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第31話 「本が送られて来た」
名台詞 「驚いたよ、君は僕の友達のソフィア・ニーラネンに逢ったんだってね。そう、あの女のお医者さんの卵は僕の友達さ。君も医者になりたいんだって? 素晴らしい考えだ。一生懸命勉強するんだね。僕も応援するよ。そこでこの本を贈ることにした。僕の先生でもあるコルフォネン教授が近頃出版した数学の本だ。とても優しく説明してあるので、君にも解るはずだ。頑張れ、僕の可愛い友、カトリ・ウコンネミ。」
(アッキ)
名台詞度
★★
 こっちも驚いたよ、まさかソフィアがアッキの関係者だったとは…。
 これはカトリとロッタが運送会社へトゥールクへの荷物を出しに行った足で、郵便局へ寄ったらカトリに届いていたアッキからの手紙の内容である。手紙だけでなく本が1冊同封されていて、この本が今話のサブタイトルだったわけだ。
 もちろん、この手紙と本も前話からの方向性である、カトリの勉学への道が少しずつ開けるという展開の一つであろう。名場面欄シーンでカトリは数学の基本的な事も知らないで一度は落胆するが、そのかけ算や割り算を知りたいという意欲でもって前進する気持ちが芽生える。そこに届いたこの手紙と、同封されていた数学の本。これだけでとても印象に残るが、その上でのこの手紙だ。
 この手紙からはアッキのカトリに対する期待というものが見えてくる。家畜番の少女に過ぎないのに前進する意志の強いカトリに、アッキは強く影響を受けていたはずなのだ。そのアッキが思わぬところでカトリの名を聞き、思わぬところでカトリの話をしたソフィアも、カトリの影響を受けていることを知ったのだ。そしてカトリに「医者になるにはどうしたらよいか」と聞かれたこと、それにソフィアが絶望的な返答をしたことも聞いたに違いない。こうなったらアッキは黙ってられない、カトリが夢に向かって前進できるようにとこの本を贈った…というストーリーが行間からキチンと見えてくる内容になっている。
 多分、アッキはソフィアがカトリに絶望的に返答をしたことに講義したに違いない。「君はなんてことを言うんだ」(←井上和彦さんの声で読むように)って感じで。多分ソフィアは「その程度で諦めるようならなれっこないから」(←松島みのりさんの声で読むように)なんて返事を返したのだろう。いずれにしてもアッキは現実を知って力を落としているであろうカトリに、なんとしてでも力を付けてやりたかった。こんな思いが伝わってくる内容に上手く仕上がっている。
 そしてこれは効果覿面、カトリはソフィアだけでなくウッラにも現実を突きつけられていたため、この手紙と本を武器にまた這い上がろうとする展開へ行くのが不思議でなくなった。その展開は次話以降に回されたが、こうして物語は一度千尋の谷に突き落とされたカトリを拾い上げる展開へと向かうのである。これで落ちたまま終わりって事もないし…恐らく今後、カトリが何らかの理由でトゥールクへ行き、アッキとソフィアに再会する展開になるのもこれで確定だろう。
名場面 運送会社にて 名場面度
★★★★
 ロッタがトゥールクへ送る荷物は5個、これをカトリが馬車から降ろして運送会社に渡す。ここで運送会社の男は送料の値上げを宣告する、「1箱1ルーブルじゃないんですか?」と旧料金を語るカトリに男は「1ルーブル30カペイカ頂きたいって、奥様に言ってくれないか?」と返す。「30カペイカも値上げですか?」と驚くカトリに、男は戦争で物価が上がっている事情を語った上で「1ルーブル30カペイカ×5個ということで…」と言いかけたところで、「×5?」とカトリが言葉を遮る。「つまり5倍だ」と語る男に「5倍?」とカトリは「?」を沢山飛ばしている状態だ。「おまいさん、ひょっとしてかけ算を知らないのかい?」と男は核心に迫る質問をカトリにぶつける。「ええ、私、学校へ行ってないもので…」カトリが自信なさげに答えると、男は「そうか、じゃあ無理ないな。でもかけ算と割り算位は身につけておかないと、困ることになるよ」と説く。「はい」と返答したカトリは、真顔になって「えーと、では奥様から6ルーブル50カペイカ頂いてきます」と男に言う。男はかけ算の計算をした後、「それでいい、かけ算を知らないのにどうして6ルーブル50カペイカが計算できたんだ?」と問うと、カトリは「足し算です」と言い残して奥様の所へ向かう。
 これはとても印象的な会話だ。しかも名もない運送屋の窓口係員と、主人公の会話という組み合わせでこんな印象的な会話が出てくるとは思わなかった。
 ここではカトリの学力が示される。それは学校で学んでないことによって「かけ算」の存在すら知らないというものだ。前話ではカトリが刺繍の際に計算間違いをしているシーンが描かれていて、それは本シーンへの伏線だったと考えて良いだろう。つまりかけ算を知らず足し算と引き算だけで計算しているから、単純な倍数の計算を間違える。刺繍のシーンではそれを言いたかったはずだ。
 だからカトリは「×5」「5倍」が未知の言葉で、これに反応したわけだ。そしてかけ算や割り算が生活の中ではとても大事だと言うことを、この運送窓口のおっさんはカトリに説いたのだ。
 でもそれだけで終わらないのがこのシーンだ、「カトリはかけ算を知らない」という衝撃の事実を見せておきながら、カトリは「送料が1ループル30カペイカのものを5つ送れば6ループル50カペイカになる」という計算を、暗算でしかも瞬時にやってのけるのだ。これはたったいま目の前にいる少女が「自分はかけ算が出来ない」と言っていたのに、運賃計算を瞬時に見せられた男は驚きだ。カトリは恐らく、「1ルーブル+1ルーブル+1ルーブル+1ルーブル+1ルーフル=5ルーブル」「30カペイカ+30カペイカ+30カペイカ+30カペイカ+30カペイカ=1ルーブル50カペイカ」「5ルーブル+1ルーブル50カペイカ=6ルーブル50カペイカ」という三段階の計算をしたと考えられるが、足し算だけで効率的に計算が出来る方法がすぐ頭に思い浮かぶほど、頭が良い少女であることも同時に示唆されている。つまり知識はなくても頭の回転がこれを上手く補っている賢い少女だと、多くの視聴者に印象が付くだろう。
 同時に、これはカトリが数学を勉強するきっかけの伏線となるのは明らかだ。そしてカトリが勉学に進む道が少しずつ開いて行くのだろう。
感想  アナライザー キターーーーー!!!!
 カトリの夢に出てきた「眠りの精」ことオーレ・ルゲイエは、アナライザー(by「宇宙戦艦ヤマト」)でおなじみの緒方賢一さんではないですかー。この人も「世界名作劇場」ではあっちこっちに出てるよなー。そろそろネタが切れるんじゃないか?
 まぁ、今度のカトリが見た夢の話も含めて、後半に入るまで何も起きない。起きたと言えばせいぜいカトリとヘンリッカの確執程度だと思う。この確執はヘンリッカが何らかの理由でカトリを見直して、仲直りする展開だった記憶がかすかにあるんだけどなー。モレルおばさんやイライザおばさんのあの声で、主人公と最後まで喧嘩したまま終わるなんてあり得ないと思う。
 あとはいたって平和、アベルは相変わらずミッキに犬小屋を占領されているし、ペッカはなんとしてでもカトリと一緒にいようとするし、ビリヤミは人を見抜くのが上手い人というキャラクター性が今話で確立したなぁ。
 そして後半に入ってしばらくしたところで、やっと次回予告で予告されていた内容に入る。名場面欄も名台詞欄もそこからの登場で、これはカトリの「勉学」という展開では新たな展開に入ったことが解るものだ。同時に前話と前々話で一度夢を閉ざされ絶望しかかったカトリが、また這い上がるきっかけとしての役割を持っていることも確かだろう。
 でもこうも、何も起きない本題から外れたシーンが長いとなー、やっぱり当時印象に残らなかったのはこの辺りだと思う。「南の虹のルーシー」みたいに何も起きない日常シーンをもっとコミカルに描いてくれれば、印象度はかなり変わっていたはずだ。いや、アベルやミッキやペッカがその間をコミカルにしようと頑張ってくれているのは確かなんだけど、いかんせんテーマが重い。主人公に悲壮感が漂っているようじゃなー…「南の虹のルーシー」が上手く行ったのは、主人公本人にはそのような重い悩みがなかったからだろう。黒い影はあくまでも家族の中でも親や年上の兄姉だけでの話だったし。
 しかし、この先の展開が読めない。どうやって話がカトリと、トゥールクにいるアッキやソフィアに繋がるのかが思い出せない。この二人に再会するのは既定路線と見て間違いないと思うけど…。

第32話 「魔法の本と悪魔」
名台詞  「なあカトリ、お前さんは数学の勉強をしているようだが、何のためだい?」
(ラスキ)
名台詞度
★★★
 本話後半は、クウセラ屋敷にやってきた履き物職人ラスキがカトリに語る「お話」だ。この話が面白く、カトリは腹を抱えて笑う。そしてラスキが屋敷に戻ると腰を上げ、カトリも「ご一緒します」と立ち上がったとき、ラスキがカトリに問う台詞がこれだ。
 もちろん、本作を追っている者に言わせれば「カトリは大きな夢に向かっている」という事になろうが、ここではそのカトリの夢は閉ざされたままだ。同時にカトリと出会ったばかりの靴職人に言わせれば、田舎の農家で下働きをしている少女が数学の勉強をするというのは珍しかったはずだ。だからこれはラスキがカトリへの興味として聞くだけだが、同時に劇中のカトリの気持ちについて、テレビの前の視聴者に問い直しをしていると私は解釈をした。
 そうだ、カトリはアッキの応援を受けたとはいえ、まだ夢への道は閉ざされたままだ。カトリが勉強をしている理由と言えば、今のところはアッキの応援に応えるためという程度だ。もちろんソフィアが語った通り希望を失わなければいつの日が道が突然開けるかも知れないという言葉にすがっているのかも知れない、アンネリという通りにやれば出来ることを見せつけてやろうという考えも心のどこかにあるかも知れない。だけど今のカトリはそういう気持ちに自覚がないはずだ、道を閉ざされ悩んでいるところへ、数学の必要性を問われたからまずその必要な知識を得ようとしているのが現状だ…と私は解釈している。
 この質問に、カトリは答えに詰まる。即答が出来なかったということは、カトリは自分の道が閉ざされたままであることは自覚しているのだろう。だがこのシーンではカトリが答えに詰まったことだけが描かれ、カトリが言い訳してみたり考えたりして何かを答えたというシーンにはなっていない。ナレーターの解説も、カトリの気持ちを語るのでなくこの時代の履き物職人の説明だけで終わっている。この時のカトリの心情は視聴者の想像に任されたのだ。
名場面 次回予告 名場面度
 「私、新しい靴を作ってもらうことになったの。楽しい夏も過ぎ麦の刈り取りも終わると、ビリヤミさんとアリーナさんの結婚式です。ところがそこへ、とても悲しい報せがやってきたのです。次回『牧場の少女カトリ』、『喜びと悲しみ』、見てね!」

 次回、間違いなく物語に大どんでん返しがある。ここまで徹底的にクウセラ屋敷での平和な日々が綴られていたが、次回はついにそれが打ち破られることが確定した。その割には次回予告ナレーションのカトリの声が明るいのは、その物語のどんでん返しを視聴者にちらつかせる効果があると思う。
 ただ、そのどんでん返しの内容はここでは明らかにされない。ただカトリにとって何か悲しい報せであり、これまで通りの物語が展開されないことだけは確かだ。その予想を挙げると…
・クウセラ屋敷にとって大きな災いとなる「旦那様の戦死」
・カトリにとって大きな災いとなる「おじいちゃんの死」
…のどちらかであろう。どっちも充分に伏線が張られているので、ここいらで起きてもおかしくない出来事だ。特に前者の方はカトリとロッタが本筋とは無関係に話を盛り上げた箇所もあったので、こちらはかなりクサいと思う。
 いや、本放映当時見たはずなんだけど、すっかり忘れてる。ただこの辺りで話が次の展開に切り替わらないと、いい加減話が「アッキやソフィアとの再会」を通じて「カトリが母と再会」「カトリの勉学への道が開ける」という結末に行かないだろう。そろそろクウセラ屋敷で何も起きない平和な物語と決別するときが来たのだと、この次回予告を見て感じた。
感想  今回は、基本的に前話を受けてカトリがロッタと共に本腰を入れて数学の勉強を始めただけ。終わり。もうホント、それだけ。あとはおまけでラスキが語る「悪魔のお話」があって、最後に今話のテーマである名台詞欄シーンがほんの一瞬描かれるだけだ。
 ヘンリッカとカトリの確執はまだ続いているが、ヘンリッカの本心はあまりにもカトリが働き者でできるのに「奥様の世話」という仕事に甘んじているのが許せないのだと思う。つまり「カトリほどできるヤツが家の外の仕事をすれば、何もかもはかどって自分も楽になるのに…」という不満である。つまりヘンリッカの意地悪はカトリの仕事ぶりを認めてのことだろう。ただヘンリッカのキャラクター性を見ているとカトリとの関係をこのままにしたまま終わるとは思えない。次話では名場面欄シーンに書いたように物語の大きな転換を迎えると思うので、状況によってはヘンリッカが物語から退場するかも知れない。つまりカトリとヘンリッカの和解劇も次話か次々話あたりであると思うのだ。
 カトリが朝から晩まで九九を暗唱しながら仕事しているシーンは当時見たのを覚えていた。そうそう、「世界名作劇場シリーズで主人公が九九を暗唱しながら働くシーンがあったはずなんだが、どの作品だったっけ?」と当サイトで「あにめの記憶」を立ち上げてからずっと悩んでいて思い出せないもののひとつだった。これも「カトリ」だったか…。
 ラスキの「お話」は確かに面白かった。あれは何のおとぎ話なんだろう? 原作がフィンランドだから、グニンラばあさんが語ったようなフィンランドに伝わるお話なのかな? いずれにしてもオチが良かった、あのまま悪魔を外に出しておいたら良いことがないだろうに…と思って見ていたら、悪魔を助けた農夫が色々と理由を付けてまた同じ所に閉じ込めるオチだなんて。「悪魔」という思想がある欧米だからこその面白い話だと思う。豊かな日本では「悪魔」っていう発想そのものがないからなぁ、不徳なことをすれば罰が当たるだけ。「悪魔」がいて試練を与えるという考え方が根にあるからこそ、ああいう発想でできるんだと思う。
 そして名場面欄にも書いたが、いよいよ次回に何かが起きる。クウセラの旦那様が戦死すれば間違いなくあの屋敷はこれまで通りの運営ができなくなり、農地や家畜は売られて皆が散り散りになる話となるだろう。カトリの祖父が他界するような展開なら、カトリは祖母を養うために郷へ帰るような展開が待っているはずだ。どっちもいつそれが起きても良いように既に伏線は張りきっている。いずれにしてもこれはカトリがアッキやソフィアと再会する方向へ話が進むきっかけになる物語の展開になることだけは確かだ。そう考えると、次に起きるのはやはり「旦那様の戦死」かな? クウセラ屋敷が解体される過程で、カトリがトゥールクで働き口を見つけるとか…明日が楽しみだ。

第33話「喜びと悲しみ」
名台詞 「私も怖いのよ、毎日、毎日が。それでも主人が手紙をくれた日だけは…今日は眠るのも勿体ないくらい幸せ。でもそう、みんな寝る時間ね。おやすみ。」
(ロッタ)
名台詞度
★★
 ある日の夜、ロッタは夜のカトリの部屋を訪れ、カトリの勉強の様子を見るのだ。その時カトリが、「この幸せな生活がいつまで続くんだろうか?」とロッタに訴える。ロッタは「ここにいる限りは続きそうだ」とした上で、このように返すのだ。
 カトリもロッタもクウセラ屋敷での生活に充実感を感じ、幸せだと自覚しているのは確かだ。だが二人は気付いている、この幸せは何かをきっかけに簡単に崩れ去ることを。カトリは老齢の祖父母を家に置いてきているし、ロッタは夫が戦地で戦っている。二人ともその情勢如何ではこの幸せな生活を瞬時に崩壊させるものを持っていることも、「幸せ」と同時に自覚しているのだ。
 そして、ロッタがこの台詞を通じて「普段は幸せだが夫の手紙が届いた今日は特別」だとすることが、クウセラの旦那様に死亡フラグを立てた瞬間だと言っていい。このような物語の暗転が間近に迫っている段階で、自分が特別幸せと演じる者がいれば、その暗転はその者の不幸となるのはもう言うまでもないだろう。今話のサブタイトルと前回の次回予告が示唆している「悲しみ」というのは、クウセラの旦那様の戦死またはそのきっかけとなる出来事であることがこれで明確になったのだ。さらに本話ではロッタが田舎暮らしに馴染めない悩みを抱えていることも明確となり、ロッタが夫の死をきっかけに都会へ移住を決断するのだろう。でもカトリは…まだ話数が残っているからこのままクウセラ屋敷に留まるか、ロッタと都会へ出るかのどちらかだろう。
 こうして今話ではこの先の展開がいくつも示唆されている。その中でこの台詞は最も印象的であった。
名場面 悲報 名場面度
★★★★
 その日、クウセラ屋敷はビリヤミとアリーナの結婚式で幸せな空気が流れていた。そこにロッタを尋ねてやってくる軍人、彼がロッタにもたらしたのは…旦那様の戦傷公報だ。これを読んだロッタは身体を震わせ、続いておぼつかない足取りで家の中へと歩いて行く。この奥様の変化に踊っていたカトリとペッカも気付き、カトリは家の中へとロッタを追う。家の中でロッタはカトリがいるのに気付いたのか気付かないのか「支度をしなくては…」と呟いて立ち上がる。そして目眩を起こし倒れるロッタに、カトリが駆け寄る。ロッタはカトリに戦傷公報の事を話して「ヘルシンキへ行かねばならない」と訴える。驚くカトリは旦那様の容態を描くが、ロッタは「重傷としか解らない」と震えながら返す。「私、行かなくちゃ。出発の支度をしなくては、今すぐ」と悲痛に語ると、ロッタは再び立ち上がって部屋へ行こうとする。だが廊下に出たところで倒れる。「奥様! 奥様、しっかり!」カトリが叫ぶ。「誰か! 誰か来て!」と必死にカトリが叫ぶが、結婚披露宴の喧噪でその声は誰にも届かない事が描かれたところで、本話はそのまま幕を閉じる。
 いよいよ平和だった物語が暗転する。その内容は「旦那様の戦傷」という奥様にとって、そしてクウセラ屋敷全体にとって重大な事態として描かれた。もちろん、これは旦那様が怪我をして入院したそれを見舞いに行くという「愛の若草物語」のような展開で住むとは思えない。このまま旦那様は生命を落とし、クウセラ屋敷が解体されて雇用人がバラバラになる展開が待っていると考えるべきだ。
 そしてこのシーンは、ビリヤミとアリーナがラブラブだったという展開を活かし、結婚式という華やかな場での出来事として描かれるから印象的でもあり、ここまで何話も平和な展開が続いていただけに衝撃的で見事な緩急がついた展開となったのは言うまでもない。
 さらのこのシーンのロッタが受けた衝撃がとてもよく描かれていて、この強印象シーンを上手く盛り上げているのは確かだ。ロッタが倒れるのはおやくそくだけど、二度も倒れたのはちょっとしつこかったな。
 この盛り上がりの火に油を注ぐのが、ロッタが倒れたことで最後にカトリが上げた叫びだ。本来のシーンならこの叫びに応じて屋敷の人々がざわざわと集まるところだが、ここで「結婚式の賑わい」という設定が効いてくるカトリの叫びは誰にも聞こえないというのを、結婚披露宴の音楽演奏でカトリの声をかき消す演出をすることで効果的に視聴者に伝える。そして何の救いのないまま、この暗転劇は次回へと持ち越される。こうなってしまったら、視聴者は次を楽しみに待つしかない。
感想  前話であれだけ衝撃的な内容を次回予告で流しておいて、今話では後半の半分を消化するまで次回予告で示唆された内容に入らないもんなー。普段ならこういう展開はもどかしく、また気が散るためあまりプラス要素にはならない。でも今回は徹底的に引っ張ったことで名場面欄シーンが盛り上がったのは確かだ。旦那様の戦傷公報を届けに来た軍人が現れるまで、本当に平和だったもんなー。それでも今話で暗転があることは次回予告で示唆されていたので、何かが起きると身構えてみてしまった。だからこそ引っ張られると盛り上がる。
 でも後半の前半分までの平和な展開も好きだ。カトリと若い靴職人見習の話は、面白かったけどカトリの姿勢が一貫していなかったという粗が見えたのは残念。あれは朝のシーンでは、カトリに「靴が上手くできない」と不安がらせてはダメだ。秋の繁忙期のシーンなんかイメージシーンだけで流され、しかもヘンリッカとの確執はいつの間にかなかったことにされたみたいだし…展開が平和すぎて粗が目立った。
 でも名場面シーンを始め、その平和なシーンの行間にキチンと「フラグ」を入れておいて話を少しずつ盛り上げるという丁寧なつくりも見られ、その展開については感心した。ちなみにカトリとクラウスが風車小屋を見学するシーンは、物語の暗転を盛り上げるため「引っ張る」だけに差し込まれたシーンであろう。でもああいうシーンを丁寧に描き込んで物語の合間に挟む点は、「世界名作劇場」シリーズの真骨頂と言っていい。
 今話で物語が暗転し、次話ではロッタだけでなくクラウスや「クラウスの世話役」としてカトリも一緒にヘルシンキへ駆けつける事になっている。もちろんそこで待っているのは、旦那様の臨終だろう。ここから物語がどう展開していくのが、いよいよ目が離せなくなってきた。

第34話「ヘルシンキ行き」
名台詞 「それから、坊ちゃんには旦那様のこと、何も言わないようにしてね。」
(カトリ)
名台詞度
★★★
 ビリヤミの結婚披露宴の最中で、奥様とカトリが突然席を外したことで嫌な予感がしたのだろう、ペッカは家の中でカトリを探す。しばらくすると奥様の部屋からカトリがビリヤミに報告するために出てきたところを、ペッカが見つけたかたちとなる。カトリはペッカに「旦那様が戦地で負傷なさったの」を発端に何が起きているかを説明すると、ペッカは「坊ちゃんを連れて行った方が良いんじゃないかな」とカトリに提案する。理由を問うカトリに「旦那様にもしもの事があったら…」と語るペッカに、ペッカの名を叫んだあとカトリが語った台詞がこれだ。
 随分久しぶりに名台詞欄に挙がったカトリのこの台詞であるが、ここはカトリの好判断がとても印象的な台詞だ。まだ旦那様の容態や、状況なども何も解らない。だから小さな子供に余計な心配をさせるべきではないし、そうなってしまうと夫戦傷の報せにより精神的疲弊が激しいロッタにさらなる負担が掛かる。だからここはクラウスにはまだ何も語らない方が正解だ。その判断をカトリが誰の指示を受けたわけでもなく、独断で同僚のペッカに命じて独断で実行するのだから凄い。恐らく屋敷の雇用人はみんな、このカトリの判断に従ってクラウスには何も語ってないと考えられる。このカトリの好判断が暴走的でなく、不自然ではないのはなんと言ってもここまでカトリを一貫して賢く描いた来たからだ。これが「世界名作劇場」シリーズの他の主人公であれば、その多くがこのような好判断はできないように描かれている。
 その上で言うが、この台詞に至るカトリとペッカの会話においてペッカの判断も正しい。旦那様の怪我の具合がどうあれ、ここはその長男であるクラウスは旦那様を見舞わなければならないところだ。その辺りの理由はこの夜のシーンでビリヤミがキチンと語る。旦那様の容態が悪ければクラウスに引き合わせなければならないし、大したことがなければ旦那様が喜んで終わるだけの話だ。どっちに転んでも悪いことにはならない。逆に屋敷にクラウスを引き留めておくことが、万が一の際にみんなが後悔することになる。つまりペッカも好判断をしているのだが、カトリの好判断はペッカのそれを上回っているのは事実。好判断に対してさらなる好判断、という意味でこの台詞が印象に残った。
名場面 再会 名場面度
★★★★
 ロッタとクラウス、そしてクラウスの世話役として同行したカトリがヘルシンキの病院に到着する。病室の番号は「3階の318号室」、階段を上り3階の廊下でまずはロッタが一人で病室に入ることを決め、クラウスはカトリと共に廊下のベンチで待つこととなった。病室の扉をノックし、出てきた看護師に「クウセラ大尉の妻です」と名乗るロッタを見て、出てきた看護師は驚きの表情を見せる。多くの視聴者はこれで何が起きたか理解しただろう。看護師に案内されてロッタが病室に消えると、不穏なBGMとともに「カトリ達はしばらく待ちました、病室からは何の気配も感じられません。カトリは不安な気持ちになってきました」というナレーターの解説が入る。クラウスが廊下のベンチで退屈そうにしているシーンが挟まると、病室の扉が開く音がする。扉から現れたのは、完全に表情を失ったロッタだった。「おかーさん」と駆け寄るクラウスを、ロッタは泣き崩れながらも抱きしめる。帽子のつばで表情が見えないカットでのロッタのアップに画面が切り替わると、「お父様が…お父様が亡くなったわ」とロッタが告げる。衝撃の表情を見せるカトリと、そのまま帽子のつばで表情が見えないカットのロッタが交互に映され、カトリが「奥様…」と呟くとそのまま本話が終わる。
 前話で訪れた「物語の暗転」は、まさに最悪の形を迎えたと言って良いだろう。確かに前話でクウセラの旦那様には死亡フラグが立てられる展開になっていて、前話のラストや今話の冒頭では多くの視聴者が「旦那様が死ぬような展開になる」と感じていたはずだ。だが物語はヘルシンキへ向かった3人と、途中まで馬車で送迎したペッカの楽しい旅路が描かれてしまい、そのシーンの楽しさがいつしか「旦那様は大したことがない」という楽観的な空気に変わっていたのは確かだ。もちろん劇中では誰も楽観論を語っていないが、「旦那様の容態」についてこのシーンまで引っ張った結果物語が勝手にそうなったというのが正しい見方だ。もちろん見ている視聴者にも、あの楽しい旅路を挟んだことで勝手に楽観的な空気を感じてしまっているはずだ。旦那様の容態についての心配なんか、劇中のキャラクターも視聴者もどこかに吹き飛んでしまっているのだ。
 ところが、蓋を開けてみれば予想以上の最悪の結果だ。あくまでも旦那様の「戦傷公報」に従った旅路であり、劇中から得られる情報は旦那様が重傷ながらもまだ生きているという情報だ。だから劇中のキャラクター達もそうだし、多くの視聴者は状況はどうあれ生きている旦那様の再登場を期待したはずだ。最悪でも危篤状態で、臨終シーンが描かれるような展開を期待したはずだ。なのに蓋を開けてみれば…旦那様は既に死亡したあとだったという衝撃だ。
 でも考えてみれば、ヘルシンキ駅に着いた段階でもう残り時間が僅か、今話中に臨終シーンを描くには足りないところまで来ている。さらに言えば重傷の旦那様が出てくるにも時間が足りない、勘の良い視聴者はそこで「おかしい」と気付いていると思うが。
 そしてこの想定以上の最悪の事態を、最初に演じたのがナレーターと二役の看護師だ。まだ何が起きるか解っていないのに、上手く中で何が起きたかを僅かな声だけで印象付ける。続いてのナレーターの解説は、「重症患者がいるにしては状況がおかしい」という事と、それにカトリが気付いている事を上手く示唆して物語を盛り上げる。それに旅の延長で退屈なクラウスが上手く味を添えている。そして何が起きたかを知った奥様の登場、最初のドアの隙間から見える表情を失った奥様の描写は秀逸だ。奥様がクラウスを抱きしめ何が起きたかを語るところで、ロッタの顔を帽子のつばで隠したのは上手くやったと思う。美しい奥様の表情を破壊するだけでなく、正直見ている方がそのロッタの表情を見るのが辛いからだ。
 こうして静かに、しかも着実に「クウセラ屋敷のピンチ」を描き、物語を盛り上げた点でとても印象的だ。そしてこの事態を見てしまったからには、今後の展開を期待しない訳にはいかないだろう。
感想  旦那様が死ぬにしても、臨終シーンを置くと思ったんだけどなー。ヘルシンキに着いてみたら旦那様は危篤状態で、ロッタがその死の瞬間に立ち会わされるような展開になると思っていたら…着いたらもう死んだあとだったなんて…。
 前半はビリヤミの結婚披露宴の式場に、旦那様の戦傷公報の件が徐々に広まっていくことを上手く描いている。まずカトリがペッカに語り(名台詞欄)、続いてビリヤミに報告し、ペッカやビリヤミの耳に入れば祝いの席であってもクウセラ屋敷の面々に話が伝わることは行間から読み取れるだろう。そして「もう汽車がない」を理由に引き延ばされる旅立ち、急遽クラウスを同行させることになった混乱なども上手く感じさせてくれる。クラウスの世話役としてカトリの同行が決まったのも、そんな行間をあぶり出すためだろう。
 だが緊張的なシーンはそこまで、後半に入ってヘルシンキへの旅が始まると、旦那様戦傷という厳しい展開がウソのような平和な旅路になる。このパートで一番悲壮だったのは、飼い主のカトリに置いてきぼりにされたアベルだったぞ。駅までの街道の話、カトリの汽車旅経験談を筆頭に、前話までの平和な展開を思い出すのんぴりした話だ。それが駅から汽車に乗ってヘルシンキ駅に着いて、さらに病院へ向かう馬車の上でも続いているんだから驚くしかない。名場面欄にも書いたが、よく考えたらこのような形で明らかに「引き延ばし」をしてきたことでおかしいのだ。病院に着いた頃には、残り放送時間で旦那様の臨終を演じるにも、負傷した旦那様との再会を演じるにも時間が足りない。でも見ている方はそれに気付かないようなつくりにもなっているのが面白い。
 そして名場面欄シーンでは、多くの視聴者が想定していた以上の最悪の結果だったであろう事は名場面欄で語った通りだ。「負傷した」とだけ言われていた患者を見舞いに行ったら、既に死んでいたというのは最悪以外の何物でもないだろう。この旦那様死去が判明するシーンを、静かに盛り上げていったのは名台詞欄で語った通りだ。
 そして次回以降は、旦那様の死去という展開を通じてクウセラ屋敷の空中分解の展開となるのは確かだ。早速屋敷が金に困って借金する展開が、次回予告で示唆されている。恐らくロッタは農地や家畜を売却し、クウセラ屋敷の雇用人がバラバラになるのだろう。この先の流れでカトリはまた仕事を失うと思うが、残り話数を考えればこの流れの中でカトリが勉学の道へ進むきっかけの展開になるのは確かだろう。えっと、アッキやソフィアは何処で再登場するんだっけ? 本当に覚えいないなー、今話だって鉄道が出てくる話なのに、全く覚えてなかったもん。

第35話「父と娘」
名台詞 「僕のお父さんも十字架になった。」
(クラウス)
名台詞度
★★★
 葬式から埋葬まで終わると、ロッタは夫が眠る墓前から離れられず、カトリにクラウスを連れて教会の中で待つように命じる。「僕のお父さん、本当にあのお墓の中に入っちゃったの?」「ええ、坊ちゃんのお父様は天国に召されたんです」「また戦争に行ったんだと思った、僕…」とのクラウスとカトリの会話を置いてから、二人が教会へ入る。教会へ入ったクラウスが祭壇の前に立つと、牧師がやってきて「坊や、お祈りをしたかい?」と問う。そのクラウスの返事がこれだ。
 「世界名作劇場」シリーズで描かれる「死」、その中で描かれる要素の一つに「死んだ人の親族に幼児がいる場合、その幼児の視点で死を描く」というものがある。この埋葬後のシーンでクラウスが退屈そうにしているのはその始まりと言って良い、見た目何が起きているのかよく分かっていない…葬式での幼児は多くの人の目にそう映るはずだ。ロッタも心の中の呟きで「あの子はあなたが亡くなったと言うことがよく分かっていない」と語る。
 だがその間のカトリとのやりとりを通り越したあととは言え、クラウスのこの発言は「父の死」というものがどういうことか、幼いなりに理解していることが見えてくる。クラウスが「父の死」をできていないのは確かだろう、その理由としてクラウスが父の亡骸を見ていない(これはロッタが心の中の呟きとして語っている)のか最大の理由である。父の亡骸はクラウスが見ないうちに棺に移され、葬式をして埋葬をした…これがこの葬儀の実情であろう。また、前話の名場面シーン以外では、誰もクラウスに「父の死」をしっかり語らなかったのだと思う。だからクラウスは父親が戦場へ行ったままだと勘違いしているし、目の前の墓で父が永眠っていることも実感が持てない。
 だがカトリがクラウスにキチンと「お父様は天に召された」と語ったことで、クラウスは「父の死」というものを受け止めたのだ。実感はできないけど、確かなのは「父はもう帰ってこない」事だけは理解したのだ。それを墓の十字架に見立てて、自分の父が十字架そのものになった→つまり神様になったと考えたのだと解釈できる。
 もちろん、キリスト教的な教えに従えばこの考え方は不正解だ。キリスト教では人は死んだら神になるのでなく、神の元へ行くのだから。死んだら仏様になるのは仏教的に考え方であり、欧米の考え方ではない。だがそんな宗教的な話などまだ身につけていないクラウスにとって、「父が帰ってこない」という事実を自分の中で理解して受け入れるには「父が神様になった」と考えるしかないのだ。そうして父が常に自分の中にあることで、この悲しい出来事を乗り越えようとしているのだ。
 お葬式の場でこのような幼児は、何らかの形で「人の死」というのをキチンと理解している。幼いからよく分かってないというのはあくまでも大人の一方的な見方であり、幼児は幼児なりにそれを理解して乗り越えようとしている。そんな事が上手く明示された台詞として印象に残った。
名場面 父と娘 名場面度
★★★
 夫の死去、それに伴う葬儀やヘルシンキ滞在などで、ロッタは手持ちのお金を使い果たしてしまう。その対策としてロッタは父の友人が経営するヘルシンキの貿易会社にお金を貸してもらおうとカトリをその会社へ使いに出すが…カトリがホテルへ連れ帰って来たのはロッタの父であるエリアスだった。カトリがロッタとエリアスを引き合わせる、「お父様…」と呟き身を起こしたロッタは「あの人が…カルロが死んだの」と悲痛な声で語る。「カトリから聞いた、色々大変だったな」と父は娘に同情の言葉を掛ける。「どうしてお父さんがここにいるの?」「偶然さ…いや、神様のお引き合わせだろう、カトリが来たとき私はコッコ商会に行っておったんだ」と二人が経緯を語り合っているそばで、カトリがクラウスに何か耳打ちしたと思うと、クラウスを連れて部屋の外へ出て行く。ロッタは手持ちの金を使い果たして困っていることを父に告げ、エリアスは自分が来たからには何の心配もないと返す間に、カトリとクラウスは部屋から姿を消していた。その物音に気付いたロッタが「何の音?」と問うと、エリアスは「カトリがクラウスを連れて出て行ったようだ…賢くて良い子だ」と返す。ロッタがこれに同意すると、二人はいよいよ本題に入る。夫を失ったロッタのこれからについてだ。
 このシーンの何が印象に残ったって、ロッタと父の感動の対面ではない。その感動の対面の画面の隅でコッソリと描かれているカトリの動作だ。この対面が久々の親子対面であり、かつ今後のことなど難しい話が多く語られるであろう事を察するやいなや、そのような難しい話が長く続くことに耐えられないクラウスを誰に命じられたわけでもないのにコッソリと外へ連れ出す。むろんここで描かれてるのはカトリと賢さだけでなく、このようなさりげない行動がロッタのさらなる信頼を引き出すと共に、エリアスの信頼を引き出す要素として活用される。今後の展開においてカトリはロッタだけでなく、エリアスからの信頼を得ることが大事なのも確かだろう。恐らく物語は、ロッタがクウセラ屋敷を処分してトゥールクで父と生活をする展開へ進むことが考えられる。となるとカトリを解雇して自分と息子だけが…という展開はもうあり得ないだろう。ロッタは使用人としてカトリをトゥールクへ連れて行き、共に生活をする事になるであろう。同時にこの展開ならソフィアやアッキの再登場へと話は続くし、カトリがロッタのの専属使用人の立場になれば勉学への道も開ける展開となる事が予測される。つまりそのためには、カトリがロッタのさらなる信頼を獲得する必要があるし、エリアスから厚い信頼を寄せられなければならないのだ。
 しかし、カトリと同い年の自分だったらそんな方に気が回らないなー。だからこそこの物語、印象に残らなかったのかも知れない。主人公に感情移入できなくて…。
感想  旦那様の死は唐突だったが、それを強調するように本話ではその葬儀や埋葬シーンは描かれなかった。「世界名作劇場」シリーズでは登場人物の死により、キリスト教式の葬儀が丁寧に描かれるのは定番だが、本作ではそんな要素はすっ飛ばして埋葬後に妻が一人夫の墓前に向き合っているシーンになっていた。その中でのロッタの心の呟きは、実はクラウスの台詞とどっちを名台詞欄に上げるか悩んだ。でもクラウスの台詞の方がさりげなくサラッと語られた分だけ、印象に残ったのは確かだ。
 そして葬式が終わって一段落つく間もなく、今度は一行に名場面欄冒頭に書いた理由で「資金難」という困難が襲ってくる。確かに銀行にお金が沢山あってもATMなんかなかった当時のことだ、使いの少女が行って簡単にお金を引き出せるわけがない。そこでヘルシンキにロッタの父の知人がいるという、なんかとってつけたような設定に従ってカトリはその知人の所まで走ることになる。この時、カトリは路面電車に乗るのだが…「電車」に乗った「世界名作劇場」シリーズ主人公って、私は他にポルフィしか知らないんだけど。路面電車となると他にいないんじゃないかな…なんて考えながら眺めてたのは私だけだと思う。
 その「ロッタの父の知人が経営する会社」につくと、事が簡単に進まないのが面白い。窓口にいて対応したおっさんはなんかぶっきらぼうだし、「こいつ、本当にカトリの用を取り次いでくれるのか?」という疑念が沸くよう上手く作られている。その上で長時間待たされ、やっと出てきた面会相手の社長には確かに来客があった。ここまで引っ張られたらタダで終わるはずはない、と思って見ていると…その来客がロッタの父だったとは…ご都合展開などと突っ込んでは駄目だ。
 カトリがロッタの父をホテルに連れ帰るという大金星を挙げると、名場面欄の通り「ロッタの将来」という問題が物語に出てくる。これは帰りの汽車シーンもその方向へ物語を引っ張っていると言って良い。
 その間で描かれた電気のスイッチを珍しがるシーンは、「世界名作劇場」では3例目だ。最初は「ペリーヌ物語」でペリーヌが、その次は「わたしのアンネット」でダニーがこれをやってる。このシーンは当時の「電気が珍しい」という「時代」を上手く表現することで、見ている子供達に「電気が無い時代」を想像させる大事なシーンだ。こういう余計なシーンって、いまどきのアニメにはないよなー。
 そして最後、付け加えるようにクウセラ屋敷の冬が描かれるが、このシーンは旦那様の戦死なんかどこかへ吹っ飛んでしまったような平和なシーンだ。だがここからしばらくはこんな平和な物語をのんびりと描いている場合ではないだろう。

第36話「奥様の決意」
名台詞 「20リットルの水が入る樽があります。でもその樽の底には穴が空いていて、1分間に1リットルの水が漏れてしまいます。その樽に3リットルの水が入るバケツで、1分間に1回ずつ水を入れたら、何回で樽は一杯になりますか?」
(カトリ)
名台詞度
★★
 「算数を勉強する意味が分からない」「足し算や引き算は自然に身につく」と語り合うペッカとヘンリッカに、カトリが語った現在勉強中の算数問題だ。
 この問題のペッカの答えは、「穴の空いた樽に水を入れるヤツなんかアホだ」とした上で「樽の穴を塞ぎ、それから水を入れる。20リットル入りの樽に3リットルのバケツだから…7回もやれば一杯になる」であった。ヘンリッカはこの回答に同意。確かにペッカが言うことも正解だ、だがそれは問題が「樽の水を一杯にするにはどうすれば良いか?」という場合であり現場作業においての正解でしかなく、算数問題としては正解ではない。
 たとえば、この樽の下に漏れた水で回る水車があって、これを回転させ続けなければならない仕事をしている前提であれば、ペッカもヘンリッカもこの回答が正解ではないことに気付くだろう。ペッカやヘンリッカが得意な現場仕事は時と場合により回答が違い、答えは決して一つではない。つまりこの台詞を通じてペッカとヘンリッカの「現場脳」が優れていることは描かれている。
 だがカトリは違う。カトリがここでこのペッカの回答とヘンリッカの同意に敢えて反論せず、「算数の問題としての正解」を求めただけだったのは、カトリもペッカの回答が間違っていないことを知っているのだ。だがカトリは現場での実務計算と算数での問題計算は質が違うことを知っており、これを使い分ける脳を持っている。現場での実務計算は作業の目的に従った対応をしなければならないが、算数での問題計算は計算することそのものが目的だ。だが実務で現実的でない問題が出てきても、それに沿った回答をする必要がある事を知っている。ペッカやヘンリッカは仕事で慣らした身体と脳のため、「計算が目的の計算」をすることができない。そんな「頭の良さ」についての方向性の違いをここで上手く表現しているのだ。
 この問題、テレビの前の視聴者に算数の問題として計算してみた人は多いことだろう。私の回答を示そう。
 この問題のミソは、樽から漏れる水の量とバケツで補給される水の量が1分単位で書かれていることである。つまり水が漏れる速度が1リットル毎分、補給される量は3リットル毎分。これを差し引くと2リットル毎分で樽の水が増えることになる。つまり樽から水が漏れる量を無視して1分間に2リットルの水を樽に補給していると考えれば良い。樽の容量が20リットルだから、これを水が増える量である2リットル毎分で割れば、10分という数字が導き出される。これに今度は1回毎分という水の補給回数で割れば、回答は「10回」だ。
名場面 カトリの今後 名場面度
★★★★
 ある日、カトリはロッタから「祖父母の家からそらに遠い場所に勤めることになっても大丈夫か?」「できればクウセラ屋敷を辞めて欲しい」と告げられる。だがその時はその理由を語る前に、クラウスに遮られてしまい詳細を語ることができなかった。その日は忙しくロッタが続きを語ることはできず、翌日にロッタが詳細を語り始める。その内容はクウセラ屋敷をビリヤミ夫妻に売却することであった。もちろんロッタもビリヤミがそんな裕福でないこと走っており、20年ローンという破格の条件を考えている事も語る。ロッタはこの話をビリヤミ夫妻に告げるためカトリに呼びに行くよう命ずるが…カトリは扉のところで振り返ってまた戻ってくる。「それで奥様はどうなさるんですか」と問うカトリに「言い忘れた」とした上で「私はトゥールクの実家へ帰ります」と返答、そこにロッタの父だけでなく叔母がいる事を付け加える。「そうですか。トゥールクへお帰りになってしまうんですね…」と落胆するカトリに、ロッタは「そう、カトリも来てくれるわね?」とそれ当たり前であるかのように問う。「え?」驚くカトリに「私と一緒に来てもらいたいの、あなたの知り合いもいるんでしょ? アッキさんとか…」とロッタが続ける間にカトリは笑顔になり、「行きます! 是非連れて行ってください!」と返す。「この屋敷を辞めることになるのよ」と確認するロッタに、カトリは前日の話を思い出して「そういう意味だったんですね」と返す。だがロッタの話はこれだけで終わらない。「それから、トゥールクに来たら仕事をするだけではなくて、カトリには学校へ行ってもらいたいの」…ロッタのさらなる言葉にカトリは驚き、「学校…」と呟く。「嫌い?」と問い直すロッタをよそに、カトリは天にも昇るような表情に変わって「夢を見ているんではありませんね。学校…」と喜びの声を上げる。そのカトリの喜びを確認したロッタは、カトリにビリヤミ夫妻を呼びに行くよう改めて命じる。「はい!」元気よくアンサーバックしたカトリだったが、まるで雲の上を歩くかのような足取りで部屋の扉まで行ったところで立ち止まる。「どうしたの?」ロッタが問うと「あのう、私、どういうご用を…」と嬉しさでもう命令を忘れているカトリの笑顔があった。ロッタが命令を再確認なすると、「そうでした、私ぼーっとしてしまって…すみませんでした」と言い残してカトリは部屋を出て行く。これを笑顔で見送るロッタ。
 物語がハッピーエンドになるための一つの要素がようやく提示された。内容的には前話の名場面シーンで推察した通りで、ロッタがクウセラ屋敷を処分してトゥールクの父の元へ帰ることとし、これに際してカトリを専属使用人として同行させた上でカトリを学校へ通わせることで「勉学への道」が開けたのである。同時にクウセラ屋敷の処分方が「ビリヤミ夫妻に20年ローンでの売却」という点は、ビリヤミやアリーナだけでなくペッカやヘンリッカの誰も不幸にしない展開なのも評価点だ。このあとのシーンで、ビリヤミ夫妻はこの提案を喜んで受けることが示唆されている。
 同時に、ここでカトリのトゥールク行き決定は、「勉学への道」が開けただけでなくアッキやソフィアとの再会という展開が約束されたと言って良いだろう。いよいよ物語は「牧場の少女カトリ」の最終局面へ向けて大きく舵を切ったのであり、このシーンは物語の大きな転換点として印象に残った。
 そして何よりも、カトリの喜びをキチンと再現したところも面白い。劇中前日シーンで「屋敷を辞めて欲しい」と告げられてからの不安や、このシーンでのビリヤミ夫妻への屋敷売却を知り「自分の将来」に一度不安を持つからこそ、この喜びは大袈裟に書いて正解だ。特に学校へ行けることが決まり、天にも昇るような表情で喜んだり、雲の上を歩くような足取りはカトリの気持ちが良く伝わってくる。その上でカトリがロッタの命令を忘れるところなんかは、決して大袈裟ではない。珍しいカトリの失敗、しかも笑って済む話程度の失敗だからこそ「カトリの喜びの表現」として印象的なのだ。
感想  今話は「旦那様の死」がきっかけの新展開が示される話であることは、前回の次回予告で示唆されるまでもなく物語を追ってきた者にとって理解できていることだ。次回予告でロッタがクウセラ屋敷の売却を健闘していることが示唆されていたため、それをどのように処理するかが問題になる。
 今話の面白い所は、その結果を冒頭でロッタが断片的に語りかけたところで、クラウスに遮られて止めるところだ。そしてそこまで語られた断片的な話は、「カトリがクウセラ屋敷以外のところで働くことになる」事が前提で、しかも「カトリにはクウセラ屋敷を辞めてもらう」ことになる結論であることだけが語られる。その情報はカトリに取って不安に者ばかりで、これによって視聴者がカトリとともに詳細が公表されるまで半話をカトリに感情移入してみることができる。劇中でカトリがクラウスとのそり遊びや、算数の勉強に気が散って身が入らないことが描かれているが、これは視聴者もまさにそうだったはずだ。カトリの今後がどうなるのか気になって物語に集中できない。普段はこのような要素で物語に集中できないのはマイナスだが、名場面欄でカトリの喜びが約束されているという結果が解るとその描き方が適していることがあとになって解ってくる。
 だが物語はそうやった視聴者の気を散らすことだけ考えているのではない。劇中のカトリに必要である「他のことを考えさせて気を紛らわせる」という展開が用意されていたのだ。それが名台詞欄のシーンで、視聴者はカトリが出した問題を頭の中で解いてみたり、ペッカの回答について考えたりと物語の主展開に対する不安から一時期気が紛れたことだろう。
 そして後半、名場面シーンで物語の今後が示され、物語はその展開に従って大きく舵を切る。カトリの喜びが描かれるとすぐにビリヤミ夫妻が「20年ローンでのクウセラ屋敷購入」に同意するシーンが描かれる。ここでアリーナが「カトリは自分たちが雇いたい」と主張するのは、カトリが主人公で人気者という事を上手く示唆している。この会話の中でペッカのことが出てきた時、視聴者は「またペッカとカトリの別れが演じられるのか…」と思い出すことだろう。
 そしてラストはこの新展開に対するペッカの反応だ。ペッカがせっせと働いているシーンは見ていて面白い。そこにカトリが現れ、奥様の部屋でどんな会話があったかをペッカに伝える。もちろん、ペッカが面白くない表情をするのは予想通りだ。なんてったって今度こそは半永久的にカトリと一緒に生活ができると信じ、将来はお嫁さんにも…と思っていたはずだ。大好きな女の子と引き離されるペッカの気持ちがキチンと描かれ、その八つ当たりとしてカトリを乗せたそりを引っ張るシーンは最高、どちらを名場面欄に上げるかかなり悩んだ。カトリが「もう逢えないと思った人に何度も会えた」って言うが、本作はそういう要素多いな。「もう二度と会いたくない人にも会えた」ってハンナとその一味のことだな。ここでペッカが語る「生きていればまた逢える」というテーマは、「世界名作劇場」シリーズ全体を通じてのテーマの一つだろう。彼はその言葉で自分を納得させようとするが、やっぱり納得できずに闇雲にそりを引っ張るのは気持ちがよく分かるといったところだ。

第37話「迷子のアベル」
名台詞 「あーっ、そう、それよ! 奥様…その言葉よ! お願い、もう一回言ってみて、カトリ。ねぇ、お願い、ねぇ。」
(アリーナ)
名台詞度
★★
 ロッタとクラウスが一足先にトゥールクへ旅立ったことで、いよいよクウセラ屋敷はビリヤミ夫妻の運営によることとなる。その日の夕食の席でビリヤミから1年分の給与について説明を受けたカトリは、「ありがとうございます、旦那様」とビリヤミにアンサーバックする。これを聞いた妻のアリーナはカトリに「ねぇ、ちょっとちょっとカトリ。あのう、私にも言ってみてくれないかしら?」と興奮気味に言う。カトリが平然と「何を言えばいいんですか? 奥様」と返すと、すっかり感激したアリーナがこう力説する。
 ここまで「ビリヤミの恋人」または「ビリヤミの新妻」というだけで余り目立たなかったアリーナが、ロッタから屋敷の妻の座を奪ったせいか今話はとても目立つ。その中でも最も印象的なのはこの台詞だ。これまで目立たなかったこともあってその性格が明確でなかったアリーナだったが、この台詞で無邪気なその性格を爆発させたと言って良いだろう。
 そしてこの台詞を印象付けるためなのか、それが結果的なものかは解らないが、ここまでビリヤミが「旦那様」と呼ばれるシーンは他にもあったが、アリーナが「奥様」と呼ばれるシーンはなかった。つまり視聴者が確認できる範囲内ではここはアリーナが最初に「奥様」と呼ばれたシーンとなるからこそ、この台詞が面白くて印象に残るのだ。恐らく、物語の行間を読んでみてもここがアリーナが最初に「奥様」と呼ばれた瞬間であり、その感激をうまく描いたと言ったところだろう。
 この時、カトリが平然とした表情と口調で自然にアリーナを「奥様」と呼んだのも、この台詞を面白くした要素だ。またアリーナがこの台詞を吐いている間、カトリもペッカもビリヤミもキョトンとした表情になっているが、これは視聴者の多くもそうだっただろう。なんてったってここまでのアリーナはこんな感じに弾けるようには見えなかったからだ。ビリヤミが「いい加減にしろ」とアリーナに注意してこのシーンは終わるが、カトリがビリヤミを「旦那様」と呼び、アリーナを「奥様」とただ呼ぶだけでなく、このような印象的な返答を付けさせたことで夫妻の「立場の変化」を上手く描いたと思う。
 ちなみにビリヤミが最初に「旦那様」と呼ばれたシーンは別にあり、そのビリヤミの反応は最初は自分が呼ばれたと気付かずに辺りを見回したあと「俺か!」というものであった。
名場面 「幸せ」について語る 名場面度
★★★
 カトリはペッカが繰る馬車で自宅へ一時帰宅する途中、ライッコラ屋敷に立ち寄ってウッラが産んだ赤ん坊の様子を見た。ここでウッラはカトリが将来幸せになるためにどうするかを語るが、それはカトリが見ている将来の夢とは違うものであった。ライッコラ屋敷をあとにした馬車の上でペッカが「カトリがトゥールクへ行くと言ったら驚いたろう?」と問うが、カトリはその問いを無視して「幸せになるって、どうすれば良いか考えたことある?」とペッカに問う。ペッカは唐突な問いに驚いたあと「そんなこと考えたことがないよ」と返答、カトリはこれに「ペッカはいつも幸せ?」と突っ込む。「いつもって事はないけど、ま、大体幸せなんじゃないかな…カトリがトゥールクに行かなければ、もっと幸せな気分になれるのは確かだな」とペッカは答えるが、カトリは突然「誰かがアベルの綱を外しておいてくれたか?」という問題を思い出し、会話はここで途切れる。
 「幸せになる」というのも「世界名作劇場」シリーズでは重要なキーワードのうちの一つだ。ウッラに大人になったら屋敷に奥様として迎え入れられ、子供を多く設けることが幸せだと諭されたカトリが、この車上で「幸せ」について考えていたのは想像に難くない。実は「幸せ」について真剣に考えてしまう状況というのは自分が「不幸」と感じているときか、「幸せ」を見失っているときか、「幸せ」について悩んでいるときかのどれかだ。カトリは今の生活を「不幸」とは考えていないと思う。仕事は楽しくできているし、ロッタがクウセラ屋敷を引き払うことで将来の夢に向けた勉学の道も開かれようとしている。カトリが考えているのは「現在」の事でなく「未来」の事であって、将来幸せになるにはどんな道を選べば良いのかを悩み、その悩みをペッカに問うてみたのだろう。
 ところがペッカの返答は、まず現状に満足している台詞から入る。ペッカも仕事は楽しいだろうし、普通に喰って行けているので「不幸」ではない。その現状に満足している上での不満…「一緒にいられると思った好きな女の子が遠くへ行ってしまう」事を白状するのだ。だがその不満も「不幸」ではなく、その不満がなければパーフェクトに幸せというのがペッカの言い分なのだろう。
 ここで二人が見ている「幸せ」の方向性が違うことが上手く描き出されている。ペッカはとにかく現状に満足しており、この現状を維持するために今の自分が精一杯働くことだけを考えている。一方のカトリが見ている「幸せ」は将来のこと、自分が大人になったときに「幸せだ」と言えるかどうかの問題であり、そのために今自分ができることに悩んでいる。無茶してでも自分の夢を叶えることが幸せなのか、それともウッラの言うように現在の自分の丈に合った将来を選択することが幸せなのかという深い悩みだ。
 そしてこの会話は結論を出さない点が評価できる。それによってカトリについては何で悩んでいるかが明示されるだけだし、ペッカが現状で満足しているという相違点を上手く描き出せているし、回答を出さないことで物語が行くべき結論を先延ばししているという点もあるだろう。いずれにしてもカトリの幸せは、夢を追いかけた向こうにあることだけは確かだが、それにカトリがまだ気付いていないという点はもどかしい。でもテーマの重さではとても印象的だった。
感想  う〜ん、カトリがクウセラ屋敷から自宅の祖父母の元へ一時帰宅する片道だけで一話消化するとはなー。だから今話も基本的にはなにも起きてない。冒頭でロッタとクラウスが一足先にトゥールクへと旅立ち、カトリが祖父母の元に一時帰宅する道のりなんか何度も往復している道だからさっさと終わらせるかと思ったら…ライッコラ屋敷に寄り道するなどいろいろあるし。なによりもサブタイトルになっているアベルの迷子が、劇中の隙間要素でしかなかった点は「それをサブタイトルにするかー?」って感じだった。
 でもアベルを置き去りにしての一時帰宅なのに、次回予告でアベルがでているって事は…まさかアベルがカトリを追って祖父母の家に自分で到達なんてオチじゃねーだろーな? でも昔「世界名作劇場」でそんな展開の話を見た記憶が…。
 名台詞欄に書いたビリヤミ夫妻が「旦那様」「奥様」扱いをされるところはなかなか面白かった。それだけでない、今話はなんかアリーナが目立つ回だったと言って良いだろう。名台詞欄シーンだけでなく、自分たちの立場が変わった事をヘンリッカに注意するシーンや、ヘンリッカと一緒にカトリの弁当をつまみ食いするシーン、繋がれたアベルを解放するなど今まで目立たなかったのがウソのように劇中に顔を出すことになって驚いた。まぁ、ここまでの展開では本来はアリーナが出てくるところにロッタが居座っていたからなー。
 そして後半はカトリの帰宅の片道だ。ウッラの赤ん坊が思ったより大きかったので、ウッラはメンヘルが治ってカトリが解雇される前にはもうテームに「おねだり」していたんだろーな。ライッコラ屋敷のシーンでペッカがいなかったのは、29話同様にペッカはペンティラ屋敷に顔出しに行っていたと解釈するべきだ。名場面欄と「アベルの迷子」シーンを挟むと、いよいよカトリが自宅に帰還。今回は時間が足りなくなっていたこともあって、祖父母との再会は普通に演じられた。同じ事の繰り返しでは差別をするために変わったことをするのはたいてい後の方だが、本作では先に「変わったこと」をしていたって事だ。
 次話では久々のマルティ再登場のようだ。なかなかカトリがトゥールクに到着しない…。

第38話「それぞれの道」
名台詞 「色々ってなんだい? 君は、君はカトリのそばにいたんだろ? それなのに、君はカトリを守ってやらなかったのか?」
(マルティ)
名台詞度
★★★
 カトリはペッカと共にハルマ屋敷を訪れ、マルティと1年ぶりの再会を果たす。カトリとマルティは手を握って感動の再会を喜んだあと、続いてペッカに普通に挨拶する。ペッカが挨拶を返すと、マルティは「カトリがクウセラ屋敷を辞めたらしいけど、何かあったのかい?」とペッカに問う。「ああ、色々なことがあってな」と軽く返したペッカに、マルティが詰め寄る台詞がこれだ。
 結論から言うとこれは「カトリがクウセラ屋敷で辛い目に遭ったから辞めたに違いない」とマルティが勝手に勘違いしたものだが、この台詞からマルティの「思い」が痛いほど伝わってくるからとても印象的だ。劇中での1年前、マルティはカトリが「ペッカがいるクウセラ屋敷」で働くことがあまり面白くなかった様子だ。それは大好きな女の子であるカトリが、ライバルの男子と一つ屋根の下で生活するという事実であり、そこにはマルティの嫉妬の気持ちもあったはずだ。これを機にカトリが自分よりもペッカと仲良くなってしまうのではないかという恐怖も、マルティは持っていたはずだ。
 同時に、マルティのペッカに対する信頼があったのも事実。ペッカはマルティを救ったことがあるし、カトリを巡っての嫉妬はあれど自分を認めている友でありライバルであることを認めているのも事実だ。だからカトリが見ず知らずの屋敷へ働きに行くに当たり、「何かあってもあいつならカトリを守れるはずだ」という思いもあったはずだ。同時にそれはペッカに対しての嫉妬を抑え、自分を納得させる考え方でもあっただろう。
 だが「カトリがクウセラ屋敷を辞めた」と聞いて、カトリがそんな簡単に仕事を辞めるはずがないと知っているマルティは前述のように勘違いするしかなかった。その勘違いはマルティの中にある「クウセラ屋敷に対してのカトリの窓口役であったペッカは何をやっていたんだ」という気持ちに繋がるのは当然だ。そんなマルティの「カトリへの思い」「ペッカへの思い」を同時に描き出すために、マルティに敢えて勘違いをさせて吐かせたこの台詞はとても印象に残った。
 もちろん、この台詞に対しペッカは「おい、何勘違いしてるんだよ?」と返し、すぐにカトリも強めるマルティを制止して「事情をゆっくり話す」とする。マルティは二人の顔を交互に見た後「じゃ、いじめられたり酷いことをされて辞めたんじゃないんだな?」と確認、「当たり前よ」とカトリが平然と返すと「そんならいいんだ」とマルティは笑い、気を悪くして「慌て者!」と罵るペッカに謝って一件落着だ。
名場面 ライッコラ屋敷にて 名場面度
★★★★
 クウセラ屋敷を脱走したアベルは、カトリが訪れた後のライッコラ屋敷に現れる。最初はアンネリがそれに気付き、続いてウッラがこれに気付いてアベルに餌を与える。
 その夕方、餌を食べ終わったアベルの様子を見て「どうしたらいいか…」とウッラとアンネリが語り合う。アンネリは「とりあえずアベルをここに置いておいて、時間があるときにビヒトリにカトリの元へ届けさせる」という提案をし、ウッラがこれに同意する。餌を食べ終えたアベルは飼い主を探してライッコラ屋敷の庭をうろつき、その様子を見たウッラが「(カトリが)いないと解ったらきっと出て行ってしまうわ、綱で縛っておくしかないわね」と語ると、アンネリが「綱を持って参ります」と一度席を外す。ウッラがアベルを呼び、カトリの元で飼えないならうちで引き取ってもいいとアベルに訴える。そうしているとアンネリが綱を持って再登場、ウッラがアベルを繋ぐためにアベルの身体を押さえる。綱を持って歩くアンネリの姿がアベル視線で描かれるが、ここでアンネリが持っている綱が大写しされるのが良い。アベルは自分が綱で繋がれる事を理解し、何とかウッラの手から逃れようと暴れる。「静かにしててアベル、なに暴れているの…」と語りかけながら、綱をたぐるアンネリの動作を見てアベルの表情は恐怖に歪む。「さぁ、じっとしているんだよ…」とアンネリがアベルに綱を掛けるシーンがアベル視線で描かれると、アベルはまた暴れて…何とかウッラの手から逃げ出す。そして綱に繋がれまいと必死になってライッコラ屋敷の敷地から出て行くのだ。その後ろ姿を見たウッラは、「あーあ、逃げちゃった」と呟いた後「どうやら私たちが悪かったわね、アベルは裏切られたと思ったのよね」と語る。
 実はこのシーン、上記のようにシーンの説明文を文章で書いても、それを読んでも全く面白くないと思う。このシーンは実際に見てみないとその面白さや迫力が解らず、なんで印象に残るかはご理解頂けないと思う。このシーンの注目どころは、なんてったって綱を持ってアベルに迫るアンネリの迫力と、それに反応するアベルの面白さに尽きるからだ。いやーっ、マジでアンネリがあんな迫力のシーンを演じるとは思わなかった。特に綱で輪っかを作ったアンネリが、アベルの首に綱を掛けようとする様子がアベル視線で描かれたシーンの迫力は文章では説明できない。ありゃ自分がアベルの立場だったら、やっぱり逃げただろうな。
 そしてこのシーンに到着する前に、「アベルと綱」の関係をしっかり構築しておいたのも良い。ここまでアベルが綱で繋がれる場合は、決まって何かの「おしおき」だった。21話では「何もしていない(←本当はアベルを毒殺しようとしていた)」ハンナに噛み付いたお仕置きだったし、前話では家で大人しくしていなさいという飼い主の命令を破った事によるお仕置きだった。つまりアベルにとって「綱」というのは良い思い出がないのである。それをこれまでのように飼い主によって繋がれるならまだしも、何も悪いことしていないのに顔なじみとは言え飼い主以外の人間に繋がれようとされる犬の恐怖を、面白おかしく演じたことでとても印象に残った。
感想  カトリ、二度目の帰郷。この帰郷では前回との差別点をしっかり付けていて「同じ事の繰り返し」にしなかった点はもっとも評価できるところだろう。ペッカを送迎役としてカトリの実家へ同行させることで、カトリ・マルティ・ペッカという3人の物語を描くことができたのは、この村ではいつもカトリとマルティ二人だけの話になってしまうというワンパターンを脱する結果となった。また祖父母との会話はカトリのこれからについての最小限に抑えられ、この3人の友情物語を優先させた点は評価できよう。
 また、アベルが完全に別行動という展開も劇中のマルティじゃないけど違和感があって面白かったし、ハルマ屋敷ではマルティの父がカトリを評価する発言をする点も興味深かった。カトリをハルマ屋敷で雇いたいと考えていたのは、マルティだけでなくその父もだったとは…それでもカトリは、親友であるマルティと主従関係になるのを嫌ってここで働くことはないだろう。
 湖の畔での3人の会話もこれまた良い。夢について語っていたはずなのに、いつの間にかにその時代の最新技術の話題に変わっているもんなー。その過程でカトリとマルティが算数の勉強をキチンとしていて、以前より進歩していることを上手く示唆している。同時に「無理だと思っても、夢を持てばいつか叶う」というメッセージを当時の子供達に伝え、劇中のペッカもそれに気付くという壮大な展開だ。でもその良いシーンも、名場面欄シーンでアンネリが綱を持ってアベルに迫るシーンの迫力には負けてしまう。
 で、今話のラスト、クウセラ屋敷へ帰るペッカの出発シーンで、予想通りアベルがやってくる。アベルがライッコラ屋敷に現れた時点でこの結末は確定していたと言って良いだろう。こんなストーリーがある回の合間に入るCMに、「名犬ラッシー」の番宣が入るんだもんなー。しかもよせば良いのに、今話放映の後30分間別番組を挟んだ後、「名犬ラッシー」放映というタイミングでこの話だ。これ、偶然とは思えないんだけど…。

第39話「ハルマ屋敷のパーティ」
名台詞 「今度行くトゥールクのお屋敷ってどんなかしら? 奥様のお父様は貿易のお仕事をなさっているの。麦を作ったり、牛を飼ったりするのとはまるっきり違うのよ、貿易っていうのは(中略)。おじいちゃん達には心配しないでって言ったけど、本当は私、とても不安なのよ。今までの生活と、都会の生活では大分違うと思うのよね。アベル、お前だってそうよ。トゥールクへ行ったら、今までと大分勝手が違うことになるわ。どうしてクウセラ屋敷にいなかったの、お前? 私は嬉しかったけど、ペッカはがっかりしていたわね(以下略)。」
(カトリ)
名台詞度
★★
 アベルが帰還し、ペッカが旅立ったその日、カトリはアベルの身体が汚れているのを見かねて川でアベルの身体を洗うことにした。そしてカトリが川で、アベルの身体を石けんで洗いながら語る独り言がこの台詞だ。
 前話までのカトリは、奥様から相互信頼関係にあること、何よりもトゥールクで勉強ができることを根拠に、トゥールクでの新しい生活に期待を抱いているように見えた。だが実は「都会での生活」というものに対して不安を感じ、この不安を誰にも語らず胸に秘めていたのだ。この胸に秘めた不安をアベルだけに語った…というか語らずにはいられなかったと言うのが正しいところだろう。
 カトリは都会で生まれたとはいえ、物心ついたときには既に祖父母との田舎暮らしが始まっていたので田舎の生活しか知らないはずだ。もちろんライフスタイルは変わるし、仕事の内容が変わってくるのも確かだろう。雇用される屋敷も農家ではない、都会の家だ。食事の時間からその内容まで変わってくるであろうし、何よりも食材も家に蓄えてある物を使うのでなく店で売っている物を買いに行くことになる。何から何まで生活が変わるのだ。
 もちろんアベルの生活スタイルも変わる。恐らく屋外で繋がれるか室内での生活となり、これまでのように気ままにそこいらをうろつくことはできないだろう。こんな生活の変化が、カトリにとって一番の不安であることはこの台詞から読み取ることができる。
 そして付け加えて一つの情報…アベルの面倒見から解放されたペッカの反応だ。やはり彼はアベルの帰還を歓迎していなかった。なぜならそれはアベルがやはりカトリの元で暮らすことであり、ペッカにとってはカトリと定期的に逢える理由を失うことであった。この情報が追加されたことで、この台詞シーンの前で演じられた「ペッカとの別れ」が、多少オーバーでも許されるようになる効果がある。つまりカトリとペッカが長期逢えないことが確定するからだ。
名場面 カトリvsヘレナ 名場面度
★★★★
 ハルマ屋敷のパーティで、カトリは主賓であるマルティの父に挨拶を済ますと、子供の招待者が集まっている部屋に通される。まずはマリにあって本を贈ってくれたお礼を言うと、待ってましたとばかりにヘレナが登場し「どうして家畜番がこんなところをウロウロしているの」と予想通りの台詞でカトリを迎える。これにはマルティが父の招待であることを説明、すると今度はヘレナがカトリをここの子供達に紹介すると申し出る。そしてヘレナがカトリを紹介し、カトリは自己紹介しつつ皆に一礼する。「カトリは皆さんと違って学校でのんびりと遊んでなんかいないのよ、家畜番をなさっているのよ」とヘレナの攻撃が始まる。だが部屋の子供達は「まさか、冗談が上手いな」「こんな可愛い家畜番がいるわけない」「ドレスが立派」「着こなしが最高」と声を上げて、ヘレナに「冗談はやめなさい」と反論する。するとヘレナは「カトリがこんな服を持っているはずがない、これは盗んできたんだわ」と力説を始める、これにマルティが怒りを露わにしてヘレナを突き飛ばす。これに頭来たヘレナは、持っていたビールをカトリの服に掛ける。「何するんだ、ヘレナ!」またも怒りの声はマルティだ。ヘレナは悪びれる様子はないまま、自分のきれいな刺繍がしてあるハンカチでこぼしたビールを拭くと言い出す。これにカトリは「けっこうよ、ヘレナさん」とキッパリと断る。ヘレナはそれに構わず「こんなきれいな刺繍のハンカチは初めてでしょう?」とハンカチの自慢を続ける。だがカトリはこれまでになかった険しい声で「どこに刺繍がしてあるんですか?」と応戦、「あなたには見えないの? よく見てご覧なさい」と自信たっぷりに返すヘレナに「刺繍なんかしてありません」とキッパリ告げる。それでも「この刺繍が見えないの?」と自信たっぷりのヘレナに、「このハンカチには何処にも刺繍はしてありません。ただのレース編みです、それも機械で編んだ安物です」とカトリはキッパリと真実を突きつける。「何も知らないくせに、口ばかり達者なんだから。そんな嘘を並べても誰もあなたを信用しないわ」とのヘレナの応戦に、「信用しなくても良いわ、でも本当の刺繍というのはこういうのを言うんです」とカトリは自分のハンカチを出す、「これがドロンワーク、人の手で何日も掛けなければできないものです。ヘレンさんのハンカチには一箇所も刺繍がしてあるところはありません」…と語ってハンカチを畳んで片付けるカトリには怒りの表情はなく、落ち着き払っていた。「そんな…そんなバカな…」とカトリのカウンターパンチをもろに喰らったヘレナのショックは大きい。こうなると部屋の子供達から「いい加減にそのハンカチしまいなさい」「みっともないわ」と声が上がる。マリがヘレナにそっと近付いて「あんた、ちょっとやり過ぎだわよ」とジャッジを入れる。ハンカチを床に叩き付けて無言で部屋から出て行くヘレナ、そしてパーティを退席する旨を宣言するカトリ。
 今回、カトリがヘレナを完膚なきまでにたたきのめしてしまう。だが仕掛けたのはヘレナであり、ヘレナが墓穴を掘った形だ。立場がどうあれ、カトリがパーティに正式な招待をされていることが解った時点で、この日は自分に勝ち目がないことを気付けなかったヘレナの自業自得と言えばそれまでだが、負けず嫌いでプライドが高い彼女がそれを認められない性格だからこそ、その「今日はカトリに対して勝ち目がない」ことを気付けなかった事を上手く描いている。まずカトリの立場の暴露だが、カトリが美しく着飾っている上にカトリはこの時点で「家畜番」ではなく「家政婦」であり誤った情報であった。ここで辞めておけば良いのに、カトリに何の根拠もない盗みの疑いを掛けてもそれこそ誰も信じない。恐らくヘレナにとって、自分の自慢のハンカチは最終兵器だったはずなのだが、カトリの前ではそれは兵器にすらならず惨敗。主人公に散々意地悪をしてきたとは言え、この結末もちょっとやり過ぎたように感じた。
 だがカトリの方も決して争いに勝ったことで喜んではおらず、怒りをこらえて冷静に応戦した上でやはり「自分は気分を害した」ということをキチンとマルティに伝えている。カトリが貧しい家の娘であっても、パーティに席でやって良いことと悪いことがある事を知っている。その上で明らかに「やっては悪いこと」の対処をされたことに対して、自分がどう立ち回るべきかを知っていたはずだ。「やって悪いこと」をされたのは自分とは言え、それによってパーティの席の空気が悪くなり、原因の一人である自分がここにいるべきでないと冷静に判断しているのだ。
 だがこのシーンではカトリとヘレナの対決その者も印象的だが、パーティの客としてのカトリの言動も印象に残るところだ。やっぱり賢いんだ、安物のハンカチに騙されるヘレナとは違うってことで。
感想  今回もカトリとペッカの別れが描かれる。何回目だ? この二人の「別れ」が演じられるのは。だが今回は明確に「これが最後」という描き方をしている。周囲の状況を朝霧に包んでしまって登場人物だけの世界にしてしまい、その上でカトリと別れたペッカが目から汗を流しちゃうもんなー。
 そして前半は名台詞欄の要素を引き出すことと、後は今話の本題に繋がるハルマ屋敷のパーティに招待されるまでの話だ。つまり名台詞欄シーンが終われば、もう何も起きないいつもの「牧場の少女カトリ」である。カトリと祖父母との会話もありきたりと言えばありきたりだし…。
 そして後半、前話の次回予告で「事件」と「思いがけない人との再会」が示唆されていた。「事件」は名場面欄に書いたように、ヘレナがカトリに喧嘩を売ることで二人の対決が予想通り演じられたと言っていい。問題は「思いがけない人との再会」だ、確かにヘレナの母とアッキが知り合いなのだからアッキが出てきてもおかしくない所だが、彼がこのパーティに出てきてももう今更サプライズ感はない。かといってもうカトリと出会った人でこのようなパーティに出られるような人はネタ切れだと思う。「実はハルマの旦那様とクウセラの奥様は知り合いでしたー」なんて展開も不自然、それがソフィアであっても同じ事だ。
 で見ていたら、ハルマ屋敷の旦那様となんか若い女性が会話している。最初は「ああ、新キャラの登場だったんだな、恐らくアッキ(またはソフィア)かロッタの関係者なんだろう」と思って見ていた。いや、マジでそうだと思った。で物語が進み、名場面欄シーンの後でカトリがコケるとその女性がカトリに手を差し出し…「どっかで見たシーンだな」と思ったら、「このまえ逢ったときもあなた転んでいたわね?」とした上で「私、エミリア」と自己紹介、カトリがこの女性を思い出しても嬉しそうしても、見ていた私は「こんなのいたっけ?」…。
 カトリがマルティにエミリアのことを説明して、やっと思い出した。24話に出てた看護師ね…って、随分初登場と違わないか? 言われてみれば外見は服装が違うだけであの時の看護師だが、声が全然違うぞ…スタッフロール見たけど、ここまでに山本百合子さんの名前は見ていないので担当声優が変わったのは確かだ。24話の感想欄で「この女性は印象に残らないぞ」と書いたが、その通りになってしまった上に、再登場で「まるで別人」では誰なのか解らないよ…これって、絶対に私だけじゃないと思うんだけどなー。
 次話ではカトリはエミリアと一緒にトゥールクへ向かうことに、エミリアも実はアッキの知り合いなんて展開はやめてくれよー。エミリアとアッキやソフィアがカトリを通じて知り合いになるという展開でありますように…。
 あと、今話で笑ったのはパーティ衣装を着たカトリを見て、服だけ褒めて中身を褒めないマルティに対して気を悪くするカトリの様子だ。これがペッカだったら、ちゃんとカトリを褒めたと思うぞ。

第40話「道づれ」
名台詞 「トゥールクで働けるなんて、夢にも考えなかったんです。あっちの農場、こっちの牧場と回り歩いて一生を終わるんだと、ついこの間まで思っていたんです。」
(カトリ)
名台詞度
★★★
 トゥールク行きの汽車が出る、カトリとエミリアは二人旅の中で色々語り合うことになるのは誰もが予想する展開だろう。最初にエミリアが遅刻しそうになった理由が語られると、カトリがふと口にした台詞がこれだ。
 まずこの台詞に続く会話を先に示すが、エミリアはこのカトリの台詞に対して「運が良かった」として、「その運の良さは自身の努力で呼び込んだもの」「幸運はそう簡単に舞い込まない」「これからも今まで以上に努力すればまた運が開ける」という事を諭す。このシーンで言いたいことはこの続きのエミリアの台詞であることはまたがいないが、その前のこのカトリの台詞はそれを強調する効果がある。
 つまりこれはカトリが動力をせず、幸運を掴まなかった結果にカトリが辿るべき運命が描かれているのだ。田舎の貧乏娘のカトリにはもう農場の下働きで一生を過ごす道筋が出来上がっていたのだ、これにウッラが示した「農場の主人に見初められて農場の奥様になる」というオプションがつく程度の運命だったであろう。だからこそウッラがカトリに「農場の奥様になれ」と諭したのは間違っていない、誰がどう見てもそれがカトリに取って「最も幸福な運命」だからだ。
 このカトリに本来待っていた「運命」をここでキチンと示すからこそ、その後のエミリアの説教が効いてくるのだ。カトリの夢はそのような「運命」に逆らうことであり、実は「運命に逆らう」方向へ道を開くのは大変だ。カトリのように自分の立場に対して見ている夢が大きければ大きいほど、その運命が開けるチャンスが小さい。これがキチンと示されることで、カトリの運命がとても幸運であることが視聴者にも伝わり、その幸運はカトリの努力によるところが大きい点も伝わるのであろう。
 そしてこの台詞からは、「もしあそこで物語展開が違ったら…」という想像を視聴者に引き起こさせることになる。もしライッコラ屋敷周辺にクマ出没騒動がなかったらどうなっていたか、もしカトリが始めてクウセラ屋敷を訪れたときにビリヤミがいて追い返されたらどうなっていたか…さまざまな「もし」を視聴者に想像させ、その多くはこの台詞通りの運命になってしまうことも想像させてくれるだろう。
名場面 祖父母との別れ 名場面度
★★
 いよいよカトリがトゥールクへ出発する。マルティの馬車の支度ができると、祖母は「いつも同じ事しか言えないけど、身体には十分気をつけるんだよ」と語ってカトリを抱きしめる。祖父は抱き合っている二人に「さあさあ、乗る汽車が決まってるんじゃろ。急いだ方が良いんじゃないか?」と遮り、祖母はこれに「カトリが遠いところへ行ってしまうっていうのに、そんなに急かすことはないでしょう」と泣きながら返す。だが祖父は駅で待っているエミリアを待たせてはいけないと祖母を諭し、「せっかちですね」と反論される。だが別れの時間だ。「じゃ、おばあちゃん。行くわね」と馬車に乗り込むカトリ。「トゥールクではしっかりやるんだよ」「おじいちゃんも本当に身体を大事にしてね」「それは聞き飽きた。クウセラの奥様によろしくな。さぁ、行った行った、マルティ頼んだよ」と会話を置くと、マルティは馬車を走らせる。互いに手を振るカトリと祖母。やがて馬車が見えなくなると、祖母は力を落とし祖父は「また行ってしまった…」と呟く。「おじいさんも案外冷たいんですね、カトリとゆっくり別れを惜しんでいるのに…」と祖母が祖父を非難するが、ふと祖父を見ると彼は目から涙を流して悲しみをこらえていた。「あら、おじいさんも泣いているのね」と祖母が呟くと、「あ、いや目に…目にゴミでも入ったんだろう」と返す。
 三度目のカトリと祖父母の別れだ。実は三度目にしてこの別れが名場面欄シーンに選んだのは初めてである。この三度目の別れは、その祖父母の性格が良く出ていて面白い。カトリの感触を少しでも長く味わって別れたい祖母と、本当はカトリを出したくないんだけど涙を見せず笑顔で見送りたい祖父。実は祖父がカトリに早く行くよう急かしていたことは、このシーンの最後で解る。早くカトリが行かないと…自分の目から涙がこぼれてしまいそうだったのだ。だが絶対に孫に涙は見せまいと頑張った祖父の背中が、妙に印象に残ったのだ。
 そして残り話数を考えれば、この別れはカトリと祖父母の最後の別れであることは確かだ。もちろん今後カトリと再会はあると思うのだが、それはもう本作の大団円の過程で語られることとなり、その後に香取と祖父母が別れるような時代があってももう本作内で描かれることはない。この「牧場の少女カトリ」では主人公が職を変えるたびに祖父母との別れが演じられ、ここまで繰ると風物詩感も漂ってきてマンネリ化するところであるが、この別れを最後に盛り上げてきた事は意味があると思う。それは物語展開に緩急を付けるためでなく、今度カトリが行くことになる街の遠さを上手く示唆するためだ。もしこれが、カトリが次の職場までの移動が「マルティの場所に乗って終わり」ではここまで盛り上げると白ける。今話の前半ラストでこの別れが演じられ、到着が次話になる遠い場所だからこそ今話中盤のここで盛り上がると言って過言ではないだろう。
感想  今回から新しい展開だ。最初が「ライッコラ編」、続いて「クウセラ編」と来て、物語は最終局面の「トゥールク編」へ突入したとみて良いだろう。いや、カトリがクウセラ屋敷を出た当たりから「トゥールク編」は始まっていたかも知れないが、その当たりはクウセラ編ののんびりしたノリのまま続いていて、明確な区切りがないままここまで来てしまった印象も拭えなかった。ただ今話でハッキリと祖父母との別れが演じられたことで、今話から新展開とみて良いだろう。
 前半はひたすら「ハルマの旦那様からの餞別」をテーマに話が進むが、これはハルマの旦那様がなんでカトリに餞別を出すことにしたのかもっと明確にするべきだったと思う。カトリがその額の大きさに驚くシーンなんか入れないで、空いた時間でカトリや祖父がハルマ屋敷にお礼を言いに行き、ハルマの旦那様の本心を引き出すシーンを入れた方が良かったように思う。恐らくハルマの旦那様は、これまで学校をサボってばかりだった息子が、急にやる気を出して上の学校へ行くと言いだしたことを「カトリのおかげ」だとしているのであろう。つまり旦那様は息子の「やる気スイッチ」を起動させる費用として、カトリに餞別を出したのかも知れない。
 そしてその餞別の額が10ルーブル、カトリのライッコラ屋敷での年収分だが…カトリの給料って安いんだな。コーレリッシュ村からトゥールクに荷物を10個送る送料が、カトリの年収って事だ。いくら当時宅配便とかがなくて、荷物を送るのに現在以上の費用が掛かると言っても、あの大きさの荷物1個送るのに現在の貨幣価値に置き換えて数千円ってところが関の山だろう。
 また今話ではカトリの故郷の最寄り駅からトゥールクまでの鉄道運賃が2ルーブルであることも確定している。これは二人の会話からアベルを荷物運送すると子供運賃の半分が掛かるとされ、その額が50カペイカ(=半ルーブル)であることが根拠だ。この間の距離は20世紀初頭の鉄道の速度で2時間半であることが前話までに語られており、当時の鉄道はおまけしても平均時速50km/h程度だろうからせいぜい100キロということになる。現在のJRなら2000円はしない距離だ。カトリの年収はこの5倍という事になる。
 つまりカトリの年収は現在の貨幣価値換算で1万円前後ってところだ。これでは月給が現在の貨幣価値換算で2000円弱のベッキー(研究欄参照)の方が、収入が上であることは確かだ。
 それとは別に、カトリの「不安」を描くことで、存在が示唆されている「トゥールクにいるロッタの叔母」に関して伏線を張るのも忘れない。このキャラについてここまで何ら説明もないことを不安要因とすることで、物語を盛り上げておく。そういえばクウセラ屋敷でのカトリとヘンリッカの対立は、有耶無耶にされて終わったなぁ。
 そして名場面欄シーンを挟んで、後半はトゥールクへの旅が始まる。もう馬車上でのカトリとマルティの会話はネタ切れとみて良いだろう、だからカトリが居眠りしてマルティが格好良くこれを見守るだけだ。そして駅に着けばエミリアがいないのはお約束、馬車の故障を理由に時間ギリギリで飛び乗るからこそ物語に緩急が付く。だがあの列車がいわゆる「混合列車」とは思えないぞ、アベルを載せた機関車の次の車両は「貨物用」ではなく「荷物車」でしょう。車掌がその車両に積み込む荷物を受け取っているから、その解釈が正しいはず。つまりここではアベルに切符を買ったのではなく「チッキ」が登場したはずだ(詳しくは「ポリアンナ物語」の4話感想欄を参照)。
 またつまらぬこことを考えてしまった…。

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