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第11話 「名誉あるコンテスト」
名台詞 「トムおばさん…俺…俺…、一生懸命勉強するよ。いつかきっと、弁護士になって議会に出る。そして…そして…、エミリーと結婚する!」
(ペリー)
名台詞度
 最後、突然の一方的な婚約宣言にズッこけた。
 エミリーはテディと相思相愛なんだから…ま、頑張れよ。
名場面 一人きりのスピーチコンテスト 名場面度
 学校の生徒でもないのにスピーチコンテストへの出場を認められたペリーだったが、当日になって自分を引き取り育ててきたトムおばさんが病に倒れたことにより出られなくなってしまう。その悔しさを紛らすために、彼は岬に立って海に沈む夕日を相手に、コンテストで行うはずだったスピーチを熱演する。

 それでも僕は挫けない、この胸には希望が燃えているからだ。僕は勉強を続ける、エイブラハム・リンカーンのように。学ぶことの困難さは僕に勇気を与えてくれる。僕も誰かの勇気になろう。どんなに辛くても目の前に伸びた真っ白な白い道を、進んでいこう!

 これは物語をオチへ持って行くための要素でしかないが、ペリーがどれだけ真剣になっているかがよく見えてくる内容だ。実は人間というのは不思議なもので、ある目標に対してその道のりが困難でないと本気を入れられないものなのだ。これを逆説的に考えれば困難なほど燃えるという見方も出来る。ペリーが自分が「学ぶ」こと自体が困難な立場であり、さらに理解を示さない人に育てられているという状況も手伝って、この「学んで立派になる」という自分が進むべき道に気合いを入れられるのである。勉強もそうだし、恋愛だって困難な方が燃えるでしょ? ロミオとジュリエットを例に出すまでもなく、「困難」「逆境」は人を駆り立てる重要な要素、このシーンはそれをうまく伝えてくれた。
 それとは別に、この夕日のシーンがきれいなんだな。
感想  今回の主役はペリー、彼が主役を取るだけでなく、まずは彼のプライベートが分かるという重要なところから始まる。そう考えて見直してみると、ここまでのペリーはニュームーンで仕事をしているシーンしか無く、彼のプライベート、つまり家族構成や家などは出てこなかったのだ。夜遅いシーンでは出てこないことが多かったので、ニュームーンに住み込みではないという事は想像できていたが。それにペリーを雇っていたのは組長先生だったという事実も今回ハッキリする。
 その上でエミリーにより学校の仲間達の前に引っ張り出され掛かるが、ペリーの現実を前にこれが実現しないという展開をエミリーとイルゼの主導で進めた。前話で圧倒的な存在感を示したテディは、今回一転してチョイ役に成り下がっているし。そうやってテディの印象を弱くしたところで、ペリーのエミリーに対する告白(名台詞欄参照)はうまくできていると思った。いや、その瞬間に前回であれだけ新婚カップルみたいなシーンを展開したエミリーとテディの関係をここで急に思い出すからこそ、ペリーの告白にずっこけるしかないのである。前話のラストシーンはこの告白に対する伏線でもあったのか。
 それにしてもモテモテだなぁ>エミリー。主人公がモテモテなのはいいのだが、男子が二人しか出てこない(「その他大勢」は除く)この物語でこうもモテモテになってしまうと、イルゼの立場ってもんもあるだろーに。イルゼにも素敵な恋人役を。

第12話 「世界にひとつの詩」
名台詞 「僕が彫ったんだ。僕はこの場所に置きたかったんだよ、僕の心に残る世界でたったひとつの素晴らしい詩を、この場所に。」
(ジミー)
名台詞度
 やっと名台詞欄に組長先生が登場だ。新聞社に投稿した詩が採用されず落ち込むエミリーは、それを巡ってのある誤解からジミーと喧嘩となる(名場面欄)。だが都合良く出てきたテディから、新聞を最初に見たときのジミーの様子を知らされ、その上でエミリーが詩をひらめいた木の下へ行くと、その詩が木彫りになって飾られていたのだ。驚くエミリーにジミーはこう言う。
 ジミーの「素晴らしいものとの出会い」という気持ちが良く表れている。身内だからエミリーを可愛がっているという理由でこのような行為に出たのなら、何も木彫りにして残すまでのことは誰もしないのだ。つまりジミーはエミリーの詩を心から気に入り、それを何らかの形で残そうと考えたのは事実だ。だがそれに新聞に採用というニュースが付け加えられれば最高だったのは確かで、やはりジミーは詩が没になったことを悲しんでいるに違いない。
 だがエミリーから見ればこれは新聞に載る以上に嬉しいことだろう。自分の詩を認め、ハッキリとした形で残してくれる人がいるというのはとてもありがたいことだ。エミリー自身も前述した「身内だから可愛がっているだけならこんな木彫りに残す必要は無い」という事実に気付いていることだろう。だから自分の自信作を認めてくれた喜び、大事に残してくれる人がいるという喜び、これを感じてラストシーンの「幸せ」という言葉に繋がるのだ。新聞に載っても多くの人が一度見てポイなら、本当の喜びを感じないかも知れない。この台詞はエミリーにそんな幸せを教えた台詞として印象に残った。この台詞を受けたエミリーは、声にエコーを掛けてまでジミーに抱き付くのだが…いくら何でもありゃ飛びすぎだ、最終回のミーナのように自由落下の法則を完全に無視しとる(褒め言葉)。この台詞の後のシーンは、エミリーとジミーがそっと唇を重ねそうで怖かった。
名場面 エミリーとジミー 名場面度
 街でローダから「新聞にあんたの名前なんか載ってなかった」と知らされたエミリーは、失意の表情で家に帰る。そして納屋へ行ってジミーにこれを報告しようとするが、なかなか言葉が出てこない。エミリーの身体に付いた雪を優しい笑顔で払ってくれるジミーに対してやっと言葉が出掛かった瞬間、ぬこのソーシーサールが棚の上にあった箱をひっくり返す。するとその箱から出てきたのは、大量のその日の新聞であった。「こんなに沢山…」と声を上げるエミリー、「エミリー、これは…」と珍しく慌てるジミー、エミリーはジミーが詩が没になったことを知っていて黙っていたのは恥をかかせるためだと誤解する。その内容に従ってジミーを罵ったエミリーは、ジミーの言い訳も聞かずに泣きながら「ジミーさんなんか大っ嫌い!」と叫んで納屋を出て行く。立ち尽くすジミー、納屋に舞い込んでくる雪。
 「投稿した詩が没になる」という第一の暗転を乗り越えたと思ったら、そのまま第二の暗転を迎えたシーンだ。まさか物語の暗転が二重構造になっているとは初見の視聴者は想像しておらず、ジミーがうまくエミリーを慰めるという甘い展開を予想していたから、この予想外の事態に驚くことになる。
 ジミーは「エミリーの詩が没になった」という事実に、本人以上にショックを受けていたに違いない。だからこそエミリーに知られたくないという思いが先行し、下校してきたエミリーに「新聞は手に入らなかった」という初見の視聴者から見ても見え見えの嘘を吐き(勘が良ければこのシーンで詩が没になったと理解できるだろう)、さらに町の新聞を全部買い占めてエミリーの目には触れられないという行動を取ってしまったのだ。多分ジミーはここまですれば1日や2日でエミリーの耳に真実が入るとは思ってもみなかったし、そうなった場合にどう声を掛けるべきかという考えもなかったであろう。だからこそエミリーが先回りしてこの事実を知ったことに驚愕し、さらに自分が嘘を吐いたことを見破られたことでエミリーを騙してしまったという後悔の念が押し寄せ、その上で誤解までされてしまったのだからジミーから見ればたまったもんじゃない。この踏んだり蹴ったりのジミーの様子が、いつもは冷静でエミリーを正しい方向に導くというジミーが慌てふためくという光景で描かれている点は秀逸だと思った。「いつものジミーじゃない」ってとこだろうか、こんなジミーが見られるとは思ってもいなかった。
 そしてこの出来事から、名台詞欄シーンで仲直りするまでの流れで第一、第二双方の暗転を乗り越えるきっかけとなってゆくのだ。う〜ん、本当にこの物語見ていて面白いわ。
感想  前回がペリーの物語なら、今回は「エミリーとジミー」の物語と位置付けられるだろう。ジミーが存在感を大きくする話は何処かであるだろうと楽しみにしていたが、ここで来たかという感じだ。ここまでジミーはエミリーの理解者として常にエミリーの味方として描かれていたが、まさかそれが裏目に出る(名場面欄)とは思っていなかった。こうして理解している人物との誤解や衝突を描く点は、「赤毛のアン」「ポリアンナ物語」には見られなかった展開だろう。アンの場合は誤解や衝突でなく、「ダイアナの無理解」というのは何度か描かれていた。
 だがこの誤解はエミリーによる一方的なもので、二人の中を割くようなものではない。その証拠にエミリーが誤解だったと気付けばすぐに和解できている。しかしその和解シーンはなんなんだ? あんな逆光線の中で画面を少しボカしたシーンで、ジミーとエミリーがあんなに顔を寄せたら本当にそのままブチュッと行きそうだったぞ。ああいう描き込み方も限度ってもんがあると思うぞ、ジミーが単なる変なおっさんになってしまってもいいのか?
 今回最も気になったのは名場面欄シーンと名台詞シーンの間の展開がやや強引だったこと。「世界名作劇場」シリーズなら間違いなくここで1話費やすことだろうけど、話数の関係でそれは無理なのは理解できる。だけど日没後、しかも荒れた海を見下ろす岬、端から見れば投身自殺してもおかしくないように光景に突然テディが現れるのはどうかと思った。正直「あいつは何者なんだ?」って感じてしまう。ここで翌日のシーンになるんだったら、エミリーには一晩誤解し続けてもらって翌日学校でテディにジミーのことを聞かされるという展開でも良かったんじゃないかと思う。いい話のなのだが、この不自然な展開ひとつでかなり台無しになってしまっているのが痛いと思った。

第13話「マレー家のクリスマス」
名台詞 「エミリー、約束は守らなければならないものなのです。それが人との約束であっても、自分自身とした約束であってもです。もう決して約束を破ってはなりません。わかりましたか? …それから、今日はジュリエットの部屋で寝なさい。ジンの瓶にお湯を入れて、暖めて寝るのですよ。今日は特別に冷えますから。」
(エリザベス)
名台詞度
 物語の最後、エリザベスが今回の物語に上手くオチを付けた。エミリーに罰を与えるきっかけとなった「約束」についての教訓を置いた上で、エリザベスからエミリーへのクリスマスプレゼントが提示されたのである。その台詞がこれである。
 前半の教訓部分は「エリザベスの定型句」に近い台詞だが、物語の展開として見た場合に「エミリーが約束を破って罰を与えられている最中であった」という事実を有耶無耶にすることなくキチンと昇華した点は良かったと思う。この手の展開のアニメだと、クリスマスパーティのめでたさや楽しさでこのような「罰」が有耶無耶にされ、主人公がなんの教訓も得なかったりする。ここはエリザベスというキャラクター性が上手く作られている点も大きい、彼女が妥協は認めず真っ直ぐな人だからこそこのように物語にひとつオチが付けられるのだ。
 その上でキチンとエリザベスからエミリーへプレゼントがあるのだから、この台詞は出来過ぎというほかないだろう。エリザベスはこのプレゼントを、エミリーにジュリエットの部屋を見せた時点から決めていたに違いない。このプレゼントはエミリーにとって母に近付き母と思いを同じくするという願いが叶うだけではなく、就寝時のエリザベスからの呪縛が解けるという意味でも喜ばれることをエリザベスは知っていたのだ。
 この台詞を聞かされたエミリーは喜びの表情を作り、エリザベスに「メリークリスマス!」と声を掛ける。このエミリーに一度は振り返るが、無口で去って行くのがエリザベスらしい。これでエリザベスが振り返って微笑んだりしたら逆に気味が悪い、エミリーもそれが分かっていたはずだ。
名場面 クリスマスパーティでのジミーとエリザベス 名場面度
 結局はエミリーの在席も決まり、つつがなく進むクリスマスパーティ。エミリーが大人達を相手に無邪気に語り合っているのを見て、ジミーが「こうして見ているとジュリエットが帰ってきたようだ」とエリザベスに声を掛ける。エリザベスは瞬時に「似てもいないわ」と言い返すが、これを聞いたジミーは笑う。今回名場面に選んだのはこれだけのシーン。
 このシーンからエリザベスの本音が隠れしている。エリザベスの本音としては頭来るくらいに妹とエミリーが似ていると思っているはずだが、彼女は認められないのである。家を捨てて結婚を認められなかった男と駆け落ちした妹だ、妹に似ていれば今目の前にいるエミリーもそういう行動を取るに違いないと感じているのだ。だからこそ似ているのは認められないし、似て欲しくないのだ。なのに似ているから「似ていない」と強く否定してしまう。こんなエリザベスの心境を上手く描いたと感心し、このアニメの質の高さを実感したシーンでもある。
感想  イルゼはマレー家の親類だったのか、知らなかった。どういう関係の親類なのだろう? この伏線は…クリスマスパーティに出席するためだけの設定のような気がしてならない。
 この手の物語にクリスマスという展開は外すわけに行かないだろう。クリスマスには豪華絢爛なパーティがあって、それに一波乱加えるのが海外児童文学の「おやくそく」だ。その「おやくそく」に従ってエミリーがエリザベスとの約束を破ってスケートをするという事件が起き、「赤毛のアン」のように罰として部屋に監禁される。いや、スケートのシーンで氷が割れたりしたらエミリーじゃなくてエイミーになってしまうところだったが(笑)。
 そしてすったもんだの挙げ句エミリーのパーティ出席が許されるが、ここに「ジミーが何とかして」というこれまでの展開をなぞるような展開にしなかったのは大いに評価できる。まるでこのために用意されてような1話で見た記憶のない親類が現れて(そういうイルゼの親父も1話にいなかった)、そいつがエリザベスのプライドをへし折ってまでも自己主張を続けたおかげという展開は予想外で大変驚いた。最後のツリー点灯シーンに何故かテディが現れるのは、一歩間違えれば白ける原因になったかも知れないが。テディがそう演じてもおかしくないように、エミリーと相思相愛にしておいたのは正解だと思う。あそこで出てきたのがペリーだったら見ている方は面白かったかも知れないけど、エミリーは戸惑っただろう。またテディが出てくるにも関係構築をしないままだったら、なんでこいつストーカーみたいな出てき方をするんだ?と視聴者に疑問を抱かせてしまったかも知れない。ギリギリのところで白けないような間と展開だったと思う。
 次回予告を見ていると冬は今話限りのようで…やっぱこの娘達が外を走り回らないことには物語は成り立たないってことか。そんなこんなでもう折り返し点だ。

第14話「海辺のピクニック」
名台詞 「こめんなさい、イルゼ。私、謝りに来たの。私…自分勝手だったわ。アイスクリームのことだって、イルゼの気持ちをちっとも考えないで…あんなに楽しみにしてたのに、台無しにしてしまって。でも解って、言葉は私にとってとても大事なものなの。友情とどっちが大事?と聞かれたら困るけど。」
(エミリー)
名台詞度
 詳細は名場面欄を参照して頂くとして、和解のシーンでエミリーが灯台の梯子を登りながらイルゼに向かって謝罪と自分の思いを力説する台詞だ。
 友情とどっちが大事か悩んでしまうほど大事なものをもっている生き方って凄いと思う。さらに驚くべき事に、エミリーにとって詩や言葉がそれほど大事だと言うことを、イルゼもテディもペリーもみんな理解している事だ。みんなだって、日本人で言えば小学生だろ? それほどまでの天性をエミリーが持っているのだ、そんな子供達でも理解できる「何か」を。
 この台詞を聞いて自分にもそんな大事なものがあることだけは理解できた。ただエミリーほどそれに対して純粋に向き合っているかと問われれば、やっぱり悩むだろう。この台詞は単なる和解の台詞ってだけどはなくかなり深いと思う。
名場面 和解 名場面度
 つまらないこと(第三者から見ればの話)で喧嘩してしまい、さらにローダ一味によってエミリーの怒りの火に油を注がれてしまう。だがテディからイルゼが仲直りのために何をしようとしていたかを聞かされたエミリーは、イルゼが灯台にいると判断して迎えに行く。灯台の中の梯子を登りながら自分の本心を力説するエミリー(名台詞欄)、だがイルゼの声は何処からも聞こえない。遂に灯台の最上段が近付いたエミリーは「そこにいるんでしょ?」と声を掛ける、「エミリー・バードスターはアザラシみたいな頑固者だ、イルゼ・バーンリ程じゃないけどね」とイルゼの声が上から降ってくると同時に、その声に驚いて梯子から足を踏み外したエミリーを助け上げる。「あんたよくしゃべるねぇ」と言いながらエミリーを引っ張り上げるイルゼの表情は明るい。そして笑い合う。
 灯台の上から夕日を眺めつつ、エミリーが先ほどのイルゼのこの灯台にまつわる思い出話を思い出す。それを聞くとイルゼは神妙な表情でエミリーに謝罪し、海岸で拾った桜貝の貝殻を差し出す。するとエミリーはイルゼの悪戯で忘れた詩の一節を思い出し、イルゼは「エミリーの詩が好きだ」と答える。海に大きな夕日が沈む。
 今回のエミリーとイルゼの喧嘩〜和解という展開に、イルゼが前半で語った「灯台の思い出」を上手く絡めてきた。「目玉焼きを崩したような夕日」という表現が、喧嘩した二人の仲直りのキーワードになるとはこれまた上手く考えた展開だと思った。よくあるパターンでは仲直りした後にこの話題になったりするってところだが。
 どんな物語にしろ喧嘩した二人が和解するっていうのはいいもんだ。相手を死ななきゃ終わらないような派手な大喧嘩を繰り広げたアンネットとルシエンの例を出すまでもないだろう、諍い合うのを止めるにはそれなりの演出だけでなく、絶対必要なのは安堵感のある風景と、互いに「相手を必要としている」と思わせることだ。この「相手を必要としている」という要素こそが、変わらぬ友情ってところだろう。イルゼにとってエミリーは自分にない「何か」を持つ存在であるし、エミリーにとってイルゼはその「何か」を受け止めてくれる存在だ。それを確認したとき、二人は「喧嘩している場合じゃない」と分かるのである。その「仲直りの構図」もきちんと示して物語は「オチ」に向かったのである。
感想  確かに、私が真剣になって列車の写真を撮っているところで、いざシャッターチャンスの瞬間に誰かが背中に氷を入れてきたらやっぱエミリーと同じ反応をする。「んな、列車の写真で…」と思う方もあるかも知れないが、全く同じ条件で同じ写真が撮れるチャンスというのは二度と無いのだ。中央線快速電車みたいに2分おきに電車が走っているにしてもだ。次の電車は同じ「快速東京行き」でも、行き先の横に書かれている列車番号は違う、フロントガラスの隅に書かれている編成記号も違う、次の日に撮りに来ても同じ天候同じ風向き同じ光線状態という保証はない。だからあの瞬間のエミリーの気持ちはよく分かる。彼女にとってひらめいた詩が驚いたことで頭から消えてしまうのは、私にとって列車の写真が失敗するのと同じだ。
 だからイルゼがどんな行動でエミリーとの仲を取り戻そうと奔走するかは今回のみどころでもある。それを生放送しないでテディの回想として語らせるという点は、イルゼというキャラクター性を考えれば正しい描き方だろう。イルゼが悲しみの表情で氷屋に走っていくシーンを劇中リアルタイムで見せたら白ける、「こういうのを面に出すキャラじゃない」と。イルゼがその面を見せるのは劇中の見えないところだけで十分だ、だから名台詞欄の台詞を聞いているときのイルゼの様子を全く出さなかったのもこれと同じで上手い効果だったと思う。イルゼのキャラクター性を壊さずに二人を仲直りさせるためのシナリオ作りは、さぞ難しかったことだろう。
 さらに言うとイルゼが今回を含め「よく寝坊する原因」が判明したことも大きい。エリザベスによってこの日のイルゼが父の仕事の手伝いで寝坊したことが明らかにされるが、同時に彼女の寝坊癖が明らかになったのもいうまでもないだろう。こうして物語はイルゼを単なるぐうたら少女にもせず、展開し続けることが可能となった。
 しかし「赤毛のアン」といい、ピクニックにはアイスクリームは付き物だなぁ。原作者のモンゴメリは、余程ピクニックで出たアイスクリームが美味しかったという思い出があったんだろうなぁ。

第15話「幽霊屋敷」
名台詞 「おやすみエミリー、ナンシーと私は旧館の方で寝ています。そのほかの人たちは……墓場で寝ていますよ。」
(キャロライン)
名台詞度
 エミリーをおどかすだけ台詞なんだけど、終わってみるとこの台詞が妙に印象に残った。ナンシー大叔母のもとに泊まりがけでやってきたエミリーに、何も夜になってから寝室へ案内する必要も無いと思うのだが、その変の不自然さを追求したらこの物語の面白みは半減してしまう。イルゼに幽霊が出ると聞かされ、さらに家の妙な雰囲気に完全に飲み込まれてしまったエミリーと視聴者が、「ここは何かおかしい」と思ったところでこの台詞は、今回の展開において本来あるはずのないホラー要素を引き立てるのに十分だ。
 キャロラインは目の前にいる娘にちょっと悪戯心からこの台詞を言っただけかも知れない。でも彼女が言っていることはなんの嘘もない、この家にはナンシーとキャロラインとエミリーしかいない事実で、以前にこの家に住んでいた者は墓場で永遠の眠りについているのは事実だ。その死者がここに出てくるなんて一言も言ってないのだから。
 この台詞で物語を盛り上げた北川智繪さんって、何処かで聞いたことある名前だと思っていたら「クレヨンしんちゃん」でしんのすけの祖母役の人なのね。「オトナ帝国の逆襲」では若き日の姿で出演していたっけ。
名場面 苦悩のエミリー 名場面度
 ナンシーが宝として大事に扱っているジャコバイトグラスを誤って割ってしまったのみでなく、それを正直に告げずに証拠隠滅を謀ってしまったエミリーは夜の庭で一人苦悩する。まだ誰もグラスが割れたことに気付いていない、このまま黙っていれば自分が帰るまで気付かないかも知れないと口に出してさらなる企みを考えてしまうのだ。飛び交う蛍、夜空に輝く星々、そして明るく輝く月、こんな幻想的な風景がエミリーを悪魔にしようとしていたのだ。
 だがこのシーンはエミリーの心の中で天使と悪魔が戦っている状況である。もちろんエミリーの中の天使は「正直に申し出なきゃダメだ」と言っているに違いないのである。だがここまで怪しい雰囲気をさんざん漂わせてきた「大叔母」という大物が相手だ、自分が家の宝を壊したと知ったら何を言われるか知ったもんじゃない。もちろん現在の保護者であるエリザベスに何て言うか…そうなればエリザベスと過ごす日常も陰鬱なものになってくる。だからここではエミリーの中の悪魔に傾き掛かってしまったのだ。
 そんなエミリーの苦悩を上手く表現している。エミリーが口に出したのが「悪魔」の方の気持ちだけというのも秀逸だ。なぜなら視聴者はエミリーの中の天使を想像しながら見る事になるが、今話のこの陰鬱な雰囲気が「天使」が出てくる要素を消してしまっているからである。今回の展開ではいつエミリーにコウモリのような羽が生えて、牙を出して悪い企みの台詞を吐いてもおかしくない空気が物語の中に流れているからこそ「天使」を隠したのは正解だ。もちろん、そうなったら物語としてはなんの教訓も得ないからアウトだけど。
感想  もう夏かよっ!?
 今回はこれまでの「風の少女エミリー」とは全く違う雰囲気だった。とにかく物語を陰鬱にすることと、暗い方向へ盛り上げることがこれまでと逆方向で意外性に富んでいたのである。逆に言うとこういう展開の物語を作れるほどエミリーというキャラは使い勝手がいいのかも知れない、特に序盤でのイルゼの脅かしと、名台詞欄のキャロラインの台詞でエミリーが本気で怖がる辺りがこの物語の良いスパイスになっている。それだけでなくエミリーが初めてナンシーに対面したシーンで、時計が一斉に時を告げる光景も別の意味の迫力があった。
 その上でナンシーとキャロラインの性格が面白いことも挙げられる。特にナンシーの「気まぐれは自分の者以外は許さない」と口に出し、そのまんまの行動をするのも面白い。ああいう性格だからエミリーが「バカでない」と即座に見破り、かつそのエミリーが隠し事をしたと見抜けば「バカになったか?」と問う辺りは面白かった。ナンシーの声の人は「めぞん一刻」で五代君のばあちゃんの声やっていた人だ。やっと「赤毛のアン」にも出ている声優さん出てきたなぁ。

第16話「夏の思い出」
名台詞 「今度逢ったら、君がナンシー大叔母さんとキャロラインのことを書いたっていうノートを、読ませてくれないか? 逢うには面白くない相手だけど、観察するには絶好の材料だからね。」
(ディーン)
名台詞度
 激しく同意、としか言いようのない台詞。見事に視聴者の一人である私の感想を代弁してくれたと感じた。
 確かにナンシー大叔母さんもキャロラインも難しい性格の人々だから、実在したら会いたいとは思わない。でも劇中に出てくるあの二人のやり取りは、妙に息が合っていて面白い。実在したら適当に距離を置いてつぶさに観察したいと感じる人たちだ。ディーンはエミリーとの出会いによって、その「適当に距離を置きつつ観察する」というあの二人を見つめるに当たって絶好のポジションを手に入れたのだ。これは我々視聴者を別にすれば、なかなか得られない関係であろう。
 ただこのディーンという人がこの二人を観察して何に使うのか、これがよく解らないのもこの台詞の面白さを引き立てているのは間違いない。観察しているだけで面白いものを観察するだけ、と言うのであれば本当にこのディーンという人も面白い人なんだと言わざるを得ないだろう。
 ちなみにディーンの担当は関俊彦さん、どっかで聞いた声だと思ったら「愛の若草物語」でジョン役をやっていた人なのね。
名場面 出会い 名場面度
 エミリーが一人の青年と出会い、その青年によって自分が生きるべき道の扉を開くという展開なのだが、この「出会い」というのを何処まで印象的に描くかはここで出会う青年そのものを印象付ける強烈なスパイスになる。つまりこの出会いシーンによって、ディーンという青年の印象そのものが決まると言っても過言ではないだろう。そのシーンは不自然さがなるべくないように、かつ若干の不自然さを醸し出すことで印象深くせねばならない。
 その出会いシーンはこうだ。海岸を散歩していたエミリーは、砂浜にある崖に咲く花を摘もうと崖の上に回って無茶をする。もちろん視聴者の期待通りエミリーは崖から転落し、途中の足場に引っかかるというかたちで遭難するのだ。しかも現場の周囲には人の気配はないという「おやくそく」展開に回しておいて、スーパーマンのように現れる青年。準備万端でエミリー救出作業をすれば、最後の最後でエミリーが救出ロープから手を離してしまい再度転落…と見せかけて青年が咄嗟に手を伸ばすことでエミリーが助かるという「おやくそく」的な展開として描かれた。
 確かにこの手の物語で見飽きた「おやくそく」的展開ではあるが、だからこそこのエミリーのピンチが印象に残らず青年の行動が印象に残るように出来ているのだ。また救出作業中にこの青年の顔が一切明かされないのも良い。やっぱあのハンサムな顔が最初から出ると、それまで当人が演じていたこの男の「妖しさ」が何処かへ吹っ飛んでしまう。救出完了までこの男は「変質者かも知れない」と思わせる位の方がいい、そんなことは展開上あり得ないと解っていても。
感想  では「風の少女エミリー」でも、キャラクターの落下というシーンがあった以上はやってみよう。もちろん、エミリーがどれくらい転落したかの科学的な考察だ。
 それは劇中のシーンをよく見ていれば解る。エミリーが転落してすぐのシーンで、遭難したエミリーの様子を背後方向から映したカットが参考になる。このシーンによるとエミリーは自分の身長のちょうど3倍の距離を滑り落ちたことになり、エミリーの身長が現在の日本の小学6年生女児の平均身長に近い145センチと仮定すれば、4メートル35センチ滑り落ちたことになる(このシーンでは崖を滑っているので自由落下には当たらない)。さらに遭難地点が崖の中間点付近だったことを考えれば、エミリーが遭難した崖全体の高さは8〜9メートル程度と見積もられる。もし上から下まで直接落ちれば生命に関わるが、中間の足場からならば滑り落ちても最初の転落と同程度だから、怪我はしたかも知れないが打ち所が悪くなければ一命は取り留められただろう。
 問題はそのシーンではない、ディーンが下ろしたロープによって崖上まで引っ張り上げられたエミリーが再度転落するシーンの方だ。「ポリアンナ物語」7話の感想欄をご覧になった方で、その考察結果を覚えている人はピンと来たに違いないのだが、このシーンではエミリーが足を滑らせてから3.3秒も落下しているのは大問題である(しかもエミリーの身体が宙に舞っている以上は自由落下と考える以外無い)。「たった3.3秒で騒ぐなよ…」とお思いの方は、自由落下というのがどれだけ恐ろしいかご存じない方であろう。
 先の「ポリアンナ物語」のシーンではポリアンナがたった0.7秒落下しただけなのに、計算してみるとこの間に2.4メートルも落下していることになってしまう。もちろん2.4メートルというのは普通の人間が手を伸ばして届く距離ではない。なのに今回、エミリーが3.3秒も落下してからディーンは手を伸ばしてエミリーの腕を掴んでいる。ディーンがどれほどの超人なのか計算してみると、当然のことながらとんでもないことになった。エミリーの体重を日本人小学6年生女児平均値の39.1kg、落下時の空気抵抗係数にスカイダイバーと同じ0.24と仮定して計算すると…ディーンがエミリーの腕を掴んだときには、エミリーは96.32km/hの速度で48.4メートル落下したという結果になった。つまりディーンは崖の上から48メートル以上も手を伸ばし、高速道路を走る自動車ほどの速度で落下中のエミリーの腕を掴んで落下を食い止めたのである。もちろんディーンの腕は「ワンピース」の主人公をも凌駕する長い腕を持っていなければならないし、腕を掴まれた程度ではエミリーの落下は食い止められず、エミリーは腕が抜けた状態でさらに落下して行くことだろう。それ以前に崖の高さがせいぜい8〜9メートルなのだから、ディーンが腕を掴む2秒前にエミリーは44.4km/hの速度で崖下に到達している。
 このシーンについて的確な解釈法は残念ながらない。エミリーが悲鳴を上げていなければこの落下シーンはストップモーションだと解釈することも可能だが、エミリーが1.3秒もの長さの悲鳴を上げている以上はそうは行かない(この悲鳴の時間があればエミリーは崖下に到達している)。せめて「こんにちはアン」1話のように「落下前にバランスを崩した」事で悲鳴を上げ、落ちるときは無言であればいくらでも解釈できるのだ。落下というのはあっという間の出来事で悲鳴を上げている余裕などなく、多くの落下事故では悲鳴は上げないものである。悲鳴が上がるのは落下に繋がる出来事(バランスを崩したり足を滑らせたり)が起きているときに上がるものなのだ。

第17話「イルゼの秘密」
名台詞 「父さんがいるじゃない。父さんは私のたった一人の父さんだよ。私は父さんと(家族になれて幸せだわ)。」
(イルゼ・括弧部分はベアトリス)
名台詞度
 娘にこう言われたら、私だったら泣く。いや、今回はイルゼに泣かされた。
名場面 イルゼとアラン 名場面度
 アランが妻ベアトリスについて語り出す。妻の不慮の事故からずっと封印し続けていたことだ。夜中に家から飛び出した事で足に怪我をしたイルゼを背負いながら、またイルゼの足の怪我を治療しながらまずはポツリポツリと語り出す。この日が妻と初めて出会った記念日であること、と同時に妻の命日であること。妻ベアトリスはこの日、ニュームーンに用があって出かけ、誤って井戸に転落してそのまま帰らぬ人となった事…イルゼは母が井戸で生命を落としたことを知ると驚愕し、自分の井戸に落ちそうになったところを間一髪で助かった事を思い出す。そしてアランに母や自分が嫌いでなかったことが解り安心したと語る。アランは自分が行かねばならない用事で妻を事故に遭わせてしまったことで、イルゼから母を奪ってしまったと後悔の念を語る。すると名台詞シーンとなり、アランは「あの晩ベアトリスもそう言ったんだ…俺は忘れていた、家族がここにいることを」と呟くと、イルゼが「まだ遅くないよ」と涙を流し、アランは娘の名を呼んで娘を抱きしめて泣く。
 イルゼが「母の面影」に全く触れられないこと、母のことを知りたがっていることは今話だけでなくことあるごとに伏線として描かれていた。その問題に決着が付いたシーンであるといえるだろう。そしてイルゼが母のことを知ることが出来なかったのは、父アランの心に深く刻まれた傷と後悔の念からであり、アランが「妻の死」という事実を封印し続けていたからと判明する。イルゼは「母に会いたい」という一心で、これまでの全てを賭けてこの封印を説くための努力をしていたのだ。
 もちろん、視聴者としてはイルゼの母であるベアトリスの死について、アランが「失敗した」と感じてしまう部分があったと予想は出来ていたことだろう。医者という仕事にあれほどまでに誠実に向き合う男が、単に気難しい男だとは到底思えなすからだ。この男はとても優しい男で、「妻を殺してしまった」と感じた事で人格が歪んだと想定できるように描かれてきたからだ。アラン初登場からここまで、この男を上手く描いてきたと感心させられた。
感想  正直言おう、「風の少女エミリー」で初めて泣かされた。まさかイルゼに泣かされるとは思わなかった。このイルゼって娘は、主人公エミリーより人気があったりするんじゃないの?と勘ぐりたくなってきたぞ。こんな真っ直ぐの娘がいるアランが羨ましいよ。とにかく、今回はイルゼとアランに尽きる。完全にエミリーが脇役に回されているし。
 で、あそこまで感動的に仕上げておいてラストシーンで思い切り笑わせてくれるこのアニメ好きだ。正直言うと最初にキャラクターの顔の濃さを見た時にちょっと見るのが怖かったけど、今はここまで17話見てきて本当によかったと思っているよ。そのラストでは、メーテルが野原みさえになってるし。押し入れを開けると服が雪崩のように崩れてくるという「クレヨンしんちゃん」でよくあるあのシーンを、メーテルの声でやってくれるとはもーサイコー。さすがNHK、真面目に受信料払ってきてよかった。
 そうでなくて、あのバーンリ家の家の中の様子は人のこと笑える話じゃないなー。娘が「この家は散らかっていた方が落ち着くのよ〜」と言い出しそうなのも同じだ。うちもエミリーやジミーやメーテルに片付けて欲しいよ、エリザベスに怒鳴られてもいいからさー。

第18話「ローダの罠」
名台詞 「私は、美しさは失われるからこそ尊いんだと思うわ。」
(エミリー)
名台詞度
 ローダが仕掛けた罠にはまり、パーティの席で大恥をかかされたエミリーは、このパーティの特別ゲストである女優ローズと語り合う。ローズと話をするうちにパーティ会場のステージに立ったときには未完成だった詩が完成する。「花咲く園の中、蝶は舞う。人は知らぬ、蝶の不安を、誇りを。その失われる運命にある、美しさを」…この詩をローズに披露すると、ローズは「素晴らしい」とした上で「失われる運命にある美しさ」というフレーズが気に入らないと感想を言う。これに対してエミリーはこう答えたのだ。
 エミリーの言う通りだ、「美しさ」の中には「いつかは消え去る儚いもの」という要素は必要なのだ。世の中に永遠なんてありはしない以上、どんなものもいつかは崩壊してなくなる…これは松本零士の漫画が私に教えてくれたことだ。だからこそその消え去るまでの時を必死に生きる姿が美しいのであり、美しいから残しておきたいと思ってもこれが叶わないことが切ないのである。エミリーは12歳という若さで、これをちゃんと理解しているのだ。
名場面 ローズとの別れ 名場面度
 エミリーが作り上げた詩をローズが読み上げるという予定外の出来事にエミリーは感激する。その感激も覚めぬうちにパーティはお開きとなり、庭の池の前でエミリーはローズに礼を言う。黙ってパーティに潜り込んだイルゼとペリーが逃げるシーンを挟み、テディがエミリーに「僕らも帰ろう」と声を掛けて歩き出す。するとエミリーはローズの方に向き直って、ローズをスターに引っ張り上げたという新聞記者の事を問う。その返答としてローズの口から出てきた新聞記者の名は、エミリーの父の名であった。同時にローズの顔がダグラスの顔に変化する。驚きで目を見開くエミリーだったが、すぐにぺこりと頭を下げてローズの前から去る。その時のエミリーの心境がとても誇らしく、父のように誰かの人生を変えるような人間になりたいという思いだった事はエミリーの声でナレーションが入り、嬉しさで涙を流すエミリーはテディに競争しながら帰ろうと声を掛ける。そのままナレーターによる「エミリーは幸せな気持ちで一杯でした」と解説が入り、今話が終わる。
 エミリーの「思いがけないところで父と出会った」という驚きと、父が遺していった大きな影響を唐突に見つけた喜びが上手く描かれている。有名な大女優が「大恩人」という程の仕事を父がかつてしてきたというだけでなく、挫折し掛かっていた人間を助けてスターに仕立て上げて多くの人を喜ばせるきっかけを作った父が凄いと思ったのだ。その「凄い」が「誇り」となるのは言うまでもなく、この人が自分の父だと胸を張っていえる喜びというのをエミリーは感じていたのだろう。
 ダグラスはこのローズという女優のファン第一号だったんだろうなぁ、だからこそ「新聞記者」という自分の立場を武器にしてこの人をスターの座に引っ張り上げようとしたのかも知れない。そして一人のスターが生まれると言うことは、それだけ多くの人に影響を与えたと言うことだ。ダグラスは間違いなく多くの人の人生を変えた、これが解ったエミリーはどれだけ誇らしかったかは想像が付かない。
 ローズはエミリーがダグラスの娘だと知っていて声を掛けたんだろうなぁ。
感想  あ〜っ、ローダむかつく。こんなむかつく悪役キャラ見たことがないぞ。陰険さではラビニア(「小公女セーラ」)の遙か上を行っていて、他の意地悪少女キャラとは全く比較が出来ない程だ。すくなくともラビニアは不特定多数が大勢集まるような場で、主人公に恥をかかせるなんて最低な事しなかったぞ。エミリーとローダの関係はもうこれで終わったでしょ、ローダが人間として最低の「いじめ」をも超越する嫌がらせをして、エミリーは場をわきまえずにローダのプライドをへし折るというそれ相応の復讐をした。もうこの二人の関係は修復不能(たって最初仲が良かった訳じゃないけど)って事で決定だ。これで最終回辺りでエミリーとローダが和解とかしたらハッキリ言って白けるぞ、セーラとラビニアの関係のように間に立つ人間が出てくるなら話は別だが。
 今回のサブタイトルは「ローダの罠」というより「エミリーの復讐」にした方が良いんでないの?という内容だった。ローダがエミリーに恥をかかせると言うより、エミリーがローズと仲良くなって衆人環視の前で詩を朗読する展開の方が印象に残った。こうなったら「ローダの誕生パーティ」という場なんかどうでも良くなっているし、何よりもローダのために呼ばれたスーパースターが貶めるべきエミリーと仲良くなってしまっているという展開はローダにとっては最低のシナリオだっただろう。この回はローダのエミリーもやり過ぎ、ま、エミリーの場合はローズの暴走という見方も出来るけど。
 それにしても前話でエミリーから主役をもぎ取ったイルゼは、今回は上手く脇役に回って面白いシーンを展開していた。ドレスを着ただけでなく上手く忍び込んでちゃっかりパーティに居座っている辺り、この娘の面白さがよく出ていると感じた。うん、「風の少女エミリー」の一番人気キャラはイルゼで間違いないだろう。今回もローダやエミリーより目立っているし…。それとエミリーの定型句「ひらめきがやってきた」を取ってしまったペリーも最高、ペリーとイルゼは本当にいいコンビだわ。この二人がパーティに忍び込んで勝手に居座ったことが有耶無耶にされず、最後に追っかけられて終わるのはうまくやったと感心した。

第19話「エミリーの失敗」
名台詞 「ありがとう、小さな詩人さん。あの人を見放さないでいてくれるんですね。あの人は全てに見放されていた、やることなすこと上手く行かなかった。それを乗り越えるだけの強さも持ち合わせていなかった。哀れな人生。でも最後の最後まで何とか前に進もうとしていた。自分の人生を何とか良くしようと努力していたんです。そしてね、私には解ってました。その努力の半分は、私のためにしてくれているってことが。口では何にも言わなかったけれど、あの人は私の人生を自分の人生と同じ位大切に思ってくれていました。私は何もしてあげられなかったけれど、だから最後だけでもあの人に良い思いをさせてやりたいと思ったのです。有名なあなたに詩を書いてもらって、神様のところへ送ってやれたらって…。」
(ミセス・ドギア)
名台詞度
 今回の物語の教訓を彩る重要な台詞だ。依頼された追悼詩が思い浮かばず、辞めたいと言い出せばエリザベスに叱られ、その勢いで作ればカーペンター先生に皮肉られる。結局エミリーは詩が思い浮かばないという事態に追い込まれて、苦し紛れに追悼詩の対象となるドギアの墓を訪れる。ここでミセス・ドギアと出会い「詩が上手く出来ない」旨を伝えると「難しかったらやらなくていい」と言われるが、エミリーは「何としても作るので時間が欲しい」と返す。その返答にミセス・ドギアがこう言うのだ。
 これには劇中でエミリーが調べていた「ドギアの生き様」が語られており、ここまでの内容と重ね合わせると彼の生き様をしっかり見ていた人間は妻だけだったということも出来るだろう。多分この話を最初に聞いていれば、エミリーは早いうちに「ひらめき」がやってきていい詩を書けたに違いない。だがエミリーはここまで上り坂だった自分の「詩」にまつわる偉業に舞い上がってしまい、まずその人物の妻に話を聞くという基本を忘れたまま突っ走ってしまい袋小路に追い詰められたと言ったところだろう。
 そしてこの台詞の裏には「有名になる」と言うことがどれだけ大変かという事実も隠されている。有名女優と一緒に詩を朗読し、さらに雑誌に詩が採用されたことですっかり有名になってしまったエミリーは、それにまつわる「責任」というものをしらなかったはずだ。「詩」によって有名になることで「詩」を作成する依頼が舞い込むが、こうして依頼されてしまえばこれまでのように「ひらめきがやってきた」時だけ好き勝手にかけばいいってもんでもなくなる。締め切りが迫れば何が何でもそれまでに作らねばならない厳しい現実が待っているのだ。さらに有名になると言うことは実力を持つことであり、多くの人がその「詩」に勝手に期待してしまう。生半可なものは書けなくなってしまうのだ。エミリーにそんな期待をかけられているという現実を、この台詞はエミリーと視聴者に突き付けてくるのだ。
 そして物語は「有名になることは責任を持つこと」という重大な教訓を残して終わる。やっぱ私のような「横好き」のうちは自分の好き勝手にかくのが一番、誰に頼まれたわけでもないのに気楽に書いているうちの方がいいものが出来るような気がする。
名場面 詩が雑誌掲載される 名場面度
 また今回も、エミリーが投稿した自作の詩が新聞や雑誌に採用されていないかというシーンから始まる。新聞と雑誌を買ったエミリーは新聞を見て落胆し、雑誌を見て色めきだつシーンでは多くの視聴者が何が起きたかを理解することだろう。そしてエミリーが取った手段は新聞を返品して雑誌をもう一冊買うという、まさに投稿が初めて載ったときに誰でもやりそうな行動だ。雑誌に葉書を出しまくった「葉書職人」の経験者なら、みんなこの時のエミリーの気持ちは分かるだろう。もちろん私も。
 エミリーの「待ちに待った」という気持ちが上手く表現され、その上でちょっと天狗になっているという要素もちゃんと描かれている。つまりエミリーの心境だけでなくこれが次の「事件」に繋がることがうまく示唆されているのに感心した。多くの人は見ていて思うだろう、「雑誌の初採用」は彼女の目標ではなく第一歩に過ぎないのに…と。
 今回は名場面と名台詞は選ぶのに、良い意味で苦労した。
感想  エミリーが天狗になる、そしてスランプに喘ぐという展開でうまく教訓を置いた。前話のローズとの詩の朗読に続く詩の雑誌掲載は、エミリーを天狗にさせるのに十分な設定だ。これまでのエミリーの性格付けを見ていると、彼女がここで慎重になるような落ち着きを持った少女として描かれていないのは明白で、サブタイトル通りの「失敗」は立て続けに起きた幸運が引き起こすことも多くの人々が予想できるだろう。
 だがその「失敗」は明確な事件として起きるわけでなく、あくまでもエミリーがスランプに陥るという展開を取った。その上で名台詞欄に書いたような「有名になる」という責任感の重さを知らないエミリーが、我が儘を言ったり自分勝手に動き回るという展開を取ることで、「事件」が起きるのではなくエミリーの心境としての「失敗」を描くのは「赤毛のアン」と比較でいうと全く方向性が違うので驚きだ。この展開がどれほど原作に沿っているのかは知らないが、少なくともアニメ同士の比較で言えばここに「アン」と「エミリー」の差別もハッキリしてきたというべきだろう。これが「赤毛のアン」なら、天狗になった主人公が笑える事件を引き起こすに違いない。
 しかし、カーペンター先生が子供に怒鳴り散らすほど落ち着きを失うとは思わなかったなぁ。あれはああ見えて「追悼詩」としてあんまり酷い内容の詩を皮肉ったに違いないと見ている。恐らくカーペンター先生はあの詩を公表させて、エミリーに失敗を味合わせることで彼女を成長させるつもりだったのだろうが、エミリーが的外れな言動を始めることでそこまでしなくてもいいと感じたのだろう。しかし、あの先生の本性がどれなのかいまだによくわからん。

第20話「青春の階段」
名台詞 「ええ、でも…私が自分の部屋や木々や丘を好きなだけじゃない。部屋や木々や丘の方でも私を好きなんだ。そう気付いたんです。だから私がいなくなったら、きっと寂しがると思うんです。」
(エミリー)
名台詞度
 エミリーが巣立つ前日、エミリーはエリザベスに「ニュームーンが好きだからよく見ておきたい」と力説する。それに対し「大袈裟な…」と返答するエリザベスであったが、エミリーはこう答えてエリザベスを驚かせる。
 「好き」というのは自分が一方的に好きなだけでは成立しないものなのだ、その好きな対象物が自分を好きと思っていると感じるからこそ、その対象物に対する愛情が生まれる。もちろん人に対してもそうだし、物や自然に対しても同じ事だ。例えば車を持っていたとしよう、その車が良い車だと思って好きだと思うのは車にも気に入られている証拠だ。エミリーは「好き」という感情が一方通行では成り立たないことを、エリザベスという伯母と衝突した後にわかり合えたことで気付かされたのだ。そんな今回の物語展開を象徴する台詞であろう。
 この台詞に対し、エリザベスは優しい表情でエミリーを見つめて「ええ、本当に」と寂しそうに言う。「好き」という思いが一方通行ではないという事実は、エリザベスもこの歳になって初めて知ったことだろう。だからこそエミリーに対して責任とか義務とか権利という概念でなく、素直に愛情を示すことが出来るようになったに違いない。この台詞とそれに対するエリザベスの反応は、二人が衝突したことで「変わった」という事実を上手く表現しているのだ。
名場面 エリザベスとの和解 名場面度
 エリザベスがエミリーの秘密のノートを勝手に読んでしまい、それに反抗心を抱いたエミリーが思ってもないことを口にしてエリザベスを傷つけるという「事件」により、二人は劇中で最大の衝突を見せる。だがエリザベスが「エミリーに裏切られた」と感じた涙を流し、それを見たエミリーが「言い過ぎ」を認め、二人は互いとの関係を思い悩むようになる。
 翌朝、ジミーの助言もあってエミリーはエリザベスに謝罪することを決意する。エミリーとの関係に思い悩むエリザベスは、祖先であるヒュー・マレーの墓前にいた。エミリーは墓前のエリザベスを見つけると「おばさん、ごめんなさい。私おばさんのことを、あんな風に酷く書いてしまって…それからあんな事を言うべきではありませんでした」と一気に謝罪の言葉を言う。「私も謝ります。あなたが書いた物を勝手に読む権利がなかったことを認めます。許しておくれ」と、エリザベスも素直に自分の非を認めて謝罪する。それに対してエミリーはエリザベスのことが嫌いではないからそれだけは信じて欲しいと訴える。エリザベスは俯いて「私もそれを信じたいわ、ジュリエットの娘が私を嫌っているなんて思いたくありませんから」と答える。こう言われたエミリーの目に涙が溢れてくる、そして泣きながらエリザベスに抱き付き「私、本当はおばさんの事が大好きなんです。でも私、おばさんが私を好いてくれているとは思えなくて…」と訴える。エリザベスはこの言葉に困惑の表情を浮かべると、続いて優しい表情になりエミリーを抱きしめる。あとは感動の抱擁だ。
 ここで二人のこれまでの関係がハッキリする。エミリーもエリザベスも互いに「好きだ」と思っているはずなのに、互いにこれを素直に表現できなくて「相手は自分が嫌いなのかも知れない」という疑心を持つことになってしまっていたのだ。だからエリザベスは義務とか責任とかでしかエミリーに対処できないし、エミリーも秘密のノートにエリザベスのことを悪く書いてしまったのである。本当はエリザベスは素直に優しさを表現したかったのだろうし、エミリーは素直に甘えたかったのかも知れない。でも「相手が自分が嫌いなのかも知れない」という気持ちが、そう素直に接する方法を失わせてしまい、結果互いに腹の探り合いをずっと続けてきたというのがここまでの二人の関係だろう。
 だが、今回の衝突…つまり互いに互いの領域を侵犯するという決定的な決裂により、互いに「本心」が見えてきたのである。その「本心」が見えてきたことで互いに「素直に接する方法」を見いだす、それはなんてことはなく自分の気持ちを素直に表現する事で、これをしてこなかったことへの後悔の念が二人の中に沸き上がることになる。
 こうして二人は大事な事を学ぶ、これが名台詞欄に書いた論理である。相手が自分を好きと感じているからこそ相手に愛情を注げる、そのためには自分が相手が好きであるという事を素直に表現しなければならないという点だ。そうすれば多少の考えの食い違いがあっても、妥協点を見つけて乗り越えることも出来る(このシーンの次のシーンではこの部分が描かれる)。そんな教訓を互いに得ることになるのだ。これは物語を見ている視聴者にも大きな教訓として残ったことだろう。
感想  今回の物語は「何か変だぞ」というところから始まる。まず唐突に話が1年も飛んでいて、にも関わらず育ち盛りのはずのエミリーとその仲間達に肉体的変化がないという違和感から物語が幕を開く。そして序盤ではエミリーが物語の牽引役になっていないこと、17話のようにイルゼ主役の展開でも序盤はエミリーが物語を引っ張ってきたのだが、今話では完全にペリーやテディに話を乗っ取られている。だがここまでとは逆に中盤に入るとエミリーの物語へと変わって行くのだ。そして戸惑ったのはルースおばさんがいいおばはんに変わっていること、名前も覚えられず皮肉ばかりデブというのは相変わらずだが、言っている事はエリザベス以上にエミリーの将来を考えているのは見物だ。これがエミリーがエリザベスに対して暴言を吐き、それによのエリザベスが傷つくという今回の主展開に繋がるわけだ。
 二人が衝突して和解、この展開は何処かであるとずっと待っていたのだがやっと来たって感じだ。物語が折り返し点になる13〜14話辺りで持ってくるかと思ったら意外に引っ張ったのは驚いた。おかげで物語はエミリーとエリザベスの関係が主軸になることはなく、イルゼやテディやペリーにもスポットを当てられたので飽きずに見る事が出来た。「ポリアンナ物語」では主人公が交通事故に巻き込まれるという展開へ物語をひっくり返したことで視聴者は飽きずに済み、今話のような衝突がポリアンナ〜パレー間で見られずに和解へ持って行った。
 しかしエリザベスも粋な事をする、進学させるから小説の執筆を禁止とは。カーペンターもそうだったが、私もこれは激しく同意と思った。実はフィクションの小説を書くには、「現実」をよく理解することが重要なのだ。だからエミリーが本当に小説家を目指すなら、そろそろ自分の中だけの空想に酔っている場合ではない。小説というのは現実にありそうな物語の中で自分の空想を語られるからこそ面白いのであって、現実を知らない小説なんて売れる訳がないのだ。カーペンターがエミリーとエリザベスが妥協して決めた方針を「素晴らしい」とした理由はまさにこれのはずだ。エミリーが本当に小説家を目指すなら、ここいらで自分の空想を封印して、現実に起きた出来事を自分なりに物語風にまとめてみることをすべきなのだ。
 今回の物語は教訓が多く、見ていて面白い展開でもある。こんな教訓をしっかり置いたところで、次回からはエミリーとその仲間が成長するようだ。次回予告に出てきたイルゼを見て、一瞬誰かと思ったよ。イルゼってこのアニメのキャラの中でも、よりいっそう濃い顔しているのにあんなあっさり顔に変わっていたからなー。

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