第32話 「船ができた!」 |
名台詞 |
「確かにこの島は食糧が豊富だ。生命を維持するには差し支えないだろう。しかしフランツ、人間が生きて行くと言う事は単に生命を維持することではないんだ。他人との交流を持って、人類の歴史が築いてきた文化の恩恵を受け、そしてまた新たな文化を我々が付け加えて行くと言う事。それが本当に生きると言う事なんだ。この無人島に留まっていては、そういう生き方は出来ない。それにお母さんも心配していたように、病気になった場合のことを考えると単に生命を維持することさえ難しくなる。」
(エルンスト) |
名台詞度
★★★★ |
いよいよ脱出船の完成が近付くが、ここへ来てフランツが強烈な不安を感じる。この船は持たないんじゃないか、嵐でも来れば持つはずがない、運が良ければ船か陸が見つかるだろうが運が悪かったら…そう不安がるフランツにエルンストがこう説教する。
この台詞の前半は「人間が人間らしく生きる」という事がキチンと説明されている。「世界名作劇場」シリーズで数々の名台詞があるが、ここまで「人間が人間らしく生きる」というテーマに踏み込んだ台詞はなかっただろう、人間が生きると言う事はただ単に息をしていればいいと言うわけでないのだ。自分達が文化の恩恵を受けて文化をに関わり文化を創る…これがなくしては生きている意味はない。エルンストが15話で「自分達が文明人であることを忘れないようにしよう」と決意したのは、自分達が文化と遊離した存在にならないようにしなければならないと言う事。それには自分達が人間であるという自覚を失わず、常に理性を持ち、道具と火を使った文明的な生活をすると言うだけではなく。勉強を続けていつでも文明社会に帰れる備えをし、脱出のための欲求を捨てないことであった。それがこの無人島で「人間らしく」生きる事だが、そのように生きる目的は文明社会に戻って文化に触れ、真の「人間らしさ」を取り戻すことに他ならない。
この「人間が人間らしく生きる」というテーマに真っ正面から取り組んだ「世界名作劇場」作品は他に知らない、ただこの台詞に近い台詞を言った人物は一人だけいる。それは「ポリアンナ物語」6話で取り上げたポリアンナの台詞で、彼女も生きていても他社との接触が無ければ生きていることにはならないと劇中で力説している。
そしてこの台詞の後半は、29話でのアンナの台詞の再確認だ。この島でまた風土病にでも罹ったら、それこそ「人間らしく生きる」以前の問題となる。
この台詞によってフランツはまた初心を取り戻す。ここで取り戻した気持ちは「やはり島から脱出したい」という欲求だ。フランツは父からこの説教を受けることで自分達が限りなく野生に近い生活をしていることと、常に生死の狭間に立たされているという事実を再認識して脱出船作りに勤しむのだ。
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名場面 |
二度目の嵐。 |
名場面度
★★★★ |
脱出船が完成し、いよいよ脱出実行の日を待つだけとなった夜。一家で脱出の作戦を立てていると突如風が強くなって蝋燭の火が消える。蝋燭の火が消えたことで寝ようと決めた一家だが、風だけでなく雨も伴ってきたので急遽雨が降り込まないように風上側に幕を張るのだ。そうしているうちに外の様子は暴風雨の様相となり、一家は眠れぬ夜を過ごす。「最初から幕を張っておけば良かった」というアンナの声にフランツは「この家のおさらばする日が近いからその必要はない」と答えるが、その時のエルンストの表情は沈んでいた。またしばらく眠るが今度はフランツが雨漏りで目をさまし「船を見に行った方がいい」と父に提案、エルンストも思いは同じで早速二人は嵐の中を出て行く。二人が畑のところから見た景色は、今まさしく船が波に取られて流されそうなところだった。次に大波が来たら危ない、その前に砂浜に船を引き揚げようと必死になる。だが引き波の力が強く船を引き揚げることは出来ない。一方フローネが目をさましたことでアンナと共に様子を見に行くことになる、その頃になって遂に大波が押し寄せた。そして一家の脱出の希望が詰まった脱出船は、この大波による引き波に取られて流されてしまう。ちょうど駆けつけたフローネとアンナの目の前で…そして船は沖にある岩礁に激突して大破する。黙ってその光景を見つめるエルンストとフランツ、「お父さんとお兄ちゃんが何ヶ月もかかって作った船が…酷い、酷いわ」と静かに流れるフローネのナレーション、悲しみを誘うBGM。
一家がまたしても嵐によって行き道を塞がれるシーンで、このシーンには色々な思いが詰め込まれている。嵐が来てもまだ「脱出」への希望を捨てていないことから始まり、その希望のために必死になって船を守るぞという思い、そして船が流されると同時に一緒に希望まで流されてしまったという落胆、やっとの思いで脱出のための船を作ったのにという悔しさ、また嵐にやられたという自然への憎しみ、なによりも脱出の術を失って「人間らしく」生きる事が遠ざかった上に生死の狭間から逃れられないという恐怖。これらの全てをうまくこのシーンに詰め込んだ。
特に最後のフローネの解説は秀逸、担当の松尾佳子さんが完全にこの思いを演じたと言っても過言ではなく、この声からも悔しさや悲しさがうまく伝わってくる。
このシーンは一家の無人島での生活が、脱出から一転して振り出しに戻ってしまったことを視聴者に突き付けてくる。視聴者もここまでの一家の努力と根性を見てきただけに、この自然の仕打ちに悔しさを覚えるところだろう。だが人間という存在は常に自然から有情と非情を受け取らねばならないものであり、ここまで一家が無人島で生きてこられたのは全て自然の有情による。だが嵐によって一家をこの島に送り込んだのも自然による非情だし、今回も自然はその非情でもって一家をこの島から出させてくれないのである。この現実を登場人物と視聴者に突き付けるのに、序盤と同じ「嵐」という題材を利用し、迫力を持って描いたのである。
このシーンは私も30年近い時を越えてキチンと覚えていたシーンの一つだ。当時も流されて破壊された船を見て「そりゃないよ…」とテレビに向かって呟いた記憶がある。このシーンを通じて自然の厳しさというものをこの物語から教えてもらったものだ。だが考えようによっては一家がこの嵐をあんな脱出船で過ごすことにならなかったので、運が良かったのかもしれないとも感じていたのも事実だ。
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感想 |
いや〜、全部終わってみたら悔しい話だったなー。いよいよ脱出船が完成するが、まだ物語が50話中30話を越えたところではこの脱出がうまく行くはずがないというのは誰の目から見ても明らかであろう。またこの島から脱出できたかと思ったら今度は別の無人島、という展開があるとは思えない。だから視聴者の見どころはこの脱出計画が「どこでどのように失敗するのか?」という点になってきたはずだ。当時の私は脱出準備で数回引っ張ってから何らかの形で失敗するのだと思っていた。試運転では人だけだったが、脱出のための資材や家畜を積んだら船がこれに耐えられずに横転とか、岩礁にぶつかって沈没とか、そういう好天候で考えられる失敗を想像していたのだが、まさかここへ来てまた嵐がやってくるとは。そしてこの物語の結果に対する悔しさは一家が二度にわたって「嵐」という自然に行き道を塞がれることであって、一家の誰かの経験不足や勘違いや間違いでないという点なのだ。
だがこれは逆に幸運かも知れない、もし脱出船の完成がもっと早かったら一家はあの小さな脱出船の上でこの嵐をやり過ごすことになる。それは誰がどう見ても生還とはほど遠い状況だろう。大人になって見ると今回の脱出船は致命的な欠点が多く、とても数日にわたる航海に出られるような船でもない。この辺りは確か物語が進むとモートンが指摘したような記憶がある。
これで一家の生活は振り出しに戻る、いや振り出しというより脱出船を作り出す前の状況に戻ったというところだろう。そしてここからはここまでの30話の繰り返しでは済まされない、制作者側から見て難しい展開に入って行くことだろう。この後の物語でどのように差別化を図るかは、その都度書いて行こう。 |
研究 |
・脱出計画
脱出計画は29話から進んではいたものの、前話までは船を作る以外の具体的な進展はなかった。だが今回は様相が一転し、フローネやジャックの勉強を中断させてまで脱出計画を進行させる。船の完成が近付いたところで船に積み込むべき保存食の生産を開始するのだ。
この保存食はアンナの言う通り、木の実や魚を乾燥させることで作っている。これを少しずつ食べて航海が長引いたときの備えにしようというのが食糧計画のようだが、見たところかなりの数を用意していて節約さえすれば一家5人が一週間くらいはなんとか過ごせそうな量(1日あたり干し魚と干しフルーツを一人1つずつ)だ。恐らく干す前に魚は塩漬けに、木の実は砂糖漬けにしてから干したことだろう。こうすることで魚を食べるときは塩分が取れ、木の実を食べるときは糖分を得ることが出来る。またこれとは別に塩と砂糖を持つようで、これは保存食料が切れたときの最後の手段になるとともに、バラで持って行くコーンの調理に使うことも考えていることだろう。
保存食に続き、アンナとフローネは脱出船の帆を作る。これは「ブラックバーンロック」号の帆と思われ、海岸でのキャンプ生活時にテントを張るのに使った物だろう。もちろんこのうちの一部は「ブラックバーンロック」号から脱出するときの筏に使用したはずだ。
こうして船が完成するが、今回の船の試運転に当たっては筏の時の失敗を教訓として活かし、エルンストはかなり慎重に行っている。外海に出る手前の岩礁でアンナや子供達を下船させてから、外洋試運転としたのである。またこの試運転では沈まないかという点や、安定性能だけでなく、操船についての訓練も兼ねていたようだ。こうして船の安全が確認され、エルンストとフランツの操船に自身がついたところで初めて家族を乗せたという点はエルンストが失敗を繰り返さぬために慎重になった点と見ていいだろう。
ただこの船も多くの欠点があり、とても数日もの航海に耐えられるものではない。その辺りは物語が進むと分かることなのでここでは書かないが、二つのカヌーを単純に繋げただけで乗組員が二分割されるという今回フランツが指摘した欠点は、片方に何かあったときに救援がきかないので危険という事だけは強調しておこう。
そしてこの脱出計画は嵐の襲来によって船を失ったことで中止になる。しかしいくら脱出の望みが掛かっているからとはいって、嵐の海岸に出ることは感心しない。台風が来たときに「船の様子を見に行って」生命を落とす人が必ずいるが、まさしくこれはそういう状況だ。あれは凄く危険な行為なので、このサイトを見た皆さんはマネをしないように。あそこでエルンストとフランツが波にさらわれるようなことがあったら、残った家族が生きてゆけないのは火を見るより明らかで、エルンストは船を失ってでも家で家族を守るべきだったのだ。 |