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第31話「屋根裏に来た怪物」
名台詞 「ありがとうございます、お嬢様。本当言うと私、何よりもお嬢様のそばに帰って戻れただけで、どんなに嬉しいか知れないんでございます。」
(ベッキー)
名台詞度
★★★
 ベッキーの実家は借金に困り、さらに貧乏なのでベッキーが長く家にいることも許されなかった。そこでベッキーは夏休み期間を残したまま学院に戻る。ミンチンの許しを乞うのにセーラの力を借りたベッキーはこのような言葉でセーラに礼を言う。
 でも本当はベッキーが早く帰ってきた理由で一番大きいのは「セーラに会いたい」という気持ちが強かったことだろう。セーラとはもう互いに無くてはならない関係だった、だから早く学院に戻って一人で頑張っているセーラを助けたい、ベッキーはそう思ったはずである。そこで母から早く戻って働けと言われたのは早く戻りたいベッキーの背中をポンと押す一言となっただけだ。実はベッキーの母もベッキーのそんな思いを知っていたのかも知れない、と妄想を膨らませることが出来る台詞だ。
 もちろん、セーラもベッキーの夏休みが終わるのを心待ちにしていた。仕事が軽減するだけでなく心の支えとなる同僚が戻って来るわけで、ベッキーに色々話したい事もあるはずだ。買い物からの帰りにベッキーの後ろ姿を見つけたセーラの笑顔にその気持ちが現れているだろう。
 この話の前半はこのようにして、セーラとベッキーの友情が再確認される。
(次点)「大丈夫、ピーターがいるわ。」(セーラ)
…「お嬢様もひとりぽっちで寂しいですね」とピーターが言った台詞への返事。セーラはピーターが喜ぶのを狙ってるな、絶対に。この後の真っ赤になって照れるピーター可愛いね。私もセーラにこう言われたい。
名場面 スーリャの鳴き声を聞いたベッキーが台所に飛び込むまでのシーン 名場面度
★★★
 いやー、ベッキーの表情が豊かだね。この回だけでベッキー百面相が作れそうだ。このシーンに先立つベッキーの里帰りからの帰還シーンで、セーラに後ろからいきなり声をかけられて驚くベッキーも良かったし、勝手に帰ってたらミンチンに叱られると怯えるベッキーも良かった。ここまででも十分にベッキーの表情をたくさん楽しめるが、このスーリャの鳴き声に部屋を飛び出し台所に飛び込むまでのベッキーの恐怖の表情は今までにない大げさな怯え方で、見ていて滑稽で楽しい。
 その中でベッキーが投げ出した鞄がちゃんと凹んでいたり、効果的に蝋燭の皿が蹴飛ばされて落ちる音を入れたりと芸も細かいし、どこからともなく聞こえるスーリャの鳴き声は屋根裏の薄暗さでもって不気味さが倍増し、見ている方もハラハラドキドキとなるのだ。そして台所に飛び込んだベッキーはバケモノだと言い張り、セーラの表情も真剣に変わる。このシーンはこの話における「事件」の入り口でしかないが、そのアプローチとして視聴者を引き込むだけの魅力を十分持っている。
 この話、ベッキーだけでなくてセーラもピーターもいつも以上に表情豊かに描かれている。ピーターは名台詞次点で記したとおり、セーラに嬉しい一言を言われた時の反応が良いし、セーラも後半で真っ赤になってきゃーきゃー言いながらスーリャから逃げまくる。どれも他の話ではあまり見られない表情なので、この話は一見の価値ありなのだ。
今回の
アーメンガード
出番なし。 アーメンガー度
 
感想  ラムダスカッコイイ、とにかくカッコイイ。最初にミンチン学院の屋根に飛び移ろうとしたときに危なく落ちそうになったのはポイントが高い、「世界名作劇場」シリーズで本当にカッコイイ男はああいうドジな面を見せるから良いのだと思う。ラムダスも例に漏れず、まずは一度だけ危ないシーンを見せつけてからの活躍となった。そしてこのシリーズ(少女が主役の場合)では凛々しい男が物語をハッピーエンドに向かわせるきっかけを作る事も多々ある。「ルーシー」のミスタープリンストンや「アンネット」に出てくるギベット先生などが私の印象に残るところ。ラムダスというのはこのカコイイ男と凛々しい男の双方を演じる、まさに「セーラ」の中の当たり役なのだ。
 この話の前話と同じように前半と後半で違う話になっているが、前話は前半と後半でつながりが無かったが今回は一本につながっているのが特徴である。スーリャが逃げ込むシーンにベッキーを同伴させるためになるほど、ベッキーが故郷から帰ってくるという状況を上手く利用した。これによりスーリャが屋根裏に飛び込む経緯とそこにセーラがいる理由が原作よりリアルになったと思う。
 どうでもいいが、最後のラムダスのジャンプはあり得ないなぁ。どう見ても自身の身長より高いところへ助走も無しに飛び上がっている、オリンピック金メダルクラスの体力があるんだな、このインド人。
研究 ・屋根裏の事件
 今回は前半はアニメオリジナルだが、後半は原作踏襲のエピソードとは言えこのふたつの話をうまく繋げた。ここからの研究に書くが、学院が夏休みになるという原作にない話を用意し、ベッキーまで故郷に帰らせたのはこの話を自然な設定に書き換えるためだったといっても過言でないだろう。
 まず先に原作である。原作のこのシーンは平日の夕方、セーラが夕方に手すきになる時間に起きる。セーラが屋根裏の天窓から夕焼けを眺めているとスーリャを抱いたラムダスが隣の屋根裏から顔を出す。セーラが微笑むとラムダスがスーリャを抱く手を緩めてしまい、スーリャがセーラの部屋へ飛び込むという話だ。アニメほど派手ではないがスーリャがセーラの部屋中を逃げ回り、それをラムダスが追う展開が少しだけある。そしてラムダスは無事にスーリャを捕まえ、ラムダスと二言三言会話をしてからラムダスが去る。このシーンではセーラがインド語で話をしたため(原作セーラはアニメと違って日常会話に困らない程度にインド語が使える)、ラムダスは懐かしい母国の言葉で会話できたのが嬉しかったのだろうか、セーラには主人に話すのと同じように丁寧な態度で接した。一方セーラは、インド人の召使いに囲まれていたインドでの生活を思い出し、現在の生活を思い知った上で変わったことが起きる見込みもないと考える。そしてミンチンが描いているセーラの将来を思い出して将来を悲観するが、マリーアントワネットのつもりになってこれを乗り切る。
 さて、アニメと小説版では夏休みの真っ昼間。ベッキーからバケモノのような鳴き声を聞いたと言われたセーラがベッキーを連れて屋根裏に来る。天窓から顔を出すと隣の屋根裏から顔を出したスーリャを見つける、スーリャがセーラの部屋に飛び込み、その後をラムダスが追ってきてセーラの部屋とベッキーの部屋をまたいでの大捕物が始まる。そしてスーリャが捕まった後にラムダスが去り、セーラとベッキーは仕事をサボっていたとモーリーに叱られて終わる。
 内容的に深いのは原作だ、原作はラムダスとセーラに過去を思い出させるという話になっていて、セーラはさらに自分の将来までも決定づけられていることを悲観する。この一件を通じてセーラとラムダスが繋がったということはついでみたいなもんで、何度文章を読んでも事件後の二人の気持ちを象徴したいとだなと感じる。
 一方、アニメはセーラとラムダス、ひいてはクリスフォードを関連づけることにテーマが絞られている。だから事件後の余韻はなく唐突にモーリーの怒鳴り声となるのだ。
 そしてアニメでは夏休みという設定にした理由がある。それは学院にいる人が少ない状態で事件にしたかったのだと思われる。子供も見るアニメとしてこのシーンを面白くするのは、ラムダスとスーリャが屋根裏を走り回っての追いかけっこが必要になる。これを普段の学院の状態でやったら不自然なのは明白だろ。走り回る音は床を通じて階下まで響き、特別室のラビニアが「うるさいわねっ!」と飛び込んできたらこの話は台無しだし、アーメンガードがメルが捕まると思って見に来てしまっても同じことだ。その証拠にアニメではミンチンが物音に気付くシーンが描かれている。だからアニメでは展開を自然にするとともに、邪魔者が入らないように学院に生徒がいない状態で事件を起こすことにした。これで「学院の夏休み」という描写を必要にしたのだろう。
 そしてベッキーを里帰りさせた理由も、このシーンに原作ではいなかったベッキーを立ち会わせると同時に、事の発端をベッキーに握ってもらうためである。そのためにはベッキーが平日の真っ昼間に屋根裏へ上がるようにし向けなきゃならない。そこでベッキーが里帰りから戻ってきたという設定としたのであろう、これでベッキーが謎の鳴き声を聞きそれをセーラに告げることで自然に事件が始まるのだ。
 これでセーラとラムダス、そしてクリスフォードへと繋がる「道」が出来た。こうして「第三部」の話が本格的に転がるが、次話はその前提設定ということになってくる。

第32話「壁の向こう側の秘密」
名台詞 「いいえ、そんなことないわ。」
(セーラ)
名台詞度
★★
 セーラとドナルドが再会、この場でドナルドは「お姉様もママも君がとても上品で賢そうだから、本当は昔お嬢様だったかも知れないって。本当なの?」と聞かれる。するとセーラは何のためらいもなくこの台詞を吐くのだ。
 この時のセーラにはふたつの思いがあるだろう、ひとつは昔お嬢様だったけど何らかの事情で今は違うという事実を知られたくなかった事。もし無神経なドナルドがこの事実を知ったら、またセーラの心をズタズタにする行為に及ぶかも知れないし、なによりもそれで同情されるのが嫌だったのだろう。
 もう一点がもう既にお嬢様だった自分とは決別しており、過去がどうあろうが関係ないからと自然にこの言葉が出たとの解釈。または本当のことを言うことで過去を思い出して悲しい思いをするのが嫌だったのかも知れない。
 いずれにしろセーラはドナルドに昔の自分を語らなかった。ドナルドはそれを聞いて安堵する。しかしドナルドがセーラの過去について知ったら…何よりも自分もそうなるかも知れないと酷く不安になるだろう。
 このシーンは原作にはないが、小説版ではアニメよりもさらに会話が増やされるなど膨らまされている。それによりセーラにお金を恵んだことでドナルドが母にこっぴどく叱られたこと、セーラがドナルドからもらった硬貨をどうしたか、が明らかになっている。がこの名台詞はない。
 このエピソードの直後からセーラの運命について話がゆっくりではあるが動き出す。
名場面 クリスフォードとカーマイケルの会話シーン 名場面度
★★★
 ここで初めてクリスフォードがしゃべるシーンが出てくる。そのシーンはクリスフォードがカーマイケルに自分の胸の内を明かす重要かつ重たいシーンだ。その会話でクリスフォードはセーラの父ラルフの友人で、ラルフが生命を落とすきっかけとなったダイヤモンド鉱山を共同で経営している人物だと言うことがわかる。そしてクリスフォードはラルフの娘、つまりセーラの行方を捜していることも明らかになる。
 ところがクリスフォードは詳細を何一つ覚えていない、ラルフの娘の名前、留学先、年齢などというラルフの娘に関するデータが消えてしまっているのだ。理由はインドで脳炎にかかったためとされている。そしてラルフの妻がフランス生まれだから娘の留学先はパリだと勝手に決めつけ、足下のロンドンを全く気にせずにカーマイケルをパリに向かわせる。
 このシーンは終盤へ向けて話が大転換するきっかけである。だがまだ物語をひっくり返すまで行かない、ここから色んなすれ違いがあって真っ直ぐにラストへは行かないのだ。でもこの先の結論を視聴者にある程度バラし、その展開で楽しませるという手法を選んだ事が視ている側にも分かるため、今後の物語の楽しみ方を教えてくれる話でもある。
 原作ではもっと詳細に会話がやり取りされている。ラルフの娘らしい人物が見つかってロシアにいるという話や、インドで脳炎にかかったときの話などアニメには出てこない話がたくさん出てくる。さらにラルフから娘の名前を聞いていない事はハッキリ覚えていて、思い出せないのは留学先だけなのだ。そしてカーマイケルをモスクワに旅立たせるのである。
 小説版ではこのシーンは全部カット。なんと小説版の「小公女セーラ」ではクリスフォードがラルフの娘を捜していることが明かされるのは、セーラこそがクリスフォードが探している娘だったと分かる直前である。そこまでは断片的に「ある女の子を捜している」ことを匂わせる文章が出てくるだけで、それがセーラであると分かる文章はひとつも出てこない。初めて「小公女」を読む人なら凄く楽しめると思うが、話を知っている人が見たら何じゃ?と思う設定だ。
今回の
アーメンガード
出番なし。・゚・(ノД`)・゚・。ウエエェェン アーメンガー度
 
感想  それにしても、ラルフの娘はどこにいるのやら…(笑)。
 クリスフォードが自分の胸の内を明かすこの話で、当時はもう最終回がどうなるか見えてしまった。ただいきなり致命的な勘違いがある、これが消えるまでずっとすれ違いばかりのもどかしい話が続くかと思うと、またセーラが何度もいじめられると感じて暗くなった記憶が。でも考えようによっては、ここからはセーラがどんな辛いいじめ方をされてもラストが見えている分「おぼえてろよ…」という見方も可能になる。あれだ、水戸黄門で最後に印籠が出ると分かっているから農夫が辛い目にあっても見ていられるのと一緒だ。
 この話はとにかく重い、クリスフォードの苦悩を後半丸々見せられるのだから小さい子供は飽きてしまいそうな内容だろう。正直言ってまだラビニアにいじめられるセーラを見ている方がいいと子供達は思うに違いない。でも物語全体を通した場合、先に結末をネタバレさせてしまうこの話は重要で、この物語は結末で楽しむのでなく展開で楽しむのだと知らされる。この「世界名作劇場」が大人の視聴にも耐えうる質の高いアニメである証だ。
 この話が重いと書いたが、この話の重さに追い打ちをかけてしまった出来事がある。実は本放送ではこの回はCM無しで放送されたのだ。CMが入る部分にはアイキャッチのエミリーが椅子に座っている絵が流れていたような記憶がある。この放映の数日前にあの日航機ジャンボ機墜落事故が発生し、この事故で社長を失ったスポンサーが喪に服してCMを自粛したのだそうだ。○ーモントカレーとか賑やかなCMである程度物語の重さを緩和していた感があった「小公女セーラ」だったが、この話はその賑やかさもなくて物語の思いイメージが残る結果になってしまった。
研究 ・壁の向こう側
 この話は後半が原作のストーリーで、これを膨らませて前半を作った物語である。ただジェームスが「鉱山ほど危ない物はない」って話をする部分は原作に存在する。さらに原作にはセーラとアーメンガードが隣の紳士について語り合ったり、セーラが隣の紳士を気に入った理由、セーラが隣の紳士に向かって挨拶しているシーンなどが描かれている。その点ではクリスフォードとカーマイケルの会話以外の部分では原作とアニメでは全く違う展開をしているともとれるだろう。
 この話のテーマは壁の向こうとこっちというところであるが、原作ではこれをふたつの視点で書いている。ひとつは間に壁や窓や戸があっても親切な心は絶対に通じるものだという精神的な視点、これはセーラが隣の紳士のこっそり挨拶しながら考えていることとして出てくる。もう一点はアニメと同様、壁の向こう側で見当違いの方向でセーラを探しているクリスフォードと、壁のこちら側ではセーラが日々の仕事に苦しんでいるというすれ違いの光景としての視点である。後者の方は、原作ではセーラの父のセーラへの呼び方「小さなおくさま」がキーワードになっているのも面白い点だ。壁の向こう側でクリスフォードはカーマイケルにラルフが娘を「小さなおくさま」と呼んでいた事を話し、その「小さなおくさま」をなんとしても探し出さねばならないという話をしており、壁のこちら側でセーラが自分が「小さなおくさま」と呼ばれていたのは昔のことだと寂しげに呟くのだ。
 壁の向こうとこちらという構図は、実はこれからラストまで続くのであるが、アニメでは壁の向こう側という構図が中途半端になっている。終盤への流れはアニメの方が自然だと思われる部分もあるのでそこは大目に見てやらねば。

第33話「新学期のいじわる」
名台詞 「ガーラスー、ガーラスー」
(ガラス屋の兄ちゃん)
名台詞度
★★★★
 耳につくと離れない。この兄ちゃんの売り声はずっと耳の奥に残っていたもんな〜。
(次点…じゃなくてツッコミ)「ラビニアさんのお母様はやかましい方ですから、そのつもりで。」(ミンチン)
…オモエモナー。
名場面 ラビニアがセーラを石版で叩くシーン 名場面度
★★★
 「世界名作劇場」と言えば山田栄子さんの声、山田栄子さんの声と言えば「小公女セーラ」ではラビニアの声を担当している。このシーンと声優さんの関係があるかって? あるから珍しく声優にこだわる話をしているのであって…。
 「世界名作劇場」における山田栄子さんの声で一番有名なのは1979年作品「赤毛のアン」の主人公アン・シャーリー、その「赤毛のアン」で私が一番印象に残っているのは赤毛をバカにされて怒りに燃えたアンがギルバートの頭を石版で殴るシーン。その時のアンの怒りと粉々になった石版は、私が本放送リアルタイムで覚えている「世界名作劇場」で最も古い「ストーリー展開を理解した上で」の話なのだ。このシーンは「赤毛のアン」の名シーンのひとつに数えられるだろう。
 それから6年の歳月を経て、同じ声優さんが声を担当するキャラがそのシーンを再現するとは。ま、石版で殴るに至る過程は、アンはからかわれた側で報復としての行動だし、ラビニアはいじめる側で展開が思い通りにならずに八つ当たりとして、という感じで立場からして違う。殴られる側の反応も違い、ギルバートはアンの石版を避けもせず殴られるままだったが(あそこまでやられたら流血の惨事のはずだが)、セーラは咄嗟に手が出てラビニアの石版をうまくかわす。セーラの場合、これが事件のきっかけになるのだが。さすがに相手がセーラじゃギルバートのように石版が粉々になるまで…というのは見たくないからこれでOKだろう。
 このシーンは同じ声優さんに過去作品の名シーンを再現させるという意図もあったと思われる。そのために完全にアニメオリジナルのこの1話を挿入したのではないかと疑いたくもなる。いずれにせよ「世界名作劇場」が好きな方から「おおっ」と思ったことだろう。私も当時、この声の人にこのシーンを…と感心して見ていた。
 どうでも良いが、この直後のガラスが割れる音は大げさすぎ。それと理論上、ガラスが割れたなら石版は窓の外に落ちるべきだと思うのだが。
(次点)ベッキーを止めるセーラ。
…セーラがガラスを割ったと主張するラビニア、ベッキーが自分が悪いと出て行こうとするのをセーラが引き留める。ベッキーが出て行って混乱を防ぐためだろう。それよりガラスをベッキーの給料で弁償となるのを避けたかったのか?
今回の
アーメンガード
祝!アーミィたん復活! キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!!!
学院に戻ってセーラを見つけ、「ただいま!」とセーラに駆け寄る彼女。本放送時も帰って来るの心待ちにしてた…「ただいま!」って自分に言われたようにも感じて、つい「おかえり!」と言いたくなってしまうシーンだ。
アーメンガー度
★★★★
感想  夏休みが終わった。もちろん当時は愛しのアーミィたんも再登場な訳で、アーメンガードが着ている服が可愛かったなー。すぐにいつもの服に戻っちゃったけど、おまけにいいところをロッティに持って行かれているし…。
 もちろんラビニアも帰ってきたわけで、いきなりいじめモード全開で初めてセーラに暴力をふるう。今まではベッキーにブーツを投げつけたことが二度あった位だったんじゃないかな? そしてその暴力は「石版攻撃」、その詳細については名場面欄で書いた。
 前半のドナルドとの再会シーンもいいね。ドナルドは父が「亡くなった人の娘さんを探しに行く」と説明してもセーラは「大変なのねぇ」と答えるボケっぷり。原作みたいに「探している女の子って誰の事かしら?」と返事していればドナルドが「亡くなった人、確かラルフさんとかいったような…」と答えたかも知れない、そしたらセーラが「ちょっと待ってください! 私の父の名はラルフといいます!」とカーマイケルへ向かってかけて行く、「小公女セーラ」最終話「また会う日まで」…なんて事になったらつまらないな、やっぱり。とこんな妄想をしながら本放送時は見てた。
研究 ・ドナルドの6ペンス硬貨
 今回も全編アニメオリジナル、ただ港でドナルドと再会するシーンは原作の一場面を参照していると思われる。原作ではモスクワへ旅立つカーマイケルを一家で見送っているところへセーラが通りかかるシーンがある。それはパン屋でホームレスの少女にパンをやった帰りの事である、学院の前に帰り着いたセーラは旅行に出る父を見送る「大家族」に出くわす。その中にドナルドが父へ向かって「その女の子が見つかったらよろしく言ってね」と言うのが聞こえ、セーラは「その女の子ってだれのことだろう?」と呟く。兄妹は見送りが終わると、「乞食ではない女の子」…つまりセーラの話題をするのだ。原作のこのシーンが変わりに変わって港でのドナルドとの再会シーンとなったのだろう。このシーンは小説版にはない。
 ドナルドといえば以前もらった6ペンス硬貨が今回の話では役に立つ。アニメと小説版のセーラはドナルドからもらった6ペンス硬貨を箱に入れて大事に残してあった、恐らく普段はお守りとして置いておいたがいざって時のために残しておいたのだろう。それが今回のエピソードではピーターの紹介で中古のガラス屋に学院のガラスを修理させ、この6ペンスで修理代が賄えたのだ。当然学院はガラスの修理に1ペニーも払ってないし、原因者であるベッキーの給料からガラス代を差し引かれることもなく、誰も傷つけずにガラスを直すことが出来たのだ。
 原作ではどうだろう、ドナルドの6ペンス硬貨が一度だけ出てくるシーンがある。それはあの屋根裏パーティのシーンである。アーメンガードに空腹に苦しんでいるのでは?と指摘されたセーラは素直にそれを認めた。それでもアーメンガードが「あなたが乞食に見えない」というと「私に6ペンスを恵んでくれた子がいる」と言って、その硬貨を見せるのだ。原作セーラは硬貨をリボンにつけてお守りとして常に首から下げていたらしい。何かに使った形跡はない。
 予想以上にドナルドとの絡みが多かったが、ドナルドはこのシーンを最後にしばらく画面から遠ざかる。次に出てくるのは雪のロンドンを背景にしたシーンだから、ちょっと先だ。

第34話「嵐の中のつぐない」
名台詞 「では気を付けて、どんな嵐にも負けんようにね。」
(洋服屋主人)
名台詞度
★★★★
 洋服屋主人、三打数三安打(笑)
 ラビニアの服の染み抜きをしなければならないセーラだが、染み抜きが出来る人のあてなんか彼女にはない。そこで行ってみたのがエミリーをくれたあの洋服屋、主人はちゃんとセーラを覚えていた上に優しくしてくれ、しまいには染み抜きをタダでやってくれる。
 その主人がセーラを心から心配して、店から立ち去るセーラに最後にかけた言葉がこれ。嵐というのは、今ロンドンの町を襲っている嵐と、セーラの人生に訪れている嵐の両方を掛けているのだろう。この短い言葉が咄嗟に出るほど、主人は現在のセーラの姿にショックを受けていたに違いない。
 デュファルジュは長い台詞でセーラに負けないようにと言ったが、この洋服屋の主人は短い言葉でセーラにこれを伝えた。この言葉を告げるとセーラはまた嵐の中を歩いて行くのだが、これが主人にはセーラが現在辛い人生を歩んでいるのに重なって見えたのだろう、店員と一緒に十字を切り、「あの子をお守りください」と祈る。一連のシーンは涙が出る。
名場面 洋服屋に入るシーン 名場面度
★★★★
 ラビニアの服に付いたインクの染みを落とさねばならないセーラが、唯一泣きつくことが出来そうな場所はあのエミリーをくれた洋服屋だけ。
 しかしセーラの不安は洋服屋の主人が自分を覚えているかというものであった、もし覚えていなかったらセーラにはこの服の染みを直してもらえるあてはない。かといって覚えていればいいと言うわけでもない、高級な子供服屋でもある店の主人だ、セーラの見窄らしい姿を見たら追い返すかも知れない、セーラは店にはいるのを戸惑った。そしてショーウィンドウ越しに店を覗き、意を決して店の中へ入ろうとするが、そこでもやはり不安でためらいが出る。セーラの不安を描き出すシーンとして上手に描かれていると思う。
 店の中では人が良くて優しくて商売上手のあの主人が店を覗き込むセーラに気付いた。いや、前に会った時と違いあまりにも見窄らしい姿をしているので、本当にあのお嬢様なのかどうか疑ったりもしたようだ。やがてセーラが意を決して店に入ると、間違いなくあのお嬢様だったと思いセーラを暖かく迎える。セーラの姿を見てセーラの事情を気にするが、いずれにしても大変な事があったに違いないとセーラの言うことに耳を貸すのだ。相手がメイドだろうと何だろうと、対等に付き合うこの主人の人の良さが伺える。その主人の姿に安堵したセーラは、インクの染みがついたラビニアの服を出す。
 この主人、セーラの事情を知りセーラにお金が1ペニーもないと知ると染み抜きをタダにした。そう、エミリーを大事にしている感謝も込めてであるし、状況はどうであろうと頼ってくれたのが嬉しかったのかも知れない。このようにメイドの身となったセーラと、セーラが気に入っていた主人のやり取りは、互いの優しさがにじみ出ていて視ている者に感動を与える。
 この主人とセーラの嵐の日のやり取りは「小公女セーラ」の隠れた名シーンだと思う。DVD完結版ではカットされるなど、こんないいシーンなのに評価が低いなーと思うのは私だけ?
 洋服屋のシーンはセーラが店に入って染み抜きを頼むところまでが小説版にも描かれている。ただきれいになったラビニアの服を受け取って店を去るときのシーンは、「エミリーを大事にしている人からお金は取れない」という台詞が回想で出てくるだけでカットされている。小説版でもこの名シーンの評価の低さが分かる。
今回の
アーメンガード
セーラと一緒に暖炉の火に当たる彼女、なんか暖炉の暖かさがこちらまで伝わってきそう。そしてセーラがラビニアに教室を追い出され、不安そうな表情をする彼女。
 
アーメンガー度
★★★
感想  この話も21話のような悲惨な話である。セーラに対する救いがほとんど無いのだ、その中での洋服屋主人との話はホッとさせられる。セーラにも味方はいる、そう思うだけで安心できるのだ。でもその後にセーラがモーリーに投げ飛ばされ、倒れようが何だろうが働かされるのは胸が痛くて涙が出る。
 さらにその辛いだけの内容でなく、今回のセーラは明らかに体調不良で熱を出している模様。でも休むわけにも行かず健気に働いているのを見て、倒れるぞと心配した。そしたら案の定、次回予告は病に苦しむセーラの姿で始まってるし…。
 しかし秋のロンドンに来る嵐ってどんなのだろう? 日本で言う台風みたいなものかな?とちょっと考えたりもしてみた。アニメをよく見てみるとこの嵐の襲来と同時に寒くなったようだから、秋の長雨みたいなものなのかなぁ? それにしても風雨が派手だ。
 あ、ラビニアが自分の部屋からシーザーを追い出そうとしているシーンで、ラビニアの声とシーザーの泣き声が同時に聞こえないという事は考えちゃいけません。そう言えば今まで、ラビニアとシーザーが同時に出たことなかったなんて考えるのもなしで。
研究 ・「魔法」へ向けて
 この回は完全なアニメオリジナルエピソード、原作から改変して話を持ち込んでいる部分すらもない。実はこの話は今後「小公女」で重要になってくるクリスフォードの「魔法」へ向かうためのきっかけになる話である。原作ではこれに当たる話がふたつあり、ひとつは屋根裏のパーティでこれは単なる1エピソードとしてもう使ってしまった。もうひとつの原作にあるエピソードは「メルチセデックが見たり聞いたりしたこと」で、セーラが常に屋根裏部屋を鮮やかに飾る妄想をしていると知ったラムダスがそれをクリスフォードに話し、クリスフォードがそれを実現してやろうと言い出したためにラムダスとクリスフォードの秘書がセーラの留守に屋根裏部屋に忍び込んで計画を立てる話である。こちらの話は理由はよく分からないがアニメではカットされた。
 「小公女セーラ」を原作と比較すると、アニメオリジナル以外で一番変わっている部分はこの「魔法」へ向けて起きる出来事であろう。序盤は原作を踏襲、中盤はオリジナルエピソード中心で進み、ここいらでその二つの筋を上手くかみ合わせないとラストへ持っていけない。その合流点が「魔法」なのである。
 中盤はアニメオリジナルを中心に突き進んだため、次の物語の転換点となる「魔法」へ自然に入るためには無理矢理原作の話を持っていくより今までの流れを重視したのだと思われる。さらに原作に置き換えればこの辺りに出てくるエピソードも使い切っている、ならば思い切って「魔法」に至る道筋を全部オリジナルにしちゃえと考えたのだと思われる。その最初に来た話は、嵐の中で無理矢理外で働かされたり町へ買い出しにやられたりするという悲惨な話になってしまった。そして「魔法」が実際に起きるまでこの悲惨さは続くのである。
 ここから「魔法」までの流れはアニメの方が現実的で好きだ。

第35話「消えそうないのち」
名台詞 「待ってくださいまし、お薬は私がもらって参ります。こんなに夜遅く生徒さんが街へ出たら大変でございます。アーメンガードさんはお嬢様のおそばに居てくださいまし。お嬢様はきっと、アーメンガードさんにそばにいて欲しいと思ってらっしゃいます。さ、おばさんの家を教えてくださいまし。」
(ベッキー)
名台詞度
★★★★
 セーラが病気になったと聞いて心配で溜まらないアーメンガードは、院長の言いつけを破ることになってでもセーラの様子を見に行く決心をする。屋根裏部屋に上がって見たものは、高熱にうなされ苦しい息をしているセーラの姿だった。アーメンガードに衝撃が走る。
 看病に来たベッキーから様子を聞き出したアーメンガードは自分の叔母に薬を作ってもらうことを思いつく。その思いつきのままに外へ出て行こうとするアーメンガードを止める台詞がこれである。
 普段は計算高い台詞を吐かないベッキーであるが、ここだけは無意識にそういう計算が働いただろう。その時、アーメンガードが居ても立っても居られない状況で簡単には止められないだろうということを考えれば、例え自分が代わりに行くと言ってもアーメンガードは自分が行くと言い出す事を想定しなければならない。だからまずは自分の話を聞いてもらうために「待ってくれ」といい、続けて自分が代役を引き受けるという主題を言う。そしてまずはアーメンガードに行かせるわけに行かない社会的な理由を言い、続けてアーメンガードにとって効果的であろう台詞を言う。「セーラがそばに居て欲しいと思っているに違いない」と言われればアーメンガードもそっちを取るはずだ。
 ベッキーにはずっとセーラの看病を続けてきたという思いはあり、ベッキーこそずっとセーラをそばで見ていないと心配でならなかったはずであり、その役をアーメンガードに全幅の信頼において任せようというのである。その様子に気付いたアーメンガードも、薬を取りに行くという大役をベッキーになら任せられると感じた。こうして原作にはない新しい友情関係である、ベッキーとアーメンガードの信頼関係がここに生まれるのである。この後、アーメンガードはベッキーに肩掛けを貸すのだが、これはこの信頼の証だろう。
 この肝心な台詞は小説版にはないが、DVD完結版にはキチンと収録されている。
ベッキーとアーメンガードに友情が芽生えはじめる
(次点)「ラビニア、お願い、セーラのこと嘘だと言って」(アーメンガード)
…アーミィたん、ラビニアの誕生日の一件以来強気になったな…、原作とは大違いだ。この強気のアーメンガードにラビニアも勝てず、走って逃げて行く。この強気が芽生えたからこそ、セーラを見舞いに行く決意が生まれるのだが。それと最初に寝込むセーラを見て目を丸くしたアーミィたん萌え〜。
名場面 走るベッキー 名場面度
★★★★
 ベッキーはイライザの家へ向かって走る、アーメンガードから借りた肩掛けをなびかせて。街を抜け郊外の草原を抜けると、そこには昼でも暗そうな雑木林が、夜の雑木林は怖いもので木々が本当に幽霊のように動いて見えるのだ。ベッキーはいったんは怯んだが、すぐにセーラの苦しい顔を思い出すと雑木林を一気に駆け抜ける。雑木林を抜けると今度は道の向こうから灯りが近づいてくる、馬車だ、こんな時間に走る馬車というと当時の怪談話の幽霊馬車に違いない。なんとかやり過ごそうと顔を伏せると、その馬車がベッキーの前で止まるじゃないか。ベッキーの恐怖は極限まで行っただろう。ところが馬車の主がベッキーに声を掛ける、聞き覚えのある声に驚き見てみると、ピーターだ。
 このベッキーの走りは何はともかくセーラを救う一心であることが上手に描かれている。怖くても恐怖に怯えてもセーラの状況を思い出せば何でも出来るという状況なのだ。
 主人公の最も近くにいるキャラが主人公やその家族を救うため、または主人公が大事な人を守るために走るシーンは「世界名作劇場」シリーズにも数多く描かれて名場面として記憶に残っている。「赤毛のアン」ではアンは親友ダイアナの妹を助けるため雪の中ダイアナの家へ走るし、「南の虹のルーシー」では飼い犬(正確にはディンゴだが)であるリトルが血だまりを残して行方不明になったルーシーを捜してアデレード中を走る、さすがに「わたしのアンネット」のルシエンのように遭難死の危険を背負うのはやりすぎだと思うが。このベッキーの走りはこんな名シーンのひとつに数えられ、雑木林のシーン以外はDVD完結版に収録されている。
 小説版ではアニメを踏襲しているものの、雑木林のシーンはないが代わりに道に迷って困るシーンが描かれている。小説版のベッキーは道に迷ってイライザの家へ行くことも学院に戻ることも出来なくなってしまうのだ。困って泣き出したところへピーターの馬車が現れるという設定になっている。
(次点)薬を飲むセーラ。
…熱で顔が赤くなり、目がうつろなセーラではあるが何故かここまでで一番可愛く描かれているような…。
今回の
アーメンガード
今回の彼女も非常に可愛く描かれており、選び出すのに苦労した。珍しい彼女の横顔から、「熱がひどいの?」。それと「待ってくださいまし」とベッキーに呼び止められた彼女、この彼女の表情の良さが分かる人はアーメンガードの魅力が分かる人だ。
 
アーメンガー度
★★★★★
感想  今回のセーラの台詞を全部耳コピーで書き出すという壮大な企画にチャレンジした。
「ベッキー…」「でも…」「ありがとう、ベッキー。」「いいのよアーメンガード。私、お薬を頂くわ。ベッキー、お願い。」
…これだけ。今回セーラがしゃべったのはたったこれだけ。しかも最初の1分半と最後の数十秒にまとまっている。あとはセーラはひたすら寝ていた。「世界名作劇場」シリーズで、1話二十数分の間にここまで主人公に台詞がない話はあっただろうか?
 サブタイトルは悲惨だが、この回は見ていてそんなに辛い回ではない。何しろいじめられるシーンがないのだ。普通のアニメと比較すれば確かに悲惨な話だが、この話は主人公が病気になって人前に出なくなることによって辛いいじめを見なくて済むから、ここまでのセーラに見慣れてしまうと本当に辛さ半減の話なのだ。さらにこの話はベッキーとアーメンガードの連係プレーでセーラが助けられる話である。前話と違い明確に「救い」があるから見ていて安心してしまう。ま、主人公が死んだら最終回になってしまうから、セーラは絶対に助かると信じてみていられる点もあるが。
 アーメンガード、かっこよくて可愛くて良かった。活躍したのはベッキーだが企画立案はアーメンガードであって、アーメンガードがイライザから薬をもらえばという話を思いつかなかったらセーラの病気は悪くなるか長引くかのどちらかだったのは明白だ。そうなればミンチンは慈善病院へセーラを放り出し、物語も悲惨な終わり方をしたに違いない。
 それと本放送当時、ワイルド先生を見て「南の虹のルーシー」のデイトン先生が出てきたかと思った。私としては「世界名作劇場」で酒好きの医者といえばデイトン先生なんで…デイトン先生はお酒は飲むが誤診はしなかったから名医なんだろうけど。そのデイトン先生ワイルド先生の診察結果「恐ろしい命取りの伝染病」って、コレラの事かな?
研究 ・消えそうな命
 無論完全なアニメオリジナルエピソード、「魔法」という次の物語の転換点へ向けての話で、前話を受けてさらに話を悲惨な方向へ持っていこうとする。原作ならやっとパン屋の話か屋根裏パーティの話になる辺りであるが、それらのエピソードを既に使い切っている「小公女セーラ」では、原作から離れてひたすら己の道を行く。前半はセーラの病気が発覚して、それによるミンチンやモーリーなど学院側の動きを描いており、後半はそれを受けてセーラの友人達の動きを綴る構成となった。無論セーラを救うのはミンチンやモーリーの訳はないし、医者でもない、セーラの友人たちである。
 この話は小説版でもかなり詳細に描かれているが、小説版はアニメを完全に踏襲しているわけでなくかなり設定や内容が変えられている。アニメでは32話の話となるクリスフォード邸でのカーマイケルとの会話や、カーマイケルがパリへ発つことになる話もここの話の中に入れられている。
 小説版との違いをいくつか挙げると、アニメではアメリアがミンチンに医者を呼ぶよう勧めるが、小説版ではベッキーがミンチンに医者を呼ぶよう懇願している。無論ミンチンはベッキーの言うことに聞く耳を持たず、せめて看病をさせてくれという願いすら却下する。しかしベッキーは今回ばかりは簡単には引き下がらず、何度もミンチンに反論したようだ。結果的にはモーリーから病状を聞かされて医者を呼ぶことにするのだが、ワイルド先生を呼びに行くのはベッキーの役目、アニメ40話でセーラがワイルド先生を呼びに行くシーンがあるが、そのシーンのセーラをベッキーに替えて小説化した文章が出てきたりするのは見物だ。
 次にミンチンがが「セーラの病気は大したことはない」と言った時のアーメンガードの反応、アニメではアーメンガードはこの言葉を聞いても不安な表情をしているが、小説版では違う反応をしている。その後ラビニアが「セーラは重病のはず」と言ったときも名台詞次点のような台詞は吐かず、ラビニアの言うことももっともだと思ったりもしている。
 さらにラムダスがセーラが病に倒れベッキーやアーメンガードが看病している様子を覗き見目撃し、クリスフォードに報告するシーンが挿入されている。クリスフォードがセーラを気にするようになったきっかけはこの病気とされている。
 続いてセーラに薬を飲ますシーンでは、セーラは意識朦朧でベッキーが無理矢理薬を飲ませたように書いてある。その後アーメンガードはベッキーに寝るように言い、アーメンガードがセーラを徹夜で看病する。
 最後にこれらのシーンがセーラの視点で書かれている。病人の目にはこの光景がどう感じるのか。
 以上は話の印象が変わる程の違いだが、「名場面」で記したようにベッキーがイライザの家へ走るシーンも違うし、他の話の印象を左右しない程度の違いはたくさんある。小説版のこの章のサブタイトルも「消えそうな命」とアニメと同じようで違う。つまりこの話に関しては、アニメと小説版で似て非なるものとなった。この後も小説版はアニメを踏襲して物語が進むが、何例か話の印象が変わってしまう程の改変を受けている話が出てくる。
 特にこの「魔法」の手前では、アニメを再度小説にするにあたって不自然さを打ち消そうとしたと思われる。確かにベッキーの歳(現代日本の少女なら中学生くらい)になれば夜の雑木林がお化けに見える歳じゃないだろう(小説版ではベッキーの歳はセーラの1〜2歳上と明記されている、つまりベッキーは12〜13歳ということになり下に見積もっても小学6年生、ついでにベッキーの家庭の境遇も明記されている)、アメリアが医者を呼びに行くというのも不自然だし、今まで意識もなく眠り続けていたセーラが薬を飲むときに突如目を覚ますのも変だろう。しかし、この不自然さを消したら違和感が残ってしまったような気がする。不自然でもアニメの流れが一番「らしい」と私は思う。
 次回、いよいよ「魔法」となる、「小公女」屈指の名シーンだ。

第36話「魔法のはじまり」
名台詞 「う〜ん、あたたか〜い。う〜ん、このまま寝ていたい。」
(セーラ)
名台詞度
★★★★
 前話では殆ど台詞が無く、今回も前半は丸々、後半もCM明けから5分近く台詞が全くなかったセーラがついに口を開く。熱が下がったことに安堵する心の中の呟きの後、この台詞でセーラは初めて口を開く。と同時にこれが「魔法」の始まりを告げる言葉となる。
 セーラは五感のうち「暖かい」という感触で初めて魔法に触れる。まだこの段階では目を開いていないので「暖かい」という屋根裏では考えられない感触に疑問は抱かない、だがやはりすぐに部屋が「暖かい」事があり得ないと気付き、セーラは目を開く。するとあり得ない光景にセーラは目を見張り、思わず飛び起きる。
 この台詞を言うときのセーラの声が全46話中で一番可愛いと思うが、いかがだろう?
(次点というかツッコミ)「泣かないでロッティ、私だって、私だってどうしたらいいかわからないのよ。」(アーメンガード)
…君は薬を手に入れるという重大な役割を果たしただろう!
名場面 「魔法」のはじまり 名場面度
★★★★★
 「小公女」最大のみどころとも言える「魔法」、アニメでもこの表現に力を注いだことがよくわかる。今まで屋根裏を暗く冷たいイメージで描き続けたが、その屋根裏部屋の今までの設定を崩さぬように、明るく暖かく描いている。そして食器類はキラキラと輝かせ、何よりも暖炉のやかんをみているだけでその暖かさが伝わってくるようではないか。
 セーラの表情もいい、目を開けて最初に部屋の様子が変わっているのに気付いたときの驚き、毛布に頬をすり寄せるときの気持ちよさそうな表情、室内履きを見つけたときの嬉しそうな表情、豪華な料理に目を見張る表情、夢と疑って目を閉じる時の仕草、目を開いて夢でないと悟った時の喜び、やかんに手を触れて「あつっ!」と手を引っ込めたときの表情、ベッキーを起こしたときの笑顔…どのセーラをとっても満ち足りた気持ちの表情が良すぎる。これまでのセーラ以上に可愛い。
 またベッキーも良い、セーラに起こされて魔法だと言われたときの表情や、セーラの部屋にはいるときの眩しそうな表情、セーラの部屋を見て「ありえねー」と笑う顔、自分の頬を殴って夢でないと思い知らされたときの痛がる表情、夢でないと知って踊る表情…二人の信じられない気持ちと喜びの気持ちが溢れてきて、今まで二人とずっと一緒に耐えてきた視聴者も思わず笑顔になる。
 このシーンの二人の表情を見ていると、間違いなくこのシーンは「小公女セーラ」屈指の名シーンと言える。DVD完結版でも完全収録されているし、小説版では表紙の次の扉がこの「魔法」の食事を前に笑顔のセーラが飾っている。原作でも「魔法」は印象深いが、私はそれを超えてしまったとも考える。
 
今回の
アーメンガード
名台詞次点参照、セーラが目を覚まさないのを不安がる彼女である。涙をこぼすまいと上を向くのがいい。
アーメンガー度
★★
感想  病でただひたすら眠り続けるセーラ、時間の許す限り精力的に看病するベッキー、天窓から覗きに励む見守るラムダス。こんなシーンからこの話は始まった。原作をまともに読んだことがなく「魔法」を知らなかった本放送当時はどうやって病気から立ち直るのかという期待をこめてみていたもんだ。ラムダスが覗きに行った夜、まさかこんな展開になるなんて…。
 しかしラムダスがセーラの部屋に踏み込んだシーンでは、ラムダスはセーラが持つ父の写真の中身を見なかったんだなぁ。ラムダスは長くクリスフォードに使えているようだからラルフの顔を知っているだろう、あのシーンで躊躇せずに中を見ていたら「こ、これはラルフ様!」とか呟いてクリスフォード邸に文字通り飛んで帰ったに違いない。「ご主人様、あの屋根裏の少女がラルフ様のお写真を…」「なんだと」「あの少女がラルフ様の娘さんに間違いないのでは…お写真を持っているなんてそうとしか思えません。」「まさか…そんなことが…」「とりあえず隣の院長に話を聞いてみましょう、あの少女の父親のことを…」と二人はミンチン学院に乗り込み、「魔法」は起きず最終回…ってアホな。
 看病のベッキーがセーラの部屋から立ち去るとラムダスたちが入ってきて、何をするんだと当時はハラハラしながら見ていたもんだ。部屋を掃除して飾り付けるシーンを見ていると、こいつらマジでセーラを助ける気なんだと胸が熱くなったものだ。そしてセーラが「魔法」に気付いたとき、水戸黄門の印籠シーンのように清々しい気分になれた。ミンチンやラビニアにいじめられたのが浄化された、ずっと耐えてきてよかったと思った。
 こうなれば次辺りでクリスフォードがセーラが探している少女に気付いて、あと数話で最終回なんだなと放送当時は思ったりしていた。こんな幸せなセーラを見せつけられたらそう思うしかないじゃないか、え?まだ軽く10話は残っているの? これからどんな風に展開させるんだ?と当時は本当に疑問に感じたものだ。
 特に原作を本放送時より先に知っていたら、その思いは強くなっただろうな。
研究 ・最初の「魔法」
 この話は前半はアニメオリジナルだが、一部のシーンで原作を意識しているのは間違いない。「魔法」発動と同時に突然原作に戻るのでなく、ちょっとずつ戻したと言うところだろう。後半の「魔法」については原作を踏襲している。
 前半の原作を意識したシーンというのはラムダスが昼間にセーラの部屋に入り込むシーン。ラムダスが部屋やセーラの様子を調べているが、ここでメル一家がそんなラムダスの様子を伺っているのは、原作の「魔法」前の章である「メルチセデックが見たり聞いたりしたこと」のシーンを意識してのことだろう。原作のこの話ではラムダスとクリスフォードの執事がセーラの部屋に入り込み、セーラの部屋をどう飾ったりするか作戦を立てるのだがその様子をメルチセデックが伺っているのだ。
 そして「魔法」シーンに入る。アニメの小説版のセーラは病気で眠り続けており、ベッキーが看病を終えて自室に帰るのを見届けてからラムダス達の作業が始まる。原作では「屋根裏のパーティ」がミンチンに発見された事により皆が部屋へ帰り、セーラが眠りについたのを見届けてからラムダス達が作業を開始する。原作と小説版にはラムダス達が部屋に入り込んで作業をする様子は描かれていないが、原作ではそれが実行されている雰囲気は出ている。ここはアニメや小説の設定の方が自然だと思う。原作では状況はどうあれ、健康な11歳の少女が眠っている横であれだけの作業を気付かれずに行うなんて不自然すぎるのだ。ここはアニメや小説版が取ったセーラは病気が治りかけの一番眠りが深いところで「魔法」の支度が行われている、という設定の方があれだけの事にセーラが気付かなかった事を説明できて自然である。ただそう言う状況の人間が簡単に目を覚ますとも思えないが、原作に比べればかなり自然である。原作では寝間着まで着替えさせられているんだから…。
 そしてアニメと小説版のセーラは自然と、原作のセーラはラムダスが部屋から出て行くときに天窓を閉めた音で目を覚ます。どちらも目を閉じたまま部屋の暖かさに気付き、原作では「こんないい夢を見ているのだから目を開けたくない」という思いでセーラは必死に目を閉じ続けるが、部屋の明るさと石炭が燃える音で目を開く。アニメや小説版でもあり得ない暖かさに気付いて目を開く。
 その後セーラが夢と思うのはどちらも同じだ。このセーラが夢と疑うシーンに原作はかなり時間をかけている。共通点は暖炉の前でセーラは夢でないと断定することだ。
 部屋の様子でアニメや小説版と原作の違いは、テーブルの上の食事が一人分しかないこと、その代わりにテーブルの上には本が何冊かあり、その1ページ目に「友より」と書かれた手紙が入っていることだ(後者はアニメでは「魔法」2夜目の話となる)。原作セーラはこの手紙を見て泣く、自分には友がいるのだと感じて泣き出すのだ。
 続いてセーラは隣室へ行きベッキーを起こしに行く。アニメと小説版ではベッキーは眠そうにしているだけだが、原作のベッキーは起こしに来たセーラの姿を見て驚く、セーラは高級な寝間着を着ていたのだ。笑顔で「来てごらん」というセーラの後を、何が起こるかという怖さで口がきけないままついて行く。アニメと小説版では起こされたベッキーは「夢を見てらっしゃるんです」と主張し、無理矢理に引っ張られてセーラの部屋へ押し込まれる。
 セーラの部屋に入って様子を見た原作ベッキーは目眩を起こし、アニメと小説版のベッキーはさらに夢だと主張する。アニメのベッキーが「ありえねー」という笑いの後、夢だと確認するために自分の頬を叩く。ここで痛がるベッキーは最高だ。
 そして二人は、美味しい食事を食べて夢のようなひとときを過ごす。アニメと小説版ではセーラとベッキーがセーラの部屋のベッドで一緒に寝るが、原作ではセーラの部屋に大量の毛布が運び込まれており、これを分け合ってベッキーは部屋に戻る。この時の原作ベッキーの台詞が良い。
「もし朝になってこれがなくなっていても、今夜は確かにここにあったということを私は忘れません。」
…そういってひとつひとつの物が何処にあったか確認する。この台詞をアニメのベッキーにも言って欲しかった。
 違いは多少あれど、最初の「魔法」の課程はどのメディアでも同じである。ただやはりセーラが寝ている理由は普通に寝ているだけよりも病気という方が自然だと思う。健康な11歳の少女が着替えまでさせられて目が覚めないなんてあり得ない。アニメの方は病気だし、何よりも寝間着を着替えさせられるなんて無茶がない。ただベッキーの仕草や台詞は原作の方が面白いと思う。
 原作では「魔法」が出てくればもう物語の終わりがすぐそこまで迫っている、「魔法」が終盤で「この子だ」と並ぶ見せ場で、これをきっかけに一気に話をたたみかける感じで話が構成されている。アニメでも初めて見た人はそう思うかも知れないが、アニメと小説版ではまだまだ終わらない。なにせアニメの場合は中盤最後の見せ場に過ぎないし、「この子だ」該当のシーンに行く前にもう一つ見せ場が増やされている。とはいえいよいよアニメでもこれを境に終盤となるのである。だが、もうしばらく原作から離れてオリジナルストーリーへと戻って行くのだ。

第37話「屋根裏は大混乱」
名台詞 「いいえ、きっと消えてますです。お婆ちゃんが言ってました、世の中そう甘くはないって。」
(ベッキー)
名台詞度
★★★
 「魔法」第二夜を控えてセーラとベッキーは不安な気持ちで階段を上る。あの「魔法」は消えているに違いない、それで落胆するのが怖いのである。「魔法」がまたかかっているか、それとも昨夜一晩限りだったのか、「小公女」原作を知らない視聴者は二人と一緒に不安な気持ちで見ていたことだろう。
 この二人の不安を強調するのがベッキーのこの台詞。ベッキーは育ちが貧しいためにこんなことが何度も起こることがあり得ない、という常識を持っている。ベッキーが言うとおりで世の中こんな事が何度も起こるわけはないのだ、きっと昨夜はセーラが病気で可哀想だったから誰かがあんなことをしてくれたのだろう。そしてベッキーは昼間に自分の目で「魔法」が消えて跡形もなくなっている事を見ているし、セーラの話だと朝早い時間に既に無かったという。だから「魔法」は今夜は現れないと考えるのが普通だ、期待していくと落胆することになるという意味でこの台詞を吐いたのだ。そして原作「小公女」を知らない視聴者は「その通りだ」と思ってまたも「魔法」が起きるという期待を捨てかかる。視る側もセーラやベッキーと同じ気持ちになれるという点でこの台詞はすぐれていると思う。
 小説版ではセーラとベッキーがこのような会話をしながら屋根裏へ向かうシーンはそのまま描かれている。
 原作ではこのシーンで階段を上がるのはセーラ一人、によって該当の台詞はセーラの呟きとして描かれている。小説版も原作もここはセーラの気持ちと一体になれるシーンであり、台詞である。
名場面 セーラが元気なのを疑い、セーラの部屋にミンチンとモーリーが踏み込むシーン 名場面度
★★★
 この学院のエライ人たちはセーラの病気が治っても誰も喜びはしない。セーラは隠れて盗み食いしていたという嫌疑がかけられ、ミンチンとモーリーは部屋に踏み込む。セーラは昨夜の「魔法」がバレてしまうと恐れ、ミンチンがセーラの部屋の扉を開けた瞬間は恐怖に震える。そしてミンチン達と一緒に自室に入るセーラは目を閉じ下を向いている、ミンチンの怒鳴り声を覚悟していたのだろう。
 だがセーラの部屋には何もなかった。いや、いつものセーラの部屋と何一つ変わってなかった。セーラはまさに「( ゚д゚)ポカーン」という表情で部屋の中を見る。セーラの盗み食い疑惑は晴れるが、ミンチンは白々しい言葉を並べたあげくセーラを仕事へ行くよう厳しく言う。
 実はミンチン達がセーラの部屋に乗り込む直前まで、ラムダス達が「魔法」の後かたづけをしていた。昼間は誰か見に来るかも知れないという判断だ。そしてその予想は的中し、片付けがあと僅かというところでラムダスは屋根裏への階段を上る複数の足音に気付く。間一髪でミンチン達に目撃されることもなく撤収を完了するのだ。
 このシーンの恐怖から驚きへと変わるセーラの表情がよく、「魔法」直後で最も印象に残るシーンとなる。さらにあっという間に現れた「魔法」があっという間に消えてなくなっている事を描いて「魔法」の神秘性を強調し、またラムダスたちの働きを入れることによってこの「魔法」を起こすために彼らがどれだけ尽力しているかを描くことによってセーラへの救いの手は間違いなく人間であることも強調する。原作よりアニメの方が「魔法」の印象が強いのはこんな仕掛けがあるからで、その仕掛けによってセーラが守られるこのシーンは印象深くなる。
 小説版にもこのシーンの描写はそのままだ。原作では「研究」欄に示すとおりの理由でこのシーンはない。
今回の
アーメンガード
セーラから病気が治ったのはあなたのおばさんの薬のおかげと言われ喜ぶ彼女。それとセーラが年少組の先生を辞めさせらたと宣告された時の彼女。この驚いた表情はなぜか胸に来た。
 
アーメンガー度
★★★
感想  ピーターがアムロ煙突掃除と一緒にミンチン学院の屋根裏に乗り込むシーンはどうでも良い、あのシーンはあってもなくても全46話の流れに全く影響はない。それ故私は煙突掃除のアムロが出てきたことは記憶になく、本放送当時に記憶に残ったのは前半と後半の後ろ半分だけである。別にセーラが病気と聞いて落ち込むピーターと、病気が治ったセーラが市場で普通に再会しても問題はなかったと思うのだが…。
 ミンチンやモーリーはセーラのことになるとなんであんなねじけた考えしかできなくなるんだろう。まぁミンチンにとっては学院に損害を与えた相手なのだからある意味仕方ないとはいえ、モーリーは妄想が激しすぎると思う。恐らくモーリーは少女時代、アンやセーラのように妄想癖のある少女だったのだろう。人生のどこかで道を踏み誤ってああいう性格になったんだろうな。
 「魔法」はついに二夜目、私も当時は「名台詞」で書いたような思いで見ていた。セーラやベッキーと一緒になってドキドキしながら、「魔法」はまた起きるのかそれても一夜限定品なのかとハラハラしていた。こんな視聴者とキャラが一体化できるアニメって、「小公女セーラ」のこの話以来見ていないような気がする。
 この話マジで最後の数分だけあればいいよ、あ、でもセーラに「あなたのおばさんの薬のおかげ」と言われた時のアーミィたんの笑顔は良かった。それとセーラが年少組教師を辞めさせるとミンチンに宣告されたときの、アーミィたんの悲しそうな顔にも萌え〜だった。
 それとこの回、エンディング画像がいつもと違い子供達が書いたセーラの絵の展覧会となっている。小さな子供が涙をたくさん流すセーラの絵を描いたかと思うと…でもそこで絵が採用された子供達、もう若くても二十代後半になっているはずだ。
研究 ・「魔法」第二夜
 今回は原作踏襲の話とアニメオリジナルの話が複雑に入り組んでいる。セーラとベッキーが目を覚ましてしばらくはアニメオリジナル、その後ベッキーが昨夜の食べ残しを食べるシーンは前話に載せきれなかった「魔法」が最初に起きた夜のエピソード、セーラがメルに餌をやるところからはまたオリジナルで以降は基本的にオリジナルになるが、夜になってセーラとベッキーが屋根裏に上がるシーンは原作から持ってきた。「魔法」二夜目のシーンも最初の「魔法」で載せきれなかった話でアニメは埋めている。
 これはアニメの「魔法」では最初から食事や食器がセーラとベッキーの二人分用意されていたために、アニメの設定で原作の通りにやろうとすると最初と二夜目で目に見えた変化がなくなってしまうためである。原作の「魔法」では、最初は食事類はセーラ一人分の用意しかなく、二夜目からベッキーの分が用意されるようになる。この原作の設定をアニメではベッドの上の毛布で再現しており、アニメでも原作同様に毛布は最初の夜は一人分で二夜目以降は二人分となる。つまり原作の最初の「魔法」ではセーラとベッキーが二人分の食事を分け合い、毛布を半分ずつに分けてベッキーは自室で寝る。アニメは毛布だけが一人分なので最初の夜はセーラのベッドで二人仲良く寝るが、二夜目以降はベッキーが毛布を部屋に持ち帰って寝るという設定になる。
 アニメでは本のプレゼントと、本に挟まっている「友より」と書かれた手紙が二夜目で出てくるが、原作ではこれは最初の夜である。アニメや小説版では「最初の夜より立派に飾ってある」という表現があるが、アニメの画面や小説版の文章を読む限り何処がどう変わっているのか分からない。原作では前の晩にはなかった置物が飾ってあり、さらに部屋の中で隠しておきたいところに布が掛けられていたり、クッションが置かれているなど具体的に変わった点が明記されている。
 アニメと小説版ではセーラとベッキーは一緒に台所から屋根裏へ上がってくるが、原作ではセーラ一人でやってくる。そして部屋の中を見て「魔法」が消えていなかったことに感激する。原作ではミンチンに踏み込まれることもないし、セーラが昼間に部屋に戻ることもなかったのだ。部屋の中の様子を見回したセーラは壁を叩き「隣室の囚人」ことベッキーを呼ぶ、すぐにベッキーが壁を叩いて返事をすると部屋に現れた。部屋の中を見た原作ベッキーはショックでその場にぺたりと座り込んでしまうが、これをアニメで再現して欲しかった。
 ちなみにアニメでは翌朝に「魔法」の食事の残りを食べるシーンがあるが、原作でも同様のようである(具体的な描写はないが)。この話でベッキーが「手を伸ばしたら無くなってしまう…」と言いながらサンドイッチを食べるシーンは、原作の最初の魔法から引用したシーンのようだ。
 「魔法」第二夜目もアニメと原作では多少の食い違いかあるが、今度はどっちも自然で物語のそれまでやこれからの流れと絡む物ではない。どちらかというとアニメでは原作で残された描写の拾い直しをしたと言えるだろう。しかしこの先、「魔法」そのものが原作とアニメで大きく展開が変わる。それが次回だ。

第38話「こわされた魔法」
名台詞 「いいのよベッキー、きっとその魔法使いさんには私たちが心から感謝していることが伝わっていると思うわ。だってそこが魔法使いなんですもの。」
(セーラ)
名台詞度
★★★★
 冒頭の朝食シーン、ベッキーは感激のあまり「魔法使いさんにお礼を言わないと申し訳ない」とセーラに言う。そのセーラの返答がこれで、この言葉の裏側にはこっそりと自分たちを助けようとしている人たちを捜すのは失礼であると思っていることや、このような事をしてくれているのは隣のインドの紳士に違いないと思っていることなど理由はあるだろう。しかし、この「魔法使いだから」という理由でベッキーに言うのが聞く方がロマンチックになって良いだろう。これが物語を面白くする工夫なのだ。
 小説版ではこのシーンはカットされていてこの台詞は存在しない。原作ではベッキーがこの「魔法」について「これらがどこから来るのだろう」「誰がしてくれるのだろう」と言う、その返事としてセーラが「さがすのはやめましょう、ありがとうとだけは言いたいけどお礼を言うのでないなら探すのは嫌だ。」と返事するのが一番近いシーンと思われる。このシーンが「魔法」が起きている屋根裏での会話なのか、それともどっか別の場所での会話なのかは分からない。
名場面 「魔法」第三夜 名場面度
★★★★
 こんな見てられないシーンは、「フランダースの犬」等バッドエンドの最終回以外ではそれまでアニメ史上あっただろうか? また「魔法」が続いているが、そこへ踏み込もうと屋根裏へ向けて歩き出すミンチンとジェームスとモーリーの姿があり、その様子を見てラビニアがほくそ笑む。屋根裏では階下で何が起きているかなど想像もつかないセーラとベッキーが、無警戒に喜びの表情を爆発させているだけでなく、セーラ得意の「ベルサイユ宮殿のつもり」で盛り上がる、果てはセーラはワルツのメロディを歌い出す。そして盛り上がりが最高潮に達し、いよいよ食事が始まる。ミンチン達はもう扉のすぐ外まで迫っている。この番組を見ている小さな子供達は思わず目を伏せたり、一緒に見ている母親の後ろに隠れたりしただろう。
 ベッキーの「う〜ん美味しそう、いいにおい〜。」が合図である。この後の暗転を考えなければベッキーがここで大げさにこんな台詞を吐く必要は無いのだ。この台詞が扉の外に漏れたからこそ、次の扉が開く音に繋がるという解釈が可能となるのだ。開かれた扉にはミンチンを筆頭とする3人の姿が、セーラは思わずスープが入っていた容器のフタを落とすが、この効果音がここでの事態の暗転を上手く表現している。
 さらにベッキーが土下座して事情を説明するのがいい、その内容がここまでの出来事を正直に言っているだけなのだがどう聞いても全く理由にならないのだ。これが「匿名の善意」の怖さで、「小公女」が「小公女セーラ」というアニメになったときに新たに加わった論理だ。そう、匿名で誰も責任が持てない善意によって発生した問題で一番傷つくのは、その善意によって助けられていた人々なのだ。昔の富豪による善意の行動はこのような事態を招くことが多かったと暗に言いたかったのだろう。
 ミンチンの口からピーターの名前が出たときのセーラの表情も上手く描かれていて、( ゚д゚)ポカーンという表情の後困った顔をする。そう、濡れ衣なのは間違いないのだがそれを晴らす材料がひとつも無いのだ。結局は全てが取り上げられるにままになり、セーラは屋根裏からの立ち退きを強要される。
 小説版ではさらに詳細に描かれている。セーラとベッキーが部屋に戻ってからミンチン達が踏み込むまでの状況は同じだが、残念なのはミンチン達が少しずつ迫ってくる様子が無いので「見つかってしまう」恐怖感を見る者が味わえないの残念。このシーンはセーラとベッキーが喜んで盛り上がっているところにミンチン達が迫って行くのがひとつの見所なのだ。
 小説版のもう一点の違いは、ミンチンがピーターの名を口に出したときにセーラが反論していること。ピーターの名前が出てきたことによる困惑がアニメ以上に詳細に描かれている。さらにミンチンが部屋の物を全部取り上げるよう命じたときにセーラは「これらは全てお借りしている物です」と反論する。
今回の
アーメンガード
朝、セーラに「お元気?」と元気いっぱいに声をかける彼女だが、ここは声で萌えるシーンだろう。それと馬小屋に連行されるセーラを見て不安な表情を浮かべる彼女。正直見てらんない。
 
アーメンガー度
★★
感想  「魔法」がなぜミンチンに見つかったか、それはモーリーの妄想とミンチンの過剰なまでのセーラへの恨みによるものと一口で言ってしまえば終わりである。ではそれを防ぐ手だては無かったのか? 実はあったのだ、それはラムダスである。
 この日の昼、ミンチンとアメリアがさんざんセーラの部屋を物色したのだ。ベッドに座っていたエミリーは倒され、毛布もその辺りに投げ出され、机の上にあったロッティやピーターからのプレゼント類も倒されあるいは乱雑に移動している。これらを整理して置いたのは、朝方に前夜の「魔法」を片付けたラムダスのはずである。あれだけ勘の良いラムダスならば、夜になって再度「魔法」を出すためにセーラの部屋に入れば朝と状況が違うのに気付くはずだ。前話の「魔法」を片付けるラムダスがあれほど警戒していたのだから、その部屋の状況に気付かない程無警戒だったとは思えない。
 ラムダスは絶対に部屋の様子が変わったことに気付いたはずだ、それもセーラ以外の誰かが部屋を荒らしたことに。セーラの様子を見れば泥棒が入るわけはない、するとセーラの部屋を荒らしたのは院長かメイド頭とすぐ感づいたはずだ。ならばラムダスはどうするべきだったか、無論無警戒にまた「魔法」を広げるのではなく、「誰かに見つかってますので、今夜はご用意できません。」みたいな手紙を置いてそのまま撤収すべきだった。そうすればミンチンが踏み込んでもセーラとベッキーが何もない部屋で普通に会話をしているだけで、「夜更かししないで早く寝ろ」と怒鳴って終わりだったはず。よって「魔法」をぶちこわした主因はミンチン達だが、ぶちこわされるのを防ぐのを怠ったラムダスにも、この悲劇の原因はあろう…と本放送当時、放送終了後にそんなことを思っていた。
 でもミンチンやモーリーはセーラが見知らぬ場所で勝手に食事をして、それで元気になって行くのに何の不満があるのかな? それならそれで食事を減らせばいいだけで、その方が学院の財布も傷まなくて済むのに…結局はミンチンもモーリーも長期的な視野よりも目の前の感情で動くから、学院経営がいつまでも良くならないのだろうな。前話でミンチンは教師雇用費用節減の切り札だったセーラを、感情だけで教師を辞めさせているし…。
 エンディングがまた当時の視聴者のイラストだった。「田無市」って響きが懐かしかった、なんかいかりや長介みたいなセーラが混じっていたぞ…。
研究 ・「魔法」第三夜以降
 この回はアニメオリジナル。原作を踏襲している部分はないが、「名台詞」のところで記したように、冒頭の朝食シーンには原作を参考にしたと思われる台詞はある。それと「今までのセーラがお腹を空かせて倒れそうだった」とアメリアが言うと、「セーラには十分食べさせている」とミンチンが嘯く会話についても原作からの流用である。
 原作ではアニメのこの回のように「魔法」が壊されることはない。セーラがクリスフォードに引き取られるまで魔法はずっと毎日続くのである。アニメで出てきた食事や毛布だけでなく、部屋の飾り付けや置物、果ては本や文房具までセーラの部屋に届けられる。さらにアニメと違い「魔法」は昼間片付けられることはない、それは原作ミンチンは余程のことがない限りは屋根裏まで来ないのである。ただしセーラとベッキーが「魔法」のおかげで精神的にも肉体的にも元気になったことが気に入らないのは同じ。
 ただ原作では「魔法」そのものの詳細な描写は最初の2回と最後だけである。その他は「その他大勢」扱いで詳細な描写はない。
 アニメと小説版では「魔法」の回数は4回とハッキリしている。そして3回目にミンチンに見つかってこわされているからここで終わり、後は原作の最後に当たる「魔法」が一度あるだけである。ただここまでの3回でもセーラとベッキーが元気になったのは事実だが、これは精神的なものの方が大きいだろう。どんなに辛くても部屋に帰れば楽しいことが待っていると言うだけで楽しくなる物である。挨拶の声一つをとっても明るく元気になるだろう、セーラにそれを抑える知恵があれば「魔法」はバレずに乗り切れたかも知れない。
 原作では精神的に元気になったことの表現はもちろんである、バスチーユ牢獄の二人の囚人に楽しいことが起きて喜びの真ん中にいる少女二人に変わったという表現だけで十分だが、長々とこの精神的な変化が描かれている。それだけでない、原作セーラと原作ベッキーは「魔法」により太ったというのだ、とがっていた顎は丸みを帯び、全身も少女らしい丸みを帯びた体格になってきたという(元が痩せすぎだったと考えるべきだ)。それだけ「魔法」は効き目があったということで、クリスフォードの援助は正しかったわけだ。
 アニメでは「魔法」がこわされた事をきっかけにまた原作から離れて行く。原作では「魔法」が起きてしまえばもうラストまで一直線、アニメで言う43話まで一気に飛んでしまう。いや、アニメの方こそ放送期間が1年あるためにこの間にエピソードを増やされたのだ。

第39話「馬小屋の寒い夜」
名台詞 「いけませんです、お嬢様。こんなに冷え込んできてるのに、あんなところでお休みになったら死んでしまいますです。さあ、屋根裏の私の部屋へ参りましょう、二人で寝れば火なんかなくても暖まれますです。」
(ベッキー)
名台詞度
★★★★
 この39話は名台詞が数多く出てくるがその中でも印象に残っているのはこの台詞である。なぜなら優しい台詞に聞こえるこのベッキーの台詞であるが、実はかなりの緊迫度を持った台詞なのである。つまり冬が近いロンドンの夜を馬小屋で過ごしたらどうなるか…最悪はそこに待っているのは「死」であるという恐怖が語られるのである。だからこそベッキーはセーラを自分の部屋に誘う、実はセーラは病気の時よりもさらに深刻な状況で生と死の狭間に立たされていると思わされるのだ。
 さらにこの台詞にはもう一つの重要な役割がある。この39話のラストシーンを辛さを倍増させるという役割である。このベッキーが出した助け船をモーリーがぶちこわす、そして自分に優しくしてくれるものは全て取り払われる現実をセーラは痛感する。これは見ている視聴者もそうだ、何とかならないのか、何とかしてやりたい…この演出により視聴者もそう思えてくるのだ。
 前話から何度もセーラに対する救いの手が無惨にも壊されているし、セーラが真面目に働いているが、セーラが何ら報われることがない。こんなシーンが最後の最後まで貫かれている。そしてベッキーのこの台詞と気持ちが壊されるのはセーラにとってはとどめだろう、セーラはハッキリと「自分は挫けそう」と認識するに至る。このベッキーの台詞はそんな効果があったのだ。
名場面 アーメンガードVSラビニア 名場面度
★★★★
 学院の午後、階段の踊り場でアーメンガードとラビニアが対峙する。アーメンガードはラビニアになぜセーラをいじめるのか、なぜセーラを憎むのか問いつめる。
 ラビニアの返事は相変わらずで憎んでないと、そんな訳は無いのに。その証拠に自分より金持ちで、自分よりフランス語が得意で、自分より美人に見えた事で憎んだ事があると認めている。現在は違うと言うがいじめる理由としてはこのような屈辱を一度でも受けたという事だけで十分なはず、それを違うと言い切るのはどれだけのいじめをしているのかという自覚がないか、責任逃れの言い訳かのどちらかであって、ラビニアは自分がしてきた仕打ちというものから逃げているのである。これはラビニアとセーラの関係がどう変わろうと、対等だった過去においてラビニアが負けて恥をかいたという事実がある以上、変わらないことなのだ。ラビニアは現況と過去をすり替える詭弁を言っているに過ぎない、現在のセーラが落ちぶれてラビニアが圧勝なのは、ラビニアが言うまでもなく当然なのだから。
 ラビニアの返答が詭弁であることはアーメンガードは気付かない、いやラビニア本人も気付いていないだろう。
 しかし、アーメンガードは納得がいかない。「どうして?」とさらにラビニアを問いつめるとラビニアはついに「セーラが落ち目になったのにちっとも堪えたふりをみせないからよ」と本音を言う。実はこれはラビニアが持つセーラへの恨みに密接に関係している言葉なのだ。ラビニアはセーラに恥じかかされた過去を払拭するにはメイドの身に落ちたセーラを徹底的にいじめ、本人に思い知らせてやる必要があったのである。なぜならラビニアが自分でセーラに勝利したのでなく、運の悪いセーラが勝手に下になっただけの話で、ラビニアはセーラにまだ勝ったことがないのである、それはラビニアが一番良く知っていたのであろう。
 しかし、セーラはいじめられてへこたれるどころか、何度も立ち上がっては自分の立場というものを正面から受け止めて生きていこうとする。これではラビニアは気が済まないのだ。つまりラビニアのセーラへの恨みは日に日に増しているわけでも減っているわけでもない、また日を経るごとに新しく積み重なっているのではない、セーラに代表生徒の座を奪われたりしたあの時の恨みが処理しきれずに残っているだけなのだ。だからセーラが堪えたふりを見せないのが許せないのだ。
 このアーメンガードとラビニアの対峙シーンであるが、勝ったのはどちらかというとアーメンガードである。アーメンガードはついにラビニアの本音を引き出すことに成功したのだ。実はよく見るとアニメ「小公女セーラ」のラビニアはこのアーメンガードとの会話をきっかけにセーラに対する態度を徐々に軟化させている。ラビニアはアーメンガードに向かって本音を吐いた事によっていくらか気が楽になったのだろう、以降ラビニアがセーラをいじめるシーンはまだあるが、これまでのようにセーラの立場や人格を否定するような言葉は吐かなくなる。特に41話では遊びの延長で対決しているだけに過ぎなくなってくるのである。42話でラビニアが学院を出て行くセーラに何と言ったかを考えると、ラビニアの気持ちの変化があったのは確かだろう。最終回でセーラとラビニアが和解する原点もここなのだ。
 この会話はアニメオリジナルであるが、小説版ではこの会話をアニメで言う41話の話に差し込んでいる。しかもこのアーメンガードの質問の答えはセーラのみに話しているのである。その上、ラビニアの返事は「セーラが目障りだから」と過去の恨み以上に酷いことを言ってしまっていて、このシーンは全く意味をなさなくなってしまっている。つまり小説版では終盤にラビニアがセーラへの態度を軟化させることもないし、最後は唐突にセーラとラビニアが和解していてこの二人の関係は不自然になっている。
  
今回の
アーメンガード
どちらもセーラが馬小屋に移されたと聞いてセーラを心配する彼女。この子、本当に優しくて良い子なんだなと本放送時に思ったシーンだ。でも優しすぎるが故にセーラを助けることが出来ないもどかしさよ。
 
アーメンガー度
★★★
感想  まず最初に1分半もかけて前回のシーンが繰り返されるのはいらない。あれを入れる位なら小説版のように「魔法」が壊される一部始終をラムダスが覗き込んでいたというシーンを挿入して、その後に「魔法」が壊されたという第一報を聞いたクリスフォードでも出した方が良かった。小説版にあるようにクリスフォードがなぜセーラが気に入ったかの謎解きを入れておいた方が良かったんじゃないか?
 でもその後の朝のシーンや生徒達との会話シーンは良かったと思う。ミンチンとの気まずさの表現も良いだろう。しかし快活に挨拶するセーラにあんな事を、しかも生徒達の前で言うなんて…ミンチン学院のレベルの低さが露呈されたというものだ。ピーターじゃないけどセーラは学院から出て行った方が良いんじゃないかと当時は思ったものだ。
 そのピーターが学院に乗り込むシーンがあったなんて見直すまで忘れていた。ピーターがセーラに逃げようと焚き付けるシーンは完全に頭から抜け落ちていた。「名場面」に書いた方は何年経っても忘れてなかったが、明らかにこの話はラビニアの気持ちの上での転換点で、この回だけ単発で見ると分からないけどこの後のラビニアの言動で分かってくる重要な話なのだ。アーミィたん萌え〜だったからではなく、当時もそういう見方が出来たからピーターのシーンを忘れたんだろうな。
 いよいよ物語もあと僅か、ここでラビニアの恨みがハッキリしたから次はミンチンの原点が必要になる。次回予告で次がアメリアの話と知ったときの衝撃はなかった。あんな酷いおばはんもちゃんと取り上げるんだーと。
 あ、エンディングが元に戻ってる。
研究 ・馬小屋の生活
 今回は完全なアニメオリジナル。原作にはセーラが馬小屋で生活する話は一切無い。ただアニメがこのような回り道をするのは原作の「小公女」とは多少違う結末を迎える「小公女セーラ」だからだ。原作とは違うもう一つの結末へ行くためには、ここで話を膨らませる必要がある。
 ここでセーラの境遇をさらに悲惨に描いた。この話は今まで違ってセーラが救われるところが一つも無いのである。21話では衛兵さんがセーラが落としたジャガイモを拾うし、34話でも洋服屋の主人はセーラを助ける。どんなに悲惨な話でも必ずどこかでセーラを助ける人が出てきた。だがこの39話にはセーラを助ける人物は存在しない。ベッキーが優しい言葉をかれば壊されるし、ピーターはセーラが望まない方法を提案する。
 この話は小説版ではかなり変えられている。前述の通りアーメンガードとラビニアが対峙するシーンは後ろの方へ追いやられているし、「魔法」が壊されたとクリスフォードが語るシーンは多少の設定変更の上この話の冒頭へ行っている。ピーターがセーラに逃げようと言うシーンは夜のシーンとして描かれた上に二人の台詞が多少変わっている。
 セーラはこの話からしばらくは馬小屋で生活する。夜は藁にくるまって寝ることで身体を壊さない最小限の暖は取れているようだ。アニメでは朝や晩にエミリーやお父様の写真に語りかけるシーンが出る程度だが、小説版ではエミリーを相手にフランス語の会話をして勉強を続けているとされている。しかし小説版でも描写はそこまでだ。共通なのはどちらも灯りを馬小屋に持ち込んでいる様子はない、灯りが無いと言うことはセーラが出来ることはかなり限定されていてアニメや小説で描くと冗長になってしまうためだろう。そう、セーラはここまでに書いたこと位しか出来なかったということだ。
 しかし屋根裏にわざわざ板を打ち付ける必要があったとは思えない。「魔法」にしろ盗み食いにしろ、セーラかそこにいなければどうにもならないのになぁ。

第40話「アメリア先生の涙」
名台詞 「ギリギリまで仕事をさせる気でごさいますですね。まったく意地が悪い…」
(ベッキー)
名台詞度
★★
 ベッキーの本音、やはりどんなに貧しく働くことに慣れている少女でも、ミンチン学院の待遇には愚痴もこぼしたくなる訳で、特にこの時のように楽しいであろう事が焦らされていればなおのことだろう。思わず同僚のセーラに本音を漏らす。
 セーラもそれを咎めるわけでなく、笑顔で聞いているのだから思いは全く同じだろう。この台詞の直後にジェームスの声がしたときの、思わず口を塞いだ後に舌を出すベッキーはここまで見たことがない面白い表情だ。笑顔ですましているセーラも良い
名場面 アメリアの部屋を出るセーラ 名場面度
★★★
 腰を強打して起きあがれないアメリアは、セーラの心のこもった看病を受け、セーラについに本音をこぼす。そして自分たち姉妹の生い立ちを語り、姉の酷い仕打ちを詫びるとともに許すよう懇願する。
 アメリアはセーラの手を取り、今夜は一晩中看病してくれと言い、セーラもそれを喜んで引き受けようとする。セーラもアメリアの本心を知って二人は手を取り合うが…もちろんここで扉が開く音がしてミンチンが登場するわけだ。そしてセーラに馬小屋へ帰るよう冷たく言い放つ。
 セーラは素直にミンチンの命令に従うが、その動きはアメリアの部屋に未練たっぷりなのが見て取れる。そして部屋の扉を開くときに思わず涙を流す。しかし泣いている表情ではない、ミンチンは冷たいがアメリアは味方だと思ったのだろうか、それともやはり自分の居場所が馬小屋しかないことを悲しんだのだろうか、私は両方のような気がする。
 セーラは静かに扉を閉じる、アメリアは悲しげな目でそれを見送るが、アメリアにはセーラを助けてやれない自分の不甲斐なさや情けなさを感じていたことだろう。
 
(次点)池に落ちたアメリアを助けるべくの池の中を走るセーラとベッキー
…二人ともカコイイ。セーラもベッキーもカッコイイのはここだけだ。
今回の
アーメンガード
朝食時にセーラからパンを貰って笑顔で応える彼女。セーラも笑顔なのがいい。つまり彼女はセーラばかりが気になって院長先生の大事なお話を聞いてないってことに…。いずれにしろ「セーラとアーメンガード」のシーンでは私が最も気に入っているシーンである。
アーメンガー度
★★★★
感想  遂にアメリアがセーラに同情していると言うことを白状する。それまではそう思わせるシーンは何度もあり分かり切っていたことだが、アメリアがハッキリとそれを口にすることはなかった。でもここでその気持ちをハッキリさせてミンチンの過去をも赤裸々にするにはラストに向けての伏線なのかも知れない、当時はそう感じたものだ。
 これを今見直すと、ハッキリと「小公女」とは違うもう一つの結末を迎える「小公女セーラ」にとって重要な話だと分かる。「小公女セーラ」が「小公女」と違うラストを迎えるためにどうしてもセーラはミンチンの過去を知らねばならなかったのだ。この話は原作からかなり離れて回り道する理由のひとつなのだ。
 前半のセーラとベッキーのやり取りもいい。二人とも「公園に行ける」ということで完全に浮き足立っているのだ。ジェームスが「調子に乗るな」と怒鳴るのは無理もない。名台詞で紹介したやりとりは日常での仕事をしながらの二人のやり取りでは最高だと思う。二人ともここまでに見たこともない表情をするし。
 ついに物語も40話代に入る。原作なら一気にたたみかける展開だが、アニメはまだまだのんびりしている。あと数回で本当に終わるの?という感じだ。
研究 ・アメリアについて
 今回は完全なるアニメオリジナル、原作を踏襲した部分はない。小説版ではセーラとベッキーが昼食を持って公園へ向かうシーンから収録されている。ピーターの荷馬車で学院へ送られた設定はなく、公園で周囲にいた人の手伝いで馬車に乗せられ、学院に帰った設定になっている。さらにセーラから医者を呼ぶ事を提案されたミンチンは素直にそれに賛同している点、ワイルド先生を呼びに行ったのがセーラでなくベッキーである点、ミンチンがセーラに馬小屋へ返るように命じるのはアメリアが全てを告白する前である点が違っている。そしてアメリアの話を聞かされたセーラの心情や思いが詳細に綴られているのはアニメにはない見所で、この話については小説版の方が明らかに面白い。
 さてそのアメリアであるが、アニメと小説版のアメリアはここでの白状を待つこともなくセーラに同情していることは明白であっただろう。セーラが辛い目に遭うのを目撃するたびに悲しげな目をし、気の毒に思うシーンが何度も出てきている。しかしベッキーやアーメンガードやロッティやピーターと違い、自分から積極的にセーラを助けることはしない。それは姉であるミンチンに逆らえないからだとこの話と45話でハッキリと言うことだ。そして自分はドジでのろまだと思っているようだ、アーメンガードを大人にしたような性格になっているのだ。
 原作アメリアは少し違う。セーラがクリスフォードに引き取られた時にキレた時以外はセーラに同情するような素振りも態度も見せていない。ただしミンチンに対する反抗心はあるようで、セーラの誕生日に父が死んだことを知らせるようにミンチンに言われたときにはアニメのシーンにもあったように反抗している。でもアメリアはどんな不条理なことを言われてもミンチンに何かを言われたら黙って聞くのが最良の方法とわかっており、常にそのように行動していたに過ぎない。アニメとは違い、ミンチンとは違う系統の事務的で冷たい人間に描かれている印象がある。
 原作にはミンチンとアメリア姉妹の生い立ちなどは出てこない。この話で出てくる姉妹の生い立ちはアニメオリジナルで、「小公女」と違うラストのために創作されたものである。どちらかというとミンチンは苦労人で、アメリアはその苦労にぶら下がって生きてきた感がある。だからこそアメリアはセーラについても姉にぶら下がった態度しかできない、そう描いたのだろう。苦労人だったミンチンがああいう性格になってしまったのも表向きは従順で何でも言うことを聞く妹の存在があったからだと思う。つまり誤った道に行きそうになったときに止める人間がそばにいないのだ。ミンチン学院はミンチンのイエスマンで成り立たねばならず、その結果が特別生徒が学院を操れるという状態なのだが、その酷い状況の原因にアメリアの性格は間違いなくあるだろう。
 アメリアの見せ場はこの話よりも最終回の一つ前、45話だ。

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