むアパートの子供たちによる歌や踊り…思った程の大事件で無くて気が抜けた。でもこれじゃジェミーの立場がないじゃん、と思ったらその気持ちをサディがちゃんと代弁してくれるし、ジェミーはこの踊りのプロデューサーという設定になっていて、うまく考えたな〜と感心させられた。
 しかし今回は歯切れの悪い終わり方をしてくれた。「ポリアンナ物語」は「南の虹のルーシー」「わたしのアンネット」「小公女セーラ」のような一話完結のスタイルを採らず、「愛の若草物語」のようにひとつのエピソードが次の回にまたがっていることが多い。だがエピソード途中で次話に持ち越す際も、ここまでは嫌味な切り方だけはしてこなかったのだ。つまり会話の途中で終わったり、「流れ」が切れないままに突然終わったりすることがなかったのだ。「愛の若草物語」では敢えて流れを切らさずに終わることが多く、これが見ていて疲れる原因にもなっている。今回は会話の途中で続きを次回に持ち越してしまっている、サディがカリウに懇願する台詞を吐き(名台詞欄)、その返事を待たずに終わってしまっているのだ。どうにも歯切れが悪く、出来ればどんな内容の返事にしろカリウが返事を行ってから終わらせて欲しかったな〜と思うのは私だけなんだろうか?

第40話「たのしいボストン見物」
名台詞 「もう一度考えて、来て欲しいの。私のジェミーの代わりに、私と一緒に暮らして欲しいのよ欲しいのよ…どうなの?ジェミー」
(カリウ)
名台詞度
名場面欄参照
(次点)「え!? あの〜…」(ポリアンナ)
…デラに「気になるんでしょ? ジミーのこと」と聞かれたポリアンナの返事。照れながら小さい声でこの台詞を言うポリアンナだが、ここまでの40話中でもっとも可愛いと思う。
名場面 別れの挨拶 名場面度
 ポリアンナのボストン最終日は、サディとジェミーとともにあのいつもの公園にやってきた。公園で遊んだ最後、ポリアンナとジェミーがリスたちとともに遊んだあの場所にやってきた。「せっかく仲良くなったのに、もう二度と会えないのね」と寂しそうに言うサディに、ポリアンナは生きていれば必ず逢えるという何処かで聞いたような台詞を返す。ところがそれを聞いたジェミーの返答は「これでもう二度と会えなくても満足だ」と言う、「何言うのよ!」と立ち上がるポリアンナにジェミーは「喜びの本」に書ききれないほど幸せをくれたことと、いつまでも明るいエンゼルであって欲しいと言う。さらにサディには「こんな僕を大事にしてくれてありがとう」と礼を言う、サディは泣きながら「短い間だったけど楽しかった」と返す。そしてジェミーはカリウに「このご恩は一生忘れません」と感謝の言葉を言うのだが、カリウは辛そうな表情で顔を背ける。さらにジェミーは「本当のジェミーが見つかるよう…」と言いかけると完全に涙声になっていた。涙を瞳に溜める1人の少年と二人の少女、それに懸命に涙をこらえる一人の女性。
 「お願いします、パーキンスさん」とジェミーが言うと、パーキンスはジェミーが乗っている車椅子を彼の家の方向へ向けて押し始める。ポリアンナとサディが一斉に声を上げる、その声にハッと気付いたカリウが「待ってジェミー」と声を出すとジェミーを追いかけるのだ。慌ててカリウの後を追うポリアンナとサディ、カリウはジェミーに追いつくとジェミーの前に跪いて「もう一度考えて、来て欲しいの。私のジェミーの代わりに、私と一緒に暮らして欲しいのよ欲しいのよ…どうなの?ジェミー」と問うのだ。ジェミーは涙を流しながら二つ返事でこれを引き受ける「僕を可愛いと思ってくださるから…今なら行きます」。抱き合うカリウとジェミー、「うわぁ、よかった!」「よかったわね! ポリアンナ」ポリアンナとサディは手を取り合って喜びを分かち合う。
 「愛少女ポリアンナ物語」第二部前半ボストン編の感動のラストシーン。これまで赤の他人に愛情を注げないでいたカリウが、ジェミーとの時間を過ごすうちにこれに目覚めただけでなく、ジェミーのことを心から心配するようになった事を示すシーンだ。そしてジェミーに対して「何とかしてやりたい」と思うだけでなく、礼儀正しく頭の良いジェミーが自分にとって無くてはならない存在になってしまっていたのだ。このやりとりでジェミーの側もカリウがそう変わった事に気付いただけではなく、カリウなら自分にとって本当によくしてくれる親の代わりになってくれるかも知れないと感じたのだろう。こうして互いの思惑は一致して、ジェミーはカリウの下に引き取られることになる。
 またこれは第37話のジェミーの名台詞に連動している。カリウがジェミーを引き取るためには他人の子であっても心の底から可愛がることが出来るというハードルがあの時に設定されたのだ。そしてジェミーとの時間を過ごすことでそのハードルを乗り越え、他人の子でも引き取る覚悟が芽生えたのだ。ここまでが「ポリアンナ物語」のカリウの物語と考えていいだろう。
 このシーンの後、物語は新しい展開に入る。ここからはジミーの物語になるのかな?
今回の
「よかった」
 4回、カリウがジェミーを引き取ることが決まったときのポリアンナとサディの「よかった」はこの物語有数の感動的な「よかった」だろう。それに今回はダルギンがうまく「よかった」を見つけている、つまらないことから「よかった」を見つけたダルギンの言動こそ「よかった探し」の極意だろう。 「よかった」の回数
感想  ボストン編終了〜っ、サディとミッキーはこのまま退場になるかも知れないけど、メーテルとロッティカリウとジェミーはまだ出てくるかも? なんてったってこれからカリウの甥ジェミーの謎解き編になるだろうから、謎が解ける課程や解けた後の事後処理でカリウは必ず出てくるだろう。そうすりゃ養子のジェミーも必ず出てくるわけだ。そしてジミーこそがカリウの甥であることは今回の話でハッキリしただろう、カリウの記憶の中にある甥ジェミーの姿とジミーの回想シーンに出てきた幼少時代のジミーの姿が同じ事だけで十分だが、さらにジミーの幼少時代の思い出を突き合わせればこれはもう動きようのない事実であるわけだ。こんな形でジミーこそが本当のジェミーであることを先に視聴者に提示した上で、どうやってこの「点」が「線」として繋がるかを楽しませる展開を採ったという事は以前にも推測したが、まさにその通りになってきた。第二部の推理点は真犯人を捜すものではなく、真犯人は分かっているがそれをどうやって登場人物たちが暴いてゆくのかという方向の推理小説になってきたのだ。
 でもそれだけにしては残り話数がまだ多すぎるような…(ネタバレ禁止!)。
 ま、サディについてはここでうまくその存在をアピールし、ジェミーと仲良くなって物語を組み立てて、カリウがジェミーを引き取るきっかけのひとつにもなったからその役は十分に果たしただろう。あのまま影の薄い隣人で終わったらエイミーが黙ってないぞ。
 それと以前推測したジェミーは最終的にカリウが引き取るという予測は見事に当たったわけだ。そこに至るカリウの心境変化はちょっと急ぎすぎたような気がする。やはりカリウが「家庭がない」という寂しさに気付くのをもうちょっと早くしても良かったと思うし、ジェミーに対して愛情が湧くことについてももっと伏線を入れておいた方が良かったんじゃないかと思う。たとえば甥と同じ癖があるとか、どっちも胸に七つの傷を持っているとか、左腕にサイコガンが仕組まれているとか…歳がバレる。冗談は置いておいて限りなくジェミーを本物と臭わせておいて、その部分を愛おしく思うのでもいいし、性格的な面やしゃべり方がカリウの死んだ夫に似ているなんてもんでもいいのだ。
 だがカリウがジェミーをあまりにも不憫に思ったという理由でもなんら不自然はない。カリウの性格はポリアンナによってそれを強く感じるように変わっていたのだ、だがそれならそれでその部分を「さよならパーティ」辺りから臭わせた方が、今回のような慌てた展開にならずに済んだと思うけどな〜。

第41話 「嵐のはじまり」
名台詞 「ジミー、それだけ分かっているなら謝ればいいじゃないか。そうだろう? ジミー。合わす顔が無いからって有耶無耶のうちに時が解決してくれるのを待つのかね? そりゃ謝るのは照れくさいし、謝ってもし許してもらえなければ面目が潰れるような気がするだろう。しかし、本当に相手を大切に思うなら、潔く非を認めて頭を下げるべきじゃないのかな?」
(ペンデルトン)
名台詞度
 ポリアンナに酷いことを言ってしまったと後悔するジミーに、ペンデルトンはジミーがしてしまったことを突きつける。「可愛そうに、それじゃポリアンナはさぞ悲しい思いをしたことだろう」「大事な友達を、それも年下の女の子を悲しませるなんて」…。それに対して「分かっている、だけどついむしゃくしゃして当たり散らしちゃったんだ」と答える息子に、一瞬ニヤリと笑顔を見せた後でペンデルトンはこう言うのだ。
 この台詞には「世界名作劇場」シリーズでたびたび出てくるテーマである「他人を傷つけてしまったらどうすればいいか?」という答えがストレートに表されていると思う。謝ることは照れくさいし勇気もいる、でも相手を大事に思っているなら強がって自分に固執するのでなく一歩引いて自分の非を認めることも大事だという教訓だ。実は謝るってことは人生のどんなシーンよりも勇気がいることだったりする。自分の非を認め謝罪する勇気を持たない者こそ真の意気地なしだと私は思うのだ。そんな勇気をこの台詞でしっかりと息子に教えるペンデルトンの父性に、拍手を送りたくなる台詞だ。
 この台詞に続くペンデルトンの台詞も好き、ジミーの「すぐにカーッと熱くなる性格」を短所として挙げつつも、「それは真っ正直な証拠」と評して長所にすげ替えるのだ。この一連のシーンにおけるペンデルトンは、まさに「理想の父親像」だと思うがいかがだろう?
名場面 ポリアンナ快気祝いパーティ 名場面度
 パーティの準備もすっかり整い、ペンデルトンとジミーが招待客としてハリントン邸にやってくる。彼らがパーティ会場に入るとチルトンはナンシーに家の使用人を全員呼ぶように命じる。ナンシーに連れられてパーティ会場にやってきたトムとダルギンとティモシー、トムはいつものように用を言いつけられると思い「ご用でございますか?」と聞く、その返答としてチルトンは「さ、君たちも席についてくれたまえ」と命じるのだ。意外な言葉を聞いて驚くトムとダルギン、チルトンは使用人全員を列席させる理由を語る、「私は家族同然の君たちと一緒に(ポリアンナの全快を)祝いたいと思う」…喜ぶポリアンナ、さらに前もって言うと遠慮するに違いないという理由で今まで使用人をパーティに呼ぶことを秘密にしていたことも明かす。「旦那様…」言葉にならないトム、パレーが立ち上がってトムに早く席につくよう促すがまだトムはこの事実を受け入れられないのか固まったままだ。パレーはトムに言う、使用人たちがしっかりやってくれたからこそポリアンナにずっと付き添うことが出来たこと、みんなポリアンナのために尽くしてくれたこと、「それは当然だ」というトムには14年間ずっとパレーを支え続けてくれたからこそ今日のこの日があるから感謝しているという事を伝える。「ありがとうございます、わしらはこの町で一番の幸せ者でございます」と答えるトムは、「早く席についてちょうだい」と促すパレーに背を押されてやっと席に着く。そして残ったダルギン、ティモシー、ナンシーの3人もポリアンナとジミーに引っ張られる形で席に着く。「生きててよかった、本当によかった」とダルギンは最高の「よかった」を見つけた台詞を語る。
 正直言ってハリントン邸の使用人たちの忠実な働きぶりには感心するものがあった。パレーが変わる前も不平不満を言いつつも忠実にパレーに尽くす4人の使用人たち、彼らはポリアンナに感化されることでいっそう忠実度を増し、ポリアンナが倒れたときには全力でパレーとポリアンナを影で支えてきたシーンがずっと描かれてきた。パレーが変わった要素の一部には彼らの忠実な働きぶりもあったはずだ。そんな彼らに救いの手を!というのは一部の終盤からずっと思っていた。彼らは忠実に働いていた割にはここまでそれが報われるシーンが描かれてこなかったのである。それでは明るく描かれているとはいえメイド時代のセーラと変わらないではないか、と思ったところでこのような最高の形でパレーとチルトンが彼らの「働き」に答えてくれたのだ。しかも彼らを「使用人」として見るのでなく、「家族の一員」として迎えたのである。ここに人が変わったパレー本来の優しさと、チルトンの優しさの両方を見ることが出来るだろう。
今回の
「よかった」
 5回。名場面欄に書いたダルギンの「よかった」は本当に感動した。ポリアンナ以外で一番「よかった」を連発しているのはダルギンかも知れない。。 「よかった」の回数
感想  「嵐のはじまり」っていうサブタイトルは最後の電話のことを指しているのだろう、安易にポリアンナの全快祝いパーティを示唆するサブタイトルをつけられるよりも、次の事件を予感させるこのサブタイトルと最後の電話の音の方が視聴者を次回に引き込む力として絶大なインパクトがある。う〜っ、この電話の相手は誰なんだ?
 そのラストシーンを除けばいたって平穏な一話だ。ポリアンナはジミーの態度に心を痛めるし、ジミーはポリアンナに酷いことを言ったと後悔の念に苛まれるし、ペンデルトンはジミーを上手く操縦しているし、パレーとチルトンはラブラブだし、トムやダルギンやナンシーは相変わらずだし…これでポリアンナが街で「よかった探し」の布教をすれば本当にごくごく当たり前の一話になっただろう。平穏無事な一話を作るにしてもそこまでは無理か。
 あとはこの話、名台詞欄のシーンと名場面欄のシーンに尽きる。どっちも好きなシーンだ。

第42話 「失われた帰り道」
名台詞 「よかった…よかった。これでもうわしは思い残すことはないよ、ティモシー。もうわしの勤めは終わった。(中略)しかしな、わしはこの14年の間、パレー様と旦那様が仲直りなさって、所帯をお持ちになる日が来るのだけを願ってお仕えしてきたんだ。それが思いがけなくポリアンナお嬢様までご一緒にお暮らしになるようになって、もうわしがお守りする必要のない立派なご家庭になったんだよ。」
(トム)
名台詞度
 パーティ中にチルトンが急患の元へ出かけ、これを見送った一同がパーティー部屋に笑顔で戻る。その中のパレーとポリアンナの様子を見たトムは、直立不動のまま目を潤ませる。そんな父親のいつもと違う様子に気付いたティモシーがトムに声を掛けると、トムはこう返すのだ。
 トムはこの14年間だけでなく、パレーが生まれたときからパレーを見守っていたに違いない。そして両親と姉を失い、恋人とも喧嘩別れして暗い日々を過ごすパレーが何よりも心配だったのだろう。トムはそんなパレーを時間が掛かっても元に戻ることを信じ、その日が来るまでパレーの事を支えなければいけないという使命感に燃え、忠実に働いてきたに違いないのだ。さすがのトムも使用人の立場にある以上、パレーの心の中に立ち入ることは許されないのでパレーを自分で元通りにすることは出来ない。だかにらこんな形で答えることしかできなかったのだ。
 そこにポリアンナが現れ、持ち前の明るさと「よかった探し」でもってみるみるうちにパレーを元の明るく優しいパレーに戻してしまい、さらにそのポリアンナが大怪我をしたことでチルトンとの仲まで元に戻してしまい、これまでの14年間が信じられないほど幸せになった。それだけではない、パレーはトムの働きを認めていて、その上で感謝までしてくれている…そうなったら不器用なトムは「自分の役割は終わったのだ」と感じるしか出来なかったのだ。
 そしてこのトムが自分の「引き際」を語ること自体が、実はチルトンに死亡フラグを立ててしまうという物語の構造になっている。チルトンと主人が結婚したことで自分の役割が終わったことを感じて「引き際」を考えるトム、嵐の中を出かけてゆくチルトン…これだけで立派な死亡フラグとなるが、このどちらかが欠けても視聴者はそうは感じなかっただろう。ここからの物語を盛り上げるという点においても、この台詞は優れているのだ。
 もうひとつ、今回の話にはトムをはじめとする使用人たちの忠実な働きぶりがこれまで以上に強調されている。特に楽しいパーティの途中でも電話のベルに気付けば応対するナンシーや、チルトンの帰りが遅すぎると嵐の中を飛び出してゆくトムとティモシー等…。
名場面 チルトンの事故 名場面度
 「ポリアンナ物語」でもっとも緊迫したシーンかも知れない。ポリアンナが車にはねられたとき以上の緊迫度だ。夜道、悪天候…あんな酷道がベルディングスビルにあったのか?なんてつまらぬツッコミをしてはならない。そしてチルトンを乗せた馬車のすぐ近くに落雷、雷を受けた木がチルトンの馬車を目がけて倒れてくる。馬車は破壊され馬も怪我をしたようだがチルトンは何とか無事だった。だが雷の音で馬が暴れ出し、その弾みでチルトンは崖下へ転落してしまう。
 何とか崖の途中で踏みとどまったチルトンだったが、足場が悪く上手く上れない。ポリアンナやパレーの姿が頭の中を過ぎる、「帰らなければ…私の愛するパレートポリアンナのところへ。待っててくれ、パレー、ポリアンナ!」と声に出すと力が湧いたようで猛然と崖に挑む。しかしチルトンが手を掛けた木の枝はあっけなく折れてしまい、チルトンの姿は崖下に消えてしまうのである。
 既に死亡フラグが立っていたチルトンに、嵐の中をついて無理しての帰宅という要素が重なってこの遭難は「だからいわんこっちゃない」と多くの視聴者が感じるであろう。このシーンはポリアンナがボストンから帰ってからの幸せをぶちこわすもので、それ相応のインパクトでもって描かれていると思う。
 ちなみにチルトンが落ちた崖の高さはある程度想像できる。木の枝が折れてからチルトンの悲鳴が消えるまでが落下時間であろう、この時間が3秒(正確には2秒と27コマ)。チルトンは特別やせているわけではないし身長もそこそこありそうなので体重を70kgとしよう、空気抵抗係数はダニーの時と同じく0.24とすると、チルトンが落下した崖の高さは42メートル、崖下到達時の落下速度は96km/hとなる。ダニーが落ちた崖よりは現実味があると思うがいかがだろう?
今回の
「よかった」
 1回、名台詞欄参照。 「よかった」の回数
感想  だからウイリスさん家を出るときに「テケミしろ」ってあれほど言ったのに。いや、マジで「だからテケミだっつーの!」ってテレビに向かって叫んでた。あ、テケミって言葉の意味はこちら(長文注意)の何処かにあるので、よく読んでおくように。え? 長いって? 「天候警戒運行見合わせ」の略で、「テンコウ」のテ、「ケイカイ」のケ、「ミアワセ」のミで「テケミ」、日常生活でも使える言葉ですよ(夕立時に「雨が上がるまでコンビニでテケミする」等)。青函連絡船に興味を持った後にこの話が放映されていたら、絶対に同じツッコミをしたと思う。
 基本的に「ポリアンナ物語」って断片的にしか覚えてなくて、ストーリーは全く記憶にないんだけど、この回のパーティシーンでみんなで「ロンドン橋」の歌を歌っていたシーンだけは何故かハッキリと覚えてた。でもその後のチルトンのピンチは全く記憶にない。いや、マジでチルトンはヤバいんでないの? だって今回のパーティ抜け出す辺りから完全に死亡フラグが立ってた、まるで京葉線の201系のように…(って鉄ヲタ以外分からないネタはやめなさい、京葉線の201系はある日突然パンタグラフが新品に変わると、決まってその車両は数日後に廃車になって解体場に送られるので、その新品パンタグラフは「死亡フラグ」と呼ばれてる)。
 話は予想外の方向に進んだ。突如訪れるチルトンの危機、切り裂かれる幸せの時。ポリアンナが治ったと思えば今度はチルトンで、名台詞欄のシーンを考えるとチルトンには確実に死亡フラグが立っているのでこれを巡る話が展開されるのだろう…ってジミーの件はどうなるんだ? もしここでチルトンが死ぬような事があれば、その関係だけで残り話数全部使っちゃいそうだぞ。確実にパレーは元のパレーに戻っちゃうだろうし、ポリアンナが必死になって支えたとしてもパレーが暗くなるとああいう性格になるから普通の生活が出来るまでに時間が掛かるだろう。ま、ジミー=ジェミーを示す伏線がたくさん提示されている上、ジミーの過去にも足を踏み込んじゃっている以上はジミーの件をこのままほったらかしということはないと思いたいけど…もしそうなったら「ポルフィの長い旅」って呼んじゃうぞ。
 チルトンはどうなるのか? トムが立ててしまった死亡フラグに従って本当に死んでしまうのか? それとも実はあれだけのピンチを見せておいてなんだかんだで助かってしまうのか? あれであっさり助かったら「馬小屋の火事」って呼んじゃうぞ! そうじゃなくて、次回に注目だ。

第43話「死なないでチルトン先生!」
名台詞 「ありがとう、ポリアンナ。私はお前に逢えて、本当に…本当によかったと思う。お前の笑顔が、お前のよかったが、私を幸せにしてくれた。ありがとう、ポリ…アンナ…」
(チルトン)
名台詞度
 瀕死の重傷で自分の死期を悟っていたチルトンは、最後の力を振り絞ってポリアンナにこの台詞を残して絶命する。その内容はポリアンナと出会えた喜びと、それによって得られた晩年の幸せに感謝するものであった。ポリアンナとの出会いは自分に前向きに生きる勇気と力を与えられ、ずっと思い続けていたが喧嘩別れしたままのパレーと結ばれる幸せをもたらし、そしてポリアンナとともにあった人生の最終章における幸せに心からの感謝の言葉であった。チルトンはポリアンナによってその人生を大きく変えられ、こうして不慮の事故という形式でも笑顔で天へと旅立つことができたのである。
 この幸せはチルトンにとっては人生史上最高で最後の「よかった」であったのだろう、だから最後に言葉を掛ける相手に最愛の妻ではなく、その妻との仲を結んでくれたポリアンナを選んだのである。そのチルトンのポリアンナに対する愛情や想いと言うものが上手に再現された最後の言葉だったと思う。
(次点)「何故でございます? 神様! 何故こんなむごい仕打ちを…。わしはこれまで、一度だってあなた様をお恨みしたことはございません。しかし今度ばかりは恨みます。何故、何故この年寄りを身代わりにお召し下さらんのです? 何故これからという旦那様を…」(トム)
…トムが泣きながらに朝日に向かってこう吠える。前話名台詞欄を見ての通り、トムはパレーとチルトンが結婚したことで自分の役割は終わったと感じていた。こうして安心していたトムに対し、神が与えた試練はかくもむごいものだった。神に対し従順で、ことあるごとにナンシーやティモシーに神を恨んではいけないと諭してきた老人も、今回ばかりは神を恨む。だがもうどうにもならないとという現実に、やはり彼も涙を流すことしか出来なかったのだ。
 今回は名台詞が多く選出に苦労した、最初のチルトンを気遣うポリアンナの台詞から最後のミンチン先生のナレーションまで。そして最後までこのふたつのどちらを名台詞にするか悩んだ。名台詞2点にしようかとも考えたが、今回はチルトンの臨終が話の柱なので、こういう結果にしてしまった。
名場面 チルトンの臨終 名場面度
 崖下に落下していたチルトンは救出され、ハリントン邸に運ばれる。パーティに参加してチルトンの帰りを待っていた全員で、チルトンの様子を見守るがチルトンは気を失ったままだった。
 やがてチルトンが意識を取り戻すが、チルトンは心配そうに声を掛けるパレーとポリアンナには頷いただけですぐにペンデルトンに声を掛ける。彼がペンデルトンに掛けた言葉は「私がいなくなったらパレーとポリアンナを頼む」というものだった、「何を言うのだ?」と言い返すペンデルトンに「私は医者だ、自分の身体がどんな状態か嫌でも思い知らされている…よくここまで持ったと思う、褒めてやりたい位だ」と力なく言う。驚きの声を上げるパレーとポリアンナ。チルトンはその場にいる全員の名を呼び、「お願いだ、みんなでパレーとポリアンナを守ってやって欲しい」と遺言のように言い残すのだ。そしてパレーには「この二ヶ月幸せだった、ありがとう」と感謝の言葉を残す。泣きながら「生きてちょうだい…」と訴えるパレーに「もう少し生きていたかった…」とチルトンは思わず本音が出る。「お願いよ、死んじゃいや!」と泣き叫ぶポリアンナに、チルトンはパーティの席でポリアンナが歌った歌を歌うように頼む。涙ながらに挿入歌を歌うポリアンナ…歌い終わると、名台詞欄となるわけだ。この台詞を言い切るとチルトンは遂に力尽きる。「おじさま!」「あなた!」「チルトン!」「チルトン先生!」皆でチルトンを呼び戻そうとするが、チルトンは涙を流したまま絶命していた。チルトンの亡骸にすがって泣くポリアンナ、チルトンの手を握ったまま泣くパレー、ペンデルトンにすがって泣くジミー、そのジミーを抱き寄せて男泣きするペンデルトン。
 このチルトン臨終のシーンにはチルトンの皆に対する愛がきっちりと描かれているだろう。この男の優しさこそが多くの人を引きつけ、あんな嵐の夜でも患者に頼られる一因でもあるのだ。そんな男の臨終にふさわしい感動的なシーンだ。またチルトンに頼まれて歌うポリアンナの姿は、この物語最高の名場面のひとつにもなっているだろう。嗚咽を挟みながら本当に泣きそうに歌う声優さんの演技力にただ脱帽だ。え〜と、堀江さんってやっぱ我々の世代だとアニソン歌手のイメージが強いけど、声優さんとしてはおぼっちまん君が一番印象に残っていたりして。
今回の
「よかった」
 2回あったが、2回目の「よかった」はそこまで暗い展開だったので唐突にポリアンナが笑顔で出てきて驚いた。今回1回目の「よかった」は名台詞欄参照と。 「よかった」の回数
感想 「死なないで父さん」(第2話)
「死なないでポリアンナ」(第26話)
「死なないでチルトン先生!」(今回)
…題して「死なないで」三部作。実際に死んじゃうのは真ん中以外、しかも死ぬキャラクターの声優が同じ。「世界名作劇場」で1作品中に二度死んだ人(正しくは二度臨終を演じた人)って他にいないんじゃないかな? この臨終シーン、名場面欄にも書いたが凄くいいシーン(アニメ的に)に仕上がっていると思う。原作を知らないからそう言えるのかも知れないけど。
 チルトン臨終関係は名台詞欄や名場面欄で書き尽くしたので置いておいて、まさか葬式にデラやエームスも来るとは思わなかったな。でそこから話がカリウとジェミーに繋がって…そっか、チルトンはカリウを本物の甥に会わせるために死んだのか! これで一つ謎が解けたわけだ、先に提示された「ジミーこそカリウの甥のジェミーである」という答えに向かってどのように話が展開してゆくのかという謎のひとつだ。それはこの先の展開にあたってはカリウがベルディングスビルへ来るか、ジミーがボストンへ行くかのどちらかが絶対不可欠になる。しかもどちらにせよ行った方はその地でしばらく留まるという展開が絶対不可欠なのだ。ジミーがボストンへ行って数週間を過ごすという展開はまず考えられない、だがカリウがベルディングスビルで同じ程度過ごすという展開も平時なら難しいだろう。そこに鉄郎とメーテルパレーとカリウが意気投合したという設定を置き、ジェミーが自分を幸せにしてくれたとポリアンナに感謝の念を抱いている設定を入れる。その上でチルトンの死を挟み込むと、カリウはパレーを気遣い、ジェミーはポリアンナを気遣って「しばらくご一緒に」と考えてもおかしくなくなってくるわけだ。確かにチルトンの死というきっかけがなかったら、ボストンのカリウとベルディングスビルのジミーをつなげる設定はまるで想像つかないな〜。
 こうしていよいよ物語は大詰めを迎えるんだな。

第44話「悲しみをのりこえて」
名台詞 「焦っちゃダメだ、ポリアンナ。よ〜く考えてごらん、僕やパレーさんが明るい気持ちを取り戻すためにどれだけ時間がかかったかを。焦って君までがメソメソしてしまったら、それこそパレーさんは立ち直れなくなってしまう。今こそ君は、君らしい元気いっぱいの明るさで頑張らなくちゃいけない。チルトンが逝ってしまった今こそ、よかったを探さなければいけない。そうすれば、僕やカリウ夫人やこの街の不幸せだった人たちが、生きていてよかったと思い始めたように、きっとパレーさんも元気を取り戻す。(中略)チルトンは天国へ行ってしまったが、パレーさんの胸の中でちゃんと生き続けているはずだからね。そしてポリアンナ、君の胸の中で生き続けているはずだ。」
(ペンデルトン)
名台詞度
 またもポリアンナが挫折を味わう。チルトンを失ったパレーのダメージは大きく、ポリアンナにはとてもじゃないが支えられない状態になってしまう。パレーの様子を見に来たというペンデルトンに泣きつき、ポリアンナはパレーと一緒に「よかった」を探せない、自分には何も出来ないと訴えるのだ。それに対するペンデルトンの回答がこれだ。
 この台詞に先立ち、ペンデルトンは自分とポリアンナとの関わりと、それによって自分がどれだけ変わったかをポリアンナに語る。そしてこの台詞でもってポリアンナは気持ちだけ先走ってしまい、焦ってしまっていると言うことを指摘した上でポリアンナがどうするべきかを諭すのだ。そう、ポリアンナに出来ることは明るく振る舞うことくらいなのだ。だがそれを続けていればパレーはいつか立ち直れる、自分の悲しみに沈んでいる場合ではなく「ポリアンナを守らなければならない」という自分の役割と天国の夫の思いを思い出すに違いないからなのだ。だがそれはそう短時間では出来ないことだろう。
 その上でパレーやポリアンナの心の中でチルトンは生き続けているというのだ。だからこそ悲しんでばかりではいけない、力強く前を向いていかねばならないのだ。チルトンは彼女たちの心の中で生き続けているだけではなく、いつもパレーやポリアンナを見守り続け、二人が悲しむことのないように天国で祈り続けているはずなのだ。それに報いなければならない、「心の中で生きている」というのはそういう意味だ。私は1月に祖母を亡くしたのだが、その葬儀の席でお経を上げてくれたお坊様がこのようなことを参列者に説いてくれた、ありがたかった。
名場面 ベルディングスビルの駅前 名場面度
 カリウとジェミーを迎えに行ったポリアンナだが、パレーが未だ部屋に閉じこもって出てこない状況であることに不安を覚える。そしてティモシーにここままではダメだからカリウのおば様には帰っていただくよう懇願する。そのバックには近付く蒸気機関車の音がBGMとして流されるが、これがポリアンナの不安と心配を見事に表現している。
 このシーンでは名台詞のようにペンデルトンに諭され、それを実行してきたポリアンナが再度挫折する様が短くも明確に描かれていると思う。ポリアンナはまた自分の非力さを思い知るとともに、いよいよカリウがやってきてどうなってしまうのだろうという心配に支配されてしまうのだ。そしていつも前向きだったポリアンナが、ついに「逃げ」の言動を取る、今までのポリアンナならともかくパレーとカリウを引き合わせてしまって結果を見るはずだが、このときのポリアンナはいつもと違う言動に出るのだ。
 ポリアンナがこう変わってしまったのは、ポリアンナ自身もチルトンを失った悲しみが癒えておらずそれが爆発してしまったこと、ただでさえ精神的に疲弊しているところでパレーを元気づけようと色々無理をしてきたこと、これらの相乗効果だろう。このここまでの中で半身不随の時に匹敵するポリアンナの絶望感、精神的疲弊を上手に描いて「普段見られないポリアンナ」をまたも我々に見せてくれたのだ。
今回の
「よかった」
 3回、しかも後半に偏っているし、うち二度はジェミーによる短期集中「よかった」だ。そりゃ明日にポリアンナに会えるという事実と、不治と思われていた足が治るというニュースを立て続けに知れば「よかった^2」になるだろう。もうひとつは名台詞を聞いたポリアンナの最終的な反応だ。 「よかった」の回数
感想  チルトンを失った事によるパレーとポリアンナの精神的疲弊をキチンと描いた回だ。ポリアンナの精神的疲弊は後半にじっくり描かれている、これを見れば今回の明るいポリアンナも一時的にでしかないことは分かるだろう。それとパレーの疲弊がすごい、このまま傷が癒えたらまた元の堅物に戻るぞ、そうでない終わらせ方をしてくれるんでしょうね?
 この回のパレーについて最良の方法は「一人にしておく」「そっとしておく」ということだ。周りで明るくやったら余計に落ち込む、この回で描写されたパレーはまさにそんな状態だろう。それを分かっていて悲しみのどん底にあった人物を「そっとしておく」という見守り方をしたのが「小公女」原作のベッキー、彼女はセーラが父を失って悲しみの底にあったときはその論理で自分からは特に声を掛けず、セーラの方から話し相手を求めてくるのを待った。それは相手に「自分が信頼されている」という判断があったからこそだろう。パレーとポリアンナもその域にたってしているはずなので、ポリアンナはそうするべきだったのだがあの年齢じゃそれは分からないだろうなぁ。
 ジミーの態度もこれまたいい。ポリアンナは気付いていない、ジミーが機嫌悪いのはジェミーという名前云々じゃなくて嫉妬しているだけだと。まぁ現在のポリアンナには冷静に判断できないと思うから…。

第45話「荒れた花園」
名台詞 「お嬢様、たとえ奥様がお会いにならなくてもお嬢様さえ喜んでお迎えなされば、カリウ夫人はきっと喜ばれます。私はそれで十分だと思います。」
(ティモシー)
名台詞度
 前回の名場面を受けて、カリウとジェミーをとてもじゃないが出迎えられないというポリアンナをティモシーが説得する。その内容はごくごく簡単な論理だ。この言葉の裏側にはカリウもジェミーもポリアンナに会いたがっているという事実が隠されており、ティモシーはポリアンナに会う事を二人が喜ぶことを的確に予測していた。だからこそパレーが面会してくれなくともポリアンナがしっかり出迎えれば十分だと感じているのだし、自身もここまで迎えの馬車にポリアンナを乗せてこれたはずなのだ。
 ティモシーもパレーのような女性と付き合い続け、それがポリアンナによって変わった事を目の当たりにしてきたのでカリウもやはりポリアンナを大事に思い、会いたくてたまらないに違いないと簡単に予測できるようになっていたのだ。そして今回、ティモシーは両親もポリアンナも落ち込んでいる中、一人で獅子奮迅の働きをすることになるのだ。…にしては扱いが小さいけど、この時点でのハリントン邸を支えているのは間違いなくティモシーだろう。そんな訳でやっと名台詞欄にも初登場。
名場面 ジミーとトム 名場面度
 朝、チルトンと一緒に事故に遭った馬を見舞おうとハリントン邸の厩にジミーがやってくる。ジミーがそこで見たものは、気を落として何も手に付かないトムの姿と、そんな父に働いてくれと説得する息子ティモシーの姿だった。ポリアンナが心配していると聞いても動こうとしないトムを見て、ジミーが声を上げてトムの説得に掛かる。だがもうパレーもポリアンナも守る力がないと肩を落とすトムに、ジミーは泣きながらチルトンが最後に言い残した言葉をトムにぶつける。しかしトムは頭を抱えて涙を流し、第43話名台詞次点欄の台詞と同じ趣旨の事をジミーとティモシーに語るのだ。自分は神の無慈悲な仕打ちを受けるために長生きしたかと思うと何もかもが空しいと。
 そんなトムの言葉にジミーは反論する。そう、トムはかつてポリアンナが二度と歩けないと聞いて自暴自棄になって「神など信じない」「なんで俺を身代わりにしなかったんだ」と叫んだジミーに、トムは神の悪口を言ってはならないこと、ポリアンナは父の教えを守り何時だって神に感謝していること、神の試練がどんなにむごくてもポリアンナはしっかりと生きていること、これらを諭したことがあったのだ。ジミーはトムに問う、あの時の言葉は嘘だったのか?と。嘘のはずはない、あの時神はポリアンナの脚をちゃんと治してくれてトムの言うとおりになったと。それなのにトムが神を恨むような発言をすればポリアンナがもっと悲しむことと、チルトンはトムが二人を守ってくれるはずだと安心しているはずであることを、ジミーはトムにすがりついて訴える。
 このジミーの言葉にトムは雷に打たれたようなショックを受けたことだろう。トムは涙を流しながら「ジミー坊ちゃまのおっしゃるとおりでございます。わしが…わしが間違っておりました。いい歳をしてジミー坊ちゃまに教えられました、わしは恥ずかしい。」と答える。トムの表情は一気に明るくなって、「さあ、仕事に掛かるか」とティモシーに言う。
 このシーンではこれまでずっと神を信じ続けたのにそれに裏切られた男が、一度失った信仰心をもう一度それを取り戻すまでが短くかつ丁寧に描かれていると思う。確かに今回の神が与えた試練はむごい、だがその試練を乗り越えることで得られるものがあるはずだというのがトムの信仰心であり、ポリアンナが歩けなくなったときにジミーに伝えたことだ。その通りポリアンナが歩けなくなったという試練を通じて、パレーとチルトンが結ばれるという幸せを得ることが出来た。しかも神はちゃんとポリアンナの脚までも元に戻したのだ。それをジミーに教えてくれたトムが、かつてのジミーと同じく自暴自棄になっているのをジミーが許せるはずはない。ちゃんとその課程をおさらいすることでトムの信仰心を呼び戻すのだ。
 このシーンでいかにもキリスト教的なパイプオルガンの演奏がBGMに使用されるのは、このシーンが二人の信仰心に根ざしたシーンであるかとを示唆するものだと私は思う。
今回の
「よかった」
 今回2回、一回はポリアンナがティモシーになだめられた結果なので数に入れるかどうか悩んだが入れた。もうひとつはカリウを見たダルギンの感想だが、その時のダルギンの台詞も男の本質を語っていて大好きだ。でもダルギンもやっぱ辛いんだな。 「よかった」の回数
感想  今回は珍しくティモシーが物語を引っ張っていた。ここまで1回を除いて目立たなかったティモシーに、こんなに存在感がある話は初めてではないかと思う。これまでハリントン邸の使用人で目立っていたキャラは1にナンシーで2にトムなのだが、今回はナンシーの出番が少なくトムも落ち込んでいて使い物にならないという状況だったから、ティモシーに出番が回ってきたって所だろう。
 しかし、999と全く同じ蒸気機関車の効果音にカリウのあの声が流れてくるんだから、画面を見なかったら「銀河鉄道999」と区別が付かないぞ。冒頭のシーンでカリウが次の停車駅がどんなところか説明し始めそうで怖かった。あの車掌が出てきて「次の停車駅は〜」とかやっても不思議がないぞ。ま、それほどまでにあの人の声は「メーテル」と我々の世代に印象づけられてしまっているし、メーテルというキャラの大きさがわかるってもんだけど。この放映の前日に始まった「こんにちはアン」でも、ナレーターの声聞いて「メーテルだ!」とテレビに向かって叫んじゃったもんなぁ。
 それと、カリウを見てデレデレするティモシーに嫉妬するナンシー最高。「わたしのアンネット」コンビの二人が同時に嫉妬シーンを演じるというのは見ていて楽しいわ。だからそろそろ若草の長女と次女といってやれってーの。

第46話「ジェミー・ケントの謎」
名台詞 「うちへ帰りましょう、パレーさん。ポリアンナのところへ。」
(カリウ)
名台詞度
 詳細は名場面欄を見て頂きたいが、この台詞はこれまでのカリウの台詞の中で一番気に入った。その前の「まるでメーテル」な台詞もいいが、この台詞は悲しみを乗り越える術を知ったパレーに、ポリアンナの元へ帰ろうと促すためにいい言葉を選んだと感心している。
名場面 カリウとパレー 名場面度
 二度目のメーテルと鉄郎の対談だ。夫を喪ったショックから立ち直れず、チルトンの診療所で夫を思い出しては泣き続けるパレーの元を唐突にカリウが訪れる。「私にはあなたの辛いお気持ち、とてもよく分かります」とし、自分も生きているという張りの無い生活をしていたとした上で、「あなたの方が何倍も辛いはず」と言い切る。パレーは力なく「とてもお話を伺う気には…」と返す。それに対しカリウは「ポリアンナがしょんぼりしていたから、つい…」と言う、そのポリアンナがしょんぼりしていたという事実に「あの子が?」と反応するパレー。パレーはポリアンナがチルトンを喪ったことだけでなく、パレーが悲しみに沈んでいるからしょんぼりしていて、無理して明るく振る舞っているという事実をそれまで知らなかったのだ。
 カリウはこの日の朝、ポリアンナとジェミーがパレーのためを思ってバラ園の手入れを自らしていた事を話す。そしてポリアンナは自分が悲しみでいっぱいの時も、常に他人のために「よかった」を探しているという事実を伝える。ポリアンナが両親もチルトンも自分を見守っているから自分は大丈夫だ語ったことも加えて。
 カリウはさらに続ける、自分とパレーが初めて会話したときのことを思い出して語る。その時にポリアンナがいなくなったときの事を考えると怖いと言ったが、その怖さに耐えきれずにジェミーを引き取ったと言う。そして子供との生活は大変だが、それが生きていると言うことなんだと力説する。
 その言葉にパレーはまた気を落とすが、カリウは続ける。「パレーさん、考えて欲しいの。もし今ポリアンナがいなかったらどんなに寂しいかを…」、対して「分かってるんです。でもどうにも自分で自分が…」と泣き出すパレー。「でも無理を承知であなたにお願いしたいの。あなたのために何とかよかったを探そうと、一生懸命なポリアンナの気持ちだけは汲んで頂きたいの。そうでないと二人とも救われないと思うから」…うっわー、完全にメーテルだ、こりゃ。「カリウさん…」カリウの説得に胸の中で何かが弾けたパレー。パレーはカリウの手を取って「ありがとう、私あなたにお目にかかれて本当によヵっと思います。嬉しいのに…私…」と泣き出す。「(名台詞欄の台詞)」…二人の女性はがっちりと友情の手を取った。
 ずっと気落ちしていたパレーがやっと悲しみを乗り越える術に気付いた瞬間である。その悲しみを乗り越える術とは、ポリアンナが悲しい中でも必死になって作っている笑顔に答えること。それに気づけなかったのはポリアンナが必死に笑顔でいるのは自分のためであると言うことと言うことに気づけなかったからだ。カリウはポリアンナによって変えられた人間として、さらにチルトンとはある意味他人で現況を外野から見られる人間の一人として、パレーにこれを上手に伝えることが出来たのだ。その根底には39話で二人が同じ過去を共有し、ポリアンナによって変えられたという共通点で意気投合した点も見逃してはならない事実であろう。
今回の
「よかった」
 5回、最後の1回は久々にポリアンナが「よかったよかった」と飛び跳ねていた。でも34話のラストで「よかった」のあまり逆立ちまでしていたか。いずれにしろパレーが悲しみを乗り越えたのはこの展開では最大の「よかった」だろう。うち1回はそのパレーの「よかった」、名場面欄参照。 「よかった」の回数
感想  さーて、いよいよ「ジミー=本物のジェミー」と謎解きする展開に入ってきてきたぞ。「歩けるようになる前に本物のジェミーが見つかったら…」と不安がるジェミーは、この展開に入る予兆だったわけだ。そして満を持してのジミーとカリウの対面、カリウはそのジミーを見ると瞬時に反応する。残り話数5話、オチというか大団円に1話を費やすとして本筋はあと4話と言ったところだろう。その間にジミーはペンデルトンの養子で、天涯孤独の身だった事がカリウの耳に入り、すったもんだの果てにジミーの正体が分かるのに2話は費やすだろう。あとはジミーとジェミーの処理をどうするかでちょうどじゃん。ま、ジミーはペンデルトンの元を離れるとは思えないし、カリウがジェミーに感情移入してしまっていて離れられない存在になっていることも今回の名場面シーンで判明している事実だ。結局本当のジェミーが誰か分かっただけであとは全て元の鞘に収まって終わると思うけど、その間の紆余曲折をどのように楽しませてくれるのかがここから先の鍵になりそうだ。。

第47話「危険な遊び」
名台詞 「うん。僕、本当は橋を造りたいんだ。橋がないために向こう岸に渡れなくて困っている人が、たくさんいると思うんだ。だから、そういうところにどんどん橋を架けたら素敵だと思って。」
(ジミー)
名台詞度
 ジミーが語る将来の夢、それはただ単になりたい職業を挙げるのではなく、そこに人のために役立ちたいという思いも込められている。幼少期に父と二人だけの旅をし、少年期には孤児院に入れられ、どこへ行っても忌み嫌われた経験があるからこそ人の役に立つという希望を持つようになったのかも知れない。はたまた父親がそういう優しい男に育てた結果なのだろう。
 「わー、ジミーそんな事考えてたの? 素晴らしいわ!」とポリアンナが返答するが、多くの視聴者もそう思ったことだろう。そしてこの台詞は、この楽しい展開の最後に起きる事件の伏線なのだ。
名場面 今回のポリアンナVSジミー 名場面度
 パレーを呼びに行って戻ってくる際、階段から落ちたポリアンナ。皆が慌てて飛び出すが特に怪我などはないようだ。皆がほっと胸をなで下ろしたところで、ジミーが声を荒げて言う。「全くおっちょこちょいなんだから。」「まぁ、何よジミーったら。そんな言い方ってないでしょ?」「気を付けなきゃダメって言ってるんだよ」「分かってるわよ、そんなこと。何も威張ることないでしょ?」「威張ってなんかないよ、心配してやってるんじゃないか!」…睨み合う二人。それを見てニコニコするパレーに、大笑いするペンデルトン。「まぁまぁ、ここで揉めることはないじゃないか。せっかくお客様もお見えなのに。」とペンデルトンが言えば、「あなたたちって仲か良すぎるのね、きっと。」とサディが付け加える。照れる二人、大笑いの一同。
 なんか「わたしのアンネット」におけるアンネットとルシエンの喧嘩していないときのやり取りを思い出したぞ。この言い合いはまさにそのノリだ。この言い合いがこの非常に楽しい1回にいい意味での彩りを添えていると思う。
今回の
「よかった」
 4回、うち1回は突如再登場のサディがよかったソロデビュー。前のはポリアンナとセットのよかっただったからね。またジェミーがポリアンナに教えられる前から「よかった探し」をしていたジミーの驚きようも印象に残った。 「よかった」の回数
感想  おい、ポリアンナ。これで落ちたらまたこのサイト名物(?)の落下距離計算のネタになるぞ(w。
 ま、今週はもう一話あるから、アップするときにはあの谷の深さが判明するかしないかがもう分かっているわけだけどさ。「危険な遊び」って言うから何かと思ったよ、ま、よい子の「世界名作劇場」だから男女二人ずつになったところで(以下略)なんてことにはならないだろうし。
 今回は楽しい話だった。ここまで「ポリアンナ物語」ではこのような楽しい話、本筋とは無関係に何度見ても面白い話が無かったと思うのだ。たとえば「南の虹のルーシー」のこの回とか、「わたしのアンネット」のこの回とか、「小公女セーラ」のこの回とか、「愛の若作物語」のこの回とか、「ポルフィの長い旅」のこの回みたいなものだ(既に他作品考察で前述した物もあるが)。今回は序盤からポリアンナ・ジミー・ジェミーの3人による夏休みの一日が描かれる回だからこういう回になるのを期待していたら、それにサディが加わって期待以上の物になったと思う。
 それにしても今まで格好良かったペンデルトンのおじさんが、単なるネタキャラになっちゃったな。今風に言えば「カリウ夫人萌え〜」ってとこか、これを書いている私もカリウ夫人のメーテル声に喜んでいるわけだが。しかし、ジミーは随分あっさりとジェミーと仲良くなったもんだ。もうちょっとジミーの嫉妬が続くと思って期待していたのにね。でもそれでこの回はとても楽しくなったからそれでよしとしよう。

前ページ「あにめの記憶」トップへ次ページ