心象鉄道10.京阪電鉄の名車 8000系・3000系・2200系・5000系
(マイクロエース・グリーンマックス Nゲージスケール)
京阪の模型は もけいはん(意味不明)〜千年の都を行く電車達

模型写真・京阪電鉄の現在の主役

本記事の模型車両撮影に使った貸しレイアウト
東京都西多摩郡瑞穂町「ファインクラフト」さんです。
(JR八高線箱根ヶ崎駅徒歩20分・駐車場完備)

2014年11月9日追加記事はこちら

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1.京阪電鉄

 関東の大手私鉄と関西の大手私鉄は雰囲気が全く違う。これはそれぞれの鉄道が持つ役割や成り立ちの違いによるところが大きい。
 関東の大手私鉄は各社毎に成立要因はバラバラだが、現在では殆どの会社が「東京副都心と郊外の街を結ぶ」という役割に落ち着いている。世界的な巨大都市である東京へ向け、郊外から人々を送り込むのが関東大手私鉄が戦後ずっと取り続けてきた輸送スタイルと見て良いだろう。従って関東では私鉄だけでなくJRの路線網も含め、東京を中心に木が根を伸ばすような路線網になっているのが特徴だ。
 だが関西大手私鉄は少し違う。基本的には大阪という大都市に人々を送り込むというスタンスは変わらないが、それと同程度に大阪とその周辺の独立した都市を結ぶという「都市間鉄道」としての面が非常に強いことである。近畿地方には大阪を中心に、歴史ある古都である京都、その京都よりさらに古い都である奈良、近代以降急速に発展した港町である神戸、歴史ある紀伊半島への要衝として栄えた和歌山…これらの都市は首都を囲う街とは違いそれぞれ中心都市とは違う独立した文化を持ち、それぞれが独立した街として繁栄している。
 そしてこのそれぞれの都市を結ぶ路線として旧国鉄だけでなく、私鉄が積極的に路線を延ばしている。各社ともつい十数年前まではこの都市同志を結ぶことを中心にダイヤが組まれ、車両が開発され、大阪と近郊を結ぶ路線としてだけではなく「都市間鉄道」として各社がそれぞれに特色を出していた。車両も「道具」ではなく「商品」として捉えているところも多く、この辺りが関東の私鉄と「電車」そのものの雰囲気の違いにも出ていた。
 この違いを関東の私鉄しか知らない人にするのはとても難しい。関東にはこういう雰囲気の私鉄がないからだ。

 この中で今回取り上げるのは京阪電鉄である。京阪電鉄は大阪と京都を国鉄(JR)路線とは違うルートで結ぶ路線である。
 国鉄は京都〜大阪間を高槻・茨木経由の淀川北岸ルートを取って、大阪市街地北部の梅田にターミナルを置くルートを取った。このルートは旧街道から逸れるものの、路線を大阪からさらに西に延ばすためには大阪の街へ深く入って行く訳には行かないという地理的な理由からの選択である。
 これに対して、旧街道に沿い淀川南岸の枚方・寝屋川・守口といった街を経由して、古くからの大阪市街地に近い部分へと向かう形で路線を延ばしたのが京阪電鉄である。また大阪で前述したように古くからの市街地に近い場所にターミナルを置いただけでなく、京都側では鴨川に沿って街を南北に縦断するというルートが取られ、双方の都市では非常に使い勝手がよい路線である。
 元々は国鉄が経由しなかった旧街道を結ぶ路線としての運行であったが、戦後になって列車の速度が上げられるようになると京都・大阪間の直通輸送に乗り出すようになる。京都市街と大阪市街をノンストップで結ぶ特急が運行されると共に、高度経済成長の頃になると大阪と郊外を結ぶ通勤輸送にも追われることとなる。

 そしてこの鉄道には様々な要因があって、実に独特な車両が運行されている。
 ソフト面では京都と大阪を結ぶ競合路線が他に2路線あるため、競争力をアップするためのサービスだ。この中で代表的なのは車内にテレビを設置した「テレビカー」だろう。ワンセグテレビを一人一台持ち歩く現在ではこれがどれだけ凄いことか理解できない人も多いと思うが、最初の頃は街頭テレビが主力だった「テレビを持つことが夢」だった時代からこのサービスをしていたのである。ただしこの「テレビカー」は、今や前述のように一人一台マイテレビを「持ち歩く」時代になってしまいニーズが無くなったとして廃止が決まり、現在は順次テレビが撤去されている。
 ハードでは国鉄とは違い、旧街道に沿っているために元からある程度栄えた街を結んだことに起因するカーブが多い線路である。「カーブ式会社」と異名を持つほどのその路線のため、この鉄道は車両・軌道ともカーブでいかに速く快適に列車を運行するかを常に考えさせられる会社となっている。さらに昭和50年代に入るまで路面電車との平面交差があった関係で、1983年まで架線の電圧を他の鉄道会社より低い600Vに抑えられた。架線電圧の低さは一度に走れる車両の数、それに1編成に連結できる両数までも制限し、さらにスピードを上げるために電車の性能までも制限が加えられるという足かせとなった。これらの足かせが、この鉄道に様々な独特の車両達を走らせる最大要因となった。

 最近ではスピードでJRに敵わなくなり、一昔前とはかなりダイヤを変えてきた。京都市街と大阪市街をノンストップで結んでいた特急が京都市の南の外れである伏見エリアに停車するようになったのを皮切りに、中間の主だった駅に停車するように変化した。またラッシュ時に特急の支線直通など、特急も大阪大都市圏輸送の一員に組み込まれるように変わってきた。
 2008年には大阪側に新しいターミナルを含んだ新路線である中之島線が開通、同時に会社自体のイメージチェンジも図られて新しいロゴマークが車両に付けられ、電車の色も変更されることになった。

 今回はこんな京阪電鉄の車両で、我が家に模型がある京阪本線の車両を紹介したい。なお京津線の車両も我が家にはあるが、これについては機会を改めての紹介にしたい。

2.私と京阪電鉄

 さて、ここからは私と京阪電鉄について語ろう。

 私が京阪電鉄について最初に知ったのは、小学3年生の頃だ。この時に手にした本が「私鉄特急全百科」という少年向けの鉄道書で、ここに日本全国の私鉄特急について書かれ、一部特徴的な通勤電車も紹介されていた。この時に関西大手私鉄の特急電車について知ることになる。当時最新鋭だった近鉄の現ピスタカーと同じく近鉄の「あおぞら」号に強く心を惹かれたが、同時に興味深く読んでいたのが南海電鉄の先代「こうや」号と、この京阪電鉄「テレビカー」のことであった。当時の私は「電車にテレビが付いている」ということの不思議さが印象に残っただけで、この時は特に強く興味を持ったという訳でもなかった。だが通勤電車がそのまま記事になっていた阪急電鉄や阪神電鉄よりも印象が残ったのは事実だ。ちなみに5扉車である5000系の存在もこの本で初めて知った。

 私が京阪電鉄に強く興味を持ったのは中学2年の時である。この時にテレビ東京系で夕方6時半から「楽しいのりもの百科」というたった5分間の番組が放映されていて、私はそれを毎日見るのが楽しみだった。番組の内容はタイトルの通りで、軽快なBGMに乗せて毎日ひとつずつ、国内外を問わず色々な乗り物を紹介する番組であった。この番組で京阪京津線が紹介されたのを見た時、私はこの路線に「凄い路線がある」と強く興味を持ち「乗りたい」と強烈に感じたものだ。特に碓氷峠と同じ66.7‰の勾配区間があると聞いて驚いたものだ。そしてすぐ図書館へ行って京阪電鉄について書かれている様々な本を借りて読むようになった。これで京津線に対する興味が強くなったのはもちろん、架線電圧を600Vから1500Vに上げる「昇圧」というイベント前後で、変化が激しかった京阪本線の方も強く印象に残った。特に6000系の全面スタイルに度肝を抜かれ、この鉄道会社に興味を持ち「いつか大阪へ行って乗ってみたい」と強く感じるようになった。

 中学3年になるとすぐに修学旅行で京都へ。この時には京都の電車に乗ることは叶わなかったが、京阪電車の姿は移動のバスの車内から何度も見る事が出来て私を感動させた。当時はまだ京都市内は地下化されておらず、京阪電車は鴨川のほとりを走っていた最後の頃だ。清水寺へ向かうバスの車内から、鴨川のほとりを旧3000系が走ってきたのを見たのが私と京阪電鉄の最初の出会いだ。窓の上に配された「テレビカー」の赤い文字と、その車体が鴨川の水面に映っていたのは今でもハッキリ覚えている。その後もバスが鴨川を渡る度に緑色の京阪電車を何度も見たし、奈良へ向かった時も宇治川のほとりを行く京阪電車と出逢ったのを覚えている。それとは別に市内の移動時に京津線も見ており、一度はバスが三条通を走ったときに京津線普通電車の80系と併走し、私を他の者が呆れるほど興奮させた。
 この修学旅行での「生殺し」体験は、「大阪へ行って京阪電車に乗りたい」という思いをさらに強くさせる。

 高校時代は青函連絡船に夢中で西の方へ行くことを忘れていた。高校卒業直後に初めて大阪を訪れたときも四国を目指す旅の途中であったこともあり(さらに言えば日本一周の旅行であった)、行程が奈良から和歌山へのコースだったこともあって近鉄奈良線や南海電車には乗ったが京都へは行けなかった。でもこの時には「次の旅行では京阪電車」という決意は固めていた。
 そして1989年8月、私は広島を目指す旅行で初めて京阪電鉄の客となった。東海道本線を「青春18切符」で普通列車を乗り継いで西進し、米原から乗った新快速を石山で下車したのだ。そして石山から石山坂本線で浜大津、京津線準急で三条、本線特急で淀屋橋というルートでやっと京阪電車を初体験したのである。石山坂本線では501−502、京津線では603−604、京阪特急は3014であった。京阪特急は乗り心地が良くて、樟葉の辺りまでは起きていたのだけど…目が覚めたら複々線区間を走っていたって状況だ。

 90年代の私の旅の思い出では京阪電車は何度も出てくる。旅行中に大阪から京都、あるいはその逆の移動は可能な限り京阪電車を選んでいた時期もある。8000系の特急で京阪間を直通することもしばしばあったし、「撮り鉄」のために急行などに乗って途中の樟葉や八幡市で下車することもあった。元妻の実家が京阪沿線だったこともあってこの理由で乗るも機会も多かった、関西の大手私鉄で唯一両親と乗ったのが京阪電車という思い出もある路線になった。

 こんな形で京阪電鉄は、ここ数年は仕事で訪れていることもあって関西地方の大手私鉄では公私ともに最も変わりが深い私鉄となっている。勿論ここまで関わりが深いからこそ、現在は関西大手私鉄では数少ない私が鉄道模型を揃える対象としている…と言っても本格的に揃えているのは京阪だけで、他には近鉄・阪神・阪急が少数(1〜2編成)あるだけで南海については欲しい車両が製品になっていないので諦めてる。

 では、次から我が家の京阪電車を紹介しよう。


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