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第11話 「おかあさんの手紙」
名台詞 「あ、そうだ。君に約束しよう。我々がブエノスアイレスに着いたら、真っ先に君のおかあさんを訪ねて、ジェノバではみんな元気に暮らしていると、そして出来るだけ早く帰ってやって下さいと。そう必ずおかあさんに伝えると。」
(ペッピーノ)
名台詞度
★★★
 またマルコがペッピーノ一座を窮地から救う、ペッピーノとコンチエッタが病で芝居が出来ないと状況下で、フィオリーナが急遽代役として人形劇を演じるも失敗。だがマルコがフィオリーナはマリオネットで勝負すべきだと彼女を導いたことで、フィオリーナの大成功に繋がり、一座のアルゼンチン渡航計画の資金面での不安が解消されたばかりでなく、将来にわたる新しい稼ぎ手が誕生したことになる。
 これを受けて一座はマルコを囲んで乾杯する。だがこの成功に功労者であるマルコは浮かない顔をした。それはせっかく仲良くなれたペッピーノ一座が自分を置いてアルゼンチンへ渡ってしまうという嫉妬にも似た寂しさだ。これを見たペッピーノは再度「マルコも一緒に」と誘うが、コンチエッタに反対される。そして寂しそうな表情で家路につこうとするマルコに、こう告げるのだ。
 この言葉において、ペッピーノはマルコに対して拡げてしまった大風呂敷に対する責任を取ったと言っていいだろう。「アルゼンチンにマルコを連れて行く」ということは、最初は酔った勢いで気が大きくなった事によるホラだったかも知れない、だが一座の窮地を二度も救ってくれたことに対してペッピーノが心からマルコに感謝したのは確かのようだ。その感謝の思いがマルコが最も欲していることである「母に会わせてやりたい」という気持ちに繋がり、遂に素面のペッピーノから「アルゼンチンへ連れて行く」という言葉を引き出すことになったのだ。だが一座が渡航するだけで精一杯のこの状況では、マルコを連れて行くなんて不可能だという現実がある。だからペッピーノはマルコの思いを母に伝える橋渡しをしようと考えたのだ、それがマルコに対するせめてもの感謝の証だと。
 もちろんこの申し出にマルコは笑顔で答える。このところ母との連絡が不安定になっており、自分が行けないなら親しくなった人間に見てきて貰いたいというのが本音だろう。こうして母の安否を直接調べに行ってくれる人の存在は、現在のマルコにとってとても貴重なはずだ。
名場面 おかあさんの手紙 名場面度
★★★★
 ペッピーノの宿舎からの帰り道、マルコはふとしたことで前話で話題になった「アルゼンチンからの臨時の貨物船」が入港していたことを思い出す。急いで帰ると家の入り口にジーナの姿が、ジーナはマルコが待ちわびていると思ってロッシ家に手紙を届けた帰りだという。その言葉に家に飛び込むマルコだが、家の中にあったのは厳しい表情の父の姿だった。
 父から手紙を受け取って読むマルコだが、その中にはマルコの不安が的中していた内容があった。それは母が数日間寝込んだという内容だった。「おかあさんやっぱ病気なんだ」と訴えるマルコに、父は落ち着いて「慌てずに続きを読んでご覧」と言う。続きには病気はたいしたことがなくてすぐ治ると書かれていたが、大幅に手紙の到着が遅れたことで不安が胸一杯に溜まっているマルコはこの内容を疑う。その上でマルコは父に「お金は入っていたの?」と問う。これに父は無言の返事…つまり仕送りはなかったのだ。マルコがこれに不安を増大させると、父は自分宛の手紙の内容について語る。2ヶ月分の仕送りを同封したこと、さらに稼ぎの良い仕事に転職すること…マルコは「仕事を探してペッピーノさんと一緒に行けるように頑張るべきだった」と後悔するが、父は「重病人を雇う人はいない」としてマルコの不安を打ち消そうとする。だがマルコは昼に見た光景…自分と同じ位の歳の子供を残して逝ってしまった母親の葬儀が心に残っていて、その不安を払拭することが出来ないのだ。父が「とうさんはかあさんを信じる」と強く宣言すると、マルコは力無く「僕だって…」と言い、父が「次はもっといい手紙が来る」とマルコに言い聞かせる。
 今話はこの最後の数分間だけが本題と言っても良かろう。今回は前話までと違い母からの手紙はちゃんと届く、だがその内容が誰がどう見ても不安だらけなのだ。母が軽いとは言え病に倒れていたというのは手紙の内容の通りのはずだが、この手紙の遅延によりその内容が信じられないマルコの心情がうまく描かれている。そして視聴者の不安を最大限に煽るのが、手紙には「仕送りを2ヶ月分送る」としてあるのに肝心なお金が入ってなかった点だ。もちろんピエトロのように「誰かに抜かれた」のだろうけど、これが続かない保証は何処にもないのだ。つまり母の安否以前に、こうして仕送りが届かない状況が続けばロッシ家は成り立たなくなるので、また別の不安が物語を包むわけだ。
 さらに会話の端々に出てくる「メレッリおじさん」という人物、母も父もこの人物を信用しているが視聴者やマルコから見れば名前だけの何者かわからない人物だ。このメレッリという人物も怪しいのでは…とマルコ並みに不安を感じている視聴者が即座に感じるほど、メレッリの名前を効果的に出してうまく利用していると思う。
 こうして「母からの手紙は届いたけど不安は拭えない」という状況と、それに対するマルコとピエトロの心境は上手く描き出し、今後の展開に説得力を持たせた。ここではピエトロもマルコと同じ不安を抱えていて、息子の前でそれを出すまいとしていることは、彼が最初に出てきた時の表情をみれば誰もが理解できるだろう。
  
感想  こんないい顔のフィオリーナ、初めて見たなぁ。今話は子供の頃に見たのをハッキリ覚えていて、フィオリーナが明るい表情を見せるのも覚えてたけど…意外に「ちょっと太め」で可愛いくて中学生の頃に見たらはまったかも? アーメンガードには負けるけど。

 今話も前話と同じ構図で物語が展開する。つまりマルコとペッピーノ一座の関係を強固にするサブ展開と、「母からの手紙」を軸にさらに不安を煽るという本題部分だ。
 前者はフィオリーナを明確に主役に持って行き、彼女の一座での地位やそれに対する本人の思いを一度吐き出させてたところで、マルコによって助けられるという展開を取った。これを通じて何も親兄弟の真似をするのでなく、自分には自分の道があるという論点を視聴者にさらりと訴えてくる。このフィオリーナ主役の展開を通じて、ペッピーノとマルコの信頼は強固なものになり、この後の旅行編に入った時にペッピーノがマルコに惜しみなく手をさしのべるという展開に説得力を持たせるのだ。
 そして最後の1/4が物語の本題である。「船が来た」という内容からして「また手紙が来ないのか…」と思うが、よく考えればサブタイトルを見ればそれは無いことは明白だ。サブタイトルの通りに手紙がやってくるが、その手紙が決してマルコやピエトロを安心させるものではないという展開はまたうまいと思った。やはりポイントは何だかんだで仕送りがなかったことだろう、名場面欄に記した通り仕送りが無ければロッシ家の収入が減るわけで、マルコ達の生活が苦しくなるという別の不安を呼ぶ。さらに手紙には「2ヶ月分の仕送りを入れた」と書かれているのに、それが無いという点も大きい。母が誰かに騙されているのではないか、という不安も出てくるわけだ。
 とにかく前話といい今話といい、容赦なく不安を煽ってくるのも「母をたずねて三千里」らしい「容赦のない展開」だと思う。この物語の場合、不安は払拭されるためにあるのでなく煽るためにあるとしか思えないから。
研究 ・ 
 

第12話 「ひこう船のとぶ日」
名台詞 「ごめんよ、今朝は。アルゼンチンへ行ける君たちが羨ましかったんだ。でも今はそうじゃない。まだ内緒だけど、一緒に僕も行けそうなんだ。ウソじゃないよ、今度こそ。ヘヘヘッ…」
(マルコ)
名台詞度
★★
 名場面欄の通り、アイスクリーム売りに精を出すマルコとエミリオを、フィオリーナが手伝う。そのフィオリーナにマルコはこう語りかけるのだ。
 ここに前話の途中から、マルコがペッピーノ一座を見ると寂しくなる理由がハッキリした。つまりは嫉妬だ、自分が行けないのにペッピーノ一座がアルゼンチンへ行けるのが羨ましくてたまらなかったのだ。その上で前話の名場面欄のように不安を煽られたのだから、マルコの嫉妬は理解できる。
 だがそんなマルコを目覚めさせたのはエミリオだった。アイスクリームを売って一山当てようとエミリオと働いているうちに、「アルゼンチンへ行く」という決意の元に瓶洗いの仕事をして充実していた日々を思いだしたに違いない。
 そしてそんなマルコの気持ちをフィオリーナは誰よりも理解していたのだ。前話まで「一座の役に立てない」と沈んでいたフィオリーナは、マルコが母のピンチに役に立てないと感じているのに気付くのは想像に難くない。だから本当はマルコをそっとしてやりたかったのに、姉や父に無理矢理迎えに行かされ、自分の行動がマルコの不安に油を注いでしまったに過ぎないことも気付いたはずだ。だからマルコがもう一度「やりがい」を見つけ、活き活きとアイスクリームを売っているのを見て居ても立ってもいられなくなったはずだ。フィオリーナのこの台詞への返事「いいのよ」「わかってた」はそういう意味のはずだ。
名場面 アイスクリーム売り 名場面度
★★
 飛行船が飛ぶという出し物の会場で、アイスクリームを売って一山当てればアルゼンチンが手に届くかも知れない…そうエミリオから持ちかけられたマルコは、突然瞳を輝かせてこの企みに乗る。そして紆余曲折はあったものの何とかアイスクリームを作り、会場でこれを売るのだ。最初は邪魔だと罵られ、次に突然の雷雨に見舞われるというハプニングも経験するが、やがて天気が回復するとアイスクリームは飛ぶように売れる。そしてこのマルコとエミリオのアイスクリーム売りを見たフィオリーナがそっと近づき、「手伝うわ」とこれに加勢する。
 このシーンにおけるマルコやフィオリーナの心境については名台詞欄に記したが、ここでは母の安否に対する不安やペッピーノ一座への嫉妬で目の輝きを失っていたマルコが、再び「アルゼンチンへ行く」という決意を取り戻して目の輝きを取り戻すという過程が丁寧に描かれた。そしてそれに少しでも力を貸したいフィオリーナの心境。珍しく「本題」部分が動かない本話において、ここが今話の訴えどころのはずだ。
 う〜ん、このシーンを見ていたら無性にアイスクリームが食べたくなったぞ。この寒いのに…「雪見だいふく」でも買いに行くか(笑)。
  
感想  組長園長先生キターーーーーーーーーーーー!! ここにも納谷六朗さんがいた。しかし珍しく「悪役」を演じているようだ…最後に出てきたレナートって間違いなく悪役でしょ? 次回予告でもそれが示唆されていたし。
 今話では「本題」部分が動かず、その上「マルコとペッピーノ一座」というサブ展開も止まっているから物語は殆ど動かない。今話の役割と言えばマルコが再び「アルゼンチンへ行く」という決意を取り戻し、彼の目の輝きが戻ってくる過程を描くことにあるだろう。そのために前話ではペッピーノ一座のアルゼンチン渡航が現実味を帯びてきて、それによってマルコが嫉妬を感じるという風に描かれた。今話冒頭でそれをさらに強く表現し、マルコがフィオリーナに冷たく当たるなどいま考えると信じられないシーンが展開する。
 でもその「底辺」からのマルコの復活は、名台詞欄と名場面欄に書き尽くしてしまった。これまで複合的な展開が多かった「母をたずねて三千里」で、珍しく単純明快な物語となった気がする。だが物語が進んでいくと複合的に話が進むのもなくなるはずだ。
 しかし、出てきた飛行船があんまりにも宮崎駿チックなので驚いた。
研究 ・ 
 

第13話「さよならフィオリーナ」
名台詞 「(前略)…私たち、忘れたい忘れたいと思っても、やっぱりかあさんのこと思い出してしまうんだもの。大好きなおかあさんに会いたいマルコの気持ちはよくわかるわ。だからなのよ、フィオリーナ。万一、マルコが行けなくなったとき、私たちはマルコを励ましてあげなきゃいけない。悲しまないでって、きっとおかあさんは元気よって。」
(コンチエッタ)
名台詞度
★★★
 アルゼンチンへの船出を翌日に控えたペッピーノ一座は、新たな旅立ちに期待がいっぱいだ。フィオリーナは夕陽を見ながら、新天地へ行く喜びとマルコも一緒、そしてマルコがおかあさんに逢えるという喜びを噛みしめていたが、ここに姉のコンチエッタが冷静に「マルコが来られない場合」を語る。「でもマルコは一緒だって言ってた」と訴えるフィオリーナに、アルゼンチンはとても遠くローマやミラノに行くのとは訳が違うとした上で、コンチエッタは妹にこう諭すのだ。
 実は物語が進んでいくとわかるが、この思いはペッピーノ一座全員が持つ芯からマルコに対し同情する理由であり、マルコを何としても助けたいと思う心情だ。コンチエッタやフィオリーナには母がいないので、母がいない悲しみというのを誰よりもよく知っているはずだ。もちろんペッピーノだって妻がいないという悲しみを持っているはずで、だからこそ母に会うために頑張っているマルコを可愛がるのだ。もちろんマルコとフィオリーナは「母がいない」という共通の悲しみを持っていることで意気投合しており、コンチエッタはこれを理解しているからこそ「もしもマルコが来なかった場合」の事を心配しているのだ。
 だから彼女がここで妹に諭したのは、そのマルコが来なかったときの心の持ち方を語ったのである。その時に出来ることはマルコに心からの励ましを贈るしかない、そしてマルコの代理としてマルコの母を訪ねることだけだ。
 だがフィオリーナにはそれ以上の気持ちがあったのを、コンチエッタは見逃していたかも知れない。フィオリーナは「マルコが来ない」という覚悟はしている、だが彼女が最も恐れているのは「マルコとの別れ」のはずだ。内気で何も出来ないと思っていた自分に初めて出来た心からの友であり、そして自分に出来ることを教えてくれた師でもある。そんなマルコと純粋に別れたくない上に、やはりマルコに対して何もしてあげられないという気持ちがあるのだ。だからフィオリーナはこの台詞に納得できず、「マルコは一緒に行くのよ」と言い残してその場から走り去ってしまうのだ。
名場面 フィオリーナとの別れ 名場面度
★★★★★
 マルコは何とかアルゼンチン行きの移民船に潜り込めないかとギリギリまで奔走するが、いよいよ移民船の出港時刻が近付きタイムアウトになったのを悟って岸壁へ走る。既に船のタラップは上げられており、船上では悲しげな表情でフィオリーナがマルコの見送りを待っていた。そしてフィオリーナがマルコの見送りを諦め、船室へ向けて歩き出したその時、フィオリーナはマルコが岸壁に向かって走ってくるのを見つけた。「マルコ! マルコーっ!!」叫ぶフィオリーナ、「必ず後から僕も行くよーっ!! かあさんによろしくって、よろしくっていってねーっ!!」マルコは絶叫でどうしても言わねばならないメッセージを伝える。フィオリーナがこれに頷くと、マルコは母への手紙を持っていたことを思い出す。マルコは船首へ向けて走るとまだ舫綱が一本だけ繋がっていて、そこでアメデオにフィオリーナに手紙を届けるよう命じる。マルコの命令に従ってアメデオは舫綱を伝って船に乗り込み、これを見て船首へ向かって走ってきたフィオリーナに抱かれる。「アメデオをかあさんのところへ連れて行って! アメデオを僕だと思って、かあさんに可愛がってって〜っ!」マルコがフィオリーナにアメデオを託すが、「手紙もアメデオも確かに…」とペッピーノが返事をする途中で、アメデオはまた舫綱を伝ってマルコのところに戻ろうと走り出す。その途中で舫綱が放たれアメデオは海に墜ちるが、大事にはならずマルコの元へ泳いで戻る。船が動き出す、「さようならマルコ、アメデオは、アメデオは一緒にいたいのよ。」「フィオリーナっ!」「マルコーっ!!」マルコは母と別れたあの日のように船を追って走り出す。「さようならーっ!」フィオリーナの叫びに、マルコも「さようならーっ、さようならーっ、フィオリーナーっ!!」と叫ぶ。そしてフィオリーナを乗せた移民船は小さくなって行く、立ち尽くしてその後ろ姿を見送るマルコ。
 第1話で母を見送ったのと同じあの船着き場で、二度目の別れが演じられた。こちらも母との別れほど有名ではないが、「母をたずねて三千里」を彩る名シーンだと思う。この別れというステージの中で、自然にさりげなくアメデオのマルコに対する忠誠を演じて印象付けるのもこれまたいい。そしてマルコとフィオリーナ、大事な友と別れなければならないという状況をうまく演じた。
 私はこのシーンをもって「母をたずねて三千里」の第一部である「ジェノバ編」が終わったと考えている、次から新展開「旅立ち編」へ入って行くのだ。そしてこの第一部は「別れ」で始まり「別れ」で終わるという展開となるが、この「別れ」こそ今後の再会を睨んだ展開であることは誰の目にも明かであろう。このマルコとフィオリーナの別れには、「再会」という要素をうまくちらつかせたとも私は思う。特にアメデオにそのまま行かせず、またマルコの元に戻したからこそ「また会うな」と思えたのだ。これでアメデオがフィオリーナとともに行ってしまっていたら…白けたのは言うまでもないだろう。
  

  
感想  名場面欄で語った通り、今話でもって第一部が完結する。ジェノバでマルコが「母への思い」を強くすると共に、ペッピーノ一座との接近とジェノバの人たちとの生活を描いた章だ。こうしてペッピーノ一座が一時舞台から下がることで、次から新展開へと流れてマルコの「旅」が具体的になるとともに、物語はアルゼンチン渡航へと話が進んで行くことになる。
 その新展開に入る前に、必ず演じなければならないのはフィオリーナとの別れだった。もちろんこの別れは名場面欄で語った通り、「再会」を視野に入れたものでなければならず、今後の物語を大いに盛り上げる要素であるはずだ。
 同時にマルコの「渡航失敗」も描かれる、ここでマルコは容赦なく詐欺師に騙されるが、エミリオがレナートに騙されたと気付いていても、マルコはそれに気付かない人の良さがこれまた今後の不安をこれまでと違う方向で煽るという意味で良い。エミリオの勘の鋭さは素晴らしく、あの酔っぱらいを「嘘を吐いてない」と見破り、レナートが隠れていると喝破した。だからこそ隠れていたことでレナートが信用できないと判断したんだろうなぁ。
 その裏で描かれるはペッピーノ一座、特にフィオリーナとコンチエッタのマルコへの思いだ。コンチエッタもマルコに助けられたという感謝の念だけでなく、名台詞欄シーンによってフィオリーナと同じように「母がいない者」としての同情を感じていた。こうしてペッピーノ一座がマルコに手を貸すという物語に、説得力を付けて一座は一度舞台から降りることになったのだ。

 さぁ、ペッピーノ一座が一時的に降板したところで、新展開行ってみよう!
研究 ・ 
 

第14話「マルコの決意」
名台詞 「だからそのことは、とうさんが十分に考えているから心配はいらんのだ。心配はいらん、かあさんのことは…心配はいらん。」
(ピエトロ)
名台詞度
★★★
 新展開の冒頭は、マルコが「移民船に乗り込んでアルゼンチンへ行くつもりだった」と告白したところ始まる。もちろん父としては息子を一人で遠くへやるわけに行かないという立場を取るが、マルコはこれに猛反対してアルゼンチンへ行かせてくれと懇願する。マルコは母が病気の真相がわからないとした上で、家族の中で行けるのは夏休みで仕事も勉強もない自分だけだと力説する。そのマルコにピエトロはこう答えるしかなかった台詞だ。
 もちろんこんな台詞でマルコが納得するわけはないし、視聴者も「じゃお前はどういう対策を持っているのか説明してみろ」と突っ込みたいのを我慢するしかない台詞だ。もちろん父も無策でないことは今話の後半でハッキリするが、父はあくまでもそれを隠し通そうとするので彼が本当は何を考えているか何にも伝わってこない。つまり父は「隠し事」をするべきでない重要な事項を隠してしまっているからこそ、息子が暴走するという事実に気が付いていない。こんなその場繕いの台詞を吐く暇があったら、ピエトロは正直に「診療所のスタッフに一ヶ月の長期休暇を頼んでいる」旨を伝えるべきだったのだ。そうすればマルコはとりあえず矛を収めただろうし、密航という手段まで使っての渡航を考えなかったであろう。マルコの「アルゼンチンへ行きたい」という思いは、父が対策を考えているのにそれを隠してしまったからこそマルコの中に生まれた、父への不信感が原因なのだから。
 ピエトロはこの台詞の最後に「心配はいらん」を繰り返すが、これはマルコに言い聞かせる言葉ではなく自分に言い聞かせる言葉でもあっただろう。本当はピエトロも妻の音信が定かでなくなっている点について、マルコと同じ位の不安と心配を抱えているのだ。彼は仕事を投げてすぐにでも自分でアルゼンチンへ行きたいと思っている、そんな思いが「心配はいらん」を繰り返したところに詰まっているのだ。これはすぐにでも行けない自分を制するため、同時にマルコに対して「じゃ行ってこい」と言い出しそうな自分を制するために口から出た言葉だろう。もちろんまだ子供のマルコには、この「心配はいらん」が繰り返された理由がいまいちよくわからない。
名場面 マルコの出発 名場面度
★★★
 ブラジル行きの「フォルゴーレ号」の船員と出会い、マルコは「密航」という手段で船に乗り込むことを知る。また母から手紙が来なかったことで思いつめているマルコは、この手段で船に乗り込もうと決断するのに時間は掛からなかった。家へ帰ると黙々と旅支度を始め、父への置き手紙を用意する。その置き手紙を一度は枕の下に押し込んだかと思ったら、すぐに取り出して今にある母の写真の裏に隠す。「おかあさん、すぐに行くからね」と声を掛けたと思うと、マルコはじっと母の写真を眺める。そしてアメデオが外に出て行ってしまった隙を見て、彼はあのオレンジ色の上着を羽織って家を出て行くのだ。あの父が買ってくれた世界地図を鞄に入れて…。
 マルコの旅立ちの瞬間…という記念すべきシーンではあるが、特に感動的に描いて無理に感動させるのでなく、淡々としているのが好印象だ。マルコの独り言は最小限に留め、外から聞こえてくる子供の歌声が聞こえてくるだけのシーンが長いのだが、これがかえって「長い旅に出る」という緊張感を漂わせていてとてもいい。またマルコが父への手紙の隠し場所を変えたり、黙って母の写真を眺めたりするところに彼の母への思いと「行くんだ」という決意が滲み出ている。この日本のアニメ史上に残る大旅行となるこの旅立ちを、慌ただしさや華やかさで描いたのではなく緊張感で描いた点がとても好印象だ。大きな旅に出るとき、人は緊張するものなのでこれが自然なのは私も実体験でよく知っているのだ。
  
感想  いよいよマルコの長い旅が始まる。前話で第一部が終わって今話から新展開としたが、今話の名場面欄からマルコの旅は始まっているのである。第一部であれだけ煽っておいて、なんか旅に出るのが唐突のような気もしたが、「密航」という手段で旅に出ようとしているのだから唐突な方が自然だ。これは「ポルフィの長い旅」にも同じ事が言えて、「災害による生き別れ」という突発事項が理由で旅に出るのだから、やはり唐突で当然なのだ。
 そうそう、今話では久々にトニオが出てきた。やっぱ家族に無理言って勉強させて貰って、鉄道機関士になろうって言うんだから彼は鉄ヲタなのだろう。まぁ鉄道学校と言っても研究欄に記す通りの事情だと思うので、彼は機関士になる勉強をするのにお金を払っているんじゃなくて逆に給料としてお金を貰っているのだと思われる。
 いよいよ物語は「母をたずねて三千里」らしい「旅」を主軸にした展開に入って行く、今話では「家からの旅立ち」が描かれ、いよいよ次回ではジェノバでの物語が完全に終わりを告げる。ようやく物語は本題に突入して行くのだ。
研究 ・鉄道学校
 今話ではトニオがミラノの鉄道学校に入って「機関士になるための勉強をする」という物語も描かれている。今回はこの点について考察してみたい。
 日本で現在「鉄道学校」と言われているのは、鉄道専門の学科を置いている学校のこととされている。その内訳は高校が2校、短期大学が2校、専門学校が多数という陣容で、鉄道で働くことを目指す者はまずこれらの学校に入学することを目指す。私も鉄道職員を夢見て鉄道学科のある高校へ進学した経歴があるので、この物語のトニオが他人とは思えない。
 だが現在の日本でこれらの学校へ通ったからと言って、鉄道会社への入社も列車の運転士や車掌になることも保証されていない。鉄道会社への入社については鉄道学科の教育を受けてきたことで優遇はされる程度で、劇中のトニオのように「○年後に機関士」などという事ではないのだ。現に私も高校で鉄道関係の勉強をみっちりやったにもかかわらず、運転士や駅員はおろか鉄道会社に入社できなかった。かろうじてJRの子会社で「枕木の仕事」をしているのが現状だ。
 だがこれは「現在の日本」での話、では昔だったらどうだったかを考えてみよう。かつてまだJRが国鉄だった頃、「鉄道学校」と言えば国鉄の中にある学校のことを指していた。東京都国分寺市、現在は都立武蔵国分寺公園がある場所に「中央鉄道学園」という国鉄の施設があった。ここでは高校卒で採用した現場職員の中から優秀な者を選抜し、最小限の給料を与えながら様々な分野の大学4年分相当の勉強をさせるという施設であった。ここを卒業すると国鉄内では大卒と同じ待遇を受けることができたという、現在で言う防衛大学や税務大学の鉄道版みたいなものだと考えればいいだろう。だがこれをみていると、劇中で語られる「鉄道学校」とは違うことは誰の目にも明かだろう。
 それとは別に全国に国鉄が運営する「鉄道学校」が存在していた。これは各鉄道管理局(現在で言うJR各支社みたいなもの)ごとに設置されていたもので、鉄道機関士などの養成を行っていたという。現在で言えば企業の研修所のようなものだと考えればよく、機関士に配属が決まった者が配属時期に向けて勉強するというものだ。恐らく劇中でトニオが通っていたとされる「鉄道学校」はこちらが該当しているだろう。もちろん「学校」と言っても企業の研修のようなものだから、感想欄に書いた通り、彼は勉強をすることが仕事で給料を貰っているはずなのだ。

第15話「すすめフォルゴーレ号」
名台詞 「ねぇ、ロッシさん。思い切ってマルコをアルゼンチンへ行かせてみたらどうなんでしょう? 確かにまだマルコは幼い子供です。けどあの子くらいしっかりしていたら…それに、旅費のことでしたら私から船会社に頼めば何とか。差し出口かも知れませんが、私にもあんな息子がいてくれたらと。もしアルゼンチンでマルコに逢えたら、おかあさんどんなに喜ぶことでしょう。たとえ一緒に帰れなくとも、1年半も逢えずにいた可愛い我が子が訪ねてきた。そのマルコの強い気持ちだけでも、どんなに強い励ましになることか。こんな子守歌、ご存じですか? 『ぶどう畑のほうき星 あの子にそっと教えておくれ 母さんきっと元気になって 何処かの村で待ってるはずと あの子は何処に あの子は何処に 夜更けの納屋で麦打つ音が あの子の耳に届くだろうか…』」
(ジーナ)
名台詞度
★★★★
 マルコの帰りが遅いとピエトロに告げられた夜、マルコの「母の元へ行きたい」という思いが強いことを知っているジーナは、マルコがアルゼンチン行きの船に隠れているのではないかと捜しに行く。ところが発見できずに帰ろうとしたところで同じ思いと目的で船を訪れたピエトロに会い、マルコが発見できなかったことを告げると共に帰ることになる。その帰り道でジーナはマルコについて、ピエトロにこう語るのだ。
 ここではジーナがマルコを可愛がる理由がよくわかる。つまり結果を言えばジーナは海難で死んだ夫と、マルコを重ね合わせているのだ。そしてその夫が天国でどれだけ自分に逢いたいと思っていることか…そう思うことが励ましとなり、夫を亡くして女一人で生きていかねばならないという現実に対峙しているのである。そんな彼女だからこそ、もしアンナの元に突然息子が現れたら、アンナがどんなに喜ぶかを知っている。だからマルコを行かせて欲しいとマルコの父に提案するわけだ。
 同時にもしピエトロの計画通り、ピエトロが何とか仕事を休んでいく場合も彼女は考えたのだろう。ロッシ家の経済事情を考えれば収入のないアルゼンチンの往復旅行に2人も行けるはずがないのは明白だ。もしピエトロが行くことになればマルコは留守番、アルゼンチンのアンナも夫に敢えて喜ぶと思うが、留守番のマルコはピエトロの帰りを落胆して待たねばならない。そんなマルコを見るのが嫌だったという思いもあるはずだ。
 だがこの台詞が印象的なのは最後、子守歌を朗読する部分である。この歌詞には離れた子供を思う母親の気持ちが描かれており、これをジーナが心を込めて語るシーンは今話で最も印象に残った部分だ。ジーナの母性的な面がキチンと描かれ、彼女がどれだけマルコを可愛がっているかが見事演じられている。ちなみにこの曲は「母をたずねて三千里」の挿入歌、「母さんの子守歌」(作詞/深沢一夫)である。
 このような強烈に印象深い台詞を残して、ジェノバでの物語を彩ってきたジーナは今話で退場となる。この人、結構気に入ってたんだけどなぁ。
(次点)「海は歩いて渡れないんです。歩いていけるのなら、地球の裏側にだって歩いて行きます。けど海は…」(マルコ)
…名場面欄シーン直前の尋問シーンで、マルコが乗り込んだフォルゴーレ号の目的地であるリオデジャネイロと、マルコが行きたいブエノスアイレスがどれだけ離れているかを告げる事務長に、マルコがこう返す。つまり陸地で繋がっていればどんなに離れていても密航なんかせず、歩いて行くんだとの思いを彼は口にしたのだ。だけど大西洋はどうしたって船の力を借りないと渡れないから、船の力を借りたいんだと…。この言葉を聞いたレオナルドはマルコの気持ちが本気であることを知り、マルコを船から降ろすつもりだったのが一転して乗せてやろうという意見に傾いたのだ。名台詞欄に挙げるのをどちらにするか、最後の最後まで悩んだ
名場面 甲板にて 名場面度
★★★★
 南米へ密航しようとしてブラジル行きの船に潜り込んだマルコだが、小用が我慢できずにやむなく行ったトイレでコック長のレオナルドに発見されてしまう。捕まって事務長の尋問を受けるマルコに、ロッキーが「父親が来ている」と告げる。落胆するマルコはピエトロが待つ甲板へと連れ出される。
 マルコが甲板に出てくると、船長が「この子に間違いありませんか?」とピエトロに問う。「さあとっとと連れていきな、分からず屋の親父さんよ」とレオナルドが言うと、マルコは反抗し「何度だって家出して密航する」と宣言する。そして父には「あと一ヶ月あと一ヶ月って、いつまで待てば良いんだ!」とまた不信をぶちまけることになる。それに対する答えは「お父さんはどうしてもご自分でお行きになるつもりだったのよ」と、ピエトロの隣にいたジーナの口から出てきた。驚くマルコを認めるとジーナはさらに続ける、「でもお父さんは今朝、あなたを定期船に、ダビンチ号に…」と言いかけたところでレオナルドが「ダビンチ号!? 冗談じゃない!」と割り込み、自分が乗るフォルゴーレ号の自慢を始めると、ロッキーは「もうおいらはマルコとは昨日から友だちだし…待ったなし、10時には出発だ」と口添えする。ジーナがフォルゴーレ号がリオデジャネイロ行きであることをツッこむと、レオナルドは積み荷の一部がリオ経由でブエノスアイレスへ行くのでその船長に自分が責任もって引き継ぐことを宣言、事務長がこれを制するが、レオナルドは事務長の足を踏んで事務長が痛がっているところを「この子はこの船にいたいと行っている、私もいてほしい、あとはどっちを選ぶかあんたが決める番だ」と続けてピエトロに決断を促す。ピエトロは少しの間を置いてから、「マルコ、選ぶのはお前だ…かあさんのところに行ってくれ、アメデオと一緒にな」とマルコに告げる。「本当に…僕行っても…」と父の決断に驚くマルコに、ピエトロは静かに頷く。ピエトロは振り返って船長に「どうやらこの子の気持ちは決まっているようです、この船で働かせてやって下さい」と依頼すると、船長は「本船には乗員1名の欠員がある、その補充の人選は君に任せる」とだけ言うと立ち去る。「マルコ、良かったわね」とマルコを抱きしめて喜ぶジーナ、ピエトロが母への伝言を伝えると、マルコは父にしがみついて泣く。
 解説が長くて申し訳ないが、ここはマルコの船出が決まったシーンであり、マルコが母の元へ向かう事が初めて公式に認められたシーンである。だが同時にこれは、マルコの辛く長い旅の始まりも意味している。その旅のスタートはこのような形であったのだ。
 実はこの「密航未遂」というマルコの行為によって、ピエトロはマルコの気持ちがどれだけ強いかを思い知った事になるのだ。と同時に「何としても自分で行く」という思いと、そのための「長期休暇のために仕事を調整しているが上手く行ってない」ことの2点を、ずっと隠してきたことでこのような事態を迎えてしまったことを後悔していたに違いない。そのピエトロの気持ちの変化、これを上手く描いているとともに、マルコと父の対立が本当に終わりを告げるシーンとして印象に残る。
 またこの中でジーナの力はとても大きいと思う。恐らくピエトロはこの船からマルコを引きずり下ろすつもりで乗り込んだに違いない、ジーナが言うように「次のアルゼンチン行き定期船に乗せる」という決断はまだしていなかったと思うのだ。だがマルコの決意が固く、「何度でも家出して密航を企てる」と宣言されたことでピエトロの気持ちが揺らいでいるのをジーナは見落としていなかったのだと考えられる。だから彼女が勝手にピエトロが「ダビンチ号に乗せる」と決断したとして、話を前に進めたのだと私は解釈している。このジーナの出しゃばった行動にピエトロが口出ししなかったのは、「もう誰にも止められないから、誰か背中を押してくれ」とこころの中で思っていたからだろう。
 レオナルドと事務長の掛け合いも良いし、ロッキーもマルコの支援者としてうまく印象付いたと思う、船長の威厳もかっこよかった。とにかくこのシーン抜きに「母をたずねて三千里」第二部は語れないだろうと私は思った。
  
感想  前話ではマルコの旅立ちが宣言され、その「渡航方法」が示唆された。今話はそれを受けての展開であり、ピエトロの気持ちの変化とジーナの「行かせてやりたい」という思い、それに説得力を与えるためにマルコの「本気度」を印象付ける展開となった。さらに3つ目の「マルコの本気度」は、船員達がマルコの味方となるのにどうしても必要な要素だ。これが揃えば「密航」という手段を取ったマルコが発見されても、マルコはなんとかこの船での旅が出来ることは明白であり、事実物語はその通りに進む。
 しかしピエトロが壁に貼った世界地図が消えているのに気付くのが遅すぎるぞ、あれだけでかでかと張っていたんだからすぐに気付いてもいいと思うんだけどなぁ。だがその世界地図が消えていることでマルコが「何かを企んでいる」ことは明白となり、思わずアンナの写真を取り上げてしまうことで置き手紙が出てくるという展開は「うまい」と思った。しかも置き手紙の内容は「さがさないでください」だからなー…小学生の時、このシーンを再放送で見て憧れた、「さがさないでください」と置き手紙をして長い旅に出るのに。まさかそれを現実でやってしまったのは自分だけじゃないかと思う、マルコのような母を捜すような真剣な旅ではなく、自分が一度やってみたかった日本一周の大旅行で親に向けてそう書き残したんだけど。
 今話は印象深いシーンが多い、特に名場面欄の直後、マルコの旅立ちシーンはどちらを名場面欄に挙げるか悩んだほどだ。船が出て行くのに合わせ、ジェノバの街並みや人々が走馬燈のように流れて行くのはとても良かった。ここでジェノバ編で出てきた殆どのキャラクター(ペッピーノ一座除く)が一通り出てきたのもこれまたいい。こうしていよいよ、物語は「旅」本編へと進んで行くのだ。
研究 ・フォルゴーレ号
 マルコが南米大陸に渡るにはどうしても「船」が必要だ、このマルコを南米の地に誘う船こそがジェノバとリオデジャネイロを結ぶ定期船と設定されている「フォルゴーレ号」だ。今回はこの「フォルゴーレ号」について考察する。
 まず劇中で確認できる諸元であるが、14話でロッキーがこの船についてかなり詳しく語っているので、それを引用して見よう。

「最新型快速商船フォルゴーレ号、排水量1200トン、クリッパー形、鉄船、動力・蒸気機関…ただし帆走あり、速力16ノット、1875年建造、船籍イタリア、」

 このように船の性能は良く解る。蒸気機関で速力16ノットは、19世紀後半である当時としては優秀な方だっただろう。まだ蒸気タービン機関は存在せず、蒸気船は蒸気機関車と同じロッドとピストンを用いた「レシプロ機関」だったはずだからだ。ちなみに16ノットは約30km/hである。
 船の形状を示す「クリッパー形」だが、これは19世紀に発達した高速大型帆船を意味している。貨物の積載性能より航行速度を重視した設計で、船首がきれいな流線型となる。このような船が誕生した背景は、当時はスエズ運河もパナマ運河もなかったため、南米やアフリカ大陸をどれだけ短い時間で迂回できるかで多くの船会社が競争していたというものがある。
 ただ「トン数」が「排水量」になってしまっているのは残念(詳細は次話研究欄)で、船の大きさは劇中の各シーンから測り出すしかない。様々なシーンからサイズを割り出してみたところ、全長は70〜80メートル程度、全幅は10メートル程度と考えられる。参考までに「排水量1200トン」の艦艇を調べてみたところ、海上自衛隊の護衛艦「いしかり」が排水量1290トンと最も近そうだ。「いしかり」のサイズは全長85メートル、全幅10.6メートルなのでこの推測はあながち間違っていないと考えられる。
 船影を見てみると貨客船なのは間違いないだろう。だが高速大型船ということなので、食料品などの貨物を主に輸送している可能性が高い。ちなみに劇中でマルコが働いた食堂と厨房は、あくまでも乗組員用のものであり船客は別に食堂と厨房が用意されていたことだろう。当時の船のことだから、船客用の食堂には一流のコックがついていたはずだ。
 これでだいたいマルコが乗った船についてご理解頂けたと思う。この船でどんな物語が展開されるのか…なんか船ばっかり見て展開を見落としそうで怖いのは私だけ?
 
「フォルゴーレ号」 「世界名作劇場」シリーズに出てくる数ある船の中で最も美しいと思う。

第16話「ちいさなコック長」
名台詞 「ああ、シャッポを脱いだぜ。お前さんにはもう何も言わん。お前さんらしく自由に、のびのびやってゆくんだ。働きまくってな。」
(レオナルド)
名台詞度
★★★
 次から次へと仕事をこなし、手が空くと「仕事を仕事を」と聞きに来るマルコに対し、レオナルドは「マストに花を咲かせろ」という無茶な命令を出す。レオナルドは無理な命令を出してマルコを休ませようと考えて出した命令のはずだったが…今話が終わりに近付いた頃、マルコは嬉しそうな顔でレオナルドを甲板へ呼び出す。そしてマストで乾されている洗濯物を指さして「マストに花が咲いた」と報告される。そんなマルコを見たレオナルドは「まいりました」という口調で、マルコにこう語ったのだ。
 レオナルドはここにマルコの二つの面を見たはずだ。ひとつはとても一途であること、これまでの劇中でもマルコの一途さは描かれており、多くの視聴者が良い意味でも悪い意味でもマルコは一途だと考えていたが、主人公の性格に気付いていない設定のキャラクターを出して、これを再確認させるという方法で主人公を持ち上げるという方向の話として上手くオチがついたかたちになった。マルコが「無理な命令だ」とレオナルドの命令を放り投げたのでなく、彼は彼なりに「マストに花を咲かせる」ということについて考えていた事に脱帽したに違いないのだ。
 そしてもう一点は、船員としての仕事着を「花」と称したことが嬉しかったに違いない。これはこの名台詞の前にレオナルド本人も語っている。こうしてマルコは船員達の心意気を理解し、「海の男」として少しばかりの成長を見せてくれたことで、「この子は使い物になる」と判断したのだろう。だからここでレオナルドはマルコに、「他の船員と同じように扱うから仕事がないときは休め」という言葉を贈ったことになる。つまりようやく、レオナルドはマルコとを一人前に扱うことにしたのだ。
名場面 夜の甲板 名場面度
★★
 夜、マルコが甲板で海を眺め、その後ろではロッキーが寝っ転がってハーモニカを吹いている。そんなロッキーの隣に腰掛けたマルコは「いいね、船の旅って。なんだかこんなにゆっくりしたの久しぶりみたい」と声を掛ける。ロッキーはハーモニカ演奏を中断し、「船は俺のゆりかごなんだ」とした上で自分に両親がもういないことを告げ、波に揺られていると両親と一緒だった頃を不思議と思い出すと語る。マルコが「ロッキーの母さん死んだの?」と聞くと、ロッキーは「忘れた」と返答する。それを聞いたマルコは「僕なんかずっと幸せなんだね、だってもうすぐかあさんに逢えるんだもの」と呟く。「おふくろ…」と呟いたロッキーは、さらに悲しいハーモニカ演奏を続ける。黙って演奏を聴くマルコ。
 マルコは自分の幸せに気付く大事なシーンだ。それは今は別れて暮らしているとは言え自分には母がいること、そして今その母に逢うための旅をしているという事実であり、自分はまだ努力すれば母に逢えるということだ。だが目の前にいるロッキーは母に逢うことは出来ない、ジェノバで自分を見送ってくれたジーナも愛する夫にもう逢うことは出来ない、先にアルゼンチンへ旅立ったフィオリーナも母が生きているとは言え逢うことは絶望的な状況だ。だけど自分は逢える、大西洋の向こうに母がいるはずなのだ。この「幸せ」を知ったマルコにとって、今後「母は何処かにいる」という一点が慰めになり、勇気を与えてくれる原動力になるとは劇中のマルコにも視聴者にもまだわからない。
 そしてロッキーというキャラクターの過去がある程度明かされ、ロッキーがマルコを助ける理由も何となく見えてきたのがこのシーンだ。やはりロッキーは「母に逢えない」マルコに同情しているのだし、なんとしてもそれを叶えてやりたいと願うのだ。その思いと、自分の顔を覚えていない母のためのハーモニカ演奏が、悲しく響く印象深いシーンだ。
  
感想  マルコの「旅」に入って最初の話だ、まずはマルコがピエトロと一緒にトビウオに乗って飛ぶというとんでもない夢のシーンから始まり、続いてレオナルドがマルコに気付かれないように船員達を起こすシーンに続く。このように前話であれだけマルコを厳しく使いそうに見えたレオナルドが、今回はマルコに対し気遣いの連続である。朝はもっと寝ていていいとし、手が空けば少し休憩しろといい…私だったら言われた通りにしちゃうね、ダメだなぁサボることしか考えて無いダメ社員は。そうでなくて一言で言えばマルコはレオナルドに子供扱いされていたという子で、これならレオナルドが「無理な命令」をすればマルコもそれを投げると判断したのは頷ける。だが今回はマルコの方が一枚上手だった、とまぁこれだけの話だ。だがそれによってレオナルドはマルコを一人前に扱うようになるのだから、地味に重要な話でもあるのだ。
 しかし、今回の船のシーンはどれも乗り物ヲタにとっちゃ「萌え〜」の連続だったはずだ。大海原のど真ん中で舵をいっぱいに切っちゃう点だけだろう、萎えた点は。でもその直後に航海士がテレグラフをリンリンさせるシーンを見て「うぉーっ!」、ボイラー室やエンジンルームが精密に描かれているのを見て「うっわーっ!」、何よりも冒頭でマルコが寝ていた船員室がそれらしくて良かった。なんか雰囲気的には客船というより軍艦のような感じにも見えたが。
 だが今話ではその船の話について、残念ながらエラーを見つけてしまったのでそれは研究欄に回そう。この点はこのアニメだけでなく、最近のマスコミも意味を理解せずに言葉を使っているであろう、ある船舶用語についてだ。
研究 ・船の「トン数」について
 今回の物語中盤、マルコとロッキー、それにもう一人の船員が船の「トン数」について語り合う。「トン」という言葉の意味をマルコに問い、マルコが「それは重さの単位、1000キログラム」と答えると、ロッキーはそれは間違いだとするのだ。そしてロッキーは目の前にあった樽を指さして、「1トンとはこの樽を1個載せられると言うことであり、フォルゴーレ号の1200トンは1200個の樽を載せられるという意味だ」とするのである。この「母をたずねて三千里」でも有名なウンチクの一つを、ここで考えて見たい。
 「トン数」というのは船の大きさを示す単位である。「トン」という単位によって船の重量を示していると勘違いしている人もいるが、この「トン数」には船の容積を示す「容積トン」と、船の重量を示す「重量トン」の2種類がある。「重量トン」を用いて実際の船の重量を示しているケースもあるが、特に商船の大きさを示す場合は「容積トン」を示していることが多いのだ。たまにマスコミがフェリーや貨物船の「トン数」を「船の重さ」と報道することがあるが、これは間違いなので皆さん気を付けて頂きたい。
 実は船の「トン数」については様々な種類がある。まず名称だけ上げてみると、「総トン」「純トン」「責任トン」「パナマ運河トン」「スエズ運河トン」「積貨容積トン」「積貨重量トン」「排水トン」であり、最後の「積貨重量トン」と「排水トン」が重量単位としての「トン」、他は容積を示す「トン数」となる。1隻の船をそれぞれの「トン数」で表すと、全部違う値になるからこれがややこしい。という訳で今回は劇中に出てくる2つの「トン数」だけに絞って研究したい。
 ロッキーが語った「トン数」は間違いなく「総トン」であり、劇中で語られる通り「樽をいくつ運べるか」で船の大きさを示す指標である。15世紀のヨーロッパ、イギリスが酒類を輸出入する際、検査官が酒樽の数を叩く音「トーン」をもじって、例えば樽を100個詰める船を「100トーン」と言い出したのが始まりだとされている。当時の酒樽の大きさは約40立方フィート(1.133平方メートル)で、現在もこの酒樽1個の大きさが「1トン」とされている。ただし「総トン」は船の貨物室だけでなく、客室やエンジンルームなども含めた船内部全体の容積を示している。純粋に貨物室に樽がいくつ詰めるかという単位は、「純トン」となる。
 こうしてみるとロッキーのウンチクはかなり正しい事も分かるだろう、ロッキーがウンチクを語る前に樽や洗濯物をトントン叩いていたのも無意味ではないと解って頂けただろう。だが、ロッキーの「トン数」に関する解説は正解だが、「フォルゴーレ号は1200トン」の説明としては不正解だ。「フォルゴーレ号」の「トン数」は1200トンであることは、今話でもマルコが語っており、遡ると14話でロッキーが自慢げに語っているのが初出だ。だが14話でのロッキーによる解説の際、「フォルゴーレ号」の「トン数」を「排水量」としているのだ。「排水量」=「排水トン」は前述の樽がいくつ詰めるかという単位とは無関係だ。
 「排水トン」というのは主に軍艦で使われる単位で、船を水に浮かべたときに船によって押しのけられる水の重量を示す「トン数」だ。これはそのまま船の重量を示しているため、荷物の積んだり降ろしたりという作業が無く浮き沈みの少なく、積載量より実際の船の重量が問題となる軍艦にはもってこいの単位だ。つまりマルコが「フォルゴーレ号」の「トン数」である「1200トン」を重量だとしたのは、その「1200トン」が「排水量」なのだから実は正解だったのだ。
 この通り、船の「トン数」はとても奥が深い。また「母をたずねて三千里」の該当シーンを見て船の「トン数」が詰める樽の数を示している知って驚いた方も多いことだろう。ちなみに「トン数」は欧米で生まれた単位だが、日本でも江戸時代以前は「積むことが出来る米の量」を「石船」という単位で示すことで船の大きさは容積で示していた。「五百石船」「千石船」という言葉を時代劇で聞いた事のある方も多いだろう。これも船の「トン数」と同じであるのだ。
 ちなみに当サイトの青函連絡船関連のページで出てくるトン数は、ここで解説した「総トン」に当たる。ここで船の「トン数」についてご理解頂けた方は、今後はこの「トン数」という大きさの単位の意味を頭に入れて船を見てみよう。

第17話「赤道まつり」
名台詞 「そうだとも、せっかくずっと一緒に旅をしながら、わしにはお前さんがおふくろさんと出逢うその喜ぶ顔が見られんのだよ。だからその…その感激ぶりを、ちょっぴりわしらも見ておきたいと…。わかってくれ、マルコ。」
(レオナルド)
名台詞度
★★
 赤道まつりの夜、レオナルドコック長は仲間の船員達と示し合わせてちょっとした悪戯を仕掛ける。まつりの最中にマルコの母に後ろ姿がそっくりな人をマルコに見せようというのだ。だがその結果、マルコは我を忘れてその姿をした人物に抱き付き、悪戯だとわかると怒りを感じる。それを見たレオナルドがマルコにこう語るのだ。
 マルコは今話を通じてわかるように、既にこの「フォルゴーレ号」のマスコットとして、または働き手の一人として完全に定着している。船がマルコを受け入れたのは何と言ってもマルコの「母に会いたい」という一途な思いであるが、この船の誰もがマルコがその目的を達成することを見届けることはないのである。つまり途中から見られなくなるのがわかっていて連続ドラマを見続けるようなもので、そんな彼らの「結末を見たい」という気持ちが痛いほど伝わってくる。そしてその思いが彼らをこんな悪戯に走らせてしまったのだ。
 これはマルコに同情し、感情移入をしているからこその思いなのだ。だからこの悪戯を仕組んだ船員達の全員に「せめて母の姿だけでも見せてやりたい」と思いは少なからずあったはずで、その気持ちこそが皆を悪戯に賛同させる原動力となったのは言うまでもないだろう。そんな男達の心意気をレオナルドが代表して示した台詞であり、最終的にはマルコにもしっかり伝わるのだ。
 そしてこの気持ちは、これからの旅路でマルコと出会う人全てが持つ思いでもあるだろう。
名場面 マルコが魚を釣り上げる 名場面度
 たぶんマグロだろうけど…………ありえねー。

感想  なんでもない海上での話、「ふしぎな島のフローネ」の4話や5話と同じ役割を持つ話と見て良いだろう。つまり大旅行の往路として、まだ平穏な旅路が楽しく進んでいるという印象付けを行うために存在しているのだ。その題材として「赤道通過」を選んだのが、これまて印象深い点だ。
 ハイ、今回は言いたいことはこれだけ。というか今話はこれまでの「母をたずねて三千里」とは違い、ツッコミどころが多すぎて言い出すとキリが無いと言うべきだ。だいたいマルコはコック長に厨房で働くべく雇われたんだろう、なのに何で甲板員の仕事をしているんだ? 甲板員に配置換えされたのかと解釈してみたら、また厨房にいて客に茶を運んでいるし…ブツブツ。それだけではないが、ここまで。
 いよいよ次回、「フォルゴーレ号」は早くもリオデジャネイロに到着だ、さすが快速商船というだけのことはある。
研究 ・「フォルゴーレ号」の航海
 今話冒頭はマルコが父に宛てた手紙の内容という設定のナレーションから始まる。ここをよく聞いていると「フォルゴーレ号」の足跡がよくわかるので、今回はこれについて考えたい。
 まずはその冒頭のマルコのナレーションを抜粋してみよう、なお最初の寄港地がマルセイユであることは前話までにハッキリしていて、この手紙はマルセイユの次という設定のようだ。

「…あれから僕らのフォルゴーレ号は、バルセロナやマラガに寄った後、いよいよジブラルタル海峡を通ってヨーロッパと地中海にさよならをしました。(中略)美しいカナリア諸島、最後の寄港地アフリカのダカールの港を出る頃は、もう暑くて暑くてたまらない熱帯の太陽です(以下略)。」

 ではこの手紙から推測される「フォルゴーレ号」の航跡を地図にしてみた。例によって主だった点にはマークを入れているが「地図Z」の仕様でマークを5点までしか付けられないので、マークにない寄港地は地図を拡大して赤線を追って確認して頂きたい。なおカナリア諸島については、一番大きな港があると思われるテネリフェに寄港したものと仮定する。
 出発地バルセロナはともかく、最初の寄港地はマルセイユ。この手紙が読み上げられるシーンでは、「フォルゴーレ号」はきれいな海岸線や古びた灯台のある港に寄港した様子が描かれているが、これは間違いなくマルセイユ港の風景だろう。なんでそんなの知ってるかって? 乗り物ヲタなら必携の海外ゲームソフト「Ship Simulator」に収録されている港で、私がこのゲームをプレイするときにここの港に大型フェリーを入港させて遊ぶのが好きだからである。少なくともこのコンピュータゲームの画面と、「母をたずねて三千里」該当シーンの描写は恐ろしい程似ていると言わざるを得ない。
 次はスペインに入ってバルセロナ、1992年の夏季オリンピックが開かれたことでここで説明するほどもないほど有名な街だろう。
 そしてマラガは地中海からジブラルタル海峡に入る直前に位置する港で、地中海の入り口にあることで古くから貿易拠点として栄えた港町だ。
 ジブラルタル海峡を抜けてアフリカ大陸沿いを南西へ向かうと、スペイン領のカナリア諸島に行き当たる。ここは大西洋に浮かぶリゾート地で、ヨーロッパから多くの観光客が押し寄せる島だ。1977年3月、ここで満員のジャンボ機同志が滑走路で衝突して583人が犠牲になると言う、航空事故としては世界最悪の惨事が起きたことでも有名になったところだ。
 そして最後の寄港地はダカール。セネガルの首都でアフリカ大陸の最西端に位置する。地形的に天然の良港であることから、古くから大西洋横断の補給基地として、または大西洋貿易の中継地点として発展してきた。忘れてはならないのはアフリカ各地から連れてこられた奴隷達がは、この港に集められ「新大陸」へと送られたという悲しい歴史だろう。
 こんなルートを通って、約10400キロもの距離をこの船は定期的に往復している様子だ。10400キロと言えば5615海里、「母をたずねて三千里」というタイトルの「里」という単位(1里=3927.2メートル)で計算すると、約2650里となる。ありゃ、もう三千里は目の前だ…。

・今回の旅程
(ジェノバ〜リオデジャネイロ)
移動距離 10400km 2650里
合計(ジェノバから) 10400km 2650里

第18話「リオの移民船」
名台詞 「待てよ、あんたそれでもイタリア人か!? 困っているイタリアの子供を、こんなところ見捨てていくつもりかい!?」
(ロッキー)
名台詞度
★★
 アメデオが行方不明になったことで、次にマルコが乗り込む事になったナポリからブエノスアイレスへの移民船を待たせてしまう。先に桟橋にきたロッキーも、あまりのマルコの遅れに苛立っている様子だ。ボートに乗っていた迎えの船員がたまらず、先へ行くとボートを出そうとしたときにロッキーが怒鳴り返した台詞がこれだ。
 もちろんこの台詞は迎えの船員がイタリア人であることを利用して、困っている同胞を助けるのが当然だと説得する台詞であるが、マルコとの旅路を共にしてきたロッキーにはそれを越える絆があることをうまく表現していると思う。母に会うため健気にも南米までやってきたマルコを見捨ててはならぬという彼の思いが、「怒鳴り」として上手く演じられていると思う。
 またロッキーのマルコに対する責任…それはマルコを無事にリオデジャネイロまで運び、そこでブエノスアイレス行きの船に乗り換えさせるところまでは終わらない。ここでマルコをこの移民船に乗せ損なったら、ロッキーとレオナルドはその「責任」を果たせないままジェノバへ戻ることになる。信頼できる他人に託す手もあるが、もちろんそれは男としてのプライドが許さないだろう。そんなもどかしさもこの台詞の影にしっかり描かれているのだ。
名場面 リオの移民船 名場面度
★★★★
 マルコがボートから移民船に飛び乗り、タラップが上げられると沖に停泊していた移民船は出港する。ボート上で手を振るロッキーとレオナルドに出迎えられ、マルコが見えなくなるまで手を振って見送りに答えるという感動的な「別れ」が演じられ、誰もがそこで今話が終わると思っただろう。だが今話の本題はここからだ。
 いつしかリオデジャネイロの港も見えなくなり、夕陽も沈み始めて薄暗くなった船内から声が聞こえてくる。「やれやれ、とんだ寄り道だった…」「20人も一度に病人が出ちまって…まるで地獄船だ」…その声にマルコは振り返り、初めてこの船内の様子を知る。そこにあったのは整備された船室でも何でもなく、疲弊しきった船客が無造作に甲板に横たわる情景だった。この風景を見たことで目を丸くして固まるマルコがアップになったところで、今話の幕が閉じる。
 この僅か数十秒のラストシーンこそが今話の本題だと私は思った。このシーンの前に感動的なロッキーやレオナルドとの間に演じられた本作最初の「別れ」はおまけでしかない。今話ではとにかくいかに「フォルゴーレ号」が快適で、そこから乗り換える移民船がいかに悲惨かということを視聴者に印象付けることが本題なのだ。
 そしてこの今話のラストシーンでそれに大成功していると私は感じる。このシーンを見ただけでこれまでの「フォルゴーレ号」における快適な船旅が幻だったと、多くの人が感じるわけだ。そして甲板に横たわる疲弊した人々の誰にも笑顔はなく、物語を見ている視聴者の不安を強烈に煽ることになる。
 ここでは移民船の船客の台詞だけで、マルコには台詞が無く彼の険しい表情だけで彼の心情を表現したのは正解だと思う。人間は本当に驚くと声が出ないが、まさにそんなシーンとして完成したのだ。短時間で今話に必要な「さらなる不安感を煽る」という役割を見事果たしたという点では、とても素晴らしいシーンだと思った。
  
感想  だーかーらー、「順風満帆」は「じゅんぷうまんぱん」って読むんだって。「まんぽ」ってなんだ? そんなに万歩計使って歩きたいのか? これフローネの時にも言った記憶が…しかも、今回言い間違ったのは事もあろうに船乗りのロッキーだ。もう、あんた船乗り失格。でもここでの言い間違いがあったからこそ、その言い間違いをマルコが聞いていたために、フローネで言い間違いが発生したという説も成り立つ。
 油断する回である。サブタイトルは「リオの移民船」、だから移民船が主題になっておかしくない話なのだが、物語終盤までマルコと「フォルゴーレ号」やレオナルドやロッキーとの別れを大々的に演じるからこそ、視聴者はサブタイトルを忘れ今回は「フォルゴーレ号とその仲間達とマルコとの別れ」が主題だと思い込んでしまう。そしてその「別れ」の物語が絶頂に達したところで、名場面欄に記したように僅か数十秒のシーンとして「本題」が描かれる。その「本題」を見た視聴者は、「しまった、本題はこれだった」と感じることだろう。その時には既に手遅れで、マルコの楽しい船旅は既に過去のものになっていて、いよいよマルコの過酷な旅が始まる。「母をたずねて三千里」特有の「容赦のなさ」が「フォルゴーレ号」船上では全くなかったことも、この移民船の過酷さとの対比のためだろう。
 また今話でのレオナルドの心境変化はしても好きだ、最初はマルコとの別れを恐れて落ち込み、その落ち込んだ中で「マルコが乗るべき船がない」という事実がわかると自分の役割を思い出して「いつものレオナルド」に戻る点だ。彼は自分の役割を思い出すと、マルコが乗り継ぐべき船を探し出すだけでなく、マルコに食糧を持たせるという心遣いまで見せてくれる。ここに「息子(のような存在)を手放したくない」「でも自分の手元から旅立つのなら、持てるものは持たせてやりたい」「その旅立ちのちからになってやりたい」という彼の「父性」を感じることが出来るのだ。彼にとってマルコは、本当に息子のように可愛い存在だったのだろう。
 いよいよ物語は、数話単位での「出会いと別れ」という「旅もの」らしい展開へと突入して行く。
研究 ・ 
  

第19話「かがやく南十字星」
名台詞 「見てごらん、アメデオ。あれがきっと、診療所のロンバルディーニ先生が言ってた南十字星だよ。もう、かあさんが見ている空と、僕たちが見ている空は一緒なんだ。一緒の空を見てるんだ。」
(マルコ)
名台詞度
★★★
 移民船での2泊目の夜、甲板に横になったマルコは空に輝く4つの星に気が付く。それは10話でロンバルディーニが「南の空に輝く」と教えてくれた南十字星だ。それに気付いたマルコが傍らにいたアメデオにこう語りかける。
 彼が口にした通り、これは母が見ているのと同じ星空のはずである。ロンバルディーニから南十字星の話を聞いたとき、マルコは星空さえも自分が見ているものと母が見ているものとで違うという事実を知り、さぞ落胆したことだろう。ところがいまはそうではない場所まで来た、そんなマルコのとりあえずの安堵が伝わってくる台詞である。
 例えそれが星空であっても、愛する者と同じものを見る事が出来るというのはとても重要だ。どんなに離れていてもその景色で「繋がっている」と思えるからだ。だったら昼間の太陽でもいいじゃないかと思う方もあるが、太陽は眩しすぎて直視できないからダメ。だから星や月の方が「同じものが見られる」という気持ちになれるのだ。
 私は子供の頃、「南十字星」という星が南半球から見られることをこのアニメの再放送から教わった。そういう意味でも印象深い台詞だ。
名場面 マルコとニーノ 名場面度
★★★
 移民船に乗り換えてから一夜が明けた。船上で働かせてくれそうにない事を知ったマルコが、失意のうちに甲板上を歩いていると小さな幼児が泣いているのに気付く。周囲の大人達は苛立っていたせいもあってマルコに連れ去るよう強制し、マルコはこの幼児の親を捜して船の中を探し回る。ところがどうしても見つからないので、マルコはボートデッキに上がりアメデオでこの幼児をあやすことにした。これは大成功し、マルコはフィオリーナがマリオネットを演じていたときの歌を歌い出すと、幼児とアメデオはともに踊り出す。するとマルコにはこの幼児とジュリエッタの姿がダブって見えるようになる。そしてジェノバでのフィオリーナとの楽しい日々を思い出すのだ。
 このシーンが示唆しているのは、人間は辛いときや充実感を感じないときこそ「過去を思い出してしまう」という事だ。つまり「フォルゴーレ号」の旅は楽しく、そして充実したものだったのが、移民船に乗り換えて一転したことを示している。船上で楽しいことを見つけられないマルコは、過去の楽しい記憶に引き戻されたシーンであるのだ。
 確かにこの移民船は酷い。人々は甲板で無造作に寝起きしている始末だし、スープはともかくパンはさすがのマルコにも食えたものでは無い様子だ。船客は疲弊して瞳の輝きを失い、いつもイライラしているし、船員は冷たくマルコをあしらう。こんなところに閉じ込められたら、マルコでなくとも気がおかしくなってしまうだろう。
 だがマルコはまだ運に恵まれている、このニーノという幼児を世話したことでマルコの理解者となるフェデリコと出会うことになるのだ。そのきっかけとしてもこのシーンは印象深い。
  
感想  回想シーンが長すぎる。あまりにも回想シーンが長くて、本編や本題を完全に食ってしまったという点でどうも印象が悪い1話となった。もちろんここでの本題はマルコの強力な理解者として強い印象を残すフェデリコとの出会いと、その先の方の展開へ伏線を張るべく彼らがどんな理由で何処へ向かうかという点を明らかにしてしまうことだ。同時にロンバルディーニが伏線として張った「南十字星」というキーワードを使って、マルコと母が少しずつ近付いていることを視聴者に印象付ける役割があるはずだが…これらの要素は完全に長すぎる回想シーンに食われてしまった。おかげでフェデリコとマルコが何処かで再会するという伏線がここで張られたことを、忘れていた人も多かったと思う。
 まぁ長すぎる回想シーンのおかげで、久々に登場のフィオリーナをじっくり見られたからよしとしよう。このアニメ、女性が全て「ふくよか」に描かれているのが特徴だ。だから今見直すと、これを中学生の頃に見ていたら絶対にフィオリーナに夢中になっていただろうと断言できる。本当のフィオリーナファンを敵に回す覚悟で言うが、アーメンガードと共通点多いぞ。だがどうしてもアンナには萌えられない、巨乳ならそれでいいってわけじゃないんだよ。ったく、「母をたずねて三千里」に対して何を語っているのやら。
 
研究 ・移民船
 前話ラストシーンからのマルコの移動手段は「移民船」となった。船の名前や性能は不明、ただ画面を見る限りそんなに大きい船ではなさそうだ。実は大きさ的にも船影としてもそっくりな船を私は知っている。明治時代末に日本の鉄道院がイギリスより輸入した青函連絡船「比羅夫丸」である。船の外見や船内はここのサイトここのサイトを参照して欲しい(リンクに問題があったら切ります)。どうだろう、この「比羅夫丸」が甲板上の船室部分を切り取って、甲板にキャンバスを掛ければマルコが乗った移民船になるだろう。船内もレナータが寝ていた船室と、「比羅夫丸」の蚕棚式三等船室はとてもよく似ている(「比羅夫丸」は三段寝台でなく二段の桟敷席となるが)。だからといってモデルにしたとも断定できない。
 とりあえずこの「比羅夫丸」の諸元を言うと、総トン数1480トン、全長87メートル、全幅10メートル、蒸気タービンエンジンにより速力18ノットといったところだ。ただし速力に関してはマルコの時代から青函連絡船の時代の僅かな期間に、蒸気タービンエンジンの登場という船舶機関の一大革命があったので「フォルゴーレ号」と単純比較してはいけないし、もちろんこの移民船との比較にも使えないだろう。トン数についても甲板上の船室部分がない分、数百トンは少なくなると考えられる(「フォルゴーレ号」のトン数は排水トンだから単純比較できないが)。恐らく総トン数で800〜900トン、速力は13ノット程度といったところだろう。
 この船の特徴であり、かつ「比羅夫丸」との共通点を挙げると、下にキャプ画を示した通り船橋(操舵室)がオープンスタイルになっていることだ。これは19世紀末にドーバー海峡の連絡船で見られたスタイルらしく、日本が青函連絡船に本格的な連絡船を導入するに当たってこの構造をほぼそのまま取り入れたとされる。もちろん日本の津軽海峡でオープンな船橋が実用に耐えられるはずもなく、僅かな期間で一般的な閉鎖型の船橋に改造されたという。上記リンクのうち後者の方では、船橋がオープンスタイルになっていることがよくお分かり頂けるだろう。
 劇中では船客の大半が甲板で過ごしている様子が描かれたが、おそらくは全員に船室の中の寝台が割り当てられていたと考える。だが単純に一人1つではなく、親子で1つとか夫婦で一つ、ひょっとすると家族で2つとかそういう割り振り方がされているだろう。劇中に出てきた寝台の並び方を見ていると、一人1つの割り当てでもかなりきつそうだ。船内には風通しが悪い上に冷暖房などはないと考えられ、人々はあまりの息苦しさと暑さで甲板に避難しているのだと思われる。それに入浴設備もなさそうだから、あれだけの人間が個室になっていない船室に詰め込まれたら匂いも凄いと思う。
 以上がこの移民船について分かった事だ。「フォルゴーレ号」はマルコを成長させるいい船であったが、この移民船は劇中でそれとは逆の役割を持たされているから印象が良くない人も多かろう。そういう意味での悲劇の船として、覚えておいて欲しい。
移民船の船影
外観は海峡渡航船に近い
特徴的なオープンスタイルの船橋
乗組員も吹きさらしで操船する
船室の様子
蚕棚式の三段寝台である

第20話「おおあらしの夜」
名台詞 「震えてるんだよ。怖いのさ。でもああでも言わんと、ますます大騒ぎになる。きっと死ぬ者も出てくる。待つしかないんだ、じっと。耐えて待つしか…。」
(フェデリコ)
名台詞度
★★★★
 大時化の中を航行する移民船、狭い客室に閉じ込められ状況の説明も無い状況に船客達は苛立ち、ついに暴動騒ぎにまで発展する。船長を問い詰めると威勢を挙げた男達が甲板の扉を開くと、扉から大量の海水が客室になだれ込んできた。この「客室浸水」という事態は船客達を瞬時にパニックに陥らせ、客室内は大混乱の様相となる。これを鎮めたのがフェデリコの「自分は元船乗りだが、この程度の時化はどうってことはない」という叫びであった。
 この騒ぎが収まった後、自分の寝台に戻ったフェデリコにマルコが「本当は船乗りだったの?」と問うと、「とんでもない」とした上で震えながらマルコにこう言うのだ。
 そう、みんな時化が怖いのである。大人達は船が揺れて船酔いに苦しむことを不満としたり、閉じ込められた船室が狭く空気も悪いことを不満としたり、船の現況が分からない事を不満としているが、これらはすべて建前だ。本当は誰も時化が怖いのであり、男達が「無事にアルゼンチンに着かない」などと軽はずみに言うと、女がこれを怖がるという構図でこれが示唆されていたのは言うまでもないだろう。
 だからこそ一発触発の状態であり、「浸水」がトリガーとなって簡単にパニックが起きるのだ。このパニックを鎮めるには、説得力のある説明をしなければならず、これをフェデリコが実現する。しかし彼は嘘を言ったのであり、パニックは収まったものの彼はここで言った「嘘」に苦しみ、時化だけでなく「嘘」に対する恐怖も芽生えたのだ。
 彼が恐れているのはこの「嘘」が時化が収まる前にバレたらどういう事態になるかという点と、もし本当に船が持たなかった場合に自分に向けられる「恨み」である。これらの恐怖が「荒らしで自分が乗る船がいつ沈むかわからない」という恐怖の上に乗ってきたのである。彼の嘘によりパニックは静まり人々の恐怖感は和らいだが、実を言えばこの分の恐怖をフェデリコが一人で引き受けたというのが正解だろう。他の船客は時化を乗り切るために故郷を想う歌を歌うが、フェデリコがこれに加われなかったのは彼が皆の恐怖を一手に引き受け、それと戦っているからに他ならないのだ。
 その恐怖を彼はマルコにだけ語った、マルコは芯が強くパニックになりそうな恐怖に動じないと睨んだからだろう。そして遠回しに辛いときは「じっと待つしかない」という教訓を、マルコに与えたのであった。
名場面 おおあらし 名場面度
★★★★
 今話では移民船が時化に巻き込まれ、船員と船客が一丸となって戦う様子が迫力を持って描かれた。特に「時化の恐怖」や「対峙する人々」を描くために、ただ乗り合わせただけの名もない船客たちの台詞が多く、船長や乗組員のやりとりが効果的に入れられたのも良い。さらに客室のシーンでは「日曜日の夕食時」に放映されることはお構いなしに、船酔いで苦しむ客にバケツを配布する様子や、フェデリコが嘔吐する様子まで描かれている。この容赦ない嵐で難儀する船の様相は、沈む運命にある「ふしぎな島のフローネ」の「ブラックバーンロック号」の時にも匹敵する緊迫感と迫力を感じた。
 

 
感想  今話は「母をたずねて三千里」の一話と言うより、この移民船に乗った人々の群像として視聴するべき話なのかも知れない。移民船が嵐に巻き込まれるという展開を通じ、フェデリコの一行だけでなく名もない単なる「乗り合わせ」の人々の渡航に掛ける心境や、複雑な事情まで読み取れる優れた物語であり、渡航する人全員にそれぞれの物語があったという現実を見る者に訴えてくるのだ。嵐の描写だけでなく、その部分においても迫力があった1話だと思う。
 おかげで「母をたずねて三千里」の本題である「マルコの旅」としての展開は殆ど無いので、マルコを主役とした物語展開を追っている人には印象に残りづらい1話であるのも確かだ。こういう話があるからこそ、「母をたずねて三千里」は「マルコの旅行記」というより「マルコの旅を追ったドキュメンタリー」という要素が強く、物語があくまでも第三者的視線でマルコを見せているという印象が強くなったのも事実だ。
 しかし嵐による描写は何度見ても凄い、船が大波浪に持ち上げられるとスクリューが水面上に出て空回りするなんて描写は、他のアニメでは見たことがないような気がする。大波浪で舵が効かなくなる「切り上がり現象」については「ふしぎな島のフローネ」で考察したので、時化を行く船についてはそちらも参照して頂きたい。この移民船は嵐との遭遇によって、煙突折損、後部マスト折損、救命ボート破損という被害を受け、一時的に航行不能になったと考えられる。嵐が去った翌朝のシーンは船を停止させて修理しているところだと考えればいいだろう。
研究 ・ 
 

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