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第21話 「ラプラタ川は銀の川」
名台詞 「これが川だなんて…本当に川なの? これが。まだ何にも見えないのに、本当に2時間で着くのかな? なんだかおかあさんに逢えるのも、ジェノバから船に乗ったのも、みんな夢みたいだ。待っててくれるの? おかあさん…僕を本当に。あんなにハッキリおかあさんの顔を覚えていたはずなのに、何だかそれが忘れてしまいそうなんだ。消えてしまいそうなんだよ。分からない事がいっぱいありすぎて、だから僕怖がってる、怖いんだよ…なぜ手紙をくれなくなったの? 病気だって書けるはずだよね? 誰かに頼んで出すことだってできるんだ…かあさんが手紙を書かない…かあさんが手紙を書かない…僕に、トニオ兄さんに、父さんに……どこからもかあさんの手紙が来ない。冬なんだよね、ここはもう。イタリアはまだ真夏だっていうのに、銀の川、ラプラタ川は冬さ。何も見えはしないけど冬なんだ。待っててくれるよね、おかあさん? 僕を。とうさんにラプラタは冬だったけど、おかあさんは元気さって、一緒に手紙を書いてくれるよね?…何故黙っているの、おかあさん。銀の国、銀の街、ジーナおばさんが言ってたっけ? ブエノスアイレスは大都会よ、マルコ。大都会…大都会よって…。ロス・アルテス通り175番地、おかあさんがいる街、なにの…なのに…何も見えはしない。夢を見たんだ、悪い夢を見ちゃったのさ。みんな嘘だよね? おかあさなんがいないなんて…おかあさんが死んだなんで…。さあ、走るんだ、もう一息さ。嵐だってへこたれなかった船じゃないか…待っていてね…待っていてね…待っていてね…おかあさん…。」
(マルコ)
名台詞度
★★★★★
 今話でマルコが、自分の胸の内にある「不安」を心の中での呟きとして視聴者に語る台詞だが、長い、長すぎる。
 マルコの不安は、詰まるところは「分からない事が多すぎる」ってことで、その最大のものはやはり音信不通になってしまったことにあることはわかるだろう。それによって「自分の事は忘れてしまったんじゃないか」という不安と、「何か良くない事態が起きているのではないか」という不安で、マルコの心がいっぱいであることが細かく語られている。
 その細かい内容の一つ一つは、この長い台詞を読んで戴ければもう解説不要だ。アルゼンチン上陸前のマルコの台詞では、最も印象的な台詞だ。
名場面 マルコとレナータ 名場面度
★★★★
 移民船がブエノスアイレスに到着する朝、マルコは昨夜見た不吉な夢と「母は大丈夫なのか、自分を覚えているだろうか」という不安に苛まれ、甲板中を歩き回って落ち着かない様子だ。そんなマルコを航海甲板でレナータが見つける、フェデリコが届けるつもりだった朝食をマルコに渡し、マルコが母に無事逢えることを祈っている旨を伝える。これにマルコは「僕、夕べから変なんです」と告げる、レナータは「疲れていたのよ」とするがマルコは「一年半もかあさんに会っていないんです、だから心配なんです、僕のこと覚えてくれるかどうかって…」と自分が持つ不安を具体的に口にする。これを聞いたレナータは笑い、マルコが「おかしいですか?」と聞くと「1年や2年別れてたって、自分の子供の見分けがつかない母親なんて世界にいるはずがない」と告げる。これにマルコが目を丸くして「じゃ、僕やっぱり変なの?」と問うと、「かなり重症だわ、あなたがそんなになっているから変な夢を見るのよ」とした上で、「おかあさんは病気どころか、街中を走り回れるくらい元気でいると思うわ」とマルコに語る。「本当に?」マルコの表情が少し明るくなると、「本当だわ、この船がもうすぐブエノスアイレスに着くのと同じ位、確かな事よ」ととどめを刺す。マルコが完全復帰したところで、レナータはマルコに「別れるのは辛いけど、あなたには素晴らしいおかあさんが待っているわ」と告げる、どこからとも無く聞こえる船員の「陸だ!」の声。
 「フォルゴーレ号」に乗っていた頃は、マルコの不安は船上での充実した日々に支えられていたことで影を潜めていた。ところが移民船に乗り換えて彼が「船員扱い」から「船客の一人」になり退屈になると、これまで影を潜めていた「不安」が明確な形で強くなっていった。しかもその不安はブエノスアイレスが近付くにつれて増すばかりで、到着当日の朝になるともう彼は完全にいつもの自分を見失っていた。
 その不安からマルコを救ったのがレナータである。彼は幼いニーノの母親であり、マルコが求める「母」からの立場でマルコを勇気づけることになったのだ。正常な母親から見ればマルコの不安は杞憂に過ぎないことは明白で、どんなに月日が流れても特に可愛い息子の顔を忘れるわけがないという言葉は、マルコにとって説得力を持って迎えられる。もちろんこの説得はフェデリコや船長が言っても無駄で、あくまでも「母親」という立場の人間がしなきゃならないことだ。
 そうしてマルコの不安が和らいだところで、レナータは一気にたたみ掛ける。勿論彼女にはマルコの母が元気でいるという確証はなにひとつない、だがこれを強く言い切ることで目の前にいる少年に勇気を与える。この女性の母性愛を見せられたことで、レナータがとても強く印象に残るシーンだ。
  
感想  今話では上陸を目前に控え、マルコの不安が一気にあぶり出されるという展開を取った。ここまではマルコは不安を感じるどころではない旅程を過ごしており、移民船に移っても嵐が来たりと「自分の身を守る」のが精一杯の状況もあったことでそれどころでは無かったのが実状だろう。
 何かの目的に向かっている人というのは、その目的が達せられる直前に最も不安を感じているものだ。私もその経験は何度もあるし、よくスポーツ選手とかもインタビューでそういう話をするのをよく耳にする。ある程度の人生経験を経た上で今話を見ると、その目標達成の目前に沸き上がるこれまで押し込んでいた「不安」というものを上手く描いたととても感心するのだ。子供の時に今話を見たことはあるが、何だか意味不明のつまらない回だったという悪い印象が強烈に残った。いや、子供の頃の印象がそうである話はこの「母をたずねて三千里」と「ペリーヌ物語」には非常に多い。
 考えて見ればこんな悩み多き主人公というのも、当時のアニメでは少なかっただろう。アニメの主人公はいつも元気で気が強く、悩みなんかないような顔をしていたものだ。だからこそ私が子供の頃のマルコの記憶がどうも良くなく、小学校高学年になってもこの物語の本当に言いたいところがわからないまま視聴して、「話はわかりにくいしつまらない」という当時の感想に繋がったのかも知れない。その頃から「大人になって見直せばわかることも多いのではないか?」と感じていたので、いま全部見直しているわけだが…そんな子供の頃の感想を思い出させてくれたのはまさしく今話の視聴だったといっても過言ではないだろう。
研究 ・移民船の航海
 今回はマルコが乗った移民船の航跡を辿ってみよう。
 毎度恒例でこの地図を見ながらの考察としたい、「1」地点がマルコが「フォルゴーレ号」から乗り換えてきたリオデジャネイロ、2地点が目的地のブエノスアイレスとなる。この間の距離は約2240キロで120海里だ。船の平均速度を12ノットとすればほぼ100時間の船旅となるが、ここでは嵐による難航や、船修理のための足止めなどを考慮して110〜120時間前後かかったのではないかと推測される。つまり5日弱の航海だったと考えればいい。
 まず1日目の夕方に船はリオデジャネイロを出港する、2日目は特に平穏でマルコがフェデリコ一行と知り合ったのはこの日と見て良いだろう。嵐が来たのは3日目の後半、所要時間ベースで全行程の半分のところと推測される。嵐が去ったのが4日目の朝で、ここでマルコは「翌日にブエノスアイレスに到着する」旨を伝えられているので辻褄が合う。そして翌朝には船がラプラタ川を遡上していたが、このラプラタ川遡上で150キロほど距離があるので6時間ほど掛かるはずである。到着時刻が10時ならば朝の4時からラプラタ川を遡っていたわけで、マルコが朝の8時前に目をさましたら既にラプラタ川を遡っていたという描写も辻褄が合う。
 これならばリオデジャネイロからブエノスアイレスまで112時間で、私が推測した船の性能や嵐によって船足が鈍ったという推測と、現実のリオデジャネイロ〜ブエノスアイレス間の距離、それに劇中の描写は一致する。
 この考察結果から劇中のシーンを地図に落としてみた。「3」地点から「4」地点までが嵐に遭遇していた区間、「5」地点がラプラタ川の河口である。地図を見ているだけでは沿岸に近いように感じるが、これが距離を測ってみるとけっこう離れていたりするのだ。
 2240キロで120海里、これを「里」に換算すると、570里となる。既にブエノスアイレスの段階でマルコの旅は「三千里」を突破していたのだ。

・今回の旅程
(リオデジャネイロ〜ブエノスアイレス)
移動距離 2240km 570里
合計(ジェノバから) 12640km 3220里

第22話 「かあさんのいる街」
名台詞 「バイアブランカ…やっぱり母さんはバイアブランカにいるんだ。逢うのがちょっと遅れたけど、小さな街ならすぐ見つかるさ。もうすぐだよ、アメデオ。もうすぐ母さんに会えるんだ。…おかあさん、ここで働いてたんだ。」
(マルコ)
名台詞度
★★★
 上陸したマルコは頼りの綱であるメレッリの家を訪ねるが、既にメレッリは夜逃げをした後でそこには人の良いおばさんが住んでいた。そのおばさんの勧めにより、マルコは母が転職前に働いていた屋敷を訪れる。だがそこには屋敷の主人の姿はなく、留守番を任されたロシータという女性がいるだけだった。ロシータはアンナが面倒を見ていたという老婆を連れてきてマルコと対面させ、マルコはここで母が「別の街へ行った」という情報を得て、それはメレッリが引っ越していったバイアブランカではないかと推測する。そのマルコが独り言として語るのがこの台詞だ。
 今話のマルコは持ち上げられては落とされ、また持ち上げられては落とされという展開を繰り返す。一度目の頂点は番地を数えながらメレッリの家を探すときで、これはメレッリの家に着くとメレッリが夜逃げして姿を消していたという事実を確認したところで突き落とされる。続いては「アンナが働いていたロハス邸へいけば手がかりがあるかも」という判断でロハス邸へ向かうときであるが、これは家の主人が不在で手がかりが掴めないという事実を確認して落とされる。そしてこの台詞は三度目に頂点へ持ち上げられたその瞬間、マルコが「バイアブランカに行けば母に逢える」と感じた瞬間で、ここまで来るとマルコはそのかすかな希望にすがっているに過ぎないことが見てとれる台詞だ。「もうすぐ母に逢える」とアメデオに語りかけているが、これは彼が自分自身に言い聞かせていることでもあるだろう。
 そしてこの台詞の最後には、母のかつての仕事場にいるということで懸命に母の面影を探すのだ。ここに彼の母への思いと執念、逢うことが適わなかった悔しさが見てとれる台詞だ。
 だが今話で、もう二度もマルコは絶頂から突き落とされている。すると多くの視聴者はこの「バイアブランカにいる」というのも推測に過ぎず、行ってみたらそこにはいないというオチを想像するだろう。だが次にマルコが突き落とされるのはそれよりずっと早く今話のうちにやってくることなど、一部の勘の良い視聴者を除けばいないはずだ。だがそのまた突き落とされるという点もうまく感じさせている点においても、印象深い台詞だ。
名場面 スリ発生 名場面度
★★★★
 いよいよマルコ、アルゼンチン上陸。最初にやるべき事はお金の両替だと言うことをフェデリコに教わり、マルコは両替窓口に向かう。マルコが両替した金額は、50リラ15ソルド。そのやり取りを窓口の横で、何故か画面にチラチラとよく現れる男がニヤケ顔で聞いていた。よせばいいのにフェデリコも「大した金持ちじゃないか」と声を上げる。そして両替が済んだマルコは、お金を上着の胸ポケットにしまい込むが、その間に上述の男がマルコの前を横切って行く。そして早く外へ出て母に会おうと走り出したマルコと、その男は直後に激突する。「ごめんよ、坊や」と声を掛ける彼であったが、マルコはその時に自分の身に起きた異変に気付かず男の姿を見送る。
 有名なマルコがスリ被害に遭うシーンである。このシーンを初めて見た人でも勘の良い人は「やられた」と察したことだろう。子供の頃の私は勘が良くなかったので、お金をスラれた事に気付かず「この男は何者なのか、どんな伏線があるのか」という興味へと頭が行ってしまった。「こいつがマルコの口から何度か出てきたメレッリという男では…」とも勘ぐったものだ。
 そしてこのシーンでこの男の正体について答えを出さないのは定番で、むしろ今話の展開でこの男の存在を忘れさせる方向へ持って行く。そして今話で「母不在」を強く演じ、マルコが母の手がかりを求めて別の旅へ行こうとした段でこれが発覚、その時に回想シーンもあって瞬時にこの男を思い出すという描かれ方をした。この男が「母をたずねて三千里」で出てくるのは1回だけで、台詞も「ごめんよ、坊や」の一言だけだが、このように強印象に描かれたので「マルコの金を盗んだ男」として多くの視聴者の印象に残ったことだろう。日本のアニメ史上、主人公に与えた損害に対する登場時間が最も短い悪役だと思われる点でも印象に残る。
 またこのスリ被害は、「母をたずねて三千里」定番の「容赦のなさ」のひとつであり、マルコの今後が苦難に満ちたものになることを予測させるには十分すぎる。彼は自分で働いてお金を貯めたのに、これが一瞬で無になってしまったという事実も「容赦のなさ」のひとつだろう。こうしてマルコを容赦なく追い落としたところで、アルゼンチンでの物語が幕を開くのだ。
  

 
感想  ケイト・ポップルキターーーーーーーーーーーー!!!!!!! いや、やっぱあの人は私にとっては「南の虹のルーシー」のケイトなんで。しかも今話では散々なマルコに、微力ながら手をさしのべるという良い役で出てきてる。うんうん。
 とにかく散々な展開だった、「容赦のない」展開のオンパレードで、マルコの心情はジェットコースターのようにあがったりさがったりだ。船に乗ってブエノスアイレスに上陸するまでは徐々にリフトアップし、両替シーンで少し下って、番地を読み上げながら走るシーンでまた少しだけリフトアップさせてから、一気に落ちるジェットコースターだ。もちろんジェットコースターは下がったらまた上がらなきゃならない、それが名台詞欄に示した各々の持ち上げられたシーンだ。こんな容赦のないアニメが他にあるだろうか?
 そして怖いのは、このジェットコースターのような展開はまだ続くことだ。ここからマルコは母の手がかりに従って行動し、その手がかりにたどり着いても母に逢えず、それどころかその先の旅費に苦労するというまさに「あがったりさがったり」の展開となる。いよいよ「母をたずねて三千里」の本編部分といえよう。
研究 ・ 
 

第23話「もうひとりのおかあさん」
名台詞 「あなた、大変良いことをしてくれたのよ。あなたは、一人の人の魂を迷うことなく神様の御許に案内してくれたの。私からも心からの俺を言うわ。この国には色々な国から沢山の人達が渡ってくるわ。スペイン、イタリア、イギリス…まだ新しい、そして豊かな国を求めてね。きっとアルゼンチンはそうした人達の手で、素晴らしい国になっていくわ。けれど忘れてはならない、悲しい出来事も起こって行く…。」
(ジブリアーナ)
名台詞度
★★★★
 メーテルキターーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
 しかも初登場でいきなり名台詞欄に登場、さすがメーテルだ(関係ないって)。しかしこのキャラ、資料によって役名が「ジブリアーナ」だったり「ジブリアーノ」だったりして本当の名前がわからない、スタッフロールでは「看護婦」になってるし。とりあえず「母をたずねて三千里」で検索した場合に、このキャラについて最初に出てくるサイトであった「Wikipedia」の記載に従い「ジブリアーナ」が本名として考察を続ける。
 名場面欄の出来事を受けての翌朝、ジブリアーナがマルコに朝食を差し出す。そしてこの時に彼女がマルコに語りかけた台詞がこれである。
 まぁ、日本風に言えば「成仏させてくれた」と言うところだろう。マルコは見知らぬ女性から息子と間違えられつつも最後までその息子を演じ続けたことで、行き倒れのアンナという女性は「息子に会いたい」という願いが叶ってこの世に未練を残すことなく旅立つことが出来たのだ。これは本来は教会の自分達の仕事であり、これを嫌がらずに手を貸してくれたマルコに対しての心からの感謝であると共に、まるこの力がなければアンナが成仏することはなくその魂がこの世に彷徨い続けただろうという事をも示唆している台詞である。
 そしてジブリアーナは、この出来事が「移民」という歴史の中で起きる悲劇の一つだとするのだ。新天地を求めて海を渡るという歴史の中に埋もれている多くの悲劇、物語はこのような歴史的側面をこの事件とこの台詞を通じて語ってくれたのだ。こういう点で今話の中では最も印象に残った台詞だ。
 しかしこの台詞の後半部分、まるでメーテルが鉄郎に語りかけているような感じだったな…いかんいかん、999世代の我々はどうしてもあの声がメーテルに聞こえてしまう。
(次点)「僕が何でここにいるのか、僕にだってわからないし、とうさんにだってわかりはしないんだ。かあさんに逢える日をずうっと、ずうっと待ってたのに…今日がその日だったっていうのに…。」(マルコ)
…マルコがアンナという女性が自分の母でないと打ち明け、それに驚いて「どういうことなの?」とジブリアーナが問うた時のマルコの返事。ここにマルコの「今日逢えるはずだったのに」という想いと、逢えなかったことによって「何でこんな事をしているんだろう?」という想い、そしてなんでこの女性の息子を演じる事になったんだろうという自問自答が含まれている。短い台詞に様々に要素を詰め込んだ印象深い台詞で、名台詞欄をどっちにするか最後まで悩んだ。
名場面 アンナの臨終 名場面度
★★★★
 移民局で「協会の慈善病院にアンナという名の行き倒れの女性が入院している」という情報を掴んだマルコは、自分の母かも知れないという思いでこの病院へ駆けつける。そして修道女で看護士のジブリアーナという女性に案内され、病室に入るがその女性はマルコの母ではなかった。しかし女性はマルコが自分の息子だと思い、それを見たジブリアーナもこの女性とマルコが親子だと勘違いする。
 そしてその夜、看病を続けるマルコのところにジブリアーナがやってきてアンナの熱が下がったのを確認したとき、この女性が母でないことをやっとマルコが打ち明ける。「どういうことなの?」と問うジブリアーナに、マルコも「わかりません」と答えるしかできない。その上で名台詞欄次点の台詞を語る。これを聞いて「あなた疲れているのね」と寝るように勧めるジブリアーナだったが、マルコは「僕のかあさんもだれかにこうして看病してもらっているかも」としてそれに応じない。それに対してジブリアーナが詳細を聞かせて欲しいと言ったところで、アンナがまた意識を取り戻す。そしてうわごとのように息子の名を呼ぶと、マルコは立ち上がって「おかあさん、僕ここにいるよ」と語りかける。マルコはさらにアンナの手を握り「僕は何処へも行かない、だから安心して、かあさん」と続ける。「あなたと船の中で別れてから、おかあさんずっと心配していたんだよ、もう安心だね、帰ろう、ねぇ、おうちへ帰ろう…」とアンナはマルコの手をしっかり握ってうわごとを言ったと思うと苦しみ出す。これを見たジブリアーナが医師を呼ぶために部屋を出ると、「さよなら…」と繰り返しながらアンナは息を引き取る。マルコは驚いて「おかあさん、おかあさんってば!」と叫ぶがもう彼女の返答はない。何が起きたかを理解したマルコは、その場で涙を流す。
 マルコとしてはこの「アンナ」という女性が、名前が同じだけで探し求めている母ではなかった。だがアンナに息子だと勘違いされてすり寄られた瞬間、マルコはこの女性のことが他人事だとは思えなかったのだろう。彼女が息子を求めてマルコを抱きしめようとする手の力は、まさしくマルコが母を追って遠くブエノスアイレスまで来てしまった力と同じで、自分が母に会いたいようにこの女性も息子に会いたいのだとマルコは瞬時に感じたのだ。だから彼は「この人違います」で済ますのではなく、この人が元気になるまで自分はここで息子を演じなければならない、そう感じたのだ。
 マルコはこうして自分が母を想うのと同じように、母も息子を想うものだと理解する。その母としてのアンナの気持ちが伝わったからこそ、マルコはこの女性を人違いで済ませて放って置くことが出来なかったのだ。このマルコの想いによって、このアンナという女性はこの世に未練を残すことなく旅立つことが出来たのだ。
 実はここでマルコが思い出していたのは、劇中時間でこの日の朝に聞いた船上でのレナータの「1年や2年別れてたって、自分の子供の見分けがつかない母親なんて世界にいるはずがない」という言葉かも知れない。こうしてマルコの中の「何が何でも母に逢わねばならない」という気持ちは自分が会いたいからというだけのことではなく、「母も待っているから」という気持ちが含まれるものに変わって行くのだ。
 

 
感想  前話ではジェットコースーターのように、しかも何度も上がり下がりしながらマルコをどん底に突き落とした。その続きの1話となればどう考えてもマルコに手をさしのべる存在の登場だろう。自分の母と同名の人が行き倒れになって倒れているとの情報に、一時は物語に陰鬱な空気が流れるが、この段階で簡単にマルコの母が見つかる訳が無く「どんな人違い」が待っているかというのが物語の見どころであっただろう。そしてその物語は意外で感動的な方向へ進む。これまでマルコによる「息子の母への想い」というのをさんざん見せつけられたところで、初めて「母の息子への想い」というのが大々的に描かれ、マルコがこれを確かに受け取るという物語が演じられたのだ。
 そしてこの母と同名の女性を通じ、マルコは「母は自分を待っていてくれる」という確かな感触を受け取ったのも事実だろう。前話で絶望的な展開が続き一文無しにまで落ちたマルコに、希望の光が見えたのは言うまでもない。ここで希望が生まれたからこそフィオリーナやペッピーノを思い出したのであり、マルコは挫けずに旅を続けることになるのだ。だから「もうひとりのおかあさん」なのだ。
 しかし名場面のシーンは感動的だったなぁ。あのシーンの何が良いのかは、これも典型的な「大人になったからこそわかる」シーンなんだろう。大人になって「親心」を知ったからこそ理解できた、子供の頃はこのアンナという女性に関するオチ…この女性の子供は何年も前に死んでいて生きていたらマルコと同じ位の歳だったという点に、とても違和感を感じていた。だがこれを今の自分が見ると、とても素直に受け入れられる設定なのだ。
 いよいよ次回、ペッピーノ一座が復活。フィオリーナの再登場が楽しみだっと。
研究 ・ 
 

第24話「待っててくれたフィオリーナ」
名台詞 「父さん、この白くて四角い街にはもう飽き飽きしたって言ってたでしょ? 久しぶりに田舎に出られるのよ。私たちもう決心しているの、父さんが行かなくても私たちは行くわ。」
(コンチエッタ)
名台詞度
★★★
 再会の夜、ボーカのジェノバ料理レストランでマルコとペッピーノ一座は再会を祝した食事会を開く。ペッピーノは自分達と出会ったからにはマルコのおかあさんは見つかったも当然と語り、マルコへの惜しみない協力を約束する。それに対しマルコが母の手がかりがバイアブランカにあると告げると、ペッピーノはそれが何処かも知らずに連れて言ってやると宣言。だがマルコがバイアブランカを「ずっと南の小さな街」と説明し、フィオリーナが「馬車で二十日だって、二十日ならすぐよね」と距離を説明すると、途端にペッピーノは勢いをなくす。そこへすかさず父にとどめを刺したのが、このコンチエッタの台詞だ。
 この台詞からこの一家のパワーバランスが見えてきて面白い。勿論一家の長で一座の座長であるペッピーノが全ての決断権を持っているのだが、その父を完全に制御しているのが長女のコンチエッタなのだ。ここでもバイアブランカのあまりの遠さに一時は渋った父親を、完全なまでに制御してバイアブランカ行きを決意させている。場面場面に応じてどのように声を掛ければ制御できるか、この娘は父の操縦法を完全に心得ているのだ。つまりこの一家はコンチエッタが実権を握っているとも言えなくはない。
 そしてこれに続き、フィオリーナは「アメデオも一緒」とすかさず付け加える。これもフィオリーナが「父は何をマルコに求めているか」を冷静に判断していたのだろう。この次女はこれを見抜いた上で「姉と同じ事」をして、ダメ押しの一手を加える。これもこの一家の構図を上手く示しているだろう。
 もちろんマルコはペッピーノ一座に迷惑だと考え、一度は断ろうと声を上げる。だがこれを遮るようにフィオリーナが「父さん、お願い」と懇願するのもいい。このシーンでは印象に残る活躍をしているのはフィオリーナだが、印象に残る台詞はコンチエッタという関係のシーンと思って戴ければよい。
 しかし、この考察文書いていて、私がちょっとフィオリーナに惹かれた理由がわかった。この娘、私と同じで「3人兄妹(姉妹)の真ん中」なんだよな。野原しんのすけの母みさえと同じって訳だ。まさか今回の再視聴でフィオリーナに惹かれるとは思わなかった。
名場面 再会 名場面度
★★★★★
 ラパス通りの広場でいつも通り公演を行っていたペッピーノ一座、いよいよ劇が始まるその時、フィオリーナがどこからともなくアメデオがやってきてジュリエッタと遊んでいるのに気が付く。「…アメデオ」と呟いたフィオリーナは笑顔になり、思わずシンバルを放り投げてしまう。これに気付いたペッピーノとコンチエッタが振り向くと、フィオリーナはアメデオを抱き上げて「マルコが来たんだわ」と声を上げる。「マルコは何処?」とフィオリーナがアメデオに必死になって声を掛けると、アメデオは街中へ走り始める。フィオリーナがこれを追う。そして公園のベンチで横になっているマルコを発見する。
 「マルコ…」小さく声を上げてマルコにそっと近付く、よく見ると本当にマルコだと分かりフィオリーナの目に涙が溢れる。「マルコ…」もう一度声を上げてマルコのすぐ側まで駆ける。眠っているマルコが心配なのか、フィオリーナの身体が震える。人の気配に気付いたマルコが静かに目をさますと、今度はマルコから見たフィオリーナの顔に画面が切り替わる。マルコは目の前で自分の顔を覗き込んでいる少女がフィオリーナだと気付くと、目を見開いて驚く。「マルコ…マルコ」マルコの名を呼び続けるフィオリーナ、マルコの顔が見る見る喜びに変わり「フィオリーナ!」と叫ぶと、思わずフィオリーナに抱き付いてしまう。支えきれず倒れたフィオリーナを押し倒した形になったが、起き上がりながら二人は笑い会う。「フィオリーナ、捜してたんだ、僕」「私、きっと来ると思ってた」「フィオリーナ…でも僕、かあさんに…」「逢えるわ、きっと逢える。さあ、みんなのところへ行きましょう」「うん」…二人は手を繋いで走り出す。
 13話で盛大な別れを演じた二人が、11話分の時を経てここで再会した。マルコのブエノスアイレス到着からずっと楽しみにしていたのは、この再会だろう。この再会劇はアメデオを小道具として有効的に活用した上で、非常に印象的に、そして感動的に描かれた。
 しかもこの再会時にマルコが疲れて寝ていたというのもポイントが高い。もしマルコが起きていたら二人が走って抱き合うシーンになったと思うが、これではあまりにもありふれすぎていてあまり印象に残らなかっただろう。フィオリーナがマルコを見つけて少しずつ近づき、「寝ている」という状況から一度フィオリーナに不安を持たせ、その上でマルコが目をさまして安堵の再会という形で「間」を置いたからこそ、印象深く感動的シーンになったのだ。
 しかし久々のフィオリーナの登場、なんか嬉しかったぞ。でもマルコがフィオリーナを押し倒したり、手を繋いで走ったり、今話のラストでは手を握り合ったりして…これじゃ恋人同士みたいじゃないか! ったく、ちょっと羨ましいぞ、マルコ。
  

 
感想  今回はサブタイトルでマルコとフィオリーナの再会が描かれることは誰もが理解しただろう、それをどう描くかがポイントだった訳で、これが印象深くなった理由は名場面欄に記した通りだ。マルコが公園のベンチで眠り込んでしまい、アメデオが放し飼いになった段階で「予感」を感じ、マルコが寝ているすぐ脇をペッピーノ一座が通過したことで「確信」に変わる。あのサブタイトルですれ違いで終わったら、誰もが納得しないところだ。そしていつの間にかにジュリエッタと遊んでいるアメデオ、これだけでもう決まりであり、うまく順序立てたと思う。
 前半では「役所」というものが上手く描かれている。いくらマルコが子供でも、母が見つからず同情するに値する状況でも、役人は自分の業務範囲を超えることは出来ないという世の厳しさだ。こう言うことを教えてくれるアニメは現在はもうないのではないか? 子供達に人気の「名探偵コナン」なんか、どう見ても小学1年生の少年が殺人現場に平気で出入りしちゃう。いくら興信所に潜り込んでいて元刑事が面倒見ている子とは言え、そりゃねーだろーと思う。だがこれに挫けないマルコは好印象だ、ここで再度「ボーカの街へ行けば」ということを言われ、忠実にれを実行するのだ。マルコの「挫けない」という行動パターンはここから出てくることになる。
 いよいよペッピーノ一座との本格的な旅が始まる、しばらくは楽しい旅路になりそうだ。
研究 ・ブエノスアイレス
 今回はブエノスアイレスについて調べてみよう。言うまでもなく「母をたずねて三千里」の舞台、アルゼンチンの首都であり、現在の都市圏の人口は1300万…といってもこういうのは調べればすぐわかることで、多分多くの人が「母をたずねて三千里」の舞台としてのブエノスアイレスの考察を期待していることだろう。
 だが残念ながら、「母をたずねて三千里」に出てくるブエノスアイレスは「架空の地」要素が大きく考察にならなかったのが現状だ。メレッリが住んでいたとされマルコが最初に訪ねた「ロス・アルテス通り」は、検索してみると既に複数のサイトによって「架空の地名」であることが明らかにされている。劇中で「ロス・アルテス通り」の一本隣とされ、マルコとフィオリーナの感動の再会が演じられた「ラパス通り」もブエノスアイレス市街地に存在を確認できなかった(「ラパス通り」が見つかれば、その一本ボーカ側の道を「ロス・アルテス通り」と認定することは可能だったが適わなかった)。マルコの母が働いていたロハス邸がある「バリエンテス通り」は実在したが、これはボーカから見てブエノスアイレス市街地を挟んで反対側に位置しており、子供が短時間で歩いて行くにはかなり無理があり、劇中のものと同一とは思えない。よってボーカという地名以外は全て架空のものであると判定せざるを得なかった。
 ボーカはブエノスアイレス中心部より南へ3キロの川の河口(川の名称は日本語表記のある地図には記載無し)に位置する。恐らくマルコの年齢とそれに伴う行動範囲を推測すれば、劇中の出来事の多くがブエノスアイレス中心部とボーカの間の南北3キロ、東西1キロ程度の範囲での出来事ではないかと思う。ただ前話に出てきた教会については、このエリアから少し外れても問題が無いだろう。
 ブエノスアイレスと言えば、日本の鉄道好きにとってはどうしても避けて通ることが出来ない話題がこの地の地下鉄のことだ。ブエノスアイレスには6本の地下鉄路線があり、A〜EとHというアルファベットで路線名が付けられている。このうちB線では東京の営団地下鉄(現東京メトロ)丸ノ内線を引退した車両が、C線とD線では名古屋市営地下鉄東山線を引退した車両が、それぞれ引き取られて現在も大事に使用されている。特に丸ノ内線から譲渡された車両は、東京で30年使われたにもかかわらず当時のブエノスアイレスのどの地下鉄車両よりも整備状態が良く現地の人を驚かせたという。名古屋から譲渡の車両は車両規格の違いもあって大幅に改造されたが、丸の内線車両は東京で活躍した時のままの姿で活躍しており、時折日本からの旅行者を驚かせるという。

第25話「ペッピーノ一座大あたり」
名台詞 「昨日そう言ってくれたら、もっと早く済んだんです。」
(マルコ)
名台詞度
★★★
 マルコは母の消息を調べるべく再度移民局へ足を運ぶ、だが窓口の対応は「わからない」の一点張りで何をどう調べてわからなかったのかという説明が何もない。これではマルコでなくても視聴者も「こいつ本当に調べたんか?」と疑問に思うだろう。その頃合いを見計らったかのように「領事館へいけば何か手がかりがあるかも知れない」と思い出したかのように語る職員に対し、マルコがこう吐き捨てて移民局を出て行く。
 この台詞には見事に窓口職員の「お役所的な対応」に対する不満と、「思い付きによる対応」に対する怒りが込められているだろう。マルコ担当の松尾佳子さんは、自分が役所の役人に冷たくされた日を思い出して演じたとしか思えない(笑)。今話の展開の中でもあまり本筋に関わらない台詞ではあるが、こまのアツイ演技のおかげでもっとも印象に残った。
 そしてこの台詞の通り、この対応が前の日に出ていればマルコはもっと早く「バイアブランカ行き」が正しい決断であることを判断できることになる。領事館ではピエトロの依頼により既にあんなの居所が調査されており、「メレッリとともにバイアブランカへ行った可能性が高い」という結論が出ていた。この展開からもこのマルコの短いこの叫びが思い出される、まさに「演技で勝利した」という点で印象深い台詞だ。
(次点)「なぁに、私の考えは変わりはせんよ。フィオリーナ。とうさんの体中の血はいま熱く熱く燃えたぎっておる。南の新天地、その何処の街にも今夜の喝采がわしらを待っておる。あの南十字星の輝く空の下、何処にでもだ。さ、今夜はぐっすり眠るんだ。明日は早発ちだぞ。」(ペッピーノ)
…詳しくは名場面欄を参照して戴きたいが、この台詞の裏に「何としてもマルコの力になる」という決意が嘘でないことがよく表れている。名台詞欄をどっちにするか最後まで悩んだペッピーノの名台詞だ。
名場面 舞台の後 名場面度
★★★
  フォスコの店での公演は大成功。ペッピーノとフォスコが儲けの分配をすると、フォスコがペッピーノに「ここに残ってみてはどうだ?」と持ちかける。これを笑顔で聞くペッピーノの背中に、「父さん…」と娘の声が飛んでくる。ペッピーノが振り返ると、そこに怖い顔をしたコンチエッタとフィオリーナ、それにマルコが並んで立っていた。「(名台詞欄次点の台詞)」とちょっとオーバーアクションで語ると、マルトモフィオリーナもコンチエッタも笑顔になって安堵する。「世話になったな」今度はペッピーノがフォスコに向かって言いながら、チップを投げる。コインを受け取ったフォスコが「成功を祈るぜ」と語るとペッピーノが頷く。
 ペッピーノが旅費を得るために仕掛けた公演が大当たり、その楽しい公演の余韻という物がしっかり描かれていて感心した。何よりもこのシーンの冒頭で金計算をしているペッピーノの背後で後片付けをしているマルコ達がいい味を出していた。また、公演が大あたりして予想外の儲けを手にしたフォスコが簡単にペッピーノを手放そうとしない点、ペッピーノがその台詞に少しだけ揺らいでしまうところ、この2点は二人のおっさんが人間くさく描かれていて気に入った。ペッピーノがマルコを助けるとはいえ、やはり確実な儲けに未練があるのだ。
 だが娘の声と怖い顔ですぐに我に返る。これもこの男らしくていい、前にも言ったがこの男は長女には勝てないし、次女もだんだん父親の操縦が上手になってきていると来ている。ここでいきなり予定変更と言っても娘達が納得するわけがないのはよくわかっているはずだ。それだけでなくジェノバで自分達の窮地を救ってくれたマルコに恩を返さねばならないし、何よりもマルコの現状に同情し何としても助けたいという気持ちは嘘ではないのである。だから名台詞欄次点の台詞はマルコの方に手を置きながら言ったのだ。
 このシーンにペッピーノというおっさんの、全てが現れているような気がする。それで今回の視聴では、とても印象に残った。
  
感想  ペッピーノ一座との再会を受けて、物語は途切れることなく次の目的地へ向かおうとする。今話までにマルコの母の所在について、「とりあえずバイアブランカへ行ってメレッリを訪ねてみる」程度のことが示された。だがこれは大人になってからの視聴で気が付いたことであるが、確かな母の所在ではなく母の所在を掴むための「手段」に過ぎないのだ。この「手段」のためだけに、マルコはこのブエノスアイレスから600キロも南下しなければならないという厳しい状況なのだ。そしてこの事実を、マルコ自身が見落としていること、ペッピーノが気付いていないことが今後物語をさらに厳しい方向へ導くのである。
 だがメレッリを捕まえたところで「母に逢える」のでなく「母の行方がわかる」程度でしかないと、マルコやペッピーノが前もって知っていたらまた別の手段が考えられただろうか? やはりマルコは「とりあえずメレッリを訪ねてみる」という手段を取るしかなかっただろう。
 しかし、ペッピーノの芝居をやれば絶対にウケるというあの自信はどこから来るのか。あれで失敗したら目もあてられなかったわけで、もちろん鍛冶屋のアナライザー(笑)は馬車の修理代金を要求するだろうし、フォスコは場所代を迫ってくるだろう。ペッピーノ一座いきなり借金で首が回らず、ではバイアブランカどころの話でない。だからかなり危ない橋を渡っていたはずなのだが…これはやはりペッピーノの持って生まれた才能なのだろう。他は何をやってもダメだが、芝居のプロデュースや演じる才能、それだけでなく娘達をあそこまで「芸人」として育てた育成者としての才能もあるのだろう。というわりにはフィオリーナの才能を見いだしたのはマルコだったが。
 次回から物語は新展開に突入する。ジェノバ出発からブエノスアイレスまでを描いた第二幕「旅立ち編」は今話で終わり、いよいよ南米の草原への旅が始まる。私の解釈ではブエノスアイレスから旅立つまでで一幕で、「旅立ち編」だ。こうしていよいよ、「母をたずねて三千里」らしい草原の旅へと展開して行くのだ。う〜ん、しかしフィオリーナはやっぱいいねぇ。
♪せっせっせーのよいよいよい あっち向いてホイ!
研究 ・ 
 

第26話「草原へ」
名台詞 「変だね、何だかとっても。不思議なんだ、僕が今、こんなところに立っているっていうことが。アルゼンチンなんだ、ここは。ジェノバじゃない。フィオリーナに逢わなかったら、ジェノバにまだいたかも知れない。けど、僕は今ブエノスアイレスにいる。遠い外国で、朝が来るのを待っているんだ。不思議だね、イタリアに帰ったらあの星とはもうお別れなんだもの。」
(マルコ)
名台詞度
★★★★
 バイアブランカへ向けて旅立つ日、まだ夜が明ける前にマルコはベッドから抜け出して一人星空を見ている。そこへマルコがベッドからいなくなった事に気付き、マルコを捜していたフィオリーナが現れる。フィオリーナが声を掛けると、マルコはそっとこう語るのだ。
 この台詞の気持ちはよくわかる。遠くて憧れの地へ初めて旅に来たとき、その地で思うことがまず「不思議だ」という思いなのだ。地図でしか見たことがなかったような遠い土地、それも一度来てみることが夢だった憧れの地に立った時、「自分は本当に地図のそこに来ているのだろうか」という思いと、「ここに今立っているんだ」という気持ちの両方がやってくる。この気持ちを一言で表すと「不思議」だという思いであり、私も何度か体験したことがある思いだ。
 同時にフィオリーナに向けての感謝。フィオリーナとの友情がなければ彼は間違いなく「彼女を追う」という形でこの地に来ることはなかっただろう。来たとしてももっと遅い時期になっただろう。フィオリーナが遠い地で自分を呼び続けてくれた感謝も、この台詞には込められている。
 そして最後の部分は「帰った後の自分」というものをもう想像しているのだ。帰ればこの地での出来事が全て思い出になるという事に、既に彼は気が付き始めているのだ。そんな旅で感じる様々な「不思議」を、この台詞は見事に表現している。長い旅をした者にだけ理解できるこの台詞は、ここまでのマルコの台詞でかなり好印象のものだ。
名場面 対面 名場面度
★★
 いよいよ物語はブエノスアイレスから南米大陸へと入って行く、その最初の出会いは草原の中にあった沼地で狩りをしていたサルバドールという男だ。サルバドールが狩りをする銃声にフィオリーナが襲われると勘違いしたペッピーノは、沼地へ駆けてゆき泥だらけになる。仕方なく草原の木の下で服を乾かすペッピーノとサルバドールのところへ、マルコが馬車を回送すると共にペッピーノ一座を連れて行く。馬車が二人の前に停まると、「チビ君たちのご到着だ」と呟いた後にマルコ達を呼び出す。マルコ、フィオリーナ、ジュリエッタと馬車から降りてきて、最後にコンチエッタの姿が見えたときにサルバドールの目の色が変わる。ペッピーノが「上の娘です」と紹介すると、サルバドールは腰を上げてコンチエッタにこれはこれは丁寧な挨拶をするのだ。驚くコンチエッタをよそに彼は火の側へ彼女を誘う。この光景にマルコとフィオリーナも唖然としている。そして昼食だがその「怪しい」雰囲気を受け取ったコンチエッタとフィオリーナは何となく元気が出ない。それにも構わず「うちの牧場に寄って下さい」と訴えるサルバドールに、ペッピーノは喜んで行くとするがコンチエッタがマルコをだしにしてまでの大反対。珍しく素直でないコンチエッタに、マルコもフィオリーナもこれまた驚く。
 このシーンの構図が好きだ。とにかく意気が合うペッピーノとサルバドールという関係も良いが、何よりもサルバドールがコンチエッタに「下心」を見せた後の皆の関係がよい。コンチエッタはこの男に惚れられたことと、自分がこの男がタイプではないことを瞬時に見抜いたのだろう。もう警戒度がビンビン上がって、この男と一緒の行動をとにかく避けようと必死だ。このコンチエッタの思いが、ドロンジョ様の名演技もあってうまく表現されていると思う。
 それに対しサルバドールのところへ立ち寄ろうと必死のペッピーノもこれまた良い。ペッピーノから言えば「お礼は弾む」というサルバドールの申し出はまたとないチャンスだからだ。彼らは旅をしているとは言えその旅費を稼がねばならない立場にあり、一定の収入が約束されているサルバドールの申し出は安定した旅の足しになるのは確かなのだ。この二人の「立場」の争いが、うまく描かれている。まさに波平VSドロンジョ様だ。
 これを横で見ているマルコも良いし、何よりもフィオリーナが色んな表情を見せてこれまた可愛いのも良かった。
 

 
このシーンに出てくる鳥の肉がとても美味しそうなのもこのシーンの魅力だ。
感想  いよいよ南米大陸での旅が始まる。名台詞欄のシーンを冒頭にプロローグとして残し、ここからは「バイアブランカ編」とでも名付けようか。とにかく「母をたずねて三千里」は第三幕に突入したのだ。そしてその最初の話は、南米での旅に視聴者を引き込むための「つかみはOK!」的な話でなく、マルコとフィオリーナの仲の良さを印象付ける方向で進んでいたと思う。
 名場面欄に記した通り、ここで初登場かつ南米大陸での旅の最初の出会いであるサルバドールについては、第一印象を「怪しい人」としてきた。それも人を騙すような「悪人」として描くのでなく、なんかちょっとコンチエッタを困らせそうな、そんな嫌な雰囲気をもって登場してきた男に対し、ペッピーノが完全に信頼しきっているというこの関係は見ていてとても楽しみになるとともに不安にもなる、視聴者を物語に引き込むよう上手く作られているのだ。このサルバドールの初登場を見た感想は、「南の虹のルーシー」でバーナードが最初に出てきた時の様子を思い出す。ポップル家の長女が川へ洗濯しに行ったら若い男が全裸で泳いでいたあのシーンの直後の、全裸の男登場に対し逃げるクララを必死に呼び止めるバーナードの情けない声だ。
 それ以外はただ草原を進んでいるだけ、ペッピーノが子馬相手に大人げない競争をしたり、手綱を持ちながら居眠りしたりと、のんびりした旅路だった。こののんびりが何処まで続くのか、怖いような楽しみでもあるような内容だった。
 
研究 ・ 
 

第27話「フィオリーナの涙」
名台詞 「ねぇマルコ、おかあさんに逢って。どんなことがあっても、おかあさんに逢うの。きっとよ。ジェノバにいるエミリオやベルナルドも、今の私ときっと同じなんだわ。とうさんに逢えない気持ちをマルコに、マルコのおかあさんに届けてもらいたいのよ。私と同じように、おかあさんってマルコに言って欲しいのよ。ねぇ、わかるでしょ? わかってほしいの。」
(フィオリーナ)
名台詞度
★★★
 詳細は名場面欄を参照して戴きたいが、そのシーンのフィオリーナの台詞で、彼女のマルコへの気持ちの根幹が語られているのはここだろう。
 これこそがフィオリーナが全身全霊を込めて「母に会いに行く」というマルコを支援する理由だ。自分が母に逢えないという気持ちと思い、それだけでなくジェノバで知り合ったエミリオ達が父に逢いたいけど逢えないという気持ち、これをマルコに託しているのだ。だからマルコには何が何でも母に逢って貰わねばならないし、例えそれが芝居だとしても「マルコが母に逢えない」というのは許せないのである。そんな自分達の気持ちを託しているんだというマルコへの思いが痛いほど伝わってくる名台詞だと思う。
 そしてマルコはこの台詞によって、フィオリーナの気持ちをしっかりと受け止めると共に、何故エミリオが働きたいというマルコに協力的だったのかも理解したはずだ。マルコはフィオリーナのそんな気持ちを喜びとして感じ、何が何でも母に逢わねばならないという決意を新たにする。その決意は自分がただ母に逢いたいという思いだけでなく、自分を支えてくれる人々のために逢わねばならないという新たな思いだ。
 こんな台詞をマルコに語ったフィオリーナは、母に逢うために決して後ろを向かず前だけを見ている一途なマルコが大好きなのだろう。その思いで前進を続け一人で南米までやってきたマルコに、心底惚れているに違いない。そんな思いまでも伝わってくる台詞だ。だから名場面欄の最後に書いた「これが大人同士だったら…」ということになるんだけど。この本気度が「母をたずねて三千里」という物語で、フィオリーナが強力に印象に残る理由でもあるし、大人になって再視聴の私をもとりこにする魅力なのだ。ああ、やっぱ中学生の頃に視聴したら、間違いなくこの娘に夢中だっただろうな。
名場面 マルコとフィオリーナ 名場面度
★★★★
 昼間に「事件」が起きる、それはペッピーノ一座がマルコを主人公にした芝居をやることになったのだが、その途中でマルコ役のフィオリーナが「おかあさん」と呼んだまま泣き出してしまうというハプニングだった。その場はそのフィオリーナの気持ちをコンチエッタが受け止め、一件落着するが。
 その日の夜、皆が寝静まってもフィオリーナとマルコは眠れずにいた。マルコはフィオリーナに母を思い出させてしまったのは自分のせいだと後悔していたのだ。マルコがそうフィオリーナに語ると、彼女は違うと否定してマルコを外に連れ出す。空には満天の星空、これを見ながらフィオリーナは「あんまり泣いたので胸の中がスッキリしちゃった、こんな気持ち初めて」と笑顔で語る。さらに「初めてなの、おかーさーんってあんなに叫べたの、マルコのおかげよ」と続け、ジェノバで初めて出会ったときの屋根の上での出来事を思い出して語る。だがマルコはやはり「僕はちっともわかってなかった、あの時からずっと助けて貰うだけだった」としてフィオリーナに謝罪する。ところがフィオリーナは
「そうじゃないの、違うのよマルコ。かあさんは私たちを置いていった、あんな小さなジュリエッタも一緒に。だから私、かあさんなんて一度だって言ったことがなかった…そっと呟くことだって。ウフフ、海に向かっておかあさんって叫ぶなんて。でも素敵だった、あの時も今日も。」
と語る。そして力を込めて名台詞欄の台詞を語る。マルコは「僕、どんなことをしてもかあさんを探し出すよ、フィオリーナにもみんなにも会ってもらうよ」と答える。そして二人は硬く手を握り合う。「素晴らしいわ、こんな夜私にも初めてよ」と声を上げて空を見上げるフィオリーナ、並んで空を見るマルコ。
 このシーンではフィオリーナが初めてマルコへの気持ちを語る。彼女はマルコの「母に逢いたい」という気持ちによって、自分自身が勇気づけられ元気づけられたことを語るのだ。既にフィオリーナには初期の暗い性格はなくなっており、同じ人物とは思えない程明るく前向きなキャラに変化した。その心情変化と「マルコがいてくれて良かった」という思いを語る。
 一方のマルコは昼間の「事件」によって、自分の言動とフィオリーナの心情というものを真剣に考え出していたことは言うまでもない。思いつめるタイプの彼だからその考察の答えは悪い方へ悪い方へ行く、自分の存在自体がフィオリーナに思い出させてはいけない「母」の存在を思い出させてしまったのでないか、自分はフィオリーナに嫌われたのではないか…だがこの台詞を聞いて決してそうではないことを彼は知ることになる。
 こうしてマルコとフィオリーナの友情は確固たるものとなる。二人は互いに無くてはならない存在であることを認識し合い、互いにその存在によって支えられていることを確認したのだ。
 でもこのシーン、大人同士だったら間違いなくあんな事やこんな事になりそうだぞ。フィオリーナとこんなシーンを演じられるマルコがかなり羨ましい。

  
感想  いよいよ物語は、全52話中の折り返し点に到達した。
 サブタイトルの通りフィオリーナが主役で物語が展開する。その本筋の合間に前話の続きで「どうしてもサルバドールのところへ行きたくないコンチエッタ」をうまく描いている。このコンチエッタの気持ちについては名台詞欄シーンの後、今話のラストまで断続的に引っ張られている。特に今話のコンチエッタは前話以上に必死で、父に牧場へ行かせないよう説得するのに矛盾した論理まで言い出す始末だ。これに対して的確に矛盾点を発見し「お前は何が言いたいのだ?」とツッコミを入れるペッピーノもいい味が出てる。ペッピーノについては、この長女が自分の思うように制御できなくなっているのに苛立ちを感じているというという胸の内をちらつかせているのもリアルで良い。
 そして空き家での芝居の練習、これを見ていてマルコが「なんで自分の行動が物語になるのかわからない」という目をするのがこれまた年相応の反応でいい。これで一緒にマルコまで喜んでいたら思い切り白けた。意外に感動的な行動をしている本人は、自分が行っていることがどれだけ凄いかということに気付いていないものなのだ。
 とここまでダラダラ書いておきながら、やっぱり今話は名場面シーンに尽きると思う。特にフィオリーナの気持ちがハッキリし、なぜ彼女がマルコが好きなのかわかるところも今話の良いポイントだ。フィオリーナのファンの人は、今話を見て嫉妬するかさらにのめり込むかのどちらかだろう。私は後者だったが。
 
研究 ・ 
 

第28話「バルボーサ大牧場」
名台詞 「お願い、とうさん。旅のお金が要ることも、とうさんが偉い人に認められたいことも、よくわかるの。でも私だって…辛かったわ、続けるの。お願いだからマルコとフィオリーナをこれ以上傷つけないで、マルコのおかあさんはもうマルコだけのおかあさんじゃないの。わかって、とうさん。とうさん…お願い…とうさん…。」
(コンチエッタ)
名台詞度
★★★
 バルボーサ大牧場での最初の公演は、名場面欄の通りペッピーノが仕掛けた台本になかった展開と、これを受けてのコンチエッタとフィオリーナのアドリブによって大成功を収め、多大な見物料を得ることが出来た。だがこの内容によりフィオリーナもコンチエッタもマルコも深く傷つき、今日の成功に浮かれるペッピーノに遂にコンチエッタが抗議する。フィオリーナやマルコの気持ちも分からずに、マルコをだしに金儲けをしたと父を徹底非難するのだ。これに対し「マルコを早くバイアブランカへ送るためにやった」と反論する父に「だった明日の朝ここを発って欲しい」と懇願した上で、コンチエッタは泣きながらこう父に訴えた。
 まずこの台詞について語る前に、前話のフィオリーナの名台詞を思い出して戴きたい。フィオリーナは「自分が母に逢えないという気持ち」をマルコに託してマルコを全面支援しているとした。これはフィオリーナだけでなく姉のコンチエッタも同じであると言うことがこの台詞から読み取れるだろう。コンチエッタはフィオリーナよりさらに一歩進んだ気持ちを語っているように見えるが、これはフィオリーナも同じ思いのはずだ。
 その「一歩進んでいる」部分は、コンチエッタにとって「マルコが母に逢う」というのは自分が母に逢うのと同じだという思いを口にしたことである。だから今やマルコの母は自分の母でもあり、フィオリーナの母でもあるとするのだ。だからこそ父が突然台本を追加して芝居の中でマルコの母を殺してしまったのが許せなかった、それは自分の母があろう事に父に殺されてしまったような錯覚を覚え、彼女たち姉妹も深く傷ついたのだ。
 その姉妹の気持ち、そしてマルコに託す思いを訴えたのだが、コンチエッタがフィオリーナよりも年上で進んでいる部分は、なぜ父があんな事をしたか理解している事だろう。この辛い旅行に必要な資金を得るため、マルコを母に逢わせるための必要なものを得るためであり、父がちゃんとオチを付けることもわかっていたのだ。だがコンチエッタとしてはもう「自分の母が殺されるような思い」は二度としたく無いはずだ。この彼女の思いが上手く描かれた印象的な台詞だったのだ。
(次点)「嫌よ、お芝居だって絶対に嫌。マルコのおかあさんが死んでしまうなんて…。」(フィオリーナ)
…まずここはフィオリーナを演じる信沢三恵子さんの名演技に注目、名台詞欄に挙げた芝居に深く傷つきマルコに申し訳ないと泣くフィオリーナを見事に演じている。そしてこの台詞はあんな芝居をしてしまったことをマルコに謝った後にマルコから「芝居だから何とも思ってない」と返事があっての台詞なのだが、それに対しこう語るというのはもうフィオリーナにとって「マルコの母が死ぬ芝居をしてしまった」というのが、自分の母が死ぬ芝居をしてしまうのと同じ位の気持ちだった表れだ。
名場面 ペッピーノ版「母をたずねて三千里」 名場面度
★★★★
 バルボーサ大牧場公演での演目は、フィオリーナの発案によりマルコの旅を劇化して演じる事になった。もちろんそのままではウケるはずがないのでペッピーノが脚色し、マルコの母が山賊に襲われたのをバルボーサ討伐隊が助け、それによってマルコと母が再会できるという展開にした。もちろんこの脚色は大当たりだったが…ペッピーノはこのままマルコと母の再会劇で終わる展開による客席の反応が思ったより良くなかったことを見逃さなかった。
 「まさに二人の物語が幕を下ろそうとしたその時であります!」とペッピーノは台本になかった展開を勝手に始める。舞台裏で戸惑うコンチエッタとフィオリーナ姉妹をよそに、ペッピーノはマルコの母の人形の背中に矢を突き刺す。観客から上がる悲鳴、フィオリーナはあまりの展開に一時その場に泣き崩れるが、コンチエッタが「続けるしか仕方が無いのよ」としたことで何とか芝居を続ける。勿論台本になかったのでここからはコンチエッタとフィオリーナのアドリブ芝居だ。芝居の中でマルコを演じるフィオリーナの「死んじゃ嫌だ、死なないでおかあさん」の台詞は迫真に迫るものとなってしまった。そしてその光景を見ていられず震えながら目を閉じるマルコ。そしてペッピーノのナレーションと共に幕は閉じられるが、泣きながら演技をしていたフィオリーナはもう限界だった、芝居を演じきって幕が閉じた瞬間走り去ってしまう。その状況でもペッピーノはマルコを面に引っ張り出し、「かくのごとき不幸に遭わないよう、盛大なるご声援を!」とうまくオチを付けるが、その巻も舞台裏でコンチエッタは悲しい表情して座り込むだけだった。
 劇中劇とは言えとんでもない展開に視聴者も驚いたことだろう。このシーンではペッピーノの芝居師としての才能は評価せざるを得ない。台本通りの芝居で観客席の反応が悪いと見るやいなや、突然台本になかった別の展開へと話を持って行き、当初からぶちまけていたように観客席を感動の涙で一杯にした。
 同時にこれに見事についていったコンチエッタとフィオリーナのプロ根性も見逃してはならない。二人とも名台詞欄に記した通り、この展開はまるで自分の母が殺されるような辛い演技だったはずだ。だけどコンチエッタは表情一つ崩さず泣き崩れたフィオリーナをフォローし、フィオリーナも今は仕事中であり私情を挟むべき瞬間ではないと認識して、このどうしてもやりたくない芝居を最後まで演じぬいた。それも台本無しで抜き打ち、つまりアドリブでだ。このペッピーノ一家が「プロ」として描かれた最大のシーンがここであるのは確かだろう。
 だがその中でも、コンチエッタとフィオリーナにとってこの芝居が辛すぎるという事実をキチンと描き込んだのは素晴らしい。フィオリーナは身体が震えて泣きながらの芝居だったし、コンチエッタも声が震えながらの芝居だ。このドロンジョ様と信沢三恵子さんの「劇中劇」の演技も見落としては鳴らない点だ。そして観客にはその姉妹による「迫真の演技」に映り、公演が大成功という過程を一発で理解できる素晴らしいシーンになった。
 でもやっぱ、波平さん酷いよなー。おにっ、あくまっ、人でなしっ。とマルコは叫びたかったに違いない。
  
感想  いや〜、色々詰め込んだ話だった。まず私の記憶に無かったのはサルバドールのコンチエッタに対する下心がどうなるかという点。あんまりにもあっけなく解決したのは拍子抜けだった、展開的にはコンチエッタの自意識過剰というオチなのだろうけど、前々話のサルバドールの言動を見ているとそういうオチにするには無理があったと思う。その上、サルバドールの出番は殆ど無かったし…あんな強烈に印象付けておいて、特にオチも付けずあっさり消えて行くのがどうも納得行かないというキャラになりそうだ。どうりで覚えてないはずだ。
 そして名場面欄をきっかけに回る今話の主題。今話でも前話に引き続きフィオリーナが持ちマルコへの思い、そして姉コンチエッタも含めたマルコの母への気持ちというのが明確に描かれた。ペッピーノは一家の長であり座長として、どうやって家族であり俳優である娘達を養って行くかということで頭が一杯だったという解釈をとることも出来る。つまりペッピーノがマルコのことよりも収入を優先させる手はずを少しでもしておかないと、マルコまで巻き込んで行き倒れになる危険があるのだ。だから彼は一座の中の「悪」を一手に引き受けていて、娘に嫌われる覚悟があったはずなのだ。だが彼が予想していなかったのは、娘達のマルコへの気持ちが予想以上に強かったことだ。フィオリーナなんか間違いなく惚れてるし。
 そんな父と娘の行き違いがこの物語にはよく現れていると思う。そういう意味で大人になったいま見てみるとても印象に残る話だ。子供の頃は人形劇のところしか覚えてなかったんだけど。
 今回もフィオリーナの出番が多く、とても喜んだのは言うまでもない。
 
研究 ・ 
  

第29話「雪がふる」
名台詞 「コンチエッタ、わしが何にも心配しとらんと思っているのか? ジュリエッタのことを。父さんだって、まだものもよく言えんジュリエッタが苦しむのは、身を切られるより辛い。しかし今は待つしかないんだ。」
(ペッピーノ)
名台詞度
★★
 ブエノスアイレスを出てから10日、周囲には何もない草原の街道をペッピーノの馬車が走っていた。だがその途中で馬車の車軸が曲がるというトラブルが発生し、馬車は停止を余儀なくされる。その上水が底をついてジュリエッタが熱を出すという状況に、コンチエッタとペッピーノのが対立をする。「どうにもならん」とお手上げのペッピーノと、ジュリエッタのために早く宿場へ向かってくれと言うコンチエッタ。この二人の言い争いに決着を付けたのはペッピーノのこの台詞だ。
 ペッピーノはこの現在の状況を誰よりも冷静に判断していた。車軸が故障した馬車を直すにはどうしても男手がもう一人必要で、女性と子供だけの自分達にはどうにもならないという厳しい現実だ。一方コンチエッタの立場はジュリエッタという「家族を守る」ために、一刻も早く宿場に着かねばならないというもう一つの厳しい現実を父に突き付けたのである。だがこの条件下ではペッピーノが言う現実が打破されないことには、コンチエッタの言う現実はどうにもならないのだ。この現実を家族に突き付けるために、ペッピーノは一家の長として悪になることを引き受け、辛い選択をした後だったのだ。
 そんな父の気持ちを知らずに父をなじるコンチエッタを説得させたのは、これまで父が胸の中に押し込んでいた「本音」である。ペッピーノも末娘が体調不良という事態によって、本当は居ても立ってもいられなかったのだ。それはペッピーノの行動を見ていれば明らかで、このメンバーではどう考えても直せそうにない馬車を直そうと悪戦苦闘してみた。その上でダメだったのである。その行動が前段にあったからこそ、この台詞でペッピーノの「本音」が出た事でコンチエッタも「自分はどうにもならないことで抗議している」と気が付き、この後のシーンで父に面と向かって謝罪することになるのだ。この台詞には「本音の強さ」が描かれているのだ。
 だがペッピーノも「ジュリエッタ一人」だけでなく、家族全員とマルコの生命が肩にのしかかって来ると「火事場の馬鹿力」でこの状況を一度は解決させることになる。やはりこの台詞で語られた「本音」は、嘘ではなかったのだ。
名場面 人家発見 名場面度
★★
 今話のペッピーノ一座とマルコはとことん運から見放される。まだ宿場まで距離があるというのは既に時刻は午後を迎えており、しかも水は尽き、ジュリエッタが高熱でうなされ、馬車は車輪のトラブルで不調、雨で全員の身体は冷やされた上、すれ違った人も捕まえられず、なんとか這う這うの形でゃっと進み始めたら日没を迎えてしまう。そして暗夜の道に馬車を走らせるが、車輪のトラブルを引きずって速度も出せず、皆が寒さで震えているそのさなかに馬車は街道から外れて動けなくなってしまう。一同が絶望したその時、コンチエッタが家の灯りを見つけて皆は「助かった」と胸をなで下ろす。そこへ雪が舞い始めるのだ。
 このシーンはこれまでの立ち往生シーンが終わりを告げる瞬間だが、劇中の登場人物に感情移入していた人々をも安堵させるよう印象深く作られたと思う。特にその瞬間に雪が舞い始めるところは、このシーンの「間」を持たせつつ視聴者の印象に残す上手い演出だ。このシーンは正直言って「コンチエッタが人家を見つける」だけなのだが、たったそれだけをよく印象付け、そして「立ち往生からの脱出」という味付けをうまくしたと感心した。
 
感想  物語は「何ともない馬車の旅」を描くかに見えた。周囲の風景に変化が無く退屈な旅路、自然に語られる「出発から10日」という当初計画の旅程の半分が過ぎたという事実。ジュリエッタがぐずるのはいつもの事なので、冒頭は「退屈な馬車の旅」が主題だと思うだろう。だがペッピーノが飲料水が入ったヤカンを落とし、その上で馬車の車軸が折れるというトラブルが発生したことで、今回の主題は瞬時に「立ち往生」へと変化する。そして物語の主展開はこの「立ち往生」ではなく、草原に一人で住むカルロスという老人との出会いにあったことは物語を次回予告までみて初めてわかることだ。本編で名前が出てこなかったキャラが、次回予告で名前をわざわざ紹介されるというのは誰がどう見てもおかしいだろう。
 実はこの話、小学生時代に見た再放送で見た記憶が全く無い。恐ろしい程何も起きないと当時は感じていたのか、それとも複数回見た再放送全部で見逃したのかはわからない。これまでの話ではたいてい1シーンか2シーンは「あったあった」と思ったものだが、今話はどうしてもそのシーンが見あたらないのだ。
 
 どうでもいいけど、雨に濡れたからと一行がやむを得ず舞台衣装を着用するのだが、あのフィオリーナの服装はちょっと引いたぞ。なんかそのまま「♪とーきーおーっ」って歌い出しそうで怖かった(笑)。まだコンチエッタは夫人役の衣装を着ていたからよかったけど。カルロスもあんな服装の連中が突然雪が降る夜に訪ねてきたのだから、さぞ驚いたに違いない。私だったら「怪しい人達が来た」と思って、家にしっかり鍵を掛けて部屋の一番奥で縮こまっちゃうな。
 
「♪とーきーおっ」なフィオリーナ、夜中に突然こんな服装の人があなたの家を訪れたら…。
研究 ・ 
 

第30話「老ガウチョ カルロス」
名台詞 「ナイフを捨ててよ! 僕を助けてくれたんだ、ペッピーノさんは! 僕を助けて…。撃つよ、僕はペッピーノさんとは違う…。」
(マルコ)
名台詞度
★★
 この台詞に行き着くに当たっては名場面欄を参照して戴きたいが、ペッピーノにナイフを突き付けるオルテガに向かって、マルコはこう叫んで銃を向ける。
 この台詞には二つの要素がある。一つはこの台詞で語られている通り「マルコの想い」だ。彼は母に逢うために見知らぬアルゼンチンの地までやってきたのに、そこで母に逢えず途方に暮れていたところをペッピーノに助けられた。それだけではない、この男は自分を母の手がかりがあるバイアブランカへと連れて行ってくれているのである。だからマルコはこの男に感謝しており、このピンチに何か役に立たねばならない、そう感じてこの行為に及んだのだろう。
 そしてもう一つは、この状況下で唯一の「男」であるという自覚である。この旅行の大きな欠点に「男手の不足」という不安要素があることは、大人の視聴者なら簡単に理解できただろう。前話ではその不安要素によって「力仕事が出来ない」という現実が示され、これを見た時に「荒くれ者に襲われたらこの一行はヤバイな」と不安を抱いた者は少なくないはずだ。そのシーンがここで現実になったときに、マルコは自分が「男」だと気付いた。だから小さなジュリエッタを、大好きなフィオリーナを、自分を理解してくれるコンチエッタを、「自分が守らなければならない」と自覚したのだ。
 だから彼は生まれてから銃など握ったことがないのに、それを握ってこんな強気の行動に出られた。この二つの思いが彼を駆り立て、オルテガに突き飛ばされたとは言えカルロスに助けられるまでの時間稼ぎに成功して結果的には一座を救うことになる。
 だがマルコの心境は複雑だ、やはり自分ではどうにもならないことはわかったのだろう。その上助けてくれたカルロスも、礼を言う間もないまま去ってしまった。彼は恐らくフィオリーナに恥ずかしいところを見られ、穴があったら入りたい思いもしていたはずだ。
 今時の「草食系」の若者にはこのシーンのマルコの気持ちはわかるまい。彼らが草食系であるゆえんは、こういうシーンがあって少年が「男」として目覚めて「守るべきものために立ち上がる」物語をあまり見せられてないからだろう。テレビアニメでこういうシーンを演じられそうなものは長寿化されてしまい、こういうシーンを流すと同じことの繰り返しでマンネリ化してしまうのだ。「名探偵コナン」なんかみているとその辺りで苦労しているのがよくわかる。余計な話だった。
名場面 ペッピーノ一座VS荒くれガウチョ 名場面度
★★★★
 街道沿いに見つけたイタリア料理店で、一行は荒くれ者のオルテガというガウチョに絡まれる。旅回り一座を一人で非難し、それに対しペッピーノが逆上したのが始まりだった。オルテガも気分を悪くし、コンチエッタに「一曲踊れ」と強要した上、無理矢理コンチエッタの手を取って踊り出す。やりたい放題のオルテガに対し、最初は冷や汗をかきながら見ていたペッピーノだったが、じきにブチキレる。腰にあった銃を抜いて「手を離すんだ!」とペッピーノが叫ぶと、オルテガはコンチエッタを盾にして振り返る。「面白い、飛び道具との決闘は始めてだ」と語るオルテガに、ペッピーノは「娘を離せ」と強気だ。オルテガがコンチエッタを突き放すと、ペッピーノと向き合っての勝負になる。だがペッピーノは身体が震えてしまい、どうしても引き金が引けずついには銃口を下げて「わしには撃てん、人間を撃つなんてわしにはできん」と語り出して、銃を放り投げる。これを見てペッピーノに立ち寄るオルテガに、今度はマルコが突っ込むがすぐ突き飛ばされ、ペッピーノの胸ぐらを掴んで今にもとどめを刺す構えを見せる。すると今度はマルコが銃を向けて名台詞欄のように叫ぶ。「撃つなら撃ってみろ」と返すオルテガ、マルコの名を叫ぶコンチエッタとフィオリーナの声。「ペッピーノさんを離して、ナイフを離して」なおも叫ぶマルコを、「この腰抜け」と叫んでオルテガが突き飛ばすと、突き飛ばされた拍子にマルコの銃が火を噴く。「き、きさま…」なおもナイフを持ってマルコに飛びかかろうとするオルテガを、ペッピーノが背後から羽交い締めの形で制止しようとするがすぐ突き飛ばされる。店内に響くジュリエッタの泣き声。絶体絶命と思われたその時、オルテガの勢いが突如止まる。劇中時間の前の晩にペッピーノ一座を助けた老人の姿がそこにあったのだ。オルテガはこの老人にボコボコにされ一座は助かる。
 マルコと一座のピンチを容赦なく描いた。この「母を訪ねて三千里」では、マルコが生死の境に立たされるシーンが何度か描かれるが、このシーンは移民船の嵐に次いで二度目となる。しかも荒くれ者との対決という、これまた容赦のない暴力的シーンだ。ここにペッピーノの暴力ごととなると気弱で頼りないが娘思いである性格と設定が上手く使われ、同時にコンチエッタという年頃の娘を連れ歩いている危険性を浮き彫りにする。これと名台詞欄に挙げたもう一つの要素の3点は大人の視聴者が見ればこのバイアブランカへの旅における最大の不安要素と映るはずで、この不安が的中する形となって大人の視聴者が息を呑むシーンであっただろう。
 特にこのシーンにおいて、コンチエッタが無理矢理踊らされているという事態に対し、父親であるペッピーノがなかなか止めに入れないというシーンは上手く描いたと思う。ここはペッピーノがすぐに「やめろ」とか言い出したら、ここまで育ててきた「ペッピーノの性格」という設定を一瞬でぶち壊すところだった。同時にコンチエッタがむやみに「助けて」と声を上げないのも、この娘が父親の良いところも悪いところも知り尽くしていて自在に操れるという設定を崩さないポイントだ。そして何も出来ないフィオリーナと、泣き叫ぶだけのジュリエッタ、このシーンはペッピーノ一家の性格といざって時の役割分担が上手く再現されている。
 このシーンにおいてのマルコについては、名台詞欄に書いた通りだ。
 このピンチを救うべく、前話のうちに「カルロスとの出会い」という伏線を張っておいたのもこれまたいい。このままペッピーノやマルコが殺され、コンチエッタは手籠めにに遭った上にやっぱ殺され、フィオリーナとジュリエッタが草原に放り出されて終わりになるはずがない。「いつカルロスが助けに来るんだ?」と期待させつつずっと引き延ばした事で、視聴者を画面の前にうまく引き付け続けたと思う。でもこのシーンを見ていた小さな子供には、ちょっとキツイシーンだったろうなぁ。
  

  
感想  壮絶な物語だった…、マルコはオルテガに刺されて死亡、それを制止しようとしたペッピーノはオルテガが取り上げられた銃によって射殺、二人を殺したオルテガはコンチエッタを連れて何処かに立ち去ってしまい、ジュリエッタは泣き叫び、フィオリーナは血だらけになって魂を失ったマルコの身体に取り付いて大泣き。フィオリーナはそのイタリア料理店でしばらく過ごすが、やがて自分がマルコの代わりにマルコの母に逢わねばならないと決意して、ある日の明け方にジュリエッタを置いて店を出て行く。草原の中を一人で歩くフィオリーナの後ろ姿に重なる「おわり」の文字…凄まじいバッドエンドだった…って嘘だよ、嘘。
 今話では冒頭ではもう前話の大難航が信じられないほど穏やかに物語が進む。また26話や27話のように「まったりした草原の旅」になると思わせておいて、現に一座が街道沿いのイタリア料理店に入るまではその通りに物語が進む。だけどオルテガは初登場で画面に出てきた瞬間に「こいつは何かやらかす」という怪しい空気を漂わせていた。あんな出てきた瞬間、動きひとつしていない段階で「悪役」とわかる空気を出せるのは、昔のロボットヒーローものの悪玉の大将くらいのものだろう。
 そして唐突にマルコも、ペッピーノ一家も生死の狭間に立たされる。しかも今回は自然の驚異ではなく「人間」によってその事態が引き起こされるのだ。この物語には「旅の怖さ」という論点が存分に散りばめられており、22話のスリ被害と匹敵する「怖い話」だったのは言うまでもないだろう。
 これはある意味で若者に見せたい話である。今の若者達の危機意識の無さを見ていて寒気がすることもあるのだ。インターネット上の某質問サイト(現在京都大学の入試で話題になったところ)で旅の相談を聞くと、旅程は全部人任せ、時刻表すら持って行かないなんて若者の多いこと多いこと。他人が組み立てた旅程に従う一人旅というのがどれほど危険かわかってない、例えば途中で交通機関が寸断されれば進むことも退くことも出来なくなってしまう。自分で計画を立てれば何処に行くにも「筋道」が分かり、途中の地理も理解でき、突然のトラブルにも迂回などの対処を自分で判断できるようになる。正直言って「青春18きっぷ」で遠くへ行く旅行なんかこのレベルに達していないととても出来ない、交通機関の乱れに誰も手を貸してくれない厳しい切符なのだから。それだけでなく旅に出る事自体が、犯罪などに巻き込まれるリスクが高いという事を知らないまま、近所に買い物に行くつもりで東京から九州位の旅を平気でしてしまおうとか考える…そんな若者には是非とも「母をたずねて三千里」を見て欲しい、旅というのがどれだけ怖いものか理解して欲しい。
 う〜ん、今回はやたら愚痴が多いな。
 
研究 ・ 
 

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