第19話「エミリーの失敗」 |
名台詞 |
「ありがとう、小さな詩人さん。あの人を見放さないでいてくれるんですね。あの人は全てに見放されていた、やることなすこと上手く行かなかった。それを乗り越えるだけの強さも持ち合わせていなかった。哀れな人生。でも最後の最後まで何とか前に進もうとしていた。自分の人生を何とか良くしようと努力していたんです。そしてね、私には解ってました。その努力の半分は、私のためにしてくれているってことが。口では何にも言わなかったけれど、あの人は私の人生を自分の人生と同じ位大切に思ってくれていました。私は何もしてあげられなかったけれど、だから最後だけでもあの人に良い思いをさせてやりたいと思ったのです。有名なあなたに詩を書いてもらって、神様のところへ送ってやれたらって…。」
(ミセス・ドギア) |
名台詞度
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今回の物語の教訓を彩る重要な台詞だ。依頼された追悼詩が思い浮かばず、辞めたいと言い出せばエリザベスに叱られ、その勢いで作ればカーペンター先生に皮肉られる。結局エミリーは詩が思い浮かばないという事態に追い込まれて、苦し紛れに追悼詩の対象となるドギアの墓を訪れる。ここでミセス・ドギアと出会い「詩が上手く出来ない」旨を伝えると「難しかったらやらなくていい」と言われるが、エミリーは「何としても作るので時間が欲しい」と返す。その返答にミセス・ドギアがこう言うのだ。
これには劇中でエミリーが調べていた「ドギアの生き様」が語られており、ここまでの内容と重ね合わせると彼の生き様をしっかり見ていた人間は妻だけだったということも出来るだろう。多分この話を最初に聞いていれば、エミリーは早いうちに「ひらめき」がやってきていい詩を書けたに違いない。だがエミリーはここまで上り坂だった自分の「詩」にまつわる偉業に舞い上がってしまい、まずその人物の妻に話を聞くという基本を忘れたまま突っ走ってしまい袋小路に追い詰められたと言ったところだろう。
そしてこの台詞の裏には「有名になる」と言うことがどれだけ大変かという事実も隠されている。有名女優と一緒に詩を朗読し、さらに雑誌に詩が採用されたことですっかり有名になってしまったエミリーは、それにまつわる「責任」というものをしらなかったはずだ。「詩」によって有名になることで「詩」を作成する依頼が舞い込むが、こうして依頼されてしまえばこれまでのように「ひらめきがやってきた」時だけ好き勝手にかけばいいってもんでもなくなる。締め切りが迫れば何が何でもそれまでに作らねばならない厳しい現実が待っているのだ。さらに有名になると言うことは実力を持つことであり、多くの人がその「詩」に勝手に期待してしまう。生半可なものは書けなくなってしまうのだ。エミリーにそんな期待をかけられているという現実を、この台詞はエミリーと視聴者に突き付けてくるのだ。
そして物語は「有名になることは責任を持つこと」という重大な教訓を残して終わる。やっぱ私のような「横好き」のうちは自分の好き勝手にかくのが一番、誰に頼まれたわけでもないのに気楽に書いているうちの方がいいものが出来るような気がする。 |
名場面 |
詩が雑誌掲載される。 |
名場面度
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また今回も、エミリーが投稿した自作の詩が新聞や雑誌に採用されていないかというシーンから始まる。新聞と雑誌を買ったエミリーは新聞を見て落胆し、雑誌を見て色めきだつシーンでは多くの視聴者が何が起きたかを理解することだろう。そしてエミリーが取った手段は新聞を返品して雑誌をもう一冊買うという、まさに投稿が初めて載ったときに誰でもやりそうな行動だ。雑誌に葉書を出しまくった「葉書職人」の経験者なら、みんなこの時のエミリーの気持ちは分かるだろう。もちろん私も。
エミリーの「待ちに待った」という気持ちが上手く表現され、その上でちょっと天狗になっているという要素もちゃんと描かれている。つまりエミリーの心境だけでなくこれが次の「事件」に繋がることがうまく示唆されているのに感心した。多くの人は見ていて思うだろう、「雑誌の初採用」は彼女の目標ではなく第一歩に過ぎないのに…と。
今回は名場面と名台詞は選ぶのに、良い意味で苦労した。 |
感想 |
エミリーが天狗になる、そしてスランプに喘ぐという展開でうまく教訓を置いた。前話のローズとの詩の朗読に続く詩の雑誌掲載は、エミリーを天狗にさせるのに十分な設定だ。これまでのエミリーの性格付けを見ていると、彼女がここで慎重になるような落ち着きを持った少女として描かれていないのは明白で、サブタイトル通りの「失敗」は立て続けに起きた幸運が引き起こすことも多くの人々が予想できるだろう。
だがその「失敗」は明確な事件として起きるわけでなく、あくまでもエミリーがスランプに陥るという展開を取った。その上で名台詞欄に書いたような「有名になる」という責任感の重さを知らないエミリーが、我が儘を言ったり自分勝手に動き回るという展開を取ることで、「事件」が起きるのではなくエミリーの心境としての「失敗」を描くのは「赤毛のアン」と比較でいうと全く方向性が違うので驚きだ。この展開がどれほど原作に沿っているのかは知らないが、少なくともアニメ同士の比較で言えばここに「アン」と「エミリー」の差別もハッキリしてきたというべきだろう。これが「赤毛のアン」なら、天狗になった主人公が笑える事件を引き起こすに違いない。
しかし、カーペンター先生が子供に怒鳴り散らすほど落ち着きを失うとは思わなかったなぁ。あれはああ見えて「追悼詩」としてあんまり酷い内容の詩を皮肉ったに違いないと見ている。恐らくカーペンター先生はあの詩を公表させて、エミリーに失敗を味合わせることで彼女を成長させるつもりだったのだろうが、エミリーが的外れな言動を始めることでそこまでしなくてもいいと感じたのだろう。しかし、あの先生の本性がどれなのかいまだによくわからん。 |