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バスは津波で被災した線路を撤去して作った専用道路を走る。何もない区間では60km/h程度の速度で走るが、一般道との交差では一時停止や徐行を強いられる。信号機や遮断機が設置してある場所でも、交差点では徐行だ。
 そして一駅だけ試乗して到着したのは、大船渡市の中心駅である大船渡駅。市の中心駅としての規模を持つ駅だったが、その駅は撤去されてこのように単なるバス停になってしまった。
駅がバス停になったことで、仙台や東京と言った大都市への直通の乗車券が買えなくなったことを意味している。これによって多くの大船渡市民は「精神的距離」というものを感じているはずで、こういうところから「過疎」が加速し街がダメになってゆくのだと、私は思う。
だからBRTという現在の形態は「仮復旧」でなければならないのだ。
大船渡駅だったバス停から、気仙沼方向を見る。続く専用道の先に一般道との交差点である遮断機が見えるこれがBRTらしい光景だ。
 向こうから帰りのバスがやってきた。でもやっぱり列車が近づく光景とは違う。
交差点手前でバスが速度を落とすと、専用道を塞いでいた遮断機が上がる。こういう旅情は災害を受けた鉄道路線ではなく、BRTで新設される路線で見たいものだ。
 脳内で列車のジョイント音を再生しながら眺めた景色。何度も言うがこの光景が「仮復旧」であることを、利用者もJRも忘れないでほしい。
BRTに別れを告げて、折り返し列車で釜石を目指す。今回は往復とも36-700型となった。
 復路でも三陸駅で新型レトロ調気動車とすれ違いだ。今度はあっちに乗りたいなぁ。
そして列車は無事釜石駅に到着。今日の「乗り鉄」はここまで、ここからは「撮り鉄」に移行しよう。
 最初に訪れた場所は、橋桁が流された荒川に掛かる橋梁である。2011年の旅行では流された橋桁がそのままになっていて、2012年の旅の時はその橋桁が撤去されきれいになっていた。2013年の旅では復旧工事が始まっており、そして今年は真新しい橋桁が新たに架けられていた。
その橋梁を列車が行く、列車が来るまで次の列車が2両編成だったと言うことをすっかり忘れていた。
同じ橋梁を行く列車を、角度を変えて撮ってみる。列車は私が乗ってきた列車が釜石から帰ってきたものだ。
トンネルから顔を出す直前の、このような光景はなかなか好きな光景だ。
トンネルから出てきた列車は橋梁を渡り、私の足下にある次のトンネルへ飛び込んでゆく。この橋梁に3年ぶりに戻ってきた列車が作る、日常の光景だ。
次の「撮り鉄」ポイントに選んだのは、今回の運転再開区間ではないが三陸駅~甫嶺駅間の湾を挟んで反対側という場所。ここから海越しに望遠で列車の写真を撮ろうという暴挙に出た。
しかももう時刻は16時過ぎ、陽は完全な逆光で苦しい写真であるが、輝く海により黄昏の三陸海岸の雰囲気を出せたと思う。
やってきた車両は鍬台トンネルに閉じ込められた「キットずっと号」、南リアス線唯一の震災前からの生き残り車両だ。
「キットずっと号」は、湾の対岸から見るとゆっくりとのんびりと三陸駅に向かう。音もなく列車が走り去るので、撮り鉄も神経を使う。
釜石行き「キットずっと号」が。視界から消えると、すぐに三陸駅ですれ違った盛行きの2両編成がやってくる。
黄昏の海を眺めながら、列車はのんびりと走る。これが三陸鉄道らしい光景だ。
この写真を最後に南リアス線の旅は終わりを告げた。私は愛車を北へと走らせ、舞台を北リアス線に移す。

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