前ページ「あにめの記憶」トップへ次ページ

第21話 「それぞれの夢」
名台詞 「それを口答えと言うんだよ。若い者は年寄りをバカだと思うし、年寄りは若者がバカなのを知っているのさ。もっとも、私は自分を年寄りだと思ってないけどね。エムリー。」
(ルース)
名台詞度
 第一話でこのおばはんを最初に見た時、間違いなくこのおばはんは名台詞欄に出てくるようなキャラになるとは思っていなかったのだが…脇役で終わると思っていたおばはんが、主人公の留学先での保護者として物語の前面に出てくるとは思わなかった。
 下宿先であるルース宅に来たエミリーは、窓を開けて夕暮れの風に当たる。ところがそれを見たルースは病弱な子供がそんなことをしてはいけないと窘める、これにエミリーが自分は病弱でも子供でもないと言い返すと、ルースはこう返答したのだ。
 エミリーが子供かどうかはともかく病弱でないのは正解なのだが、ルースは「エミリーは痩せていて顔色が悪い」という理由で病弱だと決めつけているという前提を考慮すれば、エミリーの行為は「口答え」に相当するのは当然だ。だがその「口答えするな」という部分に付け加えた後半部分の論理は、ルースがいかに世の中をしっかり見ているかという点が解るだろう。いつの時代も若者から見れば年寄りは口うるさい存在で、年寄りは「近頃の若者は…」が口癖で若者を認めないものなのだ。もちろん全部がそうだとは言わないが、そういう流れがあるのはどんな時代も変わらない。ルースも若いときは年寄りを理解できず、この歳になって若い者が理解できなくなったからこんな事を言うのだ。
 そしてこの台詞の最終部分に反して、ルースは立派な年寄りだと言うことが分析できよう。なぜなら彼女はエミリーという若い者の考えていることが理解できず、それで無自覚のまま見下しているからだ。だからこそエミリーは自分の言う通りに支配されるべきだと考えるし、見下しているからこそ名前も正しく覚えない。ルースもそんな年寄りなのがこの台詞から見えてくるだろう。
 しかしルースが「エムリー」と呼ぶ度に、エミリーが「エミリーです」と答えるのはおやくそくになってきたな。なんか「クレヨンしんちゃん」の「組長先生」「園長です」を思い出す。そういえばその組長先生、今回は出てこなかったなぁ。
名場面 野宿 名場面度
 エミリーとイルゼは新聞社の営業のバイトで遠くまで来てしまい、さらに道に迷い家に帰れる時間で無くなったので干し草の上で野宿をすることになった。
 夜、その干し草の上で二人は語り合うシーンがとても印象深かった。ここでイルゼがエミリーの詩を朗読して子供達に喜ばれて事で自分は朗読家を目指すと決意するのだが、このシーンにはそれだけでない要素が沢山詰まっていて説明するのが難しい。最後にナレーターがこの夜の二人の会話はエミリーの一生の思い出になったと語るが、それを聞いて頷けるシーンになっている。
 自然の風、そして点に瞬く星空は人を素直にさせる。このときの二人は親友同士として素直に自分の考えや思いを語ったのであろう。こういう経験が仲の良い二人の絆を強固にするのは言うまでもなく、このシーンではその要素を二人が演じ切ったと見るべきだろう。こういう思い出のひとつやふたつがあるという人は、いい友に恵まれているということだ。
感想  物語は今回からシュルーズベリー編とも言うべき新展開に入る。登場人物はこの町に来ただけで唐突に成長したようで、いつもの4人は全話と比較して背が伸びているようだ。イルゼなんか顔まで変わっていて、これまでの「しつこいお顔」が嘘みたいになっている。「しつこいお顔」と言えば最初の頃のエミリーもそうだったが、物語が進むにつれ徐々に「しつこさ」が抜けてきていた。これは気のせいではなくオープニングに出てくるエミリーと比較すればわかることだし、何よりも1話のエミリーと比較してもそう感じるのだ。んで顔から「しつこさ」が無くなったエミリーは、「おでこが広い」という共通点のせいか「小公女セーラ」のセーラにどことなく似てるし。
 物語はきれいな「起転承結(起承転結じゃないよ)」を描いた、まずはシュルーズベリーに来たエミリーにルースが厳しい態度で当たり、続けて全くそれに呼応せずに学園生活という展開に切り替わる。学園生活を受けて新聞販売の営業というバイトの話へ流れ、それで道に迷うことをきっかけにルースの厳しさを利用してエミリーが野宿を決意、そして名場面シーンがオチになって終わり。という展開だ。実は野宿を決意する際の「敗北を認めましょう」というエミリーの台詞も好きだが、印象度ではルースの台詞の方が上なので名台詞欄はこっちにした。
 その中で漠然と「自分らしければいい」という方針しか持っていなかったイルゼが、エミリーに能力を引き出されて自分の目指すものを見つけるという展開。このイルゼの将来というテーマにおいてイルゼを主人公にせず、エミリーを主役としたまま進めたのは良かったと考える。もしこの展開までイルゼ主導で進めてしまったら、この物語は誰が主役なのか分からなくなってくるところだった。イルゼというキャラに色々な面があり、使いやすいのは解るけどこれ以上主役を取るような話はやめないとダメだろう。ただでさえエミリー以上に印象に残るキャラなのに…。

第22話 「雪の中の告白」
名台詞 「まぁ私の場合、9人には誘われても、肝心の10人目にはきっと誘ってもらえないんだ。」
(イルゼ)
名台詞度
 ある日の教室にて、エミリーとイルゼは近日実施予定のダンスパーティについて語り合う。イルゼはエミリーが100人の男子に誘われるとするが、エミリーは「この学校に男の子は100人もいない、10人がいいとこ」と答える。それに対してイルゼは急に俯いて、小さな声でこう言う。
 この台詞でここまで明確にはしてこなかったが、あらゆるシーンでその存在が示唆された「イルゼの意中の人」の存在が確定する。そしてこの台詞の内容をよく見れば、その相手はイルゼの方を見ていなくて他の女の子ばかりに気を取られているという事も瞬時に理解できるだろう。物語をしっかり見てきた人はここで「やっぱりね」と思うことだろう…そう、イルゼの「意中の人」がペリーであると明確に示唆された瞬間がこの台詞なのだ。
 もちろんペリーはエミリーに夢中でイルゼの方なんか全然見てない。エミリーとの結婚目指して驀進し、エミリーの相応しい男になるために猛勉強して学年でトップの成績を誇るまでになったペリーを見ていられないというイルゼの気持ちがよく出ていると思うのだ。こんな状況だからダンスパーティになってもペリーがイルゼに声を掛けることはないだろうことは明白で、だからこそイルゼの「気が進まない」気持ちがよく表れているのだ。
 この台詞は今回の展開全てを示唆しているともいえる。サブタイトルを見せられた後にこの台詞を聞けば、今回でこの複雑な恋愛関係にひとまずケリが着くことは容易に想像できるだろう。ペリーがエミリーにフラれ、イルゼがペリーに告白し、その二人の結果に関わらずエミリーとテディがうまく収まるという展開だ。前回見せられた次回予告ではあたかも雪の中で告白するのがエミリーであるかのように描かれていたが、実はそこで告白するのはイルゼの方だと解る瞬間でもあるのだ。
 ちなみにこの台詞にエミリーは「好きな人がいるの?」と反応する。もちろんそういう事を素直に示さないキャラであるイルゼは、それ相応の対応でここを切り抜けるのだ。
名場面 雪の中の告白 名場面度
 シュルーズベリーからニュームーンへの帰り道、いつもの4人を猛吹雪が襲い一行は完全に足止めを食らう。やむなく近くの廃屋に避難した4人だが、ペリーはエミリーにフラれた直後で刺々しい態度を取り、イルゼはそんなペリーの態度が気に入らず、状況を理解していないテディと原因の一端が自分にあることを知っているエミリーは明るく振る舞うが、やはり4人が避難した廃屋の空気が凍り付く。そんな中でエミリーとテディが見つめ合って笑い合い、「私テディが好きなの? こんなにドキドキするなんて…」とエミリーの心の中の声に多くの視聴者が「何を今更!」と反応したことだろう。そんなエミリーを呆けた顔で見つめるペリーに我慢が出来なくなり、ついにイルゼの叫び声が上がる。イルゼはいつものユーモアを交えながらも、徹底的にペリーがエミリーにフラれたことを「いい気味だ」と笑い、それにいつまでも縛られているペリーを批判する。もちろんペリーも黙っていられず、「黙れ!」と叫びながらイルゼの手を掴んで反撃する。「あんたなんか、あんたなんか…」と続けようとするイルゼの目からはいつしか涙が溢れてくる。そしてイルゼがペリーの前で腰を落とす、驚きの表情でこれを見守るエミリーとテディ。「私ずっと…ずっと…ペリーが…ペリーのことが、好きだったんだよ!」とイルゼが言い切ると、ペリーはイルゼの前で立ち尽くす。
 そう、前回流された予告編で示唆された内容と裏腹に、この場で「告白」をするのはイルゼだった。イルゼはペリーがエミリーの方ばかり向いているのを、ずっとそばで見てきたという事実がここでわかるのだ。もちろんこの二人はことあるごとに名コンビ的な活躍をしており、視聴者の多くが「イルゼとペリーはお似合いだ」と感じていたことだろう。そうでなくても二人で名コンビ的な活躍をしているときのイルゼの嬉しそうな表情をみていれば、こういう展開になるのは誰もが予想できたはずだ。この答えがこのシーンで出てきたのである。
 ペリーの気持ちもうまく表れている。ペリーはここまでエミリー一本だったわけで、イルゼという少女の「良さ」には気付くことが出来なかった。それ以上にいつも一緒にいたイルゼの気持ちに気付くことも出来なかった。ところがその一筋だったエミリーにフラれて間もないときに、自分をずっと見ていた女の子の存在を知り戸惑うばかりであったのが正直なところだろう。簡単にペリーが心変わりして終わるのでなく、この戸惑いを表現してこの告白の結果を先へ持って行ったのは好ましい展開だと思う。
 そしてこんなに仲の良い4人組なのに、イルゼの気持ちをエミリーもテディも知らなかったというのはイルゼという少女のキャラクター性を示しているものだろう。こんな大事な思いを誰にも言わず、心に秘めて「そんなのとは無関係」を演じるのがイルゼってもんだ。でもエミリーなら名台詞シーンで気付いていても良いはずだけど。
 今話のサブタイトルになっているシーンではあるが、今話の展開の主軸でないのがややこしい。実はこのシーン、今話のもうひとつの展開と、今話のオチへ向けての伏線提供でしかない。オチはこの告白の結果と言うことになるのだが、もうひとつの展開がここに隠れていたなんて想像できなかったなぁ。
感想  だからテケミしろって、あの状況はどう見てもテケミだろうが…ってこれは「ポリアンナ物語」や「赤毛のアン」の時に言ったっけ。「風の少女エミリー」で当サイトに初めて来た人のために説明するが、「テケミ」とは「テンコウ(天候)」の「テ」、「ケイカイ(警戒)」の「ケ」、「ミアワセ(運行見合わせ)」の「ミ」で「テケミ」。詳しくはこちら(長文注意)を参照のこと。
 とはいうもののテケミしていたら物語が全く成立しないし、エミリーにフラれてお先真っ暗だったペリーが可哀想なので彼らの無謀はやむを得ないだろう。それよりも今回のサブタイトルを見て、これがテディとエミリーの話だったらハッキリ言って白けると感じた。だってこの二人についてはもうどう見ても相思相愛で間違いないから、今更告白だのなんだので1話かける必要もないのだ。それより今回「けりが付く」と思って期待していたのは、ペリーのエミリーに対する片思いと、イルゼについてだ。ペリーが一方的にエミリーに婚約宣言しているのは何度も描かれているし、イルゼがペリーと一緒に行動すると嬉しそうなのは何度も描かれている。みんな年頃であることを考えると、そろそろこの4人の中の複雑な恋愛感情をまとめる必要があったのは否めないだろう。
 そしてイルゼのペリーへの思いを明確化(名台詞シーン)したところで、まずはペリーがエミリーに真剣に告白する。この告白に「またそれぇ?」と反応するエミリーは面白かったよ。その上で名場面シーンへ持って行って、サブタイトルの展開をエミリーが演じるのでなくイルゼが演じることになるというのは視聴者を驚かせる点で面白かった。
 さらに今回の副展開としてもうひとつの物語が用意されていたのは驚きだ。それはエミリーとイブリンの対決で、エミリーがシュルーズベリーに来てから何かと突っかかってきていた彼女と唐突に対決するのだ。ローダとは一対一の対決という構図にならず、ローダがエミリーの、エミリーがローダのプライドを完全にへし折ったことで二人を完全決裂させただけだった。だからイブリンとは明確な一対一の対決を描いてきたのは正直言って驚きだった。最終的にエミリーがイブリンの「弱み」握って一方的勝利という単純な構図には見えるが、その過程でイブリンが悪役として活躍しエミリーら4人が停学処分されるというピンチが描かれ、ルースがこのピンチを脱するための助け船を出すという展開を含んでいたのは感心した。エミリーがイブリンに一人で勝ったのではなく、ルースの力があったからこそという展開にしたのはリアルで良い。まさかルースがここまで好印象のキャラになるとは、これが一番驚いた。
 こう複数の展開があるから、今回は名場面も名台詞も選ぶのに苦労したし、選び出したらそれぞれ長文になった。

第23話「はなれてゆく心」
名台詞 「嘘だ、そうじゃないのはお前が一番よく知っているだろ? しっかりしろ、テディ・ケント。お前、本当にそれでいいのかよ? お前のエミリーへの想いはそんなもんだったのか?」
(ペリー)
名台詞度
 いよいよペリーが絵画の勉強のためにパリへ旅立つ。だがその見送りの駅にエミリーの姿はない。それにも関わらず何もせず旅立とうとするテディの姿に、ペリーは居ても立ってもいられずについに「このままエミリーに会わずに行ってしまうのか?」とテディを問い詰める。テディは小さな声で「僕は夢と引き替えにエミリーを捨てた」と呟くが、これに負けずにペリーがテディに問い直す台詞がこれだ。
 そう、テディがエミリーを捨てたというのは嘘だ。厳密にはエミリーが勝手に「捨てられた」と感じているだけなのだから…だがそんな現実と無関係にペリーはテディの気持ちを知っている。それは全話まで、劇中時間では半年ほど前までエミリーに夢中で一途に思い続けたペリーだからこそわかることなのだ。その上フラれたという立場だから今のテディが見てられないのだろうし、エミリーを思うからこそ自分は身を引いてエミリーとテディが結ばれるのを願っているわけだ。だからテディの態度にかなり苛立っていることは間違いないし、テディの本心を引っ張り出さねばならないという焦りがあったのだろう。このペリーの気持ちがよく出ている台詞だ。
 一方のテディは「責任」を感じているわけだ。一方的に告白してエミリーをその気にさせておきながら、結局エミリーを置き去りにせざるを得なくなったことでエミリーを傷つけてしまった責任だ。だから彼はエミリーに「自分は捨てられた」と思われることを受け止めたのだし、この場にエミリーが来なくて自分の気持ちを伝えられない事実も自業自得と感じているのである。彼は自分がエミリーを傷つけてしまったからこそ自分からは何をする資格もないと感じてしまっているのだ。本当は頭の中はエミリーのことで一杯のはずなのに。
名場面 走るエミリー 名場面度
 一方のエミリーはテディが旅立つその時、部屋で一人で泣いていた。イルゼの説得にも「テディには自分は必要ない」として応じず、涙を流すことしか出来なかった。だがイルゼが去るとエミリーは立ち上がる、今ならまだ間に合うかも知れないと部屋を飛び出す。だがそこにいたのはエミリーと将来について話し合うつもりでやってきたエリザベスだった。エリザベスはエミリーがテディの見送りに行ったものと思っていたが、ルースから行かないと告げられたことを聞く。するとエリザベスはエミリーに「あなたは何を恐れているの? 自分の本当の気持ち?」と問う。この問いにハッとしたエミリーは、答えも告げずに外に飛び出す。
 そしてエミリーは走る。駅へ向かって走るが、途中で駅からテディを乗せた列車が出て行くのを見たことで最も近い線路際へと走る。なんとか列車に追い付くが、エミリーがどんなに声を上げてもテディがそれに気付くことはなかった…。
 名台詞欄で語った通り、エミリーはテディに捨てられたと感じていた。でも本当はそう装っていただけで、エミリーはテディと離ればなれになることが認められなかったのだ。テディが夢を叶えるためにパリへ出て勉強できるという事実はエミリーにとっても嬉しいことだったが、それは一定期間テディと離れて過ごさねばならないという自分にとって身を割かれるような事実と、自分だけが皆が叶えつつある夢に一歩も近付いていないという試練を受け止めねばならないことに他ならない。だからエミリーは無意識のうちに自分の気持ちを封印した、テディが好きだという事実も。
 その封印の決意はイルゼの説得で揺らぐが、エリザベスの姿を見たことで半ば投げやりに「どうにでもなれ」という気持ちになったことで戻ってしまう。だがここてエリザベスの一言だ、エリザベスの一言がエミリーを素直にさせた。最後にひと目テディの顔を見なきゃならない、そして先日の告白の返事をしなければならない、その上でいつまでも待っていることを伝えねばならない…そんな自分の思いにやっと気付いたのだ。もちろんその思いを認める事は前述のマイナスを認める事になるが、そんな事は言ってられないという事にもやっと気付いたのだ。
 だが既に時は遅かったというオチにしたのは現実味があっていい。エミリーの必死の走りは迫力があって秀逸ではあるが、これで簡単に列車に追い付いて二人の真実を語り合えばそれこそ「おやくそく」ってもんだし、そういうオチにするならエミリーがちゃんと見送りに来た方がうまく話がまとまる。だがサブタイトルを見れば解るように、ここでは二人は喧嘩別れしないと盛り上がらないところであり、この最悪の状況から二人がどう結ばれるのかを見るのもまた楽しみになってくるところであるのだ。
感想  みんな若いねぇ。なんだかおじさん、画面の中にいるみんなが羨ましくなっちゃったよ…。
 この歳になるとエミリーはまだ若いんだから、テディが帰ってくるのを待ってれば良いというのが最適解であることはすぐわかる。でも若いとそれに気付かないんだ、それだけでなくてエミリーはテディと違って現段階では「夢を掴みそこねている」段階であり、テディが遠くへ行ってしまうという物理的距離だけではなく、テディだけが夢に近付いているという心理的距離の方を強く感じているわけだ。だから「すべてが認められない症候群」にエミリーが陥ってしまうのも理解できる。若いんだから、エミリーはまだまだこれからなんだ、時間はいくらでもあるんだと言うことはエミリーは若いからこそ理解できないだろう。
 もっとも、今回エミリーとテディの仲がこじれた原因はテディが告白を急いだこともあるだろう。テディの気持ちも分からなくはない、エミリーにフラれつつもすぐにイルゼに告白され、エミリーにフラれたという事実から立ち直ってイルゼの良いところを見つけて付き合っているペリーを見ていたらそりゃ焦る。でも本来、テディは告白のタイミングを絵画コンクールの結果が出てからにすべきだったのだ。コンクールの結果が出ていないのにそれに落選して、一緒に郷に帰れるのが前提の告白をしてエミリーをその気にさせるべきではなかったのだ。これは駅でのシーンでテディが痛感していたことだろう、だからこそ彼は駅でのシーンでは責任を感じて暗かった訳だが…。
 こうして傷ついたエミリーがどう立ち直るのか楽しみだが、でもなんか次回予告見ているとその傷に触れないまま次の展開に行くみたいで怖い。

第24話「残されたもの」
名台詞 「君は言ったはずだ、諦めない、書かずにはいられないときがあると。…ひらめきがやって来ない、か。君はまだ気付いてないのかね? ひらめきはやってなど来ないと言うことに。ひらめきは君自身の中にある。自分の内面を見つめろ、君は光そのものなんだよ、エミリー・バードスター。」
(カーペンター)
名台詞度
 この台詞が出てくるシーンに付いては名場面欄を参照して戴くとして、ここではこの台詞そのものについて考察したい。この台詞こそカーペンターがエミリーに覇気がない本当の理由を理解していない証拠になるのだ。
 カーペンターは昔語った台詞をそのままエミリーに告げる事で、何とかエミリーに過去の輝いていた自分を思い出して貰おうとする。だがエミリーは答えに詰まるばかりで明確な反応がない。そこでこの台詞になったわけだが、カーペンターは過去のエミリーの気持ちにしがみつくばかりで未来を語れていないのだ。だが本来「ひらめき」などというものは外から来る物ではなく、自分の内から出てくる物だという部分はとってもいい台詞だ。自分に正直に向き合うからこそ、詩にしろ文章にしろこれからの行動にしろ「ひらめき」として生まれるのである。つまりこの段階でエミリーは自分と素直に向き合うことを見失ったとカーペンターは理解し、もう一度エミリーの内に秘めたる物を引き出そうとこの台詞を吐いたのだが。
 だがエミリーの絶望はこの台詞程度ではどうにもならなかった。手の届かないところへ行ってしまった好きな人への思い、その人に捨てられた傷、なによりもうまく書けない自分の小説。その原因が全て一点にあることも理解できず、もがいてもどうにもならない自分から逃げてしまい、自分の中にある「光」にすら気付かないのだ。この台詞はそんなエミリーの傷や絶望の深さを浮き彫りにし、さらに物語を陰鬱にする効果があるのだ。
名場面 個人授業 名場面度
 カーペンターが病に倒れ、その看病をするエミリー。カーペンターはエミリーを連れ出して「久々に授業をしたい」とする。カーペンターはエミリーからかつての輝きが消えていることに気付き、それを何とかしようとしたと考えられる。エミリーとの会話でエミリーが現実を怖がっている事に気付いたのだ。
 外に出たカーペンターがエミリーに言った言葉はかつて少女時代のエミリーが書いたノートを酷評した言葉「400行のうちまともなのは10行だけ」というものであった。そしてあの日と同じように「書くのを諦めるかね?」と問う。エミリーは何かを告げようとするが答えに詰まる、そこでカーペンターが名台詞の台詞を吐くが、これを聞いたエミリーは震えるだけで具体的な返答が出来ない。
 「個人授業」と聞くとその前に「愛の」と付けたくなってしまうというギャグは置いておいて、このシーンからは過去のエミリー(10話名場面欄)と現在のエミリーを対比させる意味合いがあるだろう。あの時のエミリーは何よりも常に前を見ていた、自分が作家になりたいという夢を真っ直ぐ見据えて歩き出そうとしていた。ところが今のエミリーにはそんな前向きなところはひとつもない、現実に怯え前進することを忘れているのだ。それを思い出させるためにカーペンターはエミリーと一緒に過去に戻ろうとしたのだろう、だがエミリーは過去に戻ることは出来なかった。
 このシーンを通じてこの段階のエミリーの傷がどれほど深いかわかる、立ち直るのに非常な困難を伴う傷がエミリーに見えるのだ。だが物語はさらに過酷な試練をエミリーに与える、思い人であるテディに婚約者が出来たと聞かされ、そして現段階で自分を前へ引っ張ろうとする唯一の人物であるカーペンターを失うことになるのだ。これはエミリーにとって「とどめ」の一撃となったことだろう。
感想  なんなんだ、今回の物語の「暗さ」は。前話の後半も暗かったけど、今回はそれとは違う「救いようのない暗さ」が滲み出ている。やはり物語がここまで暗くなったのは、エミリーから覇気というものが消えてしまった意外に原因は考えられないだろう。テディという最愛の男性を失い、書いた小説は誰にも認めてもらえず、彼女の人生は完全に行き詰まってしまった。もちろんエリザベスも組長もメーテルもそれが気になって仕方が無いのだが、3人とも手を出しあぐねているという状況も手に取るように解る。つまりこの段階ではエミリーに真正面から立ち向かえる人間がいないのであり、ここで思い出したかのように出てきたカーペンターがエミリーの道を開こうと努力するが、その途中で生命を落とすというとんでもない構図にしたことで、さらに物語が陰鬱になった。
 エミリーは前話での負った心の傷は癒えておらず、今回の展開にはその状況も上手く使って来たというところで安心した。もちろんエミリーが良い小説を書けないのは、心の傷が癒えていないこととその傷を乗り越えようとする気力がないからである。こんな状況の人間に物書きだけでなく、何をやらせても上手く行かないのは明白だ。カーペンターもハッキリそう言ってやれば良いのだが、彼はテディがエミリーにとって特別な存在だったことを知らないんだろう。だからエミリーに覇気がないのは本人の志の問題だと思って中途半端な説教しかできなかったわけだ。今回はこんなすれ違いを描くのが趣旨であって、カーペンターの臨終などついでの事だというのはよくわかる。
 しっかしテディも酷いやっちゃなー。どう見ても真面目で真っ直ぐな男だと思っていたのに…ちょっとがっかりした。いくらカナダとパリは遠いとは言え、自分が絵画の世界で有名になったからと言って、あんなあっさりとエミリーを捨てるとは…いや、エミリーを捨てたと言うのが本気だったとは思わなかったぞ。ま、どう考えても最後にはこの二人が結ばれないことには物語は終われないと思うから、何かしらの逆転劇はあるのだろうけどパリで婚約者というのはちょっとな…これは何かの間違いというオチしか考えられない。てーかあと残り2話で本当に終われるのか不安になってきたぞ、話数を考えれば「世界名作劇場」シリーズのように大団円に1話を費やすわけにはいかないから、物語の結論は最終話の前半までに出るんだろうけど…。次回予告を見ていると次話もこの雰囲気で行くみたいなんで不安だ、ま次でエミリーはトンネルを抜け出す術を見つけると見ているんだけど。
 しっかし、前話からの時の流れを勘案するとエミリーは18〜19歳位になっているはずなんだが…、きっと小柄な女性なんだろう!


イラスト…「名作アニメファンサイト そよ風の丘」 ある名作ファン様からの頂き物

第25話「雪はいま、とけゆく」
名台詞 「今日も夕日がきれいだね。エミリー、夕日は何故美しいのか分かるかい? ありのままだからさ。そう、誰にも媚びないありのままの姿が一番美しいんだ。動物や植物もそうさ。精一杯生きている、その姿が人を感動させるんだ。エミリー、今は無理に書こうとしなくていい。それもありのままのエミリーなんだからね。だが、必ずひらめきはやってくる。僕は信じているよ。君はきっと書き出す、書かずにはいられなくなる。君のお父さんも、カーペンター先生も、そう思っているに違いない。」
(ジミー)
名台詞度
 なんとか「自分」を取り戻したエミリーだったが、まだ彼女には「ひらめき」がやってきてなくて何も書けないままの状態が続いていた。日常を明るく穏やかに過ごせるようになったとは言え、それを悩んでいたのは事実だ。その思いを抱きながら黄昏の海辺にひとり座るエミリーの隣にジミーが腰掛ける。そしてエミリーにこう諭すのだ。
 彼がエミリーの心を開くために使ったのは「自然の美しさ」だ。この台詞の前半は私はよく理解できる、高校時代の修学旅行で青函連絡船の船上から見た海峡に沈む雄大な夕日を見た時に私が思ったことそのままなのだ。自然が美しいのは何も包み隠さないから、そして特に夕日は何も包み隠さずに自分を優しく照らし出してくれる。こんな夕日を見ていると自分に素直になれる人が多いことだろう、ジミーはそれを知っているからこそ夕日の時間にエミリーを諭したに違いない。実は夕日がきれいに見えるのは、夕日に自分が美しく照らされているからであり、ジミーもこの夕日によって「エミリーに語らねばならないこと」を素直に告げねばならないと感じたのかも知れない。
 そしてこの台詞の後半で告げているのは、前半を受けて「ありのままであることが美しい」とした上でエミリーの「ありのまま」とは何であるかという点だ。それはダグラスやカーペンターの教えに忠実に従い、夢に真っ直ぐ進むエミリーの姿であったはずだ。だけど上手く行かないときもあるから、その時は無理をすることはなく自然に呼吸していればいいということ。ここまでのエミリーはこの「自然に呼吸」が出来ていなかったからスランプに陥っていたと言うことは、いつも近くでエミリーを見ていたジミーだからこそ分かる論理だ。
 これを聞いたエミリーは気が楽になる。気が楽になるととたんに「ひらめき」がやってくるのだ。そして彼女は真に自分と向き合うことを覚え、今度はセンチメンタルでもロマンチックでもない「自分にとって素直」な作品を描くことになる。彼女が描いたのはおとぎ話のような物語ではなく、ニュームーンを舞台にした愛する人たちによる物語だ。
 エミリーがスランプから脱するきっかけとなった直接の台詞は誰がどう見てもこれだろう。こんなおいしい役割を組長先生ジミーが持って行くとは…このシーンに来るまで、今回の名台詞はエリザベスの独り言(名場面欄)だと思っていたのになぁ。
名場面 エリザベスの思い 名場面度
 高熱に浮かされて気分が高揚してしまったのだろう、エミリーの苦しみが爆発して今までのボツの山(小説原稿)を暖炉に放り投げて燃やす。そして自分はここで平凡な一生を生きるのだと論じるエミリーを、エリザベスが遂に殴る。するとエミリーはそのまま高熱のために倒れる。
 その夜、エリザベスは寝ないでエミリーの看病をしていた。エリザベスはエミリーを殴ったことを後悔し、部屋にあったダグラスとジュリエットの写真を見て涙を流す。そして写真に向かって、エミリーを殴ったことを悔やみ、その理由として誇りを失ったエミリーを見ているのが辛かったとし、エミリーがジュリエットによく似ているとし、その上で夢に向かって真っ直ぐに走っていたエミリーが眩しく羨ましかったと語るのだ。さらに我が儘を押し殺して厳しく生きるしかなかった自分の人生を振り返りエミリーには夢を諦めて欲しくなかったとし、殴ったことを天国の二人に詫びる独り言を吐く。
 この独り言の途中で目をさましていたエミリーがエリザベスに声を掛ける。エリザベスが慌てて涙をぬぐって振り返り、エミリーに「まだ眠ってなければ」と半泣きの声で語る。エミリーは「ごめんなさい」と小さく言うが、エリザベスは「謝らなければならないのは私の方」としてエミリーに許しを請う。エミリーが頷くとエリザベスは「もう少し眠りなさい」と言って立ち上がる、そして部屋からの出際にいつもの口調に戻って「明日の朝はちゃんと起きて朝食の手伝いをしなさい」と命ずる。エミリーが驚いて返事をすると、エリザベスは笑顔で振り返って頷いてから部屋を出て行く。
 ついにスランプから脱せずに錯乱してしまったエミリーと、それを見たエリザベスの両者がキレるのだが、これが良い方向に向かったことを示唆するシーンであっただろう。何もかもが良い方向に見る事が出来ず、周囲の愛する人たちへの気遣いまで出来なくなってしまったエミリーは、ここでエリザベスの「愛」を再認識する。エリザベスが義務や責任だけでエミリーを育ててきたわけではなく、エミリーを「血が繋がった姪」として愛情を注いでいた事実だ。そして普段はそういう素振りを見せないエリザベスも、この双方がキレた際に思わずエミリーを殴ってしまい、これに対する後悔の念が沸き上がってくることでエミリーへの愛情を素直に表現する事が出来たのだ。
 両者が互いに互いを「必要な人物」として認識し、相手を傷つけてしまったことを後悔する。そして二人は前進するのだ、これは今話のラストでジミーが訴えることになる(名台詞欄参照)「ありのままの姿」という点に通じる。実はエリザベスはスランプに陥っていたエミリーから逃げていた、エミリーがどんなに辛い状況を見せても無関心を装っていたのだ。それは見ているのが辛かったからに他ならないのだが、その態度はエリザベスの言葉尻にとげとなって現れ、結果エミリーとの距離を引き離してしまうことになった。一方のエミリーはカーペンターの死をきっかけに特に自分の殻に閉じこもるようになり、そこで上記の状態のエリザベスから辛辣な言葉をかけられたのだから「何を信じて良いのか」が分からなくなってしまった。だがこの出来事を通じて互いに互いの心境を理解し、相互に必要だと認め合うことになったのだ。
 これはエミリーが自分の殻から脱するきっかけとなる。エミリーはどんなに辛いときもエリザベスが自分を見ているという事を知ったのだ。それはこれまでの無気力から脱し、もとの明るいエミリーに戻って行くことなる。だがまだエミリーは本調子にならない、エミリーが完全に自分を取り戻してスランプから脱するのは名台詞欄シーンを経てからになるのだ。
感想  暗い。もう暗い。でもいつまでも前話のように暗い展開を続けていたら、次回で最終回にするのは無理な訳で、そろそろエミリーがスランプから脱してくれないことには物語が転がらなくなる。でサブタイトルを見ればここがエミリーが自分を取り戻す転換点の話となるのは想像できる。
 でもエミリーの夢の中で、子供のエミリーが巨大化してエミリーに襲いかかるシーンは怖かったぞ。その時だけエミリーの顔が初期の「濃い顔」に変わっているし…あの濃い顔が蒼白になって画面一杯に出てくるのだから怖い。それはともかく、カーペンターの死とテディの婚約を引きずって完全に心を閉ざしてしまったエミリーの迫力はある意味凄かった。ここまで絶望を演じてくれるとは。
 そしてその絶望からどう立ち直るのか…やはりここはエリザベスしかいないわけで、そのエリザベスが20話でエミリーに心を開いて以降のエリザベスではなく、最初の頃のエリザベスに戻っているのは正直戸惑った。だけどなんでそんな変化をしていたかは名場面欄シーンを見れば分かるという難しい作りだ。両者がキレて傷つけ合って和解…なんか同じ展開を20話で見た記憶があるが、エリザベスがエミリーをあんな勢いで張り倒すとは思わなかったなぁ。
 後はエリザベスとエミリーの間にいつもの和解劇があり、それで終わるとみせかけておいてジミーが強烈な一言を放つという意表を突いた展開。なんか今回は内容が盛りだくさんで見ていて疲れた。ローダが久々に出ていたが、この感想文をここまで書くまで思い出せなかった。
 で、次は最終回。どう終わるのか楽しみのような不安のような…次回はオールキャスト揃いそうだ。

第26話「春のおとずれ」
名台詞 「エミリー…、私の…可愛い子…。」
(エリザベス)
名台詞度
 物語の大団円のひとつとして、最後の最後にエリザベスがエミリーへの愛情を素直に表現する。これまで引き取って育ててくれた礼を言うエミリーを、エリザベスは涙を流して泣きながら抱きしめ、こう言うのだ。この台詞にエミリーも泣いた、ルースも泣いた、メーテル(だからry)も泣いた、視聴者も泣いたことだろう。私が細かく説明したら感動が薄くなるのでやめる。
 これまで辛辣な台詞ばかりだったのが一転して、「泣き」の演技に。担当した藤田淑子さんの演技力にも拍手だ。さすがはマライヒ。
名場面 ラストシーン 名場面度
 名台詞シーンでエミリーとテディの挙式シーンが終わると、今までこの物語では聞いたことのない子供の台詞が聞こえる。それはエミリーに母のその後を話すエミリーの娘ルーシーの声だった。そしてエリザベス大伯母さんが大好きだと語るルーシーは、「風のおばさん」を見つける。すると画面は「風のおぱさん」視線になって、ラストシーンを演じた母子から遠ざかって行く。そのシーンは第1話冒頭の物語の始まりに出てきたのと同じ空撮シーンへと切り替わるのだ。そう、1話の最初のシーンに戻ってきて終わるのだ。最初のシーンではエミリーが一人でここを歩いていて、「風のおばさん」に挨拶して始まっていたのを覚えていただろうか?
 てっきりテディとの挙式で上手く締まったのでもう終わりかと思っていたら、さらに上手な「締め」のシーンを用意していたので驚いた。物語が最初の場所に戻ってくる、そこにはすっかり大人になったエミリーが娘を連れて歩いているという演出、猫は代替わりしたのだろうか? やはり同じ位置にいる。こうして物語に上手くオチをつけた事で、最初から見ていた人にはこのシーンがとても印象的に、しかも好印象で心に残ったことだろう。
 さらに「親」になったエミリーの顔がまともに出なかったのもポイントが高い(コマ送りにしてやと確認できる程度は出たが)、その表情が穏やかなのか怖いのかは視聴者の想像ってトコだろう。ルーシーはエミリーにソックリで、初期エミリーの「濃い顔」を引き継いでいる。ルーシーの話から、エリザベスが信じられないほど優しい人に変貌したのが示唆されているのもポイントだ。エミリーの娘を見て顔をとろけさせているエリザベスって、想像しただけで面白い。
感想  なんで最後の最後にポリアンナなんだ(笑)? ポリアンナはエミリーの娘だったのか…このサイトでさんざん比較したオチがこうなるとは。最後のシーンでエミリーの娘ルーシーが「よかった!」を連発しそうで怖かったぞ。やっぱ主題歌を歌っていた縁での出演だったのかな?
 忙しい最終回だった。前話の陰鬱モードからやっと脱しかかった段階から、一気に大団円に持ち込まねばならなかったので仕方が無かっただろう。多分今後総評に書くことになるが、これだけの物語を26話で終わらせるのにはちょっと無理があったかも知れない。その無理のしわ寄せが最終回に押しつけられたように感じる。やはりエミリーの小説が村で話題になって、ニューヨークの雑誌記者から売り出しのオファーが来るとこまでは前話で済ませて欲しかった。それが無理でもその展開を前半に入れて「エミリーが小説で成功する」という「物語の結論」とテディとの結婚やラストシーンと言った「物語のオチ」を明確に分割して欲しかったような気がする。特にイルゼとペリーはエミリーが住むニュームーンから離れた町にいるのだから、エミリーの手作りの小説をリアルタイムで読むのは不可能なはずで、二人がエミリーの小説の名声を知ってテディの帰国を示唆するシーンは後回しにした方が自然だと感じた。でも白けるような展開では無かったのでこれもよしというところか。
 最大の不満点は「テディが他の女性と婚約した」というこれまでの設定が瞬時に無かったことになってしまったこと。この噂でエミリーだけでなくエリザベスやジミーやメーテル(ry)も苦しんだのだから、こんなに簡単(エミリーが「婚約…?」と問うただけで返事無し)に流すのは不適当だっただろう。この噂を消去するために明確なシーンは必要なはずだ、例えばテディがエミリーの問いに「あれは何かの間違い」という趣旨の台詞を言うだけでよかったはずだ。なんかこれではやっぱ「テディはパリという好きな女性が見ていないところで女遊びしてそれが周囲にバレていた」という名作アニメであり得ない想像まで出来てしまう。テディがパリに行っていた間、確かにテディはエミリーのことばかりを想っていたという設定作りが無かったのはこの最終回の唯一の欠点であろう。でもエミリーとローダが仲直りしそうな流れがあって怖かったが、流石にそれをやったら思いっきり白けたぞ。
 なんか最後が大団円としてまとまったのはよかったけど、展開が忙しくて最終回という事を「次回予告」が入るはずのところにあったメッセージシーンのところまで忘れていた(そのメッセージシーンでエミリーが汽車に乗って去って行くという形で画面から消えるのもこれまたよかったが)。EPOの歌が終わったらそのまま次回予告に行きそうで…よ〜し、このままエミリーの娘の話にしちゃえ! 次回、「教会の小さな娘」お楽しみに!

前ページ「あにめの記憶」トップへ次ページ