第35話「消えそうないのち」 |
名台詞 |
「待ってくださいまし、お薬は私がもらって参ります。こんなに夜遅く生徒さんが街へ出たら大変でございます。アーメンガードさんはお嬢様のおそばに居てくださいまし。お嬢様はきっと、アーメンガードさんにそばにいて欲しいと思ってらっしゃいます。さ、おばさんの家を教えてくださいまし。」
(ベッキー) |
名台詞度
★★★★ |
セーラが病気になったと聞いて心配で溜まらないアーメンガードは、院長の言いつけを破ることになってでもセーラの様子を見に行く決心をする。屋根裏部屋に上がって見たものは、高熱にうなされ苦しい息をしているセーラの姿だった。アーメンガードに衝撃が走る。
看病に来たベッキーから様子を聞き出したアーメンガードは自分の叔母に薬を作ってもらうことを思いつく。その思いつきのままに外へ出て行こうとするアーメンガードを止める台詞がこれである。
普段は計算高い台詞を吐かないベッキーであるが、ここだけは無意識にそういう計算が働いただろう。その時、アーメンガードが居ても立っても居られない状況で簡単には止められないだろうということを考えれば、例え自分が代わりに行くと言ってもアーメンガードは自分が行くと言い出す事を想定しなければならない。だからまずは自分の話を聞いてもらうために「待ってくれ」といい、続けて自分が代役を引き受けるという主題を言う。そしてまずはアーメンガードに行かせるわけに行かない社会的な理由を言い、続けてアーメンガードにとって効果的であろう台詞を言う。「セーラがそばに居て欲しいと思っているに違いない」と言われればアーメンガードもそっちを取るはずだ。
ベッキーにはずっとセーラの看病を続けてきたという思いはあり、ベッキーこそずっとセーラをそばで見ていないと心配でならなかったはずであり、その役をアーメンガードに全幅の信頼において任せようというのである。その様子に気付いたアーメンガードも、薬を取りに行くという大役をベッキーになら任せられると感じた。こうして原作にはない新しい友情関係である、ベッキーとアーメンガードの信頼関係がここに生まれるのである。この後、アーメンガードはベッキーに肩掛けを貸すのだが、これはこの信頼の証だろう。
この肝心な台詞は小説版にはないが、DVD完結版にはキチンと収録されている。
ベッキーとアーメンガードに友情が芽生えはじめる |
(次点)「ラビニア、お願い、セーラのこと嘘だと言って」(アーメンガード)
…アーミィたん、ラビニアの誕生日の一件以来強気になったな…、原作とは大違いだ。この強気のアーメンガードにラビニアも勝てず、走って逃げて行く。この強気が芽生えたからこそ、セーラを見舞いに行く決意が生まれるのだが。それと最初に寝込むセーラを見て目を丸くしたアーミィたん萌え〜。 |
名場面 |
走るベッキー。 |
名場面度
★★★★ |
ベッキーはイライザの家へ向かって走る、アーメンガードから借りた肩掛けをなびかせて。街を抜け郊外の草原を抜けると、そこには昼でも暗そうな雑木林が、夜の雑木林は怖いもので木々が本当に幽霊のように動いて見えるのだ。ベッキーはいったんは怯んだが、すぐにセーラの苦しい顔を思い出すと雑木林を一気に駆け抜ける。雑木林を抜けると今度は道の向こうから灯りが近づいてくる、馬車だ、こんな時間に走る馬車というと当時の怪談話の幽霊馬車に違いない。なんとかやり過ごそうと顔を伏せると、その馬車がベッキーの前で止まるじゃないか。ベッキーの恐怖は極限まで行っただろう。ところが馬車の主がベッキーに声を掛ける、聞き覚えのある声に驚き見てみると、ピーターだ。
このベッキーの走りは何はともかくセーラを救う一心であることが上手に描かれている。怖くても恐怖に怯えてもセーラの状況を思い出せば何でも出来るという状況なのだ。
主人公の最も近くにいるキャラが主人公やその家族を救うため、または主人公が大事な人を守るために走るシーンは「世界名作劇場」シリーズにも数多く描かれて名場面として記憶に残っている。「赤毛のアン」ではアンは親友ダイアナの妹を助けるため雪の中ダイアナの家へ走るし、「南の虹のルーシー」では飼い犬(正確にはディンゴだが)であるリトルが血だまりを残して行方不明になったルーシーを捜してアデレード中を走る、さすがに「わたしのアンネット」のルシエンのように遭難死の危険を背負うのはやりすぎだと思うが。このベッキーの走りはこんな名シーンのひとつに数えられ、雑木林のシーン以外はDVD完結版に収録されている。
小説版ではアニメを踏襲しているものの、雑木林のシーンはないが代わりに道に迷って困るシーンが描かれている。小説版のベッキーは道に迷ってイライザの家へ行くことも学院に戻ることも出来なくなってしまうのだ。困って泣き出したところへピーターの馬車が現れるという設定になっている。
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(次点)薬を飲むセーラ。
…熱で顔が赤くなり、目がうつろなセーラではあるが何故かここまでで一番可愛く描かれているような…。
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今回の
アーメンガード |
今回の彼女も非常に可愛く描かれており、選び出すのに苦労した。珍しい彼女の横顔から、「熱がひどいの?」。それと「待ってくださいまし」とベッキーに呼び止められた彼女、この彼女の表情の良さが分かる人はアーメンガードの魅力が分かる人だ。
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アーメンガー度
★★★★★ |
感想 |
今回のセーラの台詞を全部耳コピーで書き出すという壮大な企画にチャレンジした。
「ベッキー…」「でも…」「ありがとう、ベッキー。」「いいのよアーメンガード。私、お薬を頂くわ。ベッキー、お願い。」
…これだけ。今回セーラがしゃべったのはたったこれだけ。しかも最初の1分半と最後の数十秒にまとまっている。あとはセーラはひたすら寝ていた。「世界名作劇場」シリーズで、1話二十数分の間にここまで主人公に台詞がない話はあっただろうか?
サブタイトルは悲惨だが、この回は見ていてそんなに辛い回ではない。何しろいじめられるシーンがないのだ。普通のアニメと比較すれば確かに悲惨な話だが、この話は主人公が病気になって人前に出なくなることによって辛いいじめを見なくて済むから、ここまでのセーラに見慣れてしまうと本当に辛さ半減の話なのだ。さらにこの話はベッキーとアーメンガードの連係プレーでセーラが助けられる話である。前話と違い明確に「救い」があるから見ていて安心してしまう。ま、主人公が死んだら最終回になってしまうから、セーラは絶対に助かると信じてみていられる点もあるが。
アーメンガード、かっこよくて可愛くて良かった。活躍したのはベッキーだが企画立案はアーメンガードであって、アーメンガードがイライザから薬をもらえばという話を思いつかなかったらセーラの病気は悪くなるか長引くかのどちらかだったのは明白だ。そうなればミンチンは慈善病院へセーラを放り出し、物語も悲惨な終わり方をしたに違いない。
それと本放送当時、ワイルド先生を見て「南の虹のルーシー」のデイトン先生が出てきたかと思った。私としては「世界名作劇場」で酒好きの医者といえばデイトン先生なんで…デイトン先生はお酒は飲むが誤診はしなかったから名医なんだろうけど。そのデイトン先生ワイルド先生の診察結果「恐ろしい命取りの伝染病」って、コレラの事かな? |
研究 |
・消えそうな命
無論完全なアニメオリジナルエピソード、「魔法」という次の物語の転換点へ向けての話で、前話を受けてさらに話を悲惨な方向へ持っていこうとする。原作ならやっとパン屋の話か屋根裏パーティの話になる辺りであるが、それらのエピソードを既に使い切っている「小公女セーラ」では、原作から離れてひたすら己の道を行く。前半はセーラの病気が発覚して、それによるミンチンやモーリーなど学院側の動きを描いており、後半はそれを受けてセーラの友人達の動きを綴る構成となった。無論セーラを救うのはミンチンやモーリーの訳はないし、医者でもない、セーラの友人たちである。
この話は小説版でもかなり詳細に描かれているが、小説版はアニメを完全に踏襲しているわけでなくかなり設定や内容が変えられている。アニメでは32話の話となるクリスフォード邸でのカーマイケルとの会話や、カーマイケルがパリへ発つことになる話もここの話の中に入れられている。
小説版との違いをいくつか挙げると、アニメではアメリアがミンチンに医者を呼ぶよう勧めるが、小説版ではベッキーがミンチンに医者を呼ぶよう懇願している。無論ミンチンはベッキーの言うことに聞く耳を持たず、せめて看病をさせてくれという願いすら却下する。しかしベッキーは今回ばかりは簡単には引き下がらず、何度もミンチンに反論したようだ。結果的にはモーリーから病状を聞かされて医者を呼ぶことにするのだが、ワイルド先生を呼びに行くのはベッキーの役目、アニメ40話でセーラがワイルド先生を呼びに行くシーンがあるが、そのシーンのセーラをベッキーに替えて小説化した文章が出てきたりするのは見物だ。
次にミンチンがが「セーラの病気は大したことはない」と言った時のアーメンガードの反応、アニメではアーメンガードはこの言葉を聞いても不安な表情をしているが、小説版では違う反応をしている。その後ラビニアが「セーラは重病のはず」と言ったときも名台詞次点のような台詞は吐かず、ラビニアの言うことももっともだと思ったりもしている。
さらにラムダスがセーラが病に倒れベッキーやアーメンガードが看病している様子を覗き見目撃し、クリスフォードに報告するシーンが挿入されている。クリスフォードがセーラを気にするようになったきっかけはこの病気とされている。
続いてセーラに薬を飲ますシーンでは、セーラは意識朦朧でベッキーが無理矢理薬を飲ませたように書いてある。その後アーメンガードはベッキーに寝るように言い、アーメンガードがセーラを徹夜で看病する。
最後にこれらのシーンがセーラの視点で書かれている。病人の目にはこの光景がどう感じるのか。
以上は話の印象が変わる程の違いだが、「名場面」で記したようにベッキーがイライザの家へ走るシーンも違うし、他の話の印象を左右しない程度の違いはたくさんある。小説版のこの章のサブタイトルも「消えそうな命」とアニメと同じようで違う。つまりこの話に関しては、アニメと小説版で似て非なるものとなった。この後も小説版はアニメを踏襲して物語が進むが、何例か話の印象が変わってしまう程の改変を受けている話が出てくる。
特にこの「魔法」の手前では、アニメを再度小説にするにあたって不自然さを打ち消そうとしたと思われる。確かにベッキーの歳(現代日本の少女なら中学生くらい)になれば夜の雑木林がお化けに見える歳じゃないだろう(小説版ではベッキーの歳はセーラの1〜2歳上と明記されている、つまりベッキーは12〜13歳ということになり下に見積もっても小学6年生、ついでにベッキーの家庭の境遇も明記されている)、アメリアが医者を呼びに行くというのも不自然だし、今まで意識もなく眠り続けていたセーラが薬を飲むときに突如目を覚ますのも変だろう。しかし、この不自然さを消したら違和感が残ってしまったような気がする。不自然でもアニメの流れが一番「らしい」と私は思う。
次回、いよいよ「魔法」となる、「小公女」屈指の名シーンだ。 |