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第11話「プリンセスの誕生日」
名台詞 「セーラ、あなたの父親のことで話すことがあります。死んだんです。」
(ミンチン)
名台詞度
★★★★
 もうこれほどストレートな告知はあるだろうか? 相手がまだ11歳の少女とは考えない何も包み隠さないストレートな言葉、しかもそれを全生徒が見ている前で告げるミンチンの冷たさ。学院一の人気者の誕生パーティというおめでたい席は、一瞬で凍り付き暗転する。
 いや、この言葉は無神経に吐いた言葉ではない。ミンチンはバローからセーラの父が死んだと知らされて失望し、その失望が怒りに変わっていたのである。そしてそれまでセーラが嫌いで授業で侮辱された事など思い出し、どのように「事実」をセーラに告げたらセーラにとって一番辛いか、瞬時にそれを考えて言った言葉であろう。そこには教育者としての資質を微塵も感じ取ることは出来ない。
 告げられた直後、大きなハンマーで殴られたような衝撃を受けて固まるセーラ。それにマリエットが用意した茶をトレイごと落とすシーンと効果音がセーラの気持ちを代弁する。だがミンチンの台詞が違えばこうもシリアスなシーンには仕上がらなかっただろう。
 ちなみに原作ではセーラに父親の死を最初に告げたのはミンチンではなくアメリアで、かつアメリアがその時の状況をミンチンに報告するシーンがあるだけである。したがって原作にはこれに該当する台詞はない。だがアニメではそれを敢えてミンチンにさせ、ミンチンの冷たさを物語るこの台詞を吐かせたのだ。
 小説版はアニメのこのシーンがそのまま小説になっていると思えばいいだろう。ただ父親の死を告げられ固まっているセーラをアーメンガードが抱きしめ、ロッティがセーラにしがみつき、ミンチンがそれを無理矢理引きはがすという見ていられない描写が加わりいっそう悲惨な光景になっている。
名場面 バローがミンチンにラルフの死を告げるシーン 名場面度
★★★★
 今まで緊張が続いたとはいえ、主人公が幸せだった物語が唐突に幕を閉じる瞬間で、このシーンをきっかけに物語そのものも暗転する。その点においてはミンチンがセーラに父親の死を告げるよりも重要なシーンであろう。
 パーティを行った後の遊戯室にミンチンとアメリアとバローの3人、それにテーブルの下に隠れるベッキー。バローがラルフの死と破産を告げると失望で倒れるミンチン、とにかく慌てまくるアメリア、驚きの表情のベッキー。そしてようやくバローの話が理解できるとミンチンの失望は怒りに変わり、ベッキーの驚きは悲しみに変わる。ベッキーはセーラに起きた不幸を本人より先に知ってしまうのだ。
 言いようのない怒りに震えるミンチンはベッキーのすすり泣きを聞く、そしてまず最初にベッキーに当たるのだ。必要性も感じられないのに大声で怒鳴り、しまいにはベッキーを突き飛ばしてクビにするとまで脅す。この物語暗転の洗礼を最初に受けるのもベッキーなのだ。つくづく運の悪い少女だ。この時、ミンチンに何をしていたか問いつめられているベッキーの悲しみと恐怖が入り交じった表情は秀逸。
 こうして今までの、「幸せの中の緊張」という展開は終わりを告げ、不幸で見ていられない物語へと一気に変わる。このシーンを飛ばしたら何が何やらってところだろう。
 原作ではここに至る経緯は少し違う。最初にミンチンとバローは二人だけで遊戯室に入ってくる、その時にセーラの誕生日プレゼントに見とれていたベッキーが慌ててテーブルの下に潜る(アニメ同様誕生パーティへの出席を許されている)。そこでバローはミンチンにラルフの破産と死を伝え、アニメでは次話のエピソードになるがセーラを追い出さず働かせた方が良いと言ってバローは立ち去る。ミンチンが怒り狂ったところにアメリアが遊戯室に来て、アメリアにこの事実をセーラに伝えるように命じたところでテーブルの下からすすり泣きが聞こえるのにミンチンが気がつくという流れだ。この時のミンチンとベッキーの会話はアニメとほぼ同じ。ただ原作ベッキーは「セーラの世話は自分が見る」とまで申し出るが、当然セーラが下働きのメイドにまで支持されているという事実を知ったミンチンの怒りを買っただけだ。
 このシーン、小説版では大胆にカット! つまらん。ただ余計なシーンとして、バローがラルフの破産と死を告げる電報を受け取ったシーンが出てくるが…。
 
今回の
アーメンガード
斧で頭をかち割られる彼女、「斧がぁ! 斧がぁ!」…じゃなくてドールハウスを覗き込む彼女なのだが、やっぱ斧で頭を割られているようにしか見えない。このシーンでセーラを差し置いてアーメンガードが真ん中にいる辺り心憎い演出だ。
アーメンガー度
★★★★
感想  若干3名を除いて明るく楽しそうな誕生パーティにほのぼのして、本放送時は前半の展開に安心して見ていた記憶がある。原作を読んでないって幸せなことで、このまま二十数分間豪華絢爛な誕生パーティが見られると安心していたのだ。誰だって主人公の誕生パーティをぶちこわす話を作るなんて思わない…。
 だから、後半に入って物語が暗転したときは見ているこっちの気持ちまで暗転した。セーラと一緒になって「嘘です」って言いたくなってしまった。この話ほどミンチンの性格の悪さや冷たさを肌で感じたことがなかった。恐らく物語の暗転を主人公の誕生日にするというのは。ミンチンの性格を引き出すためのスパイスだったのだろう。アニメも原作も視聴者としてミンチンにハッキリと怒りを感じるし…。
 さて、ここまでに起きた全ての事がこれから少しずつ恨みと悲しみに転化してゆく。アニメではこの日1日の話にこの話を入れて2話半を費やす。今のアニメだったらこの日が含まれる3話分全てを1話に納めるだろう。「世界名作劇場」という1年シリーズだからこそ出来るゆったり贅沢な作りに、今見直すと感心させられる。そう言えば「世界名作劇場」最新作「ポルフィの長い旅」の第一話もすごくゆったりしてたな(主人公の母親がセーラの声だったか?)。
研究 ・誕生日プレゼント
 この回の話は若干の相違はあるものの完全に原作エピソードを使ったと見ていいだろう。ついでに言うとDVDで発売されている「小公女セーラ完結版」(全46話を90分にまとめた総集編でかつてBSフジで放送された)はこの11話からスタートしており、10話までのエピソードは一切出てこない。
 誕生日のエピソードだけあって、やはりプレゼントは欠かせない。前話ではミンチンのプレゼントとベッキーのプレゼントが出てきた。誕生日当日のこの日はセーラがミンチンからプレゼントされた豪華な服を着てパーティに臨む。そしてピーターからオカリナを、ロッティから子馬の置物を、アーメンガードからは本をプレゼントされ、他の生徒達も渡せなかったものの全員プレゼントの箱を持っていた。
 さらに父親のラルフからプレゼントが届く、それは豪華なドールハウスであった。居間から寝室から皿の一枚一枚や本の一冊に至るまで精密に再現された宮殿の模型である。その豪華なプレゼントに生徒達は目を見張った、だからこそベッキーの悲劇があるわけだが。
 原作では他の生徒達のプレゼントはないようだ。誕生パーティの会場にセーラとミンチンが入ると、その後ろから大きな箱を抱えたメイドが続き、さらに2個目、3個目の箱を持つメイドが続く、3個目の箱を持っていたのはベッキーである。ミンチンは自分が持っている中でやはり一番良い服を着ており、ベッキーも新しい帽子ときれいなエプロンを着ていた。その3つの箱がラルフからのプレゼントで、小さな2つは本だったようである。そして最初の一番大きな箱にはセーラが希望していた人形であった。いや、セーラも人形が欲しいと言ったらこんな物が届くとは思っていなかっただろう。その人形はロッティ(原作では当時7歳)ほどの大きさがあり、しかもトランクを持っていてその中には着替えやコートやオペラグラスまであるという。ジェシーやラビニアまで自分の歳を忘れてその人形に見入ってしまったというものだ。
 どちらにしろすぐバローに没収される運命にあるのだが、アニメでこの「巨大な人形」を出さなかったのは人の形をしたものをすぐに大人の論理で没収されるというシーンを作りたくなかったか、それを子供に見せたくなかったかのどちらかだと思われる。

第12話「屋根裏の暗い部屋」
名台詞 「お願いです、エミリーだけは取り上げないでください。一緒に連れて行かせてください。」
(セーラ)
名台詞度
★★★
 この台詞にも、この時の表情にもセーラの「これからどうなってしまうんだろう?」という不安がにじみ出ている。追い出されるならエミリーだけは離したくないと言うセーラの心の叫びでもある。とにかくこの一言に父親を亡くした悲しみより上位にある不安をすべて表現しているだろう。バローに部屋の物を取り上げられるまでは父親の死に対する悲しみだけで精一杯だったが、バローによって大人の現実を見せられると父の死で悲しんでいる場合じゃないと分かったのだろう。
 原作でも同じようにミンチンに呼ばれる。そして同じようにエミリーを抱いてきたのを咎められるが、セーラは自分の悲しみを表さないように口を強く結んで「いいえ、わたくし、人形を離しません」ときっぱり言うだけである。原作セーラ強い。
 小説版ではこの台詞だけが無い。特別室の場面でバローの視線がエミリーに行ったときに「お願いです、この人形だけは…」と頼んでバローも了承したという設定になっているからだ。同時に両親の写真とベッキーからもらった針刺しもバローから許しを得てセーラの持ち物になっている。
(次点…というか一言突っ込みたい)「騒ぐんじゃありません!」(ミンチン)
…一番騒いでいるのはお前だ!
名場面 セーラが屋根裏部屋へ向かうシーン 名場面度
★★★★
 それまでの全シーンからは想像できないボロボロの服を着たセーラが重い足取りで階段を上ってゆくこのシーンは、もう後戻りできない立場の激変を無言で描いている。それまでいた世界から遠く離れた別の世界への一方通行の旅のようにセーラは感じていただろう、階段をひとつ上るたびにそれまでの幸せだった思い出が過去の物となり、自分が別の人間に変わってしまう。そんなセーラの思いを無言で台詞も回想シーンもなく上手に作り上げたと感心させられるシーンだ。
 原作ではセーラは自分の特別室に帰るつもりであったが、特別室の前でアメリアにセーラの部屋が屋根裏に変わった事を初めて告げられる(アニメではこれに「知っています」と答えるからミンチンに言われていたと解釈せざるを得ない)。その間に「エミリーと本当に話が出来たら…」なんて事を考えたりしている。そして階段を上る自分が他の人間のような思いにとらわれながら屋根裏の部屋に向かうのである。
 小説版では、このシーンは華麗にカット。いきなり屋根裏部屋へワープし、自分がバスチーユ監獄のマリー・アントワネットになったつもりになった妄想をして自分を慰める。
今回の
アーメンガード
父を喪ったセーラを想い、ロッティを抱きしめて泣く。彼女の泣き顔は取り上げないつもりだったが、友のために流す涙は別だ。
アーメンガー度
★★
感想  とにかく悲しい回だ、父が死んだショックから立ち直っていないうちに大人の事情を聞かされるセーラ、そして学院を追い出されることを視野に入れてこれからの不安を考えねばならないセーラ、並の少女ならもう再起不能のショックとなるかも知れない。しかしセーラはとりあえずそれを乗り切った。でもこの回の最後、屋根裏部屋で涙を流すセーラを見ているとセーラにとってそれが精一杯だったのだろう。原作のセーラはどうなのかよく分からない。
 しかし、学院で働けと言われてすぐ先生みたいな仕事を思いつくセーラはやっぱお嬢様なんだな。恐らくベッキーみたいな仕事をさせられるとは思ってもみなかったのだろう。いよいよセーラの辛い辛いメイド時代の話が始まる。これから44話まで長いなぁ。
研究 ・セーラの服
 セーラがミンチンに呼ばれて院長室へ行くと、学院に置いてやることとメイドとして働くよう言われる。そして、以前にお金が無くて授業料が払えなかった少女が置いていったボロボロの服を着せられる。この深緑色の服にエプロンという姿がここからのセーラの当たり前の姿になる。この回の前半まできれいなドレスをTPOに合わせて着ていた面影は何処にもない、その服装を見た生徒達も驚きで何を言っていいか分からなくなる。
 アニメのセーラが着ている服はみすぼらしいが、それでもサイズが合っているようなので救われる。原作のセーラを見てみるともっと悲惨である。服そのものはセーラが持っていた物で黒のビロードなのだが、もうそれは数年前の物でセーラには小さくなってしまった物なのだ。成長した身体に不釣り合いな小さい服を着せられて、メイド時代を生きることになるのだからこれはもうアニメより数倍悲惨なのは確かだろう。

 ついでに、アニメではセーラが「私、ロッティ達にならフランス語を教えられると思う。」と言ってミンチンに叱られるシーンがあるが、原作ではセーラはメイドの他に年少組で勉強を教えたり、年少組の生徒の世話もするように最初から言われている。それを聞いたセーラは喜ぶが、ミンチンはそれを見て「私が気に入らなかったら追い出す」と脅しをかける。
 それと「置いてもらえるのなら何でもすると言ったでしょう、私に礼を言うべきです」とミンチンに言われセーラは力無く礼を言うが、原作セーラは「先生は親切ではありません。それにここは私の家でもありません」とアニメのセーラがずっと先の方で言う台詞をここで言う。やっぱり原作セーラの強気にはアニメのセーラは勝てないようだ。それに原作セーラはこの時、屋根裏部屋では涙を見せていない。

第13話「つらい仕事の日」
名台詞 「お嬢様、お嬢様は、お嬢様は変わったりなんかなさっていません。どんなことが起こったって、お嬢様はプリンセス様なんです。いいえ、誰がどう言ったって私だけはそう決めているんです。」
(ベッキー)
名台詞度
★★★★
 ベッキー、良いこと言うわ。
 どれだけベッキーがセーラを思っているかが端的に表れている台詞であろう。ベッキーにとってセーラは自分を力付けてくれてきた大きな存在だった。そのお嬢様が辛く悲しい目に遭ったというのに、それでもまだ自分に優しさをくれて力付けてくれようとしている。だからこそベッキーにとってセーラは変わっていないのである。
 さらに自分がプリンセスだなんて思ったことがないセーラにとっても納得がいく言われ方だったのは間違いない。そう、ベッキーは「自分にとってのプリンセス様」と言っているのである。
 小説版でもこの台詞はアニメと全く同じ状況で言っている。原作ではセーラはベッキーが屋根裏部屋に姿を見せると突然に泣き出す、そしてベッキーはセーラの前に跪き、セーラの手を握って胸に抱きしめてこの台詞に該当する台詞を言っている。
 原作のベッキーはさらにいいよ、まず毎朝セーラの着替えを手伝い、夜寝る前もセーラの部屋へ行って用件はないかと尋ねに行く。最初の頃はセーラは話ができず、ベッキーも「悲しみに沈んでいる人はそっとしておこう」という趣旨でセーラをそっとしておいた。そして数週間したところで寝る前のセーラがベッキーに話し相手を求め、話し相手になったようである。そしてアニメにもあったよう、台所では丁寧な言葉は使わないが気にしないで欲しいという事も告げるシーンもあるが、それ以外はセーラに尽くし上記の台詞の通りに実行するのだ。
(次点)「とんでもございません、お嬢様のせいだなんて。私、お嬢様のおそばにいられたことだけでも、どんなに感謝していたか知れないんです。」(マリエット)
…マリエットがセーラとの出会いに感謝している台詞、マリエットの気持ちが良く現れているだろう。同じメイドだからだろうか、脳内でベッキーの声と訛りにしても違和感ないよ。
名場面 マリエットとの別れ 名場面度
★★★
 セーラが院長室へ入ろうとすると、身支度をすっかり整えたマリエットが院長室から出てくる。その姿はマリエットの立場がどうなったか一瞬にして分かるもので、セーラだけでなく視る者全員が驚いたであろう。
 セーラもマリエットを素晴らしいメイドと思っていたし、マリエットもセーラに仕える事が出来たのを幸運に感じていた。この関係は原作もアニメも小説版もすべて共通である。この二人の別れをアニメでは時間の許す限り引き延ばしてじっくり描いている。原作ではマリエットが解雇されたことがミンチンから説明されるだけだし、小説版はセーラの誕生日当日のうちにマリエットは解雇され、セーラと最後の別れはしているが紙面の都合かかなりあっさりと描かれている。
 セーラはマリエットの解雇を自分のせいだと自分を責める、マリエットはセーラに仕えることが出来て嬉しかったとセーラに答える。そして二人涙を流して別れの抱擁…むろんこのひとときはミンチンによって切り裂かれる。それでもマリエットはセーラの額にキスをして、再びセーラを抱きしめる。
 これだけなら名場面として記憶に残らないが、視聴者もこのシーンの余韻を感じる暇もないままミンチンの鋭い声で現実に引き戻される。セーラに喪章を外せと迫るミンチンにセーラは珍しく反抗しているのは、ただ喪章を外したくないだけでなく、世話になった人との別れの挨拶すら許さないミンチンへの反抗心も含まれているとみることも出来る。
 そのやりとりの後、マリエットが玄関から出て行くシーンになる。「お嬢様、さようなら。」と言い残して立ち去るマリエットは学院を振り返りながら去って行く、その背中が悲しい。
 マリエットはついにこのサイトの「名台詞」シーンに出てこないままの降板となってしまった。いい台詞を吐いているときは決まって他にもっといい台詞を吐いている人がいるときだったからなー(この話もそう)。マリエットも印象的なキャラで印象度も強いけど、物語から去るとそんな訳で印象に残る台詞が少ないような気がする、本当にこの人しゃべってたんかいな?って感じで。
 
今回の
アーメンガード
「セーラ…」と泣くロッティを無理矢理連れて行く彼女。彼女はロッティを抱えて連れて行くが、これが「持ってゆく」という感じでシリアスシーンなのに滑稽である。このシーンは彼女のパワーを見ることが出来る。
 
アーメンガー度
★★★★
感想  セーラの屋根裏での新しい生活が動き出す。新しい生活といっても希望に満ちあふれたものでなく、不安と絶望の中に始まる新しい生活なのだ。その前にちゃんとベッキーという同僚の存在を大きくしておいたのは、この先の辛い物語を視るにあたって心の準備として必要だったのだろう。その屋根裏でのベッキーとセーラの会話は何度聞いても泣ける。
 さらに富豪時代のセーラとの決別がこの話のテーマでもある、全ての家財が持ち去られてがらんとした特別寄宿生室を敢えて出してセーラがもうここの住民でないことをセーラにも視聴者にも思い知らせ、そしてこれまでセーラを世話してきたマリエットとの別れ。このマリエットとの別れは人と人との別れと言うだけでなく、セーラのそれまでの生活全てとの最後の別れという点でかなり物語の展開上は重要なのだ。だから私としては、泣けるのは屋根裏でのベッキーとの会話だと思うが、物語全体を通した場合の名場面と言われるとこちらのような気がしてならない。
 そして最後はついにセーラが仕事に使われるシーンで締めくくる。セーラの姿がラビニア達に見つかって生徒達に晒されるのもこの話の「富豪時代が終わってこうなりました」を描くという目的を達するために必要だと思われる。これがないと今回の話は終われないだろう。
 私の脳内ではこの13話のラストで、画面一杯に「小公女セーラ第一部・完」と出てくる。アニメの「小公女セーラ」という物語はここで一区切りつけられるだろう(原作も小説版もここの流れが多少違うのでここで区切れないが)。ここまでは富豪の娘として何不自由なく育ってきた少女がどん底に突き落とされる話なのである。この話、本放送当時はちょうど年度末の放送だったし。
 そして次回からはその少女がどん底で何を見るかの物語に変わるのだ。
研究 ・最初の仕事
 今回の話は細かい点を除けば原作のエピソードに沿っていると言えるが、原作の文章のひとつひとつを膨らましている感がある。ベッキーの訪問ではベッキーの台詞が増やされて誕生パーティのプレゼントが出てくるし、朝ミンチン院長のところへ行ったときはマリエットとの別れをエピソードに加えている。
 原作に忠実なのは屋根裏で過ごした最初の夜の事位だろう。居間まで体験したこと無い漆黒の闇や、ネズミが走り回る音や風の音などに恐怖を感じ、身を震わせて布団にくるまってしまうのは原作セーラもアニメのセーラも同じだ。ただ原作のセーラはそれのおかげで父の死と破産の悲しみから逃れられたようだが。
 さて、セーラ最初の仕事はアニメの場合は生徒達の朝食の片付けである。皿を片づけてベッキーが持ってきたかごに入れ、流しへ運んで皿洗いなのだがこの途中でモーリーに教室掃除を命じられる。次話以降は台所仕事を中心に様々な仕事のシーンが現れ、これらの仕事を積極的にこなそうとするセーラの健気さに心を打たれる。
 原作ではセーラの最初の仕事は年少生徒との朝食である。そう、原作ではセーラは朝食を生徒達と取ることが許されているという点はアニメから入った人間は違和感を感じるだろう。ただしただ朝食を食べるのでなく、年少生徒の朝食の世話という仕事をしながらの朝食である。そして年少生徒のフランス語を教え、他の授業の復習と先生のまねごとみたいな仕事を中心にさせられていた。これはミンチンがゆくゆくはセーラを教師にして学院のために本格的に働かせようと、最初から企んでいたためである。この仕事の合間に様々な使い走りをさせられ、セーラが勉強だけでなくいろんな面で役立つと分かると買い出しや部屋の掃除や台所仕事をさせられるようになる。特に料理番や女中頭はそれまでお嬢様として育ってきた少女をおもしろがってこき使ったとある。
 ちなみに、アニメのこの話ではセーラがミンチンに勉強させてくれと懇願して却下されるシーンがあるが、原作では上記の理由でミンチンから仕事が全部終わったらちゃんと勉強をするように命じられているし、その際は教室の使用も認められているようだ。。ただし、セーラの仕事が増えると料理番や女中頭がそれを許さず、何日も勉強できなかったり、許しが出るのが夜遅かったりしてやはり勉強は出来ずにいた。
 小説版ではこの回のエピソード自体が大幅にカットされているので、セーラが最初にどんな仕事をしたか分からなくなってしまっている。いきなり半日分くらいの台所仕事の描写になってしまうのだ。おまけに次話のエピソード(セーラが朝食のパンを配っているとラビニアがそれをわざと落とす)が最初に仕事したこの日のエピソードになってしまっていて、話の前後関係までこの辺りで大幅に狂っているのだ。

第14話「深夜のお客様」
名台詞 「ち、違うわ。私、変わってなんていないわ。だって、いくら話しかけても私から逃げようとしているみたいなの、あなたの方ですもの。私、どうしていいのか頭の中かめちゃめちゃになって…。」
(アーメンガード)
名台詞度
★★★
 前話でベッキーに「変わっていない」と言われたセーラは、今回はアーメンガードからこの言葉を浴びる。遠回しだが端的に言うと「あんたは変わってしまった」と。前話との比較で見ると対照的である、その対照的な部分がセーラの周囲への思いこみなのだ。
 確かにセーラはベッキーに対しては変わっていない。全てを失ってしまったと思っていたセーラはベッキーという友人が失われていなかった事を前話で知った。でも他の友人については失ったと思いこんでしまった、だからアーメンガードに近づいてはならいと勝手に感じてしまった。それがこの話前半のアーメンガードへの冷たい態度として現れ、アーメンガードの気持ちを踏みにじる。
 だがアーメンガードに言わせればセーラが金持ちだろうとメイドだろうと友は友なのだ、そんな気持ちを前面に押し出してセーラにその大事なことを気付かせた重要な台詞だ。
 セーラはこの台詞を浴びせかけられ、ベッキー以外の友人を失ってしまったという考えが間違いであったと気付く。そう、変わってしまったのは自分だけだったと気付き、アーメンガードとの友情を確認するのである。
 原作ではこの台詞はもっとストレートだ。原作アーメンガード、略してアーミィは「何もかも変わってしまった」と言うセーラに「変わってしまったのはあなたのほうよ!」とハッキリ告げる。
 小説版では、この台詞の変わりにセーラの心境を細かく説明しているだけ。小説版のアーメンガードはここではいいとこ無し…。
(次点)「セーラ、これでわたくしとあなたがどんなに差がついたか、よく分かったでしょう?」(ラビニア)
…ラビニアがセーラに勝ち誇ったつもりになった台詞。ラビニアが過去に言ったとおりセーラが代表生徒になったのはセーラの実力ではないが、ラビニアがその座を取り返したのもラビニアの実力でなく運に過ぎない…と言うことを考えるとラビニアの都合の良さがよく分かる。アニメの脚本家は本当に上手に、アニメのラビニアにいじめっ子としての性格を与えたと思う。
名場面 セーラが仕事がうまくいかないと、ベッキーがセーラをこっそり助ける 名場面度
★★★
 この話ではセーラが台所で働くシーンがたびたび出てくる。冒頭の朝食支度、中盤の夕食の片付けや、流し場の掃除などである。
 このシーンひとつひとつに、今回だけの心憎い演出がされている。それは仕事に慣れないセーラがうまくできないシーンばかり続くのである。鍋は持てない、積み上げた皿を持って歩くと足がふらつく、皿洗いも満足に出来ない、モップの使い方がなっていない…こうやってセーラが躓くと必ず目の前にベッキーの笑顔があり、セーラをフォローするのである。そして微笑み合う二人、セーラがもたつくとベッキーも一緒になって叱られるのだが、ベッキーはそんなことを意に介していない。こうやってこの二人の関係がどんどん親密になって行くのだ。
 小説版にもベッキーがセーラをこっそり助けていることは具体的ではないが明記されている。原作にはこのような描写はないが、前話の名台詞で紹介したとおりの行動でベッキーはセーラに尽くす。
 このベッキーのフォローがなかったら、アニメの少し気の弱いセーラは早々に挫けたかも知れない。
 
今回の
アーメンガード
やっぱり深夜の屋根裏、ベッキーとの壁を通じた通信方法を見て驚いた時に大声を出してしまい慌てて口を塞ぐ彼女と、セーラに石版を渡すのを忘れていて「しまった」と自分の頭を叩きながら舌を出す彼女は可愛い…この回はシリアスシーンの彼女もすごくいいのだが…。今年になって再視聴した際、かつて私がアーメンガードが大好きだったのを思い出したのはこの回を見たときだ。
 
アーメンガー度
★★★★★
感想  「小公女セーラ・第二部」スタート! オープニングテーマが終わってサブタイトル表示の後、いきなり蒸気機関車のアップはたまげた。
 そしてアーメンガードが可愛く見えた。いや、実際可愛いしあの位の歳の子はあの位の体型の方が可愛いのだけど、今回のアーミィちゃんはマジで可愛かったと思う。特に屋根裏でセーラに渡す物があったのを忘れていたと気付いたとき「いけない!」と言って舌を出すシーンでは、全46話中もっともアーメンガードが可愛く描かれている。
 それはともかく、この物語はアーメンガードが主役とも思え、アーメンガードの悲しみを中心に描いているけど、実はセーラの苦悩も同時に描き出している。セーラの苦悩は生徒達とどんな関係を保てば良いのか、ということだろう。自分なりに生徒と距離を置かねばならないという結論を一度は出し、それに従って行動したのにそれで苦しむ人間もいると言うことに気付かされるのである。そういう人間と仲良く続けていきたいのは山々だが、そうすれば今度はそれを嫌がる人間が出てくる。この板挟みにセーラも苦しんでいたと思われる。
 でアーメンガードの悲しみはセーラが自分の変化に気付いたことで消えて行くのだが、セーラの苦悩はこの話では消えていない。アーメンガードとの関係修復をしただけで、セーラは生徒との関係について結論を出せていないのである。そしてそのまま結論が出ずに話が進む、アニメと小説版では自然にセーラに何かか起きたときにアーメンガードとロッティは黙っていられず、それにセーラも自然に応えられるようになる。
 この複雑な状況に気付いたのは今回、「小公女セーラ」を見直してからだ。こんな細かい作りは最近のアニメでは軽く流されて、関係を単純化していくだろう。このような作りで大人の視聴にも耐えられるようにしている「世界名作劇場」は、やっぱ素晴らしい作品だと思う(確かに「ポルフィの長い旅」第2話では凄く細かい芸がされていたな…「ポルフィ」も面白いので取り上げます)。
研究 ・アーメンガードとセーラの関係
 この回の前半はオリジナルで後半が原作を踏襲している部分である。前半の食堂シーンをはじめとするラビニアがセーラに辛く当たるシーンは原作には存在しない。後半にラビニア達が寝室で「あのセーラがダイヤモンドプリンセスと言われていたなんて…」と笑う辺りからが原作に沿ったストーリーとなる。アニメではガートルードがアーメンガードの頬を涙が流れる様子を実況するが、これは原作ではジェシーの台詞になっている。
 セーラがアーメンガードを含む生徒全員に冷たく接するようになったのを、アーメンガードが悲しんで屋根裏までセーラを問いつめに行くというこのストーリーは、後にも先にもこの話だけのアーメンガードが主役となる回である。14話後半はアーメンガードを中心に物語を展開させ、セーラにとってもアーメンガードにとっても互いが無くてはならない関係になっていることを示唆して、セーラのメイド時代の関係構図を設定し、セーラの味方になる人物を決定づける話のひとつである。13話から16話までがこのタイプのエピソードに分類されるだろう(13話前半がベッキー、14話後半はアーメンガード、15話後半がピーター、16話後半がロッティとなる)。
 無論、原作の方も同じように物語が組み立てられている。セーラがメイドの仕事を始めたところでこのような関係を構築させて味方となる人物をベッキー、アーメンガード、ロッティの順でハッキリさせる。ところがメイドになる前のアーメンガードとセーラの関係は原作とアニメではかなり違う。前述の通り、アニメでは互いが親友として認め合っていたのだが。
 原作の二人の関係は上下関係がハッキリしていた。セーラが上でアーメンガードが下という関係で、少なくともセーラはそういう関係を意識していたようである。勉強が苦手なアーメンガードにいろいろ教えてあげてたり、いろんなお話をせがまれては話してやるからだろう。アーメンガードはセーラに必死になってついていっているという感じで、セーラから見れば特別な関係の友人ではなかった。だがアーメンガードから見ればセーラが大きい存在だったのは変わらない。
 こんな関係だったおかげでセーラは父親の死をきっかけに自分の身分が変わった悲しみと苦しみの中で、アーメンガードという存在を忘れていたという。そして悲しみから回復したところで「そう言えばそんな奴もいたっけ?」と思い出したのだ。ただセーラの父の死の直後、アーメンガードは親に呼び出されて一時帰宅していたので学院には居なかったという事情もある。それでもセーラにとってアーメンガードは辛いときに思い出す人物ではなかったのだ。
 さらにミンチンがセーラを生徒の目につかないようにしたため、アーメンガードはセーラの顔すら見る機会が少なくなり、成績も落ちてきたのもあってセーラを思い出して泣くようになったとある。そして耐えきれず、アーメンガードは深夜に屋根裏へ。
 その後の屋根裏でセーラと会っての会話はほぼ完全に原作とアニメで一致している。ただひとつだけアニメにない台詞がある。それはアーメンガードが「あなたは私がいなくても困らないかも知れないけど、私はあなたなしでは生きていけない。」と言うのである。この台詞が原作のセーラとアーメンガードの関係を一言で説明していると考えて良いだろう。
 小説版でも、この屋根裏での出来事は原作やアニメと一致している。数少ない3メディアで統一されているシーンだ。

第15話「街の子ピーター」
名台詞 「セ、セーラ」
(ピーター)
名台詞度
★★★★
 セーラに「お嬢様と呼ぶのはやめて」と言われ、その場で「セーラ」と呼ぶように言われる。そして出てきたピーターの言葉は、恥ずかしそうに小声でセーラの名を呼ぶ声であった。
 やはりピーターにとってセーラは恩人であり、また手の届かないお嬢様でもあって事情はどうであろうと呼び捨てで呼ぶわけには行かなかったのだろう。13話でのベッキーの名台詞と同じ思いを、ピーターも持っていたことが分かる。その思いを口に出せた事によってベッキーはセーラを慕い続ける態度を変えずに済んだ、しかしピーターにはそれが言えなかった、いやセーラが言う隙を与えなかったのである。
 ピーターもハッキリと「お嬢様は俺にとって、どんな事があってもプリンセス様なんです。俺はそう決めたんだ。」なんて台詞を吐いていれば、ベッキーのパクリで印象に残る台詞にはならなかったが、セーラはピーターにお嬢様呼ばわりを止めさせる事はしなかっただろう。
 この台詞以降、しばらくピーターはセーラを名前で呼び捨てで呼ぶ。正確に言うと「お嬢様」って呼ぶとセーラに「お嬢様って誰のこと?」と突っ込まれてそう呼べなくなっただけである。でもいつの間にか「お嬢様」に戻っているし、セーラもそれに突っ込まなくなっているんだよな。この方が自然だって事に気付くんだろうな。
(次点)「あのときの私とはもう違う」(セーラ)
…市場へ向かう途中でかつて自分が泊まったホテルを見つけ、呟いた一言。セーラの変化を強調する一言で、セーラの苦しみを一言で表現している。
名場面 セーラとピーターの再会シーン 名場面度
★★★
 お金を市場の子供達に奪われたセーラ、まずは追いかけ、見失ったと分かったときの困惑。なんとか1シリングを見つけるもののこれだけでは買い物にはとても足りない、「お釣りを忘れたら承知しない」というモーリーの言葉を思い出し、お釣りどころか買い物するお金そのものを失ってしまった事実を改めて思い知らされ、セーラは何かにすがるようにその辺りを探し回る。
 その時に突然と目の前に現れたピーターが、セーラには神に見えたことだろう。いや、冷静に考えればピーターに会えたからって失った2シリングが戻ってくるはずはないのだが、一人で困っているよりは数倍マシなのは確か。セーラにとっては学院に帰って叱られる前に自分を勇気づけてくれる存在を見つけたってところが本心だったはずだ。
 その後ピーターは必要な野菜をタダで揃えるという魔法を見せるのだが、それはこうして二人が巡り会った以上はピーターに言わせてみれば「やっぱお金がないと無理なんです」では済ませられないところだろう。市場での自分の顔を最大限に活用できるときが来た!とピーターはセーラから事情を聞いた瞬間に感じたに違いない。そして野菜が全てタダで手に入ったことを一番喜んだのは、モーリーに叱られずに済んだセーラではなく、自分の顔の広さが実証できた上に恩人であるセーラを救うことが出来たピーターの方だろう。
 このエピソードからピーターは何度もセーラのピンチを救うことになる。それはベッキー同様にセーラの優しさに触れたことによって、セーラを慕い続けるからである。ピーターは後に学院を追い出されたセーラを自分の家に連れて行くところまで行く。
 
(次点)セーラ玄関の掃除をする場面。
…セーラはモーリーに玄関の掃除を命じられる。やってみるとかつてベッキーが同じ仕事をしていたことを思い出し、ベッキーの仕事の辛さを理解する。立場が変わったセーラを強調するシーンだ。
今回の
アーメンガード
礼拝に行くのにまた遅刻しそうになって玄関から慌てて出てくるこのシーンは、彼女のキャラクター性を象徴するシーンだ。。
アーメンガー度
感想  さて問題、セーラの時代に2シリングと8ペンスの買い物に3シリング出しました、お釣りはいくらでしょう?
 本放送時に前半は見ていて辛く、後半はどうなるのかとハラハラドキドキしていたのを記憶している。特にセーラがお金を盗まれて以降は、もうモーリーの怒鳴り声を覚悟して見ていた。でも考えればそうならないのが「世界名作劇場」なのに、このアニメにはそれを感じ取ることが出来ないからなぁ。
 そして突如ピーターと再会し、あれよあれよとピーターの活躍で事が解決してしまったのを見て「ありえねー」と思ったのも事実。
 アニメ「小公女セーラ」では、魔法を使うのは原作通りのクリスフォードだけでない。ピーターのこの活躍はもうひとつの「魔法」と私は見た。それも地味に本当に本人に今必要なことを解決させるだけの魔法であるが、それでセーラがどれだけ救われたかを考えれば魔法の結果はクリスフォードの上を行くものだろう。この後、ピーターは何度か魔法を使ってセーラを助ける。その内容も変わらず、贅沢もなく、セーラを実用的に救う優れた魔法でセーラを救うのだ。
 めざとい人にはこの話でそのような展開が見えることだろう。
 感想文冒頭の問題の答え、2ペンスと答えたあなたはブー。正解は4ペンス、当時のイギリスの通貨はダース単位だったとのこと、つまり12ペンスで1シリングになる。だいたい当時の1シリングが現在の1000円位(後に検証予定)だと思われるので、セーラは2700円位の買い物をするはずで3000円無くしたと考えれば良いだろう。野菜2700円分というと13人の生徒と2人の先生、それに台所の二人が食べたらセーラとベッキーの分まで回るか微妙のような気がする。モーリーがお金を渡し、ジェームスが計算をするシーンでお釣りの額を言わなかったのは、子供達の混乱を防ぐためだったんだろうな。12進法じゃ、ベッキーだけでなく私も間違えそうだ。
研究 ・ピーター誕生を想像する
 今回の話は完全にアニメオリジナルで、原作が元になっているシーンはひとつもない。小説版では前半のシーンは省略され、後半のセーラがお金を奪われるシーンからこのエピソードが始まる。
 このピーターという人物そのものがアニメオリジナルである。このような人物を用意した理由は、不特定多数が見る日曜夜のアニメということをふまえてのものだったのだろう。「小公女」は基本的に女性ばかりの物語であり、それをそのままアニメにすると男性視聴者を取り込めるかどうかという問題にぶち当たる。いくら女の子を美しく描いても、そこに感情移入できる男性キャラがいなければ男は物語に入っていけない。女の子が可愛ければいい一部のヲタは例外になるが。
 いや、「小公女」にはクリスフォードやラムダスがいるじゃないか、と思う方は浅はかである。確かに「小公女」にはクリスフードやラムダスという男性陣も大いに活躍しているが、出てくるのは後半以降だ。「小公女」の話を均等に分割するとクリスフォードやラムダスの初登場はちょうど中間点である。実際に「魔法」というかたちで活躍するのはもう終盤に入ってから。数日で読み終える小説なら問題はない。
 しかし、これを1年間かけて連続で放映するアニメに変換すれば、物語が1月に始まって男性陣の活躍のはじまりは9月以降になってしまうのである。8ヶ月も男性が感情移入できるキャラクター無しで男性視聴者を引き留めておけるか、という問題は「小公女」をアニメにする際の一番の問題点だったのではないかと私は考える。
 その解決法は男性が活躍するシーンを物語前半に作るしかないのである。さらにアニメで1年間放映するためには内容そのものを引き延ばす必要がある。それで最初にスポットが当たったのは原作では一度しか出てこないデュファルジュ先生だろう、しかし彼は大人の男性視聴者を引き込むことは出来るが男の子を取り入れるには不向きだ。それにデュファルジュだけでは話の組み立ても難しい、ならば男の子をターゲットに男の子のキャラを作ってしまえ、と真剣に考えた上で作り出されたキャラがピーターではないかと思う。
 そして序盤ではセーラの御者、ラルフの死以後は市場の使い走りとしてセーラの近くに配置するという設定もそんなに難しく無かったと思われる。そうしてピーターは男の子を取り込むためのキャラとして誕生し、事実それに成功したのではないかと思われる。「小公女セーラ」のファンサイトをいくつか見たが、ピーターの存在を問題視している人はほぼ皆無である。
 ピーターは今後何度も出てきてセーラを助ける。そしてデュファルジュ先生の活躍が増える時には一度出番が減るものの、クリスフォードが隣に来るまでの間、男の子が感情移入できるキャラという役割を果たすのである。そして、ラムダスが出てきた後もピーターの役割は終わらないのである。

第16話「ロッティの冒険」
名台詞 「いいのよベッキー、私が罰を受ければいいのだから。」
(セーラ)
名台詞度
★★★
 セーラの部屋に泊まりたいと泣くロッティを、ベッキーが連れ帰ると言うのだがそれは当然の行為であろう。ロッティが屋根裏に泊まることなど許されるはずがないのである。それに対しセーラはこの台詞を吐くのである。
 この台詞にはロッティと仲良くなった日にセーラが心に決めたロッティの母親代わりとしての覚悟が今も続いていることを示している。セーラはメイドになった最初の頃こそはロッティも避けていたが、アーメンガードにそうやって変わってしまうのは良くないと気付かされた後は、機会あればアーメンガードやロッティに関わろうとする。この話の前半ではそれをミンチンに咎められるが、セーラは全く気にしていない。つまりやっぱりセーラは変わってないのだ。そして、ロッティにとって夜中にそれまで来たこともない屋根裏に来たということが大変だったかを理解していた。このまま返す訳にはどうしても行かなかった。
 小説版ではこの台詞はないがセーラの気持ちとして語られている。原作にはこれに該当する台詞はない、ベッキーがロッティが泣く現場に現れないのだ。この台詞の変わりに泣き叫んだら困ると、ロッティに「あなたが泣けば私が叱られる」と言い聞かせるのである。アニメのセーラがこの台詞を言うシーンは想像できないなぁ。
(次点)「でもピーター、お嬢様って誰の事かしら?」(セーラ)
…ピーターにしつこくお嬢様と呼びかけられたセーラが一言。この台詞を言うときのセーラの声も表情も最高!
名場面 お絵かきの授業のロッティ 名場面度
★★
 セーラが助けてくれなくて悲しみのロッティ、そんな悲しみの中にある4歳児を、幼児にありがちな行動パターンでもって上手に描き上げていると思う。授業そっちのけでセーラが気になり、そのセーラが外を歩いているのを見れば、もう状況を忘れて手を振る。そう、家の留守番を頼まれた小さな子供がたまたま窓から外を見て、そこに親に姿が見えたらどう行動するだろう?
 さらに手を振っているとミンチンに叱られるが、最初はミンチンの声が聞こえないのももっともだ。そして怒鳴られてやっと気付くが、他人に命ぜられて書いた絵を、それを命じた人間への反抗として黒く塗りつぶす。アニメには出てこないが、この後ミンチンがロッティに対してどういう態度で臨んだかはだいたい想像がつく、それは明らかに間違った態度だろう。
 原作にも小説版にもこのエピソードはない。
今回の
アーメンガード
お絵かき授業中のロッティの様子を心配そうに見つめる彼女。今後こういう不安げな表情が増えてゆく。
アーメンガー度
★★
感想  原作を知らなかった当時は、予告編を見る前から「ベッキー、アーメンガード、ピーターと来たから次はロッティだな」と思っていたら本当に来たって感じ。見てみるとやっぱりロッティが屋根裏へ行く話だと、予想していたとおりで安堵したような記憶もある。どっかでミンチンが出てきて叱られて終わるのかなと考えたから。
 最近になって見直すといろいろ再発見もある。やっぱり一番はお絵かき授業中のロッティが幼児としてリアルに描かれている点だ、このシーンを描くのに幼児の行動パターンを研究したんだろうなと感心させられる。それとロッティが屋根裏へ向かって階段を上り行くシーンでは、影が大きく見えるという現象をうまく利用している。シーンも低い位置からのアングルを多くし、ロッティの恐怖をうまく演出していると思う。
 ここまでに屋根裏の間取りがハッキリしてきた。階段を上って左に曲がるとセーラとベッキーの部屋。今回初めて右に曲がるシーンが描かれた、ロッティが迷い込んだ部屋は使われなくなって久しい倉庫代わりの部屋である。18話に出てくるメイポールが保管されている部屋だろうか?
研究 ・ロッティとメル
 この話は原作のストーリーに沿っているが、それだけでは30分持たないので話を膨らませてある。後半のロッティが屋根裏へ行くところはほぼ原作通りであるが、前半はかなり膨らんでいる。セーラが買い出しに行くシーンや、ロッティがセーラを捜して台所に来るシーン、お絵かきの授業光景、ロッティの悪夢などはアニメオリジナル。
 原作を踏襲している部分にも違いが多い、ロッティがセーラどうなったのアーメンガードに聞くシーンがあるが、原作ではこれはセーラに直接聞いている。セーラも答えに困って「あなたがお話をすると私が叱られる」と会話を遮るのである。これもアニメのセーラからは考えられない台詞だ。つまり原作のセーラはロッティを煙たがっているようにも感じるのである。ちなみに原作ロッティはこのエピソードでは7歳。
 さらに原作ロッティが意を決して屋根裏へ行くのは深夜ではなく、午後のセーラが手すきの時間帯である。しかもロッティは屋根裏に上がり、適当にドアを開くと天窓から外を眺めるセーラの後ろ姿を見つける、というもの。この後の展開は前後関係に多少相違はあるものの原作もアニメも同じである。小説版は完全にアニメの内容を文章化しただけである。

 さて、このエピソードの中で初登場のキャラクターはネズミの「メル」である。セーラの父がくれた本の登場人物「メルチセデック」から名を取ってメル、原作では縮めずそのままメルチセデックという名前になっている。アニメでは小さな子供の視聴に耐えねばならないという理由で、名前を縮められたのだと推察する。
 そのメルチセデックという名前がどこから来たのか調べてみたのだが…検索サイトを見てもなんとかのストレインってアニメに関連するサイトしか出てこないので挫折。このアニメ、登場人物の名前が「セーラ」「ベッキー」「ラビニア」「アーメンガード」「カーマイケル」…といった「小公女」のキャラと同じ名前が殆どなのは決して偶然ではないだろう。

第17話「小さな友メルの家族」
名台詞 「泣かないでアーメンガード、みんなが戻ってこないうちに早く食べてちょうだい。」
(セーラ)
名台詞度
★★
 自分がメルのことを教えたがために、メルの餌を持ち帰ろうと考えたアーメンガードはラビニアに告げ口されてお仕置きを受ける。アーメンガードがお仕置きを受けるのは自分のせいだとセーラはアーメンガードにピーターからもらったリンゴを差し出す。
 この話もアーメンガードが主役の話だ、原作のアーメンガードにメルを紹介するエピソード(アニメ17話前半に該当)を膨らませに膨らまして出来上がったアニメオリジナルのお話。アーメンガードはセーラが来てくれたことを喜び、セーラはアーメンガードが気になってしょうがないが、でもこの時点での最大の恐怖は誰かが部屋に戻ってくること。だからこの台詞は、友情を確かめ合いつつもセーラは現実的な判断をしていると見ることも出来る。
 小説版でもこのシーンは再現されているが、セーラやアーメンガードの台詞を増やされている。メルのことを話せばアーメンガードが屋根裏へ行っている事がバレるという台詞もこのシーンでアーメンガードが言ってるし、ラビニアに「あんたは食いしん坊だから…」とバカにされたこともアーメンガードがセーラに告白する。それに小説版のセーラの台詞の方が名台詞としては完全に上。
名場面 深夜の屋根裏部屋で、アーメンガードがネズミを怖がる場面 名場面度
★★
 まずはアーメンガード、セーラの部屋の外でセーラが一人でなにやら話しているのを聞いたときの表情がいい。「何かしら?ついに頭がおかしくなっちゃったんじゃぁ…」とまでは考えてないだろうけど、セーラの部屋に何か変化があったことをハッキリと感じ取る。
 そして中へ入ってネズミと聞いたときのアーメンガードの様子は滑稽だし可愛いし、まるでド○えもんのようだ。「きゃー」と叫んでセーラに抱きついたり、セーラが名前をつけたと聞いて呆れ顔で怯え、その後声が聞こえると「出たー!」と叫んでセーラの布団に潜り込む様子は本当にドラえ○んのようだ、じゃなくて可愛い。明らかにセーラはそれをおもしろがっている、珍しくセーラが人をからかっているシーンと見ることも出来るだろう。でも本当は、セーラに言わせれば自分の数少ない友達をアーメンガードに見せたいだけなのだろう。
 このシーンはほぼ原作に沿っている。ただしセーラは「自分も最初は怖かった」と白状するし、アーメンガードがセーラの友達は幽霊ではないかと疑ったり、さらにリアルなシーンとして描かれている。その後アーメンガードはセーラの部屋を訪れるたびにネズミに慣れてゆき、セーラと一緒に友達になる。ちなみにアーメンガードがセーラとベッキーが壁を叩きあって意思疎通している事実を知るのは、原作ではこのシーンである。ちなみに小説版ではこのシーンはカット、アーメンガードがお仕置きを受けたと聞いた時のセーラの回想シーンとしてほんのちょこっと出てくるだけである。
  
今回の
アーメンガード
今回はアーメンガードの見どころが非常に多く、彼女のファンの私としては見ていて非常に楽しい。まずはセーラの部屋から声がするのを不思議そうに思う彼女、それにメルにやるためのパンをゲットして思わず喜びを浮かべる彼女。この回の彼女は表情も多彩だ。
 
アーメンガー度
★★★★
感想  なんてったって前半、久しぶりにほのぼのシーンが出てきたのに安堵した。まさかこのままドロドロがずっと続くのかなと思っていたところだから、前半のアーメンガードがネズミを怖がるシーンは本当に笑顔で見た。アーメンガードがドラ○もんのようだというのは本放送当時の感想。
 当時はこの話前半のアーメンガードがマジで可愛いと思った、俺って本放送でリアルタイムに見ていた頃はアーメンガードのファンだったのかも知れない。この子、たまに出てきて活躍するシーンがあると本当にいい顔をするんだよね。当時の自分好みだったというのもあるけど、キャラ的にもいつもバカにされる役で他人事とは思えなかったのもあるかも知れない。セーラはいじめられて悲惨だけど、アーメンガードもかなり悲惨な立場な訳だ。
 最近見直しても、このシーンのアーミィちゃんはやっぱ可愛いね。でも歳を経て自分の好みが変わってきている事も確か、あの頃ほど純粋にアーメンガードが可愛いとは思えなくなってきている。それがいいのか悪いのか私には分からない。
 最後のセーラがモーリーに怒鳴られるシーンも、セーラが怒鳴られるよりアーメンガードとの友情を取ったと見ることができ、子供向けとしてはとても良い。それにベッキーが助け船を出すのも良い。
研究 ・ミンチンのお仕置き
 今回の話は前半に原作を踏襲したエピソードを、原作にほぼ忠実に入れて後半はそれを膨らませたアニメオリジナルというつくりになっている。したがって後半のアーメンガードがお仕置きを受けてセーラとの友情を確認するシーンは原作にはない、原作はアーメンガードがネズミに慣れるだけの話なのだ。
 さて、ミンチン学院のお仕置きのうちのひとつが判明した。アニメ4話で無断外出したアーメンガードの前でミンチンが鞭を取り出して素振りするシーンがあった、これはセーラに止められて実行されなかったが、このシーンを覚えていた人はミンチンが「お仕置きします」と言ったときにアーメンガードが鞭で叩かれるものだと思ったことだろう。
 でもアーメンガードは鞭で叩かれず、居室に閉じこめられて昼食抜きというお仕置きだった。鞭で叩かれるのとどっちが刑として重いのかはよく分からないが、これで「無断外出=鞭」「はしたない行動=居室で謹慎・食事抜き」というルールがあることだけは分かった。考え方を少し変えれば、セーラについても「学院に損害を出させた=タダ働き」というお仕置きに当たるかも知れないし、メイドには「働きが悪い=食事抜き」「ミンチンの言いつけを破った=3食抜き」というルールがありそうだ。

第18話「悲しいメイポール祭」
名台詞 「いいんだよ、君みたいな可哀想な人には親切にしてあげるようにって、ママに教わったんだ。」
(ドナルド)
名台詞度
★★★★
 セーラの心をえぐるえぐる、もうセーラの心の傷に塩を塗り込むだけじゃなくて、硫酸とかもっと凄いものを塗り込んでも足りない位の心の痛さだろう。特にセーラがお嬢様育ちだっただけに、見知らぬ子供にお金を恵まれるなんて耐えられないことであって、これはもうセーラがどうやってプライドを誇示するかが問題になる。いや、普通のお嬢様なら再起不能だろう。この一言はミンチンやモーリーの怒鳴り声や、ラビニアのいじめより辛かったはずだ。
 小説版のドナルドはもっと酷い。その後のシーンで母親が出てきたらもうセーラの事を忘れて母の方へ走り去り、二度とセーラを振り向くこともない。本当に冷たく去って行くのだ。
 原作でもこのエピソードはある。しかしアニメではこれに「メイポール祭」というスパイスをかけて悲惨度をさらに上げている。もうそこまでやるかって位にセーラに救いが無い。原作の方がその後のドナルドやその兄妹を見ているとまだ救われる。アニメになって余計に悲惨になってしまったという珍しいエピソードだろう。
名場面 ベッキーとセーラの朝のひととき 名場面度
★★★
 ここで初めてセーラとベッキーが普段から飢えていることがハッキリと分かるシーン。ここまでは二人が空腹に耐えているようなシーンは無かった、だからこそネズミに餌をやったりするシーンに違和感を感じなかったのだ。しかし、一度これを見てしまったら「そのパン、ネズミにやるより自分で食えよ…」と突っ込みたくなってしまうだろう。だからここまではセーラとベッキーが空腹であるシーンを描かなかったと思う。
 二人は朝の挨拶の後、空腹で目が覚めた、あるいは眠れなかった事を告白しあい笑い合う。この仕草が少女らしくて可愛いのだが、これがこの話での悲劇の始まりに他ならないことは誰も予想しないだろう。でもこの辺りからセーラとベッキーは本当に仲良くなり、このような二人の微笑ましいやり取りが繰り返されるようになる。
 原作のセーラもよく食事を抜かれて腹を空かせていたが、ベッキーとこんなやり取りをするようなことはない。ただし、セーラがそんな苦しいときは何かのつもりをした方がいいとベッキーに言うシーンはある。
今回の
アーメンガード
5月の朝露を浴びながら手鏡を見る彼女。顔が真剣で女の子らしくてこれも私が好きなシーン。手鏡を見ながら回っているようだが…。
アーメンガー度
★★★★
感想  だんだん見てられない話が多くなってくる。セーラの心がえぐられるような辛い話はここからしばらく続く。
 この話はハッキリ言って、サブタイトルになっている「メイポール祭」なんてどうでもいい話で、ドナルドにお金を恵まれて傷つくセーラをいかに悲惨に描くかに全てが注がれているような気がする(それは本放送当時から感じていた)。無論メイポール祭は周囲を賑やかにするスパイスでしかないし、他にベッキーと空腹を明るく慰め合ったり、朝の仕事を助け合いながらこなすセーラとベッキーの姿、さらに祭りの準備でのアーメンガードやロッティとの会話、仕事が忙しくて相手になれないピーター、ロンドンの街行く人々、5月のさわやかな日差し(原作ではこの事件は真冬に起きる)までもがその道具として動員されている感じである。全てはドナルドからお金をもらう瞬間を悲惨に描くためのスパイスなのだ。
 それは大成功で、視ている側もセーラの立場の急変と現況を改めて思い知らされることになる。そして涙腺の弱い人はラストシーンでセーラと共に泣いたであろう。私も本放送時はやばかった。
 どーでもいーが、メイポール祭のシーンでアーメンガードが容姿の事でまた悪く言われているが、少なくともガートルードは他人のこと言えないと思う。
研究 ・カーマイケル一家登場
 この話は後半に原作にある悲惨なエピソードを持ってきて、それをさらな悲惨にするために前半にアニメオリジナルのエピソードを入れて、さらにセーラを悲惨に描こうというキツイ話である。このパターンの話は「小公女セーラ」でもありそうであまり無い。ただしアニメを元にした小説版ではここまでセーラの悲惨度が強調されていない、メイポール祭の描写が最小限になってしまっているので華やかさの中で悲しい話が進むという構図になりきれなかったのだ。
 今回の話で初登場はカーマイケル一家、父親のカーマイケル弁護士は出てこないが、妻と娘のジャネットと息子のドナルドが登場する。まだ中盤にさしかかったところだが、話は少しずつ最後の大団円に向かっているのだ。まぁ、まだとてもそう見えないが。
 ドナルドはセーラが市場からの帰り道、道沿いにあった屋敷からかけだしての登場である。このカーマイケル一家、アニメ化にあたり大幅に設定が変わっている人たちである。
 アニメでは一家4人だが、原作では子供が8人もいる大家族なのである。原作を何度も読んだ結果、ドナルドは上から3番目でジャネットは2番目のようである。しかもカーマイケル一家の家は原作ではミンチン学院の向かいという設定で、セーラがその家の様子を見ては色々と妄想を膨らませているのである。そしてセーラはその一家を「大家族」と呼び、家族全員に勝手に名前まで付けしまうのだ。
 そして冬のある日、買い出しから戻ったセーラはカーマイケル氏の家から子供達がきれいな格好をして出てきたのを見て立ち止まってしまう。それを見つけたドナルドがセーラを乞食と勘違いしてお金を恵むという話になっている。その時のセーラの対応がとても貧乏人とは思えなかったと、様子を見ていたジャネットが言うと、この兄妹でもセーラのことを「乞食でない女の子」と呼んでたびたび話題にするようになる。
 アニメでは兄妹が多いとまず子供達が覚えるのが大変だし、何よりも作画に手間がかかったり声優をたくさん集めなければならないなど現実的な問題があったから兄妹を直接話に絡むドナルドとジャネットだけに限定することにしたのだろう。
 ただ設定を変えた理由がよく分からないのは、なんでカーマイケル一家の住まいがミンチン学院の向かいでなかったかだ。別にセーラの部屋からドナルトやジャネットの様子が見えても問題はないと思うが、近所に子供がたくさん住んでいる妄想シーンを出すより余程良かったと思うが。
 今回、ドナルトはセーラの心をえぐる役割だったが、アニメ版ではラストのハッピーエンドの鍵を開けるのはドナルドである。それはまだ先の話。

 ドナルドやカーマイケル一家の登場をきっかけに、この先しばらく「小公女セーラ」は原作を離れて独自のストーリーを展開する。原作踏襲のエピソードもあるにはあるが、出てくる順序は原作とはまるで違う。

第19話「インドからの呼び声」
名台詞 「まかせてください、俺についてくればいいんです」
(ピーター)
名台詞度
★★★★
 この回のピーターいい。ピーターが主役の15話より良いことやるし、なによりもセーラの手を握って市場から教会、教会から港へ、そしてインド行きの船を探して歩き回るのがいい。なんか羨ましい、私はあの位の歳の時、同世代の女の子の手を握ったことなんかなかったぞー、ピーター羨ましい、マジで羨ましい(当時も今もこの感想は同じ)。
 それにこの台詞、そのまま「僕と結婚してください」とでも言いそうな勢いだ。この台詞の前後で照れまくる姿も良い、さらにこの台詞の勢いで手を握ってしまったことに気付き、顔が赤くなるのもいい。15話のピーターより生き生きとしていて、純情で素直な男の子としてのピーターを上手に描き上げた。
 ピーターの台詞である以上は原作には無いシーンで、小説版ではピーターがインドへ手紙を出すのを思いついたところでシーンが変わるのでこの台詞が無く消化不良だが、ここでピーターがなぜセーラのためにそこまでしたのか理由がハッキリと書かれている。その点ではアニメよりピーターの気持ちが分かって良い。
名場面 お父様宛だった手紙を見たセーラを見てベッキーが一緒に泣く場面 名場面度
★★★★
 もう、文句なしの名場面。中盤で数あるセーラとベッキー二人のシーンでは最高のシーンかも知れない。父に出した手紙が束になって送り返されて来たのを知り、リネン室に閉じこもって泣きじゃくるセーラ、そこへそっとベッキーが現れ、事情を知ると涙を流しセーラと共に泣く。もうセーラにとってもベッキーにとっても、相手が単なる友人ではなく空気のようになくてはならない存在になりつつあるのだ。
 重要なのはその手前の院長室前のシーンにアーメンガードとロッティもいたこと。アーメンガードは言葉が出ず、ロッティは父からの絵葉書を落とすほどのショックだったのだが、結局セーラを追いかけていったのはベッキーだけだった。恐らく、このシーンでアーメンガードやロッティがセーラを慰めに言っても視る側の同情を得られないと作る側が感じたのだろう、ここはセーラと苦楽を共にしているベッキーが出るしかない。
 そんなことよりも、セーラがベッキーにかなり依存していることも強調されている。互いが依存し合ってこの二人の関係が成り立っている、これが真の「苦楽を共に」って意味なのだろうと思う。
今回の
アーメンガード
父からの贈り物がまた本だったと落ち込む彼女。本当に本が嫌いなんだなー、ルーシーの算数嫌いとどっちが上だろう?
アーメンガー度
★★★
感想  本放送で初めて見たときは、ベッキーの話になりかかっていた前半を見終わった時にまさかこの話がピーターの話になるなんて思いもしなかった。現在になって改めて見直してみるとそうなるしかないと分かるんだけど。そしてこのインドへの手紙が終盤への伏線となる、アニメで言うところの44〜45話で設定が変わっているために必要となった事に対する伏線だ(詳細はその時に)。当時もこのインドへの手紙が何らかの伏線であると見て待っていたけど…やっと出で来たときにはかなり先の方だったのですっかり忘れてた。
 ベッキーについても最後に安心させて終わっているのも良い。前半の手紙の件でベッキーはセーラが心配でならなかったはずで、このベッキーの気持ちをちゃんと解決させて終わっている点も消化不良がなく評価できよう。最近の慌ただしいアニメだったらその辺りなんか忘れ去られそうなのに…こういう意味でこのシリーズ特有の時間がゆっくり流れる話はいいんだけどね。
 どーでもいーが、この回のセーラは顔が平面で違和感ありすぎ。
研究 ・ピーターの頭の良さ
 15話に続きセーラに必要な事をタダでこなしてしまうピーター。15話の時はセーラの仕事を助けたが、今回はセーラの私情である。セーラが父親に宛てた手紙が全て宛名人不明で帰ってきて、さらにバローから父親の死の状況を聞かされて、父の死が間違いでなかったと落ち込むセーラを力付けるには?…という問題に的確な対処をしている。それはセーラに希望を持たせること、父親の死が間違いでないならその詳細を調べればいい、そうすればセーラが誰を頼るべきかもハッキリするという考えもあっただろう。その思いはセーラにも伝わる。
 そしてピーターはまず便箋と封筒を手に入れ、続いて手紙をタダでインドへ送る作戦も用意してあった。つまりピーターは結構頭の良い人間であると認めざるを得ない。その頭の良さで両親が怪我と病気で動けない、という家庭環境にありながら市場で仕事を見つけて最低限の生活を維持することが出来るのだろう。そのピーターの機転でセーラは何度も救われるし、ベッキーが救われることもある。

 話は変わるが、アニメではこの話がバロー弁護士最後の出演となる。セーラがバローに父の死について問い合わせるのだが、具体的な返事が無くて困る。それでも父の死が間違いではないのは確かだったが。原作の場合、父の死の様子についてはセーラの誕生日にバローがミンチンに詳細に話している。アニメのバローよりも状況は詳しいが、やはりラルフの友人の名前などは出てこない。

第20話「謎の特別室生徒」
名台詞 「意地悪って、本当はしているその人も決して良い気持ちじゃないのよ。ラビニアもきっといつかそのことに気がつくはず。」
(セーラ)
名台詞度
★★★★★
 ハッキリ言おう、本放送当時「小公女セーラ」を全部見て一番印象に残った台詞はこれ。昨年、「完結版」で22年ぶりに見たときもこの台詞のシーンで涙が出た。
 この言葉はいじめられている人間にとっては「そうでありたい」と信じた方が良い言葉である。そう捉えることによって救われることが多々あるのだ。特に社会へ出て辛い目に遭ったとき、この言葉を覚えておくと救われることが多い。
 いじめという境遇でもそうだ。その時、リアルタイムでは分からないが、いつかきっといじめる側もそれを後悔する日が来るはずである。もうそう捉えていくしか乗り越えて術が無い。さらにいじめる側に無理矢理いじめを止めさせるのでなく、そう思わせることがいじめ根絶への一歩だと思うがどうだろう?
 物語のセーラもそう思っていくしか出来ない境遇になってきていたが、これはアニメを作った人がセーラに言わせた台詞なのだと思う。でもそのメッセージを当時の自分はキチンと受け止めていた。ただこういう考えで乗り越えるというのも結構辛い、なんてったって信用できるはずのない人間を信用しなきゃならないのだから。この台詞の直後、セーラの手が震えているのはその茨の道を暗示しているように見えて仕方ない。
 ところでラビニアは意地悪するのが良い気持ちでないと思うようになったのだろうか? アニメでもその答えは出ていない。
 この台詞もシーンも原作にはない。小説版でも多少簡略化されているがこのシーンがあり、セーラは同じ台詞を吐いている。
名場面 ラビニアがセーラを自分専属メイドにしようとする 名場面度
★★★
 セーラが生徒だった時代、転入したばかりなのに自分を押しのけて代表生徒になったセーラへの恨みを晴らすべく、ラビニアのたくらみはついに親までも巻き込むことになる。特別室に移ることになったラビニアはセーラを自分専属のメイドにしようと考えたのだ。それは全てうまくいくはずであった。
 なぜならセーラには断ることが出来ないのである。無論セーラだって断りたいはずだが、立場上それは出来ない。そこで考えた末に「お引き受け致します、もし昔のクラスメイトを専属メイドにしたいとおっしゃるなら…」と力無く返事する。もちろんこれはラビニアに向けて言った訳ではない、ラビニアの両親に向けて言った言葉である。セーラはラビニアの両親が人格者と信じてそこへ言うしかなかったのだ。
 結論はラビニアの父親がラビニアを殴って専属メイドの話は無かったことにした。セーラの思惑通りに進んだわけで、ラビニアは父親に殴られたショックで悲しんだものの、今後この件もセーラへの恨みとして積み重なって行くのである。またラビニアにセーラをいじめ続ける理由を与えたわけだ。
 このラビニアの非人道的な行いは、さすがのミンチンも眉をひそめる。この時は珍しくミンチンの中では、セーラへの恨みやラビニアという金持ちへのへつらいよりも教育者としての信念の方が上だったのである。かつてのクラスメイトをメイドとしてこき使う…ラビニアの性格を考えれば奴隷のように扱うのは目に見えている。それは他の生徒へ悪影響を与えるのは確かだし、さらに他の生徒が親に話をすれば間違いなく生徒はすぐに引き取られ、事実は悪評として広まることになる。ミンチンにはそんな損得勘定もあったはずだ。
 この件の後のセーラも注目である。実はセーラは上記名台詞で紹介した台詞の内容を、自分で体験してしまったのである。セーラとしては素直に「お引き受けします」と言わなきゃならないのに、あんな言い方をしたのが自分のラビニアに対する意地悪と考えたのだろう。それにこの一件自体がセーラにとって強烈で、途中で何度も目眩を起こして倒れそうになるほどであった。この後のセーラの気持ちはボロボロだったろう。ベッキーは「お嬢様、ラビニアさんの企みから逃れられてようござんしたねぇ。」とか言っただろう、でもそれはセーラの意識には届かないと思う。この時のセーラは一人にしてやるのが最良だったろう。
 この話もアニメオリジナルで原作にはない。小説版でもラビニアが特別室に移るエピソードはなく、名台詞で紹介したシーン(途中にラビニアが特別室に入ったことが数行挿入されている)が終わると、いきなりアニメ1話分丸々すっ飛ばしている。文字通りアニメオリジナルエピソードだ。
 
今回の
アーメンガード
ラビニアの陰謀通りにセーラが部屋に来て驚く彼女。この後親友セーラが酷いいじめを受けるが、助けてやる勇気がない。さらに途中でアメリアが部屋に来た時に「これで何とかなるかも」という表情を見せたりもする。そしてラビニアによるいじめで心をズタズタにされたセーラを見つめる彼女…こんな不器用なところが人間くさくて好きなキャラクターなんだ。
アーメンガー度
★★
感想  本放送当時、前半にあの台詞が出てきただけでおなか一杯というか、もう後の話が頭に入らなくなっていた。あの名台詞のことについて色々考えさせられていたのだ。前半の残りは全く覚えてなかったし、後半はどうもラビニアが特別室に移る話であると理解しただけであんな事件が起きているなんて思っていなかった。それほどあのセーラの台詞が当時の私にとって強烈だったのだ。
 もうひとつの名場面はラビニアがセーラに靴を履かせるよう命じるシーンで、今回見直すまではこっちを取り上げるつもりだった。完結版にも収録されているこのセーラのプライドを削ぎ落とすほどのいじめシーンも強烈に印象に残っていたのだ。でも今回見直してハッキリ意識して後半のエピソードを見たとき、そんなのを吹き飛ばすようなラビニアのたくらみがあって、前半の名台詞をキチンと活かしているとは驚きだった。
 アニメの台詞でここまで考えたのは初めてで、これが「小公女セーラ」が私にとって「世界名作劇場」シリーズで一番印象に残る作品となった直接の理由である。
研究 ・特別寄宿生室
 父親が死ぬ前のセーラの居室であり、この話からはラビニアが入ることになる特別寄宿生室。ここにはミンチン学院に来た大金持ちの子供が入ることになっていて、想像するに特別料金が課せられると考えられる部屋である。JRのグリーン車のようだと思えば良いだろう。この部屋に入ると言うことは、多くの私物を持ち込むことが許され(物理的にも可能になる)、専属メイドをつける事も許され、お仕置きの軽減や取り消し(セーラに適用)、果ては学院を裏から操ることも可能である(ラビニアが実行)。恐らく、ここに入るには並大抵の資金力では無理って事だろう。
 特別寄宿生室には居間と寝室の2部屋があり、居間には大きな暖炉もある。この設定は原作もアニメも小説版も共通である。
 その場所は最上階にあるという点は一致しているが、アニメや小説版のミンチン学院は3階建てだから3階に存在し、原作のミンチン学院は2階建てだから2階にあるという相違点はある。アニメと小説版ではミンチンの私室の前にあるという設定で、もっとも目が届く場所にあるとも言えるだろう。
 その特別寄宿生室にはアニメの場合、セーラとラビニアという住民がいるが、部屋を派手に使っていたのはどうもセーラの方のようだ。原作ではセーラが出て行った後、すぐに誰だか分からない名もない生徒が入ったようでラビニアはこの部屋を使っていない。
 ちなみに原作の場合、セーラが特別室に入った理由はセーラ本人の「個室が欲しい」という希望だったそうだ、どうも原作のミンチン学院では個室にはいること自体はそんなに難しくないようだ。ただセーラの場合は金持ちという理由で部屋の中は凄かったが。

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