2.東武鉄道の特急史
東武鉄道の特急は、国際観光地日光を結ぶものとあってその歴史は古い。
日光という観光地についてはここで説明するまでもないが、その日光へ現在のJR日光線である日本鉄道日光線が開通したのが1890年(明治23年)である。その頃から東京と日光を結ぶもうひとつの路線が様々な実業家によって考案され、実現に向けてしのぎを削っていた。その中に明治時代末期、群馬県の館林から佐野・葛生・鹿沼を経て日光へ至るというルートで日光への観光輸送に乗り込もうと企画し、数多くの構想の中で唯一実現にこぎつけた企業があった、それが東武鉄道である。
東武鉄道が当初、日光線を館林起点とした理由は既存の伊勢崎線を活用して建設費用を下げようとしたためと思われる。しかし日本鉄道から国に買収されて国鉄日光線となると、こちらのルートが観光輸送において一定の成果を出した。そこで東武鉄道は国鉄に対抗すべくルートを再検討し、紆余曲折を経て杉戸(現東武動物公園駅)で伊勢崎線と分岐し、栗橋で東北本線と交差し、栃木・鹿沼・今市を経て日光へ至る現在の東武日光線のルートに決定した。1929年(昭和4年)10月に東武日光線として全線が開業、ここに今や伝説となった東武鉄道と国鉄による東京〜日光間の観光客争奪の歴史が始まった。
また、ほぼ同時に今市と鬼怒川を結んでいた下野電気軌道という軽便鉄道を改良し、東武車両を鬼怒川温泉方面へ乗り入れできる体制を整えた。
国鉄は当時は常識である蒸気機関車列車で日光線は単線、これに対抗して東武鉄道は日光線を全線電化複線として開通させた。これを見ると日光線の方が有利であるが、都心側のターミナルが国鉄は上野であったが東武は浅草とは言っても隅田川の東岸(現在の業平橋駅)で、当時は浅草も東京の中心の一つだったとはいえ隅田川を挟んだ向こう側では条件が悪かった。
そこで東武鉄道は都心側のターミナルを改めるべく路線の延伸を計画した、まずは隅田川を渡って浅草の中心地へ乗り入れてここにデパートが入った駅ビルを建てた。これが現在の浅草駅で1931年(昭和6年)に完成、さらに東武鉄道は山手線が走る上野・東京駅方面への延伸を計画したが、これは地下鉄銀座線が先に開通していたので認可が出なかった。戦前から戦後しばらくは浅草など下町一帯も都心の一部であり、地下鉄で都心と結ばれていたこともあって浅草でも圧倒的に不利になることはなかったが、高度経済成長の頃になると東京の街が西へ拡がり、新宿や渋谷や池袋といった副都心が台頭してくるとターミナル位置に於いては圧倒的不利な状況となる。
東武鉄道は日光線開業と同時に浅草〜日光間の特急電車を運転、電車による高速運転で2時間20分で日光へ着けるために日帰りで日光観光が楽しめること、蒸気機関車のように煙に悩まされることが無いなど明らかに国鉄日光線を意識した宣伝を始める。さらに鬼怒川温泉へ行く下野電軌や日光の観光地を結ぶ路面電車にも乗れる往復乗車券を出すなど、現地に於いても国鉄より優位となる営業展開をするのである。
特急といっても特別に車両を造ったわけでなく、一般車両を特別整備して特急運用に充てたというものだった。運が悪いとロングシートの車両となることもあり、車両サービスでは国鉄に負けていた。
東武鉄道最初の日光特急専用車は日光線開通と同時に製造されたトク500という形式の貴賓車である。中型の木造車体で片側は他の車両と連結できるように貫通構造で、反対側はオープンデッキの展望デッキとなっていた。車内は豪華なソファが並べられ、厨房も備わっていて車内で食事も可能であった。団体貸切用として申し込みがあると特急電車の最後尾に連結された。その後、連結する列車が定められて個人客にも特別車として座席が販売されるようになった。
東武鉄道のこの動きに国鉄は敏感に反応した。上野と日光を結ぶ準急列車の速度を上げ、日光準急は東北本線を誇るようになる。宇都宮周りという遠回りや路線の都合による方向転換というハンデも乗り越え、蒸気機関車牽引の列車ながら東武の電車に匹敵するスピードでダイヤを引いた。
このこの国鉄の対抗策に東武鉄道は敢然と立ち向かう、高速快適な新型車両を開発して蒸気機関車運転の国鉄に差を付けようと考えたのである。こうして1935年(昭和10年)に生まれたのが戦前の関東私鉄のなかで名車のひとつとされるデハ10系電車である。モーターの出力を上げてスピードアップを可能としただけでなく、ゆったりしたロマンスシート(転換クロスシート)に運転席横の展望席や、天井には八角形のシャンデリアをつけるなどの豪華な車内、売店による飲食物の販売などのサービス向上、これらによって日光輸送では国鉄を特にサービス面で引き離すこととなった。さらに鬼怒川温泉への本格的な乗り入れを開始し、最初の東武日光線黄金時代を築き上げるのである。
しかし、世の中は暗い時代に突入しようとしていた。日中戦争開戦を期に日本は戦争の時代を突き進むこととなり、日米開戦となると次第に観光旅行が気軽に出来る時代ではなくなってきた。日本が敗走する時代になると資材は欠乏し、東武日光線は不要不急の観光路線として鉄材供出のために単線化されてしまう。こうなると特急運転どころではなくなり、東武の日光線特急も運転中止となり浅草〜日光間の直通列車は種別を問わずに姿を消した。このようにして日本全国の私鉄から観光特急が消えたのである。時を同じくして下野電気軌道は東武鉄道に買収され、東武鬼怒川線となる。
1945年(昭和20年)に終戦を迎えるが、東武鉄道は他の鉄道と同じように戦時輸送による無理と物資不足のため設備が荒廃していた。そこへ押し寄せる多くの人々を捌くため、相当の苦労をしていた。
そこへ日本を占領していたGHQから、日本を代表する観光地である日光へ向かう進駐軍専用の観光列車を早期に運転せよと要望される。そこでデハ10系の状態が良い4両を進駐軍専用として特別整備し、国鉄から2等客車を2両借りて整備したデハ10系に挟んで運転することとした。この列車は1948年(昭和23年)6月に運行開始したが、連結されたデハ10系には客を乗せないこととした。
東武鉄道としては国鉄から客車を借りるのでなく、戦前の展望車であるトク500を使いたいと申し出ていたが、木造客車であって車体強度に不安があるとしてGHQから却下されていた。
この進駐軍専用列車を運転開始したのと時を同じくして、東武鉄道は急行料金の設定を申請した。この許可が出たために早くもこの年の8月からまず進駐軍専用列車のデハ10系に乗せるという形で特急運転を復活させた。そして車両整備を待って特急運転を増やし、デハ10系が本格復活した翌年4月から特急は毎日運転の定期列車となる。この復活から日光方面の特急には「華厳」、鬼怒川方面の特急には「鬼怒」という列車名が付く。やがて進駐軍もこちらの特急を利用するようになったため、進駐軍専用列車の運転は廃止される。
さらに戦前の展望車、トク500を復活させた。戦時中は使われることがなく車両工場の片隅で事務室となっていたが、進駐軍専用列車に充てるつもりで引っぱり出して整備したのを特急に連結することとなった。当初は団体用として、のちに連結列車を定めて一般旅客も利用できるようになった。
戦後の混乱が少しずつ収まってきた1950年(昭和25年)頃には特急の乗客も持ち直し、さらに増加の一途をたどるようになってきた。戦前に造られたデハ10系だけでは運びきれなくなり、また国鉄も設備の復興に伴って所要時間を戦前のレベルに戻していたため、その対抗策としても新型車両が必要とされた。
そこで1951年(昭和26年)に登場したのが5700系である。湘南電車に似た二枚窓の流線型の先頭車と、日光方面と鬼怒川方面の特急を連結運転するのに必要な貫通タイプの先頭車の二種類が用意され、ゆったりした転換シートや明るい蛍光灯の車内、清潔なトイレや売店などの設備を設けていた。この5700系の特急は好評ですぐに増備を望む声が上がり、1953年(昭和28年)には直角カルダン駆動などの新技術を盛り込んだ増備車が追加された。それでも特急は好評で座席が足りず、遂に通路や扉付近に補助席を設けて対応する状況にまでなった。なおカルダン駆動などの新機軸については技術的に未成熟で、のちに昔ながらのツリカケ電車に改造され、流線型の先頭車も連結などに制限が出るため貫通タイプに統一改造されている。
増備車の登場で特急を5700系に統一し、浅草〜日光間の所要時間を2時間20分前後としてやっと戦前のレベルに戻すことができた。
5700系登場をきっかけに特別展望車トク500の連結は廃止され、戦前の東武特急の歴史を彩った展望車は姿を消した。
一方の国鉄は、この東武鉄道の新型特急電車投入という施策に真っ向から勝負を挑んできた。
1955年(昭和30年)春に、それまで蒸気機関車牽引で運転していた上野〜日光間の快速列車を新型の気動車に置き換えた。しかし、この気動車はキハ10系と言われる平坦区間向けローカル用気動車で、1車両1エンジンの非力な気動車であった。上野〜宇都宮間ではスピードアップ出来たが、急勾配の続く日光線では速度が出せず上野〜日光間では蒸気機関車列車よりもスピードダウンになってしまった。またローカル用のため室内設備も貧弱であった。
だず、国鉄の中では非電化路線から蒸気機関車を駆逐すべく強力な気動車の開発を進めていた。1車両に2台エンジンを搭載して出力を大幅に向上し、室内設備は長距離運行の客車と全く同じとして快適性も向上したキハ55系準急用気動車である。
1956年(昭和31年)にこのキハ55系を上野〜日光間に新設した準急「日光」号に最初に投入し、上野〜日光間を2時間ちょうどで結んだ。所要時間に於いても東武鉄道より有利となることとなり、多くの乗客が国鉄に流れるかに見えた。
東武鉄道は国鉄のキハ55系による日光準急計画に造ったばかりの5700系では国鉄に対抗できないと危機感を強め、すぐさま新型特急の設計に入った。大手私鉄とは言え新型特急を投入して僅か数年の路線に新たな新型特急を投入するなど異例で、国鉄も東武鉄道も日光輸送にかなり力を入れていたことが分かる。
東武鉄道は国鉄の新型気動車に対抗するにはこの頃から各地の国鉄や私鉄に登場し始めた軽量車体に高性能の電車を投入するしかないと考えた。こうしてキハ55系とほぼ同時に生まれたのが軽量モノコック構造のスマートな車体と、カルダン駆動などの新技術で強力な下回りを組み合わせた高性能特急1700系であった。接客設備は5700系とほぼ変わらないが、座席は回転リクライニングシートとなって快適性はさらに向上、マルーンとベージュのツートンカラーの間に白い帯を一本入れたため「白帯車」と呼ばれた。
国鉄がキハ55系を投入するより半年早く営業運転を開始し、1700系は最高速度105km/hに上げたこともあって大幅にスピードアップし、遂に浅草〜東武日光間で2時間の壁を破る1時間59分運転を実現した。翌年にはトイレを洋式として外国人客に対応した増備車が登場、これによって浅草〜日光間無停車の特急を設定し、1時間55分運転として国鉄が誇る最新鋭気動車準急「日光」号より優位に立つことが出来た。
しかし、国鉄もこの状況を黙って見ているわけではなかった。
1959年(昭和34年)に電化の並は日光線にみ及び、日光線に電車準急が走ることになった。普通ならばここで湘南電車を運用するなどして対応するが、東武鉄道との対抗を考えるともうボックスシートの車両で対応するわけには行かなくなっていた。
その前年、国鉄は東京〜大阪間に初の電車特急「こだま」の運行を開始して一世を風靡していた。クリームと赤のツートンカラーと回転シートで室内は人々の憧れの的となり、さらに東京〜大阪間日帰り可能というダイヤで実用性も優れ、まさに当時の日本のスター列車だった。
そこで国鉄はこの「こだま」型電車に準じたデザインや設備の車両を日光線準急に投入する決断をする。二等車(現在のグリーン車)は「特別二等車」という準急の二等車でなく特急のみに連結されたフルリクライニングシートの豪華装備とし、普通車も回転式ロマンスシートとした。各車両にトイレが設置され、さらに売店設備も設置することにした。東武にはなかった冷房もつけたかったが、日本全国組織の国鉄としては特急でさえも「こだま」「あさかぜ」以外はほとんど冷房がついていない時代に準急を全車冷房車にすることは認めるわけに行かず、準備工事に留まった。
この車両は157系「日光型」と名付けられ、1959年9月の日光線電化開業と同時に上野〜日光間の準急「日光」と新宿〜日光間の季節準急「中禅寺」に運用され、上野〜日光間の所要時間は1時間50分であった。
東武鉄道は国鉄のこの動きに驚愕した。当時「こだま」と言えば特に鉄道が好きな人でなくても憧れる、まさに日本の大スターだったのである。それとハード・ソフト両面に於いてそっくりな電車が対抗路線に入るというのは、所要時間などの実用的な面だけでなく、車両のイメージなどの面でも勝ち目はない。東武鉄道の日光特急は窮地に立たされることになるのだ。
そこで東武鉄道はさらに豪華で高性能の特急車両の開発に迫られることとなった。列車の性能を上げて所要時間で勝つのも勿論、国鉄より豪華な設備を持たせ、なおかつ「こだま」よりもカッコよくて誰もが「乗りたい」と思う電車を造らねば東武鉄道から客が逃げてしまうと必死であった
スタイルは国鉄の「こだま」型で人気のボンネットスタイルとすることになった。ただし国鉄の真似では二番煎じと罵られ、似ていなくても流行デザインからほど遠くなってしまう。似て非なるデザインを考えるべく日夜研究が続いた。
性能的にも「こだま」型に匹敵するものを狙った。平坦線での最高速度は165km/hをとし、日光への急勾配を90km/h以上で登坂できる性能を持たせることとした。
車内設備も座席もシートピッチも国鉄の特別二等車並のものとしゆったりくつろげるものとした。国鉄では取り付けを断念した冷房が全車両に設置された。売店は拡大して軽食堂「ビュフェ」として本格的な飲食物をシートサービスもできる体制として供食サービスでも国鉄を上回ることとした。さらに編成中にはサロンルームを設けて、座席に座っているのに飽きたら気分転換が図れるようにした。サロンルームにはジュークボックスを備え、最新のヒット曲をBGMとして流せるようにした。
1960年(昭和35年)9月、この国鉄「日光」号に対抗すべく開発された電車は1720系という形式と「デラックスロマンスカー」という愛称が与えられて完成した。ボンネットスタイルは当時のアメリカ製自動車のようなデザインにライト類を収めたのは「こだま」と同じであったが、東武としてはこのケースを上下に拡大するなどのオリジナリティを出した独特のデザインであった。性能試験と乗務員や客室乗務員の訓練を急いで済ませ、この年の紅葉の季節に間に合うよう10月にはいるとすぐに営業運転に使われた。
1720系「デラックスロマンスカー」は大好評であった。国鉄の準急「日光」に流れかけた客を取り戻し、「日光へは東武のロマンスカーで」という文句を半ば常識にしたと言っていいだろう。特に夏場は冷房がついていることが有利となった。国鉄準急に冷房がなく有利に立つには必要と判断され、1700系にも冷房装置がつけられて東武特急は全車冷房つきとなった。
国鉄が準急「日光」を冷房化したのは1963年(昭和38年)、これはあくまでも157系で運転されていた東海道特急「ひびき」の夏期対策として冷房をつけたのであって準急「日光」の冷房化が目的ではなかった。この頃から国鉄は1720系という切り札を出した東武への対抗意欲が下がり始める。157系は当初アルバイトであった東京〜大阪間の不定期特急「ひびき」が東海道特急の輸送力不足で定期列車となったため、いつしかアルバイトの「ひびき」が本職となってしまう。特急とほぼ同じ設備を持っていたことによるもので、次第に日光方面の運用から数を減らし、いつしか準急「日光」1往復を除いた他の日光準急は普通の準急用車両に置き換えられた。
1964年(昭和39年)の東海道新幹線開業で特急「ひびき」は廃止され、157系は日光に戻ってくるかと思いきや、伊豆半島方面への急行列車に専用されることとなって逆に日光線筋から姿を消すことになった。日光線の準急は普通のボックスシートの準急のみとなったが高度経済成長の行楽ブームと裏腹に次第に数を減らし、国鉄時代末期までにほぼ全廃された。国鉄の日光観光輸送は東武鉄道の1720系「デラックスロマンスカー」に完全に敗北したのである。
東武鉄道はますます増える日光方面の特急旅客を捌くため毎年のように特急を増発し、その都度1720系を増備していった。最終的には7編成が製造されることとなる。1720系デラックスロマンスカーは、東京と箱根を結ぶ小田急電鉄3100系NSE車と並ぶ関東地方大手私鉄の名優となり、長きに渡って浅草と日光・鬼怒川を結んだ。
また昭和40年代後半には1700系の老朽化が問題となった。登場初期の酷使に加えて冷房改造など車体に無理がかかる改造も経ていたため老朽化の進行は極めて早かった。そこでこの1700系も車体だけ1720系と同じものに交換して1700系も「デラックスロマンスカー」の一員となった。後に台車も1720系と同じになったために1700系と1720系の見分けは殆どつかなくなった。東武鉄道に詳しい人でなければ同型式と思っただろう。
昭和時代も末期になると豪華を誇った1720系「デラックスロマンスカー」も老朽化と設備の陳腐化が目立つようになった。1720系に代わる新型特急車はかなり早期から構想はあり、東武鉄道としては納得のいくものを造るべく時間をかけて検討をしている段階であった。
しかし、旅客ニーズの変化や車内設備の陳腐化に対応するため1720系も更新が必要になってきたので時代に合わせた改造工事を行うこととなった。これは新特急車の登場が遠くないために最小限の工事が施されることとなり、1987年(昭和62年)から開始された。
工事の中心は車内で、座席の模様を変えたり、デッキ仕切の扉を変えたりしてイメージを変更。車内の化粧板も新品に取り替えて旧形式臭さをなるべく抜くようにした。
中でも一番大きいのはサロンルームの撤去であった。乗客の嗜好が「座席に座ったまま何でもしたい」というものに変わってきたため、サロンルームの利用率低下が問題になっていた。サロンルームの存廃や撤去後の利用法については議論が激しかったと言われるが、結局客室に改造することで落ち着く。サロンルームの内装を全部剥がし、ジュークボックスも撤去してここに従来の客室とは全く違うデザインの新しい客室を新設した。ただ予算を削減するため、客席とサロンルームの仕切は残されたため定員12名の小客室となった。実際にこの席を販売してみると好評で、グループ客がこの区画をまとめて指名買いするほどの人気となった。
その改造と並行して、1720系に変わる新型特急電車開発は進んでいた。何度も検討が重ねられ、時代が平成に変わる頃にはどんな車両が出てくるのか漏れ聞こえてくるようになってきた。
編成は6両編成というのは1720系と変わらないが、浅草側の1両は個室車として4人用個室を6部屋設置した特別車とする。4号車には車体全長の半分に及ぶ本格的なビュフェを設置する。下回りはそれまで通勤電車の分野で実績を上げていたVVVFインバータ制御を日本で始めて特急専用車に採用する。デザインは1720系のボンネットスタイルを継承するものの、他の鉄道の真似ではない流麗なボンネットスタイルにする。
1990年(平成2年)3月、この新型特急車は100系という形式名が与えられて完成した。車両愛称は一般から公募し、審査の結果「スペーシア」と名付けられた。この年の6月、100系は営業運転を開始。バブル真っ盛りの頃に生まれただけあって豪華な車内はたちまち人々を魅了し、すぐに東武鉄道の新しい顔として定着した。
100系の製造と共に1720系と1700系は活躍の場を失う、また1700系登場と同時に特急運用からはずれて臨時列車や団体列車で生きながらえてきた5700系もほぼ同時期に引退することが決まった。1991年(平成3年)に5700系が40年もの人生に終止符を打った。昭和20年代に登場した私鉄ロマンスカーが40年間にもわたってほぼ原形を保ち、最後まで優等運用についた例は他にはない。
そして同年8月、100系が必要本数揃ったことによって1720系「デラックスロマンスカー」も引退となる。こちらも登場から31年にわたって東武鉄道のフラッグシップトレインとしての座を明け渡すことがなかった。
100系「スペーシア」に統一された東武特急はこの後苦難の道を歩む。
ひとつは国鉄が分割民営されJRになったことで、JR東日本が沿線観光地として日光を重視したことである。JRは新宿〜日光間に特急「日光」を運転し、神奈川方面から観光用の快速電車を運転した。ただこれは思ったより人気が出ず、特急「日光」も数年で運転を取りやめたことから東武が苦労するのはこの理由でないだろう。
もうひとつが重要で、国内旅行事情の変化であろう。まずは日本人の多くが旅行に於いて海外旅行指向となり、国内旅行自体の人気が下がったこと。もうひとつが道路整備により日光・鬼怒川方面も自動車利用が増えたことである。さらに観光バスを活用した格安パックツアーも増え、鉄道自体のシェアが急激に下がった。
さらに副都心の台頭で東京の街自体が西へずれた。浅草にターミナルを持つ東武鉄道にとってこれが痛手だったと思われる。東武浅草駅は特に新宿や池袋からのアクセスが悪く、これらのターミナルに繋がる東京の北西部からの便が非常に悪い。現に中央線沿線や西武線沿線に住む者にとって「日光」「鬼怒川」という観光地は鉄道で行く場所ではないというのが現状であった。
東武鉄道としてはこの浅草というターミナル位置の悪さを何とかしない限り、日光輸送において先行きに不安を感じていたと思われる。
東武鉄道としては特急列車の停車駅を増やして中間駅利用者の日光・鬼怒川方面への旅行しやすいように配慮すると同時に、中間駅利用者が都心方面への用事があるときにも使いやすいようにして特急利用客低下の対応をとった。
JR東日本も沿線に日光という巨大観光地を抱えておきながら、そこへ殆ど客を送れていないというジレンマに悩んでいたと思われる。自社エリア内にある巨大観光地への観光客輸送市場になんとかして食い込みたいという営業上の悩みがあっただろう。JR日光線が宇都宮経由の遠回りとはいえ、東京側ターミナルの有利さがそれをカバーできるはずで、JR日光線に観光列車を走らせても実績が上がらないのは高度経済成長期に国鉄が積極的な誘致策を取らなかったのが理由と考えられる。
かつてはライバル同士であった東武鉄道と国鉄改めJR東日本、こうして両社の利害は一致することになる。
その答えは2006年(平成18年)3月のJRダイヤ改正であった。東武日光線とJR東北本線が交差する栗橋駅に渡り線が設けられ、ここを介してJRと東武鉄道が特急列車の相互直通運転を行うようになった。JRから国鉄時代に製造された485系が東武乗り入れ用にリニューアルされて東武日光線の線路に入り、東武からは100系「スペーシア」が東北本線〜山手貨物のルートで新宿に乗り入れた。かつてはライバル同士で壮絶な戦いを繰り広げた2社は、新たな敵から旅客を奪うために堅く手を組んで協力する事になったのだ。
これは鉄道による日光観光輸送の歴史を知る者がみれば、奇跡の直通運転である。
そして今日も、東武日光線を100系「スペーシア」だけでなくJR485系までもが日光や鬼怒川を目指して往来する。これからのこの路線の繁栄を願わずにいられない。
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