第14話「深夜のお客様」 |
名台詞 |
「ち、違うわ。私、変わってなんていないわ。だって、いくら話しかけても私から逃げようとしているみたいなの、あなたの方ですもの。私、どうしていいのか頭の中かめちゃめちゃになって…。」
(アーメンガード) |
名台詞度
★★★ |
前話でベッキーに「変わっていない」と言われたセーラは、今回はアーメンガードからこの言葉を浴びる。遠回しだが端的に言うと「あんたは変わってしまった」と。前話との比較で見ると対照的である、その対照的な部分がセーラの周囲への思いこみなのだ。
確かにセーラはベッキーに対しては変わっていない。全てを失ってしまったと思っていたセーラはベッキーという友人が失われていなかった事を前話で知った。でも他の友人については失ったと思いこんでしまった、だからアーメンガードに近づいてはならいと勝手に感じてしまった。それがこの話前半のアーメンガードへの冷たい態度として現れ、アーメンガードの気持ちを踏みにじる。
だがアーメンガードに言わせればセーラが金持ちだろうとメイドだろうと友は友なのだ、そんな気持ちを前面に押し出してセーラにその大事なことを気付かせた重要な台詞だ。
セーラはこの台詞を浴びせかけられ、ベッキー以外の友人を失ってしまったという考えが間違いであったと気付く。そう、変わってしまったのは自分だけだったと気付き、アーメンガードとの友情を確認するのである。
原作ではこの台詞はもっとストレートだ。原作アーメンガード、略してアーミィは「何もかも変わってしまった」と言うセーラに「変わってしまったのはあなたのほうよ!」とハッキリ告げる。
小説版では、この台詞の変わりにセーラの心境を細かく説明しているだけ。小説版のアーメンガードはここではいいとこ無し…。 |
(次点)「セーラ、これでわたくしとあなたがどんなに差がついたか、よく分かったでしょう?」(ラビニア)
…ラビニアがセーラに勝ち誇ったつもりになった台詞。ラビニアが過去に言ったとおりセーラが代表生徒になったのはセーラの実力ではないが、ラビニアがその座を取り返したのもラビニアの実力でなく運に過ぎない…と言うことを考えるとラビニアの都合の良さがよく分かる。アニメの脚本家は本当に上手に、アニメのラビニアにいじめっ子としての性格を与えたと思う。 |
名場面 |
セーラが仕事がうまくいかないと、ベッキーがセーラをこっそり助ける。 |
名場面度
★★★ |
この話ではセーラが台所で働くシーンがたびたび出てくる。冒頭の朝食支度、中盤の夕食の片付けや、流し場の掃除などである。
このシーンひとつひとつに、今回だけの心憎い演出がされている。それは仕事に慣れないセーラがうまくできないシーンばかり続くのである。鍋は持てない、積み上げた皿を持って歩くと足がふらつく、皿洗いも満足に出来ない、モップの使い方がなっていない…こうやってセーラが躓くと必ず目の前にベッキーの笑顔があり、セーラをフォローするのである。そして微笑み合う二人、セーラがもたつくとベッキーも一緒になって叱られるのだが、ベッキーはそんなことを意に介していない。こうやってこの二人の関係がどんどん親密になって行くのだ。
小説版にもベッキーがセーラをこっそり助けていることは具体的ではないが明記されている。原作にはこのような描写はないが、前話の名台詞で紹介したとおりの行動でベッキーはセーラに尽くす。
このベッキーのフォローがなかったら、アニメの少し気の弱いセーラは早々に挫けたかも知れない。
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今回の
アーメンガード |
やっぱり深夜の屋根裏、ベッキーとの壁を通じた通信方法を見て驚いた時に大声を出してしまい慌てて口を塞ぐ彼女と、セーラに石版を渡すのを忘れていて「しまった」と自分の頭を叩きながら舌を出す彼女は可愛い…この回はシリアスシーンの彼女もすごくいいのだが…。今年になって再視聴した際、かつて私がアーメンガードが大好きだったのを思い出したのはこの回を見たときだ。
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アーメンガー度
★★★★★ |
感想 |
「小公女セーラ・第二部」スタート! オープニングテーマが終わってサブタイトル表示の後、いきなり蒸気機関車のアップはたまげた。
そしてアーメンガードが可愛く見えた。いや、実際可愛いしあの位の歳の子はあの位の体型の方が可愛いのだけど、今回のアーミィちゃんはマジで可愛かったと思う。特に屋根裏でセーラに渡す物があったのを忘れていたと気付いたとき「いけない!」と言って舌を出すシーンでは、全46話中もっともアーメンガードが可愛く描かれている。
それはともかく、この物語はアーメンガードが主役とも思え、アーメンガードの悲しみを中心に描いているけど、実はセーラの苦悩も同時に描き出している。セーラの苦悩は生徒達とどんな関係を保てば良いのか、ということだろう。自分なりに生徒と距離を置かねばならないという結論を一度は出し、それに従って行動したのにそれで苦しむ人間もいると言うことに気付かされるのである。そういう人間と仲良く続けていきたいのは山々だが、そうすれば今度はそれを嫌がる人間が出てくる。この板挟みにセーラも苦しんでいたと思われる。
でアーメンガードの悲しみはセーラが自分の変化に気付いたことで消えて行くのだが、セーラの苦悩はこの話では消えていない。アーメンガードとの関係修復をしただけで、セーラは生徒との関係について結論を出せていないのである。そしてそのまま結論が出ずに話が進む、アニメと小説版では自然にセーラに何かか起きたときにアーメンガードとロッティは黙っていられず、それにセーラも自然に応えられるようになる。
この複雑な状況に気付いたのは今回、「小公女セーラ」を見直してからだ。こんな細かい作りは最近のアニメでは軽く流されて、関係を単純化していくだろう。このような作りで大人の視聴にも耐えられるようにしている「世界名作劇場」は、やっぱ素晴らしい作品だと思う(確かに「ポルフィの長い旅」第2話では凄く細かい芸がされていたな…「ポルフィ」も面白いので取り上げます)。 |
研究 |
・アーメンガードとセーラの関係
この回の前半はオリジナルで後半が原作を踏襲している部分である。前半の食堂シーンをはじめとするラビニアがセーラに辛く当たるシーンは原作には存在しない。後半にラビニア達が寝室で「あのセーラがダイヤモンドプリンセスと言われていたなんて…」と笑う辺りからが原作に沿ったストーリーとなる。アニメではガートルードがアーメンガードの頬を涙が流れる様子を実況するが、これは原作ではジェシーの台詞になっている。
セーラがアーメンガードを含む生徒全員に冷たく接するようになったのを、アーメンガードが悲しんで屋根裏までセーラを問いつめに行くというこのストーリーは、後にも先にもこの話だけのアーメンガードが主役となる回である。14話後半はアーメンガードを中心に物語を展開させ、セーラにとってもアーメンガードにとっても互いが無くてはならない関係になっていることを示唆して、セーラのメイド時代の関係構図を設定し、セーラの味方になる人物を決定づける話のひとつである。13話から16話までがこのタイプのエピソードに分類されるだろう(13話前半がベッキー、14話後半はアーメンガード、15話後半がピーター、16話後半がロッティとなる)。
無論、原作の方も同じように物語が組み立てられている。セーラがメイドの仕事を始めたところでこのような関係を構築させて味方となる人物をベッキー、アーメンガード、ロッティの順でハッキリさせる。ところがメイドになる前のアーメンガードとセーラの関係は原作とアニメではかなり違う。前述の通り、アニメでは互いが親友として認め合っていたのだが。
原作の二人の関係は上下関係がハッキリしていた。セーラが上でアーメンガードが下という関係で、少なくともセーラはそういう関係を意識していたようである。勉強が苦手なアーメンガードにいろいろ教えてあげてたり、いろんなお話をせがまれては話してやるからだろう。アーメンガードはセーラに必死になってついていっているという感じで、セーラから見れば特別な関係の友人ではなかった。だがアーメンガードから見ればセーラが大きい存在だったのは変わらない。
こんな関係だったおかげでセーラは父親の死をきっかけに自分の身分が変わった悲しみと苦しみの中で、アーメンガードという存在を忘れていたという。そして悲しみから回復したところで「そう言えばそんな奴もいたっけ?」と思い出したのだ。ただセーラの父の死の直後、アーメンガードは親に呼び出されて一時帰宅していたので学院には居なかったという事情もある。それでもセーラにとってアーメンガードは辛いときに思い出す人物ではなかったのだ。
さらにミンチンがセーラを生徒の目につかないようにしたため、アーメンガードはセーラの顔すら見る機会が少なくなり、成績も落ちてきたのもあってセーラを思い出して泣くようになったとある。そして耐えきれず、アーメンガードは深夜に屋根裏へ。
その後の屋根裏でセーラと会っての会話はほぼ完全に原作とアニメで一致している。ただひとつだけアニメにない台詞がある。それはアーメンガードが「あなたは私がいなくても困らないかも知れないけど、私はあなたなしでは生きていけない。」と言うのである。この台詞が原作のセーラとアーメンガードの関係を一言で説明していると考えて良いだろう。
小説版でも、この屋根裏での出来事は原作やアニメと一致している。数少ない3メディアで統一されているシーンだ。 |