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第31話 「わたしはのけもの?」
名台詞 「う〜ん、僕忘れた。よく聞いてなかった。」
(ジャック)
名台詞度
★★
 午前のお勉強の時間の直前、アンナがジャックに何かを耳打ちしたのだが、その内容についてフローネが問いただす。ジャックはまず最初に正直に話してしまいそうになり慌てて口を塞ぎ、続いて「今日は良い天気だって」と言われたとする。ジャックの様子がおかしいことに気付いたフローネがなお問いただすと、ジャックはこういう反応をする。
 もちろんこれはジャックの逃げ口上に過ぎず、当の本人もよく考えずに発した台詞のはずだろう。だがこの反応を選んだことには大きな意義があった、つまりジャックの「忘れた」という反応はフローネを説得させるだけの力がある、フローネから見てもここまでのジャックの様子を見ていれば「忘れた」という台詞は現実味があると思うだろう。こうして一家の幼児は姉からの追求を巧みに交わし、この夜に向けての行動を開始するのだ。
 今回も久々にジャックが存在感ある役を取っている。前回ジャックが存在感を増したのは28話、マラリアの病床にあったときだ。
名場面 フローネの誕生祝い 名場面度
★★★
 「今日は9月13日」、これをキーワードにフローネ以外の一家全員がフローネに隠れて何かしらの計画を立て実行する。昼食時に母が畑にいなかったことや父や兄が船造りをしていなかったことを指摘されると慌てふためく一家の様子や、午後にフローネが現れると慌てて何かを隠す一家の様子。この答えがついに夕食時に出る。自分だけ除け者にされたとふて腐れるフローネに、フランツがやむなく事情を説明するとフローネは飛び上がって喜ぶ。そうこの日はフローネの誕生日であり、一家はパーティを盛り上げるべく本人には内緒で準備していたのだ。こうして誕生パーティの席となるのだ。
 食卓の「お誕生席」に陣取るフローネに皆が祝福の言葉を掛け、続けてプレゼントの贈呈。エルンストは木彫りを、フランツは首飾りを、ジャックは綺麗に輝く石を、アンナが誕生祝いにと作ったポシェットの中に入れて渡す。そしてプレゼントとみんなの気持ちが伝わったフローネは、そのまま嬉しさのあまり泣き出してしまう。もっとも、食事が始まればそんな事はすっかり忘れて食べているのだが。
 物語を彩る「主人公の誕生日」である。「ふしぎな島のフローネ」ではこうやって主人公の誕生日を描いたが、これは物語の本筋に対しての特別の意味を持っていない。完全な1話完結ストーリーとしてこの1話に起承転結が収まっているのだ。これが「世界名作劇場」シリーズの主人公の誕生日と比較すると、その存在は語られているが物語には描かれなかった「赤毛のアン」のケースという例外はあるが、それまで停滞していた「本筋」部分が一気に動きだすきっかけの「南の虹のルーシー」のケース、弟が崖下に転落して物語が暗転する「わたしのアンネット」のケース(正しくはこの事件は誕生日前日に起きている)、父の死の一報が入ると共に全財産を失い下働きに落ちるという一大事件が起きる「小公女セーラ」のケースなど、多くの物語で「主人公の誕生日」は物語の転換点に印象深く描かれているのだ。だがこのフローネの誕生日はそのような路線とは違い、あくまでも平穏な日々の中で誕生日を迎え、それに見合ったほほえましいストーリーを展開する。
 またこの誕生日シーンでは一家に生じた余裕が見え隠れしているだろう。既に無人島生活も8ヶ月半(劇中時間)が過ぎ、一家もこの島での生活に慣れて今や脱出船を作るほどの余裕を持っている。「生きて行くのに手一杯」ではないからこそこのような誕生日を演じることが出来るのだ。もちろん前の方であったアンナの誕生日は、「生きて行くのに手一杯」だからこそエルンストとフランツのプレゼントは梯子という状況だったし、フローネ達からのプレゼントは緊急時に持ち出すことが出来ずニワトリに壊されてしまう。このアンナの誕生日と比べると、一家の生活がどれほど余裕を持ったか理解できるだろう。
  
感想  (その回の)主人公に内緒で主人公が喜ぶイベントを仕掛け、それで感動させるという内容はこの手のアニメではあるようでない。親という大の大人がまるで子供みたいにはしゃいでこのいたずらに参加することから、多くの人の印象に残る展開でもあるだろう。だがこのサイトで取り上げた中では、このような展開があったのは「愛の若草物語」26話くらいのものだ。あとは同じ「ふしぎな島のフローネ」のアンナの例がある(15話)位だろう。
 また「主人公の誕生日」が大々的に取り上げられるのは、「南の虹のルーシー」30話や、「小公女セーラ」11話と言った辺りだろう。フローネの誕生日は今回の物語で「9月13日」と言う事がハッキリする。実は「世界名作劇場」他作品ではここまでハッキリとキャラクターの誕生日を断定している例は少ない、「小公女セーラ」のセーラの誕生日が「3月17日」というのも「小公女セーラ博物館」様による考察結果が広まったと言うのが正解でアニメ制作者側による公式設定ではない。他に誕生日が描かれているものではそれが何月何日なのか明記されていない。ルーシーはオーストラリアが春から夏に向かっている頃としか分からないし、アンネットもロシニエール村の雪解けシーズンの直後程度しか分からない。
 しかしこの一家、隠し事するのが下手だなー。フローネに不思議な点を指摘されて、あんな下手くそな芝居をすりゃ見え見えじゃないか。だがあの位の方が見ている方には面白い。今回が一番笑える話であったかも知れないことを明記しておこう。
研究 ・ここで交通整理
 今回の物語が「9月13日」だったことがハッキリする。名場面欄に書いた通り劇中時間では無人島に上陸してから8ヶ月半だ。ここで上陸からこの日までの一家の出来事を整理しておきたい。

12月24日 嵐に遭遇
12月29日 座礁事故、ロビンソン一家以外の生存者全員が救命ボートで避難したために船に取り残される。
12月31日 筏完成、これに乗って無人島上陸。
1月1日 メルクルが合流。船長の遺体発見、「ブラックバーンロック」号沈没。
1月1日〜6日 エルンストとフランツが島を探検、上陸した島は無人島と判明。
1月2日 アンナ・フローネ・ジャックが「お化けの木」を発見。
1月5日 砂浜のテントが猛獣の襲撃を受ける、アンナの銃撃でこれを撃退。
1月5日 木上に家建設を決定。フランツがイラガの幼虫の毒液により目が見えなくなる(1月15日に治癒)。
1月中旬 フローネがマングローブに乗って流される。
1月26日 テントが猛獣の再襲撃を受ける、同時に木上の家に転居(翌27日はアンナの誕生日)。
2月 アンナが畑を作る
3月 フローネが父や兄の狩りについて行く
4月21日 無人島に船が700メートルまで近付くが、一家に気付かず。
4月下旬 ウミガメが産卵 一家が塩作りを行う
6月下旬 ウミガメの子が孵化
7月上旬 一家が砂糖を作る
7月中旬 一家に休日が設定される
7月下旬 フローネが家出する
8月上旬 一家が蝋燭を作る
8月中旬 銃弾の枯渇が問題となり弓矢を制作、ゴムノキの発見。
8月下旬 両親の結婚記念日
9月上旬 ジャックとアンナがマラリアに罹る これにより脱出のための船を建造開始 フローネが崖から落ちて遭難しその翌日子ヤギが同じように遭難
9月13日 フローネの誕生日
11月上旬 脱出船完成(次話)

第32話 「船ができた!」
名台詞 「確かにこの島は食糧が豊富だ。生命を維持するには差し支えないだろう。しかしフランツ、人間が生きて行くと言う事は単に生命を維持することではないんだ。他人との交流を持って、人類の歴史が築いてきた文化の恩恵を受け、そしてまた新たな文化を我々が付け加えて行くと言う事。それが本当に生きると言う事なんだ。この無人島に留まっていては、そういう生き方は出来ない。それにお母さんも心配していたように、病気になった場合のことを考えると単に生命を維持することさえ難しくなる。」
(エルンスト)
名台詞度
★★★★
 いよいよ脱出船の完成が近付くが、ここへ来てフランツが強烈な不安を感じる。この船は持たないんじゃないか、嵐でも来れば持つはずがない、運が良ければ船か陸が見つかるだろうが運が悪かったら…そう不安がるフランツにエルンストがこう説教する。
 この台詞の前半は「人間が人間らしく生きる」という事がキチンと説明されている。「世界名作劇場」シリーズで数々の名台詞があるが、ここまで「人間が人間らしく生きる」というテーマに踏み込んだ台詞はなかっただろう、人間が生きると言う事はただ単に息をしていればいいと言うわけでないのだ。自分達が文化の恩恵を受けて文化をに関わり文化を創る…これがなくしては生きている意味はない。エルンストが15話で「自分達が文明人であることを忘れないようにしよう」と決意したのは、自分達が文化と遊離した存在にならないようにしなければならないと言う事。それには自分達が人間であるという自覚を失わず、常に理性を持ち、道具と火を使った文明的な生活をすると言うだけではなく。勉強を続けていつでも文明社会に帰れる備えをし、脱出のための欲求を捨てないことであった。それがこの無人島で「人間らしく」生きる事だが、そのように生きる目的は文明社会に戻って文化に触れ、真の「人間らしさ」を取り戻すことに他ならない。
 この「人間が人間らしく生きる」というテーマに真っ正面から取り組んだ「世界名作劇場」作品は他に知らない、ただこの台詞に近い台詞を言った人物は一人だけいる。それは「ポリアンナ物語」6話で取り上げたポリアンナの台詞で、彼女も生きていても他社との接触が無ければ生きていることにはならないと劇中で力説している。
 そしてこの台詞の後半は、29話でのアンナの台詞の再確認だ。この島でまた風土病にでも罹ったら、それこそ「人間らしく生きる」以前の問題となる。
 この台詞によってフランツはまた初心を取り戻す。ここで取り戻した気持ちは「やはり島から脱出したい」という欲求だ。フランツは父からこの説教を受けることで自分達が限りなく野生に近い生活をしていることと、常に生死の狭間に立たされているという事実を再認識して脱出船作りに勤しむのだ。
名場面 二度目の嵐 名場面度
★★★★
 脱出船が完成し、いよいよ脱出実行の日を待つだけとなった夜。一家で脱出の作戦を立てていると突如風が強くなって蝋燭の火が消える。蝋燭の火が消えたことで寝ようと決めた一家だが、風だけでなく雨も伴ってきたので急遽雨が降り込まないように風上側に幕を張るのだ。そうしているうちに外の様子は暴風雨の様相となり、一家は眠れぬ夜を過ごす。「最初から幕を張っておけば良かった」というアンナの声にフランツは「この家のおさらばする日が近いからその必要はない」と答えるが、その時のエルンストの表情は沈んでいた。またしばらく眠るが今度はフランツが雨漏りで目をさまし「船を見に行った方がいい」と父に提案、エルンストも思いは同じで早速二人は嵐の中を出て行く。二人が畑のところから見た景色は、今まさしく船が波に取られて流されそうなところだった。次に大波が来たら危ない、その前に砂浜に船を引き揚げようと必死になる。だが引き波の力が強く船を引き揚げることは出来ない。一方フローネが目をさましたことでアンナと共に様子を見に行くことになる、その頃になって遂に大波が押し寄せた。そして一家の脱出の希望が詰まった脱出船は、この大波による引き波に取られて流されてしまう。ちょうど駆けつけたフローネとアンナの目の前で…そして船は沖にある岩礁に激突して大破する。黙ってその光景を見つめるエルンストとフランツ、「お父さんとお兄ちゃんが何ヶ月もかかって作った船が…酷い、酷いわ」と静かに流れるフローネのナレーション、悲しみを誘うBGM。
 一家がまたしても嵐によって行き道を塞がれるシーンで、このシーンには色々な思いが詰め込まれている。嵐が来てもまだ「脱出」への希望を捨てていないことから始まり、その希望のために必死になって船を守るぞという思い、そして船が流されると同時に一緒に希望まで流されてしまったという落胆、やっとの思いで脱出のための船を作ったのにという悔しさ、また嵐にやられたという自然への憎しみ、なによりも脱出の術を失って「人間らしく」生きる事が遠ざかった上に生死の狭間から逃れられないという恐怖。これらの全てをうまくこのシーンに詰め込んだ。
 特に最後のフローネの解説は秀逸、担当の松尾佳子さんが完全にこの思いを演じたと言っても過言ではなく、この声からも悔しさや悲しさがうまく伝わってくる。
 このシーンは一家の無人島での生活が、脱出から一転して振り出しに戻ってしまったことを視聴者に突き付けてくる。視聴者もここまでの一家の努力と根性を見てきただけに、この自然の仕打ちに悔しさを覚えるところだろう。だが人間という存在は常に自然から有情と非情を受け取らねばならないものであり、ここまで一家が無人島で生きてこられたのは全て自然の有情による。だが嵐によって一家をこの島に送り込んだのも自然による非情だし、今回も自然はその非情でもって一家をこの島から出させてくれないのである。この現実を登場人物と視聴者に突き付けるのに、序盤と同じ「嵐」という題材を利用し、迫力を持って描いたのである。
 このシーンは私も30年近い時を越えてキチンと覚えていたシーンの一つだ。当時も流されて破壊された船を見て「そりゃないよ…」とテレビに向かって呟いた記憶がある。このシーンを通じて自然の厳しさというものをこの物語から教えてもらったものだ。だが考えようによっては一家がこの嵐をあんな脱出船で過ごすことにならなかったので、運が良かったのかもしれないとも感じていたのも事実だ。
  
感想  いや〜、全部終わってみたら悔しい話だったなー。いよいよ脱出船が完成するが、まだ物語が50話中30話を越えたところではこの脱出がうまく行くはずがないというのは誰の目から見ても明らかであろう。またこの島から脱出できたかと思ったら今度は別の無人島、という展開があるとは思えない。だから視聴者の見どころはこの脱出計画が「どこでどのように失敗するのか?」という点になってきたはずだ。当時の私は脱出準備で数回引っ張ってから何らかの形で失敗するのだと思っていた。試運転では人だけだったが、脱出のための資材や家畜を積んだら船がこれに耐えられずに横転とか、岩礁にぶつかって沈没とか、そういう好天候で考えられる失敗を想像していたのだが、まさかここへ来てまた嵐がやってくるとは。そしてこの物語の結果に対する悔しさは一家が二度にわたって「嵐」という自然に行き道を塞がれることであって、一家の誰かの経験不足や勘違いや間違いでないという点なのだ。
 だがこれは逆に幸運かも知れない、もし脱出船の完成がもっと早かったら一家はあの小さな脱出船の上でこの嵐をやり過ごすことになる。それは誰がどう見ても生還とはほど遠い状況だろう。大人になって見ると今回の脱出船は致命的な欠点が多く、とても数日にわたる航海に出られるような船でもない。この辺りは確か物語が進むとモートンが指摘したような記憶がある。
 これで一家の生活は振り出しに戻る、いや振り出しというより脱出船を作り出す前の状況に戻ったというところだろう。そしてここからはここまでの30話の繰り返しでは済まされない、制作者側から見て難しい展開に入って行くことだろう。この後の物語でどのように差別化を図るかは、その都度書いて行こう。
研究 ・脱出計画
 脱出計画は29話から進んではいたものの、前話までは船を作る以外の具体的な進展はなかった。だが今回は様相が一転し、フローネやジャックの勉強を中断させてまで脱出計画を進行させる。船の完成が近付いたところで船に積み込むべき保存食の生産を開始するのだ。
 この保存食はアンナの言う通り、木の実や魚を乾燥させることで作っている。これを少しずつ食べて航海が長引いたときの備えにしようというのが食糧計画のようだが、見たところかなりの数を用意していて節約さえすれば一家5人が一週間くらいはなんとか過ごせそうな量(1日あたり干し魚と干しフルーツを一人1つずつ)だ。恐らく干す前に魚は塩漬けに、木の実は砂糖漬けにしてから干したことだろう。こうすることで魚を食べるときは塩分が取れ、木の実を食べるときは糖分を得ることが出来る。またこれとは別に塩と砂糖を持つようで、これは保存食料が切れたときの最後の手段になるとともに、バラで持って行くコーンの調理に使うことも考えていることだろう。
 保存食に続き、アンナとフローネは脱出船の帆を作る。これは「ブラックバーンロック」号の帆と思われ、海岸でのキャンプ生活時にテントを張るのに使った物だろう。もちろんこのうちの一部は「ブラックバーンロック」号から脱出するときの筏に使用したはずだ。
 こうして船が完成するが、今回の船の試運転に当たっては筏の時の失敗を教訓として活かし、エルンストはかなり慎重に行っている。外海に出る手前の岩礁でアンナや子供達を下船させてから、外洋試運転としたのである。またこの試運転では沈まないかという点や、安定性能だけでなく、操船についての訓練も兼ねていたようだ。こうして船の安全が確認され、エルンストとフランツの操船に自身がついたところで初めて家族を乗せたという点はエルンストが失敗を繰り返さぬために慎重になった点と見ていいだろう。
 ただこの船も多くの欠点があり、とても数日もの航海に耐えられるものではない。その辺りは物語が進むと分かることなのでここでは書かないが、二つのカヌーを単純に繋げただけで乗組員が二分割されるという今回フランツが指摘した欠点は、片方に何かあったときに救援がきかないので危険という事だけは強調しておこう。
 そしてこの脱出計画は嵐の襲来によって船を失ったことで中止になる。しかしいくら脱出の望みが掛かっているからとはいって、嵐の海岸に出ることは感心しない。台風が来たときに「船の様子を見に行って」生命を落とす人が必ずいるが、まさしくこれはそういう状況だ。あれは凄く危険な行為なので、このサイトを見た皆さんはマネをしないように。あそこでエルンストとフランツが波にさらわれるようなことがあったら、残った家族が生きてゆけないのは火を見るより明らかで、エルンストは船を失ってでも家で家族を守るべきだったのだ。

第33話「雨、雨、ふれふれ」
名台詞 「アンナ、神様が船を壊して私たちの生命を助けて下さったと思うんだ。また別の形の沈まない船を考えるよ。なぁ、フランツ。」
(エルンスト)
名台詞度
★★
 嵐が去った翌朝、一家は海岸に出て船を失ったことが間違いない事実であることを確認する。フランツが船の破片を拾うと、エルンストは「もしも船を出していたらひとたまりもなかった」と断定する。それを聞いて「やはり自分達の力では脱出は不可能なんだ」と力を落とすアンナに、エルンストはこの言葉で前回の出来事を統括するのだ。
 そう、これは不幸中の幸いなんかではなく、船出をするべきではなかったという神の思し召しなのだ。エルンストの判断通りもし船が出た後に嵐に巻き込まれていたら、一家の生命はなかっただろう。この嵐では島に留まっていた方が安全だったのは明白で、この出来事と船破壊という事実を通じてエルンストは自分の未熟さを思い知り、このように導いてくれた神に感謝するのだ。そして「船を破壊したのは神が私たちを守るため」という考えは、脱出という望みを絶たれた家族が立ち直るための唯一の考え方だ。
 もちろんエルンストが甘かったというのは確かだ。「ブラックバーンロック」号での遭難から10ヶ月、いくら気象観測態勢が整っていないとは言え、経験学的に同じような嵐に襲われることは予測できたはずなのだ。「ブラックバーンロック」号のような大船が沈むような嵐が来る可能性のある季節に、あんなちっぽけな船を出そうとしたのは結果論で言えば無謀と言うしかない。その無謀を神が止めて下さった、その結果一家が守られたという事実はこの台詞を通じて視聴者にも伝わってくるだろう。
名場面 原始人に戻る 名場面度
アンナ:「やーね、3人とも裸で。着替えがない訳じゃないのよ。」
フローネ:「気持ちいいわよ、とっても。」
フランツ:「原始人に帰ったんだよ。」
エルンスト:「そう、たまには裸も良いもんだよ。」
アンナ:「まぁ、あなたまでそんなこと仰って…」
ジャック:「おにいちゃん、げんしじんってなぁに?」
フランツ:「ずっと昔の人間のことさ。いつも裸で暮らしてたんだ。」
ジャック:「ふーん。ぼくもげんしじんになるっ!」
アンナ:「あらあら、原始人がまた一人増えてしまったわ。」
フローネ:「違うのはお母さんだけよ。お母さんも裸になったら?」


 
期待しちゃったじゃないか!

  
感想  これと言って何もない回だが、前回の感想で語った「これまでの展開との差別」はもう始まっているのは今見ると感心する。同じ無人島生活でもこれまでと決定的に違うのは、ずっと雨が降っていることだ。雨が続くのでなかなか表に出られないという展開はこれまでになく(通り雨程度しかなかった)、この大雨という要素は魚取りのシーンに代表されるように新たな食糧獲得手段を描くことになり、雨によって今までの生活の問題点が浮き彫りになるという要素を秘めている。また島の風景描写もこれまでの「青空の下っ!」という感じではなくジメジメした暗い空の下の景色を描くことになる。たったひとつの気象条件を変えるだけでこんなに物語の雰囲気が変わるというのは驚いた。
 そのいつまでも晴れない空の下で前話の総括から物語は始まって、それが終わると一気に深刻さがどっかへ飛んでしまうのだからこの差別は正解だろう。ここでまたカラッと晴れていつも通りの展開だったら、いい加減視聴者も飽きてくるだろう。二度目の嵐という「きっかけ」を作る事で雰囲気の変更を上手に行ったのだ。
 そして一家に降りかかる問題も、今回は明るく処理される。外で炊事が出来なくなった問題は木上にかまどを作る事で対処し、畑が水浸しになったことはエルンストとフランツが排水路を作ってすぐ解決する。直後に小川に架かる橋に淡水魚が打ち上げられているのを発見し、魚のつかみ取り大会となる。のちにフローネとジャックが捕まえに行くことになるこの魚は、アンナの台詞通り海から上がってきた魚と思われる。
 この閑話休題的な1話でこれまでの展開との差別化をしっかり図ったところで、次回から島の生活における「後半部分」の本編に入って行くのだ。
研究 ・雨季
 無人島は前回の嵐をきっかけにぐずついた日が続くようになる。普通なら嵐が去れば「台風一過」で天気が良くなるはずだが、この無人島ではそれと違う状況が起きているようだ。つまり季節としては雨の多い季節に入ったと見る事ができ、しばらく雨の描写を描くことでこれまでの物語と明確な違いを付ける事になる。
 これは日本の梅雨と同じで停滞前線が発生し、これが島の付近に留まっていることで起きる現象だ。停滞前線というのは夏の暖かい空気と冬の冷たい空気がぶつかった地点で、どちらの空気もほぼ同じ勢力で拮抗することで寒冷前線とも温暖前線とも違う性質の雲の固まりが出来ることである。この前線は季節による空気の移動に合わせてゆっくり動いたり、動きを止めたりたまに前後することもあるので前線に掛かった地域で1〜2ヶ月間の長雨が続くことになる。最終的には暖かい空気か冷たい空気かのどちらか(それは季節による)の勢力が強くなって消滅することになる。
 南太平洋のこの島の周辺に、季節によって定期的に来る停滞前線はないようだが、ちょっと北へ目をやってインドネシアに行くと10〜4月、フィリピンでは6〜10月が雨季となる。だがこの無人島に最も近いソロモン諸島やバヌアツの雨季は1〜3月とのことで、しかも長雨が続くのでなくスコールのような雨が定期的に降るのだという。あ、確かに10話代の気象条件と一致するが長雨はないなぁ。ちょっと手前のパブアニューギニアならちょっとずれて12〜3月が雨季になる。
 で今回が時期的にいつかという問題だが、ラストの一家がケーキを食べているシーンでアンナの後ろにあったカレンダーは「M−5」を示している。え?もう3月?
 前話冒頭でフローネは「船造りを始めてから二ヶ月が経ったの」と言っている。これは「造船に二ヶ月かかった」のであり「前話から二ヶ月」という意味ではないだろう。20話の「4月21日」と31話の「9月13日」は動かせない上、21話だけで二ヶ月が経過することを考慮すると無人島に上陸してからの出来事が31話研究欄のように進んだと想定されるのだ。これに従うと脱出船を作り始めたのは9月上旬ということになるので、今回の物語は11月ということになる。つまりカレンダーが示すべき日は「N−5」であって、11月5日ではないかと考えられるのだ。するとダメだ、この地域の雨季とこのシーンが重ならなくなってしまう…。
 日程についてはまた分かるシーンが出てきたところで考察し直すとして、この雨季の説明は停滞前線などの季節的な物ではないと考えた方が良さそうだ。「ブラックバーンロック」号が遭難したときのように、熱帯低気圧が近くで停滞していると考えるべきだろう。しかも無人島に対して絶妙な位置で熱帯低気圧が停滞したから、風はたいしたことなくて雨だけにやられているという構図だ。これを細かくやるといつ終わるか分からないので、この辺りで。

第34話「洞窟をさがせ!」
名台詞 「夢じゃないわ、絶対あるわ。そんなこというなら私一人でも見つけてみせる。」
(フローネ)
名台詞度
 洞窟がなかなか見つからず、フランツに「夢だったんじゃないのか?」と問われたときのフローネの反応。この時のフローネの顔がおかしくて印象に残った。
名場面 フローネが洞窟暮らしを提案 名場面度
★★
 長々と続く雨は一家に様々な問題をもたらしていたが、遂に家を放棄せねばならないところまで一家は追い詰められる。あまりの雨量に屋根が耐えられなくなって激しい雨漏りを起こしたのだ。
 雨上がりの間になんとか応急処置を済ませ、とにかくベッド周りだけは雨漏りがしないようにしたが、フランツが「これ以上雨が続くようだとこの家には住めない」と意見する。これにアンナが「この雨の中では屋根を葺き替えることは出来ない」と付け加え、それに対しエルンストも「全く弱ったねぇ」としか答えることが出来ない。だがここで助け船を出すのがフローネだった、かつて家を勝手に抜け出して遭難した日に洞窟で雨宿りした経験を嬉々として語るのだ。最初はエルンストもこの意見に浮かない顔をし、洞窟を掘ることを前提に考えてしまい却下しかかるが、フローネの話を聞いているうちに「何処だ」と身を乗り出して聞くが、フローネも場所までは覚えていないという。とにかく探そうと話が決まり、雨が上がり次第松明をもって出かけることとする。
 ここは物語の重要な転換点でもある。前々話の嵐以降、ずっと続く雨は一家に様々な問題を引き起こしただけでなく家を放棄せざるを得ないという重大な局面を迎えるのだ。この展開は物語が新しい展開に入って行くことになる。その展開についての内容は次回以降に解説するとして、家が変わることで今までにない新しい物語を視聴者に期待させる部分でもあろう。
 なぜ新しい展開が必要か、見ている方はそろそろ一家5人だけの物語に飽きてくるはずだからである。このままこの家で過ごさせても物語の変化には限界があることも多くの視聴者は理解しているだろう。そうして視聴者が欲している「変化」に上手く応えたシーンであるともいえるのだ。またこれが思い付き的な展開でなく、これより5話も前の29話に伏線が張ってあった辺りも感心すべき点だ。フローネが無鉄砲に家を飛び出して迷子になったあの回は、後半の展開へ向けての重要な鍵でもあったことがここで分かるのだ。
 つまり、このシーンは一家の運命が変わる瞬間でもあったのだ。
  
感想  物語は前回以上に何も起きず、一家が雨によって起きる問題を片っ端から対処して行くだけだが、物語の全体的な流れで見ていると明らかに物語が大きく動きだすのはこの回からだろう。「洞窟の正体」という核心を次回に回したためあまり印象に残らない方も多いかも知れないし、名台詞といえるシーンも名場面といえるシーンにも乏しい回だが、「ふしぎな島のフローネ」という物語が新しい展開へ向けて動きだしているのである。そしてその動きだした方向性はジョンがくわえていたティーカップが示している。それはこの島にあるこれまで誰も気付かなかった「人の痕跡」でもあるのだ。だがあまりにも平和に大きな出来事もなく進むし、これを見たフローネも対して興味を示さないのでこの重要な発見は視聴者も忘れてしまう運命にある(もちろん後で思い出すように作ってあるのだが)。
 この平和な展開で一つだけの大問題、つまり雨漏りで家を放棄せざるを得ないという問題に対しても、マラリアに罹ったときやフローネが行方不明になったときのような深刻な表情は一家に見られない。どんなに雨漏りが酷くても「何とかなるだろう」って感じになってきているのだ。これは一家がこの島での問題に慣れてきたという見方も出来るが、この大問題に対して暢気に構えていることが、物語事態が大きな変化の中にあるという事実を上手く覆い隠しているのだ。そして気が付くと物語は今までと全く違う方向性に進み出すのである。
 そしていよいよ34話、まもなく唐突に一家5人だけの物語が終わろうとしているとは、初めて見る視聴者は誰も気付いてない事だろう。
研究 ・火山島としての考察
 この島は火山島であるという設定では、この段階では明らかにされていない。だがこの設定は物語展開上重要な要素になってくるので、火山島としてのこの島を考察することは避けて通ることは出来ない。そこで本編で考察することが少ない今回の研究欄ではこの島の成り立ちについて考えてみたい。まずは下図を見て頂きたい。

左図はこの島の主な峰(「1」地点〜「4」地点)とカルデラと推測される「5」地点に番号を振った。これを右図ではオープニングに出てくる島の画を元に位置関係を照らし合わせてみた。
 この物語を見たきた方の中で「予想外」と考えル方は多いと思うが、27話研究欄で考察したように上図の「5」地点がこの島の火口がある谷間である。ここには「岩頸」(ナイフの岩)の存在し、その成り立ちを考えるとここに火口であることは動かしようのない事実だ(今回の考察は「ナイフの岩」が「岩頸」だというご指摘がなければ出来なかったことを明記したい)。またこの谷間には小さいながらも湖があることが19話で判明しており、この谷間自体がこの火山のカルデラであると推測される。カルデラとは火山の大噴火により、地下のマグマ圧が急激に下がったときに火口周辺の土地が陥没する地形のことで、日本では阿蘇はその巨大な物として有名だ。
 「1」地点〜「3」地点の峰は草木が生えておらず、また急峻な崖であることを考えると溶岩台地と推定される。恐らく玄武岩質の岩石で構成されており、この火山が過去に大噴火したときの溶岩が固まった物がだと推測される。「4」地点の左図のシーンでは緑に覆われているものの、右図ではやはり緑に囲まれていないので似たような溶岩台地だと考えられる。だが「4」地点の峰は他の峰と成り立ちが違うと思われる。一家の見張り台がある岬に続く尾根も同じで、今回登場した洞窟はこの玄武岩質で構成された尾根の側面に穴を空ける火山性の洞窟であることは確かだろう。この洞窟については別途考察の機会を設ける予定だ。
 では、これらの事から推測されるこの島のできあがり方は次の通りだ。次の図を見て頂きたい。

 この図の「第1段階」に点線で描いたように、この火山は元々富士山形をした成層火山だったと考えられる。何年前にここで最初の海底火山噴火が起きて、どれくらいでこのような成層火山になったかは分からないが、せいぜい標高500メートル程度だったと思われるのでそう古い火山ではなかっただろう。この成層火山に「1」〜「4」地点の峰を作ることになる岩石は内包されていたと思われる。成層火山が成長する過程で玄武岩質の溶岩を多量に噴出する時期があったのだろう。
 それがある噴火活動では溶岩を多量に噴出するタイプの噴火ではなく、大爆発を起こすタイプの噴火に変化したものと考えられる。それが「第2段階」だ。1980年に起きたアメリカのセントヘレンズ火山噴火のように、綺麗な成層火山の上部を完全に吹き飛ばしてしまうような大噴火があったと考えられ、「1」〜「3」の峰はこの噴火による爆発で吹き飛ばされずに残った部分である。「4」の峰は「1」〜「3」と違い、海側の斜面は爆発前の山腹そのものだから緩やかな斜面を形成する山として残ったのだと推測される。「1」〜「3」は海側の斜面も爆発やその後の山体崩壊で破壊されたからああいう四方を崖に囲まれた形となったのだろう。そしてこの噴火で吹き飛ばされた山の破片が、島を取り囲んでいる岩礁で「ブラックバーンロック」号もこれに座礁したのだろう。
 またこの活動の後期には地下のマグマ圧が急激に低下したことで地盤が沈下し、上図「5」地点のカルデラが生成されたと推測される。こうして富士山形の外見はこのたった一回の噴火活動で失われ、ほぼ現在の形になったのだ。だがこの時点ではまだ火山活動は続いていたので、カルデラの中に中央火口丘と呼ばれる山が出来たと思われる。もちろんこの山の山頂が火口になっているのだ。この中央火口丘の存在を「第2段階」図に赤線で示した。またこの頃にカルデラはカルデラ湖として水が溜まっており、中央火口丘はその中に浮かぶ島であったことだろう。だがその湖は水底から火山ガスが泡立ち、このカルデラ全体がとても生物が生息できる環境ではない死の世界だったと推測される。
 やがて火山活動も収まり、現在の「第3段階」の姿へと島は変貌する。カルデラの水が流れ出ることで水の出口方向にまず巨大な滝が形勢され、ここが浸食されて行くと滝が小さくなると共にカルデラ湖も小さくなっていったことだろう。同時に中央火口丘も浸食されてゆき、火道が「岩頸」として残って後日「ナイフの岩」と名付けられることになる。その中で玄武岩質の各峰はさらに角張った特徴的な姿を強めて行くことになったと考えられる。カルデラ湖自体からも火山性ガスの発生は止まり、やがてカルデラも生物の楽園として変化して行くことになった。湖はついに池程度の大きさになって、滝もちょっとした落差という感じになった頃に人間社会の時代を迎えたのである。それが劇中に描かれたこの島である。
 さて、この島の今後であるが少なくともここで考察した「第2段階」からは大きな噴火は起こしていないと思われる。火口も浸食して固まった火道を残すだけの状態だから、ここ数万年は噴火していなかったと想像される。以前なら「死火山」とか「休火山」と呼ばれたはずだが、現在はこれらの区別はなくなっているので「現在活動していない火山」に分類されるだけである。だが火山というのはいつどんな活動するか解らないものである。それについては今後考察の機会を設けたい。
 なお、この説は私があくまでも個人的に「横好き」の範囲内で立てた推測である。もしこのサイトを火山とか地学の専門家の方が見てらっしゃいましたら、是非ともその立場からこのこの島の考察を聞いてみたいものである。

第35話「洞窟の秘密」
名台詞 「エリックさん、私たちここへは時々来ますからね。寂しくありませんよ。」
(アンナ)
名台詞度
★★★
 木上の家を放棄せざるを得ない一家はフローネが発見した洞窟へ引っ越す事を考えたが、名場面欄に記す通りこの洞窟で白骨死体を発見した。残された日記から死んでいたのはエリック・ベイスという男であることが分かり、一家と似たような時期に似たような経過を辿ってこの島に流れ着いた事が分かった。
 一家は以前作った船長の墓の隣にこの男の墓を作り手厚く葬ることにした。この男と一緒にこの島へやってきたと思われるヤギの親子も参列させ、この葬儀が無事に終わり子供達は先に家へ帰るが、アンナだけはエリックの墓前に残る。そして墓に向かってこう言うのだ。
 アンナはこの島での生活がどんな孤独なものか、よく理解しているからこそエリックに強く同情しているのだ。エリックの死体を発見したときもその様子から彼が一人で死んだことが分かる状況で、自分達の孤独と重ね合わせて一番最初に涙をこぼしている。子供達は親と兄妹がいることであまり「孤独感」というものを感じておらず、エルンストは色々な事を考えねばならないのと、家族の生存が自分の肩に掛かっている重圧からそんな孤独感を味わっている暇はないはずだ。だがアンナはここでの生活がどれだけ孤独なものか分かっている、エルンストとフランツが留守の時は彼女がフローネとジャックを守っていたのだし、そんな状況下で猛獣に襲われて対決を挑んでいる。そんな時に彼女は「ここでは誰も助けてくれない」という事を身をもって体験し、この現実が彼女の心に「孤独」という感情で突き刺さっているのだ。彼女のエリックに対する想いには、これがよく滲み出ている。
 アンナは強烈な孤独感を味わっているからこそ、他の家族に孤独感を感じさせないように配慮している。実は他の家族が孤独感を感じていないのは、こんなアンナの配慮によるものでもあるのだ。常に一家が団結することを考え、それを実行させる彼女の姿勢こそが孤独を知っているからこそ他者に孤独を味合わせない気配りなのだ。
名場面 洞窟の秘密を発見 名場面度
★★★★★
 洞窟を発見した一家は、洞窟が居住可能かどうかを調べるため奥深くへ入って行く。すると奥からティーカップの欠片をくわえたジョンが出てくるではないか。一家は人の痕跡がありつつも気配を感じないことを疑問に持ち、ジョンが出てきた方向へ足を踏み込む。小部屋状になった空間を最初に覗き込んだフローネが悲鳴を上げ、持っていた松明を落としてエルンストに抱き付く。止まるBGM、音声は松明の火が消える効果音だけになる。その様子を見たフランツは妹が何を見たのか確かめるために松明の明かりを照らすと、やはり「ひっ!」と短い悲鳴を繰り返して声にならない声で父に何かを訴えながら今見た方向を指さす。アンナとジャックもただならぬ2人の様子を見て震え、エルンストは腰を抜かしているフランツから松明を取り上げて自ら子供二人が見たものを確認する。エルンストが「こ、これは…!?」と声を上げると画面一杯に真っ白な骸骨が現れる、今度はアンナとジャックが悲鳴を上げるだけでなくテレビを見ていた子供達も悲鳴を上げる番だ。一家が見つけたものは、何者かの白骨死体だ。
 この白骨死体発見のシーンは「ふしぎな島のフローネ」全話通し視聴経験がある方には強く印象に残っているシーンかも知れない。良い子の「世界名作劇場」に生々しい白骨死体を包み隠さず画面一杯に映し出したという大胆な描写もさることながら、一家の驚きの表情と冷静なエルンストの対比、そしてこの島で孤独な死を迎えた人がいることが判明する事実。この一家の行く先もこうなのかと不安に思った視聴者もいたことだろう。
 そしてこのシーンが強烈に印象に残る要素はもう一つある。これは10話以来25話ぶりの一家以外の人間が出てきたシーンでもあるのだ。その一家が他の人間と最初に出くわすシーンがこのように強烈なシーンとすることで、視聴者の記憶にハッキリと印象付けるという描写は上手く行ったと思われる。だれもこの一家が最初に出会う人間が「白骨死体」だなんて考えてもいなかっただろう。この一家がやっと出会った人物が既にこの世の人ではなかったという展開は、一家の孤独をさらに強烈に印象付けることにもなる。
 この場においての予想外の死体発見、そしてそれによる強烈なインパクトは間違いなく「ふしぎな島のフローネ」で強烈に印象に残るシーンだ。このシーンも30年近いときの流れを越えて、ハッキリ覚えていたシーンの一つだ。
  
感想  唐突に一家は他の人と接触を持つ、だがその相手が死体ではその人との交流という物語を作ることは出来ないので、他者が出てきたとは言えまだ一家5人だけの物語は続いていると見て良いだろう。だが「ふしぎな島のフローネ」を初めて見る人にとっては、このエリックの死体発見こそが一家5人だけの物語が終わる方向へ行く最大のきっかけとなっていて、現在進行形で物語が大きく進化していることに気付いていない。どうなるかの詳細は次回になるが。
 エリック発見の物語が言いたいことは、この島での生活における「孤独」なのは確かだ。他に誰もいないという事実がどういう事であるか包み隠さず視聴者にぶつけてくる、一家が一致団結することでその孤独が覆い隠されていただけの話で、ここにいる以上は誰も助けてくれないという厳しい現実を突き付けてくるのだ。そしてその展開の中で、名台詞欄に書いた通り「孤独」をハッキリ感じ取っていて自覚しているアンナの姿がやたら印象に残る。
 そして何でこんな南の無人島にヤギの親子がいたのか、という本放映当時の疑問が解決されるのもこの回だ。私がこの物語を見たのは小学5年生の時、ちょっと知識のやる奴が「あんな南の島に野生のヤギがいるわけはない」とツッコミを入れていたのだ。アニメだからとかフィクションだからで済ましてしまう子供達だが、このアニメではその問題にちゃんと答えてくれたのだ。もちろん大人になって見ればヤギは外部から他の人間が持ち込んだものであって、その人間が現在存在するかはともかくその人の話になる伏線だと予測することは可能だ。だがいくら5年生でも、やはりそのような展開予想までは頭が回らないってことだ。
 ちなみにコウモリさんはあんな鳴き声じゃないってツッコミはなしね。それにしても洞窟への転居、死体の発見とここでは怒濤のように物語が進んで行く。30話までのまったりした展開が嘘のようだ。だが1話で劇中半月くらいのペースだった物語は、ここへ来ての4話でまだ数日しか経っていない、二度目の嵐からまだまだ劇中時間4〜5日しか経っていないはずだ。
研究 ・エリック・ベイス
 「世界名作劇場」史上でこれほど印象に残るキャラなのに、生きているシーンが一度も出てこないキャラというのは唯一ではないだろうか? 初登場でいきなり白骨死体だし、しかも回想シーンなどもないから台詞もないし担当声優もいない。それどころか素顔は分からず、顔を骸骨で覚えるという得意なキャラだ。なのにエルンストが日記を読み上げることで、彼の情報は意外に多い。
 彼は12月20日頃にこの島に上陸、少なくとも翌年3月9日まで生存していたのは確かだ。エルンスト一家と同じように乗っていた船がこの島の近海の岩礁に乗り上げて座礁し、救命ボートで脱出するもボートが転覆して海に流されるが、その後奇跡的にこの島の砂浜に打ち上げられたようだ。恐らく他のボート乗員は島を取り囲む岩礁に阻まれてその周辺で溺死したことだろう。エリックとヤギの親子だけがこの砂浜に打ち上げられ、なんとか生存していた模様だ。ちなみに砂浜というのはエルンスト一家が上陸し、しばらくテントを張っていたあの砂浜だろう。
 その後、エリックはこのヤギと一緒にサバイバル生活をしていたと考えられる。恐らく上陸して最初の探検で海岸沿いに歩いたエルンストと違い、いきなり山の方へ向かったのだろう。その時に洞窟を見つけ、ここに打ち上げられた荷物の中で使えそうなものを持ち込んで生活していたに違いない。彼が暮らした洞窟内には椰子の皮が落ちているので、主にこれを食べていたと考えられる。またティーカップや薪木の存在、ポットもあったことから湯を沸かして茶を飲んでいたのも確かだろう。さらにヤギの乳も飲んでいたのではないかと推測される。
 だが彼は長生きできなかった。日記にもある通り高熱に倒れて寝たきりの生活をするようになってしまったのだ。起きられないことで食糧を探しに行くことも出来ず、何も食べられずにさらに衰弱するという悪循環で彼は倒れてから数日でこの世を去ったと推測される。彼の死後、主を失ったヤギ(放し飼いされていたと考えられる)は餌を求めて洞窟から離れ、さらにつがいだったことから繁殖期には子ヤギを産んだ。だが父ヤギもエリックと同じように風土病に罹って死んだと推測される、もう一頭ヤギがいればフローネが行方不明になった時などに発見されてもおかしくないと思うのだ。
 問題はエリックがこの島に流れ着いたのは、ロビンソン一家が流れ着くちょうど1年前と見て良いだろう。もしロビンソン一家の10日ほど前だったら、エリックが生存時に顔を合わせていた可能性は高い。砂浜と洞窟がそんな離れていないことから、椰子の実を取りに行く場所が重なると思われるからだ。また死体の状況を考えれば2年近くは経っていると考えて良いだろう、それはエリックが身につけていた衣類や毛布がボロボロに風化していることが理由である。だがヤギの存在を考えれば3年は経っていないと思われ、エルンストの推測通りエリックがこの島にやってきたのは一家がくる1年前か2年前といったところだろう。

第36話「幽霊が出る!」
名台詞 「本当に見たような見なかったような…自信なくなったわ。」
(フローネ)
名台詞度
★★★
 洞窟の奥へ水汲みにいって、そこで人影らしいものを見たフローネ。昼間家族にこれを報告したときは絶対の自信を持っていたはずだったが、家族全員に疑われることに。その夜、フローネは床に入るとこう独り言を言って眠りにつく。
 「世界名作劇場」シリーズ特有のリアルな子供の反応だ。多くのアニメやドラマで子供が「あり得ない何か」を見たと主張すれば、誰に疑われようと登場人物全員に否定されてもその主張を通す。だがそれは物語を進めるためでしかなく、登場人物をリアルに描く要素ではないのだ。だが今回のフローネは自分で確かに「あり得ない何かを見た」のに、家族、特にフランツに強く否定されたことでその絶対の自信が崩壊する。これこそがリアルな子供の反応なのだ、確かに見たけど皆に否定されると「やっぱ違うかも…」と思ってしまうのが自然なのだ。
 だがフローネをこんなリアルに描くに当たって、視聴者にはその「出来事」が起きた時(名場面欄参照)にフローネが見たものと同じものを見せているのは面白い。視聴者もフローネと同じく「みたような…みなかったような…」という気持ちにさせられる構図になっているのだ。だがこの台詞に強烈なインパクトが出てくるのは今回のラスト、動体視力の良い人はハッキリと「一家以外の人間」を目撃することになり「やっぱり!」と思うと同時に、このフローネが陥っている状況「皆に否定され自信をなくす」に気付くのだ。こうして一家以外の人間との出会いが着実に近付いていることを、いやでも思い知らされるのだ。
名場面 フローネが人影を目撃 名場面度
★★★★
 洞窟内に地下河川を発見したフローネは、鍾乳洞発見者とおだてられ水汲み担当にさせられる。その何度目かの水汲みの時、フローネは洞窟内の不審な物音を耳にする。「気のせいか」と思って立ち去ろうとしたときに洞内に響いたのは明らかに人が走る足音、振り返って足音の方を見ると上流へ向けて走り去る人影が一瞬見えた。フローネは驚きの表情の後にため息をつき、「人間みたいだったけど、それとも何か動物だったのかしら?」と呟く。画面は人影が確かに見えた上流方向を向くが、もう何も見えない。
 このシーンをもって7話から29話にわたって続いてきた「一家5人だけの物語」は終わりを告げた、その記念すべきシーンだ。やっとここまで来たぞー、パチパチ…(拍手)。興味深いのは名台詞欄にも書いたことだが、視聴者にもこの人影を見せたことである。そして足音はハッキリとした足音の効果音を使い、視聴者に対しても決して「気のせい」と思わせるシーンにしなかったことだ。
 これは名台詞欄に書いた効果の他に、後になってこのシーンこそが久しぶりに一家5人以外の人物が出てきた記念すべきシーンだと分かることになるし、何よりも「人間」と認識することで予想外の展開になりつつあるという驚きを感じると共に、その正体がまだはっきりしないことで物語に不気味さを感じて視聴者を釘付けにする効果も生まれる。
 勘のいい人は前回の死者との出会いという前段を踏んで、いよいよ他の生きた人間との遭遇という新たな展開に物語が入って行くのだとここで気付くことだろう。こうして島に他の人物があることを示唆し、ここから次回にかけて一家はその人物に少しずつ近付くという展開を見せる。つまりもうこの瞬間から「一家5人だけの物語」ではなくなったのだ。このシーンをきっかけに、その「人物」はあらゆるところに痕跡を残し、今回のラストでは動体視力の良い人はハッキリとその姿を現認するに至るのだ。
  
感想  物語は全話のエリックについての物語を引きずりつつ、今までの雰囲気を保ちながら進む。フローネがまた家から抜け出し、騒動を起こすと同時に生活に必要なものを発見するというのは「ふしぎな島のフローネ」の王道的展開だと多くの人が感じることになるだろう。結局雨降りの天候が続き、場所を洞窟に移しただけで同じような物語が続くのだと、違うことはエリック・ベイスという先人の日記が参照できるくらいなのか、と誰もが感じてくることだろう。
 だが今回はそけれだけでなくフローネが新たな展開を呼び込むことになるとは誰も考えてはいないと思う。しかもこの洞窟にはさらなる秘密があることを一家も視聴者も知ることになる。前話のエリック・ベイスの件が「秘密」の核心では無かったのだ。そしてそれはこの展開を自力でたぐり寄せたフローネが「幽霊を見た」という形でまず存在だけが明らかになる。フローネと視聴者だけが見た「他の人間」の存在、視聴者は驚きと戸惑いを感じないわけに行かないだろう。前回までも物語は動いていたが、ここへ来て誰が見ても明らかな形に動きだしたのだ。
 この話は本放映で見た記憶もハッキリ残っている。私も洞窟内でフローネが人影を見たしーんで、「ええーっ!」と驚いたのを覚えている。そしてラストシーンで一瞬出てくるタムタム(ここではまだ人物名は不明だが)の後ろ姿を見て、兄妹と「人だよね、見えたよね」と話した記憶もある。画面の中の登場人物達、それも大人を差し置いて視聴者にははっきり他者の存在を突き付けるというこの展開は驚いた。視聴者にはその姿をハッキリ見せつつも、いきなり全部見せずに少しずつ痕跡を出すというやり方にも、そろそろ物語に変化が欲しいと思っていた頃なので見ていて面白かった記憶がハッキリ残っている。
 いよいよ次回、その「他者」が何者なのかハッキリする。当時もここでどんな人物が出てくるのか非情に楽しみだったとともに、一家5人だけの寂しい展開は終わったんだと噛みしめた記憶もハッキリ思い出した。
研究 ・洞窟
 前々話の考察で火山島としての考察を行ったところで、やっと前話からの物語の舞台になっている洞窟について考察して行くことが出来る。じつはこの島の洞窟の一部は、この島が火山であることと密接な関係を持った洞窟なのだ。
 天然の洞窟には大きく分けて三つがある、ひとつはいわゆる「鍾乳洞」と呼ばれるもので主に石灰岩質の土地において地下水により地下の岩石が浸食されて出来る洞窟、ひとつは風穴などと呼ばれるもので火山から流れ出た溶岩によって出来る洞窟、ひとつは海蝕洞と呼ばれるもので海岸にある断崖が波浪や潮の干満で浸食されることでできる洞窟である。他にも様々な理由で洞窟が生まれるが、多くはこの3つのどれかということだ。そしてこの「ふしぎな島のフローネ」ではこの3種類の洞窟全てが出てくる。
 まずは海蝕洞について説明するが、これは一家が最初に寝泊まりした砂浜のテントの場所がそうだ。ここはほぼ垂直に立つ岩場に浅いとはいえ人が入れる穴になっており、広義の洞窟の一種と認められる。そしてその成立要因は、立地や形状から見て間違いなく海蝕洞であろう。恐らくこの海岸に砂が溜まって砂浜になる前に、ここまでの深さの穴になったのだと推測される。
 ちなみに次話で出てくるモートンやタムタム住む洞窟もこのような海蝕洞と推測される。波打ち際に近いところに洞窟の入り口があること、それに洞窟がそんなに深くないことは海蝕洞の特徴をよく示しているものだ。ここは岬に伸びる半島の直下で、この洞窟付近描写を見るとやはり玄武岩質の土地だと推測される。
 ではいよいよ真打ち、一家が住んだ洞窟についてだ。
 この洞窟には二つの側面がある。ひとつは一家が寝泊まりした部分で、多くの支洞に枝分かれして、その終端が小部屋のようになって終わるという構造である。これは上記に挙げたうちの中者である「風穴」に分類される火山性の洞窟の特徴である。火山の噴火による溶岩流がここまで来たときに、溶岩流の表面が固まったにも関わらず中身だけは流れるという事を繰り返したのである。何度か目以降の溶岩流はこうして出来たトンネルを流れて行くことになるが、その際に溶岩の中に含まれていたガスが噴出したり、溶岩が地中の地下水と出会うことで水蒸気爆発を繰り返すことになる。結果ガスの噴出や水蒸気爆発が起きたところが小部屋状になって残ることになる。このような洞窟は粘度の低い玄武岩を中心とした溶岩流が流れたときに起きるとされ、この様子から洞窟の入り口ある部分(岬に伸びる半島に続く岩石質の崖)や岬に伸びる半島はひとつの大きな玄武岩だと推測される。
 次に今回、フローネが迷い込んだ洞窟だが、これは間違いなく地下水が石灰岩質の岩盤を浸食して穴を空けた「鍾乳洞」だろう。一家が住んでいた洞窟とは様相が全く違い、多くの鍾乳石や地下水が流れる様子などにその特徴が強く出ている。また鍾乳石の成長度合いから結構古いものと想像され、一家が住んでいた火山性の洞窟より柵に存在していたことは確かだろう。恐らくフローネが「壁」を壊して「鍾乳洞」部分に入って行ったところがその境界で、元々鍾乳洞があったところに溶岩が流れ、既に表面が固まり掛かっていた溶岩がうまくフタをしたのだと想像される。これが数万年の風化で少女の力でも壊せるほどに脆くなったのだろう。
 元々、地下水は水汲みに行った地点から一家が住んでいた方向へ流れていたのだろう。だが溶岩流が来た事でこちら側が塞がってしまい、地下水は新たな出口を求めて地面を浸食しているのだと思う。恐らくフローネが見つけた地下河川は、海岸線の何処か(岬へ伸びる半島は除く)にもうひとつの出口があって、そこから海に注いでいると考えられる。
 フローネが水汲みをした地点は広いドーム状になっていて、これも鍾乳洞の特徴である「千畳敷」と呼ばれる光景だ。東京都奥多摩町の日原鍾乳洞にもこのような場所があるが、流石に地表に穴は空けていない。劇中で描かれたような、このような場所で地表に穴を空けている地形をドリーネと言い、地下河川の水源(地表の川や湖等から水が流れてくる)でもある。だが劇中の描写を見ている限りこの洞窟には他にもドリーネがあり、水はそこから入っていると推測される。恐らくフローネが目撃した人もそこから出入りしているのだろう。
 ちなみに石灰岩は珊瑚などの死骸が変質して出来るものなので、この島にあってもなんら不自然ではない。この島の周囲は古くから珊瑚礁があって、その死骸によって作られた石灰岩質の地層が何らかの理由で隆起したと考えれば不自然ではない。
 このように「ふしぎな島のフローネ」に出てくるこの島は洞窟の見本市という感じだが、ひとつの島に色々なタイプの洞窟があること自体なんら不思議ではなく、沖縄などで実在する状況なのだ。この物語は洞窟について勉強するのにいい見本になるかも知れない。そういえば「ふしぎな島のフローネ」をやっていた頃は、水曜スペシャルの「川口浩探検隊シリーズ」が全盛の頃だったな。あのシリーズが洞窟探検というイメージが強いのは、実は「ふしぎな島のフローネ」との相乗効果かも知れない。

第37話「あらたな漂流者」
名台詞 「モートンさんは強いんだね。だって昨日、手術の時平気で眠ってたもん。」
(ジャック)
名台詞度
★★★★
 またジャックが物語を引っ張った台詞だ。夕食の時、ようやく目をさましたモートンにアンナが食事を届ける。だが「病人扱いするな」とアンナの親切を突っぱね、色んな世話をタムタムにやらせようとした上に、モートンはアンナに退席させるのだ。それでも「病室」にフローネとジャックは残り、それに文句をつけそうだったモートンより先にジャックがこう言うのだ。
 この台詞はその性格から一家の親切を突っぱね、この人柄を表現する事すら拒んだモートンによって止まってしまった物語をまた進めることになる。モートンはこの純粋な子供の台詞にはちょっと疑問を感じながらもちゃんと対応したのだ。その答えは自分が何よりも強く一人前だと豪語する船乗りだという答えであり、ジャックのこの台詞はモートンの正体を突き止める重要な役割を果たすのである。
 そしてモートンは素直に「おかわり」を要求する。これはジャックやフローネの裏表のない素直な言葉に、少しだけ心を開いてしまった証拠である。今後この男は、一家とそりを合わせずトラブルメーカーになって行くのだが、それがこの男の本質ではないと早速教えてくれるのがこのジャックとのやり取りのシーンなのだ。そのきっかけとなったジャックのこの台詞は、間違いなく名台詞だろう。
名場面 遭遇 名場面度
★★★★★
 「どうやら人がいるらしい」とエルンストとフランツが夜通しで見張りに立った翌朝、フローネは早くから「畑の様子を見に行こう」と母にせがむ。そして朝食後にアンナはフローネとジャックを連れて畑へ向かうのだが、フローネは待ちきれずに先行してしまい一足先に畑に着く。そこでフローネが目撃したものは…何者かが畑の作物を盗み出そうとしていたところだった。この光景に驚いたフローネはすぐ畑の入り口を塞ぎに掛かるが、ここで物音を立ててしまい相手に気付かれる。フローネはナイフを向けてくる相手を恐れずに声を掛けるが、相手は畑の作物を盗んでいるところを見られたという後ろめたさから逃げることばかり考えているようだ。瓜の実を投げてその隙に逃げようと試みるが、今度はその逃げ道に姉を追ってきたジャックが現れる。「出たー」と繰り返し叫びながら立ち去るジャックを見て「大人を呼ばれる」と覚悟を決めたのだろう、「これ食べていいわ」と瓜を差し出しながら自己紹介するフローネに、「俺、タムタム」と名前を名乗る。そこへジャックに手を引かれたアンナが到着、彼女は突然の他者との遭遇という事態に気付き「まぁ!」と驚きの声を上げる。そして冷静に「どこから来たのか」「どうやってきたのか」「船はどうしたか」「何人でいるのか」を聞き出す。船については「嵐で沈んだ」と返答されるとアンナはタムタムに同情の言葉を掛け、「何人でいるのか?」という問いに「一人」と答えられるとフローネががっかり半分同情半分という表情をする。だがそのもう一人の居場所については、なかなか返答してくれない。
 前話以降物語の随所に見られた「人の痕跡」だが、いよいよこういう形で姿を現して一家と遭遇する。それはその相手側の物語を全く描かず、その遭遇の時が視聴者にとっても突然やってくるという描かれ方をすることになった。4話以降実に33話ぶりの新キャラの登場は、このような印象深い遭遇シーンとして描かれることになったのだ。
 タムタムの側も「この島に先着がいる」という事実は分かっていたはずだ、彼は間違いなく人が作った畑から作物を盗み出し、間違いなく人が使っていた家を物色しているからだ。さらに洞窟でフローネの声を聞き、姿も見ていたことだろう。だが畑を荒らし家を物色したという後ろめたさからその主に会いたくなかったというのがタムタムの本心で、彼は出来ることならこのまま相手に見つからずに畑の作物を拝借できれば…という甘い気持ちを持っていたに違いない。そこでの一家との突然の遭遇に、どう対処して良いのか分からず混乱している彼の様子が上手く描かれている。
 フローネらの側から見れば、エルンストの台詞にもあった通り「他の人がいれば問題はあっても心強い」と思い、遭遇したらその相手と積極的に交流を持つつもりでいた。だからアンナはタムタムが畑から作物を盗み出そうとしていたことについては咎めなかったし、フローネがその作物を「あげる」と言ってもこれを黙認している。この状況で「食べ物の譲渡」は相手を信頼させる絶好の機会だと言う事を考えていたのだろう。そして相手を知ろうとして、積極的に声を掛けるという行為に繋がるのだ。
 この相反する互いの気持ちと、突然の遭遇に対する互いの困惑を上手く描いて「ふしぎな島のフローネ」という物語の中でも強烈に印象に残るシーンの一つであろう。人が出会うという事について、常に互いが「出会い」を求めている訳ではないという事を視聴者に突き付けてくるシーンでもある。こうして物語はいよいよ終盤の新しい展開へと突入して行くのだ。
  
 
  
感想  せーの、波平キターーーーーーーーーーーー!
 本放映時もこの回までに「他に人がいる」という事は分かっていたので、今回のサブタイトルを見て焦点は「どんなかたちで出会うのか」「相手はどんな人物なのか」に変わった。そしたら意外にも遭遇シーンを前半に持ってきたのでちょっと拍子抜けしたが、こういう場合「もう一人」の人物がひと癖もふた癖もあるというおやくそくはその時は知らなかった。
 もちろん、一家とこの島で過ごすことになるだけでなく、今回出てきた新キャラは「島からの脱出」というこの物語を終わらせるための重要な要素になるはずだから悪い人ではないはずなのだ。つまり「世界名作劇場」名物の「第一印象は悪いがほんとうはいいおば様」タイプの人物であろうことは、本放映時もピンと来た事である。ラストシーンでは早速ジャックと打ち解けて、珍しくジャックが目立つシーンが展開されたのである。
 この一家とモートン・タムタムコンビの遭遇は互いの「状況の違い」を上手く描いていると思う。後ろめたいことをしてきたから畑や家の持ち主とは出会いたくなかったタムタム、悪い人ではないけれど一人で静かに過ごしたかったモートン。これに対して漂流生活が1年に及び、心細さが極限に達していて他者との交流を欲していた一家という違いだ。恐らく立場が逆だったらモートンはもっと普通に一家に接していただろうし、一家は特に気に掛けることもなく畑を荒らされたことを咎めたりしたことだろう。流されてきたばかりの人たちと、流されてきて1年の月日が流れている人たちとでは価値観も考えも違い、共通の目的が出来ない限り最初から上手く行くはずはないのだ。その違いというものを鮮明に描いた点は、もう子供向けアニメの域を超えており「大人の視聴にも耐えうる」という点でもある。だって本当に子供向けなら、出会った彼らはなんの問題もなく仲良くなってめでたしめでたしでしょ? こうして互いの価値観を超えるというハードルを設定することで物語をリアルにし、ここから多くの教訓を視聴者に突き付けてくるのだ。
研究 ・漂流者
 いよいよモートンとタムタムが物語に登場し、33話から動いていた展開の方向性が確かになる。この二人と一家との交流は色んな意味で印象に残っている人は多いだろう。
 名場面欄におけるタムタムの証言によると、32話の嵐の時に遭難してこの島に流されてきたようだ。何処から何処へ行く船便だったかは分からないが、「ブラックバーンロック」号と同じようにこの島の近海で嵐に遭遇し、何らかの形で沈没したのは確かだろう。エルンストは海岸に筏などが漂着していない事を確認しているので、二人は生身で流されてきたと推測される。時期的に物語は12月へと差し掛かっているはずで、天候の変化を見ても一家がこの島に来た時期に似てきているので間違いないだろう。だがどんなに短く見積もってもモートンらが流されてきてから、一家と遭遇するまで一ヶ月はかかっていると推測される。その間、互いに見つからずに生活できるものなのだろうか?
 そう考えてみると、タムタムが椰子の実を食べていたことなどからもその心配は出てくる。椰子の実が生えている場所はこの島ではそんなに広くないので、同じ食糧を狙って出会う確立は非常に高いだろう。またタムタムの食べ方からすると、鋭利な刃物で実を割った跡が残るためこれをエルンストが見つければ「人間」の存在にすぐ気が付くはずだ。
 だが別の事実もある、まず時系列的な問題で「前話から何日経ったのか?」という点がわかりにくい。フローネが洞窟内の地下河川で人影を目撃したのと、木上の家が荒らされているのに気付いた日が何日開いているのかがわかりにくい。畑でタムタムを見つけるのは木上の家が荒らされているのに気付いた翌日なのは確かだろう、家が荒らされたことでエルンストは夜間の見張りを強化し、その翌朝という描写は動かせない。
 そしてエリックを発見してからフローネが地下河川を見つけるまでの日数、ここは設定的に日数が稼げそうだが「飲み水の枯渇」という問題に何日も気付かない訳がないのでやはり洞窟に来てから数日内ということになる。木上の家を放棄するのは雨期に入ってから半月程度と推測されるので、ちょっと日数が合わない気がするのだが。
 いずれにしろ、この劇中で1ヶ月間出会わなかったのは、最初はタムタムが自分達の痕跡を残さぬようにうまくやっていたのだと推測される。タムタムは早い段階で一家の存在に気付いていたのだろう、一家に見つからないように細心の注意を払って行動していたと考えられるのだ。なぜ隠れる必要があるかと言えば、モートンに「先着がいる」という事を報告し「見つからないように」と命じられたからと推測される。だが地下の水場でフローネに見られたことタムタムの側も気付いたのだろう、こうして緊張が緩んだことで「どうでもいいや」という考えになって一家の畑や家に手を出したのかも知れない。また一家に対する隠密行動で食糧の確保も思うようにいってなかったのだろう、そういう点も隠密行動を破って畑や家に手を付ける理由として充分だろう。

第38話「男の子と女の子」
名台詞 「オーストラリアに来る白人はろくな奴じゃねぇ。銃を振り回しちゃ、先住民から土地を取り上げて牧場を作る。その上、彼らをタダ同然の安い賃金でこき使う。ちょっとでも反抗する奴は、容赦なく撃ち殺す。信じる信じないはおめぇさん達の勝手だがね、オーストラリアじゃ珍しい話じゃねぇ。」
(モートン)
名台詞度
★★★
 一家がオーストラリアへの移民だと知ると、タムタムは冷静さを失って一家の元を飛び出してしまう。これに困惑したエルンストは、治療のついでにモートンからタムタムのことを聞き出そうとする。するとモートンは「あいつの両親は殺された、しかも白人にだ」と力を込めていったあと、こう力説する。
 これはオーストラリアでかつて起きていた「現実」である。新大陸の開拓、新天地での新しい人生…こんな明るいイメージのある開拓話にスポットを当ててきた「ふしぎな島のフローネ」だが、タムタムという人物を通じて「暗」の方も語られることになる。それは一部の開拓民による原住民への虐待であり、虐殺である。モートンは多くの子供が見ているこの物語で、そんな口にするのも恐ろしい現実があることを視聴者に訴えるのだ。この台詞を聞いて色々考えさせられた視聴者もあったことだろう、私も少年時代、この台詞を聞いて複雑な心境になった。
 この物語ではタムタムという「白人の犠牲者」の一人が出てくるからこそ、この問題は避けて通れなくなるのだ。結局悪人ではないどころか、必要以上の人の良い一家はオーストラリア原住民とは友愛の心で差別せずに接するしかないという事を学ぶことになる。視聴者にもその思い…人を差別してはいけないという事が通じれば、ここで「現実」を語った甲斐があるってもんだろう。
 ちなみに次回作「南の虹のルーシー」ではこの原住民虐待問題には触れられていない、というか触れる必要がないのだ。それは原作でもそうらしいが、ポップル一家が最初から原住民を差別しておらず友愛の精神でもって接しているし、白人の被害を受けた原住民も出てこないので逆にこの現実を語る機会がなくなってしまっているのだ。対して「ふしぎな島のフローネ」ではタムタムという人物を出したことで一度はこの問題を取り上げねばならない構図となり、モートンが最初に印象に残る台詞を語るのはこんな重要な部分でありタムタムという人物の核心に迫る部分だ。この台詞を迫力たっぷりに力説する波平さんの演技力は、今見直すととても感心する。
名場面 フローネVSタムタム 名場面度
★★
 フローネと二人になったタムタム、彼は何故一家がオーストラリアへ向かうことになったのかを問う。フローネは包み隠さず一家の事情、つまりエルンストが医師が不足しているオーストラリアで働きたいという希望を持って行くことになったことを告げる。だがタムタムは「本当に医者なのか?」問う、彼はオーストラリアに来る白人は全て牧場作りに来て原住民に酷い事をすると信じ込んでいるのだ。その上で「オーストラリアで牧場をやっている白人は嫌いだ」と力を込めて言うと、フローネは医者は人を嫌いになるわけには行かないと言い返す。対してタムタムはさらに捻くれて「どうせ白人しか診ないんだろ?」と突き返す、これにはフローネも怒り心頭だ。フローネは立ち上がりつつも努めて冷静に「うちのお父さんはそんな人じゃないわ、差別なんかしないわよ、ベルンにいたときも困った人たちを無料で診てあげたわよ」と言い返す。この言葉に真実みを感じると共に、タムタムはエルンストが悪い人ではないと感じ取ることができたようだ。タムタムはフローネに謝罪すると、「(オーストラリアに)そういう良い人がたくさん来てくれればよかったんだ」とする。その言葉にフローネが落ち着いて座り、またしばらく無言の時間が続く。
 タムタムが白人に対して絶対の不信が解けるシーンでもある。彼はエルンストも自分の仲間達に対して酷い事をするんじゃないかと思っていたに違いない。だがフローネが語った父の姿は、貧しい者や弱い者に積極的に力を貸す人物であった。そして目の前にいるフローネも決して嫌な奴ではない、子供だからという訳ではなくそれが両親がしっかりしているからだと感じた事だろう。タムタムは白人全員が酷い人ではないという事を知り、もしこの目の前にいる一家みたいな人ばかりがオーストラリアを開拓していたら…と思うのである。
 もしフローネがタムタムを追ってこなかったら、タムタムは二度とこの家族に心を開くことはなかっただろう。フローネが追いかけてきた事実こそが、少なくともこの少女が人を差別していないという証拠であり、それは親がそうだからという方程式を書くことは出来ることだ。だがタムタムはエルンストの目的や職業を知らなかったばかりでなく、ひょっとすると元々住んでいた地を追われて来た人かも知れないという思いもあったことだろう。だがエルンストはそうではなく、自分の故郷のためを思って自らやってきた人間だと知り、考えを改めるのである。
 それとタムタムにはもっと切羽詰まった状態がある、それはこの島の住民が自分以外全員白人であるという現況だ。その中で生きて行くには信じられない相手でも信じなければならないという事実であり、彼はエルンストの何処を信じるべきかを見極める必要性も感じていたのだと推測される。これからは隠密行動を取っても相手は自分の存在を知っているのだし、何よりも恩人であるモートンは彼らと一緒だ。いずれはこの一家と共存共栄する必要が生じるはずであり、そうしなければここから逃れるわけにも行かないという事は分かっていたのだろう。
  
感想  まず、今回の物語のどの辺りが「男の子と女の子」なのか制作者を小一時間問い詰めたい。いや、構図的には分かるんだけどさ、オーストラリア原住民の男の子とスイスから来た白人の女の子が差別無しで語り合うという物語なのは。だけど互いに「男の子でなければ」「女の子でなければ」という視点での言動が無いんだよね。男ならでは、女ならではの気持ちや思いが出てこないし、椰子の木のシーンだってフローネは女の子だから木に登れなかったのではなく、どう見ても身体が小さいからというのが理由だし。
 いずれにしても今回は「過去」がテーマだ。ここまで一家は「過去」を語る必要がなかった、なぜなら出会う人間が家族だけであり全員「過去」を共有しているからなのだ。だがモートンとタムタムという一家以外の存在が出てきたことで「過去」を語る必要性が出来てしまったのだ。それは何故この島にいるのかという答えを導き出すためだ。このフローネに生じた「過去を語る必要性」を強調するために、後半は総集編のようなつくりになってしまった。一家以外の登場人物が出てくるだけで展開がガラリと変わってしまったし、何よりもただでさえ殺伐とした物語だったが、今までと違う方向性の殺伐さを表現するようになってきたのだ。この物語が持つ雰囲気の変わり様はまるで別の物語のようで、前々話と比較するとよく分かる。
 そして白人、特にオーストラリアに移住してくる白人に対し絶対的な偏見と恨みを持つタムタムが、どう一家と向き合うかという重いテーマを投げかけてくる。名台詞欄で語ったオーストラリア開拓の「暗」の部分をもしっかり誇張し、その恨み辛みをどう乗り越えるかで苦悩するタムタムに力点を置いた描き方をしても良かったんじゃないかと思う。いずれにしてもこのテーマで差別という問題を浮かび上がらせ、その上で一家の過去のおさらいとタムタムの過去というテーマで物語を進めて行く構図は、もはや子供の理解する世界ではないだろう(私も当時そこまで深く考えてなかった)。
研究 ・ 
 タムタムもオーストラリア原住民「アボリジニ」の一人と推測されるが、この「アボリジニ」については「南の虹のルーシー」28話で考察しているので、詳しくはそちらを参照して頂きたい。

第39話「ひねくれ者モートン」
名台詞 「一時はどうなるかと思った一悶着も、なんとか終わったわ。でも、お母さんとモートンさんはまだ何かありそうな感じ。心配だなぁ…。」
(フローネのナレーション)
名台詞度
★★★
 物語の最後をフローネの解説がこう締めくくる。アンナとモートンがついに激突、エルンストがアンナを説得してどうにかその場は収まったが…この解説の通り、問題はなにひとつ解決していないのだ。
 アンナに言わせればモートンがジャックに喫煙させようとしたことは由々しき問題だ。だからムキになるのは当然で、しかもモートンの「良いところ」をなにひとつ見ていないのだから不信感が高まるのは当然なのだ。それだけではない、せっかく作った料理を(口先だけとはいえ)口に合わないと文句を言われている。女性に限らず丹精込めて作った料理に理由もなくケチ付けられたら、その相手を信用できるわけがない(何らかの失敗があって明らかに不味かった場合は除く)。そしてモートンは消毒用のアルコールを呑んで酔っぱらうという、アンナに言わせれば「前科者」だ。だから怒りが爆発するのは無理のないことなのだ。ちなみにフランツのモートンに対する不信は、こんな母の姿を見ているからこそだと推測される。
 だがフローネとジャックに言わせればモートンというのは悪い人間ではなく、むしろ良い人だと感じている。フローネのピンチにいち早く駆けつけたモートンを、助けられたフローネと目撃したジャックは「悪人」だとは思うはずがないのだ。このギャップに悩む娘の心情をフローネがこの解説で見事に表現している。フローネが恐れているのはアンナのモートンに対する不信が続けば、モートンの良いところを全く見たことがないアンナやフランツ、せっかくの隣人だから協力しなければならないと一家を導こうとするエルンスト、そしてとても良い人で頼りになる面白いおっさんだと感じているフローネとジャック…これまで団結していた一家の気持ちがバラバラになりかねないのだ。
 これを示唆することで、実は問題がなにひとつ解決していないことをしっかり示しているのがこの解説。アンナがモートンを信頼するのは、まだかなり先だった記憶がある。
名場面 モートンがフローネを救出 名場面度
★★
 タムタムが作ったブーメランで遊んでいたフローネとジャックだが、そのブーメランが椰子の木に引っかかって取れなくなってしまう。そこでフローネが前話でタムタムがしていたように、縄を使った木登りでそれを取ろうと画策するのだが…椰子の木の半分まで行ったところで怖くて動けなくなってしまい、進むことも退くことも出来なくなってしまった。そこにモートンが現れ、ジャックにロープを持ってこさせると器用にロープを張ってフローネを救出する。フローネが無事助かるとモートンは色々と理由を付けて、「このことは誰にもいうな」と二人に命じる。
 まずはモートンという人物の人の良さが現れているだろう、例え余所の子だとしても助けを求めていれば放っておけない。しかも船乗りである自分ならロープを張って助けることが出来る、ということでまだ足の怪我が完治していないのに無茶して助けに行ってしまうのだ。もちろんこの行為を通じてフローネとジャックはモートンで決して悪人ではないと分かり、むしろ感謝すらするようになる。
 面白いのはこのシーンをモートンが色々問題を起こすより先に入れた事だ。この段階では視聴者もモートンがトラブルメーカーである(と装っている)ことは分かっていない。この木上で遭難しているフローネを助けるという行為は、アニメ的に見ればある意味当然と考えてしまうだろう。だがこれこそが当面の、モートンという男の存在を決める決定的な出来事になってしまうのだ。つまり名台詞欄にも書いたが、モートンを見る目によって家族の心がバラバラになってしまうきっかけなのである。もしここでフローネが放っておかれたらフローネやジャックはモートンに対し不信感を抱くことになり、アンナやフランツの心情を考えればエルンスト一人で弁護する声もかき消されてしまい一家はモートンやタムタムと距離を置くことに決定していただろう。この事件そのものがなかったとしても、フローネやジャックは積極的にモートンに世話をしようとは考えなかったはずだし、タバコ作りに荷担することもなかっただろう。その上でアンナがモートンに不信感を抱いていると分かれば、やはりモートンと距離を置いたかも知れない。ここでフローネとジャックと視聴者にだけ、モートンは「自分は悪い人間ではない」と示すことで一家がバラバラになり、また視聴者がアンナに対してもどかしさを感じるよううまく作ってあるのだ。
  
感想  これ、もう再放送できないだろうなぁ。受動喫煙防止とかが問題になってからアニメやドラマで喫煙シーンが出てくるだけで五月蠅くなったのに、その上に子供に煙草作りをさせ、さらに幼児に喫煙をさせようとするシーンまであるんだからなぁ。今これ放送したら絶対に嫌煙団体が黙って無いと思う。だいたい煙草なんて嗜好品だから、吸わない人にはその良さが分からないのよ。だからといってそれにフタをするだけというのもどうかと思う。私は元々分煙推進派だったけど、昨今の分煙についてはやり過ぎで自分が求めていた世界とは違うので戸惑うばかりだ。同じ事は「酒」にもいえるんだけどね、酒だって酒が悪いんじゃなくてそれで自制できないほど酔うまで呑むバカと呑ませるバカがいるのが問題なんであって、自分がかつてサークルを率いていたときに「酒」を避けていたのは、メンバーにそういう奴がいたから避けざるを得なかったからなんだよなぁ。
 話が逸れた。何か今回の物語を見て物語とは違う部分で思うことがあったからつい書いてしまった。
 いよいよモートンがトラブルメーカーとしての側面を露わにする。だがこの物語のつくりとして、先にモートンの良いところを見せてしまうのは凄いと思った。この手の物語多くは、その対象となる人間の人の良さって最後まで見せないもんなんだけどね。その上でフローネとジャックにモートンを信用させ、アンナとモートンを激突させるという作りは見ていてハラハラする。物語を盛り上げるためにこういう複雑な構図にしたことは今見ると感心するのであって、当時は何でモートンがいるだけでこんな盛り上がったのか理解できなかった。特にこの物語ではここまで一家5人だけで物語が進んでいたこともあって、人間関係などで構図が複雑になったりそれが理由で盛り上がることもなかったので戸惑う視聴者も多かったことだろう。
 こんな中でも決して自分を失わないエルンストってやっぱすごい。妻が不信感を抱いている人物に対し、少しでも望みがある部分を見つけてはなんとか上手く付き合うことを考え続けているんだから。エルンストの視点が素晴らしいのは「タムタムがモートンに懐いている」という事実を見落としていないことだ。モートンだってタムタムの恨みの対象である白人だが、タムタムは黙ってそれについてきているのであって決して嫌々だったり強制されているわけではないと言うことだ。それにはモートンに良いところがあるからだとエルンストは見抜いている。医者として多くの人と接してきてた経験によるものだろう。そして彼はフローネとジャックがモートンのそういう部分を見つけていて、付き合っていることに気付いているかも知れない。
 いずれにしろこうして家族の気持ちがバラバラになるという構図を描いたことは、32話以前の展開にはなかったことでここでも前半との差別をキチンと付けている。見れば見るほどに上手く出来ている物語だ。
研究 ・モートン
 今回の主役はモートン、フローネのピンチになれば自分の足の怪我に構わずこれを救出することで人の良さを見せるが、今回は医療用のアルコールを呑んで酔っぱらったり、子供に煙草を作らせた上にそれをジャックに吸わせようとするなどトラブルも起こす。視聴者の中にはトラブルメーカーとしてのモートンが印象に残っている人も多いだろう。
 モートンが船乗りと言う事は今回までにハッキリしているが、その帽子や服装を見ていると航海士クラスの上級船員と思われる。船長とは思えないのは彼が正装をしていない点と、海難事故で助かっている点だ。特に後者では時代的に海難事故となれば船長は船と運命を共にするのが当然だった時代で、航海士クラスの上級船員ならば救命ボートを操船するために乗客と共に船から脱出することになる。だがよく考えれば航海士も正装をすると思われるので、ひょっとすると機関士とか機関長とも考えられるが、だとすると帆を張るためのロープ張りに長けているという今回の設定と辻褄が合わないのでやはり航海士だろう。航海士の中でも中クラス、二等航海士辺りではないかと考えられる。
 酒好きの煙草好きである彼は遭難から一ヶ月は酒も煙草も断っていたようで、かなりのストレスをため込んでいたことだろう。耐えきれなくなったモートンはジャックに信用されているのをいいことに、ジャックを使って消毒用エタノールに手を出してしまう。しかもそのまま呑んだら危険という事は分かっていて、ちゃんと水で薄めるという手の込みようだ。エルンストの言う通り呑んだのがエタノールだった(しかも水で薄めていた)から酔っぱらっただけで済んだが、メタノールだったら大変な事になっていた。メタノールを飲むと網膜や視神経がやられて失明し、体内でメタノールが分解されると人間には猛毒であるギ酸が発生してやがて死に至らしめる。ここ数年の間でもロシア・モンゴル・ベトナム・インドネシアなどでメタノールが混ざった酒が出回り、多くの人が生命を落としている。その話をエルンストにされてかなりびびっていた様子(その表情をエルンストもアンナも見ていないが)なので、酒は好きでもこのような知識はないと考えて良いだろう。

第40話「少年タムタム」
名台詞 「作曲はてんでダメだったけど、もの凄く愉快な一日だったってことかな。」
(フランツ)
名台詞度
★★
 物語の最後、突然家にダチョウが現れて驚くエルンストがフランツに説明を求める。その返答がこれ。
 もともとは「静かな場所で落ち着いて音楽活動がしたい」という理由で出かけたはずだが、気付けばそんな理想とは別の一日になってしまった。だが彼にとってはとても嬉しく、楽しい一日で有意義だったことだろう。これが全身から伝わってくる台詞だ。
名場面 ダチョウ登場 名場面度
 う、うそだろー?
 
感想  これといって何も起きない話。だけどダチョウ登場というあり得ないシーンに度肝を抜かれ、多くの視聴者が「この日はフランツの誕生日だった」と事実を忘れてしまうことだろう。
 しかしサブタイトル通りタムタムが大活躍する回なのは間違いないが、この回のタムタムは何故か印象に残らない。前々回の方が圧倒的な存在感で印象が強い。その理由はタムタムが無口なことにあるだろう、昔見た時もタムタムがしゃべっていた記憶が残っていないのだ。果たして、タムタムがこのサイトの名台詞欄に登場することはあるのか? ちょっと不安になってきた。そりゃともかく、前々回のタムタムが印象に残っているのは彼の過去が明らかにされて、その恨み辛みを乗り越えてエルンスト一家と生活を共にするという大河ドラマを見せてくれた点もあるが、なによりも台詞が多くしかも主人公との一対一の会話が多かったことが印象に残る理由だったはずだ。
 対して今回は物語の主軸はあくまでもエルンスト兄妹であって、タムタムはそれに途中から合流して助けただけに過ぎないのだ。多くの視聴者は突然のダチョウ登場に度肝を抜かれ、今回がタムタムの活躍を見せるべく作られた回だということが分からなくなっている。いや、あのシーンで今回のサブタイトルを忘れた視聴者も多いはず。タムタムを見せるのなら出てきた動物が「ダチョウ」というのは失敗だったと思う、もっとありふれた動物にできなかったのか?
 ラストシーンにかけてはほのぼのとしていてて良かったけど、このつくりじゃ昼飯時にタムタムがいなくなって腹を空かせていたモートンがどうなったか気になって仕方が無くなる。やっぱ失敗だよ、この1話。
研究 ・ダチョウ
 久々の動物の新キャラ登場、しかも出てきたのはダチョウという予想外の展開に度肝を抜かれた視聴者も多かったことだろう。このダチョウを捕獲して一家のペットとすべくタムタムが大活躍っていうストーリーにしたかったのだろうけど、やはりダチョウのインパクトが強すぎてタムタムの活躍が目立たなくなってしまう程の存在感を持ってしまった。
 ダチョウは劇中にもあった通り飛べない鳥で、天敵に追われた際にすぐ逃げられるようにとても足が速い。元々草食性の鳥だったのが何らかのきっかけで餌がある木の枝から飛ばなくなり、じきに別の木へ移るのに飛ばずに地面を歩いて行くようになったのだろう。鳥類は飛ばなくなると巨大化するとも言われており、ダチョウの祖先は飛ばなくなった事と引き替えに巨大な身体を手に入れていつしか木に登らず長い首で直接木の枝にある餌を採るようになったのだと思われる。ちなみに飛べない巨大鳥は恐竜時代の直後に栄えた時期があるが、この頃の飛べない鳥はダチョウのように草食性ではなく肉食性だったという。
 ダチョウはアフリカ大陸…いや、分布域の話をするのはやめよう。オーストラリア開拓時代にヨーロッパから多くのダチョウが人為的に持ち込まれたという。物語に出てきたダチョウはこうしてオーストラリアへ運ばれる途中で、やはりエルンスト一家と同じように船がこの近海で海難事故を起こし、遭難した船から泳いで来たか人間と共に上陸したかのどちらかだろう。そう考えれば分布域ではないこの島にダチョウがいることや、他に仲間がいない様子であることの説明がつく。なぜダチョウがオーストラリアへ持ち込まれたのかは調べてみたが分からなかったが、恐らく食糧として持ち込まれたのだろう。ダチョウの肉は脂が少なく、サッパリした肉が好きな人には評判がいいらしい。

・パンの実
 ちなみにダチョウを捕獲するために昼食を失った一行が、タムタムに食用出来ると教えられて食べていたのが「パンの実」である。劇中では「パンの実」であったが、正式にはパンノキと呼ばれ劇中で描かれたように火で乾かすとビスケット状になるという。味はサツマイモに似ているとのこと。
 パンノキはポリネシア原産…って、次行こう、次。

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