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第21話「涙の中の悲しみ」
名台詞 「お父様、私くじけません。どんなことがあっても我慢してゆきます。」
(セーラ)
名台詞度
★★★
 セーラ、私もくじけません、どんなに辛くてもこのアニメ最後まで見ます。
 物語の最後の最後にセーラが父の写真に向かって呟く。この回では徹底的にセーラが打ちのめされるシーンばかりが続いた。そんな物語の最後にこの台詞である。視聴者も一緒に耐え、セーラがこの台詞を言うと自分も頑張らなきゃという気持ちになるし、何よりもセーラを応援したくなる。
 この台詞には原作のテーマ「わたくしはほかのものになるまいと思っていました」という思いも込めているだろう。しかしこの回でセーラの悲惨度が原作よりかなり上へ行ってしまったなぁ。
(この台詞を吐くときが46話中最もセーラがアップになるところ)
名場面 衛兵がじゃがいも拾うシーン 名場面度
★★
 この回は辛い場面の連続で見ていられないが、唯一セーラに救いの手がさしのべられるのは宮殿の衛兵さんに助けられるシーン。
 イギリスの衛兵さんと言えば護衛任務中はその場で動かずじっとしていなければならない、そんな衛兵がセーラが転んでじゃがいもが入ったかごをひっくり返したときに辺りを見回しながら助けてくれるのである。そしてじゃがいもを全部拾うと何事もなかったかのように任務に戻る。このシーンは「小公女セーラ」を象徴するシーンの一つでもある。
 でもこのシーンが別の回に挿入されていたら…全く印象に残らないシーンになったかも知れない。それほどこの21話というのはセーラにとって厳しい話だ。このシーンについては他のセーラファンのサイトで語り尽くされた感があるので、私がここに長い文章を書くこともなかろう。
 このシーンも完全なアニメオリジナル、つまり小説版にも載っていない。21話の話全てが原作にも小説版にもないアニメ限定の話である。実はこの21話の部分に、原作だとアニメで言うところの29話後半から32話の話が入っているのである。
今回の
アーメンガード
ロッティに「セーラのへやはラビニアがとっちゃったの?」と聞かれて説明する彼女。困ったような表情がいいねぇ。
アーメンガー度
★★
感想  本放送時に見たときの感想は「そこまでやるか…」だった。とにかくベッキー以外の学院の主要キャラが総動員でセーラに辛く当たる。アーメンガードやロッティもセーラに声すらかけていない。セーラは文字通り学院ではベッキー以外に救いの手がないのだ、そのベッキーの救いの手もすぐにジェームスやモーリーがはねのけてしまう。
 この回でハッキリ「嫌い」と感じたキャラはジェシーとガートルード。ラビニアと一緒になってセーラをいじめるが、この二人は一度はセーラに寝返ったことがあるし、自分の意志でセーラをいじめているわけでもない。さらにこの二人こそセーラをいじめる理由なんかどこにもありゃしない。なのにセーラへのいじめを心から楽しんでいる辺りラビニアより性格が悪いし悪人だろう。もしラビニアがいなかったらセーラをいじめることはないだろう。少なくともセーラに寝返った過去がなければまだ許せるキャラだったが。
 それとジェームスとモーリーも今回はかなり性格悪い。特にジェームスが自分の失敗を棚に上げてセーラのせいにする辺りははらわたが煮えくりかえる思いがした。ラビニアやミンチンよりやっていることが酷い。ま、自分のことを棚に上げるのはガートルードもそうだが(自分の体型を棚に上げてアーメンガードを太ってるとバカにする)。
研究 ・セーラの目
 セーラが誰かに不条理に誰かに叱られたりすると、決まって相手を睨むような目つきをする。その目によってラビニアやミンチンが言い返すシーンもいくつかあるほど印象的なセーラの目つきと表情である。そのセーラの目つきと表情は原作セーラを踏襲した物で、小説版まで一貫してセーラのこのような態度が描かれている。
 アニメのセーラはなんでこんな目をするのかこの21話でピーターに話す。それは辛い言葉を言われたときにお父様の事を思い出してじっと耐えようとしているのだという。なるほど、言われると不条理なことにもじっと耐えているのがよくわかる。でもなんだか理由としては弱い気もする。
 さて原作のセーラはかなり違う、原作セーラはメイド時代も常に自分がプリンセスになったつもりでいた。セーラがメイドに落ちぶれても礼儀正しかったのはそのためである。そして原作のセーラは不条理に叱られたり、辛い言葉を浴びせかけられると「あなたはプリンセスに向かって酷いことを言っているのに気付かないのですね。私がプリンセスであなたが訳の分からない哀れな心の冷たい人だから本当のことを知らないのだと思うからあなたを許してあげるのです。」と考えているそうだ。ある意味現実逃避である意味心が強くないと出来ない行動で、アニメのセーラとの違いに驚くばかりである。
 小説版にはこの辺りはハッキリ描かれていないなぁ。ただラビニアに靴を履かされるシーンでその目つきをしたときのセーラの気持ちが長文で描かれている。一言で言えば、ラビニアを哀れんでいるのである。

第22話「屋根裏のパーティ」
名台詞 「セーラ、あのもしかしたらあなた達、ひどくおなかがすいているんじゃないの?」
(アーメンガード)
名台詞度
★★★
 アーメンガードがセーラとベッキーの「実態」に気付く。セーラもベッキーも生徒達の前では決して飢えている素振りを見せてこなかったのだ、しかしベッキーがセーラのためにこっそりミートパイ作ったこと、それがミンチンにバレてベッキーが叱られて叩かれたこと、これらを目の当たりにしたアーメンガードはやっと彼女たちの「実態」に気付く。そのこの台詞だ。
 そして物語は屋根裏でのささやかなパーティへと流れて行くのである。
 この台詞は原作のアーメンガードも言っている。屋根裏パーティのこの話は原作とアニメで流れはほぼ同じで、やはりベッキーがミンチンに叱られているのが聞こえる。ただベッキーは自室に戻っており、部屋に戻ったベッキーの呟きが聞こえると今度はセーラが怒りに震え、ついには泣き出してしまう。その光景を見たアーメンガードがセーラとベッキーの「実態」を知り戦慄する。そして恐る恐るこの台詞をセーラに向けて言うのである。
 原作セーラのこの台詞への返事が凄い、「あなた(アーメンガード)を取って食べたいほどお腹が空いている」…怖い。
名場面 ベッキーのミートパイ 名場面度
★★★
 全編がほぼ原作通りに進むこの22話で、唯一原作から逸れるのはベッキーがミートパイを作った話である。その前に空腹で辛そうなセーラを先に部屋に帰したのも、ベッキーはセーラにミートパイを作って驚かすためだっただろう。その作戦もミンチンに見つかって水の泡となるのだが、ベッキーがセーラを気遣い残り物で出来る食べ物を用意したというエピソードは、セーラとベッキーの関係を描写する重要なシーンだろう。
 そしてベッキーはミンチンに見つかり、殴られた上に学院を出て行けとまで言われる。別にベッキーが残り物で食べ物を作ったところでミンチンや学院が困ることは無いはずだが、ミンチンは感情任せに怒る。恐らくミンチンはベッキーがセーラのために作ったと勘ぐったのだろう、でもミンチンの勘ぐりよりベッキーの気持ちの方が上だった。ベッキーはセーラのために作ったと一言も言わず、ミンチンからの罵声に耐えた。
 さらにセーラの部屋へ顔を出して、ミートパイを持ってこられなかったことを詫びる。良い関係じゃないか。
(次点)「宮殿の侍女のつもり」になるベッキー
…この時のベッキー、なんだか分からないけど凄く可愛い。このシーンも原作や小説版にもあるので笑える。
今回の
アーメンガード
なんだか今回の彼女はとても可愛いのですが…。まずは冒頭、贈り物がふたつ届いたと聞いて喜びの表情の彼女。それに屋根裏部屋に来たのがミンチンでなくベッキーだったと知って安堵する彼女。どちらもここ数回では見られなかった可愛い表情をしている。作監さんの違いもあるのかな?
 
アーメンガー度
★★★★★
感想  はじめて見たときもサブタイトル見ただけでどういう終わり方をするか見えていた。だって、屋根裏での秘密の時間がいつまでも続くわけがないと見ていたのだから、今までの流れから言ってもこのパーティは見つかって当然だと思った。でもラビニアがいなければ、完全犯罪成立だったんだなぁ。
 この話でもうひとつ印象的なのは物語のラスト、パーティがミンチンに見つかって皆が去った後のセーラの部屋である。一瞬で真っ暗になり、先ほどまでのパーティが嘘のように静まりかえるのである。これはセーラやベッキーの数少ない「娯楽」が一瞬にして消えて無くなってしまった事を意味し、その「娯楽」すらもミンチンに握られてしまっている事を遠回しに描いているような気がしてならない。そのためか、このラストシーンの部屋の暗さと静けさの描写は印象に残るし、何よりも作り手のこの再現が秀逸である。
 原作ではこのままクリスフォードの「魔法」になるから重要なシーンであるが、アニメの場合はこのエピソード自体に何の伏線もなく、仕上がり自体は非常に良いのだが消化不良のような気がしてならない。強いて言うなら翌日も空腹だという伏線がある程度かも知れないが、それもここ何話かは常にセーラが空腹だったことを考えると伏線としての意味はなさない。
研究 ・屋根裏のパーティ
 文字通りセーラの屋根裏部屋でのパーティで、「小公女」においてはかなり重要なシーンであるが、「小公女セーラ」ではひとつのエピソードとなってしまっている感がある。だがパーティが見つかって全員が部屋に戻るまでの流れは原作もアニメも小説版も同じである。
 つまり序盤でセーラの買い出しが靴の具合が悪くて遅れジェームス(料理番)に叱られる(原作ではミンチンにも叱られる)シーンから流れは同じ、アメリアが親戚へ外泊する設定も、アーメンガードがセーラの部屋でセーラを待っていたこと、果てはアーメンガードが持ってきた本まで同じである。
 違う点はベッキーが夜の廊下でミンチンに叱られる理由だ、アニメでは勝手にミートパイを作って部屋に持ち帰ろうとしたことだったが、原作では台所のミートパイが無くなったのはベッキーが食べてしまったと料理番がミンチンに告げ口したためである(本当は料理番が自分で持ち出したのをベッキーは知っていた)。そしてベッキーはミンチンにアニメよりさらに酷い罵声を浴びせかけられ、殴られた後自分の部屋に戻る。そして泣きながら「私はあのパイをふたつ食べたい程おなかがすいている」「私は一口だって食べていない」と呟き、その呟きが隣の部屋に居たセーラとアーメンガードに聞こえると、セーラは怒りながら泣き出す。これがアーメンガードがセーラとベッキーの「実態」を知るきっかけになる。セーラはハッキリと「(空腹に苦しんでいることを)あなたに知られたくなかった」とも言い、セーラはアーメンガードにドナルドからもらった6ペンス銀貨を見せる。
 次にアニメではアーメンガードはロッティを連れてきているが、原作ではアーメンガードが一人で来ている。だからアニメのロッティは屋根裏で物語を左右するような台詞を吐かないのである。さらにアニメと違い原作ではベッキーは自室に帰っているので、セーラが「隣の囚人もよばないの?」とアーメンガードにベッキーもパーティに混ぜるように言うのだ。アーメンガードは喜んでセーラに壁を叩いてベッキーを呼ぶように言う。壁を4回叩くとセーラはこれがベッキーに部屋へ来るようにとの合図だと言い、ベッキーから返事として5回叩く音が聞こえた。するとしばらくしてベッキーが部屋に現れた、涙で顔が汚れているベッキーはアーメンガードの姿を見るとエプロンで顔を拭く。そしてベッキーはこのパーティに呼ばれたことを泣きながら感謝する。
 もう一点の違いはミンチンがパーティに踏み込む場面である。アニメや小説版ではセーラの妄想から唐突にミンチンの怒鳴り声に変わるが、原作はミンチンが階段を上る音が聞こえ、その気配が近づく臨場感を上手に入れている。そしてセーラにお仕置きとして3食抜きを宣言した後、アーメンガードにもお仕置きとして寝室で謹慎の上「屋根裏のメイドの部屋にいたこと」を父親に報告すると宣言した。するとセーラは「私がいまいる場所をお父様が知ったらどう思われるだろう」とミンチンに言い、ミンチンは感情的に怒りの声を上げながら屋根裏を去る。
 そしてこの回のラストシーンの妄想に入るわけだが、実はこのエピソードにおけるアニメと原作の最大の違いは全編通してみた場合のエピソードの位置だろう。実は屋根裏のパーティのエピソードは原作だともっと後の方、隣にクリスフォードやラムダスが越してきた以降の話で、アニメで言うところの36話前半に位置する話である。パーティが見つかって皆が去った後、部屋で一人で泣くセーラの頭上ではラムダスが出来事の一部始終を見ていた描写が入り、この後セーラが眠りにつき物音で目を覚ますと…クリスフォードの魔法となる訳だ。さらに原作ではパン屋のエピソード(つまりアニメでは次話)の夜という設定になっている。
 「魔法」へ至る過程は原作よりアニメの方が自然だと思うが、その話は実際に「魔法」が起きたときに。
 

第23話「親切なパン屋さん」
名台詞 「それはあんたのものだよ。その4ペンス銀貨がね、あんたに拾って欲しいって、わざわざそこに落ちていたのさ。あんたお腹空いてんだろ? 構わないからそのお金で何か買っておあがり。うちのパンでよかったらおまけしてあげるよ。」
(パン屋のおかみさん)
名台詞度
★★★
 私がセーラと同じ状況で同じ事を言われたら、涙を流しながらパンを買うな、きっと。
 セーラはおかみさんにこう言われてもそのお金を自分の物にしようとしなかった、これこそ「プリンセス様のつもり」の一環なんだろうなと思う。原作セーラなんか悩まずにパンを買ったし…ま、原作の場合はお金を拾ってすぐにアンヌ登場だったから単純比較は出来ないけど。
 原作もアニメも小説版もお金を拾うまでのシーンは共通、今お金があったら美味しいパンを買えるのに…と思ったところで6ペンス銀貨が落ちているのを見つける。それを拾い上げるとパンを買うかどうかで悩むが、結局パン屋さんの人に聞いてみようと考えるのである。原作ではそう思ったところでアンヌを見つける。アニメと小説版ではそのままセーラが店に入り、銀貨を拾ったことをおかみに告げるとこの台詞になるのだ。
 この台詞の裏には、もし落とし主が見つかったら自分が責任を取るというおかみさんの気持ちも見え隠れしている。つまりおかみさんはセーラが空腹に耐えている事に気付き、助けたいと考えたのだ。なんて人の良い…。
 原作のパン屋のおかみは「落とし主なんかわかりゃしないからとっておきない」というありきたりな台詞を言うだけだ。それだけにアニメでのこの言い回しはジンと来る物がある。
名場面 アンヌにパンをあげるシーン 名場面度
★★★★
 このパン屋のエピソード、原作を知らないで「小公女セーラ」を見ている人にはなんでわざわざこんな話を入れたのか理解に苦しんだだろう。原作でも初めて読むと最後までこのシーンの存在理由が分からず、唐突に出てくるこのエピソードに悩むだけだ。でも最後まで読むと「なるほど」と思う、無論アニメでもこのシーンの理由は最後に分かる。
 さらに言うと原作の場合、アニメで言うとこの前話となる「屋根裏パーティ」が深夜に行われた日の昼間にこの出来事があったことになっている。パン屋での話と屋根裏パーティの悲劇でセーラの優しさと苦しみを立て続けに描写したところで、一気にクリスフォードの魔法へと話を持って行く展開なのだ。だからこそ魔法による威力は大きくなっている。
 さてお金を拾ったセーラはパン屋で落とし主が分からないとなると、アニメと小説版の場合は教会へ行って寄付金にしようと考える。そこで司祭様に「そのお金は神様が落としたのだ」と説教され、セーラが自由に使うように言う。それでセーラは決心がつき、自分とベッキーで分け合うためにパンを買いに行くことにしたのだろう。そしてパン屋の店先でホームレスの少女、アンヌに出会う。
 原作の場合は少し違い、お金を拾ってパン屋に聞こうと思って店に入ろうとしたところでアンヌと出会う。
 そこでセーラはアンヌにお腹がすいているかを訪ねる、この台詞回しは原作もアニメもほぼ同じだ。そしてアンヌが自分以上にお腹をすかせていると分かるとアンヌとパンを分けようと決心する。原作の場合はここで「プリンセス様のつもり」が入る。
 そしてひとつ1ペニーのぶどうパンを4ペンス分、つまり4個買うことにした。ところがおかみさんは原作では6つ、アニメと小説版では5つのぶどうパンを袋に入れてセーラに渡す。店を出るとアンヌの元へ行き、セーラは自分の分1つを残して全部パンをあげてしまう。アニメと小説版では自分の分を一つ取って袋ごとパンを渡すが、原作では一つずつ袋から出してアンヌに渡し、4つ目からはセーラの手が震えていた。セーラはアンヌの礼を聞かないままに立ち去ってしまう。
 パン屋のおかみはその光景を見て驚く、外へ出てアンヌから一つを残して全部もらったと聞きさらに驚き、アニメや小説では「天使みたいな子だねぇ」と言いながら、原作では「あんなに早く行かなければパンを12個やったのに…」と言いながら遠ざかるセーラを見送る。その後アンヌを店の中に入れてやる。原作のセーラはパンを食べながら(全部ではないようだが)学院への道のりを歩く。
 アニメでは後半1/4に及ぶ長いシーンだが、これほどのシーンが原作とほぼ同じ流れで進む話は「小公女セーラ」においては少ないと思う。それほど作り手側もこのパン屋でのエピソードを重視していたのだろう。
 
(次点)通りすがりにあったレストランをのぞき込むセーラ。
…セーラは空腹のあまりレストランをのぞき込む。夫婦が食べている肉の美味しそうなこと…我に返り顔を真っ赤にしてその場を立ち去るセーラの表情もいい。何を考えても食べ物のことしか頭に浮かばない程の空腹って、どんなだろう?
今回の
アーメンガード
ロッティが「セーラがバケツをひっくり返したのはラビニアが悪い」と力説され困った表情の彼女。ロッティとのシーンではこういう顔が多いような。
アーメンガー度
感想  本放送で見たときは、てっきり21話のようなストーリーになるのかと思っていた。ただひたすらセーラに辛いことが起きて耐えるだけって話なのかと…でも視聴者はセーラと一緒に耐えなきゃならない、いつか来るハッピーエンドのために…と必死になって見ていた。
 ところが突然セーラがお金を拾ったときは何が起きたのかと思った、「おおっ、今回は空腹のセーラがパンをお腹一杯に食べられるのか」と思ったりしたもんだ。でも見ているうちに、あれ〜、あれれれれ〜、パンみんなあげちゃうの?と驚いて、開いた口がふさがらないままエンディングが流れて…。
 パン屋のエピソードで前半のミンチンに水をぶっかけたシーンを忘れてた。いや、今回22年半ぶりにこの話を見たけど、見たときに「あれ、こんなシーンあったっけ?」とマジで思った。このパン屋の話はそれまでの話を全部ぶっ飛ばすほどの破壊力がある。前半でラビニアが意地悪したことも、ミンチンが怒鳴り散らしたのも全部忘れさせてくれる。本当にいい話なんだな〜。
研究 ・4ペンスっていくら?
 パン屋のエピソードは「小公女」を語る中でも避けて通れないエピソードである。自分もお腹をすかせているのに、もっとお腹をすかせているホームレスの少女にパンをあげてしまうシーンはセーラの優しさがにじみ出ていて、さらに「小公女」という言葉もぴったりはまる行動として人々に感動を与える。さらにラストシーンへの伏線となっていて、この物語で一番印象に残るシーンとなるのだ。
 細かい違いはあれどアニメと原作でほぼ同じだが、アニメではこのエピソードで1話分とするためにこの雨の中にセーラが外出する理由を作った。原作ではセーラは日常の使いを言い渡されて外出した事になっているが、アニメではセーラがヘマをやらかした(といってもラビニアの陰謀だが)罰として用事を言いつけられた設定となっている。
 さらにアニメのセーラは色々空想するが食べ物のことしか思い浮かばなくて悲しくなるが、原作のセーラは空腹と同じ位服が濡れたり靴の中に雨水が入る方が気になっていたらしい、そこで「乾いた服を着ていて、濡れていない靴を履いているつもり」になって街を行くのである。

 さて、今回のエピソードではぶどうパンの値段が1個1ペニーと言うことが分かった。これはアニメも原作も同じである。一つでも物の具体的な価格が分かれば、当時の貨幣価値を現在の基準に書き換えることか可能となるのだ。
 したがって現在、パン屋で売られている焼きたてぶどうパンの価格が分かれば良いのだ。私が見たところ焼きたてのぶどうパンは1個100円はしない、せいぜい80〜90円といったところだろう。つまり1ペニーは現在の日本円で80〜90円程度となるのである。要するにセーラが拾った4ペンスは現在の日本円で400円弱、大人ならネコババしそうな額でしかない。
 当時のイギリスの貨幣単位はダース単位の計算だから、12ペンス(ペニーの複数形)=1シリングとなる。おおざっぱに計算すれば1シリングが1000円程度、前にセーラが買い出しで買う野菜の量は2700円分程度と言ったが根拠はこれだ。ついでに言うと、「小公女」において4ペンスとか6ペンスという10進法では中途半端な硬貨が出てくるが、これはそれぞれ1シリングの1/3と半分という意味である。
 さぁ、この公式で計算してみたいのは最終回に出てくる「10万ポンド」という金額である。当時のイギリスの通貨法では20シリングで1ポンドになるという、先ほどの1シリング=1000円という公式で考えると、1ポンドは2万円である。って事はそれを10万倍すればいいのだから…に、にじゅうおくえん。ひょっとするとこの金額は世界名作劇場に出てきた最高金額ではないか? そりゃミンチンも倒れるわな。

第24話「エミリーの運命」
名台詞 「だって、だってエミリーはわたしの妹だもん、ラビニアが取っちゃ可哀想だもん。」
(ロッティ)
名台詞度
★★★★
 ベッキーにラビニアにエミリーを渡すことをさんざん止められた後、セーラはエミリーを抱いて皆が遊ぶ広場へ向かう。そしてアーメンガードとロッティがセーラの存在に気付いたところから、物語は意外な方向へ進んで行く。
 ラビニアの態度は相変わらずで、しまいにはエミリーをセーラから取り上げる。するとロッティが「ダメー」と言いながらかけてくる、ロッティ唯一の重要な台詞だ。それまでラビニアに泣かされてばかりだった幼児が、敢然とラビニアに立ち向かうのだ。今までの存在感のないロッティと違い、ここでは強烈な存在感を示すロッティである。ロッティがセーラのために活躍して実効を挙げるのはここだけだし、さらに言うとこのエピソードの台詞へ来るべく伏線が5話に張ってあった。作りが細かい世界名作劇場ならではである。
 そのロッティの行動に気が弱くラビニアにいつも言われっぱなしのアーメンガードが立ち上がる。強気にラビニアを攻めるアーメンガードは、それまでとは別人のようだ。そして睨み合いの後、この二人の行動はクラスメートに「お人形は返した方がいい」という世論を植え付けることになる。今まで自らのドジでセーラの足を引っ張っていた二人が、セーラのために大活躍である。
 二人に礼を言うセーラに、アーメンガードはちょっと得意げで照れくさそうな笑顔を見せるがこの表情はアーミィたんファン(いるんか?と思う方、本放送時の私のことだが何か?)にはたまらないはずだ。ロッティとアーメンガードの二人は珍しく自分がセーラの役に立ったことを喜んだようだ。
 小説版でもこのシーンはアニメと同様である。ただアーメンガードの「いじめているのはあんたよ」の台詞がアニメより長い。それともう一つ、小説版セーラはちゃんと他のクラスメートにも感謝の言葉を言っている。
名場面 ベッキー怒る 名場面度
★★★
 ベッキーが遂に見せる怒りの表情。ベッキーも怒らない人物として描かれているが、さすがにラビニアがプレゼントにエミリーを要求したと聞き黙ってられない。その結果口から出てきた言葉が「あんな方の言いなりになることはないんです」というベッキーの本音、以前からベッキーは影でラビニアに反抗する発言を繰り返していたが、ついにたまらずに本音が出たのだ。
 しかもベッキーの怒りはエミリーを要求された事だけではない、自分やセーラにはどうにも出来ない事をしっていてラビニアがあんな事を言った事実の方に怒っているのかも知れない。でも怒りにまかせてこの台詞が出たことにより、セーラは「エミリーをあの人だけには渡したくない」と本音を漏らした後「どうしようもない」とハッキリ答えてしまう、ベッキーは怒りに震えながらも言葉を失う。そして怒りのやり場が無いことに気付き、続いて悲しい表情を見せる。
 それでもベッキーはセーラを追いかけるが、セーラはどうにもならないことを誰よりも知っていたのかも知れない。とにかくここのやり取りはベッキーとセーラがラビニアに対する本音を互いに暴露する、やはりセーラもベッキーもラビニアが嫌いなんだ。
 小説版でもこの屋根裏でのベッキーとセーラのやり取りは再現されているが、この時にベッキーの表情が「怒り」であることは明記されていない上、ベッキーとセーラがラビニアに対しての本音をいう台詞もない。
今回の
アーメンガード
セーラからエミリーを奪ったラビニアに勇気を振り絞ってエミリーを返してという彼女、「セーラをいじめているのはあんたよ!」…数少ない彼女が立ち上がるシーンだ。そしてエミリーを奪還しセーラに照れた笑顔を見せる彼女、セーラの役に立てた事を非常に喜んでいる表情だ。彼女ははじめてセーラのためにラビニアに刃向かい、そしてセーラの大事なエミリーを取り返したのだ。
 
アーメンガー度
★★★★
感想  46話中の24話目、ついに「小公女セーラ」も折り返し点を過ぎた。
 この話を見て当時思ったのは、ベッキーの怒り顔が珍しかったこと、ラビニアからエミリーを取り返したときのアーメンガードの笑顔(上記参照)が最高なことと、そしてデュファルジュ先生の登場があまりにも唐突だったことである。ラビニアの誕生日というアニメオリジナルエピソードはネタとしては悪くない、むしろベッキーの表情が増え、アーメンガードとロッティが大活躍するというストーリー展開は面白いと思う。しかし、その展開も最後にセーラとデュファルジュ先生が並んで歩くシーンでかき消えてしまう。あのシーンは別の話に入れて欲しかった。
 だいたい、デュファルジュ先生は3話以降全く出番が無かった。授業風景にも学院の中の風景の何処にも出てこなかった、学院内を通りすがる人物としても描かれなかったのである。そのデュファルジュ先生が物語の冒頭から突然現れて、最後は買い出しに行くセーラと並んで歩きプレゼントまでしてしまうという展開に「なんじゃこりゃ?」と本放送当時も思った。恐らく「はじめての授業」以降デュファルジュ先生が全く出てこない原作からアニメに来た人はもっと驚いただろう。デュファルジュ先生をあれだけ出すつもりだったら、台詞はなくても学院内の風景にもっと積極的に出しておくべきだったのではないかと…。
 物語の最後に「デュファルジュ先生は私のことを忘れてなかったのです」とセーラが言うが、それに続けて「でもこのアニメを作っている人たちは今までずっとデュファルジュ先生のことを忘れていました」と付け加えたくなる。次話から3話、「小公女セーラ・番外編」であるデュファルジュ先生編となる。
研究 ・ラビニアの誕生パーティ
 この回は完全なアニメオリジナルエピソード、原作には全くない話である。ラビニアというセーラと敵対する生徒の誕生パーティというエピソードを作り、それを通じてセーラとベッキーの立場の低さ、そしてロッティとアーメンガードに活躍の場を与えてセーラとの友情を再確認させるテーマであったと見て良いだろう。それにデュファルジュの再登場という次話以降への伏線を設けている。
 このラビニアの誕生パーティ、実はセーラの誕生パーティより明らかに「格下」なのにご覧になった方はお気づきだろうか? 第一に飾り付け自体がセーラの時に比べてあっさりしていること、第二にパーティ用の豪華なケーキや料理(ローストビーフ)の用意が無く最低限の儀式の後外で自由時間になってしまっていること、第三にミンチンは列席しているだけで挨拶が無い、第四にミンチンはラビニアへのプレゼントを用意していないことである。つまりミンチンはセーラ父の(事業を開始したばかりの)ダイヤモンド鉱山への期待が大きく、ラビニア父の(成功して実績も上げている)油田には全く期待していないことになる。この「差」に一番神経をとがらせそうなミンチンがこの始末だし、こんな事に気付けばラビニアはプライドをズタズタにされて学院を辞めると言い出すだろう。あ、ひょっとして冒頭でラビニアがセーラに辛く当たったのは、自分の誕生パーティが明らかにセーラより格下のパーティでしかないと知っていたからなのか?
 小説版でもこのアニメオリジナルエピソードは丸々小説化されている(ただしデュファルジュの再登場はアニメで言う次話へ取り込まれている)。だが小さな違いはあり、上記で紹介しなかったものでは、ラビニアがエミリーを欲しがっていると知ったミンチンがセーラに「お前は何一つ自分の物にしておく権利はない」「ではどうすればいいかわかりますね?」いう台詞を浴びせかけて、セーラの気持ちに追い打ちをかけるシーンが追加されている。

第25話「一日だけのシンデレラ」
名台詞 「ねぇセーラ、私もロッティと同じ年少組に入れてね。だって私、フランス語ダメなの分かっているでしょ? ね、お願い!」
(アーメンガード)
名台詞度
 この台詞には二つの要素があり、ひとつはアーメンガードが自分のレベルを思い知っているということ、もうひとつはセーラに教わりたくてたまらないという二点である。後者は物語展開上のことだが、前者はアーメンガードの性格を語る上で重要な要素となる。この娘、自分のレベルや立場をわきまえているだけでなく、それをキチンと受け止めて決して背伸びしようとしないタイプの少女なのだ。確かに背伸びしないと届かない物を掴むことは出来ないが、偉ぶったり威張ったりする必要はないし、他人とぶつかる事も少ない人となる。いじめられやすい性格ではあるが、その状況を受け止めることも出来るので自殺など悲劇的な結末に行かないが、問題が表面化されにくいという厄介なタイプの人間である。
 アーメンガードの未来はこの性格によりかなり想像できる、彼女はミンチン学院を去った後は人並みの生活を好み、「大学教授の娘」という看板を嫌がったことだろう(アーメンガードの父嫌いはここにあると思う)。そして平凡な人と結婚し、人並みの人生だが良い友に囲まれる事だろう。
 いずれにしろ、この台詞はアーミィたんファンが萌え〜な台詞なのは間違いない。
 この台詞の後、セーラ、アーメンガード、ベッキーの3人が顔を合わせて笑いあうシーンも良いな。
(次点)「なによ、私だってこのごろ大きくなったんだもん、セーラママに着られるかも知れないわ。」(ロッティ)
…セーラがロッティの服を着たら…。
名場面 アメリアがセーラに服を貸してくれと生徒に言うシーン 名場面度
★★
 アメリアが教室に入りセーラを1日だけ生徒にする旨を説明して、セーラに服を貸してやって欲しいと生徒達に頼む。ところが、前話であれほど人望のあったセーラのはずなのに、誰もセーラに服を貸そうとはしない。やはり当時の階級社会の上ではメイドはメイドであって、彼女たちと同じ人間扱いはされていないのだ。
 だからこそ最初に声を上げるのが幼いロッティであるという点はかなりリアリティに溢れていると思う。さすがにロッティが動けばアーメンガードが腰を上げざるを得ない…というかアーメンガードは「服を貸す」と言いたかったはずだが、当時の階級社会を考えるとメイドに服を貸すなんて例えそれが親友同士でもあり得ない話、自ら言い出せば世間知らずだと後日になって先生や親に言われるはずだ。だからアーメンガードは何かきっかけを待っていたはずで、物語はロッティがきっかけとなったが、他にアメリアやミンチンがアーメンガードに強要するなど、きっかけはいくらでも考えられる。
 なにはともあれ、セーラはアーメンガードから服を借りることが出来た。ガートルードじゃないが若干ゆるかったというところまでリアルに描かれている。あのセーラが着ていた服をアーメンガードが着ているところを見てみたかった。
 このシーン中、アメリアはラビニアを「ラビニアさん」と敬称付きで呼ぶのに、セーラも「セーラさん」と呼ぶのに、アーメンガードは呼び捨てなんだな…アメリアはこの娘を見下している、絶対に。それにアメリアがまずラビニアに服を貸してくれと頼んだ点は無神経と言わざるを得ない。ラビニアが服を貸すなんてあり得ず、セーラもラビニアも気分を悪くするだけ。
 アーメンガードがセーラに服を貸すことが決まった直後の照れくさそうな笑顔、萌え〜(爆)。
 
(次点)ミンチンがセーラに年少組の先生を命じるシーン。
…「セーラを年少組の先生にするのは私の思いやりによる」とうそぶくミンチン、それにセーラは感謝の言葉を言わないと言うことは、実際のことに感づいたのとミンチンが大嫌いだからなんだろうな。
今回の
アーメンガード
自分の服がセーラの役に立ったと喜ぶ彼女、ここの照れを含んだ笑顔も抜群だ。そしてセーラが年少組の先生になると聞かされて驚きの表情の彼女、彼女はのんびり屋なのであまり驚きの表情は出さないので貴重なシーンだ。とにかく、この回の彼女は他の回と比較すると突出して可愛さが目立ち、本放送当時に前半を見逃したのが非常に悔しい。「アーメンガー度」は彼女登場場面全部を統合しての評価で、今回の彼女絡みのシーンや台詞は物語の展開的にはさして重要度はないが、彼女の魅力という点で見ればいちばん優れた1話かも知れない。
 
アーメンガー度
★★★★★
感想  「小公女セーラ番外・デュファルジュ編」第一話(笑)。ここから3話はあってもなくても物語の流れにはあまり関係ないし、セーラや周囲キャラの心境に変化がないと思うから私は勝手にそう呼んでいる。せめて前々話までにデュファルジュが通りすがりでも良いからたびたび出ていればそうは思わなかったのに。
 実はこの話、本放送時は前半見逃した。この日、私は家族でつくばの科学万博を見物しに行っており(詳しくはこちら証拠画像)、NHK大河ドラマが見たい父の気持ちだけで何とか20時前に帰宅したという日だった。途中から見たらセーラがきれいな服を着て教室で授業を受けているから驚いたのなんのって…。最近になって見直すまで、セーラのきれいな服がどこから出てきたのかとか、なぜセーラが授業に出ているのかという理由を知らなかった。ただ、セーラの年少組に入れてくれとせがむアーメンガードの笑顔は覚えていた。
 この話はデュファルジュとセーラの関係ばかりに目が行ってしまうが、やはりアーメンガードやロッティという原作では良いところ無しの二人が大いに活躍している回である。それはすべて上で説明した、本放送時にリアルタイムで全編見ていればまた違う感想があっただろう。
研究 ・市長夫人
 この話は完全にアニメオリジナルエピソードである。小説版では市長婦人からの手紙を受け取ったミンチンがデュファルジュに相談するシーンのみが詳細に書かれ、他は数行で出来事を紹介にするにとどまっている。だから上で紹介したようなこの話の奥深さには全く触れることが出来ない。
 このシーンでは市長夫人と市の教育関係者が見学に来ている。日本の市町村に置き換えれば教育委員長とお偉方が来るようなもんだろう。しかしミンチン学院に来た長は「市長夫人」という立場の人間である。市長の夫人に何処まで教育関係の力があるのだろうか? さらに言うと私立の学院院長に教師の運用法をとやかくいう権利はあるのだろうか? 生徒を年少組の教師にするなんて出来るのだろうか?
 それを調べるべく検索サイトでいろいろなキーワードを入れて検索してみたが、どうも当時のロンドン市長夫人の権力がどんなもんだったのか分からない。いや、ロンドン市長の夫人について書かれている日本語サイトが皆無と言っていいくらい無いのだ。「見つけた!」と思うと「小公女セーラ」関連のサイトだったりして笑うしかないのである。
 つまり当時のロンドン市長夫人って、状況証拠だけで言えば権力なんてほとんど無かったと思われるのである。ただ市長の夫人ならばお金持ちなのは間違いないだろう。当時なら市長になる位の人はそれなりの地位のはずだから、ひょっとすると夫人は教育に熱心なのを知っていて、ミンチンは市からの援助でなく市長個人の財布の中身を狙っているのではなかろうか?
 この市長夫人もアニメオリジナルで原作には出てこない。

第26話「年少組の小さな先生」
名台詞 「可哀想に、一生ただ働きなんて。私と同じだわ。」
(アメリア)
名台詞度
★★★
 セーラの立場がハッキリする貴重な台詞。アニメでセーラがただ働きであるとハッキリ語られたのはこの台詞が最初ではないか?
 そしてさらなる衝撃は、ミンチンの妹であり教師であるアメリアまでもがただ働きだったこと。この話までアメリアはそれなりの給料をもらっている物だと思っていた。恐らくミンチンが学院にアメリアの私室を作って住まわせていること自体を給料の変わりとしているのだろう。
 この台詞はセーラの「将来」を暗示していて視ている者を不安にさせる。そしてこのままセーラがずっとただ働きでは可哀想だと思わせるのが狙いなのだろう。
 小説版はアニメに沿っているのでセーラもアメリアもアニメと待遇は同じだろう。このシーンはカットされてなく同じ台詞も存在する。原作ではただ働きとは明記されていないが、自分が住んで食べる分だけ働くようにミンチンに言われているから同じであろう
(次点)「なーに、こんな皿洗いくらい、私一人で十分でございますよ(以下鼻歌)。」(ベッキー)
…一人で浮かれているベッキー最高!
名場面 セーラの授業 名場面度
★★★
 ハッキリ言って小さな子供の先生になる素質があると思う。難しいことを教科書通りにやるのでなく、身のまわりのことから覚えさせるという機転の良さ、そして何よりも授業を楽しくする事を念頭に置いて多少の脱線を覚悟で効率よく教えて行く姿は、絶対に子供達の人気を得た上である程度の実績を上げられるだろう。
 しかも、目の前のネコを題材にし、そのネコの特徴や動きから教える単語を決めて行くというのはよく思いついたなと感心する。
 このやり方はミンチンのような頭の固い先生には理解できまい、だからミンチンはセーラが脱線してお話をしているところに踏み込んでセーラを殴った。ミンチンのやり方ではセーラが遊んでいると思われても仕方がないだろう。セーラをかばったデュファルジュの授業がどんなもんか? これに凄い興味がある。
 ちなみに原作でもセーラは年少組の勉強の復習を世話しているが、具体的な授業光景は出てこない。ただ年少生徒達はそれによって成績を上げているのは確かなようだ。セーラが授業中にアルフレッド大王の話をしたという話は原作にはないが、これと同じ展開は存在する。それはセーラが授業中にふっとアルフレッド大王の話を思い出したのだ、その時のセーラの目を見たミンチンがかっとなってセーラを殴るというもの、殴られたセーラは笑みを浮かべてアニメではデュファルジュが言った台詞に準じる「もし私がプリンセス様だったら、先生は私を殴らなかったのでは…」という台詞をセーラが言う。
 小説版ではセーラの授業風景はない。いきなりアルフレッド大王の話のところに入る。
今回の
アーメンガード
「私、フランス語が苦手だから…(年少組に入れて)」と申し訳なさそうに言う彼女と、セーラの授業を受けることを許されて飛び上がって喜ぶ彼女。こんな嬉しそうな表情は他にないぞ。
 
アーメンガー度
★★★
感想  「小公女セーラ番外・デュファルジュ編」第二話。セーラ先生のお手並み拝見、というのはミンチンだけでなく視聴者も感じることだろう。そしてセーラの完璧な先生ぶりに驚くに違いない話だ。それにミンチンがケチをつける事も容易に想像でき、何か全てが予想通りに進んでしまう話にも見えておもしろさに欠けると当時は思っていた。
 だからこそこの話はキャラクターの表情にも目が行きがちだ。改めて見ているとベッキーの浮かれ具合がとても良いし、年少組のみんなとセーラの授業を受けられる事が決まったアーメンガードの表情もいい。セーラのおかげでお金が浮く手段が思いついてニヤつくミンチンも、普段はセーラが嫌いなのにお金が浮くと知ると優しくなるとは現金なものである。てーか、ミンチンがあんな笑顔になるのが信じられない。
 全体的には学院の日常が少しだけ変わったという状況をうまく描いたと思う。ただ強烈ないじめがあったわけではなく、ミンチンとセーラやデュファルジュの「やり方の違いによる衝突」があっただけなので、印象に残らない人も多かろうと思う。
研究 ・セーラと教師の仕事
 この話は原作にはないアニメオリジナルだが、一部に原作をアニメ化する際にカットしたシーンを組み込んでいる。それがアルフレッド大王云々の話である。
 アニメではセーラが年少組教師となるのはこのエピソードからで、それまではセーラは台所仕事に徹している。父の死の際にセーラ本人が「年少組にならフランス語を教えられる」と提案しているが、これがミンチンによって却下されたのはこのエピソードのためか、とも考える。
 さらにここでセーラを年少組教師にしたことで次のミンチンの野望は、セーラを教師にして人件費を減らすというものであった。経費ゼロの教師というのは学校経営者にとって夢だろう。
 さて、原作ではかなり事情が違う。前にも原作セーラには最初から年少組の復習や授業を受け持つ事が仕事として組み込まれていたという点を書いた、ミンチンは最初からセーラを教師として働かせて人件費を下げることを考えていたのである。原作のミンチンはその辺りでアニメのミンチン以上に計算高くて侮れない人物だ。そして原作セーラは一人前の教師となるべく、ミンチンに仕事が全部終わったら教室で勉強することを命じられている。アニメでは逆に勉強なんかする暇はないとどやされていたような。
 しかしセーラを教師にしてどのように運用するつもりなのか、アニメでも原作でも分からない。原作の方はセーラに直接絡まない人物は全て「その他大勢」扱いで生徒ですら何人いるか分からないのに、教師の人数なんか余計分からない。少なくともデュファルジュというフランス語の先生がいること位しか分からないのだ。アニメだとミンチンとアメリアとデュファルジュの3人のみのようだ。ここにセーラを入れると言うことは、最初からデュファルジュの代わりにしてデュファルジュを解雇するつもりだったとしか思えない。
 ラビニア達が「セーラに教わらなくてよかった」なんてセーラをいじめていたが、残念ながら順調に事が運べばラビニア達のフランス語教師もセーラになっていた可能性が高い、そうなったらラビニアはそれが嫌でミンチンに「フランス語の先生を替えてくれ」と言うだろう。しかしミンチンは人件費抑制の野望とラビニアという特別室生徒の板挟みにあって悩むだけだ。展開としてはその方が面白かったかも?

第27話「デュファルジュ先生の帰国」
名台詞 「セーラ君、人生には辛く悲しいことがたくさんある。だが挫けてはダメじゃ、希望を持って一生懸命努力するのじゃ、努力をすれば報われる日がきっと来る。私は君のその勇気を信じている。セーラ君、君には持てる、いや君なら持てる、努力する勇気を。」
(デュファルジュ)
名台詞度
★★★★★
 涙で画面が見えねぇ。何でだ、涙がとまんねぇ。画面が見えねぇ、この言葉を聞くセーラがどんな表情なのか、この台詞を吐くデュファルジュどんな表情なのか、何にも見えねぇ。止めどなく涙が出てくる、涙の流しすぎで脱水症状になる…。
…と本放送で見たときはこんな感じだった。このデュファルジュの台詞も20話のセーラの台詞と同じ位ずしーんと来た。セーラの台詞ではその内容について考えさせられたが、この台詞を聞いたらそれまでの辛かったことを思い出して涙が止まらなかった。次回予告もエンディングも覚えてなかった。
 で改めて見てもやっぱジーンと来るものがあってやっぱ涙が出る。でも今回はこういう台詞が来るのが分かっていたから、以前よりは落ち着いて見ることが出来た。この台詞を聞いたセーラが泣くことも、この後二人がフランス語で最後の別れを言うことも、別れを言い切ったデュファルジュも涙を流していることも、ラストシーンはセーラが屋根裏のベッドの上で船の汽笛を聞いていたということも、今回改めて見て初めて知った事実である。
 この台詞、とにかく今が辛くてたまらないという人に聞かせたい。すごく力付けられる言葉だ。
 小説版ではこの台詞の中に「努力する前に「どうせダメだ」と思ってしまうのは結果を引き受ける勇気がないからだ」という一言が入り、さらに深い言葉になっている。ちなみにアニメのデュファルジュは船で南フランスに旅立つが、小説版のデュファルジュは汽車でドーバー海峡を目指したようだ。
名場面 デュファルジュの自宅へ向かって、走るセーラ 名場面度
★★★
 セーラが走る、とにかく走る。ベッキーからデュファルジュが辞めさせられたと聞いてセーラは走るのである。もう一度先生に会って話がしたい、キチンと別れを言いたい。ただそれだけのために。なぜセーラがデュファルジュの家を知っていたのか?というヤボなツッコミは考えてはいけない。その走るときの画像が、セーラの身体の動きが小さすぎる上に背景の流れが速すぎるから、セーラがエイトマンみたいに見えるなんて思ってはいけない。
 とにかく、こんなマジになって走るセーラは今まで出てきたことがない。それほど彼女にとって恩師デュファルジュが突然に辞めさせられたという事件はショックが大きいのだ。さらにその原因は自分にあるに違いないと(まさかラビニアの陰謀とは思うまい)。
 この「走る」というシーンにセーラの衝撃とデュファルジュに会いたいという気持ちが全部詰まっている。それがよく分かるシーンだ。
今回の
アーメンガード
セーラが授業に来るのが遅れ、ラビニアに何か言われたのでないかと不安がる彼女。前回までの可愛さと出番の多さは何処行った?
アーメンガー度
感想  「小公女セーラ番外・デュファルジュ編」の最終回。ラビニアに恥をかかせたデュファルジュはこの学院を去るしかなくなる。「研究」欄で詳しく書くが、この学院はミンチンの物でなくラビニアの物なんだから、ラビニアを敵に回して終わりというのは目に見えていた。誰がラビニアの餌食のなるかというとこの流れではデュファルジュしかいないわけで、特権の怖さや使い方には気を付けろと言う教訓を学んだ気がする。
 でも今回は涙が出るような名言が最後の方なので、名言を聞いてから半分位話が分からないなんて事にならなくてよかった。本当にこの「小公女セーラ」という話は色んな事を教えてくれる。今どきのアニメでここまでの台詞を言ってくれるものはあるだろうか?
 ここまで3話が番外でまた2部の続きに戻る。いよいよ学院にも夏が来るっていうんでワクワクする。「世界名作劇場」で放映時の季節と劇中の季節が完全に一致していたのって「小公女セーラ」だけじゃないかな?。
 しょうもないことだが、この回のアーメンガード可愛くなかった。この回だけ太りすぎのような…。
研究 ・ラビニアの特権乱用
 今回は完全なアニメオリジナル。デュファルジュ三部作の最終話で24話の最後から突然存在感を大きくしたデュファルジュ降板の回である。小説版ではこの話のほぼ全編を3ページにうまくまとめている。内容を少しも漏らすことが無く、である。ただその大半がデュファルジュ宅での会話が占めているが。
 この話ではなんてったってラビニアが恐ろしいことを実行する。正しく言えばこの話時点のラビニアと富豪時代のセーラだけが可能であった特権、つまり「ミンチンの性格を利用し学院を操る」という行為である。お金持ちの子供にも媚びへつらうミンチンならば、特別待遇をするような生徒の言うことはホイホイと聞いてしまう。例えそれが学院の経営や教育方針に関わることであっても、である。
 先にセーラについて言ってしまうと、セーラはそれまでの育ちと本人の性格もあり、自分の力を知っていてそれを制御する術を身につけていたと思われる。だからこんな特権を使ったのは自分も協力した無断外出でアーメンガードだけがお仕置きとして鞭で叩かれそうになったときだけである。そして特権の乱用は結果的に誰かを傷つけることで、そのようなことを望まないのがセーラの性格だ。恐らく、生まれたときから家が裕福で父が絶大な力を持っていたのだろう、それを見て育ってきたセーラは特権があることの怖さを知っていたのかも知れない。
 ではラビニアはどうだろう? 本人の性格も自分の野望や欲望のためなら他人への配慮を考えない点がある。敵味方の区別が無く、常に自分日違う人間のみを要求するような行動が多い。ジェシーとガートルードという友人についてもどちらかというと自分の部下みたいな扱いをしている。ラビニアはセーラと違い生まれたときから裕福だった訳ではなさそうだ。劇中でもラビニアの父が油田で大当たりして娘を特別室に入れられるほどの金持ちになったような事が言われている。つまりラビニアは親が権力を上手に使っているのを見たことがないだろうし、特権は必要なときに自由に使っていいと考えている。特権を制御する術は知らないし、慎重に使うこともせず、それが自分の権利と欲しいままに使うだけである。
 今回はついにそれが発動されてしまう。宿題をセーラにやってもらったことがバレて恥をかかされた腹いせに、デュファルジュを解雇に追いやるのである。ラビニアは特別室にいて多大な学費を払っている自分の言うことに、ミンチンが言いなりになるのを知っていた。さらに「私の希望通りにならないなら私はこの学院を辞めます」の一言をミンチンが一番恐れていることも知っていた。その通りにミンチンを操り、操られたミンチンはフランス語の授業に穴があくことなど考慮せずにその日のうちにデュファルジュを辞めさせた。ハッキリ言ってミンチン学院はミンチンの物でなくラビニアの物になってしまったのだ。
 ミンチンに教育者としての誇りがあるなら、ここはラビニアを叱った上でデュファルジュにも言い聞かせるというべきだった。ラビニアが「辞めたい」と言い出したら「辞めたいなら勝手に辞めろ」と嘯くべきであった。なんか「運動会を中止しないと自殺する」と脅迫電話を受けた学校が本当に運動会を中止させたみたいなバカバカしさを、ミンチンに感じた。守銭奴となり正常な判断が出来なくなってしまったミンチンに呆れるしかない。

第28話「夏休みの大騒動」
名台詞 「私、お父様がいないことにもう慣れたの。私にお父様がいなくなったことは私の運命なの。運命は受け入れるしかないわ。」
(セーラ)
名台詞度
★★★
 ベッキーはセーラに生徒達が両親と再会しているシーンを見せてしまったことを後悔し、セーラをリネン室に連れて行きそれを詫びる。そのセーラの返答がこれ。父が死んだという事実を現実として正面から受け入れて行かなきゃならないというセーラの思いである。このような気持ちが本当ならば、セーラに生徒達が両親と再会している場面を見せても気にしなくて良いはずだが、セーラはそういう素振りをここまで見せてこなかったからなぁ。
 これを聞いたベッキーは涙を流してセーラの手を取り、胸に抱きしめる。なとんも感動的な光景だ。やはり母が健在とは言え、セーラと同じように父を失っているベッキーとしてはこの覚悟がどれほどのことかよく分かるのだろう。
 小説版にはこのシーンはない。ロッティとアーメンガードがリネン室に入ってくるこの台詞の直後からの描写のみの再現である。
(次点)「ベッキー、お前には明日から暇をやることにしました。」(ミンチン)
…ミンチン性格悪すぎ、どう言ったらベッキーが驚くか考えているもんな…確かにその暇が無期であるとは言ってないけど。
名場面 ベッキーの喜び 名場面度
★★
 夕食の時にベッキーはミンチンから夏休みをやるから故郷に帰るよう言い渡される。最初ベッキーはその言葉に戸惑い、セーラは学院に残って働くと聞いたこともあって素直に喜べない、そこへアメリアが現れて古くなった夏帽子をベッキーにあげるという。夏帽子が欲しかったベッキーはここで喜びを爆発させる。リネン室に入るともう待ちきれなくなって帽子をかぶり、セーラに似合うかどうか聞く。セーラが「とってもよく似合うわ」というとベッキーは飛び上がって喜び、踊り始める。これほど喜ぶベッキーも他では見たことがない。
 しかしそれを見るセーラの複雑な表情を見てベッキーは固まる。この固まっているときのベッキーの「やっちまった…」って感じの表情が可愛くていいんだな。そして「お嬢様とここで夏を送る心づもりだった」と言う、里帰りは嬉しいがこの言葉にも嘘は無いというベッキーの複雑な心境が読みとれるいいシーンだ。
 対してセーラは、ベッキーがいなくなれば自分の仕事は増えるし、何よりも寂しくなるのでベッキーに行って欲しくないという本音を心の中に押し込んで大丈夫だと言う、そしてベッキーの里帰りを応援しようと決意するのである。
 でも一番いいのはこのシーンの最後、セーラがベッキーに夏帽子をかぶせたときだ。今度のベッキーは飛び上がって喜ぶのでなく、顔を真っ赤にして照れるのである。この時の表情が女の子らしくて本当に良い。
 
今回の
アーメンガード
父と一緒に笑顔でクラスメイトの嬉しそうな顔に見入る彼女、ピンクのリボンを巻いた帽子がよく似合う。それと地下室でセーラを見つけて嬉しそうな彼女、よそ行きの服が可愛いが…この回を最後にしばらく彼女の出番が無くなる。・゚・(ノ∀`)・゚・。
 
アーメンガー度
★★★
感想  久々にベッキーが可愛く描かれている回だ。いや、今までもベッキーが何度も出ているが、26話で浮かれているシーン以外は可愛いと言うより健気だなと思うことの方が多かった。夏休みに入ってベッキーの露出度が上がるのかな、と思ったら夏休みだから故郷へ帰れといわれベッキーファンが残念なところだろう。
 このベッキーが里帰りさせられるところでもセーラは「経費節減」という大人の論理を見せられるのである。セーラは夏休みになればラビニアもいなくなってベッキーと楽しく過ごせると期待していたはずだ、そんな思いも大人の論理の前に叶うことはないのだ。自分の思いとおりにならない「働く」という状況の厳しさと辛さを学んでいくのである。セーラがどん底に落ちなかったら見ることがなかった世界はまだ続いているのだ。
 ここからしばらく、ラビニアのいじめもなくなるから多少ほのぼのした話が見られるかな、と当時は期待していたりした。
研究 ・ベッキーの特技
 この回もアニメオリジナル。原作を踏襲する部分はない。小説版では次話の分を含めて1ページ半とかなり省略されている。その中でも次話に当たる部分はほとんど無いし。
 今回はベッキーが得意技を披露する。
 ベッキーの特技、それは「棒石鹸の見分け方」である。なんでもすぐ水に溶けてしまうような粗悪品を売りつけられる可能性があるのだそうだ。
 この日の買い物に「棒石鹸」があり、しかも粗悪品を掴まされないようにとセーラを言われているのを見て、ベッキーは買い物にセーラと一緒に行かせてくれとモーリーに懇願する。セーラと一緒に買い物に行きたいというのもあっただろうが、ベッキーとしては数少ない自分の得意技を見せられる機会である。ここで役立つことを誇示しておきたかったという思いもあっただろう。モーリーはベッキーがセーラの買い物に着いていくのを反対したが、実力重視のジェームスはモーリーを説得し二人で買い物に行かせる。
 この特技、田舎で祖母に教わったそうだ。確かに次話で出てくるベッキーの家は貧しく、石鹸ひとつ買うのも勇気が要ることなのだろう。そこで石鹸を見分けることも生活の経費を下げるのに重要なのだ。
 こんなところに、ベッキーの「育ち」が見え隠れしている。

第29話「ベッキーの里帰り」
名台詞 「私もよ、私にも行くところはないのよ。」
(セーラ)
名台詞度
★★★
 ベッキーを乗せた汽車が去ると、セーラはいつまでもその方向を見つめ「楽しいでしょうね、田舎って。」と呟く、ピーターは自分は生まれ育ったロンドン以外に行くところがない、というと瞳に涙を浮かべながらこの台詞を吐く。
 やはりセーラは帰る家と家族があるベッキーが羨ましかったのだ。でもベッキーの前では気丈に振る舞った、それはベッキーの前でその気持ちを見せればベッキーが里帰りしにくくなるだろう、いやベッキーが楽しく里帰りは出来ないだろうと考えたのである。
 しかし、ベッキーが故郷に帰る光景を見せられたのはセーラにとって辛かった。それは自分に帰る故郷も家庭もないと思い知らされただけであった、自分の不幸な立場を再確認しただけでなく、これからベッキーが故郷に帰るたびにそう思わねばならないと考えた場合の辛さもこの台詞にはあるのだと思う。
名場面 サンドイッチを食べる乗客を見たベッキーが腹を空かす場面 名場面度
★★★
 朝食を食べさせてもらえないまま故郷へ帰る汽車に乗ったベッキーは、向かいの乗客がサンドイッチを旨そうに食べるのを見て空腹に耐えられなくなる。それに気付き一度は顔を赤くして恥ずかしがるが、次の瞬間「そうだ!」と手を叩き弟や妹への土産に買ったキャンディに手を出そうとする。
 キャンディを手にとってまさに口に放り込もうとした瞬間、近くに乗っている幼児の姿が目に入り、ベッキーは我に返った。そう、家では弟や妹が腹を空かせているはずだと。そして食べようとしたキャンディを袋に戻した。向かいでサンドイッチを食べている人が目に入らないようにと外の景色を眺めることにした。
 ベッキー本来の優しさが見えて微笑ましい場面である。恐らく時間があったらベッキーの心の葛藤をもっとリアルに描きたかったんだろうな。この優しさがあるからこそ、学院でセーラを助け続けたのだし、今回も少ない給料から弟や妹への土産を買ったのだ。そして、実家での母との会話の中でまでセーラの事を気遣うのだ。
今回の
アーメンガード
出番なし。 アーメンガー度
 
感想  真っ青な空、緑色の草原を渡る風、小川には水色のきれいな水が流れ、野には羊や馬が放されていて、その周りを犬が走る…こんな「世界名作劇場」を象徴するような田舎の景色が29話目にしてやっと出で来た、そう考えると「小公女セーラ」という物語が「世界名作劇場」シリーズの中でいかに異色だったかが分かるだろう。多くの物語が農村や山村を舞台にしていたのに対し、「小公女セーラ」の舞台はロンドンという大都会で、しかもこの都会の外に出る話はこのベッキー里帰りのエピソードだけなのだ。だから「世界名作劇場」では当たり前のこんな田舎の光景とは無縁なのだ。
 実はこの話、本放送時に「小公女セーラ」46話中で唯一全編見逃した話である。この日は学校の友人と日帰りで鉄道乗りまくりの旅をしていて帰ってきた時にはもう大河ドラマも終わっている時間だったから…だから本放送当時の感想はないし、最近になって見て時は「これが世界名作劇場だ」と思って画面を見ていた。しかしここまで鉄道が出てくる話を見逃すとは、なんたる不覚。
 ちなみに全46話中、もっともツッコミどころの多い話もこの回である。ベッキーの給料がキャンディ代や汽車賃で使ったはずなのに何故か家に着くと増えているとか、ベッキーが乗る汽車の加速力や動きが絶対にあり得ないとか、あれだけ普段の会話で訛っているベッキーなのに家族には全く訛りがない不思議とか…全部深く考えては行けないこと何だろうけど、ちょっとこの話、「つくり」が甘いなと感じた。初見が大人になってからという点もマイナスしなきゃならんか。
 私の脳内ではこの話の前半、ベッキーが汽車で旅立ってしまいセーラが名台詞を吐いてCM入りのアイキャッチが流れる直前で画面が止まり、「小公女セーラ第二部・完」と出てくる。ここまでがデュファルジュ編を除くとセーラがどん底で何を見たかの話だと思う。そしてベッキーの里帰り光景という番外編を挟んで、いよいよラストシーンに向けた「めぐりあい宇宙編」…違ったw、どん底から救われる話へと変わって行くのである。
研究 ・ベッキーの給料
 夏休みに入りベッキーが故郷へ帰るという設定そのものがアニメオリジナルで、原作から引用している台詞ひとつ無い。小説版でもこの話の大半がカットされていて、僅かにラストシーンがたった3行の文章になっただけである。
 この話ではベッキーがアメリアから給料を直接受け取るシーンが出てくる。と言うことはアメリアは学院の会計も担当していたことになり、ただ働きの割に私品を多く持っていたのは横領…いやこんな話はどうでもいい、ミンチン学院がなぜ経営が苦しいか分かるところだったが。
 6話の時の流れから行くと、給料はモーリーが渡しているのだと思ったがそれは気にしないことにしよう。この時にベッキーがアメリアから受け取った金額は1シリング9ペンス…す、少なすぎると思って再度画面を確認したが、どう見ても1シリング硬貨1枚と3ペンス硬貨3枚である。日本円にして2000円にも満たない、これでどうやって故郷の親や兄妹を養っていくというのだ? ただ働き当然ではないかと考えてしまう。
 これではあんまりなので解釈を考えてみた。実はこの話に別の事実がある、後半にベッキーが母に給料を渡すシーンがあるが、この時に出した硬貨の枚数はアメリアにもらった「1シリング硬貨1枚と3ペンス硬貨3枚」より明らかに多いのだ。汽車賃や土産のキャンディ代などで使っているにも関わらず、である。その上この時のベッキーは「汽車賃でかなり減った」とまで言っている。
 これで二つの解釈が可能である。ひとつはベッキーは「日給」を毎日受け取っていたという解釈。これならば前回実家へ仕送りをして以降の何日か分の給料は全部ベッキーの手元にあることになる。劇中でアメリアからもらった1シリング9ペンスは日給であるから給料も高くはないが、少女であるという点を考えればべらぼうに安いというわけでもないだろう。でも早朝から深夜まで働き、休日もないのに月額で現在の日本円換算で6万円というのはちょっと…と思う。
 もうひとつの解釈はミンチン学院の給与体系による「締め日」を過ぎた直後だったというもの。この数日前にベッキーは給料をもらっており、急遽休みが決まったので前の「締め日」からその日までの給料をもらったという解釈。この解釈に有利なように「締め日」が前々日で本来の給料は前日、だから前日一日分の給料を月給からの日数割りでもらったと考えるのだ。それでも月給としては前の解釈と変わらないが、月給制なら精勤手当とかあるかも知れない。だから月給6万円よりはもっと多くもらっている可能性がある。そして給料日が前の日だったのだから仕送りはまだできていないだろう、ベッキーの財布には丸々一ヶ月分の給料があって、その殆どが汽車賃で消えたと解釈すればいい。
 でも後者の解釈だと、ロンドンからアッシュフィールドまでの運賃がとてつもなく高くなりそうな気がする。午前中、状況からして朝10時頃に汽車に乗り、ベッキーの家に着いたのは夕方、日の傾き具合と夏という事を考えれば19時頃だろう。アッシュフィールド駅に着いたのは17時頃と解釈すれば、汽車に乗っていたのは7時間、当時の汽車は平均時速30キロ弱だろうからこの間の距離は200キロ程度。東海道本線で言えば東京から静岡くらいの距離だ。ここの汽車賃が現在の日本円で5万円近くかかるなんてバカな話があるだろうか?

第30話「インドから来た紳士」
名台詞 「いいえ、あれはガラクタじゃありません。」
(セーラ)
名台詞度
 ちょっとセーラが怒った、とはいえちょっとだけ。9話のような本気の怒りではない、とにかくジェームスがいい加減なことを言っているのを止めたいだけ。この台詞はクリスフォードが持ち込んだインド美術品をジェームスがガラクタだと言ったことでムッと来たセーラが言ったのである。
 セーラにしてみればインド美術品も父親との思い出のある品物である。それだけでなくてミンチン学院に来る前の幸せな生活の象徴だったに違いない。それをガラクタとバカにされたら確かに腹も立つ。対照的にその直前まではインド美術品の話をピーターに懐かしそうに語ったばかりだった。
 このシーンは原作にも小説版にも無いアニメオリジナルである。小説版ではセーラが隣に運ばれるインド美術品に惹きつけられるシーンだけで終わっている。原作はその運び込まれるインド美術品を見てセーラは「インドに親しみのある人が来た」と喜び、友達になれそうだと思う。夜になってベッキーとその話題となり、ベッキーは隣が異教徒の人だと信じるようになる。
名場面 クリスフォード初登場 名場面度
★★★★
 ついに物語がハッピーエンドへ向けて動き出す。「小公女セーラ」を初めて見た人も、「小公女」原作を知らない人もこのシーンを見ればクリスフォードがセーラの運命を背負っていることは想像できよう。それは次々回でいきなり明らかになるが、明らかにするまでもう何回か明けて欲しかったなぁ。
 クリスフォードを乗せた馬車がクリスフォード邸の前に着くと、まず馬車から初登場を家族に先に越されたカーマイケル弁護士が初登場する。続いて召使い達が赤い絨毯を玄関に敷くのだがその後のアングルの切り替えが良い、馬車の車内からその絨毯を見る角度で始まったと思うと、馬車をなめ回すように馬車の屋根越しのアングルへと変わる。そう、馬車の窓越しに絨毯を見ていたことになり、このアングルの切り替え中に膝掛けをかけた主人の姿の下半身のみが映るようになっているのだ。これでクリスフォードという人物が病弱だと多くの人が気付く。
 そしてカーマイケル弁護士が手を叩きながらラムダスを呼ぶのがまたいい。出で来たラムダスがまたカッコイイんだ。原作では冴えないインド人って感じだったラムダス、アニメになって本当にかっこよく化けたと思う。まぁ今後の展開を考えればラムダスはあん位カッコよくないとアニメに必要な万人受けしないのだろうけど。
 そしてラムダスが馬車に乗り込む、何で主人が出てくるのにわざわざ召使いが一度馬車に乗り込むのだろう?と視ている方は悩む。そうするとラムダスがクリスフォードが乗った車椅子を担いで出てくるのだ。予想外の車椅子姿に見ている方は唖然とするだろう。
 このシーンの作りは本当に丁寧に描かれている。この丁寧さでもってクリスフォードが主人公セーラの運命を背負う人間だと視ている側は自然に感じる仕掛けだ。こんな手の込んだアニメって、最近見てないなぁ。
(次点)セーラのインドでの幼少時代の回想シーン
…小さい頃のセーラ可愛い。それにしてもオデコの広さとかが今のセーラと会わない気が。最後にセーラの母の笑顔が写真の中のセーラの母の姿にはまる演出は秀逸。
今回の
アーメンガード
出番なし。 アーメンガー度
 
感想  ベッキーの一家が地主の大きな農場で豚を追いかけたり、牛の乳を搾ったり、馬の世話をしたり、さらには一家で裏の畑(←ここポイント)で採れた野菜を売りに町へ行ったりするシーンは、本当にこの物語が「世界名作劇場」シリーズなんだなと思わされた。やっぱこのシリーズの「絵」は田舎の景色の方が似合う。ポルフィみたいに最新のアニメ技術で書かれても、これを作っている人たちが描く絵は田舎の景色の方が似合うんだよな。
 で、後半からいよいよ「小公女セーラ・第三部」スタート。明らかに話が新しい方向に展開する事を告げるように、クリスフォードが隣の空き家に引っ越してくる。ここを見ただけでこの人がハッピーエンドを運んできたであろう事が本放送時も想像できたが、そういうキャラがまだ話が2/3も残っている状況で出てきたって事は何度もすれ違いがあることを予想させた。セーラと一緒にまだ当分は耐えねばならないのか、トホホ…と当時は感じたもんだ。
 さ、11話以降セーラと一緒に耐え続けた皆さんご一緒に。クリスフォードキター、カーマイケル弁護士キター、ラムダスキター、印籠キター…最後のは違うか。
研究 ・ベッキーの本名
 前半はアニメオリジナルの上、小説版でもベッキーから手紙が来た程度で済まされていること。感想の欄で匂わせたように前半は別の話なのだ。あってもなくても物語の進行には支障はない(ただしほのぼのしていて好きだが)。後半は久々に原作を踏襲した話となる、クリスフォードの登場は原作でも小説版でもアニメ完結版でも時間やページ数を割いている重要なシーンである。どれも進行はほぼ同じだが、原作は夏休みでなく皆が学校にいるときの出来事なのでこの物語にベッキーやロッティも絡んでくる。
 今回の話の前半はベッキーから手紙が来るという話だ。手紙が届いたシーンの後、その手紙の封筒が出てくる。「セーラ・クルー」という宛名人はここでは問題ではない、差出人の名前を拡大して読んで見たかったのだが…。
 「ベッキー」という呼び名は本名でなく通称である。日本人で言えば「花子」という名前の人を「はなちゃん」と呼ぶようなものだ。「世界名作劇場」シリーズには他に「ベッキー」と呼ばれる少女が私が知っているだけでもう一人いる。1980年作品「トム・ソーヤの冒険」に出てくるトムのガールフレンドがやはり「ベッキー」と呼ばれているが、彼女は「レベッカ・サッチャー」という本名を縮めて通称で「ベッキー」と呼ばれているのだ。
 実は「小公女セーラ」においてベッキーの本名が判明しそうなのはここだけなのだが、残念ながら私の「小公女セーラ」視聴環境においてはこの手紙の差出人を読みとることが出来なかった。字が小さすぎて拡大するとドットになってしまうのである。誰か知っている方がいらっしゃいましたら是非とも情報を。
 ちなみに原作のベッキーは本名がハッキリしている。話は簡単で原作ではミンチンがベッキーを本名の「レベッカ」と呼んでいるのだ。正し名字は分からないし、ひょっとするとアンヌと同じように名字はないという設定なのかも知れない。キャラクターの名前はアニメも原作に沿っている、という基本がベッキーにも通用するならばベッキーの本名は「レベッカ」であることは間違いなくなる。

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