第25話「雪はいま、とけゆく」 |
名台詞 |
「今日も夕日がきれいだね。エミリー、夕日は何故美しいのか分かるかい? ありのままだからさ。そう、誰にも媚びないありのままの姿が一番美しいんだ。動物や植物もそうさ。精一杯生きている、その姿が人を感動させるんだ。エミリー、今は無理に書こうとしなくていい。それもありのままのエミリーなんだからね。だが、必ずひらめきはやってくる。僕は信じているよ。君はきっと書き出す、書かずにはいられなくなる。君のお父さんも、カーペンター先生も、そう思っているに違いない。」
(ジミー) |
名台詞度
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なんとか「自分」を取り戻したエミリーだったが、まだ彼女には「ひらめき」がやってきてなくて何も書けないままの状態が続いていた。日常を明るく穏やかに過ごせるようになったとは言え、それを悩んでいたのは事実だ。その思いを抱きながら黄昏の海辺にひとり座るエミリーの隣にジミーが腰掛ける。そしてエミリーにこう諭すのだ。
彼がエミリーの心を開くために使ったのは「自然の美しさ」だ。この台詞の前半は私はよく理解できる、高校時代の修学旅行で青函連絡船の船上から見た海峡に沈む雄大な夕日を見た時に私が思ったことそのままなのだ。自然が美しいのは何も包み隠さないから、そして特に夕日は何も包み隠さずに自分を優しく照らし出してくれる。こんな夕日を見ていると自分に素直になれる人が多いことだろう、ジミーはそれを知っているからこそ夕日の時間にエミリーを諭したに違いない。実は夕日がきれいに見えるのは、夕日に自分が美しく照らされているからであり、ジミーもこの夕日によって「エミリーに語らねばならないこと」を素直に告げねばならないと感じたのかも知れない。
そしてこの台詞の後半で告げているのは、前半を受けて「ありのままであることが美しい」とした上でエミリーの「ありのまま」とは何であるかという点だ。それはダグラスやカーペンターの教えに忠実に従い、夢に真っ直ぐ進むエミリーの姿であったはずだ。だけど上手く行かないときもあるから、その時は無理をすることはなく自然に呼吸していればいいということ。ここまでのエミリーはこの「自然に呼吸」が出来ていなかったからスランプに陥っていたと言うことは、いつも近くでエミリーを見ていたジミーだからこそ分かる論理だ。
これを聞いたエミリーは気が楽になる。気が楽になるととたんに「ひらめき」がやってくるのだ。そして彼女は真に自分と向き合うことを覚え、今度はセンチメンタルでもロマンチックでもない「自分にとって素直」な作品を描くことになる。彼女が描いたのはおとぎ話のような物語ではなく、ニュームーンを舞台にした愛する人たちによる物語だ。
エミリーがスランプから脱するきっかけとなった直接の台詞は誰がどう見てもこれだろう。こんなおいしい役割を組長先生ジミーが持って行くとは…このシーンに来るまで、今回の名台詞はエリザベスの独り言(名場面欄)だと思っていたのになぁ。 |
名場面 |
エリザベスの思い。 |
名場面度
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高熱に浮かされて気分が高揚してしまったのだろう、エミリーの苦しみが爆発して今までのボツの山(小説原稿)を暖炉に放り投げて燃やす。そして自分はここで平凡な一生を生きるのだと論じるエミリーを、エリザベスが遂に殴る。するとエミリーはそのまま高熱のために倒れる。
その夜、エリザベスは寝ないでエミリーの看病をしていた。エリザベスはエミリーを殴ったことを後悔し、部屋にあったダグラスとジュリエットの写真を見て涙を流す。そして写真に向かって、エミリーを殴ったことを悔やみ、その理由として誇りを失ったエミリーを見ているのが辛かったとし、エミリーがジュリエットによく似ているとし、その上で夢に向かって真っ直ぐに走っていたエミリーが眩しく羨ましかったと語るのだ。さらに我が儘を押し殺して厳しく生きるしかなかった自分の人生を振り返りエミリーには夢を諦めて欲しくなかったとし、殴ったことを天国の二人に詫びる独り言を吐く。
この独り言の途中で目をさましていたエミリーがエリザベスに声を掛ける。エリザベスが慌てて涙をぬぐって振り返り、エミリーに「まだ眠ってなければ」と半泣きの声で語る。エミリーは「ごめんなさい」と小さく言うが、エリザベスは「謝らなければならないのは私の方」としてエミリーに許しを請う。エミリーが頷くとエリザベスは「もう少し眠りなさい」と言って立ち上がる、そして部屋からの出際にいつもの口調に戻って「明日の朝はちゃんと起きて朝食の手伝いをしなさい」と命ずる。エミリーが驚いて返事をすると、エリザベスは笑顔で振り返って頷いてから部屋を出て行く。
ついにスランプから脱せずに錯乱してしまったエミリーと、それを見たエリザベスの両者がキレるのだが、これが良い方向に向かったことを示唆するシーンであっただろう。何もかもが良い方向に見る事が出来ず、周囲の愛する人たちへの気遣いまで出来なくなってしまったエミリーは、ここでエリザベスの「愛」を再認識する。エリザベスが義務や責任だけでエミリーを育ててきたわけではなく、エミリーを「血が繋がった姪」として愛情を注いでいた事実だ。そして普段はそういう素振りを見せないエリザベスも、この双方がキレた際に思わずエミリーを殴ってしまい、これに対する後悔の念が沸き上がってくることでエミリーへの愛情を素直に表現する事が出来たのだ。
両者が互いに互いを「必要な人物」として認識し、相手を傷つけてしまったことを後悔する。そして二人は前進するのだ、これは今話のラストでジミーが訴えることになる(名台詞欄参照)「ありのままの姿」という点に通じる。実はエリザベスはスランプに陥っていたエミリーから逃げていた、エミリーがどんなに辛い状況を見せても無関心を装っていたのだ。それは見ているのが辛かったからに他ならないのだが、その態度はエリザベスの言葉尻にとげとなって現れ、結果エミリーとの距離を引き離してしまうことになった。一方のエミリーはカーペンターの死をきっかけに特に自分の殻に閉じこもるようになり、そこで上記の状態のエリザベスから辛辣な言葉をかけられたのだから「何を信じて良いのか」が分からなくなってしまった。だがこの出来事を通じて互いに互いの心境を理解し、相互に必要だと認め合うことになったのだ。
これはエミリーが自分の殻から脱するきっかけとなる。エミリーはどんなに辛いときもエリザベスが自分を見ているという事を知ったのだ。それはこれまでの無気力から脱し、もとの明るいエミリーに戻って行くことなる。だがまだエミリーは本調子にならない、エミリーが完全に自分を取り戻してスランプから脱するのは名台詞欄シーンを経てからになるのだ。 |
感想 |
暗い。もう暗い。でもいつまでも前話のように暗い展開を続けていたら、次回で最終回にするのは無理な訳で、そろそろエミリーがスランプから脱してくれないことには物語が転がらなくなる。でサブタイトルを見ればここがエミリーが自分を取り戻す転換点の話となるのは想像できる。
でもエミリーの夢の中で、子供のエミリーが巨大化してエミリーに襲いかかるシーンは怖かったぞ。その時だけエミリーの顔が初期の「濃い顔」に変わっているし…あの濃い顔が蒼白になって画面一杯に出てくるのだから怖い。それはともかく、カーペンターの死とテディの婚約を引きずって完全に心を閉ざしてしまったエミリーの迫力はある意味凄かった。ここまで絶望を演じてくれるとは。
そしてその絶望からどう立ち直るのか…やはりここはエリザベスしかいないわけで、そのエリザベスが20話でエミリーに心を開いて以降のエリザベスではなく、最初の頃のエリザベスに戻っているのは正直戸惑った。だけどなんでそんな変化をしていたかは名場面欄シーンを見れば分かるという難しい作りだ。両者がキレて傷つけ合って和解…なんか同じ展開を20話で見た記憶があるが、エリザベスがエミリーをあんな勢いで張り倒すとは思わなかったなぁ。
後はエリザベスとエミリーの間にいつもの和解劇があり、それで終わるとみせかけておいてジミーが強烈な一言を放つという意表を突いた展開。なんか今回は内容が盛りだくさんで見ていて疲れた。ローダが久々に出ていたが、この感想文をここまで書くまで思い出せなかった。
で、次は最終回。どう終わるのか楽しみのような不安のような…次回はオールキャスト揃いそうだ。 |