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第41章 「クイーン学院への旅立ち」
名台詞 「そうさのう、あの子はそう甘やかされもしなかったようだ。時々わしがお節介したのも、別に害はなかったようだ。あの子は利口で、きれいで、それに何よりも良いことに優しい子だ。私たちにとってはお恵みだった。スペンサーの奥さんが間違ってくれて、運が良かったと言うもんだ。もっとも、それが運ならばの話だが、どうもそれとは少し違うようだ。神の思し召しというものかも知れない、全能の神がわしたちにはあの子が必要だと認めて下さったんだ。」
(マシュウ)
名台詞度
★★★★★
 名台詞次点シーンを受けてマシュウが家の外に出る、そして星空を見上げてこう独り言を言う。
 アンが真っ直ぐに育ててもらった事を感謝すれば、マシュウはアンの存在そのものに感謝していたのだろう。どう考えても妹と二人で老いて行くとしか思えなかった残りの人生に、ひょっこりと現れて花を咲かせてくれたアンの存在。マリラの頑張りと自分のお節介で真っ直ぐ育ち、アンが自分たちに幸せをくれたことを感謝している。
 その感謝の気持ちからマシュウはアンが何でここへ来たのかを考えてみたのだろう。これは単なる運の問題とは思えない、神が仕組んだ巡り合わせであると考えたのだろう。どんな理由があるにしろ神は自分たちにアンのような少女が必要と考えたから、アンはここにいるのだしそれによって自分たちにもかつては考えられなかった幸せが訪れている。そう思い返して神に感謝するシーンでもあるのだ。
 この台詞にはマシュウの父性がよく表れていると思う。アンが可愛くてたまらないこと、そのアンが巣立って行く寂しさ、そんな娘を与えてくれた神への感謝、これらはすべて彼の父性なのだ。この台詞を吐くマシュウの気持ちは、父親になってみて理解できるようになった。
(次点)「マリラ、私はちっとも変わってないわ。ただ少し鋏を入れたり、枝を伸ばしただけなんだわ。本当の私はその後ろにいて、今までと全く同じなのよ。本当よ、マリラ。何処へ行こうと、どれほど外見が変わろうと、心の中ではこれから先もずっとマリラの小さなアンなのよ。マリラとマシュウと、このグリーンゲイブルズの小さなアンだわ。」(アン)
…アンがお別れにホテルのコンサートで演じた詩の朗読を、マシュウとマリラの二人だけを相手に再演する。その間、マリラはアンがグリーンゲイブルズにやってきたときの事を思い出していいた。そしてその小さなアンがすっかり成長して今自分たちの元から巣立とうとしている事をしみじみと感じ、「いつまでも小さいままで手元に置いておけたら…」と涙を流してしまう。
 それを告げられたアンがマリラに抱き付いてこう言うのだ。マリラはここへ来てからのアンの変化を告げたのだが、それに対してアンは「自分は何も変わらない」と言い切るのである。アンは何処へ行っても「グリーンゲイブルズのアン」でしかなく、もう帰る場所もここしかない。それは現実的な問題ではなくアンの心の問題であって、誰かがアンを連れ去ろうとしても自分はここに帰るべき人間なのだという事を示唆している。なぜなら、そこにはマシュウとマリラという自分の「親」がいるからであって、ここまで真っ直ぐな人間に育ててくれた事に何よりも感謝しているのだ。
 こう言われたマリラはアンの頭をなでながら涙を流す。マリラのアンを育てるという苦労が報われた瞬間でもあろう。でも台詞も十分★×5をつけられる台詞なのだが、この後のマシュウの台詞の方が印象深い。
名場面 スペンサーの来訪 名場面度
★★★
 ある日、勘違いでアンをグリーンゲイブルズに送り込んだ張本人であるスペンサー夫人が訪れる。突然の来訪にその意図を読めない一同であったが、スペンサーの口から出た言葉はアメリカの富豪がアンを引き取りたいと申し出ている事実であった。その富豪はホテルのコンサートでのアンの熱演に感動し、アンのことを調べ上げてスペンサーに依頼したのだという。
 アンはその話が「素敵なので」ついうっとり聞いてしまう。それをその気になったと思ったスペンサーが、マシュウとマリラの前で話を続けるのは得策でないと判断して別室で個別説得となるのだ。アンが居間から連れ出されると、アンが行ってしまうのではないかとマシュウとマリラは不安になる。マリラが思わず「アンが承諾したら…」と言うと、マシュウは「そんなことを言うはずがない」と否定するが、マシュウもかなり不安のようだ。ついにマシュウが「様子を見てくる」と立ち上がる、慌ててマリラがそれを追う。
 二人がアンの部屋の前で聞き耳を立てると、スペンサーが「マシュウとマリラには私から上手く伝える」とアンに言っているところだった。するとアンは「何のお話ですか?」とスペンサーに聞く、「ごめんないさ。ついうっとりと聞いてしまって…まさか本気で私が承諾すると考えてらっしゃるとは、思いませんでしたので…私、このお話は最初からお断りするつもりだったんです」と続けるのだ。怒って立ち上がるスペンサーに、「お話があんまり夢みたいで、私シンデレラになったみたいでつい…」ととアンが続ければもうドアの外のマシュウとマリラは大人しくしてられない。まずマシュウが吹き出して笑い出し、続いてマシュウの笑いを止めようとしたマリラが大笑いを始める。二人ともおかしくてたまらない様子で、マシュウは廊下の壁を叩きながら、マリラはお腹を抱えて笑ってる。無論、視聴者もこれに前後して大笑いだろう。
 無論、この二人の笑いはアンが話の本題をすっかり忘れて「あまりにも素敵な話だから聞き入ってしまった」という予想外の行動に出たことに対する笑いだ。そして真相を知ったスペンサーの慌てぶりがこれに拍車を掛け、さらにアンが自分たちの元を離れるわけがないという勝利感がプラスされて笑いを止められなくなってしまったのだ。この笑いのシーンに二人の心境がよく表れている。
 さらにスペンサーが心象を害して帰るシーンのアン・マシュウ・マリラの表情がいい、いい話を断ってしまった事を悪く思っているアン、今思えば何て話を持ってきたんだという感じのマリラ、安堵感と勝利感に満ちたマシュウ。スペンサーの申し出に対して出るべき結果が出たと言えばそれまでだが、それまでの課程を上手に丁寧に描いたと感心した。
 しかし無理と分かっていてこんな話を持ってきたスペンサーだが、そのアンを引き取りたいという富豪から手数料かなんかたっぷりもらえる話だったんだろうなぁと想像してしまう。
  
今回の命名 新たな命名無し。
感想  いい話だ〜、なんか「巣立ち」という心境をアンの側から、マシュウとマリラの側から上手く描いている。その前哨戦として前半のスペンサー来訪シーン(名場面欄)があり、実は前話のラストシーンもこの回への伏線だったと見るわけだ。アンは既に前話で、派手に着飾ったり宝石をたくさん手にするより今の幸せが一番だと宣言しており(前回の名台詞)、今回の富豪の養子になる件を断る事への伏線としていたわけだ。視聴者は前回の該当の台詞を覚えていれば、スペンサーの申し出が断られることが分かりきっていたはずで、名場面シーンは「答えが先に出ているシーンを面白く見せる」という構図の典型例だ。
 この養子の件を断った事が、余計にアンとマシュウ&マリラの絆を深めることになる。これで今回の名台詞のシーンが活きてくるのだ。マリラはアンが高望みのしないよい子に育ったからこそ巣立ちが寂しいのだし、アンの「自分は変わらない」という名台詞次点の言葉について説得力を持たせる、マシュウはアンが真っ直ぐ育ち神が与えてくれた自分達の娘と強く感じるのである。そして互いが重要な存在だと認識した上で、遂に別れの日を迎えるのだ。
 そしてアンがクイーン学院のあるシャーロットタウンへと旅発ち、この物語は…まだ終わらないって。いよいよ終盤へと突入するのだ。

第42章 「新しい学園生活」
名台詞 「取れるものならその奨学金を取ろう、国語なら私の得意な科目だもの。エドモンド・カレッジを出て私が文学士になったら、マシュウはどんなにか鼻を高くするだろう? 4年間も家を離れるのは辛いけど、マリラだってきっと許してくれるに違いないわ。ああ、大望を持つことは楽しいわ。ひとつが実現すると、次のがもっと高いところで輝いているんだもの。ああ、大望を持つって人生をしても張り合いのあるものにしてくれるわね。」
(アン)
名台詞度
★★★★
 「クイーン学院に入る」というひとつの目標をクリアしたアンが、次の野望に向けて立ち上がった瞬間の台詞だ。教室で知った顔がギルバート以外にいないことを寂しがったり、下宿に帰ってからホームシックで泣いたりするのは、クイーン学院の教室に入ったところでアンの目標が達せられて「真っ白に燃え尽きてしまった」からという理由もあるはずだ。アンに次の力を与えるの新しい明確な目標を掲げるしかない、これまで漠然と教員免許を取って成績がトップで卒業する者に贈られる金メダルを取るというものしか無かったが、アンには「その先」が無くていまいち乗り切れなかったのだろう。だから燃え尽きてしまったままだったのだ。
 そこへジョーシーがエイブリー奨学金の話を持ち込んでくる、その奨学金で大学に進学することが出来るのだ。大学へ進学して上級の勉強をすれば…それこそがマシュウとマリラへの恩返しになるはずだとこの頃は考えたのだ。そうなれば将来のアンは高収入間違いなく、二人に楽な生活をさせてあげることが出来るはずだ。この台詞の前半にはそう言う思いが込められている。
 そして後半部分、これはアンの若さだ。人生というものに対して攻撃的になれるのは若いうちの特権なのだ。ある程度の年齢になって、結婚して子供でもできようものならこんな攻撃的にはなれず、守りに入ってしまうものなのだ。結婚しても攻撃の人生を過ごしている人なんて、多分一握りの人だけだと思うぞ。私なんかその辺を勘違いしていたから(以下略)
(次点)「あ〜よかった。他にもお馬鹿さんがいるなら、自分が少々お馬鹿さんでも気にならないわ。ね、ルビー。」(ジェーン)
…アンがホームシックで泣いていたことを知ったジェーンはこう言う。知らない土地に来た不安で自分がとんでもないことをやらかしてしまったという事が見事かき消えた瞬間だろう。
名場面 ホームシック 名場面度
★★
 初日の授業が終わり、下宿に戻ったアンは妙な寂しさを覚える。きれいで片付けられている部屋は誰もいなくて余計に広く感じ、慣れない事がそれをさらに増長させているのだ。ステイシーの写真に挨拶したアンはたまらず外を見る、アンは見慣れない都会の風景をグリーンゲイブルズからの景色に重ね合わせていた。そしてダイアナのことを思い出すと急に目から涙があふれる…「何としても泣くことだけはすまい」、アンは涙をこらえるのに必死だ。泣いてしまえばその瞬間に自分がここでうまくやっていけなくなってしまうように感じていたのだろう。だが本を読んでもダメ、楽しい馬鹿げたことを想像してもダメ、思わずマリラの事を思い出し、今度の金曜日には家に帰れるという事実を思い出すが、それ自体がずっと先のことのような気がして遂に心細くなって泣いてしまうのだ。
 このシーン、泣きはしなかったけど心当たりはあって「あるある」と思って見てしまった。私も仕事で長いのになると1週間丸々とか、10日間とか、酷いのになると2週間なんていうのもあった。その初日に仕事を終えてホテルの部屋に入るとどうしようもない寂しさに襲われるのだ。仕事が終わって帰れるのがずっと先のような気がして…でも3〜4日目に入って慣れてくると、面白いもので「住めば都」って感じになったりするんだよね。
 このシーンに続いてジョーシー・パイが部屋を訪問し、続けてジェーンとルビーが部屋にやってくる。ジェーンについては名台詞欄次点で描いた通り、やはりホームシックで泣いていたのは確かだし、ルビーもそうらしい。私はジョーシーもホームシックで泣いてしまったからアンの顔を見に来たのだと解釈している、ただしジョーシーの場合は「泣いていた」とバレる事をプライドが許さないだろうから、分からないようによーく顔を洗ってからアンの部屋に来たに違いない。私が小学生の頃はこの少女は単に意地悪な女の子だと思っていたが、今見るとこの子もアンが大好きで実は慕っているんだなとよく分かる。ただと周囲にそう思われたくないからああいう態度を取っているんだと。
 そうそう、ゆうきまさみ作「機動警察パトレイバー」の後藤隊長の表情って、誰かに似ているとずっと思っていたのだが、この「赤毛のアン」のジョーシー・パイと目が似ているんだ。やる気なさそうにまぶたが下がった、間の抜けた表情がこの二人の共通点だ。
  
今回の命名 新たな命名無し
感想  前半と後半で見事に話が分かれた。前半はアンがシャーロットタウンに到着することを軸に、マシュウとマリラがアンを失った喪失感を丁寧に書き上げている。やはりずっと我が子のように育ててきた少女が、巣立ってしまっていなくなったらそりゃ悲しいだろう。劇中でマリラが号泣したのははじめてじゃないかな? ちょこっと涙を流す位ならいままであったと思うけど。でもこれも「慣れ」の話なんだよね、アンは週末のたびに帰ってくるだろうし、いないことに慣れれば「次来るのを楽しみにする」ことにも慣れてくる。私はその気持ちよ〜く分かりますよ。
 一方のアンはホームシックが描かれている。その辺りについては名場面欄に詳細を書いた。このマシュウやマリラの喪失感と、アンのホームシックの双方を同じ回に描くことで互いの気持ちを対比させることに成功している。どっちも会いたくてたまらない、でもアンの人生を切り開くためにその試練に耐えねばならないと。アンの側の解決は早く、エイブリー奨学金の話を聞いて次の野望を明確にしたことでこの状況から抜け出す。マシュウやマリラは…やはり慣れるしかないのか?
 名場面欄に書いた私のジョーシー・パイに対する解釈はいかがだろう? 彼女の側面についてはこの回で色々と想像できそうだ。ハッキリ言ってアンの同級生の中では、ダイアナとギルバートに続いて3番目に印象に残るキャラだからね。ジェーンやルビーはごく普通の友人づきあいになっちゃうから、変わり者が多いアンの同級生の中ではあんまり印象に残らないんだよな〜。「私のアンネット」に出てくるマリアンとクリスチーネも似たようなもんだ。

第43章「週末の休暇」
名台詞 「レイチェル、今も私たちがあの子を養子にしていないのは何故だかわかるかね? あの子は神から授かった子なんだよ、元々いなかった子だよ。あの子がそうしたいと言うのなら、自由にさせてやりたいんだよ…(嗚咽)。ごめんよ。それにあの子がもしその奨学金を獲得したとしたら、そりゃ自分の力でカレッジに入るという事だろう? 大変名誉なことだし、向こうからお金を出して通わせてくれるって言うのに、本当の親でもそれをやめさせるのは愚かな事じゃないのかね? きっとあの子は私たちのことを考えて言い出しにくかったんだろうよ。ハハッ、それにそんな奨学金、まだ取れるかどうかも分からないじゃないか。私はあの子に、その目標に向かって進んでいいって書いてやりますよ。」
(マリラ)
名台詞度
★★★★
 アンが週末に帰宅している間、マシュウやマリラの気持ちを察して遂に言い出せなかった「奨学金を取って大学に進む」という自分の希望。だがこれは意外なところからマリラの耳に入る。アボンリーの芸能リポーター女であるレイチェル夫人がルビーから話を聞いたのだ、そして親代わりのマシュウやマリラを放っておいて進学するのは優しい子のすることじゃないとマリラに力説する。そのマリラの返答がこれだ。
 この台詞を言うマリラに、彼女の「母性愛」が見え隠れしている。アンの考え、思い、希望、これらを支持してはいるが内心はさらに4年アンと離れなければならないという事実は辛く悲しい問題でもあるのだ。その離れて暮らす辛さや寂しさという本音を胸に秘めて、このように力強くアンを支持する台詞を吐くマリラは、心の底からアンの事を考えているのだ。ちなみに前回の名台詞でこの希望について「マリラはきっと許してくれる」とアンは言っているが、アンはマシュウやマリラの本音がずっと自分を手元に置いておきたいというものであって、その本音を胸に秘めて許してくれると言うことも見抜いているに違いない。だから言い出せないのだ。
 この台詞を聞いたレイチェル夫人は、マリラが自分の老後よりもアンの将来を優先させていることに驚く。そしてアンにはさんざん驚かされたがこれからもそれは続くと言い切るのだ。つまりレイチェル夫人は、アンならば間違いなく奨学金を獲得すると信じているのだ。
名場面 「喜びの白い道」 名場面度
★★★
 マシュウとマリラはアンを連れて、収穫したりんごを届けに馬車でブライト・リバーまで走る。ナレーターが解説するまでもなく、この3人での外出は初めてだと物語を追い続けてきた視聴者は気付くだろう。その道中、馬車はアンが初めてグリーンゲイブルズに来た日に感激した「喜びの白い道」にさしかかる。あの時は白い花が咲き誇っていた道は、今は赤いりんごの実で埋め尽くされていた。アンとマシュウは思い出していた、アンが初めてグリーンゲイブルズに来たあの日のことを。マリラはそんな二人の様子を見て、何を考えているか当ててみようと言い出す。マシュウは「それはなぞなぞより簡単だ」というが、アンは「私の考えていることは当てられない」と返す。アンは初めて来た日のことを思い出すと同時に、ちょうど1年目の記念日にここへ来たときの事を思い出していたのだ。
 3人が感じていたのはアンの成長と、お互いに無くてはならない存在であることだろう。マシュウとマリラはこの少女によって晩年の人生が明るいものに変えられたことを、アンは自分を実の子供のように扱ってくれるこの二人に出会い育てられたことを感謝していたのだ。その思いは常日頃持っているが、この「喜びの白い道」に来るとされを再認識させられる。ここを通るときは常に喜びに満ちており、ネーミングの通りだとも認識させられるのだ。
  
今回の命名 「ドリー」…「火曜日の朝」に生まれた子牛で、命名権と共にアンのものとなった。まぁ世話するのはマシュウだが…命名理由は「目がきらきらしていて大人しそうだから」とのこと。
 
(右は一時停止して驚いたのだが、1コマだけドリーとアンの前後関係が逆になる。マウスを画面のところへ持って行くと…)

「喜びの白い道」再登場。秋の景色は初めて出た(名場面欄参照)。
感想  アンの帰宅、週末の間だけどここでのんびり一家団欒のひとときを過ごす。なんかうちみたいだなぁ、週末になると父と週末を過ごす娘が私の家にやってくる。なんか今回のマシュウとマリラが他人事に見えず、ラストではマリラと一緒に泣き出しそうだった。現在の私だからこそ胸に染み入る1話となったのだ。
 そのアンが「奨学金を獲って大学に進みたい」という野望をダイアナだけに打ち明ける。アンがクイーン学院に旅立つってだけであんな反応をしたマリラだ、こりゃ言いにくいのも理解できる。でもその裏でマリラが事実を知ってしまうという展開はなかなかいいと思う。村の情報に精通しているレイチェルの存在は大きいなー…でもマリラが「自分達に言ってくれなかった」理由を推理するが、それがドンピシャなのはアンとマリラの信頼関係によるものだろう。
 ここまで徹底的にアンの「成長」とマシュウとマリラの「老い」を見せつけてきたこの物語だが、いよいよここまでのアンの成長ペースだけが早い展開は去るようだな。二人の老いが問題となる事件が起きたときアンはどう対処するのか、次回辺りからそれが描かれるようだ。

第44章「クイーン学院の冬」
名台詞 「あ〜あ、嫌んなるなぁ。私、この世に数学さえなかったら、どんなに人生が楽しくなるか知れないのに。」
(ジョーシー)
名台詞度
 お前は俺か?
名場面 突然の帰宅 名場面度
★★★
 アンはジョセフィンからマシュウについての事実を初めて聞かされる。マシュウが発作で倒れたこと、マシュウの発作は昨日今日始まったものではないこと。これを聞いたアンはいてもたってもいられなくなり、食事中だというのに立ち上がってしまう。ジョセフィンが「連絡がないって事はたいしたことがないということ」だと言っても耳に入らない。アンはジョセフィンの屋敷を後にすると、駅へ直行して汽車に飛び乗る。
 汽車の中で、グリーンゲイブルズへの雪道で、アンは不安と後悔の表情を隠せない。その頃、グリーンゲイブルズではマリラが何事もなかったかのように編み物をしていた。そこへ突然家の扉が開いてアンが飛び込んでくるのだ。マリラがなぜ突然帰ってきたのか聞くが、アンは構わずに「酷いじゃない!」と言う。「何のことだい?」「マシュウの事よ! 心臓の病気で寝込んでるんでしょ?」とアンは勝手にマシュウの病状を酷くしている。今まで何も知らずに暢気に勉強していたと言うアンに、マリラは知らせなかった事を詫びると共に正確な病状を伝える。それでも「何処なの? マシュウ?」と問い詰めるアン、部屋だと言われてそこへ向かおうとした瞬間、扉が開いてマシュウが出てくる。「具合はどうなの?」と問うアンに、暢気に「おかえり」と声を掛けるマシュウ。アンはマシュウがたいしたことが無かったとやっと理解し、マシュウに抱き付いて安堵する。マシュウのことを聞いて心臓が破裂すると思ったと言うアンに、マリラはいきなり帰ってきて驚いて心臓が止まるかと思ったと言う、それにマシュウが心臓が悪いのは自分だけで十分と冗談を言い、3人は心から笑い合う。そして予定外の一家団欒となるのだ。
 まずアンのマシュウへの思いがよく描かれている。アンもマシュウやマリラの老いを感じていて、このままでは良からぬことが起きるに違いないと心の何処かで感じていたに違いない。その上で「何も起きていない」という事実にすがって、二人の元を離れて勉学に勤しんでいる自覚があったのだろう。ところがそのすがるべき事実が根底から崩れる。だからこそ都会で勉強している場合じゃないと考えて慌てて帰宅したのだ。実際にマシュウに会い、話をして病状が酷いわけではないと自分で確認したかったのもあるだろうし、何よりも自分を引き取ってくれたマシュウが病気と聞いて純粋に不安だった点もあるだろう。
 マシュウとマリラは理由はどうあれ、アンが突然帰宅して素直に喜んでいる。あと3ヶ月は会えないと思っていた娘が突然帰ってきたのだ、嬉しくないはずはないだろう。マリラはこれまでマシュウの事を、不安を掛けまいと敢えて話さずにいた事実をも忘れて喜びを見せる。マシュウは自分のことを案じてはるばる帰ってきた娘の気持ちが嬉しかったのだ。
 
今回の命名 新たな命名無し
感想  いよいよマシュウとマリラの「老い」が問題となる事件が起きた。マシュウが発作で度々倒れているという伏線が活用されるときが来たのだ。無論このことはアンには心置きなく勉強してもらうために秘密にしておいたのだが、ジョセフィンの活躍でこの秘密がバレてしまうのだ。後先構わず汽車に乗って家へ帰ってしまうアンの、マシュウに対する気持ちにとても感動できる話だと思う。レイチェル夫人がマリラに、マシュウの事をアンに言うように進言したのは正しい判断だと思う。確かにそれでアンは不安に思うかも知れないが、そう言うことが起きたが今のところは大丈夫とアンを安心させるためにも言うべきだったと私は思うのだ。また秘密にしても何処かでバレる可能性はあるのだし、そうなった場合にアンの心配は倍増するわけで、それが現実になった話と見ていいだろう。
 マシュウの件が一件落着すると、季節はあっという間に春へと飛ぶ。試験前はみんな必死に勉強しているのに、アンだけは外の景色を見て想像に耽っているのだから余裕綽々というものだ。卒業試験はさらっと流して、いよいよ次はその結果というわけだ。みんな卒業できるのか?金メダルは誰の手に? 奨学金の行方は…ったって、この先の展開は小学生の時に見抜いていたもんなぁ。

第45章「栄光と夢」
名台詞 「ああ素敵、素敵、素敵、素敵、素敵だわ。私、自分のことのように嬉しいわ。ああアン、よかったわね。一番獲りたがっていた奨学金がもらえたんだもの。ああ、早くあなたに会いたいわ。」
(ダイアナ)
名台詞度
★★★★
 マリラが発した発光信号を見たダイアナは、アンが帰ってきたと勘違いしてグリーンゲイブルズに飛び込む。アンはいないと聞かされてびっくりしたのも束の間、マシュウとマリラは競い合うようにクイーン学院の卒業試験の結果を語る。これを聞いたダイアナの台詞がこれだ。
 基本的にここまでアンと共に物語を展開し、アンと共に様々な感情を演じた来たダイアナがやっとアン抜きでの大立ち回りを演じた。アンがクイーン学院に合格したときも同じ位喜んでいると思われるが、それは劇中には描かれずその知らせをアンに告げに来たところだけが描かれているので単独シーンにはならなかった。アンが一人でダイアナを思うシーンは何度も描かれたが、アンのいない場所でアンに関する吉報を知って喜びを爆発させるダイアナがここで初めて描かれたのだ。それは「自分のことのように嬉しい」というう言葉の通りで、あまりの嬉しさに2回転半しながら「素敵」を5回繰り返す。そして自分の感情を爆発させた後は、この喜びをアンと分かち合うことを考える。この台詞の構成は18話名台詞欄のアンの台詞と同じで、対比させると面白い。
 またこの喜びの演技も素晴らしいと思う、このダイアナの喜びようは名場面欄のシーンとセットで小学生の頃に見たのをハッキリと覚えている。「喜びの演技力」というのも難しいもので、これを見事演じた声優さんの力は素晴らしいと思う。
名場面 発光信号 名場面度
★★★
 卒業試験の結果発表の日、マシュウとマリラはグリーンゲイブルズで落ち着かない時を過ごしていた。奨学金を取れなかったらどうしようか、銀行が潰れかかっているからどうしようか、とマリラは嫌な事ばかり考えつく。そういう悪い話をしているところに馬車がやってくる、クイーン学院出入りの教材屋の男がアンから手紙を託されてここに寄ったのだ。マシュウとマリラは奪い合うように手紙を読む。安堵すると同時に無言で心から喜んだマシュウとマリラは、この知らせをアンの「心の友」であるダイアナに知らせなければならないと判断した。マシュウが出て行こうとし、それをマリラが身体に悪いからと引き止め、そのマリラも目が悪いから夜道は危ないと自制し…そこで思い付いたのは、アンとダイアナが夜間の意思伝達に使っていた発光信号である。マリラが「すぐに来い」という信号は「・・・・・」(5回点滅)だと知っていたのだ。ダイアナはすぐこれに気づき、アンが帰ってきたと勘違いしてグリーンゲイブルズへ走る。
 このシーンは本放送で見た時に最も印象に残ったシーンだ。アンについての喜ぶべき知らせ(この頃「奨学金」なんて意味は分からなかったが)を、この電話がない時代設定でダイアナにどうやって伝えるのかというのは、子供心に興味を持っていた。その方法がマシュウかマリラがダイアナの家まで走るのかと思ったら、こんな革新的な方法を採ったのに心から感心したのだ。確かになんでマリラがこの発光信号を知っていたのかという疑問はあるし、発光信号の存在が唐突に出てくる点はいささか不自然な気がしないでもないが(これを使ったエピソードが前もってあったらこの時の関心度は薄れたかも?)。
 発光信号という意思伝達を「赤毛のアン」で知ったという少年少女は多いことだろう。私もその一人だ。
  
今回の命名 新たな命名無し
感想  昨年夏、映画「崖の上のポニョ」を見た時に思い出したのがこの話。序盤に主人公・宗介が、船乗りの父と意思疎通するのに家のベランダから「発光信号」を送る。宗介の父は「愛してる」と送るが、突然約束をすっぽかされた母は必死に「バカバカバカバカ…」と送る発光信号のやり取りは、この映画の名場面のひとつだろう。このシーンを見た私は、「赤毛のアン」でマリラがダイアナに発光信号を飛ばすシーンを思い出し…この時に無性に「赤毛のアン」が見たくなったのは事実。DVDボックス買っておきながら、視聴はこの時期まで延びちゃいましたけど。
 前半はこのシーンも含めて卒業試験の結果発表に費やす。ジェーンは「無事卒業する」という目標が果たせそうなので安心しているが、「奨学金を獲る」という野望が実現するかどうかのアンは不安を隠せないという対比がいい。結果発表はありきたりのシーンだったが、グリーンゲイブルズで結果を待っているマシュウとマリラの様子がこれまたいい。特に結果を知った後の二人は夫婦漫才(兄妹だが)みたいで笑えた。ダイアナに結果を言うのを取り合うのが子供みたいで面白かった。
 後半は卒業式だ。アンがクイーンで勉強させてくれた事に心から感謝し、その上でアボンリーやグリーンゲイブルズを「故郷」として認識するというこれまた平凡な展開になると思っていたら、最後の最後に落とし穴があるという展開を見せた。ライバルであるギルバートが進学を諦め、就職すると聞いたアンは張り合いを無くし、また「真っ白に燃え尽きる」のであった。でも考えてみればもう残り話数も少ない、アンが大学へ行ったところでその先の展開を続けるだけの回数は残っていないのだ。それは大人になっての今だから気がつくのであって、当時はこの後のどんでん返しは全く予想が付かなかったもんな〜。

第46章「マシュウの愛」
名台詞 「そうさのう。わしはなぁアン、1ダースの男の子より、お前にいてもらう方がいいよ。いいかい? 1ダースの男の子よりもだよ。そうさのう、エイブリー奨学金を獲ったのは男の子じゃなかったろう? 女の子さ、わしの女の子だよ。わしの自慢の女の子じゃないか。アンはわしの娘じゃ。」
(マシュウ)
名台詞度
★★★★★
 アンは畑仕事に勤しむマシュウに「ゆっくり休んで欲しい」と忠告し、なんで時々休まないのかと問う。それに対してマシュウが「もう歳なんだが、いつも休むことを忘れてしまう」と答えると、アンは「もし私が男の子だったら楽をさせられたのに」と悔やむ。これに対してのマシュウの返事がこの台詞だ。
 アンとしては「男の子を欲しがっていた家に、女の子である自分が居着いてしまった」という罪の意識が何処かにあったに違いない。それはグリーンゲイブルズに置いてもらえるという喜びの直後からずっと抱いているアンの気持ちだ。この気持ちにマシュウは気付いていたと思う。男の子が必要なのに女の子を引き取って育てる事にした張本人なのだから、彼にもアンと同じ気持ちが何処かにあるはずだろう。だからマシュウはアンのそんな気持ちを取り除きたいと考えたはずで、それは自分がアンにキチンと本音を言う機会を作ることだったのだと思う。そんなこんなでやっとマシュウはやっとアンのその「罪の意識」を聞き出すことができ、アンに自分の本音…つまり「お前は自慢の娘だ」という偽らざる本心を語ることができたのだ。
 この台詞はサブタイトルの通り、マシュウのアンに対する愛情を素直に表現していて、その愛情に一点の曇りもない台詞だから視聴者の印象に残るし、多くの人が名台詞として記憶に残っているだろう。さらにこの台詞からマシュウが「アンを引き取ってよかった」と心から感じていることも読み取れ、マシュウの晩年の幸せも描かれている。こんなマシュウの姿を見ると、「自分も同じように孤児の女の子を引き取って育ててみたい」とか思う人もあるだろう。いや、自分が物語の中に入ってマシュウになりたいという男は多いだろう。
 今回の再視聴で私が一番印象に残る台詞だと思う。マシュウの父性をまざまざと見せつけられて、感動して涙出た。
名場面 マシュウとアン 名場面度
★★★★
 名台詞を受けて、アンの心に感動と感謝がこみ上げてくる。そして牛を牛舎に入れるために歩き出したマシュウを追いかけ、マシュウと腕を組んで歩く、たったこれだけのシーンだが、見ているだけで小さい頃のアン風に言わせれば「ゾクゾクっと来る」シーンである。
 名台詞を受けてアンの心の中に最後にあった「罪の意識」が消えたのだろう、アンは間違いなく自分がこの家の娘として迎え入れられているという事に安堵し、そしてマシュウがどれだけ自分を愛しているかという事実を直に触れたのだ。だからアンはマシュウの腕を獲らずにいられなかった。
 対するマシュウもやっとアンに「自慢の娘だ」と本音を率直に言えた、その上でアンが腕を取ってきたことでアンの感謝の気持ちと、アンの自分を父として認めているという愛が伝わってきたのだ。だからマシュウも照れることなくアンと腕を組んで歩くことに抵抗を覚えない、まるでアンを赤ん坊の頃から育てた自分の娘と同じように扱えるのだ。もうアンは自分が大の苦手である「女」ではないのだ。
 そしてこの思いが合致して腕を組んで歩くことで、二人が実の父娘と同じ絆で結ばれていることを視聴者は強く訴えられる。物語を初回から追ってきた視聴者にとって、大きな感動シーンとなったことだろう。
  
今回の命名 アンが名付けたもので「喜びの白い道」「アイドル・ワイルド」以外の物はだいたい出てきた。「きらめきの湖」は名付けシーンでなく、31話のボート沈没シーンの光景だったが。ダイアナ命名の「樺の道」まで出てきたぞ。
感想  この回を見て、子供の頃には分からなかったが大人になって見るとハッキリ分かること。この回は「悲しみの前の静けさ」を上手く描いている話であること。そして明らかにマシュウに「死亡フラグ」を立てる話であること。これは先の展開を朧気ながら知っているから言うのでない、もし今回が初見だったり、「ポリアンナ物語」の時のように内容をすっかり忘れていた話だったとしたら、真っ先にこの欄にそう書いたであろうということだ。マシュウの心臓が弱くなっているという事実、預金を全て預けている銀行が破綻し掛かっているという噂…先の展開を知らなくてもここまで材料が揃えば次回に何が起きるか想像できるだろう。さらに「ずっと働き続けたから、こまののぽっくり逝ければ…」なんてマシュウが言い出せば、それが伏線となっている事にも気付くだろうし、あんな感動的な台詞を吐くのも遺言みたいな展開にさせるためだと考えが及ぶ。とどめは最後のナレーション、「平和な美しさ、香りに満ちた穏やかさは、アンの後々の思い出になった。それはアンの人生に悲しみが降りかかる前の最後の夜だったから」と言われれば間違いないだろう。
 中盤のアンがアラン夫人に将来の悩みを打ち明けるシーンもなかなか深い。アンはマシュウやマリラが老いているから自分が側にいて支えてやらなければならないという思いと、大学に進学してもっと勉強して立派な人間になるという野心交錯して悩む。アラン夫人の「ならば自分の野心を取って後悔しない人生を歩め」という答えは正論だ、少なくとも普通の少女に対してならである。つまりマシュウとマリラが養父母ではなく、実の両親であるならばアラン夫人の答えは正解だし、アンだって最初から悩まないと思うのだ。だがアンの心に引っかかっているのは、マシュウとマリラが自分の実の親でなく、縁もゆかりもないのに偶然の巡り合わせだけで自分をここまで育ててきた人間だと言うことだ。その上で二人の老いがハッキリしているから、アンは一刻も早く恩を返さねばならないと悩んでいるのだ。まぁ、私の解釈では名台詞のシーンでアンの決心が固まったと思っているのだが。

第47章「死と呼ばれる刈り入れ人」
名台詞 「アン、これまであんたには少しきつく当たりすぎた事もあったかも知れないけれど、だからと言ってマシュウほどあんたを可愛がっていなかったなんて思わないでおくれ。私はねぇ、こんな時でもない限り思った通りのことを口に出して言えないんだよ。今ならそれができると思うから言うけど、あんたはねぇ、あんたのことは自分の腹を痛めた子のように愛おしいと思っているんだよ。グリーンゲイブルズに来てからというもの、あんただけが私の喜びであり、慰めだったんだよ(以下嗚咽)。」
(マリラ)
名台詞度
★★★★★
 名場面欄のシーンを受け、マシュウの亡骸に寄り添っていたマリラがアンの鳴き声に気付いてアンの元へ行く。そしてアンに泣かないよう諭すが、今日だけはどうにもならなかったとしてアンを受け止める。泣きながらしばらくの間自分を抱いていて欲しいと懇願するアンは、いくらダイアナが心の友であろうとも今回は自分の心の中にまで入って慰めることはできないとし、これは自分とマリラの悲しみだとする。そしてマリラに「これからどうすればいいの?」と問う。マリラは「二人で力を合わせていくことだよ、もしあんたがいなかったら私はどうしていいか分からなかったよ」とした上で、この台詞を吐く。
 前話がマシュウのアンに対する気持ちを吐露したものだとすれば、今回はマリラがその気持ちを伝える。素直でない性格のマリラは、本人に直接アンをどれだけ愛しているかという事を告げられずにいた。アンが家にいれば常に一緒にいるからこそ、改めてこんな事をいうのが照れくさくなるのだ。マシュウの場合、アンの申し訳ないと思う気持ちに入り込んで自分の気持ちを上手に伝えた(遺言になってしまったが)。マリラはアンのそんな気持ちを知っていてもなかなか言えない、だがマシュウの死を迎え、アンも自分と同じように悲しみの中にあると感じたマリラは、やっと自分の本当の気持ちを伝えることができた。その内容は聞いての通り、アンを自分の娘として可愛がってきたという内容だ。
 これに対してのアンは、この台詞の序文部分には首を横に振って答える。ハッキリ言ってアンの側から見ればもうここまででマリラの気持ちは伝わっているし、これまでのマリラの愛情がちゃんと伝わっていた事をも示していると思う。あとはアンはマリラにすがって大泣きするだけだ。
名場面 アン号泣シーン 名場面度
★★★★
 マシュウが息を引き取ってからというもの、アンは涙ひとつ流すことはなかった。弔問客の対応や葬儀の準備、やることはたくさんあったからという理由もあるだろうが、何よりもマシュウという自分にとって「父」である人物が死んだという実感が湧かなかったのもある。だが最大の理由は悲しみよりも苦しみの方が上だった事による。ダイアナが「今夜はそばにいてあげようか」と申し出てもこれを丁重に断り、アンは苦しみ〜つまり胸の痛みの正体について考える。一人になったら出てくると思っていた涙は出てこない、ただ胸の痛みに苛まれるだけだ。
 いつしか眠ってしまったアンだが目を閉じながら思い出す、マシュウと初めてここへ来たときに乗っていた馬車、マシュウが愛用していた品々、そして脳内にまだ聞いて間もないマシュウがアンに言い残した言葉(前話名台詞欄参照)が蘇り、アンが身体を起こすと目の前でマシュウがその言葉を語っているではないか。と思うとマシュウはアンに背中を向け、笑顔を残して闇の中へ消えて行く。
 もちろんそれは幻なのだが、その幻の背中を見送ったアンはマシュウの名を何度か呟き…ついには大声でマシュウの名を呼んで泣き始める。
 アンがマシュウという「父の死」をようやく実感して、受け止めた瞬間だ。アンがマシュウが死んで抱いていた「胸の痛み」と「マシュウが死んだと実感できない」という思いは、アンがまだマシュウに何の恩返しもできていないという思いだったと私は解釈している。孤児で引き取り手の無かった自分を引き取り、妹と二人でここまで育ててくれた父にまだ何も返していないのだ。だからアンにとってマシュウは死ぬわけが無かった存在であり、それまではマシュウとの日々が続くものだと考えていたのだ。
 だがアンは一人となり、時間を経るに従いマシュウの死を受け止めざるを得なくなってきていた。恐らくアンは眠りから覚めた瞬間にマシュウとの思い出が脳裏に過ぎったのだろう、だがなんかのきっかけで「その日々はもう戻ってこない」と潜在的に認識したのだ。その潜在意識がアンにマシュウの幻を見せ、その時に思い出したマシュウの言葉は前話名台詞欄に挙げたあの言葉、つまり自分を実の娘としたあの言葉だ。アンはマシュウが戻らないという事実を実感し、それを受け止めると泣いたのだ。マシュウのためにではなく、どうしようもなく泣いたのだ。
  
今回の命名 新たな命名無し
感想  「人の死」というものはいつも唐突にやってくる。この話を見てここ最近私の周りにあった「死」について考えてしまった、6年前に生まれた翌日に逝ってしまった姪にはそんな短い生命しか神に与えられていなかったなんて誰も思わなかったし、その数ヶ月後に逝った従兄弟は病気も殆どしない健康で頑丈な身体の持ち主だったのにある日の朝突然倒れてそのまま帰らぬ人となった、数年前に逝った会社の同僚はいつも通り会社から駅への道を帰る元気な後ろ姿を追った次の日に突然の事故でこの世を去った。今年の1月に祖母が逝った、大晦日に父から「あの様子だとおばあちゃんは春まで持たないかも知れないから覚悟しておけ」と言われた、正月三が日が終わると同時に突然「危篤」と言われて父と病院へ急いだが…間に合わなかった。
 この物語は人の死とそれに伴う家族の感情を淡々と、余計に飾ることをせずに描いている。マシュウが倒れた直後にマリラが必死になって呼び戻そうと声を掛けたり、心臓マッサージでなんとか蘇生させようと試みているところから、最後のアンとマリラが抱き合って泣いているシーンまで全てのシーンが自然に描かれている。逝く人が死を直前に主人公に何か言い残したり、死期を悟っている割には直前まで流暢にしゃべっているという不自然さもない。当然死神が舞い降りて大事な人の生命が、その大事な人からの言葉を聞く間もなく消えてしまうという自然な臨終を描いているのだ。だからこそ無理に盛り上げなくてもこのマシュウの死は印象に残るし、泣けるのだ。物語に感動して泣いているのとは違う、自分がリアルな物語に引き込まれたように感じて「泣ける」のだ。同じように「泣ける」かたちで人の死を描いたのは、「ポルフィの長い旅」14話(ポルフィの両親が逝った次の回)だ。
 そのように物語を仕上げた最大の理由は脚本がよかったこと、恐らくこれは原作がよかったのだと思われる。その脚本の良さが声を入れている声優さんをもしっかりと物語に引き込み、ちゃんとその役になりきって迫真の演技を見せてくれたこともあろう。こういうシーンは俳優さんの演技力を問われるシーンでもあるが、脚本が悪ければどんな立派な俳優さんにも迫真の演技はできない。いい脚本はいい演技を呼ぶのであり、私はこの回丸々一話はそんな話だったと思う。だからといって声優さん達が下手くそだと言っているわけでないので誤解無きよう願いたい。
 ここまで明るく楽しく進んだ物語が突然不幸に見舞われ、殺伐とした展開になる。この中からアンのひとつの到達点がだんだん形になってくるのだ。物語はあと3話、実はこの回以降の話があんまり記憶になかったりして。

第48章「マシュウ我が家を去る」
名台詞 「ねえ、アン。この世にいらした時、マシュウはあなたの笑い声を聞くのが好きでしたね。そして、何か面白いことがあって、あなたが楽しんでいると分かれば喜んでくれたでしょう? マシュウはね、いまここにいないというだけなのよ。だからあなたが楽しむ姿を、これまでと同じように見たいと思うに違いないわ。自然が心の痛手を癒すように仕向けてくれるなら、私たちはそれに対して心を閉ざすべきではないと思うの。もちろん、あなたの気持ちはよく分かりますよ。誰も同じ経験をするんじゃないかしら? 誰か愛する人がこの世を去って、私たちと一緒に喜びを分かつ事ができなくなると、自分が何かに心を惹かれるということが許せないような気になるわね。そして人生に対する関心が再び戻ってくると、悲しみに忠実でないような気がしてくるのよね。」
(アラン夫人)
名台詞度
★★★
 マシュウの葬儀も終わり、グリーンゲイブルズに平穏な日々が戻って来たある日。アンは思いついてマシュウの墓前にマシュウが好きだったバラの苗を植える。この時にダイアナが同行していたのだが、優しいダイアナはアンを元気づけようとしていたのか、はたまたただ単に空気の読めない娘なのか分からないが、いつもの調子でアンに笑い話をする。それにつられてアンも笑うが、その時にアンはこんな悲しみの中で笑っては行けないという気分になってしまったのだろう。さらに自然の息づかいが自分の心を癒し、再び自分が人生への興味と想像力に満ちた元の姿に戻っていく事がマシュウに悪いような気がしてきたのだ。どうすればいいのか…アンがその悩みを持ち込んだ先は、アンに痛み止め塗り薬入りケーキを食べさせられたアラン夫人だった。アラン夫人はアンの言いたいことを理解し、「父」を失ったアンの気持ちを察してこう答えるのだ。
 この台詞の中身を日本的に言うと、「仏様は常にこの世に遺された者を見ている」と言ったところだろう。愛する人を喪ってなんか笑うことも人生を楽しむこともしちゃいけないような気持ちになるのはよくあることで、人はそれを「亡くなった人が天国から自分を見守っている」と思うことでそれを乗り越えるしかないのだ。だから「天国」「極楽浄土」という概念はなくてはならない(宗教的なものは別にして)と思うし、「見守っている」と思うからこそ忘れないように墓前へ行って手を合わせるのだ。こうして亡くなった愛する人がいつも隣にいると思うからこそ、愛しい人を亡くしたという痛手から人は立ち直ることができる。アラン夫人はこのような台詞でそれをアンに伝えるのだ。
 さらにこの台詞の後半部分ではアンの気持ちを分析して上手に解説している。アンの悲しみの一番大きなものはアラン夫人の言う通り「ささやかな喜びを分かつ人がいなくなってしまった」ことによるのだ。だからアンは笑ったり楽しんだりしても、それを心から楽しいと思うことができないのである。それがアンの苦悩を増幅しているのだが、アンはアラン夫人からこの台詞を投げかけられることでマシュウをしっかり供養することの重要性は感じたらしい。だからバラの苗を墓前に植えておいてよかったと思うのだ。
名場面 マリラが過去を語る 名場面度
★★★
 夕刻、アンが牧師館から帰ってくるとマリラが家の玄関に一人寂しく座っていた。そこで明日の事やら昔の思い出話を語り合うアンとマリラだが、話の流れがアンの毛染め事件の思い出になると、葬儀の帰り道でジョーシーがアンの赤い髪の毛について語った事の話題となる。その上でアンは「ジョーシーを好きになるのはやめようと思う、今までそのために涙ぐましい努力をしたがどうしても好きになれない」と宣言すると、マリラはそれはパイ家の人間の宿命だからというような事をいう。この部分は該当シーンに対しての伏線部分だ。
 ジョーシーの話題をきっかけにクイーンに行った仲間達の進路についての話題になる。その流れでギルバートの話題になると、マリラはマシュウの葬儀で見たギルバートを「背が高くてとても男らしくなった」と評し、しみじみと「あの子の父親にソックリだ…」と言って茶を飲む。そしてマリラがギルバートの父との間にあった昔話を始める。とてもいい男でとても仲良しだったこと、村ではマリラとギルバートの父は恋人同士と噂されていたこと、些細なことで喧嘩してそれっきりになってしまったこと、仲直りの機会があったときもツンツンして怒ってしまったこと…そしてギルバートの父は二度とマリラの前に姿を見せなかった、パイ家の人間が悪く言われる宿命があるように、これはブライス家の人間にある「頭を下げるのが嫌だ」という宿命によるものだとマリラは言う。
 ここでアンでなくても視聴者は白百合姫の一件を思い出すだろう、ボートが沈んで遭難したアンを救出したギルバートが、アンに仲直りを申し込んだあの日の事だ。無論視聴者が思い出すより先に、そのシーンが回想シーンとして流される。マリラは構わず続ける、仲直りするチャンスを逃してしまったことを今でも後悔していること、もうみんなマリラとギルバートの父の仲なんか忘れてしまったこと…だがマリラはギルバートを見て遙か昔のその件を思い出し、悪い気はしなかったというのだ。
 マリラの信じられない若い日の話だ、アンじゃないが「マリラにも若い日があったのね」と口に出しそうだった。そしてその内容は今のアンとギルバートの関係そのものだった。ただひとつだけ違うことがある、アンとギルバートについてはまだ間に合う、つまりもう一度きっかけがあればまだ仲直りできるのだ。このマリラの語りは最終回へ向けての伏線なのだろう、アンがマリラの昔話…しかも自分と同じ事をやってる昔話を聞いて、ギルバートとの関係について考え直さねばならないと心から考えたのであろう。この話がなかったらたとえどんなきっかけが来ようとも、ギルバートとは仲直りできなかったはずだ。
  
今回の命名 新たな命名無し
感想  マシュウのお葬式、悲しかったなぁ。本放送時、この葬儀シーンで初めて欧米でのキリスト教式のお葬式がどんな光景なのか知った。みんなで賛美歌を歌ってというのは、やはりお葬式はお線香とお経という家系で育った私には違和感が強かった。といってもこの頃はお葬式はまだ未経験だったけどね、私が生まれる直前に他界した曾祖父母の法事は何度か経験していたので、イメージは掴んでいたけど。
 あとはいろいろな物語で典型的な「愛する人が死んで悲しむ主人公」の物語になる、主人公が楽しんだり面白がったりするのが申し訳ないと感じてしまうというのはこの展開では王道だろう。でも「世界名作劇場」ではそんな物語は意外に少ない、アンネットが母を亡くしたときも、セーラの父が死んだときも、ポルフィが両親をいっぺんに亡くしたときも主人公は忙しすぎてそれどころではなかったから。ポリアンナは親が死んでも「よかった探し」に勤しむから別の意味でこういう展開にはならなかったな。
 アラン夫人のあの台詞の論理は、今年1月の祖母の葬式の時にお坊様が言っていた言葉に近い。言いたいことは名台詞欄に書いたからしつこくなるのでもう書かないが。
 でその展開で最後まで引っ張るかと思ったら、最後の最後で意外なマリラの過去が明かされてちょっとびっくり(名場面)。いや、この話は子供の時に見ているはずなのだがどうも覚えていない。でもこの回までに最終回の大団円に向けての伏線は全部出そろった。う〜ん、先が分かってて見るとちょっとアレだなぁ…。

第49章「曲り角」
名台詞 「(前略)ああマリラ、この一週間ずっと考えていたの。クイーンを卒業したときは、未来が一本の真っ直ぐな道のように思えたわ。でも今はそこに曲がり角があるのよ。角を曲がるとどんなことが待っているのか分からないわ。その先の道は緑の輝きと柔らかい色とりどりの光と影に包まれたものかも知れないし、見たこともない美しいカーブや丘や谷が待っているのかも知れない。でも、私は一番良いものがあると信じてるの。だから全力を尽くしてやってみるわ。そうすればきっとそれだけのものは返ってくると思うの。」
(アン)
名台詞度
★★★★
 グリーンゲイブルズを購入したいと申し出た男が家を見に来たという事実に、アンは自分の決意をマリラに語る。大学へは進学せず地元で教師になること、その上で大学へ行ってやるはずだった勉強を独学で行うということ…それは全て少女期の自分が育ってきたグリーンゲイブルズを守るためであり、自分が一人前になれるよう尽くしてくれたマリラのためである。マシュウが逝き、失明の危機に晒されているマリラを置いてアンは行くことができなかったのだ。
 そのアンの決心を聞いてもマリラは「あんたを犠牲にするわけにはいかない」と言い張る、銀行が倒産して財産を失ったとはいえ、アンは奨学金を獲得したから大学へ行って学ぶことはできるのだ。だがアンは「グリーンゲイブルズを手放すことが一番よくない」とした上で、マリラにこう語るのだ。
 この台詞にはアンの「新しい野望」が上手く表れていると思う。この台詞の裏を返すと「決められたレールの上を走るのは面白くない」とも受け取れる。大学の名前で偉くなるのではなく、自分の力で自分のなりたいものになるのがアンの本来の夢だったはずで、アンは「マリラとグリーンゲイブルズを守る」という自分に課せられた義務の中にこのような野望を見いだすことができたのだ。確かに自分の野望のためにそれは回り道になるかも知れない、だが回り道をすることで同じ目的地に到着した誰もが知らない景色を見ることができる…つまり経験値を上げる事ができるのだ。アンの想像力はそのことを誰よりも知っているからこそ、このように新たな野望を見いだすことができるのだ。
名場面 決心 名場面度
★★★
 マリラが街へ行って高名な眼科医の診察を受け、失明の危険があると知ったアンは態度には出さなかったが狼狽えていた。夜、自室でしばらく深刻な顔で考え込んだと思った後、寝入ったマリラの様子を見てからアンは外へ出る。小川に掛かる橋の上に立って流れる水を見ていると、アンの表情から深刻さは消えて決意に満ちた表情となる。涙を流していたのは未練があったからだろうが、見方を変えることで今の自分がしなければならないことをハッキリ認識し、翌日からそれに向けて行動を開始するのだ。
 無論、その決心とは大学へは行かずこの地に留まってグリーンゲイブルズを、そしてマリラを守るというものだった。アンはバリーからグリーンゲイブルズの農地を借用したいと持ちかけられたことで、マリラが一人でこの家と土地を守るのは到底不可能で、最悪の場合グリーンゲイブルズを失うことになると認識していたに違いない。それを防ぐためには、自分が大学を諦めてこの地に留まるしかない。これまで全くの他人だった自分を引き取って育ててくれたマリラを、一人置いて都会へ行く事などアンには到底出来ない相談だった。いや、今までもそのように悩んだことが無いわけではない。でも46話でアラン夫人に言われた通りに本当に二人に我が儘を言っていいのなら、大学へ行ってしっかり勉強して落第せず一刻も早く立派な学士になって帰る事が二人に対しての最大の恩返しであると決心したはずだが、マシュウが死んでマリラももう昔のように元気なマリラでないと分かればその決心を撤回するのは楽だったはずだ。
 アンが悩んでいたのは気の持ちようである。アンの本心には大学進学への未練があったはずだが、その未練をどう断ち切るかがアンの悩みだったのだ。その答えが名台詞欄の台詞の内容であり、自分に与えられた試練を正面から受け止めて、自分の力で乗り越えようという考え方に自分の野望を切り替えることであった。この見方を見いだしたことで、アン自身も救われたし、もちろんマリラもグリーンゲイブルズも救われることになったのだ。
 この決心がこの「赤毛のアン」という物語の結論であろう。マシュウとマリラに育てられたアンが、その愛情を受け取ってひとつの答えを出したのだ。あとはどのように大団円へ持って行くかだ。
 
今回の命名 新たな命名無し
感想  今回はマシュウの死を受けて、マリラとグリーンゲイブルズに黒い影が広がって行くという殺伐とした展開だ。マリラは失明を宣告され、グリーンゲイブルズにはバリーがアンに農地を借りたいと申し出ることから物語が進む。マリラは失明を宣告されるとレイチェル夫人の勧めもあってグリーンゲイブルズを売却しようと考えはじめ、逆にアンはこの危機を知ると奨学金を辞退して大学進学を断念を決意し、地元で教師になれるよう就職活動を開始する。お互いに相手がこのように動いていることを知らず、グリーンゲイブルズに購入希望者が見に来たことでお互いの行動が露見するという展開だ。
 ここにも素直でないマリラの性格が出ている。マリラはグリーンゲイブルズ売却をアンに打ち明けるべきだったと思うぞ。だけどそう言えばアンが大学進学を諦めると思って言い出せなかったという解釈も出来る。アンは自分の決意をどのようなタイミングでマリラに告げるつもりだったのだろう? アボンリーなりカーモディなりの学校から教師の採用通知が届いたところで言うつもりだったのかな? いずれにしろこれも先に言ってしまったらマリラが気を遣うだろうから黙っていたという解釈も出来るだろう。互いの行動が露見したとき、アンはグリーンゲイブルズを打ってはならないと力説して自分の決意を打ち明ける。これに折れたのはマリラで、どんな気持ちよりもアンとマリラの「グリーンゲイブルズを失いたくない」という思いが強かったのだろう。マリラは「自分がもう一踏ん張りしてアンを大学へ行かせるべきだが、出来ないことを出来るというのはやめよう」と結論を出して二人はアンが見つけた「曲がり角」に入って行くのだ。なんとも深い物語、「わたしのアンネット」考察で何度も書いた言葉をここで書くが、子供の理解を超えているよ。

第50章「神は天にいまし すべて世は事もなし」
名台詞 「ミス・パリー、なんてご親切なんでしょう。私のことをそんなに心配して下さるなんて。私、今度くらい人の親切が身にしみたことはありません。そして傍目から見れば不幸や不運に見えるかも知れないことが、普段分からなかった人の心の奥深い暖かさや強さに触れたり、自分の心を試すまたとない機会なんだということを、つくづく思い知らされました。」
(アン)
名台詞度
★★★★
 日暮れを迎えたグリーンゲイブルズで、アンがレイチェル夫人からアボンリー学校の教職員の希望をギルバートが取り下げたという話題をしていたとき、遠くに見えるバリー家の窓から例の発光信号が光っているのが見えた。ダイアナがアンに送った信号は「・・・・・」、すぐに来いという合図だったのでアンは走ってダイアナの元へ行く。
 ダイアナがアンを呼び出したのはジョセフィンおば様が来ていたからだ。アンが大学進学をやめたと聞いてその真意を問いただそうと、あるいはこれはマリラの差し金に違いないからそれをやめさせようと飛んできたのだ。そうやってまくし立てるジョセフィンにアンは静かにこう語る。
 この言葉はアンがマシュウの死という悲しみから立ち上がり、自分が得たものを明確に示している。マシュウの死でグリーンゲイブルズの将来に暗い影が差したときにバリー家が畑を借りたいと申し出た話から始まって、地元での教職を譲ってくれたギルバートという話もあるが、何よりもこれまでマリラが自分にどれだけ尽くしてくれたかを思い起こし、またレイチェル夫人やアラン夫人など多くの人の尽力があったからこそこの悲しみを乗り越え、自分の役割を認識するに至ったのだ。自分の役割であるグリーンゲイブルズとマリラを守るという決断が理解されて多くの人が協力してくれたのだ。アンは今からでも「やっぱり大学へ行きたい」と言えばまだそれは可能だったかも知れないが、その人々の力を思うと自分を裏切るわけにいかない、つまり自分はこの村の人々の間で「生かされている」という事に気付いたのだ。
 だからアンはジョセフィンが止めようが、ビクトリア女王が止めようがもう今更決断を変えることはない。この決断によって自分の本当の幸せが来ると認識したのだ、それをこの台詞に託してジョセフィンだけでなくテレビの前の視聴者にも伝えようとしたのだろう。この台詞はこの「赤毛のアン」という物語における、主人公アンの到達点だと思う。
(次点)「(前略)いや、まったく200ポンドの体重を2本の足で持ち運ぶのは容易じゃないよ。太ってないというのは大したことですよ、マリラ。感謝しなくちゃね。」(レイチェル夫人)
レイチェル夫人の体重は約90キロ。デブっていうのはこう言うのを言うんだ、わかったかダイアナ? さあ、あやまれ! アーメンガードにあやまれ! (40話の名台詞次点欄参照のこと)
名場面 和解 名場面度
★★★★
 夕方、牧草地の中の街道でアンとギルバートがすれ違う。ギルバートはただ帽子を取って挨拶して通り過ぎようとしたようだが、アンはギルバートの前に手を差し出して握手を求める。「私のために学校を譲ってくれてありがとう、本当にご親切に…」とアンの言葉はちょっと余所余所しいが、「たいしたことをしたわけではない、少しでも役に立てて嬉しいんだ」というギルバートは待ってましたと言わんばかりの口調だ。そしてギルバートは「これで仲直りできるかな? 僕の昔の過ちを本当に許してくれたの?」とアンに問う。アンは顔を赤らめながら答える、「あの日船着き場のところで許していたわ。自分では気付かなかっただけ、本当になんて頑固なおバカさんだったのでしょう。あの時からずっと後悔していたの」と正直に答える。するとギルバートがアンの手を取って言う、「僕たち素晴らしい友達になろうね。二人ともいい友達になるように生まれ付いているんだよ、君はこれまでその運命に逆らっていたんだ…」と一気に語る…こりゃどう聞いても愛の告白だぞ。でもアンもまんざらではないようで、「僕たちきっと助け合えるよ」とギルバートが言えば嬉しそうに「そうね」と答える。そしてギルバートが家まで送ろうと言えば喜んで同行し、それだけでなくグリーンゲイブルズの入り口のところで30分も立ち話をしたと言う。アンはその時のことをマリラに「喧嘩していた5年分の会話を取り戻そうとしていた」と語った。
 この喧嘩も長かったなぁ。私が「世界名作劇場史上最大の喧嘩」としている「わたしのアンネット」におけるルシエンとアンネットの喧嘩は13話から35話の22話でしかなく、劇中での期間も約8ヶ月でしかない(だがこの喧嘩の壮絶さと喧嘩の原因や喧嘩中の二人の関係の変遷
を見ていると期間や話数に関わらずこちらの方が最大と言うに相応しいのだ)。だがアンとギルバートの喧嘩は14話から50話まで36話にも及ぶ長い喧嘩で、劇中でも5年以上の月日が流れるほどのものだった。まぁ「わたしのアンネット」の場合はその喧嘩自体が物語の根幹を成していて、「赤毛のアン」の場合は物語の主題ではなくラストシーンへの伏線でしかないという違いがあるので単純比較してはいけないのだが…アンとギルバードの喧嘩を「世界名作劇場」他作品に例えれば、セーラとラビニアの喧嘩に相当するだろう。喧嘩の内容は全く違うが二人の関係は同じだ(意地を張る側の声優さんも同じだし)。
 アンは「白百合姫」の一件からギルバートを許していたと言うのは事実だろう、本人にその自覚が無く「仲良くなってはいけない」という義務感が先行した結果だ。アンがそれに気付いたのは前々回名場面欄のシーン、アンはギルバードを恨む理由は消えてはいないものの「許すかどうか」とはそれは別次元なのに気付いていなかった。ギルバードが身体を張って遭難したアンを助けたと言うことは、それだけでギルバートに悪気がないという証明だったはずなのに…それを見過ごしたアンはそれからさらに2年、ギルバートとは口をきかずに過ごしてしまったのだ。
 だがこのタイミングで和解したからこそ、二人は今までの事が信じられないほど意気投合したのは事実だろう。5年の月日はアンの「赤毛をバカにされた」という傷を水に流し、後半2年は「せっかく助けてやったのに冷たくされた」というギルバートの恨みをも水に流した。船着き場で二人が和解していたらそれこそ二人は単なる友人で終わっただろうし、さらに二人がライバルとして切磋琢磨し合うという構図も生まれずに二人ともクイーン学院でそれほどの成績を残すこともなかっただろう。
 いすれにしろこの和解によって、日本アニメ史上記憶に残るカップルが誕生したのである。と言っても仲良くしていたのはここから放映時間で数分の間だけだけど。
  
今回の命名 新たな命名無し。
感想  前話までに結論が出て、その結論を最後にオチとして上手くまとめたと思う。無理に感動させるわけでもなくて、アンの到達点とギルバートとの和解を淡々と描き、なんだかまた次がありそうな素っ気ない最終回だったが、上手くオチはついた。「ポルフィの長い旅」の最終回なんか結論が示されただけでオチがついてないから、やっぱ今見直しても締まりが悪いと感じる(物語につく「オチ」と視聴者が想像すべき「将来」は別物だと私は考える)。「ポルフィの長い旅」の制作者には、この「赤毛のアン」の淡々とした最終回や、「南の虹のルーシー」のようなさわやかな最終回をもう一度見直して欲しいと思う。
 淡々としていて「最終回だっ!」という深い感動はないが、最終回まで引き延ばされた物語が落ちるべきところに落ちたのである。最大のものはアンとギルバートの和解だし、些細なところではマリラの視力が奪われ始めていることをしっかり描いているし、レイチェルやジョセフィンのマリラに対する感情などもこの部類に入る。またラストシーンに向けて登場人物か一人一人退場していく演出もよい、最後は家の中でマリラと二人だけのシーンになって、そのマリラが寝てしまえばアンが部屋で一人手紙を書いているというラストシーンが用意されているという演出はこの物語の始まり方と逆でよい。この物語が始まるときは登場人物が一人ずつ出てきたからね。
 この最終回、子供の頃に見た記憶が残っていたのはギルバートとの和解シーンだけだった。後はもう子供の理解を超えているからね。それとマシュウが死んだ辺りから物語が暗くなっているのに、空気を読まずにとてつもなく明るかったトム・ソーヤーによってかき消されていたと言うのもあるけど。いずれにしろこの最終回の凄みは大人になって見たいと分からなかっただろうなぁ。

 以後、本文の前に概要とオープニングテーマの感想等を、後ろに総評とエンディングの感想等を付ける予定です。その前に「ポリアンナ」の分完成させなきゃなぁ。

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