前ページ「ペリーヌ物語」トップへ次ページ

第51話 「おじいさんの目」
名台詞 「ペリーヌ…柔らかい手だ、これはよくわかる。お前の活き活きした声もよくわかる。だが、お前の顔は…わしの可愛い孫の顔がわからんのはもどかしい。わしは…わしは、お前の顔が見たくてたまらん。どうしてもお前の顔が見たい、ペリーヌ…。」
(ビルフラン)
名台詞度
★★★
 所用で工場の社長室を訪れたペリーヌの手を握り、それまでの流れとは無関係に突然ビルフランが語るのがこの台詞である。彼はこうして「目を治したい」という気持ちを、ペリーヌと視聴者に訴える。
 ビルフランの目が不自由であるという設定は2つの要素がある。1つは目隠しされていることで、「オーレリィ」として乗り込んできた少女の顔や細かい仕草を見られずにその正体に簡単に気付かないようにするため。だがペリーヌの正体が明らかになったところで、この要素は役割を終えたのは言うまでもない。ここでビルフランの目が不自由な理由はもう1つの要素に切り替わる。それは「手術」という要素でビルフランが困難を乗り越えることを描くと同時に、この不自由が治るという物語を描くことでラストの大団円を盛り上げるだけでなく、困難を乗り越える過程でビルフランにとっての「ペリーヌが現れてよかった」を描き、物語に最終的なけじめを付けることである。つまり「母を訪ねて三千里」でマルコとアンナの再開後にアンナの手術が描かれたのと同じ理由で、この要素によって「遙々たずねていってよかった」「遙々たずねてきてくれてよかった」という「旅の目的以上の決着」が描かれることで、主人公の旅とたずねてこられた側の幸せを描いて「旅物語」としてのけじめを付ける事である。
 このようにこの台詞は、ビルフランが自ら「目が不自由な理由」の役割を変化させたという点で面白い。47ではビルフランが「オーレリィの顔を見てみたい」と感じる事はあったが、それは「目が不自由な理由」を書き換えるほどの欲求ではなかった。しかしペリーヌの正体が判明してペリーヌの存在そのものに幸せを感じたビルフランは、その「幸せ」で唯一得られね喜びとして「可愛い孫の顔が見られない」事を明確にし、その上でその幸せを得るために困難に立ち向かうことになる。その物語の転換点はまさにこの台詞なのだ。
名場面 手術に向かうビルフラン 名場面度
★★★
 手術の直前、ビルフランはペリーヌの部屋を訪れる。そして「万一の場合」の話を始め、ペリーヌを不安に陥れてしまうのだ。「少しでも危険なことがあるなら手術は止めて下さい」と訴えるペリーヌに「どんな簡単な手術でも危険はある、そういうことを言っただけだ」と説得すると、セバスチャンが診察が始まる旨ビルフランに伝えに来る。
 「それじゃペリーヌ、わしは下へ行く」と言うとビルフランは立ち上がる。「私も行きます」と訴えるペリーヌに、「お前はここにいて、手術の成功を神に祈っていてくれ」と返して扉のところまで歩く。だが、ビルフランは扉を開いたところで立ち止まり「ペリーヌ…」と声を掛ける。その声にペリーヌはたまらなくなり、ビルフランの元に走り抱き付く。しばらくの抱擁…「ああ、これでまた新しい勇気が湧いてきた。さあ行くぞ、ペリーヌ」と言い残して、ビルフランは部屋を出て扉を閉める。そして意思の元へ黙って歩いて行く。
 手術という大事の前の緊張感が上手く表現されている。なんと言ってもここまで「大丈夫だ」と繰り返した来たビルフランが少し弱気になり、始めて恐怖を感じる言動を取る。特にペリーヌの部屋から出て行く時に足を止めてその名を呼んでしまうところは、彼の後ろ髪を引かれるような思いが上手く再現されているし、ビルフランが最期に言い残した台詞は彼もやはり怖くてペリーヌから勇気をもらおうと懸命になっていることが示唆されている。
 こうしてビルフランについてこれまで描かれなかった一面が現れる。それは初登場からここまで恐怖という感情を見せることがなかったビルフランの「普通の人」としての一面だ。彼もこのような状況では人並みに怖がり、孫にすがってしまう「普通の人」なのだ。ここまでの頑固で冷徹な経営者の面、自分に従順な人間には優しい面、そして孫の存在が嬉しい祖父としても面が描かれてきたが、こんな「普通の人」としてビルフランが描かれたのは始めててとても印象深いシーンであった。
 

 
今回の
迷犬バロン
  
 ペリーヌによる除雪作業、飛んでくる雪を避けたらまた元の場所に戻るバロンのこの行動は大好きだ。本筋の「感動のヤマ場」が落ち着いてきたところで、バロンの登場シーンが多くなってきた。
気まぐれ度
★★★★
感想  前話までで感動のヤマ場といえる展開は終わり、今話からいよいよ「ビルフランの目」という物語に入る。この物語の存在理由は名台詞欄に書いた通り、「ペリーヌ物語」という本作を「旅もの」として完成させるための重大な要素だ。これが無ければ、ペリーヌがビルフランの孫として迎えられて幸せになったとしても、ビルフランが孫から愛情で幸せになっても、何処かに「締まり」がないままになってしまうのは確かだ。こうしてビルフランが「遙々やってきたペリーヌのおかげ」で困難を乗り切り、その結果「ペリーヌが遙々やってきて良かった」「ペリーヌにとっても遙々たずねてよかった」を描かなければ「旅もの」としての本作はどうしても終われない。もちろんマロクールに着いてからの物語だけで見れば、どうしても描かなければならないという点ではなくなってしまう。
 その物語の展開は名台詞欄書いた通り。これまで48話の続き的な展開を自然に進めてから、ビルフラン本人が物語をそちらに引っ張り込んでしまう。この時の彼の「ペリーヌの顔が見られない」というもどかしさの再現がこれまたうまい。そしてここにフランソワーズが少しだけ物語に絡み、ビルフランの病状の重さや手術の難しさについて説得力を持たせ、万を持しての名場面欄シーン、そして手術へと続く。そして今話のうちに「手術の結果」だけは描ききってしまい、ビルフランが始めてペリーヌの顔を見るという次の感動シーンを次話のラストまで引っ張るために「ビルフランの目が開けられるまで一週間掛かる」という事を自然に語らせるのは上手いと思った。
 しかし、ペリーヌの正体が知れてみんなの態度がガラリと変わったのは面白い。変わってないのとファブリとロザリーだけ。フランソワーズも「ペリーヌ様」と呼ぶようになるし、工場の守衛までも「お嬢様」呼ばわりだ。タルエルなんか猫なで声でペリーヌに接して気持ち悪いのなんの…でもペリーヌがそれに「動じない」のがこれまた見ていて面白い。性格的にはフランソワーズには「様なんて止めて下さい」位は言ってそうな気がするが。
 それと今話のロザリー登場シーン、雪の上をスノーボードの要領で滑ってくるのは子供の頃に見たのをハッキリ覚えていた。当時は「変な奴だなぁ」と思って見ていたけど、今回見直してもその感想は変わらなかった。
研究 ・ビルフランの目
 この物語を研究する上で、避けて通れないのは「ビルフランの目」であろう。ここではビルフランがどうして失明し、どんな病気でどんな手術をしたのか考えて見たい。
 劇中で、ビルフランは肺炎に罹りこれが原因で失明したことが語られている。これを受けて「肺炎による失明」についてネットで調べてみると、結構症例が多いらしくてゾッとした。生まれつきの失明以外…つまり「中途失明」の原因ナンバーワンが、日本では肺炎であるとしているサイトもあった。
 肺炎でなぜ失明するのか調べてみたら、何だか難しく書いてあるサイトばかりで完全に理解し切れてない。簡単に言えば、最近によって肺に炎症が起きるのが肺炎であることは多くの方がご存じとは思うが、この炎症が網膜に転移することがあるようだ。これが原因で網膜がその機能を失い、ある日突然に失明するらしい。また、肺炎が網膜剥離を引き起こすこともあるようだ。ビルフランはこんな形で失明したのだと思われる。
 恐らく、今回ビルフランが受けた手術は網膜の手術と思われる。網膜の手術において、「包帯を替えるときだけ目が使える」という状況があるのかどうかは色々調べてみても確認出来なかったが、術後に光の刺激が良くないのは共通点であろう。つまりビルフランは肺炎で網膜を痛め、これを治したということと見ていいだろう。

第52話 「忘れられないクリスマス」
名台詞 「ええ長い間、お子様がいらっしゃらなかったし、旦那様もお目が悪くなられたし…でも、今年はお嬢様がいらっしゃるんですから。」
(セバスチャン)
名台詞度
★★★
 今話冒頭、ビルフラン邸のホールにクリスマスツリーを立てるシーンからスタートする。飾り付けを手伝うペリーヌが「きれい」と感嘆の声を上げると、セバスチャンが近付き「随分久しぶりにツリーを立てた」と語る。「そんなに長い間?」とペリーヌが問うと、セバスチャンがこう答えた。
 このセバスチャンの台詞には、これまでのこの屋敷が明るく飾られることがなかった現実が上手く語られている。もちろんその原因はここでセバスチャンが語ったように子供がいないことや主人が失明したこともあるが、それ以上にそれ等の要因で屋敷の空気が暗く沈んでいたことも上手く示唆されていると思う。そしてこの「これまでの暗さ」を十分に印象付けた上で、「今年はペリーヌがいるから」という部分に感慨を込めて語れば、ペリーヌの存在はビルフラン当人の心に灯りを灯しただけではなく、屋敷の雰囲気全体を変化させてセバスチャン以下召使い達にもその灯火を広めて幸せを感じさせた事実が浮かび上がってくる。
 そして何よりも、これまで執事としてビルフランに尽くしてきた男が、主人に対して持っていた不安が解消されたことが嬉しかったことも上手く表現している。このままでは何の幸せも無いままこの世を去るしかないと思っていた主人の、現在の明るく充実した日を嬉しく思う執事の背中も、この台詞から見えてくる。
 このようにしてペリーヌ一人によるビルフランだけでなく「屋敷の変化」を描き出すことから、今話はスタートする。そうでないとビルフランがロザリーの一家にプレゼントを用意したり、ファブリを夕食に招待したりという展開に説得力が生まれない。このシーンのこの台詞で視聴者に「心の準備」をさせる要素も、この台詞には含まれているだろう。
(次点)「しかし、何てお前は息子に、エドモンに似ているんだ。もしわしが目が見えていたら、一目でお前がわしの孫だとわかったろうよ。フランソワーズを除いては誰もそのことに気付かなかったのは、よくよく間抜けな人間が多かったんだな。」(ビルフラン)
…名台詞欄でペリーヌの顔を始めて見たビルフランは、ペリーヌの顔についてこう論じる。この台詞からはフランソワーズの情報通り、本当にペリーヌはエドモンに似ているという事が裏付けられると共に、何故ビルフランに「失明」という設定が必要だったのかがうまく理解出来る内容だ。この台詞で「オーレリィ」と名乗る少女の正体が判明する展開は幕を閉じることになる。
名場面 ビルフランが始めてペリーヌの顔を見る 名場面度
★★★★★
 手術から一週間、いよいよビルフランの目が開かれる。ブルム医師が包帯を外し診察をすると、「手術の結果は完璧です」と宣言する。「お孫さんをご覧下さい」と席を立つブルムに代わり、ペリーヌがビルフランの前の椅子に座る。「ペリーヌ、わしの目の前にいるのか?」とビルフランが問い、ペリーヌが「はい」と返事したのを受けてビルフランは目を開く。無言のまま何度か瞬きをするだけのビルフランに、ペリーヌは心配になってつい声を掛けてしまうが、その時ビルフランはペリーヌに焦点を合わせようとしていた。そして自信の顔を覗き込んで微笑むペリーヌの顔に気付き、「おお、ペリーヌ!」と声を上げる。「お前だ、お前の顔がハッキリ見える!」と続けるビルフランに「おじい様! 本当に私が見えるんですか?」と歓喜の声を上げるペリーヌ。「ああ、見えるとも。よく見えるぞペリーヌ!」と返答するビルフランの前に、ペリーヌは跪く。ビルフランはペリーヌの顔を撫でながら、「わしの想像していた通りの顔じゃ、活き活きとして、賢そうで、キリっとしている」と語ると、ペリーヌは祖父の顔を見つめて「ほんとうによかったよわ」と語りながら涙を流し始める。自分達の「腕」によって感動の対面を実現させたブルムとリュションががっちり握手を交わす。そして名台詞時点欄の台詞となると、ブルムが包帯を巻く時間になったことを告げてビルフランの目に再度包帯が巻かれる。包帯を巻かれながら「ペリーヌ、お前はやっぱり美人だったじゃないか。この嘘つき」と嬉しそうに語るビルフランに、「それなら、私は母にも似ているんです」とペリーヌも嬉しそうに返すと「そうに違いない」と感慨をこめてビルフランが語る。
 感動の名シーンパート2だ。「ビルフランは失明している」という設定に、ペリーヌによってもたらされた幸せによって「孫の顔が見たくなった」という展開が加われば避けて通れない感動シーンのはずだ。その感動を最終回の1話前という土壇場であっても手を抜かず丁寧に描いたことは、この物語が「世界名作劇場」シリーズの中でも傑作として数えられる理由の1つであろう。
 ここはとにかくビルフランの感動した声が何とも言えず印象に残るところだ。理想の孫が存在しただけで幸せだったビルフランが、まさにその頂点に上り詰めた喜びが嫌と言うほど再現されているのは言うまでもないだろう。担当声優もこの喜びを妙に上ずった声で演じる事で、ビルフランの喜びの大きさを視聴者に見事に伝えきった。
 そしてこれに反応するペリーヌはもちろん、医師としてこのような感動を患者に与える喜びを感じるブルムとリュションの姿まで手を抜かずに描いている点は脱帽だ。また台詞も最小限に抑えて無言の時間が多く、空間再現がリアルになるだけでなく「語りすぎ」になることも防いでいる。このように作りが細かいからこそ、このシーンは多少大袈裟でも白けることがないよう工夫され、白けやすい「二度目の感動の名シーン」を上手く引き立てたのは本当にうまく作ってあると、いつ見ても感心するシーンだ。
  

  
今回の
迷犬バロン
 
 久々にポールと再開、劇中では描き忘れられてもバロンはその存在をちゃんと覚えていた。でもそのポールは、ペリーヌが持ってきたプレゼントに自分の分があると知るとバロンをほったらかしに。でもバロンはそれに気にしない様子、変なところで賢い犬だ。
気まぐれ度
★★★
感想  今話は「二度目の感動の名シーン」が描かれる。それに従って物語がそこへ向くように上手く仕上がっているのは確かだ。冒頭こそはペリーヌの存在がビルフラン邸全体に広まったことを示唆することから始めるが、これが次にビルフランが幸せを再認識した上で「いよいよペリーヌの顔が見られる」とすることで話を誘導するきっかけとなる。そしてここからことある毎にビルフランが「ペリーヌは美人なのか?」と疑問を持ち、ペリーヌが謙遜して「そんなことはない」とする問答の繰り返しが演じられる。
 その合間でビルフランがロザリー一家にプレゼントを用意したことや、ファブリを夕食に招待したことが描かれる。これは前々話の流れを受けた「ビルフランの孫への親切に対するお礼」の一環と見て良いだろう。だが前々話では完全に存在が忘れ去られていたポールが、今話ではキチンと存在感のある活躍をするのだが…私は去年のBSでの再放送を見た時、この52話で久しぶりにポールが出てきた時に「誰だっけ?」と思ってしまった。ここまで忘れ去られていたキャラが、思い出したかのように引っ張り出されて上で「シャモニー」のシーンであれだけ画面に食い込んでくると…やっぱりこの少年は最初からいなかった方が良かったんじゃないかと思った。それほど「制作者側の責任」で印象が悪くなったキャラは、ポール以外には思いつかない。
 そして万を持してついてビルフランがペリーヌの顔を見る。このシーンに付いては名場面欄で語った通りだ。そして、ビルフランの目が開かれた時点で「ペリーヌ物語」は「世界名作劇場」シリーズのセオリーに従って、最終回1話前で物語の結論が出たという事になる。最終回は物語を上手く終わらせるための「オチ」が、大団円として演じられるという点も「世界名作劇場」のセオリー通りだろう。


いよいよ、「ペリーヌ物語」はシリーズ他作品が知らない領域へ…
研究 ・ 
 

第53話「春の訪れ」
名台詞 「おとーさーん…………、おかーさーん…………、私、幸せよー…………、安心してくださーい…………。」
(ペリーヌ)
名台詞度
★★★★
 名台詞欄の中で、ペリーヌが大声で天国の両親の今の自分について報告する。その声はエコーとなって響き渡る。
 「53話も続いた物語の最後」をとても強く印象付ける主人公の叫び声、その叫びは苦しみの叫びでなく幸せに包まれていることを告げる叫びであった。物語における主人公ペリーヌの到達点であり、1話からずっと物語を追ってきた人はこの台詞で持って「物語の終わり」を強く感じたに違いない。
 それにしても凄いのは、名場面欄シーンの直前、マルセルとの会話でも感じた事だけど、自分の現状を「幸せになったの」と自信を持って言えるって凄いことだと思う。何をして「幸せ」と言うかは人によって違うが、ペリーヌの場合は肉親と1つの目標に向かって歩き続けることができるという事実かも知れない。両親を「旅」の途中で喪ったペリーヌだからこそ、こんなところに幸せを感じるのだろう。
(次点)「長い苦しい道が続きましたが、ペリーヌはとうとう幸せになったのです。そして、この長い物語もこれで終わります。皆さんも自分の幸せだけではなく、人の幸せをも同時に考えることができる人になって下さいね。」(ナレーター)
…物語の最後、ナレーターが視聴者にメッセージを残す。物語の終わりを告げた後、視聴者に「自分の幸せだけでなく他人の幸せをも考えよう」と訴えるこのメッセージの裏側には、物語でさんざん訴えてきた「人に愛されるにはまず自分が人を愛さねばならない」というメッセージとほぼイコールだ。「自分が幸せになるには、周囲にいる人をしなければならない」ということで、まさにこれはペリーヌが劇中で演じてきたことだ。その物語の主題を明確にして、「ペリーヌ物語」き53話もの長い物語に終止符が打たれるのだ。
名場面 春の丘の上で 名場面度
★★★★
 物語の最後、ペリーヌとビルフランはマロクールを見下ろす丘の上に立つ。そしてビルフランは「パンダボアヌ工場をフランス一の工場にしてみせる」と決意した過去を思い出し、同時に「このマロクールをフランスで一番豊かで住みよいところにする」という新たな決意を孫に語る。「頑張りましょう、おじい様」と立ち上がるペリーヌに、ビルフランも「頑張ろう」と決意を新たにする。そして名台詞欄の台詞があり、「お父さんとお母さんにこんな報告ができるなんて…」とペリーヌが感慨に耽ったと思うと、「おじい様はダンスはお好きですか?」と突然声を掛ける。笑いながら「もう遠い昔の事で忘れてしまった」と答えるビルフランに、「では私が思い出させて差し上げます」と言って一方的にビルフランの手を取ってダンスを始めるペリーヌ。ペリーヌは両親はダンスが好きでいつも踊っていたことを告げると、「お前もなかなかだ」と褒めた後「お前の母親はいい母親だったんだな」と語るビルフランの台詞と、それに答えるペリーヌの笑い声が本物語最後の台詞となる。そしてダンスを遠巻きに見ていたバロンとパリカールがダンスに加わると、名台詞欄次点の解説が入る。そしてペリーヌとビルフランが楽しく踊り、それをバロンとパリカールが楽しそうに追いかけ、最後はこの2人と1匹と1頭がマロクールの街を背景にしたシーンがズームアウトして、物語は幕を閉じる。
 このシーンに内容は全くない。そう言いきっても良いだろう。あるとすれば名台詞欄と次点欄で語った事だけだ。ここで印象付けるのはこのような形に到達したペリーヌとビルフランの喜びと幸せだろう。そこに物語を最初から彩ってきたバロンと、ペリーヌの旅に無くてはならない存在だったパリカールが彩りを添え、二人が楽しそうにしているシーンで幕を閉じる。
 これはテレビアニメの最終回だからこそだろう。二人の幸せを日常生活から描く方法はいくらでもあるが、それはもう前話や今話前半までに使い切ってしまっている。そらにこのラストシーンではその要素を視聴者に強烈に印象付けて終止符を打たねばならないので、このような強烈なシーンになった。こういうシーンを作ると多くの物語で「語りすぎ」「語り不足」が生じて白けてしまうことが多いが、「ペリーヌ物語」の感動シーン共通だがこのバランスが上手くて白けさせないのだ。白けたのはパリカール売却後のあのシーンだけだ。
 また、前話までに物語に全て決着が着き、その上でどんな形で物語を終わらせるかというのは重要な点だ。主人公が目的を果たすだけでなく、みんなが幸せになる大団円を描き、特にこのような物語ではビルフランの幸せをキチンと表現して「ペリーヌがここへ来て良かった」という点を上手く描いて印象付ける必要もある。こういう点でもこの物語の終わりは優れていて、とても印象に残るラストシーンとなった。名場面・名台詞・名台詞次点が全部このシーンに集中していることからも、それはご理解頂けるだろう。ホント、どっかの某長い旅に見習って欲しいラストシーンだ。


  
今回の
迷犬バロン
  
 バリカール再会シーン、バロンは飼い主より先にその事実を知り、飼い主より先にそれを堪能していたが、当のペリーヌは気にしていない様子。しかし、このシーンのバロンのハイジャンプは凄いなぁ、マルセルが仕込んだ芸よりも凄いぞ。
気まぐれ度
★★★
感想  最終話、なんと1話分丸々「オチ」に使いやがった。と言っても「世界名作劇場」ではこういうスタイルはとても多い、「母をたずねて三千里」も、「赤毛のアン」も、「ふしぎな島のフローネ」も、「わたしのアンネット」も、「小公女セーラ」も、「こんにちはアン」も、みんな最後の1話は丸々「オチ」で大団円を描くためだけに存在する最終回だ。「愛の若草物語」に至っては「オチ」を2話にわたって演じるからなー。
 タルエルのペリーヌに対する猫なで声は気持ち悪いが、テオドールがペリーヌに対して「恨み」とも言える感情を持っているのはこれまた良いと思った。確かに突然「従兄弟の娘」が現れた事で工場を継ぐ可能性が小さくなり、その上タルエルが社長代理として任命されればそう感じても仕方が無い。でもタルエルにも「救い」があって、仕事上で信頼されていなくてもちゃんと「ビルフランの身内」として迎えられることで一応の決着は果たす。結局彼が求めていたのはそこで、それが叶ったことが解ると突然態度が変わるのはテオドールというダメ人間として描かれたキャラだからこそ許せるのだ。
 また、久々にマルセル登場点は良かったけど、あんまりにも久しぶりで担当声優は完全に演じ方を忘れていたとしか思えない。声だけでなくキャラクターそのものが別人みたいで、違和感ありありだった。
 後半は完全に「そしてこうなりました」という報告だけだ、保育園が無事完成し、他の福利厚生施設の建設が進むことで、ペリーヌによって生まれた「ビルフランの新たな野望」が着々と実現に向かっていることが示される、そして満を持してのラストシーンは名場面欄・名台詞欄に書いた通りだ。しっかりと「物語の結論」に対する結果を描き、かといって物語を完全に終わりにさせずちょっとの語り漏らしや、僅かに次に踏み出して終わるという「世界名作劇場」の終わり方のセオリーを確立したのはまさにこの「ペリーヌ物語」の最終回だろう。こうして物語が締まるだけでなく、多くの視聴者に「今後の想像の余地」が残されているのはとても面白い。本当にどっかの某長い旅は見習って欲しいなぁ。
 最後にどうしても気になることをひとつ。ロザリーが小さい子供(2〜3歳?)をあやしながら出てくるシーンで、ビルフランが「ロザリーを最後に見たのは、ロザリーがその(幼児の)歳位の時だった」と語るシーンがあるが、どう考えても計算が合わないと思うのだが…。
研究 ・保育園
 最終回では、ペリーヌに感化されたビルフランが新たな野望として続々と工場の福利厚生施設の建設に着手したことが語られている。その中でトップを切って完成したのが保育園で、早速営業までこぎ着けていた。
 この中で気になるのは、やはりロザリーが保育園で働いていた事だろう。ロザリーだけではない、フランソワーズが園内で働いているシーンも描かれている。ロザリーは工場で機械担当だったし、フランソワーズは特に働いていたわけでは無かったはずだ。なのにどうして?と考えてしまう。
 その答えは前話にひとつある。前話のビルフランの屋敷のシーンで、ビルフランが福利厚生施設の建設や運営についての責任者に命じるシーンがある。この中でビルフランは「工場内からも適した人間を使って良い」というお墨付きをもらっている。つまりこの福利厚生施設の運営について、ファブリが人事権を握った上で工員を選ぶことができるのだ。
 ただファブリのことだ、その人選はビルフランの許可を得た上で「志願制度」を取ったと思う。保育園にしろ病院にしろアパートにしろ、そにかく福利厚生施設で働きたい人を募集し、面接の上で人選をしたと考えられる。恐らくロザリーはこの流れの中で「保育園」への転籍を希望し、ファブリと面接した上で採用されたのだろう。ファブリがいくら仲の良い少女だからと言って、このような場で贔屓をするような人間とは思えず、ロザリーは小さい弟がいることもあって子供の面倒を見る点については素質があったのかも知れない。
 次にフランソワーズだが、この保育園が「当時最新の設備と体制」であることは劇中で語られている。つまり現役を引退した人の中で志がある人がボランティアで保育園運営に携われるようなシステムもあるのだろう。このシステムはファブリが他の保育園を視察して採用したと考えられる。そしてこういうシステムを立ち上げればビルフランがフランソワーズをファブリに進めるだろうし、フランソワーズもエドモンの乳母だった位だから子供好きでこういう仕事を無償でしたいと考えるだろう。だからフランソワーズはボランティアで働いていると考えられる。
 この保育園を始め、様々な福利厚生施設の建設については製造部門のタルエルはともかく、総務部門のテオドールの担当でもないのは明らかだ。つまりこれらはビルフランが直接担当する技術部門が担当しているはずだ。ファブリが福利厚生施設の責任者になっただけでなく、福利厚生施設の人事権を一手に握ったことで技術部門から福利厚生部門が分離・独立したと考えて良いだろう。その長はファブリであり、彼はあの若さでタルエルやテオドールとほぼ同等の職位まで上り詰めたと言うことだろう。


・「ペリーヌ物語」のエンディング
「きまぐれバロン」 作詞・つかさ圭 作曲・渡辺岳夫 編曲・松山祐士 歌・大杉久美子

 「世界名作劇場」シリーズでは1・2を争う「ほのぼの系」のエンディングと言っても異論はないだろう。どんなに主人公が辛い状況で終わっても、どんな感動シーンの後でも、この曲が明るく流れて1話が終わる。その空気の読めなさは「かあさんおはよう」(母をたずねて三千里)と「森へおいで」(南の虹のルーシー)と並んでいる。だがこのエンディングの底抜けの明るさがとても雰囲気を良くしているのも事実だ(これは例に挙げた他二作にも言える)。
 曲はペリーヌから見たバロンの主題歌だ。普段のバロンの間抜け具合と、いざというときに(きまぐれだが)役に立つ面をしっかり歌い上げた上で、ペリーヌのバロンへの信頼が歌われている。しかし2番(アニメでは流れない)では「いつもまぬけなことばかりしている」って歌われちゃっているし…だが詞は明るく描かれていて、楽しくてついつい口ずさんでしまう曲だ。もちろんこの歌を歌うときは、明るく楽しく元気よく歌わねばならない。「笑いながら歌える」曲だ。
 アレンジはこの内容に合わせてこれまた楽しそうな伴奏を付けてきている。一言で言えば「おもちゃ箱に飛び込んだような」楽しさの伴奏である。聴いているだけで楽しい曲だし、一度聴くとやめられない凄い伴奏だ。それでいてしつこくもない。特にこの曲はステレオ音源で聴くと本当に楽しい、音に埋もれるような感覚が楽しめる。
 背景画像はバロンが走ったり遊んだりしているだけである。最後はバロンが色違いの背景に挟まれて終わるのも見ていて楽しいし、とても印象に残るエンディングだ。
 個人的には「世界名作劇場」シリーズのエンディングの中で名曲であり名作であると思う。いかん、これ書いていたらまた聴きたくなってきたぞ。

前ページ「ペリーヌ物語」トップへ次ページ