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第41話「南フランスの家族」
名台詞 「ポルフィ、あのね。私、本当は大人になったら、ティファニーみたいな女優になりたい。私は後悔しない、あなたが教えてくれたから。」
(セシル)
名台詞度
 唐突に家を出て行くポルフィ、そのポルフィの背中を追ってきたセシルが最後にポルフィに言う台詞だ。これまで「私なんか…」と女優になる夢を端から諦めていた彼女、「私なんか」の後にどんな言葉が続くかは視聴者各自の想像に委ねられているが、私の解釈ではその貧しさと母に代わって家を守らねばならないという立場が諦めさせているのだと考える。
 そんな彼女にポルフィは「女優だってはじめは普通の女の子だろ?」と返したのだ。これで彼女は目覚めたに違いない、自分だって夢を見ることだけは許されるはずだと。
 その気持ちをティファニーの台詞をもじってポルフィに伝えるのだ。ポルフィも同じように「人生はこんなにも美しい」とティファニーの台詞の続きで返すのだ。中盤でセシルがティファニーの台詞を真似していたのが、こんな伏線になっていたとは…。
名場面 サミュエル家での食事 名場面度
 サミュエル家で厄介になっているポルフィは、食事の時間にこの一家の「現実」を目の当たりにする。ほんの僅かな具で作ったスープ、食べ盛りのセシルの弟たちにはとてもじゃないが足りない量だ。しかもおかわりはなく、その僅かな食材をもポルフィに差し出す一家。
 このシーンの前、ポルフィは大家からアパートの家賃3ヶ月分を催促されている事実と、子供達が残りの食材を探して町を歩いている事実も見ている。どう見てもサミュエルの行商だけでは一家が食べて行くには少なすぎるのだ。
 これまでポルフィは色々な家で厄介にっなてきたが、そのポルフィはこう感じたに違いない。「ここの世話になってはならない…」と。このポルフィの気持ちが映像だけで上手に再現されていると思う。
 実はポルフィが貧しい家に厄介になってこう感じるのは原作を踏襲している話だ。原作ポルフィも同じようにフランス密入国のために忍び込んだトラックの運転手に助けられてその家に厄介になるのだが、そこでジャガイモと僅かなパンだけで生活する貧しい一家の実態を見てしまうのだ。それを見たポルフィは「自動車整備や給油は子供の遊びに過ぎない」とアニメのポルフィを見ていると信じられない考えに達するようになり、自分の生活費を稼ぐために働こうと決心するのである。これはポルフィがパリの街角にあるギリシャ料理店で働くきっかけとなる。
 全話に続き、原作の展開をまた引っ張ってきたが、アニメでは原作のような意味のあるシーンにはなっていないようだ。
感想  フランス入国、先週の流れから原作に踏襲した流れになるのかと思っていたら、またオリジナルの家族が出てきて驚いた。だがその一家の貧しさと、その貧しさを見たポルフィの反応だけは原作を踏襲していて、ようやく「シミトラの孤児」が原作だと名乗っていい雰囲気になってきた、うんうん。
 物語は前3分の2と後ろ3分の1で違う物語というあまり他では例を見ない展開となっていた。サミュエルに見つかってから、貧しいセシルたちとの物語と、最後の方のマチルドが出てきてからの結婚詐欺退治や湖を渡る船での話とまっぷたつに別れてる。前回も前後半で違う物語を入れており、このところ僅か二十数分のところにいろいろと詰め込みすぎているようにも感じてきた。カウロニア編やシチリアマフィア編のようにひとつの「出会いと別れ」にもうちょっと時間をかけてもいいんじゃないかと感じ始めてきたぞ。
研究 ・またポルフィの現在位置を考える
 いよいよフランスに入って最初の物語となった。フランスに入ったらポルフィの居場所が分かるかと思ったら…序盤で字幕にただ「フランス」って、分かってるんだよそれは!とテレビ画面にツッコミを入れたくなった。我々が知りたいのはフランスの何処かという問題なんだよ。
 では今回の場所の考察をしていこう。手がかりとなるのはサミュエル家を出た後の展開だが、ポルフィの行く手に大きな湖が現れる。画面を見てみると対岸の町が出てくるシーンがあるのだが、このシーンで出てくる対岸の家のサイズと比較するとこの湖にはかなりの広さがあり、対岸まで数キロ以上はあると考えられる。
 フランス・イタリア国境付近で大きな湖というと真っ先に思い付くのはレマン湖である、ありゃ、「わたしのアンネット」の舞台にだいぶ近付いたぞ。だがフランス側からレマン湖のほとりにたどり着いて船に乗って対岸なり湖の端へ行ったとすると、スイスのジュネーブやローザンヌやモントレーに行ってしまいそうだ。本当にアンネットに出くわしてしまいそうだな。だが次回予告では「スイスに行く」という設定は出てきていないし、乗った船もそんなに大きな船でなさそうなので対岸に渡ったのでなく陸岸に沿っていたという解釈も出来る。
 結論を言えば、ポルフィが船に乗った街と降りて次回の舞台になる街のどちらかがミネラルウォーターで有名なエヴィアン(Evian-les-Bains)で、もう一方がトノン・レ・バン(Thonon-les-Bains)と考えられる。どちらもレマン湖南岸のフランス領の街であり、冬は雪に埋もれる寒さが厳しい土地である。そして「わたしのアンネット」に続きこの物語でもレマン湖が出てきたと考えられるのだ。
 ただし、これはこれまでの物語展開と画面からの推定に過ぎず、まだ間違いないと断言できるものではない。突然次回で詳細な街の名前が出てきて覆される可能性もあるのでその辺りだけは理解していただきたい。ポルフィの足取りについても現在位置が分かるまでお預けと言うことで。

第42話「奪われた愛」
名台詞 「焼きが回ったわ、昔ならドイツ兵の追跡だって振り切ったのに、こんなガキに追い詰められるなんてね。」
(マリアンヌ)
名台詞度
 娘の姿を確認して涙を流したマリアンヌは、陽動作戦を買って出たポルフィの元に追いつく。そしてポルフィを殴りながら「お前のせいで!」と突然冷たくなるのだ。ポルフィはこのマリアンヌの変貌の意味が分からず驚く。
 そしてマリアンヌが警官に取り押さえられると、マリアンヌはポルフィにとどめのこの一言を言うのだ。ポルフィはこれを聞いて驚く、一緒に逃げていたつもりが、いつの間にか自分がマリアンヌを追っていたことになっていたのだ。
 そう、これはポルフィが共犯として捕まらないようにするため、または自分の気持ちを理解して娘と逃げるという計画に付き合ってくれたお礼として、さらにこんな事件に巻き込んだ上に怪我までさせたお詫びとしてポルフィを逃がすための芝居なのだ。そして彼女は自分に賞金が掛かっていることを知っていたのだろう、ただポルフィを逃がすのでなく、ポルフィが自分を捕まえたかのように振る舞うのだ。脱獄囚で何も持たない彼女に出来るポルフィへのお礼だったのだろう。
 この台詞にも彼女の優しい気持ちが見え隠れしている。ポルフィを逃がすための白熱の演技が凄い、さすがカツオだ。。
名場面 工具を失って泣くポルフィ 名場面度
 ついにポルフィが最後の父の形見と、17話でアンゲロプロスから貰った彼の息子の形見であるリュックサックまで失ってしまう。警察署で脱獄囚逮捕の賞金を貰ったポルフィは、自動車修理工場の親父からその事実を知らされ、とにかく走る。
 だがポルフィが見つけたものは、無残にも破られたリュックサックであった。中身はカラッポ。ミーナの写真を失ったときは脱力感で言葉が出なかったが、父の形見の工具を失ったことでポルフィは「どうしてだよ〜!」と号泣する。ポルフィの号泣はパトラ以来だ。
感想  マリアンヌとその娘の話がついでだと分かったラストシーン、ポルフィが最後の父の形見を失ったことが分かるシーンはもう言葉が出なかった。せっかくマリアンヌの話がうまく行ったのに、マリアンヌが自分の身柄と引き替えにポルフィが捕まらずに済んだだけでなく、大金まで手にすることが出来たのに。
 クロードってヤツは最初からこいつは良い奴じゃないと思った、てーかそういうオーラが体中からしみ出ているキャラクターだった。同じくロードでも「わたしのアンネット」(現在考察中)のクロードとは大違いだわ。そう、「世界名作劇場」シリーズで言えば「愛の若草物語」の初期の頃のデーヴィットみたいな、なんかこう絶対にこいつは悪いことしか考えていないという空気と、更生するのに時間が掛かるという雰囲気だけで出来上がっていた。1話だけの登場だから当然更生するわけもなく、レオンのような「実は良いヤツ」という空気を感じさせないまま画面から消える。こいつはただ賞金稼ぎの話を持ちかけるだけでない男なのは容易に想像がついたが…マリアンヌとの計画を実行中にマリアンヌを発見して妨害する役なのかと思ったら、まさかポルフィの思い出そのものと商売道具を葬り去る役割を持っていたとは…。
 対してマリアンヌは「良いヤツ」って空気が発散しまくっていたからなぁ。子供を愛している奴に悪いヤツはいない。うん。でもマリアンヌが逃走中に事故ったとき、「ポルフィ死んだ」と思ったわ。
研究 ・ポルフィの現在位置確定!
 いよいよフランスに入って2話目、遂にポルフィの現在位置を確定する決定的な描写があった。実は私は前回見落としていたのだが、前回のラストシーンにエンディングに実写で出ているのと同じ景色があったという情報が某巨大掲示板などで話題になっていた。「南の虹のルーシー」の考察コーナーからリンクを貼っている「虹の牧場」様の掲示板でその場所についての解説が書き込まれていたので、今回はこの点に留意しながらの視聴となった。
 その問題の画面をエンディングから探すのでなく、また劇中シーンからいきなり出しても面白くないので、いきなりGoogleMapの写真へのリンクを貼ってみる。確かにこの景色、今回の劇中やエンディングで見覚えのある景色だろう。
 ポルフィの現在位置はフランスのアヌシー(Annecy)という街で、場所はここである。イタリア−フランス国境から西へ約40キロ、アヌシー湖のほとりに位置する水の街である。前述の写真に写っている運河の中州にある建物だが、「島の宮殿」と呼ばれていて12世紀に作られた当初は領主の居城だったという。現在は劇中でも紹介されたとおり、監獄として使用されている。この「島の宮殿」がある運河を「チウー運河」という。
 29話以降サッパリだったポルフィの足取りはだいたいこうだったと考える事が出来るだろう。32話の位置は近くに温泉街が多い街という設定からこの辺りが考えられる。38話がトリノであるというのは38話の考察で書いたとおりで競馬場を架空のものとしてみた。39話次回予告で未だトスカーナにいるとナレーションがあったのは無視する。38話で国境を視野に入れられる地域にいないと話が成立しないからだ。40話前半こそがアオスタとした理由は、ここから国境までまだ距離を残している描写があったのと、「北へ向かうとフランス」という言葉に従えば自然にこの町に来てしまうことが理由である。そして42話でやっとアヌシーにいることが断定できるわけだ。
 その距離は870キロ、東京から広島を通り越してもうちょっと先まで行けるぞ。この間を徒歩で旅したということは、1日30キロ歩いたとすれば1ヶ月近い大旅行だった事になる。「長い旅」のタイトル通りだ。

第43話「友よ」
名台詞 「私…どうして…私…今まで…どうして…今まで…」
(ミーナ)
名台詞度
 アポロのペンダントの紐が切れ、「消えちゃった…」と呟いたミーナが号泣する。ミーナが何を感じ取ったのか、それは見ている方にはよく分からない。ただ一つ思い出したのは彼女にとって最後の肉親である兄のことだろう。ミーナは唐突に兄のことを思い出して号泣したに違いない。イザベラのタオル一枚姿という熟女好き(笑)の私にとっては大サービスシーンが続いているのを気にしている場合ではない、それまで何も思い足さず、何も考えていなかったミーナが、兄を思って泣くという大転換を迎えるのである。
 そのシーンの最後に、ミーナは泣きながらこう言うのだ。今までどうして兄を思い出さなかったのか、海辺で待っているはずの兄のことを忘れて何でこんなところまで来てしまったのか、ミーナの思いはそこにあるに違いない。そしてこの瞬間から兄に会いたくてたまらなくなるに違いない。
 ミーナが兄という存在をしっかりと思い出したところで物語はようやく最終局面に入りそうだ、これでポルフィとミーナが再会する下準備が全部できただろう。あとの問題は二人の最下位までどんな展開が待っているかだけだ。
名場面 アポロの死 名場面度
 ポルフィが唐突に、これまでの旅を共にしてきた友を失う。勘違い猟師からポルフィを守ろうとしたアポロは、逆に銃弾に倒れる。そして名台詞欄のミーナのシーンを挟むと、悲しい顔で立ちすくむポルフィと、小さな墓が出てくるのだ。遠くの山々、夕焼け、重いBGM…空に舞い上がるアポロの幻影。2話からずっと出続けていた「友」の死という現実と、ポルフィの心境を無言で訴えてくるシーンだ。
 まさかアポロに死が待っているなんて視聴者の多くは考えなかっただろう、「世界名作劇場」シリーズに出てくる主人公のペットは一部の例外を除いて最後は主人公と幸せになる結末を迎えている(むろん「一部の例外」というのはパトラッシュやラスカルの事だ)。特に「旅もの」の作品ではペットは主人公を支え続け、最後に旅の目的が達せられるときにペットも一緒に喜ぶ名シーンが多い。ところがこの物語ではアポロはそのような結末はなかった、これは「母をたずねて三千里」でいえばアメデオが死ぬような展開で、ただでさえ悲惨な展開に塩を塗り込むかたちとなった。
 今回の序盤で、ポルフィがアポロに「ギリシャから一緒なのはお前だけ」みたいな発言しているが、その台詞がこの展開の伏線だったとは…正直私は、ポルフィの心の友を殺すような展開など全く予測していなかったので驚いた。最終回ラストシーンはポルフィとミーナとアポロというシーンを予測していただけでショックは大きすぎ。
感想  後半のインパクトが多すぎて前半の展開を忘れるという典型的な話。といっても前半はひたすら旅していてミーナのソックリさんを見つけるだけなんだけど。ミーナのソックリさんを出すなら、そこまでミーナがリアルタイムで列車に乗っているシーンは要らないよ。だってそれが人違いってオチが丸見えな訳じゃん、どうせなら前半丸々ミーナパートは無しで行って欲しかった。そうすりゃ視聴者は「まさか…」と思って面白くなるのに…惜しい。
 ただこの人違いでポルフィがミーナが元気であることと、ミーナを連れている女性の名が「イザベラ」と言う名でミーナを自分の子のように可愛がっていること、さらにミーナが一緒に旅をしているのはジャンゴ爺さんの一座であるという重要な情報を掴む。これって結構大事だぞ、RPGなんかで言えば最後の部屋に入る重要なヒントを得たのと同じだから。こんな重大な話をもっと重大な話のおまけに入れるかなぁ…。
 とまぁ、今回は演出に不満が残った回でもある。今回のポルフィは色々詰め込みすぎだ。アポロが死ぬならそれだけで1話じっくり使った方が良かったと思う。ポルフィが人違いしてそれで重要な情報を得るなら、それだけで1話で良いと思う。どちらも重要な話なのにこれを1話で無理矢理まとめた感があった。
 まあ、それでも今後に期待しよう。

第44話「勇気をあげる」
名台詞 「ポルフィ、シミトラ村で会ったときのこと覚えてる? あの時ね、私このままトラックが本当に壊れてしまえばいいのにって思ってたんだよ。そうすれば父さんはトラックの運転手をやめて別の仕事を探して、母さんのお墓のある故郷で父さんとずっと暮らせると思っていた。」
(アレッシア)
名台詞度
 あの時(第6話参照)、彼女はこんな事を考えていたのか。
 アレッシアはシミトラ村でポルフィに会ったあの日、パタゴス一家の楽しい日常生活に触れて自分が望んでいたものを見つけたに違いない。トラックに乗って旅ばかりの生活ではなく、ひとつの地に根を下ろして家族と共に暮らす。こんな普通の人々にとって当たり前の日常に、アレッシアは強く憧れていたのだろう。ポルフィとの再会はそんな記憶を呼び起こさせるものであったのだ。
 その時の思いは誰にも語っていなかったに違いない、そして今、どう見ても家族が引き裂かれて不幸のどん底にいるようにしか見えないポルフィを抱きしめ、アレッシアはそんな自分の思いを初めて口にしたに違いないのだ。
名場面 アレッシアがポルフィを起こそうと… 名場面度
 また羨ましいぞ、ポルフィ。しかも今度はアレッシアもかなり本気っぽいし、その上一夜を共にしてるし…。
 長い長いキスのあと、アレッシアが「スカートをはいたお姫様じゃないとダメなのかな?」と呟くのがまたまたいい。キスの長さでは「世界名作劇場」シリーズ最長では?
感想  やっとアレッシアが出てきた。オープニングにも出てくるんだから6話で一度出てきただけで終わるキャラではないとずっと思っていたのだが…正直ポルフィがイタリアから出国した時点でアレッシアの登場はもうないかとも感じたが、まさかポルフィのパリ到着を飾るキャラになるとは…。
 さらに今回の「切なさ」が何とも言えない味を出してる。無論ポルフィが眠っているうちに、彼にとって美味しいことが全て終わってしまっているのも切ないが、何よりも序盤におけるシミトラでの楽しい生活や物語を思い出すように上手く作られているのだ。そのシミトラでの出来事を振り返るときも、安易に回想シーンで6話の映像を垂れ流すのでなくてアレッシアの語りだけでそれを思い起こさせるのだから切なくなる。なんかあの時から随分遠くへ来てしまってような錯覚を感じ、そしてその楽しいシーンへもう戻れない切なさを視聴者も感じるように作ってある。そう言えばこの物語、夏の総集編以外では回想シーンってあんまなかったような気がする。だからこそ両親の死も後からじわじわっと利いてきた、今回は序盤の楽しさがじわじわっと来た。ここへ来てこういう話が来るって事は、序盤でのシミトラ村での生活をどれだけ楽しく描けるかが鍵だったわけだ。
 いよいよポルフィがパリに到着して「長い旅」は終わり、次回からパリ編となるのだろう。その最後のアレッシアとの物語は間違いなくこの物語で印象に残る1話になったと思う。もうこの物語は二度と原作を踏襲する気はないようだな。それともこれからギリシャ料理レストランが出てくるのだろうか?
研究 ・ポルフィパリ到着
 ポルフィは「長い旅」の末、ようやっとパリに到着した。42話以降についてはここで考察するが、シミトラ村を出てから約3300キロに及ぶ長い旅はやっと終わりを告げる。シミトラ村の地震発生が8月、ポルフィがイタリアに渡る船に乗ったのは画面に出てきたチケットから10月7日であることはハッキリしている。パリ到着は画面描写などから初雪の頃と思われるので12月上旬と見て間違いないだろう。つまりポルフィはギリシャを発ってから約2ヶ月間の長い旅を敢行していた事になる。
 では42話のアヌシー以来のポルフィの足取りを予測してみよう。この地図を見ていただきたい、地図中の「1」地点が42話の舞台になったアヌシー、「5」地点が今回たどり着いたパリである。この間の足取りは劇中ではハッキリしていないが、物語と反対からたどればある程度想像できるだろう。
 まずはアレッシア父娘のトラックである。ポルフィを拾ってから丸々一晩掛けてパリまで走ったと言うことは、高速道路ではない事を考慮すればパリから300〜350キロほど離れた場所でポルフィを拾ったと考えられる。平均時速50キロで6〜7時間走ったという計算だ。
 さらにトラックの目的を考えたい。トラックはワインを運ぶためにパリに向かっていたようだが、この積み荷を積み込んだ地点が問題となる。ポルフィがアヌシーにいたことは動かせないので、アレッシア父娘のトラックはこの近くの大都市で積み荷を積んでパリへ向かったと考えるべきだろう。アヌシーの近くで立ち番大きい街と言えばリヨンだ、父娘はリヨンかを夕方に出発してパリへ向かったに違いない。するとポルフィが拾われた地点は「4」地点と考えられる。ポルフィはパリへ向かっていたのだからこの街道を歩いていても何ら不自然ではない。
 するとアポロが撃たれた場所はその手前の山岳地帯だから自動的に「3」地点になり、ミーナにソックリな女の子に出会った場所は「4」地点と考えられる。
 とまぁこれが私が推測するポルフィの足取りであるが、問題は43話に出てくる景色とこの推理が合致するかどうかである。43話での風景をよく見ていると、エンディングに出てくる農耕地帯の写真と同一地点と思われる風景が出てくる。この写真の場所は特定する手がかりが全くないのだが…。

第45話「路地裏に咲く薔薇」
名台詞 「都会で生きて行くっていうのは、気を許したら騙されたり貶められたりするからね。心に鎧を着ている人が多いのよ。」
(ローズ)
名台詞度
 パリで最初の夜、ポルフィに宿を提供したローズはポルフィを連れて屋根に登り一緒に星を眺める。ポルフィが母に聞いた話から想像していたパリの街と違い、怖い人が多かったと言うとローズはこう答えるのだ。
 パリのような大都会でホイホイと人を信じるなという警告でもあり、またポルフィがパリの人々になじめない理由を語るシーンでもあり、ポルフィが最初に都会で生きて行く厳しさを知るシーンである。ここまでのポルフィは料理屋の店主にこき使われ、ミーナのことを街の人々に尋ねれば冷たくされ、僅かにポルフィがパンを買った店の店主と、働いている料理屋のアルキスが優しくしてくれただけだった。そしてこのローズにも最初に声を掛けたと時は疑われ、この人をも怖いとポルフィは感じたのだ。パリで女一人の生活を続けるローズは、そのポルフィに厳しく当たった人たちをこう解説したのだ。
 そしてローズはポルフィを「鎧どころかこころに何も着てない」と評する。だから優しくしたのだと。確かに東京でも大都会を歩いていればそんな人は珍しいだろう、多くの余所者達が自分の好きなように街を作り替えた大都会、この街では素朴さと純情さは捨てなければすぐに他の人に食われてしまう、そんな厳しさをローズは教えてくれるのだ。
 え? ローマ? もう忘れた。
名場面 出会い 名場面度
 「ポルフィの長い旅」の終盤であるパリ編、恐らくポルフィと共に物語を展開するのはローズなのだろう。今回のラストにローズとティファニーの写真が出てくるのだが、恐らくはこの二人が仲違いしていてこれを仲直りさせつつポルフィとミーナが再会するという展開が最終回直前まで続くに違いない。恐らく次回はミーナとティファニーの出会いが用意されていて、何らかのきっかけでローズとティファニーが出会うという展開なのだろう、
 そのパリ編でポルフィにとって重要な出会いはローズとの出会いである。13歳の少年と水商売(?)の女性という組み合わせは鉄郎とメーテル並みの不自然さではあるが、こういう組み合わせにでもしないと話がミーナに繋がらないのだろう。そしてこの出会いこそがミーナへ続く道なのだと終わった頃にしみしみ思い直すシーンになるに違いない。
 出会いはギリシャ料理屋で酔っぱらいに絡まれたローズに、ポルフィが素朴な行動でローズの心に訴えるという単純なものだが、この瞬間がこの物語が結末に向けて動き出す瞬間であるに違いないのだ。名場面を今後の予測だけで決めつけるなよと文句言われそうだが、今回はこれといった場面が他にないので…。
感想  クサロプーロス亭キター!!!!! 人使いの荒い主人キター!!!!! アルキスキター!!!!!…原作を知っている視聴者はまずこれだろう。原作に出てくるキャラが新キャラとして新登場したのは下手すると第1話以来かも知れない。41話登場の南フランスの家族も原作キャラかも知れないが、家族構成と名前が違うので展開は似ていても別キャラとして扱わざるを得ないだろう。これでここまでに出てきた原作キャラは、ポルフィ・ミーナ・クリストフォール・アネーク・ザイミス・クサロプーロス・アルキスという面々となったわけだ。最終回近くになったらバルビドゥー夫妻が出てくると私は予測しているのだが。
 前半は原作を踏襲した話になり、このままポルフィが人使いの荒い主人の下で苦労するシーンが描かれるだけかと思いきや、予想外の女性との出会いがあって話が転換する。どう考えてもここで話に割り込んでくるローズという女性がミーナとの再会の鍵を持っているような気がする。んでティファニーが鍵穴って訳だ。そろそろ兄妹の出会いの方向に話を持って行かないと、再会した兄妹の落ち着き先という要素に話が触れられないままになってしまう。この物語はどう考えても兄妹が再会した後、落ち着き先と新たな保護者を得て日常生活に戻らないことにはハッピーエンドにならないのだ。いや、原作と違ってバッドエンドにするなら話は別だけど。
 ローズとの出会いは名場面欄に書いたとおり。とにかく、ここから話は真っ直ぐ「ミーナとの出会い」という結論に向かうであろう。
研究 ・クサロプーロス亭
 ポルフィがパリに到着したところで、一時的ではあるが物語は原作を踏襲するようになる。パリにおけるポルフィの生活費を稼ぐ場がギリシャ料理専門店である「クサロプーロス亭」であるという点だ。前話の感想欄に書いた「それともこれからギリシャ料理レストランが出てくるのだろうか?」の正体がこれである。アニメではポルフィがこの店の料理をひっくり返し、これを弁償するため主人であるクサロプーロスに雇われるという設定を取った。
 原作ポルフィは国境越えの時に忍び込んだトラックの運転士の家で生活するが、この家の貧乏さを見ているうちに「ここで世話になってはいけない」と考えるところまでは41話の考察で説明したとおりだ。そしてその家を出たポルフィはパリの街を歩き、このギリシャ料理店の看板を見つけてまるで吸い込まれるように店に近付き、料理の臭いを嗅ぐのである。そこをアルキスに見つかるが思わずギリシャ語で言葉を返す、さらにクサロプーロスにも見つかるがポルフィがギリシャ人だと知ると何か食べさせるようにアルキスに命じたのだ。そしてポルフィの側からクサロプーロス亭で働かして欲しいと訴え出るのである。
 このクサロプーロスであるが、アニメでは根っからの悪人として描かれてしまったが、原作では最低限の義理と人情は持ち合わせている。ポルフィを雇った理由は「同郷の仲間が困っているのを見過ごせない」という理由であるし、前述したとおりポルフィに食事を用意させたのも彼だ。さらにポルフィに店の屋根裏部屋に住まわせてるのだ。だが原作クサロプーロスはとにかく人使いが荒くケチで、ポルフィが仕事を確実に終わらせるために早出したも電気代が無駄だと文句を言うのだ。だが最後にはクサロプーロス亭に嫌気がさして出て行くポルフィに残ってくれと懇願するなど、情けない退場の仕方を原作ではしている。
 対してアルキスであるが、アニメでは厳しい主人からポルフィを守る善人として描かれている。だが原作アルキスは店の外でギリシャ料理の臭いを嗅いでいたポルフィをつまみ出そうとしていた張本人である。人使いの荒い主人の下で上手く立ち回っている男という感じで、ポルフィ対しては特に優しいわけでも辛く当たるわけでもない。だが原作ポルフィが恩を感じる人間は彼の方だ。
 原作ではこのクサロプーロス亭でいくつかの事件が用意されていたが、アニメではこの店とクサロプーロスやアルキスをどのように使うつもりなのだろうか? まさか、ポルフィにとって単なる仕事場で終わるなんて事はなしにしてくれよ〜。

第46話「パリのめぐり逢い」
名台詞 「じゃあミーナ、私は戻るから。だって商売しないわけにはいかないだろ? ミーナ、花を咲かせるんだよ。そうさ、とびっきりきれいな花を。私もさ、もう一花咲かせてみせるから。」
(イザベラ)
名台詞度
 16話での初登場シーンからいつかはミーナとの別れが来ると分かりきっていたイザベラ、その別れはパリ編に入ってすぐにやって来た。ミーナを大女優に預けることを決意したイザベラは、ミーナとの別れ際にこう言うのだ。
 ひょんなことから女優になるきっかけが与えられたミーナ、彼女が掴まなければならないものは「夢」と「幸せ」であることは何よりも明白だろう。イザベラもミーナが女優になりたいという夢を持っていたことは知っていたはずだ。そんな夢に向かうチャンスが与えられたミーナに、「花を咲かせる」という言葉でもってその夢を手放さないように強く訴えるのだ。ちなみにこの台詞に至る伏線が、今回の物語で最初にジャンゴが出てきたときに彼がミーナに言った一言である。親子揃ってミーナへの思いは同じだったのだ。
名場面 別れ 名場面度
 「パリのめぐり逢い」というサブタイトルに反して私はこのミーナとイザベラの別れシーンが最も印象に残った。
 ミーナを女優にしたいと申し出た大女優ティファニーだが、イザベラはその言葉を信用せずにミーナを手放さまいとする。しかしカルロスがミーナに乱暴をしたと知ると、一転して「これ以上ミーナを自分たちと一緒にいさせてはいけない」と考えるようになったのだろう。ミーナにはあの女優のところへ行こうと言えば十分だし、ティファニーもどうしてもミーナに自分の少女時代を演じて欲しかった。様々な思惑が合致してミーナはティファニーが住む超高級マンションを訪れた。
 そこでイザベラはミーナについて全て話したのだろう、自分たちの子供ではないギリシャ人の震災孤児であること、ギリシャからイタリアに渡るフェリーで出会って拾ったこと、夫であるカルロスがミーナが一緒であることを快く思って無くてこれ以上の同行はミーナにとって危険であること、ミーナの将来を考えれば自分たちのような流れ者と一緒に旅をするより女優の道を歩んだ方が良いこと…そしてミーナが大人達の意向で大女優ティファニーの元に預けられることになったのだ。
 イザベラとミーナの別れは名台詞欄に書いたとおり。そしてマンションを出たイザベラは、最後にもう一度ミーナがいる部屋を見上げる。何も言わずただため息をつくと、ミーナとのストーリーを演じてきたイザベラはついにこの物語から退場となる。
 まぁ、イザベラがこれで終わりとは言い切れないものはあるのだが。ポルフィが何らかの形でイザベラ一座を見つけ出すという展開もあり得ない話でないからなぁ…。
感想  おい、ちょっと。児童虐待(ミーナの着衣が乱れていないから「性的虐待」ではないな)はマズイだろ? まぁ未遂で終わったけど、ミーナの正当防衛でカルロスは腕を刺されたようだがそれもやり過ぎでは? 他にあのシーンの描きようがないから仕方ないだろうけどさ。イザベラをして「ミーナをここにいさせてはならない」と思わせなきゃならないんだから。
 しかしカルロスを完全に悪役にしてしまったのは演出としてどうかと思う。てーかカルロスがミーナを恨む理由なんて本当は何処にもなく、これではただ単なる悪役でしかなくなってしまって全く救いがないのだ。「世界名作劇場」で出てくる悪役の多くは「完全な悪役」ではなく、悪く演じるのには他の役どころが与えられている都合だったり(ペティウェルやデーヴィット等)、主人公を恨む明確な理由があったり(インジャンジョー)、職務上の理由であったり(ミンチンやバロー弁護士)とそれなりに理由が持たされていたのだ。「ポルフィの長い旅」でもクサロプーロスはケチという性格もあるが、自分の店で売り上げを出さなきゃならないという悪役に徹しなければならない理由がちゃんとある。カルロスの場合はミーナには恨みはなく、自分が稼いだ生活費をミーナの食費などで奪われているという事実についても、ミーナはイザベラの助手としてそれなりに働いていたのだから言い訳にはならないだろう。つまりカルロスは根っからの悪人でしかなくなり、特に彼が最後に演じたミーナへの児童虐待は彼の印象を最悪の物にしてしまった。少なくとも、カルロスがなぜミーナが嫌いなのかを明らかにしてから退場させるべきだった(「子供嫌い」という理由だけで十分だ)。
 カルロスのその後は容易に想像が出来る。恐らくホテルに帰ったイザベラはカルロスに離婚を突きつけただろう。ジャンゴがイザベラの実父であることを考慮すれば、彼は一座からおっぽり出されたはずだ。

第47話「新しい扉」
名台詞 「気を落とすな、気長に探すんだな。焦ったって仕方がない、お前の思いはいつか必ず妹に通じるだろうさ。」
(アルキス)
名台詞度
 原作より輪を掛けて嫌なヤツに墜ちていったクサロプーロスに対し、アルキスは原作より何倍も良いヤツに書き換わってる。ここまで来るとどっちも原作を踏襲しているのは名前と役どころだけで、全く別人と考えた方が良いかもしれない。原作アルキスは特別良いヤツではなく、良い意味でも悪い意味でも「普通の人」なんだよなぁ。
 その良いヤツに書き換えられたアルキスが、妹を捜すのに焦っているポルフィに言う台詞がこれだ。この物語の主題とも言える言葉をさらっと言ってしまうこの台詞に、アニメのアルキスの人の良さや性格ってものがにじみ出ているようにも感じる。ポルフィのことを放ってはおけず、自分は何もしてやれないけど良い言葉だけは掛けてやろうというアルキスの性格がよく出ていると思うのだ。
 原作アルキスとアニメのアルキスが大きく違うと書いたが、ひとつだけ共通点があるのはあの気難しく人使いの荒い店主と仲良くやって行く術を知っている点である。アニメのクサロプーロスの描かれ方だとそういう人間でないと付き合っていけないのは確かだろう、原作では店主の性格を知り抜いていてポルフィに注意するような台詞がある。このキャラの活躍は楽しみだったが、どうやら次回で終わりらしいとは…。
名場面 ミーナVSティファニー 名場面度
 ミーナがティファニーの元に来た翌朝、朝食の席でミーナはイザベラの元に戻ると言い出す。ところがティファニーはミーナを自分の書斎へ連れて行ってイザベラからミーナにと預かった宝石を差し出す。それはイザベラが肌身離さず持ち続け、誰にも触らせはしなかったであろう大事なものだった、イザベラはそんな大事な物をミーナに渡して行き先も告げずに立ち去ってしまったことがこのシーンで分かる。
 それでもミーナはイザベラの元に戻ろうとティファニーの家を飛び出そうとするが、すぐティファニーのメイドに行く手を塞がれてしまう。そこで「イザベラさん、私を置いていくなんて…私のこと邪魔になったの? 役に立たないからもう要らないの?」と泣き崩れる。カルロスの暴言や乱暴がこの辺りに生きているなぁ…必死になだめるティファニー、「イザベラさんは本当にあなたのことを考えて、あなたのためだけを思って決めたの。旅から旅へ流れて行くより、落ち着いてお兄さんを捜した方が良いって」と。ここでミーナが立ち直るキーワードは「兄」であった。「お兄ちゃん?」と向き直るミーナ、「探しているんでしょ、お兄さんのこと」と聞き返すティファニー。「会いたい、会いたいの。でもどうやって探したらいいか分からないの」と訴えるミーナ。
 ティファニーは再度ミーナを書斎へ連れて行くと、パリの街の大きさ、それに対して映画に出ると言うことは自分のことをたくさんの人に知ってもらうことだと諭すのだ。当然ミーナが出ている映画を兄が見て、迎えに来るかも知れないとも付け加える。そしてイザベラの宝石を再度ミーナの手に包んで「お兄ちゃんが…」「考えて見て、私と一緒に映画に出ることを…イザベラさん言ってたわ、あなたと旅をして楽しかったって。あなたを愛しているって。本当の娘のように…映画はきっとイザベラさんも見てくれるわ」この言葉にミーナは涙を流す。
 このシーンではミーナの結論は出ていないが、この説得でミーナは映画に出ることを決意したに違いない。兄とイザベラに見てもらうためにである。
 それとこのシーンはミーナとティファニーのシーンであるが、イザベラのミーナに対する愛情を強く感じることが出来る。イザベラがただミーナを連れて旅してきたのでなく、本当に娘を連れているように感じてきたことが見て取れるのだ。そんなイザベラの大きな愛こそが、ミーナを前進させたようにも感じる良いシーンに仕上がったと思う。
感想  前々回はパリに落ち着いたポルフィの話、前回は同じくミーナの話、そして今回はその二人のパリでの生活が回り始めるという展開でいいだろう。ローズが不気味なほどポルフィに感情移入しているのがびっくりだが、この二人の関係もそろそろこじれる頃かと期待しながら見ていたら何も起きないしなぁ。
 対してミーナはティファニーに説得され映画への道を歩き始めることになる。ミーナはなんであんなに芝居が上手いんだ? まるで今回突然何かが取り憑いたようだ。それはともかく、原作をベースにした展開がだんだん見えてきたぞ。パリのポルフィはミーナが出る映画のポスターを町中で見つけるに違いない、そしてヒロインの少女時代という女の子を見て「ミーナに似ている…」と何度もそのポスターを見に行くに違いない。
 その前に次回予告見ているとポルフィがクサロプーロス亭を辞めるようなのだが…原作ではポルフィは「この店にギリシャなんかなかった」と自分から辞めるのだが、次回予告を見ている限りはそうでなさそう。クサロプーロスによって解雇されるようなら原作は完全に無視されていると断言できるようになるな。原作ではクサロプーロスは人が悪くても、ポルフィを働き手として期待して認めていたもんなぁ。
 ポルフィはどのようにクサロプーロス亭を辞めるのか? 原作通り自分で辞めるのか? それとも何かの理由で解雇されるのか? 解雇とすればその理由は? 原作のようにポルフィが指に怪我をするのか? またオリジナルな展開なのか? 次回が楽しみだ。

第48話「夢のかけら」
名台詞 「辛いことから逃げても、その先にはもっと辛いことが待っているだけなのよ。」
(ローズ)
名台詞度
 クサロプーロス亭を辞めてきたポルフィだが、その辞めるに至った過程でさんざん罵られ、バカにされて挙げ句はその日の給料ももらえなかった悔しさと悲しさがローズと対面したときにこみ上げてくる。そしてローズに抱きついて泣くポルフィにローズがこう言葉をかける。
 この論理は「世界名作劇場」シリーズの中で、主人公が辛いことと対峙するシーンで一貫して訴え続けて来たことでもあるような気がする。だから歴代の主人公達はどんな理不尽な出来事からも逃げずに、その状況に耐えて乗り越えて幸せを掴んだのである(若干1名除く)。結局辛いことから逃げる、または回避すると言うことは問題の先送りでしかなく、抜本的な対策にはなっていないと言うことだ。
 9年前、私が和歌山のいじめ問題に首を突っ込んだときに一貫して訴え続けていたのもこの論理だ。いじめがあったからといっていじめる側を転校させたり、教育関係者や教師に責任転嫁させてもそれは根本的な問題を先送りしただけで、いじめられる子を強くしなければならないという方法で「乗り越える」という本来取らねばならない方法を棚上げしているに過ぎないのだ。世の中そういう事例が多すぎる、原発反対運動だってエネルギー問題や環境問題という問題を先送りしている典型だし、女性専用車両なんて言うのも抜本的な痴漢対策であるモラルの向上という問題を先送りしているに過ぎないだけである。例を挙げればキリがないそのような問題に対しての警鐘のように思うのだ。
 そのような「世界名作劇場」シリーズ主人公の気持ちを、ローズというキャラクターを使ってこの物語では前面に押し出した。そんな台詞に私は感じたのだ。
名場面 ローズがポルフィを迎えに来る 名場面度
 ローズにとってNGワードであるティファニーの名を出してしまったポルフィは、ローズの家から追い出される。行く宛もなく雨のパリを彷徨ったポルフィは、一人公園のベンチに腰を掛ける。そこへ思い直したローズがやってくるのだ。この時のローズの影、続いて足、続いて顔へと画面が上がっていってゆっくりとローズの顔に至るこの一連のシーンがなんかいい雰囲気だなぁと感じた。そしてBGMもなく雨音だけの無言シーン。
 「こんなところにいたら、風邪ひくじゃない」「行くところが…ないから」最初の二人の台詞のやり取りもこれまたいい雰囲気だ。旅の少年とその少年の世話をしているに過ぎない女性の会話とは思えない怪しい雰囲気がある。帰ってシャワーを浴びて暖かい物を食べようとローズが言うとポルフィもこれを了承し、相合い傘で帰って行く。その帰り道でポルフィはローズに謝罪し、ローズもこれを水に流す。と、ここまでは大人同士だったら確実に帰宅後はあんなことやこんなことになりそうな雰囲気だ。
 その雰囲気も最後に一転する、これが「世界名作劇場」シリーズらしくていい。ローズが写真に一緒に写っている女性がティファニーであることを認めると、険しい表情になってティファニーのことを「私の夢と人生を、めちゃくちゃにした女よ」というのだ。凍り付いた表情のポルフィ、視聴者もローズとティファニーの関係があまりいいものではないと感じてはいたが、その予感が核心に変わる瞬間である。
感想  こんなならクサロプーロスもアルキスも出さない方が良かったと思う。この展開ならアニメのポルフィが「ギリシャ料理店」で働かなきゃならない物語展開上の理由が何も無いではないか。パリに入って原作の雰囲気を少しでも出すために原作のクサロプーロス亭という設定を使ったのだろうか、ハッキリ言って原作ポルフィがクサロプーロス亭で働いたエピソードの中の良いところばかりバッサリと削ってしまったと感じた。
 まず原作のクサロプーロスは確かに良い人ではなかったが、ポルフィを労働者として認めていたというアニメとの最大の違いがある。確かに原作クサロプーロスもポルフィに辛く当たるが、ポルフィに対し店の売り上げを盗んだという言いがかりをつけたりしないのはもちろん、ポルフィが辞めると言い出せば「私にはお前が必要だ」として留まるように懇願し、ポルフィを必要以上に叱って殴ったことを詫びるのだ。その原作ポルフィが辞めるきっかけになった事件は、ポルフィの5分の遅刻が原因でそれに腹を立てたクサロプーロスがポルフィを殴ったことであった。ちなみに原作アルキスの説明によると、クサロプーロスは店が流行らないのでイライラするようになったとのことである。
 そしてポルフィがクサロプーロス亭を辞めて店を出るときの思いである。原作ポルフィはギリシャ料理店と書かれた看板を見て「ここにはギリシャなんかなかった」と感じているのだ。原作ポルフィはギリシャ料理の臭いに釣られてこの店にやってきた、つまりこの店の中に出てくる料理や、それを作る人々から自分の故郷を感じ取ろうとしていたのだろう。ところがクサロプーロスのあまりの言動に自分の胸の中にある故郷…つまり優しい両親や楽しかった日々を感じ取ることが出来なかったのだ。このように原作ではポルフィがパリで働いた店がギリシャ料理店であるという設定に、故郷を思う彼の心とそれを裏切られた思いを描くという意味があるのである。
 そのような点をバッサリとカットしたのだから、アニメ「ポルフィの長い旅」ではパリでのポルフィがギリシャ料理店で働くという設定にする理由が無くなってしまったのである。あんなあっさりと辞める日が来るなら、別にギリシャ料理店で無くともいいのだ。私が45話の研究欄で危惧したことが現実になってしまった。もうちょっと話数があれば、クサロプーロスと対峙するポルフィがキチンと描けたのだろうけどなぁ。
 あと4話、次回か次々回辺りで兄妹が再会できないことには、二人がハッピーエンドで終わるために必要な「落ち着き先」の話が展開できなくなる。原作で最終的に兄妹を引き取ることになるバルビドゥー夫妻は出てこないのか? そうなったらもはやこの物語は「シミトラの孤児」を原作にしているとは呼べない物になってしまいそうだが…。

第49話「ランデブー」
名台詞 「私、これからどうしていいか分からない。お兄ちゃんが何処にいるかも分からないし、ティファニーさんにいつまでもよくしてもらうわけにはいかないし。お父さんやお母さんが生きていた頃は言われるとおりにしていればよかった、そうすればいつも安心だったの。だけど今は違う…どうしよう、私…」
(ミーナ)
名台詞度
 長い旅を通じて成長したミーナを垣間見ることが出来る台詞だ。ここまでのミーナは自分での生活というものを考えたことが無かったのであろう、現にパリにいること自体がイザベラという保護者の言うがままに着いてきただけだ。だがこれからはそうは行かないとミーナは確信したのだ。そのようにミーナを目覚めさせたのは、女優という仕事を経験したからに違いない。決められたように働いてそれで一定の収入があったのだろう(そのような描写はないが)、その事実がミーナに自立と言うことを考えさせ、また現時点での問題点である兄の居所という点に思いを至らせるのである。
 無論これは11〜12歳と思われるミーナが真剣に考えるにはまだ早い事だろう。だが突然の災害、それに伴う旅行、そしてここで体験した仕事というものがミーナにこのような現実を突きつけ、それに対峙せねばならないところへ追い込んだのである。ミーナの行く手も決して安泰ではないのだ。
 この台詞に対するナタリーの台詞もこれまたいい。ナタリーはミーナを抱きしめて全ては定めだと訴えるのだ。その定めに従っていれば道は開けると。無論現在のミーナがティファニーの元を離れて一人きりになってやっていける訳もないのでこのように答えるしかなかったという部分はあるだろう、しかし「わたしのアンネット」ではないが定めに従っていれば神がいいように導いてくれるという意味の励ましもあるのだ。この論理も「世界名作劇場」シリーズでは多く出てきたような気がするなぁ。
名場面 ミーナ発見 名場面度
 ついにポルフィはミーナをみつける。ローズ(25)の飼い猫であるノエルを追って走ってきた街角に貼ってあった映画のポスター、ここに間違いなくミーナの姿があったのだ。
 「まさか…そんな……………ミーナ?」と口にしながら信じられないものを見たというポルフィの表情、唇の震え、そしてアップテンポなBGMがさらに緊張を高める緊迫感のあるシーンとして、ポルフィのミーナ発見を盛り上げている。いよいよポルフィがミーナの行方を確かな形で掴んで、話は再会へ向けて一直線だろう。
 しかしこの発見が「猫を追って」という結果にした理由がいまいち分からない。どっちにしろ買い物に出る予定だったんだからそこでこのポスターを見つけても問題はないと思うんだが…余計な事に時間を割きすぎたからこのような形にされたんだろうなぁ。でもミーナを見つけたポルフィの描写と、声優さんの名演は短いながらも名場面と呼ぶに相応しいと思う。
感想  いよいよポルフィがミーナを発見。次はローズがティファニーに電話をかけて兄妹が再開、同時に兄妹の活躍でローズとティファニーが和解をするという展開だろう。うんうん、そうに違いないと思って次回予告を見と瞬間、テレビに向かって「そんな事やってる場合じゃないだろー」と怒鳴ってしまった。
 だって残り後3話よ。再会に1話を費やすとして、残り2話でポルフィをハッピーエンドに持って行くにはもう話数的にもギリギリだと思う。私は49話でポルフィがミーナを発見し、50話で兄妹が再開、残り2話でティファニーの仲介で二人を引き取り手が現れてポルフィはガソリンスタンドの店員、ミーナはそのまま女優になってハッピーエンドって予想をしていた。いや、もうハッピーエンドが絶対条件ならそういう展開しかないと断言しても良いだろう。
 何度も言うが、このような展開になってしまった以上、ハッピーエンドの定義は「兄妹が良い人に引き取られて普通の生活に入れることが約束される」ことと、「兄妹の夢が叶う」という事であろう。それに「帰郷」がつけば言うことはない。
 前者については兄妹の幸せは災害によって壊されたのだから、二人には返る場所がないのだ。ハッピーエンドとして話を完成させるためには二人が帰る場所を作ってやる必要があり、両親の代理となるべく人物の登場は欠かせないだろう。ティファニーがその役を取ったにしても結局は金持ちが有り余る金で二人の面倒を見るだけであって家とはなり得ない。セーラのように元が裕福であれば「元の鞘に収まる」という意味でこのような展開もありなのだが、兄妹はギリシャの寒村の生まれだから人知れずささやかな幸せを与えてやるのが人情ってもんだろう。
 後者については、序盤の二人が災害に巻き込まれる段階の前であんなに大々的に二人の夢を取り上げたからである。これは視聴者が勝手に「ラストへ向けての伏線」と解釈してしまうものなのだ。だから視聴者の多くはこの二人の夢が叶うことをハッピーエンドの前提にしているのであって、「兄妹が再会できました、よかったですねー」で済まされるわけはないのである。現在はミーナの夢は叶ってしまった、だから今度はポルフィがどのようにしてガソリンスタンドの店員という夢を叶えるのか?という点が「再会」という要素以外で最大の視聴者の関心事になっているのだ。ポルフィがガソリンスタンドで働くか、父の意志を継いで自動車整備工になるかという展開はハッピーエンドのために必須条件で、この主人公の「夢」が成就しない限りはハッピーエンドではないのである。ここからポルフィの夢が叶う展開へ行くためには、どう考えても話数が足りず、無理矢理押し込んでやっと物語が成立する程度の物だろう。
 いや、この物語のタイトルが「ミーナの長い旅」で、主役はあくまでもミーナと言い張るのなら「二人が再会しました、ミーナは女優になりました、めでたしめでたし」という展開でも良いのだが、するとここまでミーナを追って旅してきたポルフィはいったい何だったのか?という問題になるだろう。シミトラからパリまでの旅はミーナ中心に描かれたのでなく、ポルフィを中心に描かれてきた。だから今更「主役はミーナでした」と言い出されても誰も納得しない。
 次回予告を見ている限り、次話に話がガソリンスタンドへ向かうどんでん返しがあるとは思えない。あ、そういえば「世界名作劇場」シリーズは12月になると次回作品の予告が入るようになるんだ。それが今回無かったって事は、もう1年「ポルフィの長い旅」をやるんだ。なぁ〜んだ、そんなことか(ありえねー)。

第50話「うそ」
名台詞 「違うんです。私、分かったんです。お兄ちゃんのことはいつも考えています。今すぐにでも会いたい。でもこうして映画に出してもらえて、ティファニーさんのそばに置いてもらえて、本当に感謝してます。(中略)だけど映画に出られるって本当に凄いことなんだって、映画を見て感動してくれる人がいて、わざわざ手紙をくれる人がいる。それって凄く幸せなことなんだって分かったんです。ある人が、教えてくれたから。」
(ミーナ)
名台詞度
 ここまでのミーナで最強の台詞かも知れない。兄のことで頭が一杯でファンレターに対し、素直に喜ばないミーナを見たナタリーはミーナに対して失望する。まぁこれはミーナを成長させるための演技だった可能性もあるのだが…それでミーナとナタリーの仲が険悪になり、それを通じてミーナは「ファン」という存在の有り難さ、映画に出られる幸せをしみじみと再確認したのだろう。それで今度はナタリーと仲直りしたいことで頭が一杯になり、演技の練習が未が入らなくなったところをティファニーに見抜かれところで、この台詞を吐くのだ。そしてこの台詞の途中でナタリーが茶を持って部屋に入ってくる。
 この台詞はナタリーによって気付かされた自分の幸せというものを再認識し、その思いをティファニーとナタリーにぶつけるのに考えられた台詞だろう。本来ならば占い師や詐欺師とあてのない旅をするか何処かで野垂れ死ぬしか無かったはずの自分が、それとは全く違う世界にいて多くの人に見てもらい愛されるという幸せ。それは自分が家族と共にいたときに見ていた夢の実現でもあるのだ。こんな運命そのものにミーナは感謝しているに違いない。
 そして何よりもこの台詞はナタリーに聞いてもらいたかったのだろう。自分がどれだけ幸せなのかということを教えてくれた張本人に。こうして二人の絆はより強固になって行くのだ。
 これを聞いたナタリーは微笑み、ティファニーの「うふふふふっ、ミーナ。いつの間にかとってもいいお友達を見つけたようね」の台詞に顔を赤くして照れる。ナタリーにとってティファニーは主人と言うだけではなく憧れの人だったとも受け取れるシーンだ。そしてティファニーとミーナの演技の練習もまた力が入って行くのである。
名場面 ローズの嘘 名場面度
 ローズ(25)は知人のメーク係に映画に出ていた少女のことを聞き、その少女が間違いなくミーナであると言う事実をポルフィより先に知る。それを聞いた帰り道、早く結果を知りたくて迎えに来たポルフィに「あれはミーナではなかった」と嘘を告げるのだ。
 私の注目どころはローズが何故嘘を言ったかでも、ローズの心境でもない。そう告げられたときのポルフィの変化である。それまでポルフィは映画に出ていたのがミーナだという絶対の自信があった、そのローズの言葉が「信じられなかった」のではなく「信じなかった」のだ。既にポルフィはローズのその時の言葉が嘘であることを潜在的に見抜いていたに違いない、その証拠にポルフィの第一声は「そんなはずはない」であるし、ローズが一緒に捜しに行こうというのを振り切って一人で走り出してしまう。これまでパリでの生活にはローズの存在は絶対であったはずのポルフィが、なんとローズを拒否しているのである。さらにポルフィはあの映画を上映している映画館に再度足を運んでいるし、次回予告では再登場のザイミスにその映画の話をするに違いないのだ。これはポルフィがローズの嘘を見抜いていると見るべきだと私は思う。
 ポルフィがどうしてローズの嘘を見抜いたか、これはもう皆さんおわかりですね。ポルフィはミーナの額の傷の話をローズにしていないのだ。ローズの口からその額の傷の事が出てきたと言うことこそ、映画に出ていた少女がミーナであると証明してしまっているのだ。ポルフィがこれに気付いているのは意識の上でなのか、潜在的に気付いていて自覚がないのかはまだ分からない。その辺りは次回の展開を待つことになろう。
感想  ありえねー。

第51話「願い」
名台詞 「何言ってんだよ? あれはミーナだよ!」
(ザイミス)
名台詞度
 ローズ(25)の虚偽報告により一時は止まりかけた(てーかもう止まっている場合じゃないけど)物語がまた転がり出す、その台詞が予想外の再登場となったザイミスの口から出たこれだ。ポルフィは心の中にそんな筈はないという思いを抱きながらローズの言った言葉を信じていたし、潜在的な部分ではローズの嘘を見抜いているはずだ。だがさんざん世話になったローズを表立って疑うことは出来ず、ローズが映画に出ていたのはミーナでないと報告したところで物語は止まるかに見えた。
 しかしこのいいタイミングで再登場したのがザイミスである。再会を果たしたポルフィにミーナのことを聞き、手がかりがあったと聞かされたザイミスは映画のポスターを見て、さらにポルフィと一緒にその映画を見る。ローズの一言で絶対の自信を失いつつもやはり「見れば見るほどミーナに見える」と言うポルフィを前にして、ザイミスはこの台詞で映画に出ていたのはミーナだと言い切ったのだ。
 興味深いのはこの台詞を聞いたポルフィの反応で、「お前もそう思うか?」と聞き返しているのである。ポルフィはローズにああいわれたとは言え、やはりあの映画に出ていたのはミーナだという確信は消えていなかったのだ。しかしザイミスがミーナを違うと言ったローズが変だと批判すると、ポルフィは必死にローズの弁護に回る。映画に出ていたミーナに対する絶対の自信と、ローズに対する感謝の気持ちの板挟みに合っているポルフィの心境が実にうまく表現されるシーンだが、そのポルフィの気持ちを引き出される第一声としてこの台詞は印象に残った。
名場面 ミーナのクリスマス 名場面度
 ティファニー邸のクリスマスツリーが完成し、そのすばらしさに見とれているミーナとナタリーにティファニーはクリスマスプレゼントをと切り出す。その言葉に素早く反応したナタリーは、メイドのくせにミーナを差し置いて手袋が欲しいとティファニーにねだる(ここまでのナタリーが暴走癖のある性格に描かれていたのでこのナタリーの対応も自然に見えるのがいい)。そしてミーナは「欲しい物はありません」とクリスマスプレゼントを辞退するのだ、「ただお兄ちゃんに会いたいだけ」という泣かせる台詞を吐いてくれる。
 ここでティファニーがミーナの手に何かが握られているのに気がつく、それはミーナの誕生日プレゼントにポルフィが作ったアポロのペンダントだ。そしてミーナーは誕生日のこと、村でのクリスマスのこと…そしてその思い出には必ず家族の姿があったことを語る。懐かしいクリスマスのクッキー、それを待ちきれずに冷める前に手を出した兄のことを語るときは僅かに笑い声も出るが、その思い出を語るうちにミーナは涙を流し、ティファニーに泣き付いて号泣する。その姿は今は唯一の肉親となった兄への思いでもあるだろう。
 そのシーンに呼応するようにパリの街には雪が降り始める、そっとミーナを慰めるティファニーの言葉と、BGMのない静かな無言シーンがミーナの悲しみを強烈に視聴者に印象付ける。
 またクリスマスプレゼントに関しては、ポルフィもローズに聞かれた時にミーナと同じ反応をしている。今の二人は再会が果たせれば他に何も要らないのだ。今回のサブタイトル「願い」という点を含めて、この回で最も訴えたい部分は二人が再会の日を強く待ち望んでいる事を示すこれらのシーンでの二人の思いだろう。
感想  ホントにこれ、次で終われるの?
 本当に次で終わるのならばもう断言してもいいだろう、この物語にハッピーエンドはないと。口を酸っぱくして言うが、この物語はポルフィとミーナが再会しただけではハッピーエンドにはならないからだ。厳密に言うと「ポルフィにハッピーエンドはない」と言うのが正しいが、主人公ポルフィがハッピーエンドにならないなら物語そのものがハッピーエンドにならないのと同じである。
 次回予告を見て予感が確信に変わり、正直言って幻滅した。もちろん物語が終わるための要素としてポルフィとミーナの再会は不可欠で、これについての展開は楽しみなのでここで視聴をやめるつもりは無いが、物語の展開や脚本と言った点での評価を落とさざるを得ない。ま、私の評価が落ちたからと言って大勢に影響はないが…どのような評価を下すかは最終的に総評としてまとめる予定である。
 無論来週見てみた結果、実は次回で終わりでなくもうしばらく続くというのならば上述の意見は撤回するが。

 前回からザイミスが再登場、ここでの再登場は予想外だったがこれは悪くないと私は思う。名台詞欄で言ったとおり、ローズの嘘によって停滞しかかった物語をまた動かすことが出来るのはザイミスだけだろう。ハッキリ言って原作のザイミスはチョイ役でしか無かったのだが、アニメ化に於いてザイミスの存在そのものが大きく膨らまされた。設定は兄妹の幼なじみで大地震の前から仲良しで(原作ではポルフィとザイミスは避難所で知り合う)、旅の途中でも「手紙」を通じて連絡し合い(これは原作踏襲だが)、手紙の結果として終盤でパリに現れて一緒にミーナ探しをするという設定で強く印象に残るキャラになっただろう。原作のザイミスなんて本当に印象に残らないもんね。
 どうでも良いがローズがポルフィ相手に本気になっちゃってる。今回のラストシーンの後は、どう考えてもあんなことやこんなことになるしかないぞ。「世界名作劇場」のようなアニメをそう言う目線で見る気のない私でも、48話と今回はそう考えてしまうよ…。

第52話「この瞬間のために」
名台詞 「僕だって、地震が起きなかったらどんなに良かっただろうと思う。でもさ、僕ら生きてるだろ? ザイミスも、僕も、ミーナも。ギリシャを出てから辛いこともいっぱいあったけれど、楽しいこともあった。だって飛行機に乗ったんだぞ、凄いだろ? だからさ、上手く言えないけど、そういうのって生きてるから出来るんだと思う。生きてればきっとミーナにも逢える。」
(ポルフィ)
名台詞度
 「地震が無かったらどんなによかっただろう」と言うザイミスに「地震は無かったことには出来ない」とした上でポルフィが言った言葉だ。飛行機に乗れたことを自慢しているのはちょっとと思われるかも知れないが、この台詞は逆説的に解釈しなければならない。つまりポルフィは「死んだら何もかもおしまい」といいたいのであって、死んでしまったら飛行機に乗る体験すら出来なかったとしたかったはずだ。
 ポルフィが長い旅を通じて得たことは、「運命を受け入れること」「信じること」のふたつである。前者は地震で多くのものを失ってしまったことや、妹と別れて旅しているという事実を受け入れた事にあるだろう。この事実を受け入れないことにはその困難な状況に打ち勝つことも出来ないし、何よりも前進できないとポルフィはこの旅で知ったのである。旅の途中で何があっても常に前を見て前進し続けたのはこんな教訓を得たからなのだ。
 後者は前進するためにはそのゴールを信じることが必要であること、そしてそれをまだ信じているという事実である。
 それらの教訓をポルフィはこの台詞で統括したのだ。そしてザイミスの返答は「強くなったな」だ。当たり前だ、経験が違う。
名場面 再会 名場面度
 ティファニーが兄妹の再会に相応しい場所として選んだ場所、そこは劇場であった。劇場に着くと客席の通路をステージに向かって歩いて行くポルフィ、いよいよ妹に再会できると思うとこれまでの旅での出来事が走馬燈のように蘇ってきた。ここでポルフィは心の中でアンゲロプロスから順に旅先で出会った人々の名を呟くのだ。アレッシアの名が出たところでスポットライトの明かりがポルフィを照らす、その後に出てきた最後の名前はアポロだった。
 そして今まで閉じていた緞帳が静かに上がる、緞帳の向こうの少女の姿から足から順に見えてくる。「みんなのおかげで僕はここまで来られたんだ」…ステージの上の妹の顔が見えると、ポルフィは妹の名を呼ぶ。妹も表情が震える。見つめ合う兄妹、「もう一度逢えるって信じてた」「私も信じてた、必ず見つけてくれるって」「ミーナ!」「お兄ちゃん!」…ミーナの声は絶叫だ。そしてミーナは助走も無しに人間業とは思えないハイジャンプで兄に抱きつく、二人に優しい光がそっと降り注ぐ、そしてそのまま物語は終わりを迎え、最終回特製のエンディングで二人が抱き合って涙を流すシーンへと繋がる。
 大地震という災害をきっかけに生き別れた兄妹の再会はこのように描かれた。物語がどう進もうとこの兄妹の再会がどのように描かれるかは視聴者の注目の的であったはずだ、だから物語の批判を続けている人もこのシーン見たさに最終回まで見続けたに違いない。物語自体は原作との比較で考えるとポルフィの夢は叶っておらず、兄妹の引き取り手も決まっていないので残念ながら原作のようにうまくまとまったとは言い難いが、この再会シーンだけは原作のそれを大きく上回る感動シーンとなった。原作では海外まで漂流したミーナを連れた来た船の上での再会だし、ミーナを求めて旅に出たポルフィの思いがこみ上げる描写もなかったからね。劇場でステージと客席で兄妹が向き合うというシーンに仕上げたことは、個別シーンとして非常に印象深いシーンとして出来上がっただろう。
感想  正直言ってもう1話残っていると感じた。ポルフィとミーナが再会して抱き合ったところで、いつも通りダ・カーポの歌が流れてその後何も無かったかのように次回予告が入ってもおかしくない終わり方だった。正直言って尻切れで終わって気味が悪い。フルコース料理でメインを全部食べ終わったのにデザートが出てこないみたいな気分だ。
 たとえて言えば、「小公女セーラ」がクリスフォードがセーラを見つけたところで終わるとか、「宇宙戦艦ヤマト」がイスカンダルでコスモクリーナーを受け取ったところで終わるとか、そういう終わり方をしていたらこの最終回と同じ気分になっただろう。それととても「名作」とは言えない内容のもので終わってしまったはずだ。何が言いたいかというと「オチ」が着いてないのだ、それこそがここで何度も訴えていた「ポルフィとミーナの幸せ」である。孤児の二人がどのようにして安定的な生活を得て、元の鞘に戻るかという部分だ。その過程がこの物語で言いたかったことを明示してこそ物語はキチンと終われるのである。
 その好例は当サイトで取り上げた中では「愛の若草物語」と「わたしのアンネット」であろう。前者はジョオの旅立ちという展開を追加して一家の幸せとローリー等との友情が安定して幸せが続くことを示唆しているし、後者では卒業式という展開を追加して「変わらぬ友情」というテーマを前面に押し出して終わる。これに該当する展開が「ポルフィの長い旅」にはなかったのである。
 無論物語の終わりまでに全ての伏線の回収が終わっていて、かつテーマを前面に押し出している展開があったならば話は別だ。だが「ポルフィの長い旅」では主人公ポルフィの夢という伏線を序盤であれだけ大々的に広げてしまったのである。これが回収されないまま物語が終わった点については不満が残る。それだけじゃない、アネークの生い立ちについての伏線も回収されていないし、終盤ではティファニーとローズの不仲の理由も明かされないままになっている。つまり「食べかけ」でほったらかしにされた設定が多すぎるのだ。
 さらに原作を読んだ人間にとってはこの終わり方は納得のいかない物であろう。原作ではポルフィとミーナが再会する前にバルビドゥー夫妻というポルフィを引き取る人物が描かれ、ミーナとの再開後に二人を引き取ることを確約している。さらに再会の後、ポルフィが立派なガソリンスタンド店員になって給油作業に勤しみ、ミーナがそれを見て微笑むというこれからの二人の幸せが約束されているような終わり方をする。この原作のラストを知っている人間から見れば、このように再開後の兄妹の幸せがキッチリ描かれていないという点で不満を感じることであろう。
 この終わり方で二人のこれからをどう想像しろというのだ? この終わり方からじゃミーナはまた女優の仕事を続けるためにティファニーの元に住み込み、ポルフィはローズのアパートでの生活を続けるとしか思いつかない。いずれにしても兄妹がまた別れるしかない展開しか想像できない。また某巨大掲示板で言われたとおり、これじゃポルフィが終わる事よりも次番組予告のアンの方が印象に残ってしまう。「こんにちはアン」の予告の声、まんまイラーリアさんだし。
 名場面欄に記したとおり、兄妹の再開シーンを単体で見れば非常に感動するシーンなのは否定しない、最終回の他のシーンも悪くはないと思う、つまり各々のシーンは非常に良くできている。ただこの物語はあれで終わってはいけない、特にパリ編に入ってからなのだが各々のシーンのつくりは良くてもその繋がりが上手く行ってないように感じる。最後の展開は各々のシーンの作りにだけ目が行きすぎて、全体としての構成に目が行かなかったのではないかと考えられる。
 だがもしも、51話までの物語が出来ている時点で最終回を1話で仕上げるように私に脚本しろと言われたら、やっぱこうするしかなかったと思う。意表を突く展開としてはザイミスがナタリーに一言「ギリシャから来ました」「あなたミーナのお兄さん?」「ミーナを知ってるの?」みたいな展開になったら面白かったかも知れないけど、それじゃ今度は前話が丸々無駄になるか。
 最後に不満はあったけど、なんとか1年間終わった。このコーナーも1年間続いた! 一緒に一年間視聴を続けた皆さんお疲れ様でした。制作者やスタッフの皆さんもお疲れさんでした。終了〜パチパチバチ(拍手)。

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