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第41話 「ダニーを診てくれますか」
名台詞 「アンネットと僕が仲直りするのに8ヶ月、8ヶ月もかかりました。でもアンネットと仲直りをしても、ダニーは今でも松葉杖をついて歩いています。全て、全て僕の責任なんです。だから姉さんからキベット先生のことを聞いたとき、僕は夢中で峠へ向かって…」
(ルシエン)
名台詞度
★★★
 ロシニエールへ向かう汽車の中でギベットはルシエンにダニーかどうして足に怪我をしたのかを聞く、対してルシエンはここに至るまでの過程を1分40秒掛けて包み隠さず全て語るのだ。そのルシエンの長い語りの最後の部分がこれ。
 その経緯だけでなくなぜ自分が生命の危険を冒してまでキベットの元を訪ねたかという核心を語る部分でもあるのだ。自分が起こしてしまった事件における自分の責任を痛烈に感じ、その事件の責任を取って全てを元通りにしたいという思いである。アンネットと仲直りしたことでアンネットが起こした「木彫りの馬破壊」という事件については、アンネットがそれによって得た展覧会の一等賞を返上し、その賞品をルシエンと共有するという手段を取ったことでアンネットが責任を取った形でキチンと解決している。しかしその出来事がルシエンにとって、自分が起こした事件は何一つ解決していない事を思い知らされることになったのだ。ルシエンが起こした事件は自分の力では解決不能で、ルシエンには一生続くであろう謝罪と償いの日々が続くだけであった。そこでこの事件を解決できる人間であるギベットの話を聞いて、今こそが自分の事件を解決させる唯一のチャンスであり見過ごすわけに行かなかった胸中を語ったのだ。
 これを聞いたギベットもルシエンの後悔、そして謝罪と償いの気持ち、何よりも苦悩を理解することが出来たのだろう。そしてルシエンにダニーの足が治るように努力することを誓うのであった。
名場面 ダニーをローザンヌへ… 名場面度
★★
 ダニーの診察結果は手術をすれば治るというものであった。その言葉を受けて泣いて喜ぶアンネット、治療費のことを心配するピエール、そして治療費の心配がないと分かると独断でダニーを連れて行っていいと返答するクロード。問題はその後だった、ダニー本人がローザンヌ行きに賛成するのかどうかである。
 そう感じた頃にダニーが現れ「僕汽車に乗って何処へ行くの?」といつもよりハイテンションに訪ねる。まずは汽車に乗れるのが嬉しいのだろう。そしてギベットからローザンヌの病院に入院して足を治すと説明される、ダニーはみんなで行くなら楽しいと思っていたようだが、アンネットに一人で行くという現実を知らされるとダニーは大泣きする。大泣きしながら今のテーブルの下に潜り込んでしまうのだ。皆で必死になってダニーをなだめるが、ダニーの大泣きは止まらない。そこでギベットが一家に声を掛けるが、ダニーの泣き声があまりにも大きくて聞こえない。ギベットが大声を出すとやっと伝わり、アンネットを同行させることを提案する。それを聞いたアンネットは父に承諾を得ると大喜びするのだ。これでダニーも納得する。
 このシーンではローザンヌ編で一番問題となるはずのダニーの我が儘さが上手に表現されており、視聴者も「こんなんで大丈夫かな?」と思うほどダニーの我が儘は酷い。これは姉弟がローザンヌへ向かうための重要な前置きであり、ダニーの我が儘さを見る者に印象付ける役割があるのだ。
 だがアニメではここだけでなくダニーの我が儘を印象付ける伏線をたくさん張っておきながら、その回収に失敗しているようにも感じる。後に研究欄で書く予定だがアニメのローザンヌ編が評価が低いのはその辺りにあるだろう。ここもそんな伏線の一つで、かつ一番重要なものである。
  
今回の
アンネット
VS
ルシエン
  
 ルシエンとギベットを乗せた汽車がロシニエール駅に進入する。「お〜い、お〜い」と手を振るルシエンに気付くと、「母さん、ルシエンが…ルシエンが無事に帰ってきたわ…」とモレルとマリーが泣き始める。その光景を横目にルシエンの名を呟いたアンネットが駆け出す。「ルシエ〜ン!」「アンネット〜! お〜い、アンネット〜!」「ルシエ〜ン」アンネットは踏切のところから汽車と併走する。「ルシエ〜ン、私言いたいことがたくさんあるのに、何言っていいか分からないわ」「ええっ? 何て言ったのアンネット? 汽車の音でよく聞こえないよ」「ありがとう、ルシエ〜ン」…アンネットの心の底からの感謝の言葉に、ようやくルシエンも自分の責任を果たしアンネットと本当に仲直りしたことを実感するシーンだ。
感想  ルシエンが無事にギベットのところに着いた。そしてギベットを連れてロシニエールに戻ってきたことでルシエンの責任は達せられる。だがルシエンが自分で蒔いた種を自分で全て回収し終えるのは最終回手前の47話であるが、ダニー落下事故の責任はこの生命を賭してギベットを連れてきたことで果たされたと考えて良いだろう。そのせいか次の42話が終わるとルシエンの出番は急激に減り、ルシエン派として物語を見た来た者はちょっと残念な気持ちとなる。
 そして後半からはいよいよローザンヌへ向かう具体的な話へと突入して行く。ダニーが我が儘を言い、皆でこれをなだめるという我が儘と甘やかしシーンが展開され、こんな我が儘なガキが入院生活なんてできるのか?という不安を視聴者に感じさせるのだが、それこそがローザンヌ編の存在意義であるはずなのだ。
 しかしここまで3話のルシエンは本当にカッコよかったなぁ。この3話はルシエン主役といっても文句の付けようが無いだろう。ルシエンの行為が勇敢すぎたから、アンネットなんか何でダニーが歩けなくなったのか忘れているぞ、絶対に。それよりルシエンが履いていたスキーはどうなったのだろう? もひとつ言うと12話で出てきたハンターがモントルーのホテルで支配人をやっていたなんて考えちゃダメだからね!
研究 ・お医者さんをむかえて
 今回も原作を踏襲した話で、原作2章分の話である。ルシエンがモントルーのホテルに到着して、キベットにダニーの足を診察するように懇願して全てを打ち明けるまでが「愛はあらしより強い」という章で、ギベットがロシニエールに来てペギンの山小屋に行くまでの話が「お医者さんをむかえて」という章である。
 原作ルシエンは朝の5時半にギベットか止まっているホテルに到着する。ギベットはたまたま早起きをし、それに気付いたホテルの従業員がギベットの部屋を訪れてルシエンのことを話すのである。ギベットが半信半疑でルシエンが待つロビーへ行ってみると、ルシエンは真っ青に顔をして倒れていたのだ。後の展開は原作とアニメはほぼ同じだが、原作ではマリーが朝一番の汽車でホテルにやってきてルシエンの無事を確認するシーンが入っている。それとルシエンがギベットに全てを打ち明けるのは原作の場合はホテルの部屋で昼食を取りながらで、しかもルシエンは途中から語ることが出来なくなってこれを見たギベットがルシエンのこれまでの苦悩を知って、「神がダニーの足を治そうとしている」「神様は夕べのルシエンを特別に守って下さった」と諭す。そして「全き愛」の話となり、最後は二人で神に祈るのだ。ここでルシエンが決死の峠越えを通じて神の存在を信じたと言うことが明記されている。
 ロシニエールではピエールが駅までギベットを迎えに行く、高名な医者が来ると言うことで一家はよそ行きの服でギベットを出迎えたのだ。さらにバルニエル家での診察にはルシエンも立ち会っている。診察の様子やダニーの我が儘については原作とアニメは全く同じ、だがダニーの我が儘を見たギベットは真面目な顔で「君はとっても甘やかされているようだが、私の病院では騒いだりわめいたりしないで言われたとおりにしなければならない」とダニーに言い聞かせるのである。その後ギベットはルシエンを家まで送り、モレルに「勇ましいお子さんをお持ちですね」と声を掛けるのだ。この言葉を聞いたモレルは泣く。そして「ルシエンの友達のおじいさん」についてマリーに尋ね、マリーに道を教えてもらって一人でペギンの家へ向かうのである。
 アニメではルシエンが決死の峠越えで神の存在を信じるようになったという要素がきれいサッパリ省かれていて、結局はあの峠越えにダニー転落事故の責任を取るというもの以上の意味を持たなくなってしまっている。物語の展開はこちらの方が分かりやすいが、ではなんでルシエンのためにあれほどの困難な物語をよういしたかという点で考えるとちょっとやり過ぎになってしまう。原作ではアンネットとルシエンが交互に転機になる事件を起こし、交互にその責任を取る行為を行うことを通じて神の存在を信じるようになって成長して行くという物語であり、吹雪の峠越えはそのルシエン側の出来事なのだ。まぁアニメのルシエンの成長は、ここまでの苦悩で描かれてきたからそれでいいとは思うけどね。

第42話 「ペギンじいさんの秘密」
名台詞 「それからローザンヌは大きな街だし、先生のお宅も立派なお家だと思う。お前が今まで見たことも無い素敵な物がいっぱいあると思うけど、決して羨ましいと思ったり、このロシニエールのような田舎の生活に不満を持ったりしないようにね。」
(クロード)
名台詞度
 大都会、ローザンヌへ向かうアンネットに心構えを語るクロード。そのなかで最も印象に残ったのはこの部分、アンネットが見たことも無い都会の景色や大きな屋敷に接したときに余計な虚栄心が芽生えてこないかというクロードの不安である。アンネットは「ここが大好きなんだもの」として田舎の生活に不満を持ったりしないと答える。
 ここまで「わたしのアンネット」に描かれてきた人々の生活は決して華やかでなく、田舎で今日を精一杯に生きている人々だ。そのような人々が都会の光景を目にしたらやはり今までの自分は何だったのだろうと感じる可能性は高いのだ。アンネット位の年頃ならなおさらで、その気持ちが家族との遊離を起こしてアンネットが正しい道から外れてしまう可能性があるのだ。
 だからこそクロードはこの点について先に釘を打っておいたのだ。まぁローザンヌでのアンネットはダニーのことで頭が一杯だったから、この心配は取り越し苦労になるのだが。
名場面 父子の再会 名場面度
★★★★
 ルシエンが昨夜のことを報告するためにペギンの元を訪れる、ところがルシエンから少し遅れてペギンの家へ向かう人影にペギンはすぐに気付いた。アンネットがギベットを連れてきたのである。視聴者は前々話でルシエンがギベットの名を口にした瞬間のペギンの様子が記憶に新しいところであり、ここがペギンとギベットの関係についての謎が解けるシーンだと思わず身を乗り出して見てしまう。
 ペギンとギベット、それにギベットにそばにいて欲しいと言われたアンネットとルシエンが家の中に入る。20秒の沈黙を置いてギベットがルシエンから受け取った金について返すと言い出すのだ、ダニーの足はルシエンの勇気に感動したのでただで治療すると。そしてこの大金をどう手に入れたのか疑い出す、そこでルシエンがその金はペギンが一生懸命働いて貯めたものだと弁護するのだ。それを受けて「あなたが私たちと別れてからどんな暮らしをしていたのか…」と語り出すギベット、「へっ、二人は知り合いなの?」との思いに駆られて目を見合わせるアンネットとルシエン。
 「もうこれ以上、お互いに知らないふりをするのはやめましょう。私たちはお互いが誰なのかよく分かっているのですから。私はあなたを迎えにここにやって来たのですよ。お父さん」…ギベットの言葉を聞いて驚くアンネットとルシエン。さらにギベットはこれまでの父への思いを語る。そして自分の家族と暮らして欲しいと、ギベットは父に語るのだ。涙を流すペギン、もらい泣きをするアンネットとルシエン。
 長く離れていた父子が再会しただけでない、父の罪を息子が許した瞬間である。こうして物語はペギンの昔話としてなんの救いもなく終わると思っていたペギンの罪まで精算されてしまうのである。これまでルシエンに償いというものを教え、それを体現してきたペギンがそのルシエンの目の前で息子から許され、償いから解放されるのである。ペギンはお金を盗んだ相手には役に立てなかったが、ルシエンの役に立つことで息子との再会を果たすことになり、償いの日々に終止符を打つことになったのである。
 しかし、こんな方向にまで話を広げてしまうルシエンはやっぱ主人公以上に物語を進める力があるよな〜。
  
今回の
ルシエン
VS
マリー
 
 夕食後のひととき、モレル家では一家団欒のまったりとした時間が流れていた。「え〜っ、姉さん帰っちゃうの?」「そう、アンネット達と一緒の汽車で帰るつもり」「なんだ、もっとゆっくりして行けばいいのに」「そうはいかないよ、ルシエン。マリーには仕事があるんだから。それじゃモントルーまではアンネット達と一緒なんだね」「うん、アンネット達はモントルーで汽車を乗り換えて、ローザンヌへ行くことになると思うわ」「ふ〜ん、汽車を乗り換えるの? ローザンヌってそんな遠いところなのか」「アンネットがいなくなるんで寂しいんでしょ? ルシエン」「えっ、あっ、そ、そんなことないよ。アンネットがいなくたって、僕平気だよ」「嘘おっしゃい、寂しくて寂しくてたまらないって顔に書いてあるわよ」「えっ、あっ! 姉さん!」「ハハハハハハ…」「…えへへへ」…真っ赤の顔のルシエン最高。
感想  ペギンの秘密というか、ペギンとギベットの謎が明かされる。なんで前々話でペギンがギベットの名を聞いた時に表情が変わったのか、なんで「借りた金を返す」だったのか…よく考えてみれば21話でペギンの二人の息子のうち一人は医者になったと語る伏線があったんだ。とこの時に思い出した人は非常に記憶力のいい人だ。私は忘れてたんで、ハイ。
 そして後半はいよいよローザンヌへの旅立ち、ルシエンの行動の結果はしばらくの間のアンネットとルシエンの別れだ。でも2ヶ月で再会できるんだからこの別れであんなに盛り上げなくともいいのに。アンネット達が帰ってくる前にルシエンも見舞いへ行くんだからさ。
 で結局ダニーはクラウスを連れて行ってしまうのね。その時のアンネットの怒り方が大げさなのはちょっと…いちおう前の晩のクロードを見てしまったのが伏線だったのかな? それは駅での別れで回収されたと思っていたから油断した。いずれにしろギベットの物わかりの良さはもはやネ申レベルだ。
研究 ・アンネットとダニーと子ネコの出発
 この辺りは忠実に原作をなぞっている。ペギンとギベットの再会、そしてアンネットとダニーの旅立ちと物語は目まぐるしく展開して行くのはアニメも原作も同じだ。
 ペギンとギベットの再会については展開はアニメと原作で同じだが、違うのはギベットは一人でペギンの元を訪れた点である。アニメにあるようなルシエンがペギンのところへ行くシーンは無く、ギベットもマリーがペギンの家の場所を教えてくれたので一人で来たのである。それと原作では淡々と父子が再会したことだけが描かれ、アニメのようにペギンが息子に許されたという描かれ方はされていない。
 その頃、アンネットはルシエンを見舞っていた。そして峠での出来事を少しでも多くルシエンから聞き出そうとしていたが、ルシエンはそれを上手く話すことが出来ないのだ。そしてまた「全き愛」の話題となり、アンネットはルシエンは心の扉を開きその心の中にも神が宿った事を知るのである。
 その後、アンネットはルシエンの家からの帰り道で自分がダニーと共にしばらく遠くの街へ行ってしまうこと、今日がその前の最後の夜であることに気付いて家へ向かって駆け出す。家に着くとクロードに抱きついて泣くのだ。クロードはこれに明るい声で対応するが、心の中ではアンネットやダニーとしばらく別れてしまう事に狼狽していたのだ。
 そして出発だが、汽車に乗る時にダニーは父やクロードに抱かれるのを非常に嫌がった。汽車が動き出してしばらくすると、ダニーが着用していたマントが動いているのにアンネットは気付いたのだ。見てみると原作クラウスの子ネコが一匹、マントの中にいたのだ。それ以外はアニメと同じである。
 大きな違いは前の晩のアンネットとクロードである。前述のようにアンネットはクロードに抱きついて泣くが、その際にクロードは聖書の一節を教えるのだ。これが名台詞欄に該当する部分になるだろう。その聖句は「愛は寛容であり、愛は親切です。また人を妬みません。愛は自慢せず、高慢になりません。」というもの。つまりクロードは都会で芽生えそうなアンネットの虚栄心を、聖書の言葉で抑えようとしているのである。この辺りがキリスト教文学らしいが、アニメでは宗教色を薄めるためにあのような言い方にされたのだろう。しかもアニメのクロードは全部言い切らないうちにダニーに阻止されちゃってるし…。

第43話「希望の町ローザンヌ」
名台詞 「何してるかなぁ? アンネット。」
(ルシエン)
名台詞度
★★
 夜、木彫りをしながらルシエンはこう呟く。名場面欄も参照して欲しいが、ここロシニエールにも不安を感じている人間が一人いるのだ。ルシエンの不安はアンネットがしばらくいなくなってしまうことだけではないだろう、二人がローザンヌでうまくやっているかということをアンネット達が帰って来るまでずっと心配しながらの日々が続くのだ。さらに自分の行為で本当にダニーの足は治るのかという不安も、漠然と抱えているに違いない。
 その不安と対峙するために取った手段が木彫りである。ルシエンはまた自分のこんどは不安な気持ちを木彫りに託すのだ。
名場面 寝室でのアンネットとダニー 名場面度
★★★
 一日が終わり、姉弟はローザンヌで最初の夜を迎える。最初は電気をつけたり消したりして遊んでいたダニーだが、姉に早く寝るように言われるとこれまで新しい生活にはしゃいでいたダニーが初めてここに来た不安を口にする。「僕の足、本当に治るのかなぁ?」。
 12秒間の沈黙の後にアンネットは「治るわよ」とありきたりの返事をするのだが、この12秒間の沈黙にダニーの不安だけでなくアンネットの不安も表現されている。一日を終えて二人きりになったところで、やっと二人が抱えている不安が表面化したのだ。
 ダニーの不安は自分が口にした「足が治るのか?」ということだけではないのはいうまでも無いだろう。翌日から始まる病院での生活もそうだし、ギベット家の人々と触れることによって、やっと自分が姉以外の家族や自宅から遠く離れた土地に来たことを実感するのだ。そんな何もかもが今までと変わってしまう事に対する全てがダニーの不安であり、その不安が自分の足が治るのかという疑問になり、口に出てきた言葉になったのだろう。
 アンネットはギベット先生に任せればダニーの足は治るとは思っている、このシーンでダニーに語った事は嘘ではないだろう。アンネットの不安もやはり故郷を遠く離れての今までと全く違う生活という点もあるのだが、それ以上に自分がダニーを支えていけるのかという不安もあるだろう。ただし後者の不安はまだ漠然としたもので、今は故郷から離れて寂しいことで頭が一杯であることが描かれている。だがその不安を打ち消すように、ローザンヌの夜景と遠い地にいるルシエンに「頑張るわ」と誓うのだ。
 
今回の
アンネット
VS
エリザベス
  
 ギベットの長女エリザベスに案内されて部屋の入り口まで来たアンネットとダニー、「ここよ」「ありがとうエリザベスさん」「別にお礼を言われるほどの事じゃないわ」と壁に寄りかかりそっぽを向くエリザベス。「疲れてるんでしょ? 早く入りなさいよ」「え? ええ」アンネットはエリザベスの態度に戸惑う。扉を開きアンネットとダニーはその居心地の良さや窓からの景色の良さに素直に感動するが、そこへエリザベスが横やりを入れる。「あなたたち、町へ来たのは初めて?」「ローザンヌは初めてだけど、モントルーには言ったことあるわ」「モントルーなんてローザンヌの半分もない町じゃないの。そんなところへ行ったって、自慢にはならないわ。まあいいわ、田舎でどんな生活してたのか知らないけど、これからは一緒に暮らすんですから早くうちの生活に慣れるようにしてちょうだい」そう言い残して立ち去るエリザベス。エリザベスのあんまりな言葉に顔を見合わせるアンネットとダニー。「気にしなくてもいいよ、お姉さんはいつも威張ってるんだ。僕なんかしょっちゅう意地悪されるんだよ」と気を使うエリザベスの弟マーク、こんな少女がいる家でアンネットはやっていけるのか? エリザベスの性格がアンネットが一番不得意とするタイプなんだよな〜。
感想  アンネットローザンヌ到着で、ようやくルシエンが主役の物語が幕を閉じたと私は考える。だがここからしばらく主人公アンネットがローザンヌにいる理由そのものがルシエンによって作られた物で、やはり物語がルシエン主導であることは動かせないし、何よりもここからはアンネットとダニーが主役とは言え二人はルシエンの行動に結果その立場を得たのであって、やはり全ての物語はルシエンの手のひらの上で動いているのである。
 前半はアンネットとダニーとクラウスとキベットと、途中まではマリーを含めての旅を流しているだけで物語も全く進展がない部分。後半もギベット家を紹介するような展開でやっぱ物語は進まない。これまでの物語の進み方で慣れてしまうと拍子抜けしてしまう回でもある。
 ただ物語の要所にアンネットやダニーが不安な表情を見せるシーンが点在している、たとえばアンネットについて最も顕著なのは「今回のアンネットVSエリザベス」欄に書いたシーンだし、ダニーについてはウェルナーとの初対面シーンがこれに当たるのだ。そして最後にその不安を噴出させて終わるという展開で、二人のローザンヌでの生活を不安の多いものとして描いた。次回から二人の生活がどう転ぶのか、こんどはエリザベスと大喧嘩か?と視聴者も不安になるだろう。
 でも「わたしのアンネット」もこの回入れてあと6回よ、ここで新キャラクターをたくさん出してどうする…? 先に言ってしまうが今回出てきた新キャラ、今回の再視聴まで全員忘れてた。
研究 ・「ローザンヌ編」の意味
 いよいよアンネット達がローザンヌ入りした。アンネットとダニーの二人が慣れない都会での生活と、さらにダニーの入院生活という苦しみを乗り越える展開だ。
 このローザンヌ編、インターネット上で「わたしのアンネット」の評価を拾ってみるとものすごく評価が低いのである。某巨大掲示板ではローザンヌ編自体の存在自体を否定する書き込みが多く、ただ単にアニメが原作での意味を追求しないままなぞったに過ぎないという声が多いのである。
 原作のローザンヌ編はアニメで描かれているようなアンネットとギベット家の人々との関わりは殆ど描かれておらず、ダニーの入院生活に比重を置いている。そしてダニーが手術後の苦しみを経て成長し、またその中で病室に掛かっていた一枚の絵がきっかけで原作ダニーは神の存在を信じ、心の中に神を宿すことになるのだ。つまり原作のローザンヌ編はダニーが神を信じる課程が描かれているのであり、それまでのダニーが我が儘な描写もここで成長して我が儘ではなくなるという点を描くために存在しているのである。
 「わたしのアンネット」というアニメでは、製作した側がこの原作でのローザンヌ編の存在理由をアニメでキチンと再現しなかった点が痛かったと私は考える。アニメのローザンヌ編は、アンネットがダニーに世話やギベット家の人々(特にエリザベス)との関わり合いを通じて成長するというテーマにしたかったようだが、この点でも中途半端に終わってしまったと考えざるを得ないのである。アンネットはローザンヌ編に入るまでの物語でかなり成長して変わっており、成長の余地は無かったとまでは言わないがもうアニメで描ける部分の成長はしてしまったと言えるだろう。ローザンヌ編ではギベットの長女エリザベスが素直になるという展開もあるにはあるが、そんな最後の数話にしか出てこない脇役の成長を描いたところで何の意味があるというのだ? ダニーにしてもこれまでさんざんダニーの我が儘という伏線を入れたにもかかわらず、ローザンヌから戻ったダニーの我が儘が治って成長したという描写が全くされていない。何よりもアニメのダニーは11話で神を信じて心の中に神が宿ってしまったために、原作通りにローザンヌ編でそのような性格へと変化して行くという風に描けなくなってしまったのだろう。
 またローザンヌ編が目立たない最大の理由として、アンネットがローザンヌ入りする直前までの展開が派手だったり迫力に満ちた展開だったりした点も痛い。これは原作にも言えることなのだが…やはりダニーが崖から落ちたり、ノアの方舟や木彫りの馬が破壊されたり、雪の中でアンネットが凍死しかけたり、ルシエンが生命を賭して吹雪の峠を越えたりという展開の後に来る物語が、どちらかというと平坦な物語であったら目立たないのはやむを得ないと思う。「わたしのアンネット」の次回作「牧場の少女カトリ」が視聴率で大苦戦し、私の印象にも残らなかった理由はこんな迫力のある展開の物語の次だったからだろう。その次が「小公女セーラ」だったのも「牧場の少女カトリ」の印象が薄い理由の一つでもある。
 ローザンヌ編…つまり「わたしのアンネット」そのものが友情物語として幕を閉じることになるが、アニメでのローザンヌ編の一番のテーマは威張り屋のエリザベスとアンネットが時間を掛けて仲良くなり、そして友情の大切さを学ぶというものだ。だがそれを描くには残り回数が足りなさすぎた、せめてあと2話、50話まで枠があればアンネットとエリザベスが派手に喧嘩するなどしてこの点をじっくりと納得のいく形で描写出来ただろう。描写は中途半端になってしまったが、ローザンヌ編も「わたしのアンネット」では欠かせない展開の一つであり、上記のような批判はしたがその存在を否定するつもりはないのでこれまで通りの考察を続けて行く。

第44話「ギベット家のひとびと」
名台詞 「じゃあ言うわ。あなたがうちへ来るってお母さんから聞いたとき、私はそれほど賛成じゃなかったの。でもお父さんが決めたことだし、可哀想だと思って黙っていたのよ。あなたがとても大人しくっていい子だっていうから。確かにその通りだわ、でもお利口で世話好きなのは結構だけどやり過ぎないでね。そうでないと私、本当に嫌いになっちゃうから。」
(エリザベス)
名台詞度
★★★★
 「今回のアンネットVSエリザベス」欄のシーンを受け、帰宅したアンネットにエリザベスが辛く当たる。「アンネット」「はい、何でしょう? エリザベスさん」「私にやたらと声を掛けないでよ、迷惑だわ」「えっ?」「だいいち、私の友達に説明のしようがないじゃないの。これからは、私にあまり関わらないでちょうだい。いいこと? 分かったわね」あまりの言葉にアンネットは目を見開いて驚く、そして立ち去るエリザベスを追いかけ「待って下さい。エリザベスさん、私が嫌いなんですか? そうならそうとハッキリ言って下さい」と言う。その返答がこれだ。
 この台詞にエリザベスの性格が出ている。どんな性格だって? それはこの後ウェルナーが言う「根はとても優しい子」という部分だ。それはどの部分かというとこの台詞の最後、「嫌いになっちゃう」と言っているのであって「嫌いだ」と言い切っていない部分だ。つまりこの段階のエリザベスはアンネットを信用しているわけでも拒否しているわけでもなく、距離を置いた上でアンネットが自分の友として相応しい人物かどうかを見極めようとしている段階なのだ。ただその過程で意地悪な言葉や態度が出てしまい、いやそれは距離を置くためにわざと言っているのかも知れない。さらに自分が威張ることで相手には絶対に屈しないという事を先に誇示している…どっかで見たような性格の娘だな、アメリカの石油王の一人娘の…。
 無論アンネットにはエリザベスがそのような考えで自分に接しているとは考えられない、純粋に自分の何処かが気に入らないと思い込んでいるようだ。アンネットはこういう接し方をしてくる人間が一番苦手のようで、アンネットの性格から見てもこのタイプはそりがあわない可能性があると思う。それでも心の中に神を宿しているアンネットは何とかエリザベスと仲良くやろうという点に於いては挫けないのだ。次点欄も参照のこと。
(次点)「アンネット、お嬢さんのことを悪く思わんでほしい。根はとても優しい子なんだから。」(ウェルナー)
…上記名場面本欄の台詞を受けたアンネットに執事のウェルナーが上手にフォローを入れる。この男が良いヤツだと確定するはこの台詞だろう。アンネットもそんなウェルナーの言葉に明るくなり、エリザベスと仲良くなれると信じるようになる。
名場面 アンネットのホームシック 名場面度
★★★
 夜、寝室で一人になって家へ手紙を書くアンネット。手紙を書いているうちに急に父やクロードが恋しくなる。それだけではない、ダニーと一緒でない夜もアンネットにとって初めてなのだ。そしてロシニエール村の風景がまぶたに浮かび…アンネットはベッドに突っ伏して泣き始めるのだ。村へ帰りたい、みんなに逢いたいと。
 その泣き声を偶然部屋の前を通りかかったギベットの夫人であるエレナが聞きつける、アンネットがホームシックにかかっていることを理解した彼女は、まだ赤ん坊の末っ子クレーヌを連れてアンネットの部屋に入り、アンネットの前にその赤子を寝かせるのだ。エレナはアンネットがダニーを育ててきたという事実を確認し、アンネットはエレナが自分の母に似ていることを打ち明ける。そしてエレナはここにいる間は自分を母と思って欲しいと言うのだ。
 この優しい言葉にアンネットの表情は明るくなる、そしてクレーヌを抱いたアンネットは勇気が湧いてホームシックから解放されるのだ。
 いやぁ、なんて優しい奥様なんだろう。アンネットには自分に対して優しくしてくれる人、何よりも勇気を与えてくれる人が必要だったのだ。この夜の段階ではアンネットに親身になってくれそうな人はローザンヌには見あたらない…それらをエレナは瞬間で感じ取ったのだろう。そしてこのような優しい行為でもってアンネットに勇気を与えたのだ。アンネットが赤ん坊を抱けば、ダニーが赤ん坊だった頃…つまり母を失いつつもダニーを育てるために必死だったあの頃を思い出して勇気が湧くに違いないと判断したのだろう。
 さらにエレナの母と思って欲しいと言う言葉は、エレナがアンネットに親身になると言う宣言である。こうしてアンネットは何よりもローザンヌで生きて行くための自信が湧いたに違いない。ホームシックとそこから短時間で立ち直るアンネット、そしてそのためにどうすればいいかを的確に判断してその通りに行動したエレナ、これがこの名場面を演じたのである。
  
今回の
アンネット
VS
エリザベス
 
 ウェルナーに連れられて病院から帰るアンネット、橋のところでエリザベスが友達の会話しながら歩いているのを見つける。「エリザベスさん。今お帰りですか? 私も病院の帰りなんです」その言葉に横を向くエリザベス「誰? エリザベス」と尋ねる友人、それに答えるように「昨日からギベット先生のお宅にお世話になっているアンネットです」とアンネット。「親戚の子?」と聞く友人に「そうじゃないわ。さ、行きましょ」とだけ言うとエリザベスは走り去ってしまう。慌てて追いかける友人達。取り残されるアンネット。「エリザベスさんはなんであんなに私を嫌うのだろう? アンネットにはエリザベスの気持ちがよく分かりませんでした」とアメリア先生の解説が入る。エリザベスは町中で出会ったアンネットを完全無視、アンネットはこのエリザベスの態度にショックを受ける(名台詞欄につづく)。
感想  ダニーが入院し、アンネットのローザンヌでの日常生活がスタートする。前半はダニーが入院して病院でいろいろとあり、今まで離れたことがなかった姉弟が離れるというシーンを描いた。そして後半はアンネットとエリザベスというアニメ版ローザンヌ編の本編とも言える展開と、アンネットのホームシックを描いた。なんか1話に色々詰めすぎた感はあるが、これだけ詰め込んでもひとつも次話に持ち越していないのが「愛の若草物語」との違いだろう。「愛の若草物語」だったら、アンネットがベッドに突っ伏したところで「つづく」だっただろうなぁ。
 あ〜、それにしてもルシエンが出てこない! とルシエン派の人々が叫びそうになったところでバルニエル家のシーンになるのはタイミングが良すぎる。しかもルシエン、家族の一員みたいな顔で家に出入りしちゃっているし。
 どうでもいいが、今回の物語のどの辺りが「ギベット家のひとびと」なんだろう? このサブタイトルは前回の方が合っているような。私なら今回のサブタイトル「入院」とかにするなぁ、「わたしのアンネット」はたまにサブタイトルと物語がズレている回があるように感じる。
研究 ・ダニー入院
 いよいよダニーが入院する。この辺りの展開は原作を踏襲しているが、原作ダニーはローザンヌに着いたらギベット病院に直行してすぐ検査を受けて入院となっており、ギベット家に泊まっていない点が相違点である。またダニーが病室で松葉杖を使って跳ねただけで子供達から歓声が上がり、それだけで同室の子供達と仲良しになってしまった点もアニメと原作では若干異なる。入院して一週間後に手術という点も原作から引き継いでいる。
 アンネットがホームシックとなるシーンも原作を踏襲しているが、原作アンネットは窓の外の景色があまりにも違うことでロシニエールが恋しくなったとある。ギベット夫人(原作ではマーセという名前である)が赤ん坊を連れてくることで慰める展開は同じ。だが自分を母親と思って欲しいというシーンはアニメだけであるが、こちらの方がなんでアンネットが慰められたのかという点が上手に画かれていると思うが。
 原作ではエリザベスが関わる展開は全て無い、エリザベスそのものがアニメオリジナルで、原作にはエリザベスに該当する少女は出てこないのだ。こうして「わたしのアンネット」ではローザンヌ編という展開こそは原作と同じ物の、そのテーマが原作とは全く違う物になっているのだ。

第45話「手術の日」
名台詞 「大丈夫だよ、今までダニーはどんなときでも神様に見放されたことはなかったんだから、今度だってきっと上手く行くに決まっている。大丈夫、大丈夫。」
(クロード)
名台詞度
★★★
 ダニーの手術が行われているその頃、バルニエル家をルシエンが訪れた。その最初にルシエンがクロードに「無事に終わると良いですね」と声をかけた返事がこの台詞だ。
 クロードの言うとおり、ダニーは谷に転落するという不幸が一つだけあったものの、他のことでは神に守られてきたというラッキーな子供であることは間違いないだろう。あれだけの谷に転落して一命を取り留めたこと、家出して洞窟で遭難してもすぐに助けられたこと…クロードはダニーの心の中に既に神が住んでいることを見越した上で、そんな子供が神に見放されるわけはないとルシエンに言うのだが、注目すべき点はこの台詞の最後だ。
 「大丈夫」という言葉を2回繰り返しているのだが、これはクロードがルシエンに対して言った言葉ではなく、自分自身に言い聞かせている言葉に違いない。このような考えでもって口では神を信じ、ダニーは大丈夫と言い切ったクロードであるが、やはり不安なのだ。だがクロードには自分が年長者であり自分がしっかりしないと皆が不安がるという自覚があったのだろう、自分で自分を奮い立たせながらルシエンの前では努めて不安を隠すように努力していたのだ。そんなクロードの一面がこの台詞から見えるのだ。
 ルシエンはクロードのこんな一面に気付いたのだろう、しばらく無言のままクロードを見つめるといたたまれなくなって牛小屋の方へ行くのだ(名場面欄につづく)
名場面 ルシエンがバルニエル家を訪れる 名場面度
★★
 名台詞欄にも書いたとおり、ダニーの手術の日にルシエンがバルニエル家を訪れた。いつもは気丈なクロードが心の奥底では不安を感じるシーンを見てしまい、いたたまれなくなって牛小屋の方へ行く。ピエールを手伝おうと声を掛けようとしたが、そこにあったピエールの姿は仕事をしている憧れの男の姿でなく、壁に寄りかかり遠くを見つめ息子の手術を心から心配する父親の姿であった。「頑張れダニー、頑張ってくれ」と呟くピエールの姿に、ルシエンもいたたまれなくなってピエールに声が掛けられなくなってしまう。そしてルシエンも気付くのだ、自分自身がとても不安であることに…そしてバルニエル家の皆が同じ思いであることに。
 さらにルシエンにはこれも自分が起こしたことの結果であるという責任感みたいなものがつきまとってきただろう。ダニーの足が完治して帰って来るまでに怒ることは全て自分が起こしたことなのだと感じ、また自分の罪を感じたに違いないのだ。さらに自分が起こしたことのために今現在ダニーが手術という苦しみに耐えていて、もしも手術が上手くいかなかったら…という恐怖もルシエンは感じていたに違いない。ルシエンの苦しみはダニーが完治して帰って来るまで続くことを示唆しているのだ。
 その最後の部分の恐怖を、クロードとピエールも感じているのであり、その辺りの描写がよく出来ていると思う。名台詞欄に挙げた部分も含めての名場面であり、名付けて「バルニエル家の一番長い日」と言ったところだろう。だがこのような苦しみを共有できることで、ルシエンはこの家に家族同然のように出入りすることができるんだろうなぁ。
  
今回の
アンネット
VS
エリザベス
 
 ダニーの手術が長引いて不安になったアンネットは病院の廊下で独り言を言いながら時が経つのを待っていた。そこにエリザベスが登場、「アンネット」「エリザベスさん…?」「お母さんから頼まれたの、果物とパンよ。それからダニーの着替えも入っているわ」「…」「早く受け取ってよ、私帰るんだから」「あっ、は、はい、すいません。わざわざありがとうございました」僅かな間を置いて立ち去ろうとするエリザベス、だが立ち止り振り返る「ダニーのことなら心配ないわ。お父さんに任せておけば大丈夫だから。あなたも無理しない方がいいわよ。あなたまで病気なんかになったらダニーが悲しむでしょ?」「ありがとうございます、エリザベスさん」その素直にアンネットの口から出てきたお礼の言葉にエリザベスは一瞬だけ立ち止まり、そして去って行く。「ありがとう、エリザベスさん…」アンネットは廊下の角に消えたエリザベスに向かって再度小さな声をお礼を言う…なんだ、エリザベスいいヤツじゃん。きっとエリザベス、家を出てくるときにウェルナーからパンと果物が入ったバスケットを奪い取ってきたに違いない。
感想  この手の物語で手術、しかも物語全体から見れば終盤での手術と言うことはもうその結果は分かりきっているわけで、アニメにしろドラマにしろ小説にしろこんな場合に注目すべき点は手術の内容や結果ではなく、それを取り巻く人々の物語であろう。
 「わたしのアンネット」ではそれを「ルシエンとバルニエル家の人々の不安の描写」と、「アンネットとエリザベスの心理的接近」というふたつの展開で描いた。前者の方はここまでの展開を見ていれば当然出てこなければならない展開で、特にクロードやピエールが不安がっているシーンだけでなくそこにルシエンが出てきたのは見ている方が色々と想像できていいかも知れない。ちなみに原作では手術のシーンはダニーが興味深く手術室に入ったことなど僅か数行しか描かれておらず、アニメでこの部分を膨らましてダニーを取り巻く人間模様を描いた点は評価に値すると思う。
 そして後者の展開であるがこれは今回の全編を通じて描かれており、手術が決まって涙を流すアンネットをエリザベスが目撃し、さらにアンネットのことを母から聞かされて表情を変えた時点でアンネットとの関係が変わりそうだと期待させてくれるところから始まる。だがそこはやはりエリザベス、まだアンネットに素直な態度で接しられないが気持ちは通じる台詞を吐いた点では変化が描かれた。詳しくは「今回のアンネットVSエリザベス」欄を参照だが、このエリザベスの変化は視聴者に色々な想像をさせてくれる。その一例を上に記したつもりだ。
研究 ・ 
 

第46話「再会」
名台詞 「え〜と、25×12は、2×5が10で2×2は4だからさっきの10を持ってくると合計は…50だわ。え〜と、それから。あ〜あ、元々私は算数が苦手なんだわ。どうして算数なんかやらなきゃいけないのかしら?」
(アンネット)
名台詞度
 アンネットの算数嫌いがここで暴露される。いや、ここまでにも何度か出てきたような気はするがそれは全て7歳編だったような記憶があるぞ。それが13歳になっても治ってないのだ。つまりアンネットはルーシーに続いて2作連続で算数嫌いの主役であることが確定したのはここであろう。
 この算数が苦手だと独り言でいう台詞は面白おかしく、あのエリザベスですらそれを聞いてくすくすと笑うほどである。でもここでのアンネットの計算方法は的確で、特に苦手には見えないんだよな…。それは算数問題を間違えるのが定番だったルーシーを見慣れたからかなぁ?
名場面 アンネットとエリザベス 名場面度
★★
 ある雨の日、アンネットは傘を持たずに学校へ行ったエリザベスを迎えに街へ出る。街角でエリザベスを見つけたアンネットは、通りを走ってきた馬車に気付かずに道に飛び出し、馬車とぶつかりそうになって転倒する。そこへアンネットの名を叫びながら掛けて来るエリザベス。
 今までのエリザベスならアンネットをバカにする言葉の一つでも掛けそうなシーンだが、「アンネット、しっかりして!」「エリ…ザベスさん?」「あなた大丈夫? 何処か痛くない?」「ええ、大丈夫です。ちょっとびっくりしただけです」「じゃ立てるわね」「はい」と心の底からアンネットを心配し、アンネットが立ち上がるのに手を貸すのだ。それだけではない、飛び出してきたことを叱る馬車の御者に「おじさん、この子私の友達なんです。私を迎えに来て、ちょっと不注意だっただけなんです。許してやって下さい」と許しを乞うのだ。そしてアンネットに傘を差しだして「行きましょ」と優しく声を掛ける。
 もう言うまでもないエリザベスとアンネットがやっと仲良くなれたシーンである。この伏線として算数の勉強が苦手だと独り言を言うアンネットを見て笑ったり、あと一ヶ月でダニーが完治するとエレナが言うと「よかったね」と声を掛ける(その後「お勉強途中でしょ?」と窘めるが)エリザベスの様子が描かれている。エリザベスはアンネットのダニーに対する想いや態度に触れ、同じ弟を持つ姉としてアンネットを認めたのだ。そのエリザベスの心の変化が前話から描かれ、その決定的なシーンとしてこんなシーンを用意したのだ。
 さらにこのシーンに至る時、アンネットがエリザベスの出迎えを自分から言い出したのも見逃せない。アンネットもエリザベスの態度の変化に気付いており、自分からエリザベスに接近し、何らかのきっかけが掴めれば仲良くなれる時期が来たと判断したのだろう。
 この回は突然アンネットを訪問したフランツに目が行きがちだが、私としてはこっちの方が主題のような気がする。フランツは次の回に回して、このアンネットとエリザベスの関係をもっと掘り下げて欲しかったなぁ。
 どうでも良いけど今回のエリザベス、声が完全に森雪になっとる。あの声を聞いているとどこからとも無くアナライザーが出てきてスカートをめくって去っていきそうな気になる。
  
今回の
アンネット
VS
フランツ
  
 ローザンヌ見物へ向かう馬車の中でアンネットがフランツを見て言う、「でも見違えちゃった。都会に住んでいると私たち田舎の子供とはやっぱり違ってくるのね」とフランツが都会に来て変わったというのだ。「そんな事ないよ、僕はロシニエールで暮らしていた頃と同じさ。僕の気持ちはあの頃と変わりはないよ」「うふふふふふっ、すぐムキになるところはちっとも変わってないわ。やっぱりフランツね」「ひどいな、アンネットだって口が悪いところは全然変わってないぜ」…笑い合う二人だが、会話の内容はあんまりだ。ところでフランツってそういう性格だったっけ?
感想  今回は基本的展開はローザンヌとロシニエールを行き交う手紙という展開で進む。その中でエリザベスと仲良くなれたことや、フランツが突然に訪問してきたことが描かれ、最後はダニーの苦しみと治癒へ一歩一歩着実に進んでいることが描かれるというとても忙しい展開の回だ。その色んな物語を1話に無理矢理詰め込んだ展開は「愛の若草物語」を思い出す。
 何よりも今回はアンネットとエリザベスの関係が正常化したことだ。アンネットはエリザベスとの関係という難題を誰の力も借りずに自分で克服したという点においては、成長が認められるところであろう。ただし馬車とぶつかりそうになった点については…ロシニエールのつもりで都会を歩くなとツッコミたいところだ。本放送時、これでまた記憶喪失か?とかアホな事を考えていた。よく考えたらここでアンネットが大怪我をしてももう話数が足りないわけで…アンネットが死んで終わるにはまだ残りがあるし…これがエリザベスと仲良くなる最後の部分を乗り越えるきっかけとなったわけだ。これとフランツの見舞いでアンネットが友情の大切さを学ぶのはいいのだが…やっぱ急ぎすぎてるなぁ。
 フランツについては本人には悪いが私はこう感じてしまった、ああこの46話のためだけに序盤からずっと出ていたキャラだったんだと。つまりローザンヌ編で物語を意外な展開に持って行くには、ローザンヌにギベット関係者以外のアンネットの知人を置くしかないわけで、そのためだけに40話も前から準備していたなんて泣ける話だ。やっぱフランツには12話や26〜27話で活躍して欲しかったなぁ、キャラ的にはいいヤツでどんなシーンにも使いやすいだろうから制作者にはこのキャラをもっと大事に使って欲しかったと思う。
 そして最後に描かれたのがダニーの成長だ、原作のローザンヌ編はここに主題を置いているがアニメではなんかついでになっちゃったな。骨を固定する重りでダニーは苦しむが、アメリア先生の解説通りこれまでのダニーなら間違いなく大泣きして皆を困らせたところだろう。でもダニーがこのように成長した理由をしっかり描いて欲しかったように感じる、原作では一枚の絵がきっかけなのだが。まぁアニメのダニーは先に神を心に入れちゃったから原作通りに出来ないのは確かだけど…。
 それと成長する前のダニーが看護婦を殴ったりと我が儘放題だったことも…これも「世界名作劇場」の限界を超えるから無理か。
 ちなみにダニーが見た夢の内容はアニメオリジナルで、原作ではダニーが春が来て開けっぱなしにされた病室の窓から外を見ているシーンとされている。足の重りが外されたのがダニーが眠っている間という点だけが唯一のアニメと原作が一致している展開だ。
 いかん、本来研究欄に書くべき事を感想に書いちゃった。前回もそうなんだよな…。
研究 ・ 
 

第47話「輝く光の中で」
名台詞 「おぱあちゃん、治ったんだよ、僕の足。おばあちゃん、見たでしょ? 僕ちゃんと走れるんだ。」
(ダニー)
名台詞度
★★★
 ロシニエール駅に到着したダニーがクロードに抱きついてこう言うのだが、この台詞はダニーが足が完治してロシニエールで元の生活に戻れることを宣言したのみでなく、それによってルシエンの罪が全て精算された事を意味する。ようやくルシエンは自分で蒔いた種を全て自分で拾い終え、「わたしのアンネット」という物語はいつでも幕を閉じることが出来るのだ。
名場面 帰郷 名場面度
★★★★★
 いよいよアンネットとダニーがロシニエールに帰って来る。出迎えに来たクロードはたった5分の列車の時刻も待てないほど緊張していた。やがて汽車が入ってくる、手を振るアンネットとダニー、喜びで飛び上がるルシエン。汽車が止まるとアンネットとダニーはすぐにデッキに出てくる、そしてダニーはここぞとばかりに客車のデッキから飛び降りるのだ。驚くクロードだが、ダニーは2本の足でしっかりと着地を決め、今度はクロードの元に走って行く。そのシーンもダニーの足だけを映しなど、全体的にダニーの足が治って正常に動いていることを登場人物と視聴者に印象付けるシーンとして仕上がっている。
 名台詞シーンに続き、抱き合うクロードとダニー、それを見つめるこのシーンの登場人物達の姿へと画面が流れて行く。そしてアンネットとピエール、ルシエンとモレルが抱き合う二人のところへ静かに歩いていったところで今回の物語は幕を閉じる。
 ダニーの足が完治したことを強調し、ルシエンの償いの全てが終わったことで物語の本題が幕を閉じたことを意味する涙と感動のシーンだ。ダニーの転落事故から長く続いていたそれぞれの登場人物の苦しみ…それは怪我をしたダニー本人や、怪我をさせてしまったルシエンだけではなくこの場に登場していた登場人物全てが背負っていた物だった。その肩の荷がやっと下りてそれぞれがそれぞれに苦しみから解放されたシーンなのである。クロードやピエールは怪我をしたダニーを支えるために苦しんできたし、モレルも息子が取り返しの付かないことをしてしまった事で苦悩し続けた、アンネットは足を怪我したダニーを支えるだけでなくここから木彫りの馬破壊へと事件を広げてしまって苦悩したし…だがこれらは全てルシエンが蒔いたものである、その全てがルシエンが吹雪の峠を越えてギベットを呼びダニーの足の治療をさせるという行為でもって終止符が打たれたのだ。
 ちなみに「わたしのアンネット」とほぼ同時期にイギリスで「雪のたから」の実写映画が製作されたが、それではこのシーンに向けて駅へダニーを迎えに来たところから物語が始まっていて、ここまでの物語の展開は全てルシエンの回想という演出がされているそうだ。また原作も、小説版も、DVD完結版も、ここで挙げた実写映画もこのシーンでもって物語を終わらせている。だがアニメ「わたしのアンネット」はまだ終わらない、エピローグとなるべく1話が残っているのだ。
  
今回の
アンネット
VS
ルシエン
  
 ピエールとウェルナーの会話を見たルシエン、ウェルナーの態度に不満のようだ。「ねえアンネット、随分ぶっきらぼうな人だね」「そんな事ないわ、とっても優しい人よ。ただ照れてるからあんな風な態度を取ってるのよ」「ふ〜ん、そうは見えないけど…」…ここでウェルナーの睨みが入る。「お、へへへへへへ」「ウフフフフ」「あれが優しくて良い人なのかい?」「そうよ、ウフフフフ…」「ねえアンネット、何がおかしいんだよ?」「なんでもないわ、ただなんとなくおかしいのよ…(以下笑いが止まらず)」…多くの視聴者もウェルナーの性格を知っているからアンネットの笑いが理解できるが、ルシエンには何が面白いのかサッパリ分からず。
感想  実質的な最終回、アンネットが完治したダニーを連れて村に戻る。ここで視聴者はダニーの足が治ったことを印象付けられ、ダニーの足によって生じた苦しみが全て消えたことを感じるのだ。
 私のようにルシエンに感情移入して見ていた人間としては、このシーンをずっと待ってた。いやぁ長かった。その過程で山あり谷あり、本当に波乱に満ちた物語だったと思い直すことになった。13話でダニーが崖から落ちてから、ルシエンをこれでもかと言うほど苦しめ、それによってアンネットの性格上の欠点をさんざんさらけ出され、たくさんの木彫りも破壊されてやっと物語の本編が幕を閉じたのである。
 いや〜、本当に最後のロシニエール駅のシーンは感動だった。当時は最終回上手くまとまったなぁって感じちゃったよ、んでロシニエール駅のシーンがフェードアウトして消えると次回予告になって「次が最終回」と言われたときの驚きと言ったら…そうそう、この物語にはまだオチがついてなかった。次回にどんな最後を用意しているのだろう?と少しばかりわくわくした記憶が。
研究 ・罪ゆるされた喜びの日
 今回の展開は名場面欄でも書いたとおり、「雪のたから」原作のラストシーンであり、他の「雪のたから」「わたしのアンネット」関連のメディアでも多くのものがラストシーンとしている物語である。この原作の最終章は村の春の風景から始まり、ルシエンがアンネットからの手紙をクロードに読み聞かせてやったり、ルシエンとペギンが「全き愛」について語るなどローザンヌにいるアンネットを無視してルシエンを中心にした展開がしばらく続く。その中でルシエンが家事を積極的に手伝うようになったという変化が描かれ、ローザンヌへ旅立つペギンとルシエンの別れも描かれる。
 そしてアンネットから翌日にロシニエールに帰るという手紙が、ダニーが描いた汽車の絵と一緒に届く。原作ピエールはその報せを聞いて喜びのあまりミルクのおけをひっくり返したとある。アンネットが戻る当日、ルシエンはダニーの足が治ったことが信じられなくなり、駅では皆から離れたところで一人で待っていたという。
 やがて汽車がやってくるとダニーは転がるようにして汽車から降り、一目散にルシエンのところへ走り、名台詞欄に該当する台詞をルシエンに向かって言ったのである。その後ルシエンはその場にいた多くの人から尊敬を受け、その罪は永遠に許されて忘れられたと明記され、最後に駅周辺の春の光景を描いたところで物語が終わるのである。
 原作ではこのアンネットとダニーの帰郷をルシエン中心に描いている、そしてルシエンが自分で蒔いた種を全て拾い終えたことによってルシエンの罪が許されたことを中心に描いているのだ。確かにあれだけ苦悩したルシエンを救って物語を終えるにはダニーの足をルシエンの手で治すしか方法はなく、原作ではローザンヌ編に入ってもルシエンのそのような心理描写を忘れなかったのだ。アニメではこの辺りの空気が薄められ、なんかダニーが何で怪我をしてなんでローザンヌで親と離れて暮らさなきゃならなくなったのかみんな忘れているもんな〜。原作ではダニーの足が治ったことを自分の目で確認するまで、ルシエンの心の中から罪の意識が消えることはなく、それに縛られていることが描写されているのでこのシーンの重要性は大きいし、さらにこのシーンを過ぎてしまえばもうこの物語で言うことは無く、遠慮無く物語を終わりとすることが出来たのだ。
 そのルシエンの罪の意識を薄めてしまったからこそ、アニメではこの物語を通じて一貫して訴え続けてきた事を明示する「オチ」的な物語としてもう1話分必要になったのだろう。そんんな訳でアニメではもう少しだけ話が続く、原作では殆ど出てこなかったアンネットの同級生達の存在意義も、最終回で強調されることになるのだ

第48話「友情よ永遠に」
名台詞 「ピエールおじさん、僕いろんな事を覚えたいんです。牛の育て方とかチーズの作り方なんか。僕に牧畜の正しいやり方を教えて下さい。」
(ルシエン)
名台詞度
★★★★
 さまざまな事件を乗り越えて成長したルシエンの姿がハッキリと描かれているのがこの台詞だ。マリーの挙式から数日後、バルニエル家でルシエンの「モレルの元から離れずに母を支えて生きる」という決心がモレルによって語られた。それを聞いたクロードとピエールから誉められたルシエンが、照れ笑いの後にピエールに向かってこの台詞を吐くのだ。
 似たような台詞は7話でも出ているが、この時と違いルシエンは夢を語っているのでなく将来に向けての現実として語っているのである。苦しいときに自分を支えてくれた人間の一人であり、一番近くにいる頼りがいのある男としてピエールを認識し、この男に自分が生きて行くための術としてこのような事を倣いたいと懇願するのだ。7話では憧れの男がやっている憧れの仕事である「チーズ作りの名人になりたい」というものの遙か上を言っていることであることが感じられる。
 さらにこの手前でモレルが披露したルシエンの決意は、もう何があってもルシエンは逃げも隠れもしないという証であり、これもまた成長した点である。この辺りは31話辺りのルシエンと比較すれば言うまでもないだろう。こうして最終回でハッキリと「自分で蒔いた種を自分で拾う」という行為で物語を引っ張ってきた登場人物の成長が描かれたのだ…やっぱ主役はルシエンじゃんか!
(「今回のアンネットVSルシエン」欄につづく)
名場面 卒業式のあと 名場面度
★★★
 卒業式が終わった後、いつものメンバーであるアンネット・ルシエン・ジャン・アントン・マリアン・クリスチーネの6人はいつもの橋の上で語り合う。そして卒業した後のこれからについて語り合う。シャトー・デーの学校へ進むマリアンは、今までのように毎日は逢えないと寂しがる。「明日から学校へ行かなくて済むからうれしくてたまらない」というジャンは最後までジャンだな。
 ルシエンが学校では会えなくなるがロシニエールにいればいつでも逢えると力説、アンネットが同意して「いつまでも友達でいましょう」とする。そしてルシエンが一方的に毎月はじめの日にここで会おうと決めるが、アンネットが「何処にいても必ず会うことにしましょう」と付け加えると皆が賛成する。
 卒業式後という展開ではベタであるが、仲間でいる限り卒業して学校へ行かなくなってもいつでも会えるというシーンである。このシーンを通じて皆はいつまでも友達であると認識し合い、互いがとても大切な存在であると気付くのである。さらにこのシーンを牽引したのがアンネットとルシエンというのは単に主役級だからという理由でなく、あれだけの泥沼を経験した二人だからこれだけのことが言え、この二人が決めたことだから誰もが賛成できるという自然なシーンにするためだ。もしここまでの物語を何も見せられず、いきなり最終回だけ見たら話を一方的に牽引するアンネットとルシエンを見て引いてしまうだろう。
 そしてこのシーンは「わたしのアンネット」のラストシーンでもある。アンネットとルシエンの諍いとそこからの関係修復を通じて、この仲間達の連帯がさらに深まって視聴者に「友情」を見せつけるのが原作に存在しないこの最終回の目的である。最後の最後に、その友情がいつまでも続くことを示唆してから、物語は殺伐とした展開が嘘のように明るく爽やかに幕を閉じるのである。
 
今回の
アンネット
VS
ルシエン
  
 バルニエル家の人々とルシエンとモレルは、アンネットとルシエンの将来について語り合っていた。「じゃあ、ルシエンは大きくなったら農夫になるのね」「ああ、アンネットは何になるんだい?」「私? もっと小さい頃はバレリーナになりたいと思っていたけれど、今はよく分からないわ、きっと父さんやおばあちゃんがいるこのロシニエールにいるわね」。ここでダニーが口を挟む「お姉ちゃんはルシエンと結婚すればいいんだよ」「ダニー、あんた何てこというの?」「だって、ルシエンと結婚すればずっとここにいられるよ」。突拍子もない息子の言葉に父も大笑い「あっはははははは、これは名案だ」「父さん!」。だがクロードが止めに入る「ピエール、そんな先のことはわかりゃしないよ。だいいちダニーが本気にするじゃないか」「はいはい、わかりました」「でもそうなった方がいいかも知れないねぇ」「もう、おばあちゃんまで!」「ハハハハハッ」。ここで唐突にモレルが口を挟む「ルシエン、お前はどうすんだい? アンネットをお嫁さんにもらうのかい?」「母さん!」。そしてダニーがとどめの一言「それじゃ僕がお嫁さんにしてあげるよ、お姉ちゃん」「わっははははははは、こいつはいいぞ。アハハハ…」…ダニーの最後の言葉に皆は大爆笑、一人キョトンとするダニー。さてアンネットとルシエンは将来結婚するのか? それはこの物語を見た人々の胸の中にある。
感想  いろいろ詰め込んだ最終回だったなぁ。あの1話に色々詰め込むのが大好きだった「愛の若草物語」でも最終回は「ジョーの旅立ち」一本に絞り、合間に南北戦争の終結やデーヴィットの改心が描かれたという単純な展開だったのに…「わたしのアンネット」の最終回ではペギンとの別れがあったり、マリーの結婚式があったり、卒業式があったり…それだけで十分に忙しいのに、名台詞・名場面・アンネットVSルシエンはその合間のシーンだもんな。でもそんないろいろ詰め込んだ物語でも展開はごく自然で、むしろ実際の放送時間以上視聴しているような錯覚に陥った。本当によく出来た最終回である。
 マリーの結婚式は明るい結婚式でよかった。前作「南の虹のルーシー」でも物語の最後の方で結婚式が描かれたが、あれは物語をさらに悲惨な方向へ持って行くための道具でしかなかったからなぁ。結婚式の明るさよりその後の寂しさの方が印象に残っていたから、本放送時は「世界名作劇場」で描かれる結婚式にちょっとトラウマがあったので安心した。
 その余韻を印象に残すための道具に使われたのは、この物語では「卒業式」だった。卒業式本編はどうでもよく、その余韻で仲間達が「友情」を感じて再会を約束するシーンの方が印象に残った(名場面欄参照)。卒業式シーンはその友情を際だたせ、この物語主題をラストでハッキリ示すための道具に過ぎなかったと思うが、今回はそれが正しい描き方だろう。
 本放送当時、最後は本当に本編での殺伐とした展開が信じられなかった。あの殺伐としていて苦しい展開があったからこのように爽やかに終われたのかも知れないけど…でももういいや、これ以上この物語を続けられたら息が詰まるに違いないと感じた。これはこの物語が嫌いとか気に入らなかったという理由でなくてね。今回の再視聴においても同感、だが終わってしまったのはちょっと寂しいなぁ。
研究 ・物語の終わり
 最終回、原作は前話のシーンでもって完結してしまっているので今回はアニメオリジナルの物語だった。だが原作から引っ張ってきた展開としてペギンがロシニエールから去る物語が入っている。原作ではダニーが帰ってくる前にローザンヌへ発ってしまったペギンだが、アニメでは話の位置が入れ替えられた。によって旅立つペギンを見送る人数が増えている、原作ペギンはルシエン1人だけの見送りで出発したが、アニメではバルニエル家総出の見送りとなった。
 物語は原作には無かった「マリーの結婚式」「アンネット達の卒業式」という新しい要素を付け加えて物語を終えた。アニメと原作の大きな違いとして、アニメでは「友情」という点もテーマに含めており、最後にそれを強調する狙いがあったように感じる。原作では友情という点にはあまり触れられておらず、あくまでもキリスト教的な罪や償いや赦し、そして神というものが中心のテーマであるため、アニメ最終回のような展開は不要だったのだろう(このアニメ最終回の展開を入れなかったDVD完結版では罪や償いという部分が大きなテーマになってしまっている)。万人受けの必要があるアニメにするには、その部分だけではテーマとして成立しないため「友情」というテーマを取り入れたに違いない。そのために原作では殆ど出てこなかったアンネットの同級生達の役割が大きくなり、彼らもアンネットとルシエンの苦悩を見て成長するという物語に仕上げられた。そのアンネットとルシエンだけでなく同級生達の成長を印象付けるために「卒業式」というシーンを描き、最後はその余韻で終わるという物語にしたのだと考えられる。
 

・「わたしのアンネット」のエンディング
「エーデルワイスの白い花」 作詞・阿木燿子 作曲/編曲・広瀬量平 歌・藩恵子

 「なぞなぞは なぞなぞよ」という名フレーズを残したエンディングテーマであるが、今回の再視聴までそのフレーズが何のアニメのエンディングでかかっていたか思い出せずにいた。もうひとつ思い出せないのに、同じ頃にやってたアニメのオープニングで「うそうそホント ホントうそ?」のフレーズがあるんだけど。「世界名作劇場」シリーズでないのは確か。
 そんな事はともかく、オープニング同様にハンドベル演奏が素晴らしい曲である。何よりもこの曲では「何になる?」「どんなふう?」のところが耳に残るし、その部分も含めてメロディラインとアニメ画像の動きを上手に一致させて遊んでいるようにも見える。
 背景画像ではクラウスの愛らしい動きも良いし、牛たちのまったりした動きがアニメの殺伐とした空気を和らげてくれて、本編とあわせてみると何とも言えない空気を感じるのだ。曲の内容自体は本当にタイトルの「エーデルワイスの白い花」と歌っているだけなんだが(どう聞いても歌詞にエーデルワイスというアルプス名物を入れたかっただけにしか聞こえない)、アニメ本編との雰囲気のギャップで印象に残るんだろうなぁ。
 曲の最後でアンネット・ルシエン・ダニーの3人が整列するのだが、ここでルシエンだけが転ぶのがまたまたいい。背景画像は「南の虹のルーシー」エンディング同様に遊び心があって楽しい物になったと思う。ただ見た目の楽しさではルーシーの方が何倍も上だったが…。

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