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第1話「ミンチン女学院」
名台詞 「ところでピーター君、ミンチン先生の心配されている事は当たり前の事なんだ、それは分かるだろう?」
(ラルフ)
名台詞度
★★★
 この物語に限らず、「世界名作劇場」では登場人物である子供が大人の理論にぶち当たって困窮するシーンが多数あるが、「小公女セーラ」でも一話目からこれが炸裂する。ラルフがピーターを御者にしたいという娘の希望を叶えるに当たってまず大人の論理を強調するこの言葉は、本放送当時妙に心に刺さった。「こいつに御者をさせて本当に大丈夫かいな?」という疑問とともに。結局はラルフはピーターを信頼するのだが、それにあたってこの大人の論理をピーターが理解していることをラルフは立場的に確認することが必要だった。こんな大人と子供の真剣勝負は現在のアニメや漫画ではなかなか見られない。それよりピーター初登場キター!
名場面 前半終了直前からCMを挟んで後半にかけてのセーラとミンチンの初対面シーン 名場面度
★★★★
 ミンチンが出てきてセーラの表情が複雑に変化する、セーラが何か不安な予感をこの時に既に感じ取っているのが分かり、かつミンチンの凍ったような表情を一気に描き出していてこの物語の先行きを予想させるには十分なシーンだ。原作でもほぼ同様の描写がされているが、なぜセーラがミンチンを気に入らなかったのかハッキリと父に語っており(アニメでは3話でジェシーやラビニアがそれを言うことになるが)、またミンチンの持ち物によってこの院長の薄っぺらさを示すさらに重要なシーンとなっている。
 この伏線はセーラが落ちぶれる瞬間に生きてくる。
(次点)セーラが窓に息を吹きかけ、曇ったガラスに自分の名を書く場面。
…セーラの不安な表情がたまらない。
今回の
アーメンガード
彼女の初登場。セーラが授業中に教室を見学しに来た時に出てくる。このシーンを初めて見たときは、この子は教室の「その他大勢」のうちの一人でしかない思ったものだが…。
アーメンガー度
★★
感想  第一回目を見ての昔も今も変わらぬ感想は「セーラ幼すぎ」って事だろう。設定も見た目も10歳前後なのにそりゃないだろーに…って思うが、原作を読んだ後だと元々このシーンはセーラが7歳で描かれていると知って納得。
 本放送当時、「小公女」という物語について「主人公の女の子が学校の先生に虐められる」程度の知識しかなかったので、出てきた主人公があまりにも裕福なので驚いた。「世界名作劇場」シリーズの中でもこれだけ裕福な主人公は前例が無かっただろう。金持ちってだけで持ち上げられるセーラを見て、「ああ、ここで起きていること全てがミンチンの憎しみに変わる瞬間が来るんだね」と納得した記憶がある。でも「父親が財産を全て無くして死ぬ」というストーリー展開は知らなかったから当時は面白かった。
研究 ・物語の始まり
 すべてが霧のロンドンで始まるのは原作同様、しかし次のシーンでいきなりミンチン学院になり、脇役に過ぎないバロー弁護士の第一声から物語が動き出すのは驚きである。バロー弁護士なんて後半になると出てこないし、原作にいたってはラルフが死んだときしか出てこないどーでもいいキャラなんだぞ。原作も小説版もセーラの仕草から始まるというのに。
 小説版ではこの第1話のエピソードはすべて割愛されている。原作とアニメで冒頭を飾る霧のロンドンの描写もない。このアニメ「小公女セーラ」を知っている人間にとっちゃいきなり何かが物足りないまま足早に物語が始まる。でもそれを言っちゃ、アニメ完結版なんて物語の始まり自体がずっと先だからなぁ…。

第2話「エミリー人形」
名台詞 「呆れた方だ、金額で言ってるんじゃないのがわからんとみえますな、売る気はありません、お帰り頂きましょう。」
(洋服屋店主)
名台詞度
★★
 本当にエミリーはセーラの手に渡るの? だってオープニングでもセーラに抱かれているじゃないか。と思わずにはいられない「人形の持ち主の論理」が見る者の胸に突き刺さる。でも一連のシーンを最後まで見ていると分かるけど、ここでエミリーを出し渋ったためにこのオヤジはラルフを本来業務である服を売る顧客に変えてしまう。優しくて頑固で商売上手、このオヤジの性格はこの一言に結集されているだろう。
(次点)「私もセーラに言うことはもう全部話してしまったような気がする。」(ラルフ)
…この言葉の深さ、娘ができて父親になると身にしみますぞ。
名場面 「いけないわ、箱に入れたらエミリーの息が詰まってしまうわ」とセーラが言った瞬間、洋服屋の店主に抱かれたエミリーが笑顔になる 名場面度
★★★
 第二話、エミリーとの出会い全部を名場面にしてしまうとありきたりのような気がしたのでその中でも印象深いシーンを絞ってみた。
 その前後のエミリーと見比べてみよう、明らかに表情もポーズも違うのが分かる。しかもその時だけカメラ目線になっているし(笑)。一部のセーラファンの間で囁かれている「エミリー生物説」の根拠はこのシーンのような気がしてならない。それとも構図の関係で偶然そうなってしまったのか? いずれにせよこの些細な演出で無意識のうちに、視聴者にとってエミリーは人形を超えた存在になっているのだ(って思っているのは私だけ?)。
今回の
アーメンガード
出番なし。 アーメンガー度
 
感想  タイトルの通りエミリーとの出会いだ。でも作り手側の意図はその後の父娘の別れで泣かせようとしているようだ。私はこの2話を見て父娘の別れは殆ど印象に残ってない。なぜなら「世界名作劇場」シリーズでは序盤での親子の別れシーンは数多く、他の物語のそんなシーンを何度も見せられたためである。「序盤での主人公親子の別れ」「主人公または準主役の病気(大怪我)」「火事」は「世界名作劇場」シリーズの華ですから(その3つが全部揃ってる「セーラ」って…)。
 対して父娘の別れの前にあるエミリーという心の友との出会いは実に印象的で、前述の通り作り手が一瞬だけエミリーに魂を入れてしまった事とOPでエミリーが動いている事も相まってこの人形がただの人形以上の存在であることを強烈に示すとともに、洋服屋のオヤジがカネでなくセーラの心で動いていることも注目されよう。でも結局は洋服屋のオヤジが一番儲けているんだよな、この話。
研究 ・エミリーとの出会い
 エミリーとの出会いシーンは原作・アニメ・小説版で統一されているように見えるが、よく見ると微妙にずれがある。原作では洋服屋ではなく余り大きくない玩具店にあったようで、しかもアニメとは違い「看板娘」でなくれっきとした売り物であった。原作ではその後エミリーとセーラの服を買いに子供服屋へ行っている。小説版はアニメ版に沿っているが、洋服屋がアニメのようなアーケードにあるのでなく馬車も通れるような広い道沿いにあることになっているようだ。事実小説版ではピーターの牽く馬車の上でエミリーを発見し、慌ててピーターに馬車を止めさせるシーンが描かれている。私は一番自然なのは原作だと思うのだが…アニメでは文庫本一冊分の話を約25分×46話にも引き延ばすためにエミリーの前の持ち主が絡むエピソードが作れるよう、それをハッキリさせる必要があったのだと思われる(この設定は後に生きてくる)。

第3話「はじめての授業」
名台詞 「(前略)…近くで見るとみんなが言うほどきれいな子じゃないと思うわ」
(ラビニア)
名台詞度
★★★
 この一言こそがラビニアのセーラに対する宣戦布告なのだろうか? 友人であるカートルードやジェシーがセーラの話ばかりするのについにキレただけと見るべきだろうか? 私は絶対前者だと思う、この台詞を吐いた瞬間にラビニアはセーラに敵対心を抱いたのは確かだろう。
 対するセーラは最初に教室に入ったときにラビニアが席を案内してくれたこともあって、ラビニアがそんなに意地の悪い人物とは思っていない。このすれ違いがずっと尾を引いてゆくのである。
 ちなみに原作でもこのセーラをこき下ろす台詞(靴が良いと足が細く見える等)をラビニアが言っているが、こっちはもっと強烈で最後に「瞳の色が変」とまで付け加えるのである。原作のラビニアはセーラをあまりいじめないが、このシーンにおけるラビニアの屈辱度は明らかに原作の方が上だろう。
(次点…というよりこの回だけで聞き飽きた台詞)「はい、院長先生」(セーラ)
…この回だけで6回も言ってるぞ。CM直前には5連続。
名場面 サブタイトルの通りはじめての授業 名場面度
★★★★
 ご存じセーラとミンチンの確執の最初といえるエピソードだろう。アニメも原作もうまく言い出せないセーラの言い分も聞かずにミンチンが勝手に暴走している点は同じである。ミンチンが暴走していようが自分が正しいと思っている点まで含めて同じである。そしてミンチンは自分が侮辱されたと腹を立てるところも原作を忠実に再現していて原作小公女からこの世界に入った人にも取っつきやすいシーンだろう。
 ラビニアの言うとおりこれでミンチンはセーラを恨むことになり、それを聞かされたセーラもミンチンへの不安が的中してさらなる不安を隠せずにいる。これが後々セーラの恐怖となるのは言うまでもなく、物語の上では貴重なシーンだ。
 原作に忠実、と前述したがひとつだけ違う点がある。それはアニメのセーラは後先考えずにとにかくフランス語の先生に分かってもらいたくてフランス語で語り、結果的にミンチンを侮辱したことになったというつくりになっているが、原作のセーラはミンチンの暴走で自分が辱められたような気がして、ミンチンを侮辱することになっても言ってしまおうと思って明らかに確信犯的にフランス語で主張している点である。この点からも原作セーラがいかに強気の性格がか伺えるだろう。ついでに言うと原作では、デュファルジュ先生はこのエピソードのみに出てくる完全な脇役である。
 このシーンのフランス語、声優の島本さんは何度も練習したんだろうな…そういや3言語もしゃべる「世界名作劇場」の主人公っていたっけ?
(次点…というより迷場面)一般生徒室の起床シーン。
…ガートルード、パンツ見えてるぞ(笑)。
今回の
アーメンガード
冒頭に出てくる彼女の寝顔は最高、可愛すぎる。本放送時、ここで私の彼女に対する注目度が決まった。
アーメンガー度
★★★
感想  本放送当時、この回が最初のハラハラドキドキだった事をハッキリ覚えている。ミンチンがセーラを「敵」とハッキリ認識し、以降ラルフの死まで忍耐に忍耐を重ねるのはミンチンの方である。セーラはセーラでアニメの場合は「敵に回してはならない人」を敵にしてしまった恐怖をしっかり感じ取っているし、原作セーラは嫌いな人だから敵に回してもいいやって感じでこの事件を起こしている。いずれにせよこの回の後半でハッキリとセーラVSミンチンというこの物語の構図が出来上がったと言っても過言ではないだろう。
 さらにアニメの場合はもう一つの構図である、セーラVSラビニアという構図もここで完成している。このふたつの敵対関係が一度にうまれたこのエピソードを昔も今も恐る恐る見ていたし、またうまく作ったなと感心したりもした。この構図がこれから50話近くも続くと思うと、気が重くなる。
研究 ・ミンチン女学院の生徒
 授業前にジェシー・ガートルード・ラビニアの3人が全生徒の紹介をする。前述したとおり原作では殆どの生徒が「その他大勢」扱いで名前すらないので原作から入った人には驚きだと思う。ドルシラ、リンダ、クリステル、ダイアナ、ジェニファ、ペネラビ、ジェイン、スーザン…この8人は原作で名前が出てこない生徒である。これにラビニア、ガートルード、ジェシー、アーメンガード、ロッティというセーラに関わりあって原作でも名前がある5人の生徒に、セーラを足して14人が「小公女セーラ」におけるミンチン学院の生徒数ということである。
 原作の生徒数は何度読んでも把握できない。文面からはセーラに関わる5人しかいないんじゃないかと勘ぐったりしてみるが、一応アニメと同様に年少組と年長組に分かれている模様である。年少組の生徒についての描写は多いが、以外の「その他大勢」についてはあまり触れられていないので詳細は不明であろう。

第4話「親友アーメンガード」
名台詞 「見てるといいわあの子達、いまに思い知らせてあげるから。」
(ラビニア)
名台詞度
★★
 怖い、ラビニア怖い、序盤はミンチン以上に怖い。
 ラビニアのセーラへの敵対心はブレーキが効かないばかりでなく、いじめるときには容赦しないという恐怖がある。この台詞は前回の宣戦布告に続いて「やるときは容赦しない」という宣言に見えるのは私だけだろうか?
 ミンチンはセーラが大富豪の娘というだけで手出しできずにいるが、この頃のラビニアは代表生徒と一般生徒という上下関係で上と思っており、この無断外出を告げ口するだけの根拠も理由もある。セーラはのんびりとシンデレラの妄想をしている場合では無かったんだぞ。
名場面 セーラがアーメンガードを部屋に入れるとき、エミリーは見ていないときに動いていると言い張る。 名場面度
★★★★
 新しい友達を作るのに必要なことがある。それは何よりも自分が一緒にいると面白い人間であるというアピールである。一緒にいて楽しくない人間と友達になりたいなんて奴はこの世の中にいない、セーラは誰よりもそれをよく理解していてこのような場面を展開したとしか思えないのだ。
 セーラはその自分が楽しい人間であるとアピールするためにエミリーを最大限に活用した、お人形が動くという妄想は小さい子供にとって楽しいことらしいのは自分の娘をみていりゃ分かる。その妄想でもってセーラがアーメンガードの心を掴んだのはまさにこの瞬間だろう。そしてアーメンガードにエミリーの正体が分かってもボケ続けることも重要だ、ボケ手の人間は一緒になってボケてくれるし、ツッコミ系の人間ならうまくツッコミを入れられる…相手がどんなタイプでもそれが自分を「面白いヤツ」だと思わせる決定打になるからだ。
 このエピソードも原作からほぼそのまま引き継がれたもので、原作ではアーメンガードの期待感がもっと上手に描写されている。私もこんな奴が隣にでも引っ越してきたらすぐ友達になれそうだな。
 
今回の
アーメンガード
この回は彼女が主役とも言え、早速どのシーンを取り上げるかで悩んだ。と言うわけで彼女のドアップを…安楽椅子に座るエミリーを眺めるシーンと、エミリーを抱いて目が動いたと喜ぶシーンだ。どちらの表情も可愛くて好きだ。この回は最初の彼女の見どころが多い回である。
 
アーメンガー度
★★★★
感想  一見、ほのぼのとした話のように見えるが、実はセーラとアーメンガードが仲良くなるだけの話でないのは明白である。いや、原作本ではそれだけの話で終わるのだが、アニメではイライザおばさん宅訪問という無断外出によってミンチンとラビニアのセーラに対する憎悪を増幅させるという伏線を持たされることになる。
 特にラストのアーメンガードが鞭で叩かれそうになるシーン、ありゃあそこでセーラが出て行くのは紛れもなく反則行為で、ミンチンから見ればアーメンガードがバリアを張ったようなもんで、鞭を引っ込めたとしても怒りが増幅されるだけなのは言うまでもない。結局、アーメンガードとセーラの無断外出によって後々辛い目に遭うのはセーラの方なのである。
 この話、本放送時代も同じような視線で見ていたなぁ。
研究 ・アーメンガードという人物
 この回は前半は原作のエピソードをほぼ踏襲しているが、後半はアニメオリジナルである。無断外出で馬車に乗ってイライザおばさんの家に行く話は原作には存在せず、セーラは自室でアーメンガードにフランス語を教えると約束してこの話は終わるだけである。それ以前に原作にはイライザおばさんなる人物は存在しない。
 劇中でアーメンガードが「自分の名前が呼びにくい」と愚痴るシーンがある。確かにアーメンガードって言いにくい名前だ。でもアニメのセーラはアーメンガードを尊重して最後まで彼女を「アーメンガード」と呼ぶ、でもそれはセーラに限らず「小公女セーラ」の登場人物全員がそうだ。
 対して原作ではセーラも「アーメンガード」と呼びにくいらしく、セーラは彼女を「アーミィ」と呼んでいる。なんかこっちの方が親しみを感じるし親友同士らしく見えるのは気のせいだろうか?
 ちなみに前半でも設定の違いがあり、アーメンガードはリボンを口に入れていたところをミンチンに見つかって叱られるシーンがあり、それを想像するとアーメンガードって可愛いんじゃないかと思ってしまう(アニメでそのシーンをやって欲しかったと原作を見てから思う)。原作ではアーメンガードが太っていることが強調されすぎのような気がする(アニメの描写は原作作者の思い描いたものに比べたらきっと痩せている方なんだろう)。
 しかし、セーラと仲良くなる3人のうちロッティには「泣き虫ロッティ」と、ベッキーには「灰かぶりベッキー」とそれぞれ称号がついているのに、アーメンガードにはそういう称号が無いんだな…。

第5話「泣き虫ロッティ」
名台詞 「ロッティ、私もママがいないのよ。」
(セーラ)
名台詞度
★★★
 泣く子を黙らせるにはどうすりゃいいか、理由があって泣いている子を黙らせるにはその原因を取り除くだけで良いが、この回のロッティのように理由もなく泣き喚いている子供を黙らせるのは至難の業である。ミンチンやアメリアがやりかけたように力で押さえるのもダメ、逆に優しく声掛けても聞こえやしない。ロッティを黙らせる事を依頼されたセーラはロッティの前に立ちすくみ、きっかけを伺うことしかできない。
 でもこういう子供って些細なきっかけで泣きやむもんだ。言った当人やまわりで聞いている人にとってどうでも良いような一言で子供が泣きやんだりする。セーラが発したこの一言はまさにその典型だ。ロッティは幼いながらも自分の苦しみを共有できる人間を捜していたのだ。
 この1話一言ずつ(?)の名台詞紹介、5話目でやっと主人公の台詞が出てきたお。
名場面 セーラがロッティのママになると宣言 名場面度
★★★
 セーラはロッティを友達になるだけでなく、母親代わりになると宣言。あれだけ泣き喚いた子供の母親代わりっていうのはかなりの覚悟がいった事だろう。しかも母親代わりになると宣言した後が凄い、ロッティにちゃんと自覚を促している点である。
 それはロッティにエミリーを見せ、自分はエミリーの母親であるからロッティはエミリーの姉であると説いた点である。セーラがそこまで計算して発した言葉かどうかは分からないが、子供というのはお兄ちゃんやお姉ちゃんになることに憧れ、何らかの形でそのような立場になったときに強烈な自立心を感じるものである。この方法はロッティのように兄妹に恵まれていない子や末っ子には特に有効である。
 このエピソードは小さな子供に対する扱いのよい手引き書となるだろう。
(次点…というより耳が痛い)ロッティ泣きっぱなしの5分10秒。
…ミンチンがロッティを部屋に閉じこめてからセーラが「私もママがいないわ」と言うまで、物語全体でロッティが泣いていた時間を全部足したら8分位になる(15分位泣いていたと思っている人が多いほどこの話でのロッティの泣き声は印象的である)。
今回の
アーメンガード
礼拝から戻って学院に入るシーン。もうセーラと一緒にいるのが自然になってきているのがいい。このシーンでなぜセーラでなくて彼女がアップになるのかな?
アーメンガー度
感想  とにかくロッティの鳴き声が耳についた。正確に測ればロッティが泣いている時間は話の1/3に過ぎないのだが、全編の半分位は泣きっぱなしだったような錯覚を覚える。声優さんの名演技の賜だろう。
 さらにここからロッティの「セーラママ」と呼ぶ声が耳につくことに…。
研究 ・原作ロッティとの違い
 この物語は前半はアニメオリジナル、後半が原作を踏襲しているエピソードである。アニメで言う5分10秒の始まりが原作でのこのエピソードの始まりなりだ。その前提として、セーラは年少生徒全員から崇拝されており、中でもロッティはセーラを一番崇拝しているというくだりがあり、ロッティはこのエピソードでセーラを意識したのでなく元々憧れのお姉さんだったのである。
 ちなみにアニメでは特に理由無く泣き喚いている(ホームシックが理由とも読みとれそうだが…)が、原作ではミンチンに厳しく叱られたのが理由で30分も泣き続けたとなっている。
 原作のロッティは登場時は4歳であるが、その時の原作設定ではセーラは7歳。つまりセーラが無一文になるセーラ11歳の誕生日ではロッティは7〜8歳なのだ。このエピソードでは問題ないが、セーラがメイドになって以降のロッティがその年齢で描かれていたら…かなり様子は一変しただろう。

第6話「灰かぶりベッキー」
名台詞 「告げ口なさるならどうぞ。(以下略)」
(セーラ)
名台詞度
★★★
 序盤にセーラがラビニアに対して珍しく強気な台詞を吐くのは、セーラがベッキーに聞こえるようにシンデレラの話をした後のことだ。この場面の直後にベッキーが鍋をひっくり返すのでここでのセーラとラビニアの言い合いが印象に残ってない人も多いようだが、私は本放送当時からこのセーラの一言が気に入ってる。母親の話まで出して強気にセーラを攻めるラビニアがたった一言でノックアウトされてしまったのだ。なんてったって、「院長なんか怖くない」と宣言してしまっているのだから。
 このやりとりは原作にもある。原作のセーラはアニメのセーラより気が強いが、この強気な台詞は吐かない。代わりに「あなたは他人にもっとしんせつにしてやるようにならなければ…」とさらに強気な説教を開始する。どんなにアニメのセーラが強気な台詞を吐いても原作セーラには叶わないな…原作読んで驚いたのなんの。
 ちなみに小説版ではこの肝心な部分がカットされてる。
名場面 ベッキー初登場とセーラとの出会い 名場面度
★★★★
 ベッキーというのは「小公女セーラ」においては原作「小公女」以上に重要な役である。「小公女」が「小公女セーラ」に変わるに当たって一番役が膨らまされた人物はベッキーなのである。だからベッキーとセーラの出会いもそれなりに膨らみを持たせることになったのだろう。原作ではセーラとベッキーの出会いは簡単に流されている。同じ文字メディアの小説版の方がこの出会いに割いている文字の量が多いほどだ。
 さらにこの出会いシーンにはアニメオリジナルとしてもうひとつの側面がある。それは19世紀末のイギリスにおける階級をしっかり描いていることだ。どう見ても生徒でないベッキーを、セーラが院長室へ案内するという世間知らずな行動をさせるのである。セーラは良かれとしてやっているがそれは正しい行動ではなく、ミンチンの怒りを買うだけの結果となる。セーラよりいくらか世間を知っているピーターはこのセーラの行動を「いいのかよ、おい…」って感じで見ているのも印象的だ。ベッキーにとって学院のエライ人は労働者であるメイド頭のモーリーであったのだが、セーラにとっては管理者である院長であるミンチンである。その違い、つまり人や立場によってエライ人が変わるという点をセーラには理解してなかったのだ。さらにその違いが当時の階級社会なのだと。
 いずれにしろ話のラストまでセーラと密接な関係となるベッキーとセーラの出会いは、文句なしで「小公女セーラ」全体を通しても名場面の一つであろう。
 
今回の
アーメンガード
アメリアに遣いに行くように頼まれたセーラ、そのセーラが今度はアメリアに個人的に物を頼まれて「?」という感じの彼女の表情が良いねぇ。
アーメンガー度
★★
感想  ベッキーが出てきたとき、「こりゃいいキャラが出てきたな」と本放送時に感じていた。それもそのはずで「小公女セーラ」で一番人気があるキャラはベッキーらしい、そういう結果になるのはこれからのストーリーを見ていくとなるほど納得である。ちょっと前に巷ではメイドさんのブームがあり、一部のヲタの間ではかなり前からメイドの衣装の女の子がもてはやされていたが、1985年にテレビアニメに登場したベッキーはメイドキャラのはしりと言ってもいいのではないか?
 まぁ、もっともメイドらしいのはベッキーよりセーラ専属のマリエットの方なのだが。マリエットも登場回数の割には「セーラ」で人気のあるキャラだったりする。ひょっとして、「セーラ」愛好家はメイドさんが大好きなヲタの方ばかりですかぁ?
研究 ・ベッキー初登場について
 名場面の説明にもあるとおり、セーラとベッキーの出会いに膨らみを持たせたため原作とかなり印象が変わっている。アニメの前半は完全にオリジナルエピソードだが、セーラが初めてベッキーを見たのが馬車で外出から帰った時に玄関で、という点だけは一致させている。
 後半はセーラが年少生徒におとぎ話を聞かせているところに石炭桶を持ったベッキーが入ってくるところから、「名台詞」で紹介したセーラとラビニアの言い争いまでが原作を踏襲している部分である。しかしここでも些細な違いはあり、セーラが年少生徒に聞かせている話は「シンデレラ」でなく「人魚姫」で、それを聞くベッキーはアニメでは手を休めているのに、原作ベッキーはわざとゆっくり仕事をしたり、何度も同じ仕事を繰り返すのである(最終的には仕事の手が止まってしまうが)。
 原作ベッキーは食堂で鍋をひっくり返すようなヘマはしない。アニメに出てきたばかりのベッキーは原作の性格を受け継いでいたようだが…少しずつ変化していくのはまだこれからの話。
 小説版ではセーラがなぜベッキーに同情したかの謎解きがされている。マリエットという専属メイドを抱え、幼い頃からメイドが自分の世話や家の仕事をするのが当然であるという環境で過ごしてきたセーラが、なぜベッキーにだけ同情したのかはアニメでも語られていないし原作にも出てこない。数少ない小説版オリジナルの部分だから読んでない方は手に入れて読んでみて欲しい。

第7話「代表生徒」
名台詞 「怒ってなんかいないわ。ただ私には馬鹿馬鹿しいだけよ。」
(ラビニア)
名台詞度
★★
…怒ってる。
名場面 特別の授業開始時、前代表生徒と新代表生徒のすれ違い 名場面度
★★★
 この瞬間に学校での生活の光と影を見た。とにかく檜舞台から引きずり下ろされて悔しいラビニア、突然の大抜擢に緊張するセーラ。さらにセーラのみならず教室の全員がはラビニアの怒りを感じて教室全体の空気が凍り付いている。そうなるのが分かっていたミンチンは敢えて無反応でいるのだろう。とにかくここでラビニアのセーラに対する恨みや憎しみは決定的になった。原作にはないラビニアがセーラを恨み、その後いじめ続ける理由が成立した。原作のセーラVSミンチンの構図に加え、アニメオリジナルのセーラVSラビニアの二段構えの構図を狙っていた作り手の意図通りに行きそうだ。そう、今後ラビニアがセーラやアーメンガードに何を言おうと、ラビニアがセーラに辛く当たった理由はこの時の恨みであり、それを根に持ち続けた事である。これは立派ないじめる側の論理として成立する(これがわからん奴はいじめってもんを理解していないだけだ)。
 ラビニアはここまではセーラが「嫌な奴」としか思っていなかったので、争いになるときもその延長程度で済んでいた。しかしハッキリと分かる形でプライドを傷つけられた以上はもうセーラに容赦はない。ミンチンもこの段階ではセーラを「嫌な奴」以上には見ていないが、投資を無駄にしたという損害でもってやはりハッキリとした恨みを持つ。ただラビニアの方がミンチンより先に恨みを持つ時が来た、これはこの先のいじめ発動シーンを見るのに重要な要素となる(…中学生の頃にこういう見方をしていた自分って?)。
 
今回の
アーメンガード
馬に乗って「乗れた」と喜ぶ時の嬉しそうな顔はたまらない。ちなみに馬に乗る彼女が見られるのはここだけ。その後の落馬シーンは見てられなかった。
アーメンガー度
★★★★
感想  なぜそこまでしてラビニアの恨みを増幅させるの?…と本放送時は純粋に思ったが、後々まで見ているとラビニアのセーラに対するいじめはこのエピソードが尾を引いていることが分かる。いじめるのに理由なんか要らないわけはなく、ラビニアもしっかり理由があっていじめていたのだ。後になってラビニアはセーラに「恨んでいるのでなくメイドのあなたと立場が変わっただけ」といい、アーメンガードには「落ちぶれてもこたえたふりを見せないからいじめる」というような事を言っていたが、このエピソードを思い出すとそんなのは言い訳に過ぎないと感じる。ラビニアはセーラを恨み、根に持ち続けたからいじめたというのは誰に動かせない事実であり、本人がどう言おうとそれが真実なのである。
研究 ・セーラとラビニア
 ここへ来て初めて全編アニメオリジナルというエピソードが来た。この話は原作との比較に於いては全く重要度がないが、アニメの「小公女セーラ」を語る上では避けて通れないエピソードである。前述の通りラビニアにハッキリとした「セーラに対する恨み」を与え、セーラをいじめる理由を作るためである。そのために原作にない設定もたくさん出てきた、ミンチン学院の「代表生徒」という制度、ロンドン市の教育関係における有力者である市長夫人の存在、礼拝へ行く整列、学院での座席配置の決まり…。全てが作り手の単なる思いつきで追加された設定でなく、セーラがラビニアに恨まれるための要素として計算され尽くされた上で追加された設定なのだろう。
 いじめというのは、どこかに必ず埋め合わせの出来ないきっかけや理由が存在する。それはいじめる側にもあるしいじめられる側にもある(後者を公の場で言うと決まって袋叩きにされるが)。この話はその構図をしっかり見せているようにも感じる。ラビニアの恨みが主因ではあるものの、その後のセーラの動作ひとつをとってもラビニアの恨みを増幅させているだけのものはある。恐らく、セーラが前の代表生徒とアーメンガードと同じ位仲良くなっていれば、セーラは恨みを買わないような立派な行動が取れたように感じる。原作のセーラはハッキリと「ラビニアが嫌い」と言っているが、アニメのセーラも口に出さないだけで本当はそう思っているのかも知れない。

第8話「親切なお嬢様」
名台詞 「ありがとうございます。私、もう平気です。石炭桶がいくら重たくたって、台所でいくら怒鳴られたって我慢できます。だって、こんなに親切にしてくださるお嬢様がいらっしゃるんですもの。」
(ベッキー)
名台詞度
★★★★★
 ベッキーぃぃぃぃぃ! 萌え〜(爆)。
 じゃなくて、この台詞はベッキーにとって学院に来てからそれまでの辛さが全て浄化された瞬間なのである。憧れのお嬢様とお話が出来ただけでなく、自分を友として迎えようとしてくれている喜びというか。それまでの言われるがままに暗く働く自分自身と決別し、このお嬢様に尽くしてゆく喜びを自分の支えとして働いていけると本人も感じた。つまりベッキーにとってセーラは心の支えとなってゆくのである。
 とにかく、ベッキーのこの台詞はベッキーの嬉しさや喜びを端的に表現していて、「小公女セーラ」全体を通しても名台詞のひとつに数えられ、序盤ではいちばんの名台詞だろう。
 この台詞は原作にも出てくるが、小説版ではベッキーが心の中で思ったこととして扱われている。
名場面 ベッキーとセーラの特別室でのひととき 名場面度
★★★★★
 片や特別待遇のお嬢様、片や奴隷のような扱いを受けているメイド。この学院内で一番落差の激しい二人が仲良く会話するというほほえましいエピソードである。
 ベッキーは雲の上の存在でしかなかったセーラに最初は怯える。そりゃ仕事もろくにしないで居眠りなんかしていたのだからメイドとしては当然の対応で、蹴飛ばされてつまみ出されると思っていた。だが逆に客として迎え入れられた時にその恐怖は緊張へと代わり、セーラの話を聞くうちに緊張から笑顔へ、そして最後は感謝へと変わってゆく。このベッキーの表情の変化が原作でもアニメでも豊かに描かれ、緊張した展開の多い序盤では一番ほのぼのとしたエピソードとなり、視る者を和ませてくれる。
 これがセーラが落ちぶれた際にベッキーがセーラを助ける伏線ともなってゆくのであるし、その前の残り僅かなセーラの富豪時代もベッキーが抵抗無くセーラの部屋を訪ねるきっかけともなってゆく。セーラとベッキーの密接な関係は、このエピソードを持って動き出した。
 
今回の
アーメンガード
なんだ? この可愛すぎる彼女の表情は? 本を頭に載せて歩く訓練中に彼女は一瞬こんな可愛い表情で登場する。それとダンスの授業でセーラがラビニアより上手に踊れるかどうか不安な表情で見つめる彼女。この回はベッキーが主役だから出番は少ないながらも、彼女の見どころ多し。
 
アーメンガー度
★★★★
感想  この話を初めて見た時、「ああ、これはベッキーの話なんだ」と思った。ということはどういう事かというと完全にベッキーが主役を持っていってしまっているのである。この話で一番表情豊かなのはベッキーだし、感情移入できるのもベッキーだし、何よりも気持ちの変化があり一番救われているのもベッキーなのである。
 この先、セーラがこき使われるような立場になるであろう事が予想できた本放送時も、この話は重要なエピソードになると思ったし、また見ていてほのぼのとしてきて「小公女セーラ」の名場面になるなと感じた。手が届かないと思っていた人に優しくしてもらえる、そんな事の幸福を教えてくれる物語だと思う。
研究 ・ベッキーとセーラの部屋
 この話は原作のエピソードを踏襲している。セーラがベッキーのことを気にしている点や、マリエットからどんな仕事をしているか聞き出したり、さらにベッキーが居眠りしていた頃に行われていた授業がダンスであったことまで同じである。違うのはアニメでは前話を引きずっているシーンがあることと、ダンスの授業風景を詳しく描いた事位だろう。
 もうひとつ重要な違いがある、それはベッキーの仕事内容である。アニメではセーラの部屋の掃除はマリエットの担当になっているが、原作ではマリエットはセーラの身の回りの仕事に徹していてセーラの部屋の掃除はベッキーの仕事になっていることだ。ベッキーはセーラの部屋だけでなく生徒の居室全てを掃除することになっており、普段はセーラの部屋を最後にしてその豪華な部屋に見入っている…つまりアニメで居眠りする前にやっていたような事を原作ベッキーはセーラの部屋を掃除する度に毎日やっていたって事になり、その時間がベッキーにとって至福の時間だった。そしてダンスの授業のその日はつい椅子に座って寝てしまったことになる。
 居眠りしているベッキーが目を覚ますシーンで一番好きな描写方法は小説版だ。原作もアニメもセーラが部屋に入ってくるとベッキーが寝ていて、ベッキーが目を覚ますのを待つという描写であり、原作では暖炉の石炭が落ちる音で、アニメでは抱いていたエミリーを落とした拍子にベッキーが目を覚ますというシーンをセーラの視点で描いている。だが小説版はベッキーが居眠りを始めるシーンも目覚めるシーンも通じてベッキーの視点に徹しているのだ。つまりセーラが授業を終えて部屋に帰ってくる描写は無いし、ベッキーが揺り椅子に座って気がついたらセーラがそこにいた、という描写になっている。こっちの方が物語的に面白いような気がするのは私だけだろうか?

第9話「インドからの手紙」
名台詞 「それはお父様の事業が成功してくださるのは嬉しいけど、それで私が変わるはずないと思うわ。私は今まで通りの私、セーラのつもりよ。」
(セーラ)
名台詞度
★★★★
 「わたくしはほかのものにはなるまいと思っていた」…これは原作「小公女」のテーマであり、原作セーラが辛いメイド時代を過ごすときのキーワードでもある。このテーマはアニメにも受け継がれており、アニメのセーラは辛い思いをする前からこんな台詞を吐いているのだ。
 この台詞はベッキーから父がダイヤモンド鉱山主になったことを祝う言葉の返答として出てくる。セーラは父親がダイヤモンド鉱山主になったことを他の人が夢中になるほど喜んでいるわけではないのは、ここまでのセーラの表情を見ていればわかるだろう。その胸の内をベッキーにだけ語ったのである。そのベッキーからの答えは、まだ出てくるのは先だ。
(次点というかそりゃないよ…)「ウスノロめ…」(ジェームス)
…台所でジェームスとベッキーが衝突したときの言葉、「このトンマ」から始まってモーリーの「夕食抜き」宣言まで辛い時間が続くが、中でもベッキーの心をズタズタに切り裂く一言はこれだろう。
名場面 物語の冒頭、ロッティを叩いたラビニアとセーラの対決シーン 名場面度
★★★
 セーラお得意の「何かになったつもり」をラビニアが批判し、それを弁護したロッティはラビニアの怒りを買って突き飛ばされる。そのロッティを突き飛ばしたラビニアを睨み「私、今あなたにどれだけ怒りを…」と語るセーラは、全46話中もっとも怖い顔のセーラになっているのが見物だ。てーか、セーラが怒りに燃えて怖い顔をしたのは全話通してもここだけだったと思う。
 「何よ、私をぶつ気?」ラビニアも負けていないが、「本気であなたを叩きたいくらい」と切り返すセーラ。そして13秒間も沈黙の睨み合いが続く、セーラがマジでラビニアを叩くのかと思うと「たった私、今あなたを心の中で…」とセーラが言う。するとラビニアは呆れ顔で立ち去る。
 みどころはセーラがマジで怒っている事だ。アニメのセーラが怒りを露わにするシーンは本当になく、このセーラの怒りのシーンはあの少女が怒るとこうなるという貴重なサンプルを提供してくれる。
 原作ではこの二人が争うきっかけは違うものの、似たようなシーンはある。しかもアニメの10話に組み込まれたシーンの間に挟まっているからややこしいったらありゃしない。セーラが読書をしている横でラビニアがロッティを泣かせため、読書を邪魔されたのが原因でセーラはラビニアに対し怒る。そしてラビニアに「あなたも私もものごとが分かる年だから叩かないであげる」と言う。そしてアニメと同様「プリンセスらしくすればこんな事にならなかった」という結論となるのだ。小説版ではこのエピソードは簡潔にされている。
 さて、叩かれなかったラビニアはどうかというと、生徒の多数がこのやりとりでセーラの側にたった事が気に入らない。でも今回だけはラビニアは言いたいことも言えずセーラのテンポで後半の話が進んでしまう。
(次点)ジェシーとガートルードがセーラに寝返る。
…こいつら性格悪い、私は正直言って「小公女セーラ」で一番嫌いなキャラ。この時の会話、扉のすぐ外にいるラビニアに聞こえたのだろうか?
今回の
アーメンガード
セーラの父がダイヤモンド王になると聞いて喜ぶ彼女。ここまでの笑顔を見せられると言うことは彼女にとってセーラがどれだけ大事な存在かわかるってもんだ。ここまでの笑顔を見せる機会はあまりなかったんじゃないかと思う。
アーメンガー度
★★★
感想  いやー、頭来たね。何に頭来たかというとジェシーとガートルードが簡単に寝返ったこと。結局この二人は自分の行動を自分で決めたのはこの時と最終回だけで、あとは何があってもラビニアのいいなりだったんだよね。セーラをいじめるのだって自分の意志ではない、だからそれによって自分に責任が降りかからないこともよく分かっているタイプで、つまりいじめっ子としてはラビニアより頭が良いんだよね、こいつら。一番頭来るタイプだ。
 あとこの回で見られるセーラの怒り顔はやっぱり必見だと思う。アニメシーンを集めてセーラの全表情を集めようとしたらこの回を避けて通れないわけだ。セーラがメイドになった後も何度か怒りはあるけれど、どちらかという怒り顔でなく悲しげな表情になっちゃうんだよね。セーラのマジキレは本当にここだけのようだわ。
 実はベッキーの怒り顔も後に出てくる回があるが、それはその時に。
研究 ・セーラとベッキー
 この話は「名場面」で紹介したラビニアとセーラの対決と、ベッキーがセーラの部屋を訪れるシーン以外はアニメオリジナルである。
 そのベッキーの深夜の訪問だが、原作では夜ではなく午後か夕方にベッキーが寝室の掃除を大急ぎで終わらせて余った時間に来ているという設定になっている。時には掃除に時間がかかりすぎてほんの数分しか居られないこともあるが(そんな日はベッキーのポケットにセーラが食べ物を押し込んでから別れる)、それでも毎日ベッキーはセーラの部屋へ通い、一緒にお菓子やサンドイッチを食べたり(特に肉が入っている物を喜んだ)、お話ししたり遊んだりしていたそうだ。そしてベッキーは屋根裏に戻るとその楽しい時間を思い出しながら幸せに寝るのである。ベッキーはセーラに出会うまで笑うことを知らなかったというのだ。
 小説版ではアニメと同じく訪問は深夜になるが、やはりベッキーは毎日セーラの部屋に通っている設定で、そこでお話をしたり文字を習ったりしているというのだ。その成果もあって今まで読み書きが出来なかったベッキーは自分の名前を書けるようになった事も書かれている。
 さてアニメのベッキーであるが、どうも毎晩セーラの部屋へ通っているわけではなさそうだ。屋根裏へ帰るベッキーに声を掛けるのは必ずセーラの方で、ベッキーは声を掛けられると驚きの笑顔を作る。つまり毎日声を掛けられているわけではなく、声を掛けられる日とそうでない日があるのだろう。
 この日の昼、セーラは生徒全員分のお菓子を用意してお茶会を開くが、お茶会に参加できないベッキーの分のミートパイを用意してベッキーを呼び寄せたと言うことだろう。ちなみにここでの会話の中で、肉が入っている食べ物はおなかに溜まって嬉しいと言うことや、屋根裏にはネズミが出るという話、貧しく育った者は何にでも慣れなきゃならないという話は原作にもある。
 アニメのベッキーも毎日ではないがセーラの部屋に頻繁に行っていただろう事は事実で、前回の居眠り事件から少しずつセーラとベッキーの距離は縮まったのだろう。ベッキーはこれに非常に感謝しているようだが、当のセーラは友達と好きなことをやっているだけでベッキーのためにと思っているわけではないということだろうか(原作にはそんなことが書かれている)。いずれにしろこの部屋での二人の時間が、今後この二人の関係を決定づけることになったのだろう。。

第10話「二つのプレゼント」
名台詞 「服を着るのはこのお嬢さんです、お嬢さんが選ぶのは当然だと思いますな。」
(洋服屋店主)
名台詞度
★★★
 ミンチンがセーラの誕生日プレゼントを買いにエミリーを見つけた洋服屋に来た時の台詞だ。ミンチンがセーラにプレゼントを買う理由はセーラを祝うためでなくてセーラと父親に恩を売るためである。従って子供のプレゼントを買うのに肝心なその子供のことが見えなくなっている。それを指摘してミンチンの思いに水を差した一言として印象に残っている。
 洋服屋店主は出てくるたびに印象に残る言葉を残してゆくので登場回数の割に印象深いキャラクターである。この名台詞紹介欄でも2打数2安打(登場回数2回でこの欄に2度目の登場)。これほど印象深いのに、原作にないキャラというだけで名前が無いのがな〜。
名場面 セーラとベッキーの抱擁 名場面度
★★★★★
 原作「小公女」においてもアニメ「小公女セーラ」においても序盤でもっとも感動するエピソードはベッキーからの誕生日プレゼントだろう。
 ミンチンからのプレゼントは高級な物を与えて恩を売るという下心が見え見えで愛情が伴わない。対してベッキーからの小さな針刺しのプレゼントは、ベッキーが僅かな持ち物の中でも祖母の思い出がある大事な品物から切り取った材料で、愛情を込めて手作りした物である。「自分に優しくしてくれるお嬢様にせめてもの恩返しがしたい」という気持ち以上のものが込められており、セーラは見た瞬間に大喜びする。
 そして夜、仕事帰りのベッキーをセーラは部屋に呼び寄せてベッキーに心からの礼を言う。どのように作ったか聞いたセーラは、あまりの嬉しさにベッキーを抱きしめて涙を流す。恐らく、セーラはこれほど心のこもったプレゼントをもらったのが初めてなのだろう。
 原作でもこのエピソードはあるが、セーラがベッキーからの包みを見つけるのは夜ではなく誕生日当日の朝である。しかも針刺しに黒いピンで「おめでとう」とメッセージがあり(字が間違ってる)、なぜかアメリアの名刺を添えてあったのだ。ベッキーは頃合いを見て部屋の中を覗き込んで、自分から「お気に召しましたでしょうか?」と声を掛けるのだ。無論セーラの返事は「気に入らないはずがないわ」である。ベッキーがプレゼントの説明をするとセーラは胸がいっぱいになり、「わたしはあなたが好きだわ、本当よ。」とベッキーを抱きしめるのである。原作のベッキーはプレゼントにいろいろと工夫を凝らし、女の子らしさを見せてくれるのである。
 これで文句なしでベッキーはセーラの心を掴んだ。セーラにとってもベッキーはなくてはならない存在になったのだ。
 
今回の
アーメンガード
ラビニアに「あんたもプリンセス様のつもりになったら」と冷やかされた時、真面目に「わたし太っているから…」と落ち込む彼女。でもハッキリ言おう、他が痩せ過ぎなんだって!
アーメンガー度
★★
感想  もう…今度はなんでセーラをそこまで持ち上げるか?と思わずにいられなかった。本放送時もこの先の展開が見えてきただけに、持ち上げられたら持ち上げられるほどそれが後で憎しみに転化することが想像できていた。セーラが持ち上げられれば持ち上げられるほど見ていて辛くなると言うか、今後どうなるんだろうという恐怖感も感じてきた。まったく、この「小公女セーラ」って話は気を抜いて見られる時間が少ない。
 そんな中でもベッキーのプレゼントは本当にほのぼのさせてくれたな。ベッキーのセーラに対する思いはここまでに我々の想像を超えていたと言うことだ。そしてベッキーとセーラの抱擁…この二人の抱擁シーンはこの後も何度か出てくるけど、どれも同僚メイド同士の抱擁であって、「富豪の娘」と「奴隷のようなメイド」の抱擁が見られるのもここだけ、あまりの落差がある二人の抱擁は目を離さずにいられなかった。
 どうでもいいが、この回のベッキーの顔が変。
研究 ・ダイヤモンドプリンセス
 この話もほぼ原作のエピソードを踏襲しているが、ミンチンがバロー弁護士のもとへ行くシーンと、セーラと洋服屋へ行ってプレゼントを買う部分だけは原作にない部分である。
 この話の中でラビニア達がセーラを「ダイヤモンドプリンセス」と呼ぶようになる。ラビニア達は皮肉を込めていったことであるが、アメリアは真に受けてそれをミンチンに報告し、それを見て「冷静に」とアメリアを窘めたミンチンまでがその言葉を使う始末である。
 原作では生徒全員にこれが広まる(「公女様」と訳されている)、ラビニア達は皮肉を込めて、他の生徒達は尊敬の意味合いを込めて、先生達は「そう呼んだ方が貴族らしくて良い」という訳の分からない論理で、ベッキーまでもが「お嬢様にふさわしい」と思うのである。
 セーラはこの呼ばれ方が好きでないようだ。そう明記されているのは小説版だけで、原作のように生徒全員がセーラをそう呼ぶようになったのだ。アーメンガードやロッティにそう呼ぶのは止めるよう話したことまで明記されている。やっぱりみんな騒ぎすぎ、でもこの騒ぎがのちにミンチンとラビニアの怒りに転化するだけなんて、この時はまだ誰も想像していないのだ。

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