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第41話 「行ってしまったモートンさん」
名台詞 「この島は火山島で、あの山は火山だ。休火山のように表面は何事もないような顔をしているが、底の方じゃ何が起こっているか知れたものじゃねぇ。」
(モートン)
名台詞度
★★
 モートンのこの台詞でもって、初めてこの島が火山であることが示唆される。大人になって見ると玄武岩が中心と思われる溶岩台地を中心とした山や、同じような構造が見られる中腹部分。「層状節理」と呼ばれる溶岩台地独特の光景があちらこちらに見られる中腹部の景色や岬付近の景色、それに今回の再視聴による考察をきっかけに判明した「ナイフの岩」と呼ばれる岩頸の存在。これらを組み合わせればこの島は火山だと言う事は一目瞭然なのだが、子供の頃はそんな事は知らなかったのでモートンのこの台詞は恐怖を持って迎えることになった。しかも地下水の温度上昇など、島に変化が起きている兆候を受けての台詞だ。この物語を見ている子供達の頭の中では、画面に映し出されている山が既に爆発していたに違いない。もちろん子供達にとっては「火山=爆発」だからであり、物語の先行きを不安にさせると同時に、「モートンが何かやらかす」と予測するのに十分な台詞でもある。
 ちなみにこの台詞のシーンでは島の最高峰がアップで出てくるが、重ねて言うがこの最高峰に火口が無いことは明らかだ。11話でエルンストとフランツがここに立ったシーンで山頂部は平面として描かれていたし(火口があれば大きな窪地になっているはず)、何よりも「ナイフの岩」という火口跡が存在していることが明確に描かれていることがその理由だ。だがこの山が噴火するとなるとその噴火する位置は別の場所になる、それについては研究欄で。
名場面 海を見つめるタムタム 名場面度
★★★
 モートンがカヌーに乗って島を脱出した夕刻、いつまで経っても戻らないモートンを思ってタムタムが岬に立つ。そして涙を流してモートンの名を呼ぶのだ。そこにフローネとエルンストが現れてタムタムを家へ連れ帰ろうと説得するが、これにも背を向けてなお海を見る。
 このタムタムが多々立って海を見て涙を流すだけのシーンに、彼の色んな気持ちが込められているだろう。何故自分を置いていったのか、裏切られたのか、何か理由があるはずだ、自分を捨てるはずがない、尊敬していたのに…色んな彼の気持ちが滲み出ているのだ。
 これで視聴者はモートンとタムタムの絆について気が付くだろう。この段階では二人が何処でどうやって知り合ったのか、そしてどういう関係なのかと言うことは明らかにされていない。ただ分かるのは二人とも船の乗組員で、その中でもモートンは上級でタムタムが下っ端であろう事だけだ。タムタムはモートンに対し絶対の信頼を置き、常にモートンに従順で、モートンと共に生きて行く以外の事が思い付かなかったのだろう。そうしてタムタムが自分を失ったこともこのシーンから見えてくるのだ。
  
感想  モートンとタムタムというキャラクターがどんなキャラクターなのか、前話までにハッキリと印象付けたところでいよいよ物語は最終段階へと進んで行く。いよいよ物語は最終局面である「脱出編」の本題へと突入する。
 最初に提示されるのは「この島から一刻も早く脱出せねばならない」という事実であるが、もどかしいことにこの事実を知るのはモートンと視聴者だけであって、肝心なエルンスト一家には伝わらない。そしてモートンは自分が脱出するという方法で危機を乗り切ろうとする、視聴者はピンチに陥ったフローネを助けるシーンを知っているから、モートンが「自分一人が助かるため」に脱出を謀ったことでないことは想像が付くだろう。私は当時から、モートンは「助けを呼びに行った」と解釈していた。最終回の直前辺りで、突然この島に船が着いてそこからモートンが「助けに来たぞ」とか言って出てくる、そんな展開を予想していた記憶がある。
 このモートンはこの行動の趣旨を誰にも伝えなかったため、タムタムは名場面欄の台詞のように悲しみ、ロビンソン一家には不協和音が広がる。もちろんモートンに対していい感情をもっていないアンナやフランツは徹底的にモートンを非難するし、モートンの人の良さを知っているフローネやジャックは心の底で「助けに呼びに行ってるだろう」と感じているに違いない。エルンストもモートンがベテランの船乗りであればあんな小さなカヌーで乗り出すはずはないと判断し、「何か理由ある」とモートンを信頼する政策を採る。この一家の不協和音、特にアンナのモートンに対する不満はここで絶頂を迎えており、判明した火山の存在と共に視聴者が不安になる要素でもあろう。このように不安を煽ることから、「脱出」への物語が転がって行くのである。
研究 ・噴火の危機
 物語はいよいよ「島を脱出せねばならない」という問題を提示することになる。その理由として選んだのは「火山噴火の兆候」というものであった。モートンが地下水の温度上昇を確認し、これをきっかけにモートンが色々調べた結果「火山噴火の兆候」が見られるとして、モートンが島から脱出するという展開だ。
 だがこの地下水の温度上昇が本当に「火山噴火」の兆候なのかというとちょっと疑問だ。この地下水が流れる洞窟は36話での描写を見る限り地表から近いところにあり、とても地下深くのマグマの活動によって水温が左右されるとは思えないのだ。地下河川の水源として滝が描かれていたが、これはその真上がドリーネになっていて地上の水が流入していると考えるのが適当だろう。つまりこの川の温度が上がったのなら、このドリーネに水を注いでいる地上の川の温度が上昇したとしか考えられない。
 だがこれは解釈のしようはいくらでもある。例えば川がドリーネから洞窟に注ぎ込む地点で温泉が湧出していれば、地下のマグマ活動の活発化で温泉の温度が上がったり湧出量が増えれば、この温泉のお湯が水の温度を上げることは出来る。もう一歩進めてこの水自体がドリーネからそんなに離れていない地点がわき出ていると考えることも出来る。これは実は冷泉だったのが、地下のマグマの活動の活発化で温泉になって地下水の温度が上がったと解釈するのだ。
 だが別の事実を考えなければならない。この火山はここ数万年は活動していない可能性が高い。その理由は34話考察欄の通り、火口があった中央火口丘と呼ばれる小さな山が浸食して失われ、火道に詰まっていた溶岩だけが「ナイフの岩」として残されている状況になっていることだ。この島もマントル活動によってオーストラリア大陸と共に北へ移動しているはずで、その移動速度はオーストラリア大陸で1年間に約8センチ。島が同じ速度で動いているとした場合、仮に前回の火山活動が1万年前だったとすれば噴火位置となる「ホットスポット」は島からの見かけ上800メートル南へ移動していることになる。島の大きさとか考えると次にドカンと来る場所はちょうどあの岬の根元辺りということになりそうで、あの砂浜に近付くことすら危険になり島から脱出できなくなるだろう。仮に2万年ならもう800メートル、ちょうど岬の先端のちょっと先辺りでやはり危険だろう。3万年なら岬から1キロ程度沖合、4万年ならさらに沖合となるが、危ないことは変わらない。
 この現象についてもうひとつ、私の勝手な仮説(この通りなら火山の噴火はない)があるのだがそれは次話研究欄にでてくることに…。

第42話 「恐ろしい地震」
名台詞 「あなた、私たち何とかして早くこの島を出ましょう。また夕べのような地震がいつ起こるか知れませんわ。いいえ、今度はもっと大きなのが襲ってくるかも知れないわ。そしたら…私たちはこの家から振り落とされて死ぬか、屋根の下敷きになって死ぬか、外に逃げることが出来たとしても大きな地割れに吸い込まれてしまうか、山が崩れてきて生き埋めになるか、それも何とか逃れられたとしても火山が噴火して…この島は火山島なんでしょ? それじゃそこら中真っ赤な溶岩が流れるとか、灰が降るとかして、島には人間はおろか虫一匹住めなくなるかも知れないわ。」
(アンナ)
名台詞度
★★★★
 大地震の翌朝、アンナがなんだか辛そうな顔で座っている。そのアンナにエルンストが声を掛けると、このアンナの独演が始まる。アンナは思い付く限りのこの島で起こりうる最悪の状況を思い付き、最後は涙声になっているのだ。
 この台詞は前夜の大地震という出来事を経て、アンナが一家だけでなく視聴者にも「早急にこの島から脱出せねばならない理由」を突き付ける。あの大地震はこの物語に出ている者と、見ている者に恐怖感を植え付けるのに十分であったが、アンナのこの台詞はそれに油を注ぐ役割を持っている。つまりこれからここで起こりうる最悪の事態を並べることによって、自然の大きさを誇示すると共にここでの生活自体が死と隣り合わせだという現実を突き付けるのだ。
 このアンナの悲観的な台詞は30年近い年月を超えてハッキリ覚えていた。物語はこの台詞をきっかけに再度「島からの脱出」という方向に梶を取り直し、物語が大きく動いた瞬間でもあるのだ。
 この台詞に対しフランツは楽天的に「悲観的すぎる」「取り越し苦労」と指摘するが、エルンストはこのアンナの台詞を「常に最悪の場合を考慮し、事前にそのような事態を避けよう」としていると受け取った。その上で「この島に長居は無用だと言う事はハッキリしている」「脱出の方法をもう一度考える」とするのだ。
名場面 大地震 名場面度
★★★★
 この夜、一家は二度にわたり地震に襲われる。1度目は大したことなかったようでフローネも目が覚めない程だったが、2度目はかなり大きな地震で一家は椅子に座っていられないほどの揺れを体験する。そしてここまでの劇中に描かれた島の景色が大きく揺れ、椰子の木は倒れ、地面に地割れが走り、洞窟は崩壊し、崖は崩れるといった光景が流れて行く。
 この地震も迫力たっぷりに描かれた。いや、この大地震を大迫力で描かないことには「一家は島から早急に脱出せねばならない」という説に説得力が生まれないからだろう。6話の嵐ほど印象には残らないが、地震によって無情にもここまで描かれた島の自然が壊されていく様を見て、視聴者は大きなショックを受けたに違いない。またここまではエリックの遺体を発見したりモートン・タムタムと出会ったりという「人」との物語が続いていたが、それでも一家は自然と闘っているという現実は変わっていないという点を視聴者に強く突き付けてくる。
 この地震についての考察は研究欄に回そう。
 
感想  会社の同僚に出張先で震度6の大地震があって大騒ぎになっていたのにそれに気付かず寝ていたという猛者がいるのだが、その話を聞いたときに真っ先に思い出したのが「ふしぎな島のフローネ」の今話だ。最初の地震で一家とタムタムが大騒ぎしているのに気付かず寝ていたフローネと、その同僚の話が重なるところがあったのだ。だが研究欄に詳しく書くが、フローネよりこの同僚の方が上を行っている。
 物語は前話を引きずり、モートンがいなくなったことでタムタムが落ち込んでいるというストーリーを主軸に進む。だが気が付くとこの島の自然の変化が主軸になっていて、タムタムの話が脇に追いやられているという構図に変化している。その変化も決して不自然ではなく、自然にうまく流れているのだ。完全に流れが「自然」の方に変わりきったところで大地震となり、これを受けて名台詞シーンとなって物語は「島からの脱出」という結末へ向けての方向転換が終わる。この方向転換は33話からゆっくりと進めていたと言っても過言ではないだろう。
 今回、タムタムがモートンを慕っていた理由がハッキリした。つまり船乗りになろうとタムタムは船に乗り込んだが、そこでやはり奴隷同様の扱いを受けていたのだろう。そんな中で普通に接した最初の人間がモートンだったわけだ。モートンらが乗った船が難破したとき、モートンとタムタムは共に行動したから助かったに違いない。というかタムタムがモートンを助けたという想像も容易だろう。
 こうして物語は「島からの脱出」一色に変わり、一家の方向性がこう変わったところでモートンが帰ってくる。この物語の様相が変わる瞬間にモートンだけが不在というのは、今考えるとよく考えたと思う。
研究 ・大地震
 サブタイトル通り今回、一家はこれまで体験したことの無いような大地震を経験する。今回は当然のことながら、この大地震について研究しよう。
 まずは今回の地震の震度を推定してみる。最初の地震では特に被害は出ていないようなので、震度3か震度4といったところだろう。震度5ならばこの時点で家の中のカレンダーが落ちたりしていると思われるからだ。だから考察は2度目の大地震の方が中心になる。劇中に描かれた地震により、「椅子に座っていられない一家の様子」「テーブルから蝋燭が台ごと落ちる」「崖崩れ」「地割れ」「地殻変動」「椰子の木倒壊」「洞窟の崩壊」という出来事が起きている。これを現在の気象庁震度階級に合わせると、震度7ということになる(ちなみに1996年以前の基準と照らし合わせると「家屋の倒壊」が認められないので震度6となる)。これは日本で言えば阪神大震災クラスの大地震ということになり、よくぞこの木上の家が壊れなかったもんだと感心する。
 劇中の描写を見ていると、大きな揺れの前の小さな揺れ、つまり初期微動が無いことが分かる。つまりこの地震はこの無人島の直下で起きているのは確かで、震源も浅いことが想像できる。また震度から言っても火山性地震とは思われない。つまり前述の阪神大震災のような活断層型の地震と思われる、つまりこの島の何処かに活発な活断層があってここが動いたと思われるのだ。一般的に火山性地震は規模が小さいと言われている(やっと有感地震になる程度が多い)が、桜島や三宅島では大きな火山性地震を経験し多数の犠牲者も出ている。だがこのような火山性地震では該当の火山は直後に噴火するため、この地震が火山性地震であるという選択肢は外してもいいだろう。
 こういう視線で見るとここまでに劇中で言われている「この島は噴火が近い」という説は考え直さなきゃならない。実はモートンが発見した災害の予兆は、火山の噴火でなくこの地震の予兆だったのではないかというのが私が考えている説だ。例えば劇中に描かれた「地下水温の上昇」は過去の大地震の前に確認されている現象である。また動物の異常行動も後に起きると思われる火山の噴火でなく、この地震に合わせて起きているようにも解釈できる。さらに言うとこのまま物語が進んでも、火山が噴火する様子もないしさらに大きな地震が起きた様子もない(余震と思われる小さな地震は発生するが)。つまり今回のこの大地震を頂点にして、変動は収まっているのだ。こう考えると劇中の描写が説明できたりするのだ。じゃ、何も無理して島を抜け出す必要は…いかん、それでは物語が進まなくなる。
 ちなみに地震の前兆として挙げた「地下水温の上昇」「動物の異常行動」は宏観異常現象と呼ばれ、大地震前によく見られる現象でありながら科学的な裏付けがされていない現象である。さらに劇中の描写をよく見ていると、前話では夕焼けの色がとても濃かったり、今回も夜のシーンで空が少し明るく描かれているなど、宏観異常現象としてよく報告される事例と同じ描写がされているのは偶然ではないだろう。

第43話「戻って来たモートンさん」
名台詞 「そこがあの人の性格なんだろう。成功するかどうかわからないことを、しゃべるのは嫌だったんだ。いたずらに希望を持たせて、あとで落胆させるのはかえってよくないからね。(中略)それもあの人の性格じゃないかな? 好意を素直に表せなくて、逆に憎まれ口を叩いたりする人が時々いるものだ。」
(エルンスト)
名台詞度
★★★
 エルンストがモートンという人物をこう評論する。モートンが何故一家のカヌーや食糧、それに銃といった大切なものを盗むようにして海へ出て行ったのか、この真実を知ったアンナはモートンが何故本当のことを言わなかったのか、何故自分には辛い言葉を掛けるのかという疑問を表したときのエルンストの返答だ。
 このエルンストの分析はエルンストの設定と性格を上手く使っている。もちろん「設定」は彼が医者だという設定だ。医者という職業は基本的に人々から感謝されることが多い職業であるが、そんな職業をしているからこそこのような分析が出来るのだ。特に後半の「好意が素直に表せなくて憎まれ口を叩かれる」という経験は、エルンスト自体がよく経験したことなのだと思う。医者の駆け出しの頃の若き日のエルンストが、こういう性格の人間とぶつかって今のアンナみたいになっていたと想像することも出来るだろう。また成功しないことをしゃべりたくないという心境も医師だからだ、治る確率の少ない患者に余計な希望は持たせないというのも医師がやらねばならないことだ。
 そしてエルンストの性格はその的確な判断力であろう。もちろんここまでの劇中で彼の判断力が正しいことは証明されている、彼が失敗は「その方法自体が間違っていた」ことが原因だったことはなく、あくまでも経験不足による作り上げる過程での失敗ばかりであることは誰もが認める事だろう。彼はモートンに対し、最初から「敵に回してはいけない」「この人の知識が役に立つ日が来る」という判断をしていた。だからこそアンナやフランツがモートンに対する不満を述べても、なんとかそれをなだめてきていたのだ。もちろんモートンが決して悪い人ではないという判断もしていたはずで、それはタムタムが懐いていることや、フローネやジャックがモートンを毛嫌いするような台詞を吐いていない点などを勘案していたに違いない。
 エルンストが「完全無欠な父」として印象に残っている人は、恐らくこの一家とモートンの関わりにおけるエルンストの役割や立場が印象に残っている人が多いのではないかと推測する。特にこの台詞はそんなエルンストの「判断力の正しさ」や「人を見抜く力」がよく現れているからだ。
名場面 夕食時 名場面度
★★★★
 一家の夕食を前にモートンに夕食を届けに行ったアンナは、その際のモートンの態度が悪かったこともあってついに一家の夕食時にキレる。自分の食事を用意せず、エルンストが「食べないのか?」と聞けば怒り心頭という声で「みんな召し上がって下さい、私は喉を通りません」と言い切る。ジャックが「いつもの母じゃなーい!」という表情で母の顔を見る。エルンストが声を掛けるとフローネがモートンとアンナに何が起きたかを語る。するとアンナは「あんな人、海で日干しになれば良かったんだわ」と悪態をつく。今度はフローネとフランツが「いつもの母じゃなーい!」という顔で見上げる。エルンストはあくまでも落ち着いてアンナに落ち着くよう促し、「これを読むように」と一片の紙切れを渡す。それはモートンがカヌーで島から抜け出したときにカヌーの中に隠してあった手紙で、エルンストが昼間に発見したものだった。その手紙の内容は無人島の推測位置と島の特徴が書かれた上で、この島に一家とタムタムが遭難して留まっているから至急の救助を乞う内容であった。
 これを読んだアンナはこれまでの怒りが瞬時に収まると共に、心苦しそうな表情に変わる。エルンストはモートンが自分の生命に変えてでも救助を呼ぶつもりだったと語り、フランツは「自分一人助かるつものではなかったのか…」と言う。そこで名台詞欄のシーンとなり、それに続いてフローネがアンナが立ち去った後のモートンの様子を語る。アンナの前では悪態をついていたモートンは、アンナが立ち去るとアンナの料理を全部食べただけでなく、タムタムの分まで食べてしまったという事実だ。こうしてやっとアンナにも笑顔が出て、一家は笑い合う。食後のアンナは機嫌が良くて鼻唄が出るまでになっていた。
 ここでやっと一家、特にモートンに対する不信感を露わにしていたアンナとフランツもモートンの素顔を知ることになる。きっかけはアンナが食事を運んだときに悪態をつかれ、それでキレたことだが、これが逆にこれまで不協和音が続いていた一家の団結を取り戻すきっかけになるとは誰も思っていなかったことだろう。またモートンが何故「単身でカヌーで島から脱出する」という無謀に出たのか、これもハッキリする大事なシーンだ。エルンストがなぜモートンを信じるようなだめてきたのかという考察は名台詞欄で済んでいるからいいだろう。
 またキレるアンナを見る事が出来るのは、全50話中でもここだけだ。アンナは子供達を叱るときに怖い顔をすることはあったが、感情任せに怒り狂っているのはここだけ。このアンナの迫力がこのシーンに彩りを添えている。と同時にモートンについての真実を知ると途端に怒りが収まり、いつものアンナに切り替えるのは担当声優さんの演技力の賜だろう。
 そしてフランツ・フローネ・ジャックがシーンの合間に見せる表情のひとつひとつもとても良い。キレているアンナを見た時の表情は本当に良くできていて、これが「クレヨンしんちゃん」だったら間違いなく「いつもの母じゃなーい!」と泣きが入ることだろう。この合間に入る3人の表情も、このシーンを盛り上げている。
 モートンが何をしようとしていたかについては、研究欄に。
 

 
感想  子供の頃、まずサブタイトルを見て「えっ?」と思った。前述したように私はモートンが助けの船を呼びに海に出て行って、当然モートンがその船を連れてくるものだと思ったからだ。だがサブタイトルを見ればモートンが実取ってくるのは間違いない、しかもまだ最終回まで2ヶ月近く残っている段階である。いくらなんでもここで助けの船が来たら早すぎるってもんだ。つまりはやはりこの島が一家を簡単に出させてくれなかったという事であるが、物語は着実に「脱出」という結末に向けて進んでいることを予感させる回である。
 もちろんモートンとアンナが何処かで和解することは分かっていた。この二人が協力しないことには島からの脱出というイベントが成就しないのは目に見えているからである。そのキーが今回唐突に回されたのだ。そのために一度アンナをブチギレモードにする必要はあったと思うが、その上で平和にこの問題を解決させたことは特筆すべき点だ。穏やかすぎれば迫力が失われて面白くないし、だからといって派手な喧嘩とかしたらアンナのキャラクター性にそぐわないものとなり白けたことであろう。このような状況の場合前者を取って偽善的に話を進める物語は多いが、この物語ではアンナの怒りをキチンと演じつつも喧嘩をさせず、かつアンナが納得する方法で怒りを静めさせた。「ふしぎな島のフローネ」は登場人物が少なく人間関係が単純な分、こういうシーンを丁寧に描くことに力点が置かれているようにも感じる。
 しかしあれだ、モートンの手紙が読み上げられているシーンは「人類は増えすぎた人口を宇宙に移民させるようになって…」って言い出しそうで怖かったぞ。全く声が同じだし。
 そしてラスト、エルンストがモートンに呼び出させたところで物語が終わる。本放映当時も「いったいなんの話をしているんだー! 続きが気になるー!」と叫びたくなったのを覚えてる。33話以降はテンポが良くて、本当に見ていて飽きないし続きも気になるつくりになってるわ。
研究 ・モートンの救出作戦
 前々話でモートンが単身でカヌーで島から抜け出し、今回海流の加減かなんなのか分からないがとにかく島に逆戻りしてくる。今回までモートンの真意が見えず、また何故タムタムを置いて出て行ったのかという疑問もあったのだが、それが全て解決するという展開を取る。モートンの真意は南へ100マイルの地点に航路があると思われ、時期的にインド行きの船が通りかかる頃だからそれに拾ってもらうつもりであったようだ。一家に黙って出て行ったのは、モートンは話をすればカヌーを貸して貰えなかったとするが、エルンストは一家やタムタムに余計な希望を持たせたくなかったからだと推測する。
 そしてモートンは自分だけが助かろうとしたわけでなく、自分を拾った船に一家やタムタムの救助を求めるつもりだった。航路があるといっても最初の船が見つけてくれる保証はない、そうなれば航路がある海域で何日も別便を待つこととなり、これは生命を賭しての行動となるのである。タムタムを連れて行かなかったのは生還を期さない自分の作戦に同行させるよりも、一家と一緒に救助を待った方が生還確率が上がるからであり、これもモートンの優しさだ。
 そしてモートンが生還を期さない覚悟があったことは、下記の手紙を持っていたことからも間違いない事実である。

「私が飢えと渇きで死んだ場合のことを考えて、これを書き記しておく。これを読んだ人は直ちに救助に向かって欲しい。およそ東経155度、南緯10度辺りと思われる無人島に、スイス人医師の一家5人と、オーストラリア生まれの少年1人が漂流している。島の特徴は火山島で、島の中央に岩がむき出しの山がそびえる。島の周りに環礁があること。そして島の四方、少なくとも120マイルの範囲にはどんな陸地もない絶海の孤島である。家族の中には小さい子供もいる。重ねて言う、至急救助に向かって欲しい。」

 この手紙はモートンが持っていた帽子の中に隠されており、さらにその帽子は飲み水が入っていたバケツに入れられていた(こうすることで最後まで手紙が水没しないようにしたのだろう)。それをモートンを救出した直後にエルンストがカヌーを陸地に挙げた際に発見、これまでモートンが何故一人で島から脱出しようとしたのか、その真意を測りかねていたエルンストは流石に驚きの声を上げる。
 この計画は最初は上手く行っていた。カヌーは風と海流に乗って順調に南へ向かい、島から少なくとも肉眼で見えない距離まで数日間にわたって離れていたのは確かだ。岬が海面から20メートルの高さにあったとすれば、水平線は16.6キロの位置となるからモートンは島から20キロ前後は離れた事になろう。モートンが航路があると睨んだ位置は南へ100マイル、モートンは船乗りだから1マイル=1海里=1.852メートルとなる「ノーティカルマイル」で話をしたと思われるので、せいぜい1割しか近づけなかったと言うところだろう。
 その上、劇中にも描かれたとおりこの期間中はスコールもなく、島で一家が渇水に難儀する様子も描かれている。水の枯渇はモートンにとても深刻だっただろう、助けられたモートンは極度に弱っていた様子が描かれているが、これは日焼けによる火傷と脱水症状、それに飢えが原因だろう。雨が降れば飲み水は確保されたと思われるが、いずれ栄養不足で死ぬか日焼けによる火傷の悪化で死ぬかどちらかの運命が待ったいたことだろう。だがこの手紙が誰かに拾われれば作戦成功だ。
 このモートンの作戦は作戦が失敗したのは、モートンが体力的な危機に陥ったからではない。海流や風向きの変化でカヌーの進行方向が南から北へ180度変わってしまったことだ。だがあのカヌーには帆が張られていたとは言え、思い通りに好きな方向へ進めるようにはできておらず結局は漂流するしかなかったようだ。喫水が浅いので直進安定性がなく、熟練した船乗りのモートンですら自由に操れなかったことだろう。もし自由に操れれば、彼は数時間で航路があるとされる位置まで到達し、風浪によって自然に帰ってくることはなかったであろう。

第44話「もう一度船を!」
名台詞 「小さい子供でも容赦はせん、どんどんこき使うことにする。この計画は容易な事ではないんだ。それが嫌なら脱出を諦めるまでだ。」
(モートン)
名台詞度
★★★
 2度目の脱出計画を本格化させるにあたり、モートンはエルンスト一家の皆に作業分担を説明する。その際にジャックの名が上がったことでアンナが「こんな小さな子供まで働かせるのか?」と意義を唱えるが、これに対しモートンの答弁がこの台詞だ。
 この台詞から見えるのは前回の脱出計画の「甘さ」と、計画性の高さだろう。脱出計画に限らず、一家はジャックを「幼いから」と何もさせずにいた。確かに危険な作業が伴う場合はこれは正しいが、もし「幼児でも出来る」仕事があるなら話は別だ。モートンは脱出計画にかかる作業をキチンと見通した上で、「幼児にもできる」作業があると判断してフローネやジャックにも作業分担を決めたのであり、これまでの一家の行動のような「思い付き」でジャックを使ったり、邪魔者扱いにしたのではないという事が垣間見える。
 逆説的に言えば他の作業が多く、「幼児にも出来る」程度の作業に大人の手を煩わせている場合ではないという現実もこの台詞から見えてくる。刻一刻と迫っていると思われる天変地異を前にこの島を出なければならないし、そうでなくても嵐の時期は避けて出帆したいという意図もあるだろう。だから持てる力を総動員するためには、ジャックにはジャックでもできる仕事をやってもらって大人の手を少しでも空けるという方向性に持って行かざるを得ないのだ。
 対してエルンストの脱出計画では「とにかく船が出来たら出帆」という無計画さがあり、船建造にタイムリミットを設けていなかった。これが嵐の時期に船を浜に着岸させておくという無計画に繋がり、結果船が流されて失敗という結末を迎えたのは言うまでもない。
 このモートンに台詞に、エルンストの目配せもあってアンナは納得する。だがアンナの仕事はさし当たってはないというオチまで付いてくる。だがモートンの言う通り、アンナには脱出に向けて働く皆を元気づける食事の提供という大仕事があるのだ。それをないがしろにしたら士気が低下して効率が下がる、モートンはそこまで計画的に考えていたのだろう。
名場面 島民会議 名場面度
★★★
 エルンストとモートンが深夜まで語り合った翌朝、モートンは島に住む全員…つまりロビンソン一家とタムタムを家の前に集める。フローネが「まるで会議するみたい」とボケた事を言っているが、それは放っておいてとにかくエルンストの司会進行で会議が始まる。エルンストはモートンと相談した結果、「一日も早く島を脱出する」という結論に達したことを告げ、全員が一致団結しないと脱出計画が上手く行かないとする。その上で海についてはモートンが一番詳しいということで、指揮はモートンが執るとしてモートンから作業分担の発表がある。
 まずエルンストとフランツには以前作った脱出船と全く同じものを作るように指示する。フランツは「あんな船じゃまた波をかぶったら…」と反論するが、モートンは「完成したらまた指示を出す」とするので何かしら対策があることを一家と視聴者に示唆する。
 続いてフローネとジャック(名台詞欄も参照)には、「ゴムノキ」からゴムを大量に集めることを指示する。最後にタムタムには、椰子の繊維をこれまた大量に集めるように指示する。アンナに対しては今のところ指示はないので、「毎日美味いものでも食わせて欲しい」とする。フローネがモートンが何をするか聞くと、モートンは威張って「俺はボスだから命令だけしていればいいんだ」として笑う。こうして各自の分担が決まり、皆は早速脱出へ向けて動きだす。
 このシーンは視聴者もロビンソン一家と同じ気分を味わえるのが秀逸だ。つまりこの段階では、モートンはエルンストにすら以前の計画をどのように改善するのか伝えていない。その上で「大量のゴム」「椰子の繊維」というキーワードが現れ、さらにはフランツの反論に対し「後で指示を出す」と何らかの対策が用意されていることも示唆されている。こうしてどんな脱出船が出来るのか、どんな脱出劇が見られるのか、大きな期待を寄せて見る事が出来るのだ。
 
感想  物語は「島からの脱出」という最後のヤマ場にに向けて一気に動きだした、しかも名台詞欄に書いた通り以前の脱出計画とは違いかなり計画的であることも垣間見ることが出来る。例えば冒頭のモートンとエルンストの会話には、脱出船での漂流が長引いた場合の「飲み水の確保」について言及がある点は興味深い。恐らくモートンは全部ではないが、エルンストには何点かの「改善策」を打ち明けているに違いない。
 後半はモートンのピンチが描かれる、彼が沈んだ脱出船から帆布を引き揚げようとしていた事は誰も知らなかったとは思えまい。エルンストだけは「帆布」という具体的な物については知らされていなかったが、モートンが前脱出船から何かを引き揚げようとしていた程度のことは聞いていただろう。多分モートンに本当に仕事がないのなら、エルンストがどんなに人が良くても納得するわけがない。モートンはエルンストに「沈んだ船から使えそうな物を拾ってくる」程度のことは話していたに違いない。それと唐突にモートンの目の前にジョーズが現れるが、この時の画面描写からモートンがいたのは珊瑚礁の中ということになる。つまり島を囲む岩礁は珊瑚礁由来の物ではなく、山体崩壊による山の破片だという34話研究欄での推測は、この44話の描写をもとにしている。
 モートンが最後に倒れたのは、酸欠といったところだろうか。いずれにしろ人間があんな長時間にわたり素潜りで水中で作業するなんて、人間業じゃないよ(笑)。
研究 ・モートンの脱出計画1
 いよいよモートンのプロデュースによるロビンソン一家とタムタムの無人島脱出計画が具体的に動きだす。これは以前のエルンストによる脱出計画の焼き直しではあるが、モートン特有の知識と経験により大きなアレンジが加えられることになった。
 まずは船の改良だ、詳細については脱出船が完成したときに研究するが、モートンが最も問題だと考えていたのはエルンストが製作した脱出船にあったと考えたようだ。モートンはエルンストがどのような脱出船を作ったのか、具体的に聞いた上で自分がどんな船を作るべきか考えたのだと推測される。この改良のために船の本体製作で手一杯になるエルンストとフランツに代わり、タムタムはもちろんフローネやジャックまでかり出されることになるのだ。
 それと劇中で語られたのは「飲み水の確保」である。実はエルンストの脱出計画ではそこまで考えられていなかったことがここで判明する。食糧も保存食ばかりだから乾燥食糧ばかりで、食べ物から水分を摂取することは絶望だ。これでは船上の者はすぐに乾きに耐えられなくなり、数日で死を迎えることになってしまうだろう。こんな大事な事を考えていなかったのだから、エルンストの計画はかなり杜撰だったと言わざるを得ない。
 だがここで別の推理がある。エルンストは飲み水の確保が問題であり「頭を悩ませていた点」だとしているので、この問題を解決するアイデアが出るまでは脱出船を出させないつもりであったかも知れない。その他、エルンストの脱出船は荷物や乗員が二分されることでどちらかに問題が生じた場合に、問題が生じた側の補給が効かないので危険度が増すこともあるだろう。
 最大の要因は「とにかく急ぐこと」だろう。モートンは「火山噴火の危機」を表向きとして一家を急かすわけだが、それよりも嵐が到来する時期を避けたいという思惑もあることだろう。今回の物語だけで、エルンストとモートンの「差」がこれだけ見えてくる。今後これがさらに増えるのだから…ここへ来てモートンが主役を奪ってしまったようにも見えて面白い。

第45話「死なないでロバさん」
名台詞 「もしここに置き去りにされたら、生まれたときから人間に飼い慣らされたロバはもう野生に返ることは出来ねぇ。遅かれ早かれ狼にでも襲われて、食い殺されるのがオチだ。仮に半年や一年生き延びて自然死をしたにしても、死体はハゲタカの餌になる。こうやって手厚く葬ってくれる者などいねぇ。さて、わしも祈ってやるか。」
(モートン)
名台詞度
★★★★
 「ブラックバーンロック」号乗船時から家族と共に過ごしてきたロバが、遂に老衰のためこの世を去った。その葬儀でフローネがロバの死に同情する台詞を吐くと、モートンは「ちょうどよかった」という言葉を吐いてフローネとフランツから猛抗議を受ける。それに対しモートンは静かにエルンストに「ロバが死ななかったら船に乗せたか?」と問うと、エルンストはそれは不可能だと返答する。その返答に続けるように、モートンは沈痛な表情で静かにこう述べるのだ。
 これは「島の脱出」という一家にとっての希望を実現するために、通らねばならない辛い出来事のはずである。エルンストのいう通り完成した脱出船は、過去にエルンストが作った物よりは広い甲板があるとは言えやはりスペースは限られているのだから動物を積み込むのは不可能だろう。そうしして愛する動物を「生きたまま」置き去りにするとなれば、それは死別するより辛い悲しみと後悔の念を一家は味わわねばならないという現実である。さら置き去りにされた動物たちにさらなる試練が待っており、いずれにしろ彼らを待っているのは「死」でありその原因は一家の脱出であり、イコールで考えると一家が直接動物たちに手を下すのと同じ事という現実を突き付けるのだ。さすがにこの現実を突き付けられたフローネやフランツも黙らざるを得なくなる。
 少年時代にこの台詞を聞いた記憶がハッキリ残っていて、飼われていた動物たちが一家に守られていたという現実や、とてもじゃないけど一緒に脱出できないという現実を知った。過去にエルンストが作った小さな船ならそれはなおさらで、エルンストの脱出計画は動物を全て置き去りにするのが前提だったことも理解して背筋に寒気が走った記憶もある。だからモートンがいう通り、ロバがこのタイミングで死んだのは運が良かったのだと理解できた。この台詞は少年時代の私に、「野生で生きることの難しさ」を教えてくれた。
 もちろんモートンもロバの死を悼んでいる、これはこの台詞が暗い口調で言われていることからも理解できるだろう。そしてこの台詞と共に映し出される、ロバの墓前に手向けられた花はモートンの深い悲しみを表しているともいえるだろう。
名場面 進水 名場面度
★★★★
 いよいよ脱出船が完成する。完成した脱出船を浸水させるために、島の住民全員が一丸となって脱出船を建造位置から水面上へと移動させる。人間だけではない、ジョンやロバまで動員した総力戦だ。合い言葉は「くそーっ!」、あの上品な母親が売りのアンナまでもが「くそーっ!」と叫びモートンと笑い合いながら船を押すのが印象的だ。モートンの叫びを聞くと「サザエさん」を見ているみたいで不思議な気分になるわ、フランツの「ちくしょーっ!」という叫びはどう聞いてもアムロにしか聞こえないわで見ている方の頭も混乱する。
 この総力戦の前半はBGMなしで、脱出船がどれだけ重いかを見事に表現している。それも一度動いてしまえばこっちのもので、動きだすと軽やかなBGMが流れ出して作業が順調に進んでいることが示される。やがて脱出船が無事に水に浮いたときの一家の歓喜、これは島からの脱出が現実になりつつあることをうまく表現している。
 ここまでバラバラに「島の脱出」に向けた一家の活動は描かれていたものの、全員が総力を結集するというシーンは無かった。ここでこのシーンを挟むことによって、島からの脱出が全員の悲願であることを思い描くと共に、共通の目標に向けて全員が一糸の乱れもなく団結していることが上手く示されたのだ。特にアンナとモートンの和解が印象付けられ、仕事が無くて不満を言ってたアンナの台詞が本心だったこともこのシーンから読み取れて、「島から脱出するため」だったら何でもやるという皆の思いがうまく描かれている。視聴者はこれを見て「一家が団結している」と強く印象付けられる。
 そしてこの歓喜の後、ロバが倒れるという悲しいシーンに暗転させるのもこれまた良い。このようにうまく物語に緩急を付け、視聴者を飽きさせないつくりは「ふしぎな島のフローネ」に限らず「世界名作劇場」シリーズの醍醐味でもあるだろう。
  

  
感想  物語は「島からの脱出」の準備が順調に進みつつも、次第に次の問題点を提示する方向へと上手く転がっている。その最初の予兆はメルクルの行動であろう。メルクルは島での生活の間についに大人になったのだ、大人になったと言うことは野生の仲間達を見つけたり、劇中にも描かれたように恋人を見つけることに他ならない。メルクルはこの島で生まれたのだから、この島で生きていくのが幸せであり、多くの視聴者は一家と一緒に島から脱出させることに疑問符を付けることだろう。同時に「脱出」というビッグイベントにに、ヤギやロバといった大型動物は持ち出せないのではないかという疑問を視聴者に持たせることになる。
 そしてその疑問に答えが唐突に出てくるのがロバの死だ。脱出船進水と引き替えに生命を失ったロバは、生命掛けで登場人物と視聴者にこの問題が大問題であることを突き付けるのだ。今回を見終えた視聴者は次に「ヤギの処遇」がどうなるかを疑問に思うわけで、次回予告をみれば次回はそれがテーマにあることは瞬時に理解できるだろう。
 このロバの死自体もそうだが、この「ふしぎな島のフローネ」という物語の凄いところは「甘さ」というのが一切無いのだ。衝撃的に人や動物の「死」を描いたり、一家が常に「死」と隣り合わせの生活をしている点など、このような物語に置ける「負」をしっかり描いていることだ。そして今回から「島からの脱出」=「飼っている動物を見捨てる」という現実を「負」として問題提議し、登場人物達はこの問題に真っ向から立ち向かわねばならない。他の「甘さ」があるアニメなら、なんの問題もなく「あたかもそれが自然のように」動物たちは一緒に脱出船に乗り込んでいて、船はまるでノアの方舟の様相を呈したことだろう。ロバの死はこのアニメが甘くないからこその悲劇であり、このアニメが甘くないからこそこのタイミングで死んだのが幸せだったのだ。
研究 ・モートンの脱出船
 いよいよ脱出船が完成して進水まで進んだ。今回の脱出船建造シーンで、一家とタムタムに科せられた仕事、「以前と同じ船を作る」「ゴムノキから多量のゴムを採取する」「椰子の繊維を多量に採取する」の謎が解ける。モートンはエルンスト達が過去に作ったのと全く同じ船に今度はフタをするよう命じ、フタをした隙間に椰子の繊維で下地を作ったあとゴムを流し込み、最後は火であぶって溶着させることで漏水を防ぐこととしたのだ。こうして完成した二つの艇体に甲板を渡し、広い甲板スペースを確保して漂流中の食糧積載等のスペースとした。
 この構造は「双胴船」と呼ばれ、現在のフェリーなどの基本形になっている形の船である。双胴船の利点は広い甲板スペースが確保できること、その甲板スペースの割に水の抵抗が少なく(船体が水に接する部分の面積を減らせる)高速船に向いていること、波浪に対する安定性が高く転覆しにくいこと等が挙げられる。対して欠点は積み荷が多いと船の重心が上がって揺れやすいこと、旋回性能が悪く船艦などの急速な旋回が必要な船に向かないこと、二つの艇体を接合するスタイルにより構造が複雑な上に重量が嵩むこと、一度転覆を始めてしまうと元に戻りにくいこと等が挙げられる。
 モートンがこのスタイルにこだわった理由は、エルンストとフランツの経験だけで作れるので自分が一から教える部分が無いことだと思われる。艇体構造は過去にエルンストが作った脱出船やカヌーの流用であるし、艇体を結ぶ甲板構造もエルンストが家を作った事実を考えればエルンストとフランツで作れると踏んだのだろう。恐らくエルンストが「ブラックバーンロック」号から脱出するのに筏も造ったことも聞いていたはずだ。モートンが新たに教えたのは、前述したような水密構造に関わる部分だけだと推測される。

第46話「ヤギをすてないで」
名台詞 「俺だって怒ってるんだ。」
(タムタム)
名台詞度
★★★
 初登場から10話、やっと当欄にタムタムの名前が出てきた。遂にエルンストとフランツによってヤギが連れて行かれてしまった、その悲しみに打ちひしがれ砂浜に一人座って海を見るフローネをモートンとタムタムが見つける。モートンが「フローネじゃないか」といえば、タムタムはモートンが動物を一切船に乗せないと言ったことを咎める。そしてタムタムはフローネの隣にそっと腰を下ろし、モートンにこう言い捨てる。
 前回から次なる問題点として浮上した、「脱出の際の動物の処遇について」という問題が今回の主軸になる。その中でエルンスト一家はやはり動物を連れて行けないという方針に戸惑いを感じ、最も動物を可愛がっていたフローネは完全に落ち込んでしまっている。タムタムはそんなフローネの気持ちを察するだけでなく、彼のサバイバル生活の知識と経験によってどれだけ一家が動物に愛情を注いでいるかを知っているのだ。ジョンは多くのシーンでその嗅覚でもって役に立ってきたし、特に今回問題となっているヤギの乳によって栄養に不自由しない状況となっており、一家の生活を陰で支えているこれら動物たちの存在にどれだけ一家が感謝しているのか彼はよく理解しているのだ。その上で「脱出船に載せられない」という事情も彼は理解しており、その上でモートンに対する精一杯の反抗を見せてくれるのがこの台詞だ。
 このタムタムの反抗にモートンも慌てふためく。モートンは「動物を載せない」という施策によって、全員を敵に回したことを瞬時に理解したことだろう。
名場面 ヤギとの別れ 名場面度
★★
 一家は脱出を前に、ヤギを捨てることを決断する。この決定によりフローネはせめてもとヤギに多くの餌を与える、これにフランツも加わり、フローネはエリックには栄養源となってくれたことの感謝を、ベイスには父親を見つけるようにとの優しい言葉を掛ける。そしていよいよエルンストによってヤギの首にロープがかけられる。エルンストはフローネに「一緒に来るかね?」と声を掛けるが、フローネは「エリックとベイスを谷に置きざるにするなんて出来ない」と即座に回答する。「行ってくる」とエルンストが宣言すると、アンナとジャックが別れの声を掛け、フローネはそれぞれの頭を撫でながら別れの言葉を掛ける。そして二人は二頭のヤギを連れて森の中に消える。無言で見つめる残りの家族、どこからとも現れるタムタム。
 「ヤギとの別れ」と盛大に演じる、ここまで盛大にやられたら誰もこれが「まだ最後の別れではない」とは思わないだろう。そうでないにしてもヤギとの別れを盛大に演じるのは重要だ。なぜならこうしないと一家がこのヤギの親子を愛しているということに対する説得力が失われるからだ。一家がヤギを心から愛すると共に、栄養源となってくれた感謝の念を持っているからこそ「連れて行きたい」「別れたくない」のであり、この別れを盛大にやることがこの問題が主軸となる今回と次話に説得力を持たせる重要なシーンとなるのだ。
 しかし、この別れシーンの途中までタムタムは忘れ去られていたんだな。問題が本格化する浜辺のシーンでも出てこなかったし…こんな影が薄いキャラだったかなぁ?
 
感想  物語は最後のヤマ場へ向かっている、脱出船も完成して準備も万端で「海流の加減」によってはすぐ出発するという段に来た。ここで前話で問題提議された「動物たちの処遇」という難しい問題を2話にわたって取り上げるのだ。脱出船の大きさから動物たち、特に大型動物であるヤギを載せられないのは明白で、これにどう決着を付けるのかという問題が残っていることは前話を見た人なら容易に理解できるであろう。
 もちろん動物大好きのフローネはこれに反対の立場を取る。フローネだけでなく今回はフランツも「ヤギを捨てに行く」シーンで明らかに乗り気でなく、反対であることは明白だ。ジャックは幼いから今まで一緒にいた者と離れるのに抵抗があるのはやむを得まい。アンナも心情的には反対だが、事情が分かっているだけに辛いところだという描かれ方をしている。そしてエルンストは、ヤギを何とかしようと最も積極的に動いているがやはり反対なのだ。それぞれの「反対」の様子がそれぞれに描かれていて、この細かさが見ていて面白い。だが共通しているのは、これまでヤギに助けられていたという感謝の念をしっかり持っているように描かれたことだ。
 もちろんヤギだって捨てられるのを黙って受け入れるわけではない。エリック・ベイスと一緒に流れて来たと言うことは、このヤギは間違いなく生まれたときから人に飼われていたものだろう。だから人が何を考えているかというのはある程度理解できていると思うのだ。今まで家に繋がれていたのが、突然自然の野山に離されたらやはり「変」だと思うだろう。ヤギの側もこれまで面倒見てくれた一家を愛しているのであり、捨てられるなんて夢にも思っていなかったはずである。何よりも一家の庇護がなければ生きていけないとも思っていたことだろう。
 タムタムが反対の立場であることは名台詞欄で述べた、民主主義なら「動物は置いて行く」という施策は1対7で否決なのだが、これはここに住む皆の生命がかかっている以上は安易に多数決では決められない。恐らくモートンも立場的に辛いのだ。だからこそモートンは動物に同情しないようにしているのだろう。
研究 ・ 
 

第47話「続 ヤギをすてないで」
名台詞 「それは僕だって気になるさ。でもジョンを信じてるんだ。ジョンは狼にやられるとか、迷子になるとか、そんなドジなことはしないよ。」
(フランツ)
名台詞度
★★
 ヤギを谷に置き去りにした後、続いてジョンとメルクルが行方不明になる。一家総出で探したが手がかりすら掴めず、ついに夜を迎えてしまった。フローネが不安な表情のまま床に入ろうとすると、フランツは気にしてないって顔で既に床に入っていた。そんな兄に「心配でないのか?」と問うたフローネに、フランツはこう答えた。
 この台詞の通り不安というのは何処かに不信があるからこそ芽生えるものなのかも知れない。もちろん不安と心配は違い、それの区別をフランツが理解していればの話だ。実はこの違いを理解しているからこそ、フランツもエルンストもアンナも「心配」だけどぐっすり眠られるのである。フランツはこれまでのジョンの行動をそれなりの目線…つまりどれだけ家族の役に立っているかという目線で見て、その家庭で「実用的な賢さ」というのも見ているし体感している。だからジョンがいないのは「何らかの理由がある」と絶対の自信を持って判断することが出来るのだ。
 対してフローネとジャックは違う、彼らが抱いているものは不安であり心の何処かにある不信なのだ。彼らはジョンを「仲間」だと思っているからこそ、自分達のように庇護者がいないとまともに行動が出来ないと思い込んでいる。つまりジョンの賢さに対する不信を潜在的に持っていて、ジョンが何処かで事故を起こしたのではないかという不安を持っているのである。このフランツの台詞からは兄妹間のこんな思考回路の違いが見えて興味深いのだ。
名場面 決着 名場面度
★★
 今話の最後にようやく動物の処遇について決着が付く。夕方になってモートンが一家の家に現れ、「明日出帆」を告げる。するとフローネが慌ててジョンやメルクルの行方不明を告げようとするが…そこへジョンが帰ってきたのである。しかもメルクルとヤギの親子まで連れて。兄妹は動物たちと感動の対面を果たし、エルンストとアンナはこの光景を前にモートンに「何とか連れて行けないか?」と問う。モートンは無言のまま立ち去り掛かるが、ふと立ち止まり「えーい、もう面倒くさい。みんな連れて行け!」と叫ぶ。その声を聞いた兄妹は歓喜の声を上げてモートンに抱き付くが、モートンはそれにも負けずに「その代わり途中で食べ物が無くなったら食べる」と宣言する。フローネがモートンがそんなことするわけがないと言うと、「なんてこった、わしが善人にされてしまった」と波平まんまの声で呟く。そんなモートンに、兄妹は万歳三唱をする。
 紆余曲折はあったが動物の問題に決着が付いた。前話で記した通りモートンはこの「動物問題」において島民全員の反対を食らうなど、脱出作戦指揮者として辛い立場に立たされた。本当はモートンだって動物を置いていきたくは無かったと思われる、だからこそ子供達が「動物たちを何とか…」と声を上げることから耳を逸らしてきたのだ。
 だがその我慢も限界に来た様子をここでキチンと描いた。本来のモートンは子供好きで、また面倒見もいい質なのだと思う。だから動物を連れて行きたいという家族の思いは理解していたはずなのだ。それとは別にモートンは途中で動物の「利用価値」にも目を付けていたに違いない。航海が長引いて食糧が尽きた場合の対処法…つまり新鮮な食糧として生きた動物を連れて行くという選択肢も持っていたのだろう。だが「いざって時は食う」なんていう言葉は、「置き去りにする」以上に言い辛い言葉だったのだろう。そうなった場合は子供達の目の前で動物を殺す以外に方法はなく、モートンはそんなことができないのだ。
 ただ家族の本心は「途中で食べることになっても動物と行きたい」というものであると悟ったのだろう。こうして彼は心変わりを起こし、動物を認める事にしたのだ。この切り替えを上手く描いたと思う。
  
感想  この「ヤギをすてないで」二部作はどうも印象が薄い。本来は1話で済ませるべき話を2話に引き延ばしたのが原因と思われる。結果この2話全部通して「ヤマ場」と呼べるシーンが分散されて薄められてしまい、さらに台詞も強烈な印象を残すものがなくなってしまっている。本放映時の記憶も決着部分しか覚えて無くて、他は全く記憶に無かった。とくに可哀想なのは今話のタムタムだ。恐らく展開的にはタムタムが先導してヤギの匂いが付いた布の匂いを嗅がせてジョンにヤギの探索をさせたのだろうけど、どうもこういう構図だと一目で分かる展開になってないのが辛い。タムタムもモートンのように「影の善人」を演じさせたいキャラなのだろうけど、だったら彼の功績は劇中の一家にだけ隠せばいいことで、視聴者に対して隠す必要は無い。タムタムの印象が薄いのはこの辺りにもあるかも知れない。
 また今回、唐突に一家の物わかりが悪くなっているのも物語の統一性から外れていて見ていて気持ち悪くなる点だ。今回はエルンストはモートンと一緒に鬼になるべきところだし、アンナとフランツは「夫(父)が言うのなら仕方がない」という役回りに徹してフローネとジャックを諫める構図だったはず。だが今回はこの構図が完全に崩れている。作っている側もそれに気付いたからこそ、今回はエルンストとアンナの台詞が少なくなったのだと思う。こうして見ると、この回は終盤に来て1話分ストーリーが余ってしまったところでの話数調整なのかも知れないと勘ぐりたくなる。重ねて言うが前話とひとつにまとめれば、エルンストが鬼になるという展開で話がスッキリとした可能性はあり、ジョンやメルクルを行方不明にさせたり、タムタムが可哀想な活躍をする必要も無かっただろうと思う。
研究 ・出発日
 いよいよモートンにより脱出の決行が告げられる。夕方になって翌日の朝出帆だと一家に告げるのだ。
 モートンは毎日のようにカヌーで沖に出ては木の棒を投げていた。前話でのモートンの台詞によると、これが浜辺へ打ち上げられるうちは海流が逆なので出帆できないとのこと。果たして本当にそうなのかという疑問は多くの人が持っていることだろう。
 海水の動きというのは実に複雑だ。特にあの島のように複雑な海岸線を持っていればなおさらである。海水は水平方向に動くだけでなく、垂直方向や斜め方向など複雑な動きをする。さらに言えば一箇所で浜から沖への流れがあったにしても、近傍の別の場所では逆に流れていたりする。夏場の海難事故というのはこのような水の動きで引き起こされることが多い、泳ぎの上手い人がこの海水の流れに掴まってあらぬところにながされたりするのだ。つまり海流の方向などあんな板きれだけで判断できない、仮に判断できたとしてもせいぜい島の周辺だけだ。
 だがモートンが考えていたのは別のことかも知れない。上記に記した事実を逆に利用して、とりあえず脱出船が島の岩礁外に出られる潮の流れになるのを待っていたのかも知れない。あれだけの大きさの脱出船であれば、島の外に出られる航路は限られるだろう。体力の消耗を抑える目的で最初から櫂で漕ぐなんていうのは避けたいところだし、島影に入れば帆を張っても無駄かも知れない。そこで最初に岩礁を避ける航路を設定し、この航路部分の海水の動きが順向きになるのを判断していたと推測される。
 外洋にさえ出ればあとは帆を使えば何とかなる。海では海水温の違いが空気の流れを生み、ある程度の風を発生させるからだ。だから彼が待っていたのは、「島から脱出できる海水の動き」なのだ。

第48話「さようなら無人島」
名台詞 「どんでもねぇ、そんな浮かれた話じゃねぇんだ。明日の出発は、死出の旅路になるかも知れねぇぞ。今夜、みんな早くベッドに入ってぐっすり眠るんだ。もしかしたら、今夜限り永久に陸(おか)の上で眠れねぇことになるかも知れねぇからな。」
(モートン)
名台詞度
★★★★
 いよいよ翌日に迫った出発は、一家が夢にまで見た「島からの脱出」が実現する日である。この日を前にパーティをやろうと立案したフローネに、モートンは厳しい声でこう答える。
 そう、これが現実だ。島からの脱出という行為と、無事オーストラリアにたどり着けるかどうかという目標はイコールにはならないのだ。その辺りは研究欄に譲るが、だからこそ成功確率は低く、失敗した場合に待っているのは「死」以外に考えられない。モートンはこの現実を嫌と言うほど知っており、それをこのような台詞で包み隠さず一家に告げる。
 もちろんモートンも確実に失敗するとは思っておらず、可能性は低くても脱出にする方に賭けてみたのだし、何よりもこの作戦を成功させるために尽力するつもりであるだろう。だが43話にあった通り、彼は成功確率の低いからこそいたずらに希望を持たせることはしない。あくまでも失敗確率が高いことを示唆することで、安心は出来ないことをキチンと告げるのだ。
 そしてこの現実は、ここまでの展開がそうであったように島からの脱出は困難を伴うことを突き付け続けている。こうして不安を煽ることで物語の最大のヤマ場である「島からの脱出」を盛り上げ、「ふしぎな島のフローネ」という物語が多くの視聴者の印象に残る結果となったのだ。
名場面 無人島からの船出 名場面度
★★★★★
 もう、解説する必要は無い。「ふしぎな島のフローネ」最大の名シーンで、「世界名作劇場」シリーズでも屈指の名シーンだと思う。



  
感想  いよいよ物語は「島からの脱出」という最大のヤマ場に突入するが、今回はその「島」を強く印象付ける展開を取った。1話丸々かけて一家の島での思い出、建てた家への思い、そして起きた出来事を振り返り、視聴者も一緒に島に別れを告げるように話を持って行ったのである。こういう部分にゆったり時間をかけ、一家にとって島での生活がかえがえのないものであったことをキチンと描いた。これを1話で収めたのだから素晴らしいのであって、「ヤギを捨てないで」二部作のように2話もかけられたら「しつこい」と誰もが思うところであろう。
 そんな展開の中でも名台詞欄に書いたように、「島からの脱出」という一家の悲願がバラ色ではないことも示唆している。成功確率の低い作戦に賭けるというこの展開は、ある意味「世界名作劇場」シリーズで最高の主人公のピンチともいえる。もちろん最終回まで残り2話と言うことを考えれば失敗するわけはなく、視聴者のみどころはこの脱出船上でどんな展開が待っているのかという方向へ向いているだろう。これで次話が飢えと渇きで乗員が一人ずつ死に、最後は主人公のフローネ一人が生き残る展開になったら後味が悪過ぎってもんだ。
 展開として一家が最後に「この島でやりたいことをやっておく、心残りのないように」するというのはいい展開だと思った。ただ別れのシーンを感動的に盛り上げるのでなく、一家のそれぞれが島にどんな思いがあるのかしっかり描き、その上で家や島との別れを丁寧に描いた点はこの物語を印象付ける大きな要因のひとつだ。その中でエルンストは最後まで家の修理に勤しみ、アンナは畑の手入れで時間を忘れるというのは、二人が失敗しながら時間をかけて作り上げてきたものへの「思い」がうまく表現されていていい。フランツとフローネは方法は違えど、「島の風景」を愛しこれを心に焼き付けるという行為を描いた。ジャックはコレクションの石や貝を元の場所に戻すことで、島への未練を断ち切るという子供らしさが描かれている。その後に妻や家との別れを盛大に演じたかと思うと、もう島でのことは物語に出てこなくなる。こうして「島」をうまく断ち切る展開にしてきたのは、今見直して感心した点だ。
 そしていよいよ次回、この困難な脱出劇が描かれる。
研究 ・脱出船出帆
 いよいよ脱出船が出帆した。今後の物語展開と照らし合わせると、この出帆は4月の初旬〜中旬にかけてということになる。一家は1年4ヶ月の無人島生活に終止符を打ち、成功確率が低いと言わざるを得ない脱出作戦に全てを賭けることになった。これがどれくらい困難なのか研究してみよう。
 実は大きな問題として、この無人島の位置を誰も正確に知らないことである。オーストラリアまでどのくらい距離があるのか、定期航路までどれくらい離れているのか誰も正確には知らないのだ。モートンもこの島の位置を正確に把握しているのでなく、だいたいの位置を予想しているに過ぎない。恐らく彼が割り出した「東経155度・南緯10度」という島の位置も、彼が乗った船が遭難した地点か、あるいは遭難前に最後に測位した地点から導き出した予想値に過ぎないのだ。その予想値と実際の位置がどれほどズレているかは、予想値を出したモートンにも解らないことなのだ。41話でのモートンによる救出作戦だって、そこに航路があると「予測」しただけであり「間違いなくある」と絶対の自信を持っていたわけではない。
 水や食糧については前話以前の劇中に語られているが、これが完全に枯渇した際は「失敗」と言うことで対策は立てられていない。どうしてもという場合は食糧にするという前提で動物を積んでいるにしても、それを殺して肉を作るだけの器具が十分とは思えず食べるのにかなり苦労することだろう。どちらにしろ水がなくなればアウトで、海水を湧かして蒸留するような器具が無い以上雨が降らなければ動物に手を出す前に飢えてしまう。
 航海術についても満足な測位器具を持っていない。モートンがコンパスを一個持っているから進行方向は決められるが、船のスピードは解らないし、何よりも波や風で流される分を考慮することが出来ないのだ。もちろん太陽の位置や星の位置から経度・緯度を割り出すような機材もあるはずが無く、それ以前に出発地点の正確な位置も解らないのだから完全な手探りでの航海になる。つまり航海術と呼べるようなものは無く、「このあたりだ」と大まかに予測した島地点を元に、この方向へひたすら向かえば大陸があるといういい加減な航法を取る以外に術がないのである。最初に予測した島の位置が合っていれば問題はない、ただそれが大きく外れていた場合はいつまでも陸地にたどり着けないことになる。
 航海中に定期航路を横切り、そこで定期船に拾われる可能性もあるとお考えの方、ハッキリ言ってそれは甘いと言わざるを得ない。41話でのモートンの作戦が自分の死を覚悟したものであるというのは誇張ではなく、実は大きな海で「何処を走っているか解らない」船を探し出すのはいくら航路が決まっているとは言え困難なものなのだ。モートンのように出発地点の正確な位置が解らないならなおさらだ(逆に決められた航路を走っている船同士だと、今度はぶつかる可能性が高くなるからややこしいのだがその論については本筋から離れるからカット)。もちろん逆も然りで、相手が何処にいるか解らないのであれば「そこにいるのに発見されず」ということもある。航路を横切った際にたまたま船と出会ったとしても、それに発見されるかどうかは解らないのだ。手が届くほど近付いたとしても他船や岩礁との衝突が考えられない海域であれば船の見張り要員も減らされるし、夜間や濃霧ならあの脱出船は全く見えないであろう。そうなれば船が近くにいても発見されずに通過される可能性もあるのだ。それならばまだ良い方で、特に夜間や濃霧の場合は発見されないまま船と衝突する事態も考えられ、その場合一家は救出を目の前にして全員海に投げ出されて死ぬことになる。「タイタニック」号の悲劇を例に出すまでもなく夜間の障害物の発見の難しさを考えれば、夜間は通りかかる船を見つけても近寄らない方が得策だということになってしまう。
 こうして考えると、名台詞欄のモートンの台詞が決して誇張ではないことはご理解戴けるだろう。だが一家が文明生活に戻るためには、いつかは通らねばならない茨の道なのだ。そしてこの困難を克服してやっと、一家はこの無人島を出ることを許されるのだ。

第49話「陸が見える!」
名台詞 「…水…水ちょうだい…。」
(フローネ)
名台詞度
★★★★
 無人島を発ってから26日目、予定より10日以上も船旅が長引いたことで乗っている皆は飢えと渇きに苦しんでいた。遂にフローネが耐えきれずに海水に手を出そうとするときに繰り返すこの台詞を、今回の名台詞として挙げたい。
 この状況は「世界名作劇場」シリーズで最大の主人公のピンチと言っていいだろう。この「死」と紙一重の状況に追い込まれた主人公を挙げるとすれば、そのまま昇天してしまったネロは別にして、雪の草原に倒れたマルコと、真冬の雪道で川に落ちて倒れたアンネットくらいだろう。だがアンネットの場合、誰かが通りかかることを少しでも期待できる状況からしてこれほど深刻なピンチではなかったと思われる。これは無人の荒野で倒れたとは言え、そこが街道である以上やはり誰かが通ることを少しでも期待できるマルコの例とて同じ事だ(だがその確率はマルコとアンネットではかなり違う)。だがフローネ一家の場合、周囲に人の存在などあり得ない大海原での出来事。そこが航路かどうかも分からないし、仮に船が通りかかったとしても前話感想欄に記した通り、発見してもらえるとは限らない。
 そのピンチを担当の松尾佳子さんが素晴らしい演技で盛り上げてくれた。このシーンでの緊張感を感じ、本放映時も手に汗握ってみていたのを今でもハッキリ覚えている。喉の渇きに耐えられない苦しさ、目の前に大量の水(海水だが)があるのに飲めないという辛さ、このまま渇きに苦しむなら死んだ方がましという投げやりな心境、せめて死ぬ前に海水でも良いから飲んで喉を潤したいという心の叫び…この極限状態に置かれた主人公を見事に演じきっている。その演技が素晴らしいからこそ、見ている方は手に汗握って渇きで苦しむ主人公がどうなるのかと、心を痛めながら視聴を続け、このシーンを見た時のことを30年近い時を超えてハッキリ記憶に残るよう程のものにしたのだ。
 このピンチにもちゃんとモートンは対策を出してくる。このような事態に備えてタムタムが見つけた蜂蜜を隠してエルンストにも内緒で置いたのだ。蜂蜜は栄養価が高く、長期保存に向いていることを考えればこのような「最後の手段」として有効な食糧になる。もし一家が蜂蜜の存在を知っていればこのようなピンチになる前に消費される可能性があるだけでなく、特に子供達はその甘い液体を「おやつ」として狙うことだろう。つまみ食いなどで無くなってしまったら目も当てられない。まさに「宇宙戦艦ヤマト」の真田さんばりの展開で、一家を生還へ導いてくれたのだ。
名場面 陸地発見 名場面度
★★★★★
 恐らく名台詞欄シーンの深夜のことだろう、船首で見張りをしていたエルンストとモートンは椰子の葉が流れて来た事に気付く。葉は枯れていないことから陸地が近いことが解り、二人は手を取り合って喜ぶ。
 そして翌早朝、双眼鏡を使って見張りをしていたモートンが朝靄の中から浮かび上がる陸地を見つける。モートンは「陸だ!」と叫びながらエルンストに双眼鏡を投げ渡す、エルンストも双眼鏡越しに陸地を確認し、上ずった声で家族を起こす。驚いて飛び起きた一家が前方を見ると…もう肉眼でハッキリ見えるほど陸地が近付いていた。「本当に陸だわ!」とアンナが声を上げ、フローネは目を潤ませながら「とうとう着いたのね…」と呟く。幼いジャックも状況を理解し、呆然と陸地を見つめる。フランツもタムタムも喜びに満ちた表情で陸地を見つめる。モートンもエルンストも神妙な表情だ。そして苦しかった航海後半のシーンが流され、この脱出計画が苦しみを乗り越えて成功したことを示唆する。そこへ朝日が昇る、船が朝日の中を陸地目がけて進んで行くシーンで、今話は終わる。
 もちろんこのシーンも「ふしぎな島のフローネ」屈指の名場面だ。一家の無人島からの脱出が成功して漂流生活に終止符を打ち、無事にオーストラリアに到着するという「物語の結論」はこうして台詞の少ないシーンとして描かれた。台詞の少なさは一家が漂流して以来ずっと待ち続けた日が来たという思いと、この航海での苦しみとそれからの開放をうまく表現する事にあっただろう。もちろんそれは大成功で、この陸地到着シーンも30年の時を超えて本放送で見た時のことをハッキリ覚えていた。当時の私は、一家と同じように深い感動に包まれた。
 またこのシーンの描写も美しい、幻想的な朝靄の中に浮かび上がる陸は長い旅路の終わりに相応しいものだ。そこへ登ってくる朝日は一家の希望を示すと共に、新しい土地での生活が始まることを示唆している。この陸地発見シーンを早朝のシーンとして描いたのは正解だろう、これが昼間とか夕景だったら白けたかも知れない。夜だったら話にならなかったかも。
 

 
感想  ようやく話がここまで来た。長い物語だった、「ふしぎな島のフローネ」を大人になってから全話通しで視聴するのは初めてだが、再放送を見る度にこの話を見てそう思ってきた。他の「世界名作劇場」作品と長さは対して変わらないのだが、「ふしぎな島のフローネ」は内容が濃密なので本当に長く感じる。今話でようやく物語に「結論」が出て、「本編」部分が終了する。
 今話は3部に分かれているといえる。前半はこの脱出の航海の「明」の部分が描かれる、天気は良くて潮風も心地よく、魚も採れて予想外の食事に一家が喜ぶシーンだ。ここではフローネが「こんな船旅ならいつまでかかってもいい」とか言い出す辺りは、後半との対比のためなのだろう。だがそれより前に風景が変わらないことに子供達が飽きてくる点を描くのはリアルだ。本来船旅というのは退屈な物で、これは「ふしぎな島のフローネ」でも「ブラックバーンロック」号が嵐に遭遇する前にも徹底的に描かれてきたことなのだが、その「退屈」をキチンと再現しているのは好ましい。乗り物好きの私ですら日本海でたった30時間の船旅で結構退屈していたからよくわかる。
 そして後半は一転してこの航海の「暗」の部分を描く。嵐との遭遇をきっかけに船は思うように進まなくなり、食糧や飲料水も底を突いて全員が飢えと渇きに苦しむという苦難の旅だ。これについては名台詞欄に書いたから良いだろう。その後半部分の最後に名場面欄シーンとなる「陸地発見」の喜びが3部目だ。
 物語は結論を出して決着が付き、「完結編」ならばこのままエンディングがかかっておしまいというところまで来たが、「ふしぎな島のフローネ」は物語にしっかりオチをつけるべくもう一話残されている。これは「世界名作劇場」シリーズの定番で、一部の例外を除き結論を出して物語に決着がつけば終わりというつまらない終わり方はしない(なお「フランダースの犬」は展開上こういう終わり方は出来ない)。えーとっ、どんなオチだったっけ?

 ちなみに今話の冒頭でフローネが「順風満帆」を「じゅんぷうまんぽ」と言っているがこれは間違い、「じゅんぷうまんぱん」と読むのが正しい。また今回は嵐(熱帯低気圧)のことをモートンが「颶風(ぐふう)」と言っているが、これはかつての日本(明治以降昭和以前)や中国での台風の呼び名のことである。ちなみに「台風」とは中国語の「大風(タイフン)」が欧米で「タイフーン」になり、この言葉が日本に輸入される形で「台風」と訳されたとの説がある。ちなみに明治時代以前の日本では、熱帯低気圧による嵐は「野分」と呼ばれていた。
研究 ・脱出船の航海
 一家は苦難の道のりを経て無人島からの脱出に成功し、オーストラリアのシドニー郊外に漂着することに成功した。元々は2週間程度の航海の予定だったが、結果的には最低でも27日もの航海となった。今回はこれについて研究したい。元々は2週間の予定というのは今話の序盤でフランツがそう語ったのが根拠だ。
 ではこの地図を見ながらの説明としよう。「1」地点はモートンが無人島の位置として推測した「東経155度・南緯10度」の地点であるが、この実はこの位置に無人島があったとすると嵐による「ブラックバーンロック」号の動きとかみ合わなくなってしまう。これはもし7話の研究欄に示した通り、船が嵐に遭遇した際に進路を東に向けていたとなるとこの位置に到着する前にどうしても他の島に当たってしまうからである。また脱出船が無人島から南へ南へと進路を取ったというのが正しければ、脱出船はロッセル島という島の近傍を通ることになる。モートンほどの航海術を持つ男がこの機知の島の存在を知らないとは考えにくいので、それらを考慮した場合に無人島の位置はこの辺であって欲しいと記した場所が「2」地点である。これも推測で明確ではないので、ここでは「1」地点と「2」地点の中間を無人島位置と仮定して話を進めたい。
 そして「3」地点が脱出船の漂着地点、次話で漂着地点が「シドニーの少し北」であることが判明する。今話のラストシーンに出てきた陸地には山から伸びる岬が描かれていたので、シドニー近郊で山がありそうな地点ということでこの場所に漂着したと判断できる。
 もちろん脱出船はこの間を最適なルートで結べていない。理由は嵐に遭遇したときにかなり風雨に流されたと見るべきである。嵐とはいえあんな小舟で耐えられたのだから、脱出船は熱帯低気圧でも比較的風雨が弱いところを通っていったと考えるべきだ。すると脱出船は熱帯低気圧の北側に回り込み、西からの風を受けていた可能性が高い(詳しくは7話の研究欄参照のこと)。脱出船は嵐にもまれている間、西からの強い風に煽られてかなり東に流されてしまったと考えるべきだろう。そうすればなかなか陸地に行き当たらなかった劇中の描写と一致する。
 モートンは出帆10日目から進路を南西に変更したと劇中で語っている。嵐が去ったのが14日目であることを考えると、進路変更は嵐が来る前と考えられる。これらをまとめると、脱出船の経路は赤線のようだったと推測されその航行距離は約3700キロ、私の推測通り航行時間が27日だったとした場合1日辺りの航行距離137キロ、平均5.7km/hという人が早足で歩くのとほぼ同じ速度であったと考えられる。
 その行程を時系列にまとめるとこうだ、無人島を出帆した脱出船は順調に南下を続け、10日目に「4」地点で進路を南西へ変更する。そのまま行けばあと4〜5日でブリスベンの北にあるバンダバーグ辺りに漂着できたはずだが、進路変更の翌々日頃に熱帯低気圧に遭遇、西風に煽られて東へと流される。こうしてニューカレドニアの南西まで流されてしまった上、ここで無風状態となり丸1日足止めを食らったのが14日目。だが劇中の描写を見る限り足止めを食らったのはこの1日だけで、他のシーンでは風もあって帆もなびいているので船がキチンと進んでいたのは確かだ。モートンは南西へ進路を取り続けるが、この方向へ進路を取ると大陸にぶつかるまで無人島から「4」地点より長い距離があることなどモートンは知るところではなかっただろう。結果航海日程は延び、皆が飢えと渇きに苦しむようになり、最後の手段として蜂蜜を出したのが26日目。その翌朝に「3」地点に到達して上陸したということになる。
 ただ最初の10日間が真っ直ぐ南下できていたかどうかもかなり怪しい。コンパスを頼りに進路を真っ直ぐ取るのならば24時間誰かが進路保持のため操縦しなければならないはずだが、この最初の10日間は夜になると全員毛布をかぶって同じ時間に寝ているのだ。寝ている間に風向きが変わったりすると船はあらぬ方向へ進むわけで、このときに船が東に流された事は充分に考えられる。
 以上、脱出船の航路を推測してみたが、この脱出作戦をここまで詳細に推測した人は今までいるだろうか? もし他の推測があったら是非とも見てみたい。

第50話「また会う日まで」
名台詞 「先生、私は若いからこそ、若いときの1年を無駄にしたくないんです。」
(エミリー)
名台詞度
★★★★
 ロビンソン一家とエミリーは感動の再会を果たしたのも束の間、実は別れの時が刻一刻と迫っていた。エルンストが医師としてエリオットの病院に勤務し始めたその日、看護士見習いのエミリーはエリオットに呼び出される。そして「例の件」について、「せっかくロビンソン一家と再会できたのだから」という理由で1年ほど延期にしたらどうだと提案されるのだ。これをエミリーは拒否し、その理由としてこう言う。
 若いときに限らず、1年という年月をいかに有効に過ごすかということは多くの人が大切に感じている事だろう。だがこの台詞はそれを示しているのではない、暗にロビンソン一家が失った年月というのを示唆する台詞でもあるのだ。ロビンソン一家は船の難破による漂流生活で、なんと1年5ヶ月も社会と接することなく生活したのだ。社会と接することがないという事は、この期間中全く社会に役立つことが無かったと言うことである。つまり極限まで冷静に言えば彼らは1年5ヶ月も無駄に過ごしてしまった。さらにこれが本人の責任によらないことが原因であるので自業自得というわけでもない。こんなロビンソン一家の「損失」を示唆する役割もあるのだ。
 そして同じ船に乗って九死に一生を得たエミリーだからこそ、このロビンソン一家の「損失」を誰よりも理解して同情しているのだ。だからこそ彼女は自分の目標をとっとと成就させ、一日も早くフランツと共に生活できる日が来るようにしなければならないと感じたのである。既にフランツが1年5ヶ月も回り道させられたのだから、そこからさらに自分が自らの意志で1年遠回りするわけにはいかない。これがフランツに対する最大の愛情なのだ。
 しかし、エミリーがこの欄に2度も出てくるキャラになるとは。前回出てきたときは「風の少女エミリー」を同時進行させるなんて思っていなかったけど、今はどっちもこっちもエミリーで大混乱だ。
名場面 逆立ち 名場面度
★★★
 メルボルンに着いて初めて学校へ行く日、ジャックは地元の子供に塀の上を歩けないという理由でバカにされる。これに腹を立てたフローネが口答えすると、「お前に出来るのか?」と挑発され、フローネはその挑発に乗り「逆立ちして歩いてみせる」と啖呵を切る。フローネはジャックに荷物と帽子を預けると塀の上に登り、宣言通り逆立ちで歩いて子供達を驚かせる。「どんなもんだい!」と調子に乗るフローネだが、おやくそく通りバランスを崩して塀から転落。痛がっていた様子だが、「ちょっと調子に乗りすぎたかな?」と笑う。
 もちろん、これは1話において逆立ちで視聴者に強印象を与えたフローネの最後の強印象シーンだ。このシーン単独で見るとどってことのないシーンだが、これを1話の名場面シーンを思い出しながら見ると、あまりの長い伏線回収に驚く方もあるだろう。逆立ちで視聴者に印象付けたフローネは、最後に逆立ちシーンを印象に残して去って行く。まさに「逆立ちに始まり逆立ちに終わる」といた感じだ。
  
感想  物語は上手くオチを付けた。そのオチとは、なんと「船出」というのは驚いた展開だった。エミリーとの再会は本放映時も予想していたが、エルンストが働くつもりだった病院に勤務していたという再会法は全くの予想外。しかもエルンストを呼び寄せたエリオットが世話をしているという。
 それとモートン、彼はメルボルンに到着してから次に乗り組む船が決まるまで何処でどう生活していたんだ? この間は少なくとも2日はあったはずで、考えられるのは馬車に乗っている時に出会った女の元にいたということだろう。つまりあの女はモートンの愛人って訳だ。すげー、モテるんだ。「世界名作劇場」のキャラで、一般人(王族等は別ってこと)なのに愛人がいるキャラなんてほかにあったか? 少なくとも私は知らない。しかもこれまで無人島で禁欲生活だったから…この先は官能小説になってしまうからやめとこう。
 明確では無かったが、この最終回のテーマは名台詞欄に書いたように無人島生活で一家が「失った時間」だ。これには今回の視聴で初めて気が付いた。しかもその損失に一家が気付いてなくて、そんな一家を見たエミリーとタムタムがこれに気付いて「夢のために1日も無駄に出来ない」という思いをしっかり胸に抱き、これを視聴者に突き付けてくるのだ。その「1日も無駄に出来ない夢」に向かって二人が旅立って行くという展開を物語の「オチ」としたのだ。二人が「1日も無駄に出来ない」と決心を新たにするのは、一家が失った時間というのを目の当たりにしたからなのは間違えようのない事実だろう。
 実は無自覚だが一家が「失った時間」を演じるシーンもある。それは名場面欄シーンの直前、兄妹3人が揃って学校へ行くシーンだ(就学年齢とジャックの年齢設定が合わないというツッコミは無しだ)。ジャックは無人島で出かける際の癖でメルクルを連れ出してしまい、フローネは裸足のまま家を飛び出してきてしまう、それらを咎めたフランツもネクタイを締め忘れるというシーンは、3人が失った時間の中でベルンで過ごしていた本来の日常をも失ってしまった事を示唆している。恐らく兄妹のこの癖はしばらく抜けなかったことであろう。
 いや〜、それにしても長かった。連載期間で見ても「赤毛のアン」とほぼ変わらないはずなのに、「ふしぎな島のフローネ」は物語自体が長いと感じさせられたなぁ。この連載に最後までお付き合い下さった皆さん、お疲れ様でした。最後にもうちょっとだけ、今話の研究欄と総評にお付き合い下さいませ。
研究 ・「ブラックバーンロック」号乗員のその後
 今最終話の最も印象的な展開は、船上での物語を一家と共に紡いできたエミリーとの再会だろう。6話で最後の救命ボートを巡るシーンを一家と共に演じ、絶叫と共に救命ボートで嵐の海へ消えたエミリーがどうなったか。これは物語を見てきた人はずっと気になっていたに違いない。
 劇中のエミリーの証言はこうだ。エミリーが乗った救命ボートは担当水夫の腕が良かったために無事に嵐を乗り切った、だがその後の漂流で乗っている人たちは次々と倒れ、いつしかエミリーも気を失ってしまう。気付けば通りすがりの船に救助された後で、他に助かった人はいないとのことだ。
 これを具体的に考えて見よう。まず「腕の良い水夫によって嵐を乗り切った」という点だが、ここからは阿鼻叫喚の地獄絵図を想像することが出来る。エミリーが乗った救命ボートは波浪に流され、恐らくロビンソン一家が生活した無人島とは逆方向に流されたのだろう。各救命ボートの出発時刻はそんなに変わらないはずだから、波浪に流されれば救命ボートは同じような場所に流されて行くことになる。そこに何隻の救命ボートがあったかは解らないが、エミリーが「水夫の腕がよかったから助かった」と理解している事はそうでないボートの存在を知っている…つまり波浪に耐えられずに転覆ボートがあったのを目撃していることになる。恐らくエミリーが乗ったボートの視界内にあるボートは、全てこうして失われたのだろう。これはエミリーが乗っていた救命ボートにたまたまいい船員が乗っていたという幸運ではなく、必然的なものであると断定できる。これはエミリーが乗ったのは「最後の救命ボート」であることが理由である。恐らく退船の段階で残されていた船員は救命ボートの数と同じだったのだろう、船客の退船を監督するために最も上級の船員が最後まで残っていたのだろう。エミリーは「水夫」と証言していたが、実は航海士クラスの高級船員の可能性が高い。このような上級船員なら、小さなボートを嵐の中で浮かべておくだけの技術力はあろう。
 次に嵐を乗り切った後だ。救命ボートには緊急用の食糧が積み込まれていたと考えられるが、これらは嵐による揺れで塩水によって濡れてしまったり、ボートから落ちて流されたに違いない。9話の描写では翌日には嵐は去って晴れていたので、早くも救命ボートの人たちは飢えと渇きに苦しむようになる。嵐への対応で体力を消耗していた船員が真っ先に倒れたと考えられる。そして船員というこの状況に置いての救世主になるはずの人物が真っ先に倒れたことで、乗っていた船客は緊張の糸が切れるかのように倒れていったことだろう。まずは年寄り、次に子供…恐らくエミリーのような若者は他に誰もいなかったのだと推測される。と言ってもエミリーが生きてられるのはせいぜい3日と考えられ、3日以内に通りかかった船に助けられたと考えるべきだろう。助けられた際にはエミリーは死ぬ寸前だったと思われ、拾った船の船医の適切な処置でまさに九死に一生を得たといったところだろう。
 他の救命ボートは少なくともエミリーを助けた船に助けられていないようだ。他にも嵐を乗り切った救命ボートはあったと考えられるが、それらは通りかかった船に拾われることなく海の藻屑となったか、さもなくばエミリーの知らないところで発見されていたかのどちらかだろう。ただエミリーが「生き残ったのは自分一人」と断言していることから、他のボートに乗った人々は全員死んだと見るべきだ。乗っていた船の名前は解っているのだから、他に生存者がいれば何かしらの形でエミリーにも情報は入っていると考えられる。エミリーに情報が入らなくても、自分が呼び寄せた友がその船に乗っていたエリオットは情報収集をしていたはずだからだ。
 エミリーを助けた船はオーストラリア行きだったのは確かだ。エミリーはメルボルンにいたのが何よりの証拠で、エミリーの身元がどうであれとりあえず船の行き先に従ってもらう事になったのだろう。エミリーは身元引き受け人を確認するため、助けられた船の船長に色々聞かれたのだと思う。そこで家族は全て事故で死去したことがわかり、困ったエミリーは船内で仲良くなったロビンソン一家の事を話したのだろう。ロビンソン一家の旅の目的を聞いていたことをエミリーが告げると、そのロビンソンが行くはずだったエリオットの元へとりあえず行ってみようという話になったのだと思う。こうして船がオーストラリアの何処かに到着すると、エミリーの身元はオーストラリアの関係機関に渡され、「メルボルンの医師エリオット」を頼りにエミリーの身元引受人を捜したと言ったところだろう。
 こうしてみるとエミリーの旅路もロビンソン一家と同じ位苦難に満ちており、辛かったと想像される。特に家族の死に全部付き合わされたこと、他のボートの転覆を目の当たりにしたことはトラウマになった可能性がある。これらの経験も彼女が看護士になると決断するのに十分で、物語の最終回を彩る設定基盤として重要な役割を果たすことになるのだ。

・その後の時系列的整理
 最後に32話以降の展開を、時系列的にまとめてみよう。
11月上旬 エルンストの脱出船完成(32話)
11月中旬 エルンストの脱出船が嵐で失われる(32話)
11月中旬〜 雨季に突入(33話)
12月上旬 雨漏りにより木上の家を放棄し洞窟へ転居(34話)
12月上旬 エリック・ベイスの遺体発見(35話)
12月中旬 フローネが洞窟で人影を目撃(36話)
12月下旬 一家がモートン・タムタムと遭遇(37〜39話)
1月上旬 タムタムがダチョウを捕獲(40話)
1月中旬 モートンが火山噴火の兆候発見 単身で救出作戦決行(41話)
1月中旬 大地震発生(42話)
1月中旬 モートンの救出作戦失敗 一家に脱出計画を提案(43話〜44話)
3月下旬 モートンの脱出船進水 ロバが死去(45話)
4月上旬 動物の処遇について検討(46話〜47話)
4月上旬 モートンの脱出船出帆 一家が島から脱出(48話)
5月上旬 一家がシドニー近郊に漂着(49話)
5月中旬 一家がメルボルンに到着(50話)

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