心象鉄道17.南海電鉄の車両たち
2021年1月10日追加記事・1000系(U) |
1.私と南海電鉄 南へ向かう路線網を持つ鉄道であることはいうまでもない。大阪の南のターミナルであるなんば(難波)を起点に、海沿いに和歌山を目指す南海本線と大阪平野南部を横切って高野山を目指す高野線というふたつの幹線を軸に路線網を拡げている。どちらの路線も大阪より南側において通勤通学や観光客を輸送する大動脈として機能していることは言うまでも無い。 東京で生まれ育ち、関西方面に親戚がいるわけでもなかった私が鉄道少年だった頃、関西の私鉄について始めて興味を持ったのは小学3年生の時に親に買ってもらった「私鉄特急全百科」という本がきっかけだったことは京阪電鉄を取り上げたときに語った。この本を通じて関東とは違う文化と地理のもとで独特の車両を走らせている関西大手私鉄の電車たちに強い興味を持ち、特に特急専用車を走らせている近鉄・京阪・南海の各電鉄への興味を強くしたのは確かだ。 私がこの本を通じて南海電鉄に興味を持ったのは、20001系「こうや」号の記事だった。幾重の曲面を重ねた美しい前面デザインの20001系を見て、「カッコイイ」のでなく「美しい」と子供ながらに感じたのは事実だ。そして同じ本に出ていて興味を引かれたのは南海本線の「きのくに」号、私鉄なのにどう見ても「国鉄の急行気動車そのまんま」の車両が掲載されていて「なんだこりゃ?」と思うと同時に「なんでこんなことをしているんだろう?」と興味を持ったのは事実だ。そしてどちらの車両も「一度乗ってみたい」と憧れを強くしたのは事実だ。 だが20001系「こうや」号は私が中学生になった1984年に、新型の30000系「こうや」号に置き換わって引退してしまう…このニュースを聞いてショックだったのは今でも覚えている。そしてその翌年にはキハ5501系も引退…「一度乗ってみたい」と思っていた南海電鉄の車両は、どちらも間に合わなかったことになる。 私が始めて大阪の地を踏んだのは1989年3月、高校卒業式の翌日であった。「青春18きっぷ」での四国・九州旅行を計画した私は、大垣夜行を名古屋で下車して関西本線経由で奈良に出ると、近鉄奈良から始めて近鉄特急で難波に入ったのだ。そして大阪から四国を目指すルートとして選んだのが、南海電鉄と南海フェリーを乗り継いで「鉄道連絡船」的な旅を愉しんで徳島県の小松島に上陸するというプランであった。 この時に始めて南海なんば駅の改札口をくぐり、私は特急「サザン」指定席の客となった。当時は「サザン」の10000系はまだ登場間もなく、緑の濃淡の旧塗装で2両だった時代で10000系の均整の取れたデザインに魅了されたものだ。記憶に間違いが無ければ、自由席車として後ろに繋がっていたのは7100系だったと思う。そしてその快適な座席と乗り心地は、関西大手私鉄初体験の記憶を私の脳裏に強く印象付いた。でも当時驚いたのは、大阪と和歌山の間にあんな峠越えがあったことだなー、関東に住んでいるとあの地図を見れば、大阪と和歌山の間って東京と千葉の間みたいな感じだと思っていたもんなー。 この四国への往路で始めて南海電鉄を利用した後、次に南海電鉄を利用するまで少し間が開いた。その最大の理由は関西私鉄については京阪電鉄に興味の軸足が移っていったことであろう。続いて南海電鉄を利用したのは1994年、空港線開業直後のことだ。しかもその時はまだ空港がオープンして無くて鉄道だけが先に開通していた頃だ。この時に始めて乗ったのが7000系で、20メートル4扉車体で片開き扉というそのスタイルに驚いたものだ。 直後の関西空港オープン後に再度空港線を訪れ、南海電鉄が世界に誇る50000系「ラピート」に乗った。その独特なデザインは賛否両論だったが、実際に乗ってみて「奇抜なデザインだけの電車」などではない質の高さを感じた。あのデザインに度肝を抜かれたのは事実だが、私が好きな電車のひとつになったのは事実。 その後はしばらく南海電鉄に乗る機会に恵まれなかったが、2005年になると当時の仕事の都合で大阪の堺へ頻繁に出張するようになる。現場の最寄り駅が南海電鉄堺市駅だったこともあって、仕事で堺へ行くたびに南海電鉄の客となった。そしてその後、泉佐野や泉大津へ仕事で頻繁に出張するようになり、2000年代以降前の会社にいた間は南海本線はなじみの路線のひとつになっていたのは事実だ。この時代に7000系や2000系と言った通勤電車に強く惹かれたのは言うまでも無い。 今回は、こんな思い出がある南海電鉄の車両達を、模型を通じて私の視線で紹介しよう。まずは私が憧れつつも、見ることすら叶わなかった車両達を先に紹介しよう。 |
2.20001系「こうや」号
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3.5501系「きのくに」号
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