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第41話 「かあさんと帰れたら…」
名台詞 「なぁマルコ、汗水垂らして働いたところで、わしらの稼ぎはたかが知れてる。そのいくらも入っちゃいねぇポケットの銭で、ちょっぴりだがいいことが出来た。それがみんなにとっちゃ嬉しいことなんだよ。」
(フェデリコ)
名台詞度
★★★
 前話の通りの内容でコルドバ行きのチケットを手にすることが出来たマルコを、フェデリコとジョバンニが見送る。昨夜の出来事が申し訳なく感じられ、「何処へ行っても世話になりっぱなし…」と落胆するマルコに、フェデリコが言って聞かせるのがこの台詞だ。
 この台詞が強く印象に残ったのは、大災害から数週間というタイミングでこの物語を見たからに他ならない。被災地へ送る「義援金」というのはまさにこの論理で寄付することが多い。気合いを入れてまとまった額を日本赤十字社に振り込む時は話は別だが、買い物して釣り銭が出たときに半端分をつい募金箱に入れてしまうのはまさにこの論理だ。
 そう、こうして寄付する「義援金」はまさに「ちょっとしたことで良いことかが出来た」という論理であり、そんなちょっとしたことで少しでも被災された方の役に立つなら…という思いで、店頭の募金箱にお金を入れている人は多いことだろう。
 もちろん前話での「イタリアの星」におけるマルコへのカンパにも同じことが言えるのであり、あれも母に逢おうと必死に旅をしているマルコに対しての「義援金」だという理解で良いだろう。我々が被災地への義援金を出したことに対して、誰もその見返りを考えてすらいないのと同じように、マルコにカンパした人達も誰もマルコから見返りを要求しようとは考えていない。そういう構図をフェデリコが上手く語ってくれたのだ。
 だがマルコはマルコで感謝を忘れずにいればいつか恩返しできるときが来る。かつて新潟や神戸で被災した人が、今回の震災で「今こそ恩返しの時」と立ち上がったように。この台詞の後にジョバンニが「世の中みんな回り持ち」と付け加えているが、そういう部分まで含めていろいろ考えさせられた台詞だった。
名場面 コルドバでメキーネス邸を訪ねる 名場面度
★★★
 コルドバに到着したマルコは、駅を出ると一目散に走る。目的地はメレッリからファドバーニ経由で聞かされた母の勤務先、メキーネス邸だ。目印の教会を回り遂に家の前に到着する。周囲からはどこからともなく楽しそうなピアノの演奏と、夜の団らんのひとときを過ごす人々の声。見つけたメキーネス邸の扉を、マルコは笑顔一杯で叩く。しばらく待つが何の反応もない。もう一度叩いてみる、今度は「メキーネスさんのお宅はこちらですか?」と声も掛けてみた。やはり反応はなく、マルコは「メキーネスさん!」と叫びながら扉を叩き続ける。だがやはり反応はなく、変だと思ったマルコが辺りを見回して気付いたことは…他の家々の灯りは煌々と灯っているのにマルコが訪ねているこの屋敷だけ灯りがなく真っ暗であることだ。他の戸口へ回ってみる、やはり屋敷に灯りはない。「こんばんは!メキーネスさん!」マルコは必死に戸を叩くが、やはり中からは何ら反応はない。「こんばんは! イタリアから来たマルコ・ロッシです! アンナ・ロッシの子供のマルコ・ロッシです!」マルコは必死に叫ぶがやはり反応はない。「かあさん! いたら返事してよ! 僕だよ! かあさん! マルコなんだ!」マルコはドアを叩きながら反応のない屋敷に向かって絶叫する、だが「かあさん、マルコなんだ…」と叫びながら遂に泣き崩れる。そのまま今話が終了する。
 楽しい汽車の旅、コルドバの確かな母の消息を胸にマルコの気持ちは絶頂まで上り詰めていたことだろう。もう母との再会を遮るものは何もない、多くの視聴者もそう感じたはずだ。いや、何か問題があるにしてもこれまでのパターンから行けばそれは次話に持ち越されるだろう。劇中のマルコだけでなく視聴者も油断したこのタイミングで、マルコがまた容赦なくどん底へ突き落とされる。しかも今話では楽しい旅の展開から、この残り放映時間が僅かになったこのタイミングでなんの前触れもなくいきなり突き落としてくる。それだけでなく誰か別人が出てきて説明するとか、悪人が出てきてあしらわれるとかそういう「他者に頼った賑やかな展開」ではない。「家を訪ねた見たら無人だった」という静かで、何の救いもない最もキツイ展開だ。しかも夜、マルコは間違いなく寒くてくらい夜の街に放り出されることが確定し、そういう意味でも見ていて不安になるシーンだ。
 またこのシーンを盛り上げる要素が何にもないのがまた胸に来る。BGMはなし、環境音としてどこからともなく聞こえる楽しそうなピアノの調べと、一家団欒を過ごす家族の笑い声がこのシーンをさらに辛い物にしているのは確かだ。
 こうして回を追う毎に確かになっているはずの母の消息になかなか巡り会えないという最悪の展開を上手に描いただけでなく、この何度も繰り返された「マルコが母との再会が先延ばしにされる瞬間」によくぞこれほど毎回差別を付けてきたと感心するシーンでもある。
 そして今話のラストでマルコがまた容赦なく下まで突き落とされたということは、次話では間違いなくマルコに「救い」のキーワードが現れるのも間違いない。ここまで物語に慣れるとそれがどんな形で現れるのか期待する瞬間にもなってくるのだ。
  
感想  物語の根幹は楽しい汽車の旅だが、名台詞欄、名場面欄共に今話では僅かな分量しかないそれ以外のシーンから挙がることになった。でもこの汽車の旅もなかなか印象深く、特にマルコが乗っている以外の車両に一等車や食堂車があったりしたことや、途中停車駅で物売りが沢山現れるシーンなどは「鉄道の旅」の楽しさを上手く伝えていると思った。正直子供の頃にこの話を見て、鉄道の旅への憧れを強くした物だ。
 でも基本的には物語では何も起きない。せいぜいフェデリコとの別れが描かれ、コルドバに母がいなかったというそれだけの物語である。そしてどちらの「列車の旅以外のシーン」についても、名台詞欄や名場面欄で語り尽くしてしまった。真ん中の列車の旅は…なんと研究欄に回ることに。あー、感想欄を埋めるのが大変だー。
 しかしまたデュファルジュ先生(by「小公女セーラ」)が出てきてたぞ。あの人、これで何役目だ?
研究 ・ロサリオ〜コルドバ
 今回の考察はもちろんロサリオからコルドバへの鉄道路線である。今回は衛星写真によってこの間の鉄道路線を追うことが出来たのでこれら従ってこの図を見ながらの推測である。
 まず出発点はロサリオ市街の中心駅だが、ここは地図上の位置などから推測すると川船で運ばれた荷物を陸路に転換する重要都市であったと推測される。これに従って川沿いを見ると予想通り、広大な貨物ヤードと中心駅たる大きな旅客駅があった地点が「1」地点である。マルコはここからコルドバ行きの汽車に乗ったと見て良いだろう。
 先に到着点、コルドバについて記す。「1」地点のロサリオ駅からコルドバ方面へ向かって線路をたどると図のような行程を描き、コルドバ市内の「4」地点の大きな旅客駅に到着する。ここは旅客列車用ホームが複数あってやはり市街中心駅として機能しているのは間違いない。だからマルコが汽車から下車したのはこの地点と思われる。
 この上で途中経路だ。劇中で男の子を3人連れた夫人がマルコと相席になるが、この家族が乗り込んできた駅が「2」地点であるカニャーダ・デ・ゴメス駅である。Wikipediaの「母をたずねて三千里」では架空の地とされているが、この通り地図上に存在している(実は該当記事を先に見て「また架空か…」と落胆していた…)。ここまではロサリオからだいたい50キロくらいと見て良いだろう。
 この一家が下車したのは「3」地点。モリソンという小さな街だと推測される。なぜかというとここはロサリオとコルドバの中間点、劇中では列車が長時間停車して機関車への給水、対向列車との行き違いを行っている。特に対向列車と行き違ったと言う点はこの停車駅が中間点と推理した最大の理由である。ロサリオとコルドバを同じ時刻に出た列車同志がここですれ違うダイヤになっているのだろう。すると駅に物売りが多くいることも理解できる。
 列車は何両繋いでいたかわからないが、劇中シーンを拾ってみるとモリソン駅と思われる駅でマルコが列車に飛び乗るシーンでは、マルコが乗り込んだ車両がコンパートメント(個室)タイプであることが描かれている。これは1等車と考えられ、またその隣には食堂車が連結されている様子も描かれていた。マルコが乗っているのは3等車と思われるが、中間の2等車については描かれていない。恐らく食堂車と3等車の間に連結されていたと思われ、マルコが乗っていた車両は座席が木製だったが、2等車は全く同じ車内だが現在の列車のようにクッション入りの座席になっているといった感じだと想像される。
 ロサリオ〜コルドバ間は395キロ、「里」で示すとちょうど100里である。ちなみにマルコが39話から今話までにたどったブエノスアイレス〜コルドバ間というのが、アルゼンチンの動脈と見て良いだろう。日本も入札に参加しているアルゼンチン新幹線計画も、このブエノスアイレス〜コルドバ間約750キロで進んでいる。

・今回の旅程
(ロサリオ〜コルドバ)
移動距離 395km 100里
合計(ジェノバから) 14655km 3731里

第42話 「新しい友だちパブロ」
名台詞 「(前略)まぁ落ち着けよ、マルコ。お前はもう、アルゼンチン中捜しても同じなんだぞ。それで見つからないんだったら、今度は待つしか手がないじゃないか。」
(パブロ)
名台詞度
★★★★
 パブロと出会った翌朝、マルコはパブロ姉妹と近郊の丘で動物を追っていた。そしていよいよ朝食を食べに帰ろうと言うとき、マルコは「出かけなければならない…」と語る。「出かける?何処へ?」と問うパブロにマルコは答えられない。その会話を見たフアナが不安な表情で「行っちゃうの?」とマルコに問うと、パブロは「マルコは何処にも行きやしない」とフアナに言った上で、マルコにこう語るのだ。
 マルコの母捜しの旅は、遙かバイアブランカでのメレッリによる消息情報を元にこのコルドバまで来たのだが、ここで情報にあった家が空き家とわかると完全に手詰まりになってしまったのだ。マルコはそれでも積極的に母を捜そうとしたのだが、もちろん今回は今までと違って捜す宛ても頼るべき人もない。だから母を捜すために何処へ行くべきなのかもわからないという事実に、ここで初めて気付かされ頼れるのは昨夜友人になったばかりのパブロだけという現実に気が付く。
 その唯一の頼れる存在であるパブロが告げたこの台詞は、マルコに「発想の転換」を促すものであった。つまり積極攻勢で手詰まりになったなら、次に考えられる手段は動かず「待つ」という手段である。こちらから出て行かなくても、マルコがこの街にいるという手がかりを置けば向こうから来るという考えだ。この台詞によって手詰まりで何処へ行くべきかも考えられなかったマルコは、次なる手段に気付いて進むべき方向を誤らずに済んだのだ。
 そしてこの「発想の転換」に従ってパブロが与えた作戦は、空き家になっていたメキーネス邸にマルコがこの街に来ていることを示す看板を置くことを提案する。連絡先としてパブロの家を添えておけば、もし本当にこの街にマルコの母がいれば名乗り出るだろうし、そうでなくても何かしらの手がかりが得られるはずだと踏んだのだ。
 パブロという新キャラは、初登場でいきなり大金星級の活躍だ。このアドバイスがなかったら、マルコはここで手詰まりのまま進むことも退くことも出来なくなっていただろう。
名場面 出会い 名場面度
★★★★
 前話名場面シーンを受けた今話冒頭で、マルコは近所の人に聞くなどして最終的に「メキーネスは引っ越してしまいこの家にはいない」という結論に達する。この結論によって彼は深夜のコルドバの街に放り出された形となり、肩を落として街を彷徨う。何でも良いから泊まれるところはないかと彷徨っているうちに、高級レストランのゴミ箱から食べ物を漁っている少年と出会う。マルコはその少年の行動に驚いて立ち尽くしてしまうが、少年に「突っ立って何見てやがるんだ? へっ、サルなんか連れて金持ちヅラしてよ、消えちまいな」と声を掛けられたと思うとゴミの中にあった肉を投げつけられる。マルコはこの一言にあたま来て肉を投げ返す。「こいつーっ!」パブロはマルコの宣戦布告を受け取って一発ぶん殴る、マルコも怯むことなくパブロに突っかかる。こうして二人のとっくみあいの喧嘩が始まる。マルコはパブロに何度も蹴られ、殴られ、投げ飛ばされるが、怯まない。「わかったよ、もう帰れよ」と言いながら殴り飛ばされたマルコは、もう一度取っ組み合おうと一度構えの姿勢を取るが、すぐに臨戦態勢を解いて「帰るところなんかあるもんか」と言い捨ててその場を立ち去る。パブロは驚いて立ち尽くした後、マルコの後を追う。
 「母をたずねて三千里」第四幕の中で話の転換点となるコルドバでの物語、この中での重要登場人物で今回の新キャラであるパブロとの出会いはこういう形で描かれた。それは「第一印象の悪さ」と言う点が目立つ点だろう。パブロは一目でマルコを嫌い、マルコもそんなパブロに対抗するという印象の悪さから二人の友情物語が幕を開く。マルコの旅にとってパブロという存在はなくてはならないものとなるし、パブロにとってもマルコの友情と優しさで生涯忘れられないであろう出会いであるはずだが、そんなことを予感させない出会いを描くのはある意味「おやくそく」ととはいえ印象深いだろう。
 そしてマルコがこれまで裕福とは行かなくても不自由のない生活をしてこれたという現実と、貧しさによってレストランのゴミ箱を漁って生活するしかない少年の現実。この交錯というのも上手く表現している。マルコはパブロの行為に我を忘れてしまうし、パブロはマルコのそんな態度が気に障ったのは確かだろう。マルコは相手が自分の事情を知らないこことはいえ、自分を裕福でなにひとつ不自由していないと思われたのがしゃくに障る。だから大喧嘩になってとうぜんだ。
 だがパブロはマルコに「帰る家がない」と知ると途端に興味を持つ。「こいつには何か事情があるのだろう…助けてやらねばならないのではないか?」という直感があったのだろう。その直感をマルコも何処かで感じていたと思う。だからパブロに追い付かれた後、彼に自分がどうしてここにいるのか説明したのだろう。
 こうして二人の友情物語の幕が切って落とされた。
 

 
感想  前話の予告編によると、今話のサブタイトルは「インディオの少年」だったはずだが…。
 前話のラストで物語は大きく方向性を変える。ここまでマルコが得た母の消息情報に従って順調に旅を続けてきたが、突然手詰まりとなってしまうのだ。だって唯一の手がかりをぉってきたのに、その家が空き家ではもうどうしようもない。マルコはここに来て完全に進退窮まってしまう。ロサリオでは執事に追い返されただけで、別にそれが理由で母の消息が消えたわけではなかったが、今回は完全にその消息がぷっつり途絶えてしまった。
 だからこの「手詰まり」からどう抜け出るかというのは、今話では視聴者の最大の関心事となる。そこへ出てくる新キャラクターのパブロとその妹のフアナ、それと保護者のホルヘという老人である。もちろん彼らが直接それを知っているわけはなく、彼らを通じてどんな物語になるかだ。だが今話を見ているとコルドバでの物語が数話に渡ることは簡単に予測できるだろう。
 そして名台詞欄に記した通り、マルコの母捜しは方針転換を迫られることでコルドバ滞在が長期化する展開は間違いなくなる。残り10話のラインが迫ったところでの足踏み、視聴者がヤキモチし始めるのがここからの展開なのだ。
研究 ・ 
 

第43話「この街のどこかに」
名台詞 「そうさ、俺にもちゃんと読めたのさ。家具屋の荷にメキーネスってあるのがな。マルコが看板書いてた時、俺ずっと見てて覚えたんだ。メキーネスっていう字だけな。字が読めるっていいもんだな、もしあん時読めなかったら、気付かないでそれっきりだったぜ。」
(パブロ)
名台詞度
★★★
 名場面欄を受けて、パブロはロバを借りてマルコと共に「メキーネスさん」の家へ向かう。その途中でパブロがどうやって発見したかを語り、字が読めなかったはずのパブロが字を読んだということを疑問に思いその点を尋ねると、このような返事が返ってきたのだ。
 ここにパブロのマルコへの気持ちが良く描かれている。自分達には母はなくそれでも一生懸命生きていてマルコに「母が無くても生きていける」と諭したりしていたが、彼もマルコが母を追ってここまで来たという現実を放って置くことが出来なかったのだ。彼なりに「何か力になれねばならない」と考え、彼が実行したのはマルコの母の手がかりである「メキーネス」という人物を捜すこと。そのためにマルコが書いた「メキーネス」という文字だけを必死に覚えたのだ。その覚えた文字を忘れずにいたところで偶然街中でその文字を見つけ、マルコのために探索まで済ませていたのだ。
 もちろんこのパブロの気持ちと行動をマルコは心の底から感謝する。マルコにとってパブロは助けた相手でもないのに何でこんなに自分のために動いてくれるのだろう?という疑問は起きるかも知れないが、その点はロサリオで学んだ「善意」というもだと理解したことだろう。こうしてマルコの心の中に「パブロに恩返しをしなければならない」という気持ちが沸き上がってくるポイントでもある台詞なのだ。
名場面 マルコとフアナ 名場面度
★★
 この日の午前、マルコは旧メキーネス邸を管理する不動産業者に行き当たり、3日後に屋敷の所有者を紹介して貰う約束を取り付けていたが、マルコと別行動をしていたパブロはそれ以上の成果を挙げていた。「メキーネス宛て」と荷物に書かれた荷馬車を発見し、それを尾行したことでメキーネスなる人物が住む場所を発見したのである。パブロはロバを借り、早速マルコを連れてその家へ向かう。
 「メキーネスさん」の家が見つかったと聞かされ最初はフリーズし、再起動すると笑顔になったマルコは急いでパブロの家から鞄を持ち出しアメデオを連れ出す。そのマルコの背中に「何処行くの?」と声を掛けるフアナ、マルコはその時のフアナの真剣な表情に驚いて立ち止まるがすぐ気を取り直して、「こんどいつかみんなで川に行こう、大きな魚を釣りに」と返す。フアナがこの言葉に喜ぶとロバに乗ったパブロが現れマルコはまた駆け出す。「早く帰ってねー!」と声を上げるフアナに手を振って立ち去るマルコ。マルコの姿が見えなくなると急にフアナの表情は曇り、チキティータを抱きしめると「おじいちゃん、迎えに行こうか」と呟いて歩き出す。しばらく歩いて咳き込んだかと思うと、そのまま走り去る。
 ここまで見事に「嫌な予感」を表現したシーンはあっただろうか。小学生の頃に初めてこのシーンを見た時は、フアナに「死亡フラグ」が立ったかと思った位「嫌な予感」を感じた。いや、マルコの台詞にもフアナの台詞にもその「嫌な予感」を直接示唆する内容はない。ここではフアナの言動に絞って見るべきであろう。
 フアナが一人で家に置き去りにされる事実、本人がその不安を感じ取って見せる曇った表情、台詞の一つ一つに「不安」の演技を込めた演技…文で説明するのは難しいがそれぞれに彼女の「不安」が込められているのだ。そして視聴者がそれを感じ取った頃合いを見計らって、フアナが咳き込むシーンを差し込む。これによってフアナがその初登場からずっと咳き込んでいたことを思い出し、勘の良い視聴者は10話で「病気は治りかけが肝心」という伏線が張られていたことと「フアナが風邪からの治りかけ」という設定があることの連動性に気が付くだろう。そう、最長で10話で用意された長い長い伏線によってマルコではなくマルコを助けた一家を、ピンチが襲う前触れとして上手く表現したのだ。
 さらに勘のいい人は喜んで出て行くマルコの背中を見て、「母に逢えなくても重大な手がかりが見つかりすぐ旅立たねばならない」という展開を想像するだろう。母の手がかりが見つかり直ぐにでも出ていかねばならぬマルコと、パブロの一家を襲う危機…マルコがこの板挟みで苦しむことを予感した人は多いと思う。現にその通りに展開するのだが、それは次回に持ち越された。
 

 
感想  話が出来すぎ、という指摘も出てきそうな展開であるが残り話数を考えるとやむを得ないだろう。私としてはパブロが重大な手がかりを掴むのだからマルコの方は空振りでも良かったと思うが、それではロサリオでの展開と似たような物になってしまう。それにマルコとパブロの友情物語という展開を印象付けるには、マルコが手がかりを掴むがパブロがそれ以上の手がかりを掴むという展開は手段としてはありだと思うけど、やはり前半で二人が手がかりを掴むシーンが同時進行で描かれるのは「しつこい」と感じる。私が作り手ならマルコが手がかりを掴むシーンに時間を掛ける代わりに、パブロが手がかりを掴む展開は描かなかったと思う。パブロの家にマルコが先に戻り、フアナと遊んでいるところへパブロが大慌てで帰って来て「手がかりを掴んだ」と語り出す方がスッキリしたと思う。
 まぁ、今回は無駄に物語が間延びしている感は否めないだろう。後半の殆どがマルコとパブロがロバに乗って「メキーネスさん」の家を目指しているだけで退屈だったのは確かだ。今話の内容は半分にしても差し支えなかったはずで、残った半分でマルコとパブロ、それにフアナの友情を強固にする展開を入れても良かったはずだ。前話のように動物を追っているだけというのではなく、フィオリーナとの時のように色々考えられたはずだ。みんなと星空等に変わる何かを眺めて、語り合っても良かったはずだ。どうもフアナがなんでマルコに懐いているのかが、いまいちよく理解できない。
 そんな今回最大の見どころはフアナの容態だったはずで、これについては名場面欄に記した。10話でロンバルディーニが「病は治りかけが肝心」と訴えていたのは今話への伏線だったのだ。でも33話も隔てたロングパスだからなぁ、忘れていた人も多いことだろう。
研究 ・ 
 

第44話「フアナをたすけたい」
名台詞 「かあさんもとうさんも、お金が無くても誰だって診てもらえる診療所のために働いているんだ。…まだ大きくはないけど。」
(マルコ)
名台詞度
★★★
 何故フアナが助かったのか理解したパブロは、トゥクマンに向かうと言い残して出ていったマルコを追う。彼も昨日の会話からマルコが貨物駅に向かったのは間違いないと踏んだのだろう。そしてマルコと再会し、荷の乗っていない貨車に隠れてパンを差し出し、マルコに「お前には負けたよ、赤ん坊みたいにおふくろを追い回していたかと思うと、平気で大金を投げ出したりするんだから…」と語る。そのマルコの返事がこの台詞だ。
 この台詞はパブロにしてみれば理解不能のマルコの行動に対し、最小限の言葉で行動理由を説明した内容なっている。つまり彼が親から得た教え、いやもっと正確に言うと困難な事業に立ち向かう親の背中を見てきた結果の行動であったのだ。そんなマルコが病に苦しむフアナを見た時の気持ちと、それに対しての行動理由が「親について」を語るだけで説明できてしまったのだ(気持ちは名場面欄参照)。
 そしてこの台詞を語るときのマルコは、実に誇らしい気持ちだったと思う。彼は自分がフアナを救ったとは思っていない、フアナを救ったのは自分が見てきた両親だと感じているはずだ。自分はその両親の想いや教えに従っただけであり、そんな「見ず知らずの人の生命を救った」両親を誇りに感じたはずなのだ。もちろんマルコはパブロの気持ちも見通していたことだろう。パブロはこの台詞を聞かされてマルコの両親がとても偉大だと感じ、やはりマルコにその両親がいたからこそ妹が救われたとだと感じていたはずだ。
 マルコが両親の教えに従い、それによって他人を救う…これはマルコが母と再会する前に物語に必要なテーマの一つだったと思う。ただ母親の姿を追うだけでなく、その子供がしっかりと「親の背中」を見ていたということで「親子の絆」という物を視聴者に見せつける必要があったのだ。マルコが母を追うのは最初はただ「母に逢って甘えたい」という気持ちだけだったが、旅が本格的に進むとそれ以上の「絆」で繋がっていることに気付き、どんな困難にも耐えられるという精神力が植え付けられる。このようなマルコの成長はこの第四幕「再会編」において、母との再会を前に絶対必要な要素だったのだ。
名場面 2軒目の病院 名場面度
★★★★
 マルコとパブロがパブロの家に戻ると、フアナが病に倒れて寝込んでいた。その症状は医療機関を経営者の息子であるマルコでも「肺炎」とすぐに判断できる危険な状況だ。マルコはパブロの「自分達を診てくれる医者は何処にもいない」という言葉を振り切って走る、フアナを診てもらえる医者を捜して。1軒目でパブロの家の住所を言っただけで扉を閉められてしまい、そして訪れた2軒目では事務職の女性が応対するが、やはりパブロの家の住所を口にしたところで一度断られる。
 「でもフアナが死にそうなんです、肺炎かも知れないって先生にそう…」と言いかけたマルコだが、その応対した女性職員が無視していることに気付く。マルコは落胆するが、次に表情を変えずに胸のポットを漁る。そしてメキーネスから渡されたトゥクマン行きのチケットを買うための札束を受け付けカウンターの上に差し出し、「これでフアナに出来るだけのことを…」と訴える。女性職員が驚いてこっちを見たのを確認すると、マルコは札束をカウンターに置き「先生にもう一度そう頼んでみて下さい」と続ける。「聞いてみます」と言い残して立ち去った女性職員を見送ると、マルコは下を向き「かあさんだって、お金のないジェノバの人達のために働いているんだ。きっと許してくれるよ…きっと」と呟く。
 マルコの決断であった。貧しい人のための慈善的な病院を経営している父と、それを支えてきた母の背中を見て育ってきたマルコにとって、目の前で貧しくて医者を呼べない人間がいて放っておけるはずない。しかも医者がいれば何とかなる状況なのに医者を呼べないことで生命を落とし掛かっているならなおさらだ。だから彼は行動に出るしか無かった。自分のポケットに入っているこのお金があれば、フアナの生命は助かる。お金なんかまた稼げばいいし、さもなくば歩いて母のいるトゥクマンへ向かったっていい。とにかくフアナを救うにはこの金しかないと彼は痛切に感じたのだ。そう感じたマルコが行動に出るのに「悩み」がなかった。
 ここで彼の父が「貧しい人のための病院」を経営していて、母がそれを支えるために出稼ぎをしているという設定が上手く使われたと思う。このシーンでマルコが間違いなく「両親の背中」を見て真っ直ぐ育っていることが解り、さらに自分の僅かな犠牲で他人の生命が助かる状況に直面した場合にどうあるべきかを、その両親の教えそのままに実行するのである。ここにマルコは「親」というものから自分は絶対に逃れることは出来ず、いつの日か必ず母に逢い、父の元に帰れるということも感じたに違いない。そう、彼がここで感じたのは「絆」である。
 彼はここでポケットのお金を差し出さなかったら、間違いなく一生後悔しただろう。例えそれでフアナが生命を落とさなかったとしても、彼は胸を張って生きて行くことが出来なくなった可能性が高い。
 またこのマルコの想いは女性職員にも伝わり、今話だけで登場する名もない医師にも伝わったことだろう。お金は返してくれなかったけど。コルドバからトゥクマンの子供分の交通費より、肺炎の患者に医師が往診をして一晩看病した挙げ句数日分の薬までくれる医療費の方が高いのは火を見るより明らかだ。しかもマルコは匿名を希望する…この医師もマルコのこの行為に、「医師がどうあるべきか」というのを見たと思う。お金は返してくれなかったけど
  
感想  第四幕は感動的な話が多い、このマルコがフアナのために「間違いなく母がいる場所」へ行くための汽車賃を投げ出す物語も、感動話のひとつに挙げられるだろう。
 その前にここでやっとマルコは「母の確かな手がかり」に行き当たったのである。パブロが見つけた「メキーネスさん」は、アンナを雇っていたメキーネスとは別人だったが関係者ではあった。同時にマルコが南米に上陸してから初めて(メレッリ以外では)アンナを直接知っている人だったのである。そしてマルコはアンナがここで出会った「メキーネスさん」の従兄弟のもとで働いている事と、コルドバからさらに北に進んだトゥクマンという街で元気にしていることが判明したのだ。これはマルコの旅にとって大きな前進であり、この「メキーネスさん」宅を見つけたパブロは大金星、マルコの旅の中でも最大の功労者といっても差し支えない活躍だ。
 しかもその「メキーネスさん」はマルコの旅費まで貸し付けてくれる。これでもうマルコの母に逢う旅は安泰だ…と思わせておいてのフアナの病。視聴者は当初、これはマルコの旅にとって大した障害にはならないと感じるだろう。だがフアナの症状がとても重いだけでなく、パブロが「こんなところに来る医者はいない」と泣きながら語るに及ぶと、マルコの両親が何のために働いているかを思い出し「危機」を感じるだろう。そしてその通りに話が進み、マルコは「確実な母の手がかり」を持ちつつもまた一文無しに戻ってしまう。
 そしてマルコがトゥクマンへの移動に選ぶ手段も、初心に戻り「貨物列車に潜り込む」という手法となる。貨物駅が変だとか輸送方法がおかしいとかそういうツッコミをしては行けない。マルコが乗り込む貨物列車は、コルドバからトゥクマンまで特定の物資だけを運ぶ専用貨物列車なんだ、そうだと解釈する他はない。その割には貨車の中の荷物が混載だなんて考えちゃ行けない、鉄ヲタの皆さんは次話でも出てくるこの貨物列車の積み荷に関しては目を瞑らなきゃならない。話が逸れた。
 そしてマルコがパブロに短く語る両親のこと。ここで感じ取れることは名台詞欄に記したが、母との再会、その前にあるこの旅において最も険しい部分を迎える前にどうしても描いておかねばならないことだった。こうして何かに運命付けられたかのように、マルコは北へと進路を取り、どんなことが起きても様々な困難に立ち向かいながら旅のラストコースを進むことになるのだ。
研究 ・ 
 

第45話「はるかな北へ」
名台詞 「(前略)…汽車ってものがどんなにありがたいもんか、たっぷり歩いて考えてみることだ!」
(貨物列車の車掌)
名台詞度
★★★
 フアナの治療費に汽車賃を使ってしまったマルコは、貨物列車に無断乗車してトゥクマンを目指す。パブロの犠牲的な行為(名場面欄)もあって貨物列車に乗り込むことには成功したが、これが裏目に出る。アメデオが勝手に出歩いて車掌に見つかったことがきっかけで、マルコも見つかってしまう。そして草原のど真ん中で貨車から追い出され、そのマルコの背中に車掌が最後に告げた台詞がこれだ。
 主人公には悪いがこの車掌のいう通りである。徒歩の旅に比べたら列車の旅がどれほど楽で、快適で、安いか…列車の旅は当時の貨物列車でも45km/h程度は出ている事だろう。平均速度が30km/hとしても、1日走り通せば600kmも走った上にさらに4時間もお釣りが来る。それに引き替え徒歩ならせいぜい4km/h、その上体力を使うから休憩もしなきゃ行けないし、替わりがいるわけでないから24時間歩き続けるわけにも行かない。食事で止まり睡眠で止まり…1日に10時間も歩ければ良い方だ。つまり1日30km程度が限界で、これはマルコが乗り込んだ貨物列車のたった20分の1である。
 その上、徒歩の旅だと移動自体は無料だが他で多大な費用が掛かる。1日でたどり着けなければ何処かに泊まることになるし、汽車よりも時間が掛かる分食事の回数も多くなる。靴なども歩くにつれて痛みが激しくなり交換や修理が必要になるし…私が鉄道の運賃が安いというのはこういう理由である。現在でも歩くのに比べたら、鉄道というのは破格の費用で遠方まで快適に人々を運んでくれるものなのだ。これがJRの「青春18きっぷ」などだともうタダ同然だ。
 この車掌の台詞は、この「鉄道」という文明の利器の有り難さを上手く表現すると共に、それをタダで利用しようとしたマルコへの戒めもしっかり表現している。車掌は鉄道職員としてでなく、この当時の人間としてごく当たり前のことを言ったに過ぎず、この台詞を聞いて車掌が酷い事を言っていると感じた人は「鉄道の有り難さ」を実感した経験のない人だ。
 もちろんマルコはこれに反論など出来ようはずがない。現在の若者だったら「徒歩の旅」など知らぬから反論したくもなるだろうし、マルコが反論しないのを不思議とも思うだろう。これは現在の人が乗り物を使って移動するのが当然の中で育ってきたためであり、距離感覚が麻痺しているためだ。そういう人は一度「鉄道で15分の距離」を歩いてみるといい、上記の論理が理解てきて、この台詞を吐いた車掌の気持ちや、つまみ出されたマルコの気持ちが理解できることだろう。
 そういう意味でもリアルな台詞で、印象に残ったのだ。
名場面 別れ 名場面度
★★★★
 マルコとパブロ、出会いは唐突であったが二人の別れは盛大に演じられた。
 前話が前話名台詞欄を経て終了し、今話冒頭ではマルコとパブロが貨車に乗り込むべく連係プレーを演じるところから始まる。貨物列車の発車時刻が迫り、マルコが見張り役でパブロが貨車の扉を開く。その頃、車掌車では二人の車掌が賭けトランプに熱中しており、一人の車掌が負け続けてイライラするシーンが描かれる点がなかなか良い。そして二人は何とか貨車の扉を開き、乗り込みに成功する。だがすぐに車掌が点検に来る、しかも来たのは賭けトランプで負けてイライラしている方だ。その車掌はマルコ達が乗り込んだ貨車の前を一度通り過ぎ…また思い直して戻ってくる。そして貨車の扉が開かれると、パブロが飛び出してその車掌を突き倒す。しばらく車掌とパブロの追いかけっこが続くが、やがてパブロが躓いたことをきっかけに捕まってしまう。そして警棒で殴られるパブロだが、マルコは貨車の壁板の隙間からその様子を黙ってみているしかできない。パブロは容赦なく車掌に殴られ続け、マルコは声を押し殺しながらパブロの名を叫びながら涙を流す。やがて汽笛が鳴ると貨物列車が動き出し、車掌はマルコが乗っている貨車の扉を閉めてから車掌車に飛び乗る。殴られ傷つき倒れていたパブロが起き上がって「マルコ」と呟く、それが見えたマルコもパブロの名を呟く。ボロボロのパブロは貨物列車が走り去るのを笑顔で見届けてから、家へ向かって線路の上を歩く。そして黙って貨物駅へ続く線路を見つめてから、線路が敷かれた土手から降りて家を目指す。
 パブロの力によってマルコが無事にトゥクマン行きの列車に乗れただけでなく、パブロの気持ちがよく表れている。妹を助けてくれたから「マルコを何が何でもトゥクマンに送らねばならない」という強い意志に裏付けされたその行動だ。彼は「誰かが生け贄にならない限りはマルコが貨物列車に乗り込めない」と判断していたのだろう。最初から彼はマルコの囮になり、車掌の気を引くために車掌に捕まって殴られることを覚悟していたはずだ。恐らく彼が車掌に捕まるきっかけである躓きも、マルコの方から気を引くためにわざとやったと思う。彼は様々なシーンで殴られた経験があるはずだが、ここでは人生で初めてマルコの為に「喜んで殴られた」のだろう。マルコもその気持ちを受け取ったからこそ彼が殴られている間、声にならない声で叫び、泣いたのである。
 そして列車が出て行った後、パブロは無事にマルコを送り出せた満足感と、友人がいなくなってしまった喪失感の双方を感じていたはずだ。彼が立ち上がってからのシーンは、無言でこれを表現している。またマルコはマルコで同じく無言で、パブロから受け取った友情に感謝している。このような思いは無言で受け取り、無言で感じるのがやはり自然でいいシーンだと思う。
 こうして42話からのコルドバでの物語を強く印象付けるパブロとその一家が物語から退場する。これほど出ていた期間の短さの割に印象に残るキャラクターというのは、「母をたずねて三千里」という数話単位でゲストキャラが入れ替わる物語でもなかなかないものだ。
  
感想  物語は前後半でくっきり分かれた。前半は勿論前話の続きで、第四幕の中である意味独立した展開のコルドバ編のラストを締めくくり、マルコとパブロの友情物語を名場面欄のようにうまくまとめる。前話ではマルコがフアナを助けるために全財産、しかも旅の目的を果たすためのお金を全部つぎ込むという善意を見せる。これを見せられたパブロが何としてもマルコを最終目的地トゥクマンへ送り出すために、殴られるのを覚悟の恩返しをする。この持ちつ持たれつの関係で二人の友情は一層深まる。そして最後に二人とも「友を無くした喪失感」を味わうという形で二人の物語に幕を引くと共に、おまけのように最後にもう一度パブロの家が出てきて、パブロが今話での行動理由を寝込んだままのフアナに語る。だがパブロはフアナが助けられたことよりも、マルコが見せてくれた優しさに胸を突かれた方が大きかったと思う。
 そして後半、マルコが「明日にはかあさんに会えるのが信じられない」と語るとあっけなく物語はその通りに展開する。アメデオが車掌に見つかったことがきっかけでマルコが貨車に潜んでいることまでバレてしまって、マルコの貨物列車による汽車旅は僅かな時間で幕を閉じるのである。この展開はマルコが一人で「無人の荒野」に放り出されるというこれまでで最も険しい展開となり、今後の旅の厳しさを示唆する最初のシーンとなった。貨物列車から放り出されたマルコは人家と水を求めて彷徨うという、これまでになかった厳しいシーンを演じた後、何とか川と牛車で旅をする一行と出会う。よかった、マルコは完全に捨てられた訳じゃないんだと、多くの視聴者が安堵したところで今話が終わるよううまく考えられている。
 だがこの牛車の一行はどことなく余所余所しいし、なによりも何を運んでいるのかよくわからない怪しい団体だ。その正体は次話以降に譲るとして、その怪しさを感じてしまうとまた視聴者として不安を感じてしまう。特にこの一行の目的地がマルコの最終目的地であるトゥクマンと違うことで「これからどうなってしまうんだろう…」感も強く出ている。そこですかさず次回予告で、マルコが体調不良になることが語られるのだから「えーっ!?」てとこだ。
 では、またお約束の声優さんが一人出てしまったのでやりますか。
 アムロ キターーーーーーーーーーーー!!!!!
研究 ・ 
 

第46話「牛車の旅」
名台詞 「ぼ、僕…みんなに迷惑掛けましたけど、もう元気です。ア、アメデオの世話もちゃんとしますし、僕に出来ることなら何でも手伝います。僕にも…僕にも仕事を言いつけて下さい!」
(マルコ)
名台詞度
★★
 牛車隊と合流した翌日に高熱を出して倒れたマルコだが、その翌日には本調子といかないまでも熱は下がっていた。マヌエルの言いつけに従って横になっていたマルコをよそに、牛車隊の連中はミゲルという男が中心になってアメデオを鞭で叩いて無理矢理芸をさせるという行為を取る。これに気付いたマルコは飛び起き、アメデオを救うと震えながらこう語る。
 まずは何よりもマルコを演じる松尾佳子さんの名演技がここでは光っている。よくぞマルコの恐怖の心境…「次は自分が鞭で叩かれるのではないか」という恐怖心と、「アメデオにあんな酷い事をした」という怒りとを上手く演じたと感心した。特にこの震えたマルコの声は、ここまでの中で25話の名台詞欄のものと並ぶ印象深い演技である。
 そしてこの時のマルコの心境は前述した通りであるが、その中にマルコが「倒れたことでここの人達に迷惑を掛けてしまった」という申し訳なさを持っていたことが解るし、またアメデオを観察下に置けなかったことで「アメデオが何かした」という恐れをも感じていたのだ。その結果で「次は自分が鞭で叩かれる」と感じるのは無理もないことだ。そんなマルコの気持ちが上手く語られ、上手く演じられた台詞だと感心した。
名場面 マルコとマヌエル 名場面度
★★
 名台詞欄シーンを受けて、ミゲルがマルコに自分の仕事を全部押しつけてしまい、これを見たマヌエルと乱闘騒ぎを起こす。そこを頭領に見つかり二人は鞭打ちの刑となる。その夜、マヌエルはマルコが寝ていた荷台で痛そうに横になり、マルコがその横に座っての看病だ。「ごめんね」と謝るマルコに「よるあることさ」とマヌエルは返す。驚くマルコに構わず「こんな旅をしているとお互い気が滅入って、イライラしちまうからな…いつものことさ」とマヌエルは続ける。数秒の無言を挟んで、「お前、おふくろさん捜してるんだってな」とマヌエルが声を掛ける。「なんで知ってるの?」という顔をして驚くマルコを知って知らずか「苦労するな…お前も…」とマヌエルが続ける。また数秒の無言を挟んで「さあ寝ろよ、今日は疲れただろ?」とまたマヌエルから声が掛かる。「ううん、僕は大丈夫だよ」と返すマルコであったが、「無理するな、また熱が出ても知らんからな、今度は放って置くからな」とマヌエルが返す間にマルコは眠りについてしまう。それを見たマヌエルは起き上がり、マルコを横にして膝掛けを掛ける。この時に一瞬マルコは目を開けるが、そのまま眠ってしまう。そのマルコの寝顔をじっと見つめたかと思うと、マヌエルは荷台を離れる。
 最初はマルコの世話を嫌がっていたマヌエルだったが、気付くとこの男はマルコのことが気になってしょうがない。だがこの男の不器用さはそんなマルコと上手く会話が出来ないという状況を上手く描いている。マルコもマルコでこの男がマルコに上手く声を掛けられず、どう返事して良いのか困っている様子だ。だがこの二人の間が「信頼」で繋がったことだけは見てとれる、マルコはあんな事があった後でもマヌエルに警戒心は抱いてないし、マヌエルもマルコのことを知りたくて色々声を掛けようとしているのが上手く感じ取れる。マルコはこの怖い男ばかりの牛車隊の中で「信用に足る人物を見つけた」という状況だし、マヌエルはなんとしてもこいつを無事にトゥクマンへ送り届けたいと感じているのだ。
 こんな「気は合わないけど気になる関係」というのがこのシーンでは上手く演じられ、今話のラストシーンはとりあえずマルコの旅がまた安定すると安心できるように出来ている。このシーンの二人、数年後には同じ「世界名作劇場」シリーズで主人公兄妹を演じる事になるんだよなー。4話に出てきたトムとシッドのように、偶然とはいえ出来過ぎの組み合わせが多いぞ。

  
感想  前話を受けて何事もなく牛車隊との旅が続くのかと思ったら、今話では色々とピンチがやってくる。まずはマルコ当人が高熱を出して倒れること、もうひとつは牛車隊の面々が怖い人ばかりという事実だ。前車はここまで紆余曲折はあったものの、序盤でお金を盗まれたことと、母の消息情報が次から次へと変わること以外は何とか順調であったマルコの旅に暗い影をひとつ落とす。今までの問題はマルコの外にあったのだが、ここで初めてマルコの側に問題が起きるのだから本来なら大問題のはずだ。しかしそんなことには構わずに物語は、いや牛車隊は前進を続けるというこれまた容赦のない展開となり、マルコが快復したと思ったら今度はアメデオのピンチが描かれ、同時に後者の不安が首をもたげてくる。
 特にこれまでマルコに厳しい人というのは、マルコが立ち寄る街の滞在者である場合が多くて長時間行動を共にすることはなかった。だが今度はマルコを途中まで運んでくれる人達自体がマルコに厳しく当たるという非情の展開を取る。その中で頭領は最初からマルコを救うべく行動しており、マヌエルはそんな頭領に影響されたという見方も出来る。
 だがここでマルコがマヌエルという味方を確保したことは、この荒くれ者の集団である牛車隊の中の生活においては大きかったと思う。その辺りは次回に描かれるのであろうが、マルコはこの牛車隊から逃げ出そうとせずにいじめとしか思えない辛い扱いを見事にくぐり抜けることになる。
 しかしお約束だが、マヌエルが頭領に鞭で叩かれたときに「親父にもぶたれたことがないのに!」と言いそうで怖かったぞ。なんで古谷徹さんにはこういう役ばかり当たるのかな…。
研究 ・ 
 

第47話「あの山の麓にかあさんが」
名台詞 「そんなこと俺が知るかい。大昔からここんとこはこうなってるんだ。」
(マヌエル)
名台詞度
★★
 牛車隊一行は「塩の海」と呼ばれるところに差し掛かる。ここは一面真っ白な大地で、マルコは見たこともない風景にはしゃぐ。はしゃぎつつもマルコに「何でこんなところにこんなにたくさん塩があるのだろう?」という疑問が生じる。マルコがマヌエルにこの疑問を突き付けると、こんな答えが返ってきた。
 今回の視聴でこの台詞を聞いた時、私は複雑な心境であった。マヌエルがこの真っ白な平原にまつわるウンチクの一つでも語ってくれるかと思ったらそうはならずがっかりしたことと、牛車牽きがそんなウンチクを語るほど知識があるはずはないというリアルさに感心したことの板挟みになったのだ。う〜ん、この真っ白な平原について知りたければ自分で調べろってか?
 ご期待に応えて調べましたともさ。「塩の海」と呼ばれている場所はコルドバとトゥクマンの間に実在している場所で、「グランデス塩湖(Salinas Grandes)」と呼ばれる面積8920平方キロの「塩砂漠」だ。この地図の中心点、ルート60とルート157が分岐している地点(レクレオ)から南側一帯がこれに当たる。この地図を航空写真に切り替えればその様子が一発でわかるだろう。世界的に人気がある塩のひとつ「アンデスの塩」はこの辺りで採れる塩を言うらしく、ここはアルゼンチンでも有数の塩の産地だそうだ。元々は海だったところが隆起して塩湖となり、さらに水が干上がってこのような塩の大平原となったらしい。
 だがこの「塩の海」はコルドバからトゥクマンへ向けて、4割ほどの行程を費やした地点である。この前後の行程や劇中の牛車隊一行の台詞と整合が取れないような気もするが、気にしない気にしない。
名場面 トゥクマン目視 名場面度
 泊めて貰った…というか勝手に納屋に宿泊した家でマルコは目をさます。その家の奥さんに朝食のパンをご馳走になり、ふと進行方向を見ると…そこに山が見えた。「トゥクマンはあの麓だよ、ロバの足なら5日もあれば着くらしいけど」と奥さんが語る。黙って山を見つめるマルコ、「あの山の麓にトゥクマンの街が、かあさんのいる…」と心の中で呟きながら…。
 このシーンはいよいよ最終目的地が目視できる位置まで近付いた事を示唆する記念すべきシーンだ。ロバが1日で30キロ歩いてくれれば5日で150キロ、実はこれについては地図上で照合してみるとキチンと一致する。いよいよ残り200キロを切って旅がラストコースに入ってきたことを感じさせるシーンで、多くの視聴者がホッとしたことだろう。そして今のマルコには「ばあさま」という「足」もある。もう完璧、残り5話で到着までの5日と再会と帰国でちょうど良いと多くの人が感じたとこだ。フルマラソンで言えば40キロ地点、箱根駅伝で言えば復路の京急線の踏切だ。
 だけど、もうひと困難あるとは誰が思うだろう? 今後の展開を思うとここは「油断」させられるシーンだ。

  
感想  久々の「特に何も起きない回」である。だが今話では名場面欄によりいよいよ旅がラストコースに入ったことが示唆される。頑張れマルコ、もう一息だ。
 前半は前話の続きとして牛車隊との旅が描かれる。相変わらずミゲルはマルコに辛く当たるし、マヌエルは今後のマルコの旅路を不安を覚えマルコの保護を頭領に求める。だがマルコが牛車隊と別れてのトゥクマンへの一人旅を希望したこと、頭領としてはこの申し出を尊重しないわけにいかず牛車隊の進行を予定通りとする。だがそれでも食い下がるマヌエルの気持ちを汲んで「ばあさま」というロバをマルコに進呈することになった。これでオープニングに出てくるキャラクターが全部揃った。今話の後半からいよいよあのオープニングのシーンが繰り広げられることになる。
 このシーン中に「塩の海」を使って、上手く過去の想い出に浸るシーンを入れた。しかも安易に回想シーンを流すのでなく、「塩の海」上で過去の登場人物達が集うというマルコの妄想として描かれたのはポイントが高い。フィオリーナも勿論出てくるし、何よりもジュリエッタとフアナという組み合わせで手を繋いで踊ったり、過去の主要登場人物全員がペッピーノの馬車に乗るという夢のようなシーンが繰り返されたのは面白い。
 で牛車隊との別れシーンでは、なぜか唐突にミゲルがいい奴になっているし。あいつは愛情表現が下手なだけで、恐らくマヌエル以上にマルコを心配していたのだと思う。だけどそれを素直に示せなくてついつい辛く当たってしまうという性格なんだと解釈しよう。この牛車隊との旅で今話の終わりまで引っ張っても良かったんじゃないかなー。
 そしてマルコが「足」を手にしたこと、いよいよトゥクマンが目視できるところまで来た事で視聴者はマルコの旅の終わりを思い、ある者は安心し、ある者は寂しさを感じた事だろう。もうこの展開だと誰もこれ以上の障害があるとは思わないだろう。だが落とし穴はもう次回予告に出ている。マルコ君にはもう一回苦しんで貰わねばならないのだ。
妄想シーンとはいえ、
久々にフィオリーナ登場!
ジュリエッタとフアナという組み合わせも、劇中ではあり得ない「夢の競演」だ。 ペッピーノの馬車に主要登場人物
全員が乗り込む。
どう見ても「七福神の宝船」だ。
研究 ・「塩の海」について
(名台詞欄参照)

第48話「ロバよ死なないで」
名台詞 「トゥクマンまで乗ってって、大丈夫でしょうか?」
(マルコ)
名台詞度
★★
 牛車隊から進呈されたロバ「ばあさま」で旅を続けていたマルコ。食糧が底を尽き、空腹との戦いの中で一軒の民家を見つけ食糧を分けてもらうことに成功する。その際、その民家の主人に「ばあさま」が20歳を越える老齢のロバだと聞かされ、マルコは不安になって思わずこう聞いてしまう。
 これは前話でマルコが「ばあさま」の進呈を受けてから、視聴者がずっと気にしていた事だろう。このロバは前々話で初登場しているが、どうにもこうにも頼りない。そして「ばあさま」という名前から多くの視聴者が、老齢のロバだと直感していたはずだ。マルコの単独旅行になってもその頼りなさは変わらず、オープニングで出てきたロバはもうちょっと立派だったぞ…と視聴者が感じる頃に、「ばあさま」が20歳を越える老齢だと改めて知らされる。もちろんこの「視聴者」の部分をマルコに置き換えても同じことだ。だからこそ元々の疑問の上に感じた明らかな不安が、マルコが口に出したこの台詞で視聴者も同じことを焦点として見ていたはずだ。
 もちろん民家の主人はマルコを不安がらせないために、本当のことを隠して「大丈夫」と言い切る。だがこの後の主人の独り言「いやぁ、大したロバだ。ま、トゥクマンまでなら何とかもつだろうさ。」にあるように、この主人も同じ不安を抱えていたのだ。この独り言を聞いたところで、視聴者は今話のサブタイトルを思い出して「マルコのピンチ」を感じ取る、上手く出来た台詞回しだと感じた。
名場面 「ばあさま」の死 名場面度
★★★★
 名台詞欄にあった民家をあとにし順調に「ばあさま」に乗って草原をいくマルコであったが、どうにも「ばあさま」の様子がおかしい。「ばあさま、どうしたの?」とマルコが声を上げると、「ばあさま」は苦しそうに息を切らせていた。マルコが慌てて「ばあさま」から降りると、「ばあさま」はその場に座り込んでしまう。「ばあさま! ダメだよ! 行こうよ! 起きてよ!」マルコが必死に声を掛けるが、「ばあさま」それに反応して数歩歩いたかと思うと今度は倒れてしまう。「どうしたの? おなか空いたの?」と問うてパンを差し出すが、全く反応はない。草を出してみても同じだ。マルコは「水だ!」と気付き今度は鞄の中を空にして水を汲んでくるが、やはり「ばあさま」は苦しそうに喘ぐだけで口にしようとしない。マルコは身体をさすったりして「ばあさま」の看病をするが、やがて日が落ちて月が夜空に上がると「ばあさま」は徐々に力を失って行き、マルコがふと気付くと「ばあさま」はそのまま息絶えていた。「ばあさま、死んじゃったの? ごめんなさい、僕が無理に歩かせたからなんだ…ばあさま、ごめんよ」と号泣するマルコ。そして落ち着くとマルコは街道の土を救い「ばあさま」の身体に乗せ、近くの花を手向ける。そして「さよなら、ばあさま…」と呟いてその場を静かに立ち去るのだ。
 マルコは唐突に旅の友であり自分の足であったロバを失う。しかもその別れは予感はあったものの、あまりにも突然であっけないものだった。だがつごう3話と毎オープニングにしか出てこないロバである、劇中のマルコも視聴者も感情移入する前の出来事であり、この「死」からは悲しさは見えてこない。「マルコが足を失う」というピンチとの直面とそれに対する不安、ピンチから生まれた「ばあさまに無理をさせた」という後悔と、短期間とは言えマルコの足を勤めてきた事に対する感謝の情だけだ。その後悔と感謝の情でもってとりあえず簡単ではあるが、「ばあさまの葬式」は描かれた。
 その葬式シーンがこれまた良い、月の光を効果的に使って劇中の色をモノクロに近い状態にまで単色化してしまう。その中で見えるマルコの涙、明らかにこれは後悔の涙だと私は解釈している。どう考えても牛車隊と別れてからトゥクマンまでの行程の半分を残していて、それを自分の足で消化しなければならないという重圧が彼の背にのしかかって来ているのだ。その後悔と不安が、画面を単色化することで上手く引き出されている。
 このロバの死因はよく解らない、名台詞欄に出てくる民家の主人は既にこのロバの寿命が尽きかけていることを見抜いていたと思う。これから察するにマルコが考えた「脱水症」などの無理のさせすぎとは違い、単に老衰だったと考えるのが妥当だ。

  

  
感想  今回からいよいよマルコの旅は最も苦しい展開へと進んでいくことになる。前話でも語った通り残りはもう150キロを切っているが、ここからが一番苦しい旅になるのは誰も否定しないだろう。序盤ではマルコが鞄の中を確認するシーンがわざわざ挟まれ、彼に資金的な余裕も食糧も無いことが明確に語られる。その上で宿場をひとつ通過してしまい、「ばあさま」が思うように進んでくれないアクシデントも重なってマルコは初めて単独の野宿をせざるを得ない状況に追い込まれる。前話の親子にもらったパンは「ばあさま」に横取りされ、ミゲルからもらった保存食が最後の一個というじり貧状態だ。寒さに震えて寝不足のまま夜を明かすと今度は空腹に襲われ、アメデオが美味しそうに食べている木の実に手を出してすぐに吐くという悲惨なところまで追い詰められている。がこの悲惨な朝こそがオープニングで描かれているあの朝と見て良いだろう。
 寝不足で昼はロバの上で寝てしまうという疲弊しきったマルコは、民家を発見しなんとか食糧を分けてもらえたが、ここから名台詞欄・名場面欄のシーンが続々と続き、マルコは牛車隊と別れて以降の「足」であったロバを失い、遂に「歩く」という手段でしか旅の続行が出来なくなる。だが一度「こうだ」と決めたら簡単にはブレないマルコという「強さ」は既に備わっている。進退窮まることもなく彼が前進を始めたところで今話は幕を閉じる。
 とにかく今回は前話までのどちらかというと「楽しい旅」の要素が完全に消された点が目立つ。例えば前話では民家の納屋に宿泊という状況ではあったが、そこの民家の住民がマルコに理解するだけでなく、小さな子供が出てくるなどまだ「救い」はある展開だった。だが今話は動だろう? だいたい動物とマルコ以外では、名前がついているキャラが一人も出てこない。完全にマルコの単独行動となったと言って過言ではない。その「完全な一人旅」という過酷な状況下で彼は「足」を失ったのである。うん、容赦がない。
 ここからの母に出会うまで、文字通り「容赦のない」状況が次から次へと現れる。いよいよマルコ絶体絶命のピンチであり、その向こう側に母親の顔が見えてきた時期でもあるのだ。
研究 ・ 
 

第49話「かあさんが呼んでいる」
名台詞 「アメデオ、もう歩けないよ。足が…足がちぎれそうなんだ。おかあさん……ごめんよかあさん、もうダメだよ、もう一歩も歩けないよ。近付いても、近付いても、おかあさんは一人でどんどん先に行ってしまうんだ。どうしてなの?おかあさん。…もう僕はおかあさんのところへ行く事は出来ないんだ。歩けないんだ。おかあさん…。」
(マルコ)
名台詞度
★★★★
 道中で足を怪我したマルコは、遂に歩けなくなって雪の街道に倒れる。そして倒れたままアメデオに対してこう呟き、静かに気を失う。
 この日のマルコは靴が壊れ、これをきっかけに足を怪我し、その上道を間違って余計に歩かされ、暖を取ろうとしたら火が付けられず、挙げ句大した防寒装備もないままに吹雪にも見舞われてしまう。そして足の怪我はどんどん悪化してしまい、遂に耐えられなくなって立ち往生するしかないと解ったとき、彼の口から出てきた言葉は自分の運命を恨む台詞だった。これまで様々な情報を元に母の消息を掴み、それに従って進んできたものの何処へ行っても母が去った後だった。その都度失望から立ち上がって新たな情報を掴み前進を続けてきたが、コルドバからこっちのマルコの中に「トゥクマンにも母がいないかも知れない」という不安が常に存在しており、立ち往生という段階になってこの不安がこみ上げてきて「自分は二度と追いつけないものを追っているのではないか」という心境に支配されてしまった。
 この心境に支配されてしまうと、これまでマルコの中にあった「前進」という思いは何処かに消えてしまう。どうすることも出来ない脱力感と絶望感が苛まれ、それにあがなうことなく倒れるしかなかった。そんなマルコの脱力と絶望が上手く再現されている。
 ここはマルコが最後に落とされるところであるが、これまでの落とされ方とは違う点がいくつかある。その最大のものは、これまでマルコが下に落とされるときは他者の力に寄ってたたき落とされることが多かったが、ここではマルコは「自分の力ではどうにもならない」という「自分自身の力不足」によって足場を失う形で、下まで落ちていったのである。勿論物語全体を通じてのマルコの底辺であり、ここで演じられる悲壮感がこの終盤の母との再会の直前を上手く盛り上げる。彼がこの旅でどれだけ苦しんできたか、その負の部分がここに全部集められているのだ。
名場面 アンナ再登場 名場面度
★★★★
 名台詞欄シーンによって街道で立ち往生して気を失ったマルコは夢を見る。それは花畑の中でアンナがマルコを呼ぶという夢だ。夢の中でマルコは母親に呼ばれ、母親に甘え、「いらっしゃいな」と呼ばれて歩き出す。だがマルコは夢の中にアメデオがいない事に気付き母親について行くのを止め、アメデオを捜す。すると母親はそのまま歩き去ってしまうと言う、ネロのようにそのまま天国へ旅立って行ってしまいそうな内容の夢だ。マルコは母の姿が見えなくなったことで「おかあさん!」と叫んで目をさます。そして何度も「おかあさん!」と街道に向かって叫ぶ…。
 ここで画面が切り替わって出てくるのが、マルコの母アンナが病床で苦しむ姿だ。アンナはマルコの名を繰り返しながら苦しそうに喘いでいる。看病する夫人と医師との間で語られる深刻な病状、治療は難しいと語る医師。
 1話以来初めて回想シーンや夢以外でアンナが登場するが、そのアンナは病に苦しんでいるだけでなくすっかりやせ細っていることに視聴者は驚くことであろう。だがこの前の日までアンナが元気だったことが語られ、マルコの「病気に違いない」という不安は杞憂だったことがやっと判明する。その上でアンナはこの日から病で寝込んでいるという設定を取った。
 そしてその内容からは、マルコが見た夢が的中していると言うこと。マルコがそのまま三途の川を渡ってしまいそうな夢の内容は、まさにアンナがマルコをあの世に連れて行ってしまいそうな内容だ。その夢の内容にアンナの側も一致しているという恐ろしいシーンで、彼女の再登場を印象付けるわけだ。立ち往生してギリギリにところで何とか生きているマルコ、病に倒れ今にもそのまま天国へ旅立ってしまいそうな母。本当に二人がそのまま手を取り合ってあの世へ行ってしまいそうな状況だったのだ。
 こうしてアンナの苦しみも同時に描いたのはよくやったと思った。アンナが家族と音信不通になったことでどれだけ苦労しているかが、夫人のさりげない台詞だけでなく「やせ細った」という描写で上手く表現したのだ。もちろん音信不通になった原因はマルコは既に掴んでいたが、アンナはまだそれを知らずマルコが自分のところに一歩ずつ向かっていることなど想像すらしていない。
 そして何よりもこのシーンはアンナが間違いなくトゥクマンにいること、マルコがその直前まで迫っていることを示唆するものだ。ゴールは目前で1話からずっと見てきた視聴者は、さらに物語に引き込まれるのだ。
  
感想  正直、今話は全部が名場面だと思った。マルコの旅が一番辛い局面に差し掛かり、それで前へ進めなくなってしまった悲壮感というのを淡々と描いている。主人公に同情することもなく淡々と描いたことで、ここでのマルコの辛さがしっかりと表現されてこの物語が強く印象に残った人は多いだろう。今話のマルコがどれだけ悲惨かというと、靴の破壊から始まって、足を怪我し、道を間違え、暖も取れず、吹雪にもまれ、行き倒れになると言う旅先で経験したくないことのオンパレードだ。雪の中で倒れたけど直後に恋人が乗る車に拾われ、そのままファーストキスまで経験した主人公もいたけどそんな甘い展開にはならないのが「母をたずねて三千里」の容赦のない展開だ。
 だが同時に名場面欄に書いた通り、ゴールが近いことも描かれる。それが母アンナの再登場であり、名場面欄に書いた通り印象深く描かれた。
 ゴールが近いこととアンナが間違いなくトゥクマンにいることが示唆されたことで、視聴者の次の焦点はマルコがこのピンチからどう救われるかという点だろう。同時に死にそうな状況の母に逢うのが間に合うのか、今話冒頭のマルコの夢が正夢になったりしないのか。でもこれでバッドエンドだったら正直辛いと誰もが思うであろう。最初のポイントであるマルコがどうやって救われるかは、今話では描かれることはなく次話に持ち越された。
 次話、いよいよマルコはトゥクマンに着くのか?
研究 ・ 
 

第50話「走れマルコ!」
名台詞 「マルコ…マルコ…元気でいておくれだろうね…マルコ…マルコ…」
(アンナ)
名台詞度
★★
 今話の中盤、病に苦しむアンナの様子が再び出てくる。そのアンナが毎日のように見る夢、それはジェノバの港でマルコと別れたあの時のことであった。枕元に置いていたマルコからの手紙をベッドの下に落としたことで目をさましたアンナは、手紙を拾おうとしてベッドから転落する。そして手紙を抱きしめてこう呟きながら涙を流す。
 アンナが登場する時間は前話より短いものの、そのアンナの苦しみが前話以上に細かく描かれた。彼女もまだ幼い次男と別れたことが身を割かれるように辛いことで、それでも健気に働いていたが音信不通になって半年で精神的な疲弊の限界に達したのだろう。その苦しみの中で思い出すのは、泣いて別れた末の息子のことだったのだ。
 そしてマルコが母からの手紙が途絶えて母に逢いたいという思いを強くしたのと同じように、母も家族からの手紙が途絶えたことで逢いたいという思いを強くしていたはずだ。アンナも家族と音信不通になってから、家族に何かあったんじゃないか、マルコはもう生きていないのではないかとの不安とともに生きていたに違いない。その不安を抱えながらトゥクマンへの旅を続けるマルコと同じように。アンナの場合はまだ家族と音信不通になっている理由がわからず、マルコがこちらに向かっていることにも気付いていないからその絶望感は強いだろう。マルコはマルコで何だかんだで母の元へ向かっているのだから、たとえその消息情報があやふやでも希望を持つことが出来ていたはずなのだ。
 推測するにアンナとジェノバの一家の連絡手段は手紙だけだったが、メレッリを介して音信が取れていたのはメレッリが事業に失敗する直前までだっただろう。それと同時にアンナは転職し、転職を知らせる手紙まではメレッリ経由で届いたが、その次の手紙からコルドバへの転居を告げて手紙の送付先を記した手紙までがメレッリに着服されていたと考えるべきだ。アンナがコルドバに引っ越すのと、メレッリが事業に失敗してバイアブランカへ逃げるのはその直後だったと思われる。それでもコルドバでアンナはメレッリ経由で手紙を出すが、メレッリが行方不明になって手紙も迷子になったというのが正しいところだろう。だがメレッリは手紙に入っている仕送りを着服するようになっても、ジェノバからアンナへの手紙は取り次いでいたと考えられる。しかしメレッリが行方不明になったことでジェノバからの手紙もアンナに届かなくなったのだろう。こうして互いに音信不通になり、不安が募っていったものと想像される。
名場面 メキーネスの工場 名場面度
★★★★
 いよいよマルコは、コルドバのメキーネスに聞いたトゥクマンのメキーネスの工場の前に立つ(ややこしい)。アンヘルと別れて守衛に「メキーネスに逢いたい」旨を言うと、これをすぐに取り次いでくれる。飛び上がって喜ぶマルコだが、その喜ぶマルコの元に現れたのは「工場で一番偉い技師」ではなく二人の工員だった。喜ぶのを止めて無言で立ち尽くすマルコに、守衛が今日はメキーネスは休んでいる旨を伝える。マルコが「住所…」と言い切らないうちに、男性工員が「似ている」と語り出す。マルコが驚くと女性行員が「アンナの子供なんだね? あんた」とマルコに声を掛ける。「母さんを知ってるんですか?」マルコが弾んで答えると、女性行員が「ああ、あんたのおかあさんにはひとかたならぬ世話になったんだよ。それにのになんて可哀想なことに…」と泣き出すのを男性工員が「おい、子供にそんな…」と止める。「かあさんに何かあったんですか?」マルコの声が深刻になる。「なに、大したことないさ。手術で何人も治った人がいるんだ」と男性工員が返すと、「病気なんですか? かあさん?」とマルコが必死に問う。「早く行ってお上げなさい」と女性工員がいうが、マルコは「そんなに酷いんですか…?」と呟く。だがメキーネス邸がある農園へ行く馬車便がもうないと工員達の間で語られると、「僕歩いて行きます、道を教えて下さい」とマルコが訴える。守衛が「明日の朝の馬車便で行けばいい」と提案すると、工員達はそれに賛同する。「道を教えて下さい、これからすぐ行きたいんです。お願いです。」マルコはあくまでも冷静に、そしてしっかりと工員にこう語るが、工員達は就業時間まで待つようマルコに言うと立ち去ってしまう。だがマルコは負けずに守衛からメキーネス邸への行き方を聞くと、「お世話になりました」と言い残し走り出す。
 マルコが最後にぶち当たった壁であると同時に、彼が母が病に倒れているという事実を初めて知るシーンである。だがここはマルコの成長をうかがい知れるシーンでもある。今までこのようなシーンにぶち当たったら、マルコは絶望して泣き出すだけだった。だが今回は違う、マルコは自分が何をすべきなのかをしっかりと理解していて、誰もが止めるのを聞かずにその「やるべきこと」に向かって邁進しようとするのだ。そうでなきゃ彼は、女性工員の家に泊めて貰っていただろう。
 もちろん、彼が母の元へ急ごうとしたのは母が病に倒れたという報せを聞いたからだ。これさえ解っていなければ、「アンナはメキーネス邸で元気に過ごしている」って事になっていたら、多分マルコはメキーネス邸までの距離を考えて素直に翌朝まで待つか、他の馬車を捜すかしたことだろう。だが状況は予断を許さないと彼は直ぐ判断し、行動に出た。しかもこれまでのように誰かに泣きついて頼ろうとするのでなく、自分の足で走るという手段を無意識に選択していたのである。
 このシーンをもって今話は終わりを告げ、いよいよ次話では母子の感動の再会である。だがその直前シーンでこういう形でマルコの成長を描いたことは、この物語のテーマの一つである「少年の成長」についてうまくまとめ上げたと感じた。
 

 
感想  マルコの旅のラストコース。前話で行き倒れになったマルコは、あっけなく通りすがりの旅人に助けられる。この旅人はホホイのホイでマルコの怪我を治し、マルコの靴までも直してしまいマルコの旅をかなり改善させるという魔法使いのような活躍ぶりだ。そしてマルコが歩き出せばご都合主義的な展開で馬車に拾われ、徒歩に頼らずにトゥクマン行きが確定すると共に、今話冒頭の「トゥクマン到着は明後日」が1日早まるという嬉しい誤算が生じる。まったく、デュファルジュ先生はこれで何役目だ?
 その合間に名台詞シーンで描かれたアンナの苦しみが挟まれ、その苦しみの裏でマルコはサトウキビをなめながらの楽しい旅をしていることが描かれる。これでアンナが病気という問題はあるけれど、マルコはもう苦労せずにトゥクマンへ、母親の元へたどり着けると思ったところで名場面欄となる。これはマルコが母に逢うために仕掛けられた最後のトラップだ。アンナが美容器という問題の上に、距離とそこへの足がないというさらなる問題をマルコに突き付け、マルコの想いが何処まで本当かを試すのである。こうすることでマルコの「成長」が描かれ、マルコは長い旅の果てに母に逢うことが許されるのだ。
 いまにして思うと「世界名作劇場」で新しい方から二番目の某長い旅は、最後の方でこういう要素がなかったと思う。確かに彼もラストコースはマルコ並みに辛い旅を続けたが、気付けばその辛さは甘い恋愛シーンでかき消されて悲壮感がゼロになってしまい、その上女優のなり損ないの家に転がり込んで大人の女性と恋愛沙汰を描くという意味不明の展開になってしまった。いや、あれはあれで良いんだけど「母をたずねて三千里」をここまで見てから思い出すと、「ちょっとなー」と感じてしまうわけで…話が逸れた。
 マルコが走る先にあるのは、間違いなく母の笑顔だ。いよいよ次話、感動の再会シーン。小学生の頃の私が正座して再放送を見た、あのシーンだ。
研究 ・ 
 

第51話「とうとうかあさんに」
名台詞 「おかあさん…僕…僕、ジェノバへ帰ったら、とうさんが言ってた通りお医者さんになるよ。アルゼンチンに戻ってきて、この国の人達のために精一杯働くんだ。」
(マルコ)
名台詞度
★★★★★
 マルコとの再会により精神的に安定したアンナは、自分の病を治すべく手術に立ち向かう。そしてこの手術が上手く行き、マルコがアンナの枕元に立つ。アンナが目をさまして「あなたのおかげ」と手を握ると、マルコは手を握り替えしながらこう語る。
 この旅を通じてマルコに芽生えた決意…それは旅を支えてくれたアルゼンチンの貧しい人達のために尽くすという決意であった。名台詞次点欄も参照して欲しいが、マルコはこの旅で母に逢うまで実に多くの人に助けられた来たとここへ来て実感した。その恩はいつか返さねばならないことはマルコが一番よく理解していたことでもあるし、この旅を通じて彼が教わった「持ちつ持たれつ」の関係だ。そしてその「持ちつ持たれつ」に従って彼はコルドバでフアナを助け、さらに窮地に陥ったところで彼を救ったのは通りすがりのアルゼンチンの人々であった。これをよく理解しているのだろう。
 そして彼が旅行を通じて見て来た現実…アルゼンチンでの驚くほどの貧富の差と、自分を助けてくれた貧しい人達の生活だ。移民船で出会った人達、ブエノスアイレスで出会ったもう一人のアンナ、ペピーノ一座、メレッリ、ロサリオへの船員、「イタリアの星」の人々、パブロとその家族、牛車隊の人々をはじめとする街道の人達…マルコを暖かく励まし、力をくれた人間は皆貧しい側の人達であった。その日の生活にも手一杯で病気になれば医者にも診てもらえぬ彼らの現実を知ったとき、マルコは父の仕事の尊さを感じていたに違いない。貧しくても心の温かい人の力になりたい…この彼の思いが父の仕事を自らが継いで、ジェノバでなくこのアルゼンチンで働きたいという決意になったはずだ。
 これはマルコの父ピエトロが第3話名台詞欄でトニオに語った台詞の伏線回収をしたと受け止めても良いだろう。父の思いはマルコ自身が苦しむことを通じて、やっと通じたという考え方も出来るのだ。長いロングパスだなぁ、48話越しとは…。
 もちろんこのマルコの決意に、母は笑顔で頷き、メキーネス氏も力強く声援するし、アンナを診察した医師もこれに応えるのだ。
 この台詞でもって「マルコの物語」は終わったと考えて良いだろう。次話は物語を大団円とすべきオチなのだから。
(次点)「おかあさん…僕…僕ね、色んな人に尋ねたり、沢山の人に助けられて、やっとここまで来れたんだ。もう絶対、絶対離れないよ。おかあさん。」(マルコ)
…マルコが母の病気のことを聞いたとき、「あなたがこうしてきてくれたからもう安心」ととマルコの手を抱きしめるアンナにマルコはこう返す。この台詞はマルコの旅が短く上手く統括されていて、名台詞本欄に挙げた決意へと繋がって行く重要な台詞だ。彼が多くの人に助けられたことを自覚し、それによって時間は掛かったが母に再会できたことを心んら喜んでいることがわかる。
名場面 再会 名場面度
★★★★★
 マルコがトゥクマン郊外のメキーネス邸がある集落までたどり着くと、メキーネス邸へ向けて一目散に駆ける。やっと到着したメキーネス邸の入り口で転倒したところで、メキーネスの馬車に轢かれそうになったことで屋敷では「アンナの息子がやってきた」事を知り、マルコはアンナが眠る病室へと通される。
 そしてマルコがやっとの思いで対面した母の姿は、病で苦しみ肩で息をして、今にも死にそうな病人の姿だった。マルコはメキーネス夫人とともに必死に声を掛けるが、アンナは眠ったまま苦しむだけ。かと思えば今度はマルコの名を語ったかと思うと「海が見える…とうとう帰り着いたのね」とうわごとを言うだけだった。
 しばらくするとアンナの様子に変化が見られる、眠ったまま呼吸がさらに苦しそうになったかと思うと、急に力が抜けて楽そうな表情になって目をさます。「おかあさん!」マルコが叫ぶ、「マルコ…あなたはマルコなの?」とマルコを見たアンナが驚いた表情で語る。「そうだよ、おかあさん!」マルコが返すと、アンナはしばらく何が起きたか解らないような顔でフリーズする。メキーネス夫人がマルコが一人でここまで来たことを語り、マルコは「わかるでしょおかあさん? 僕が…」と涙ながらに声を掛ける。「マルコ…」アンナが口に出すとマルコの顔が歪む、「おかーさん!」「マルコ!」「おかあさん!」…二人は抱き合って涙を流す。
 マルコの長い旅のゴールである。二人の再会は時間を掛けて描かれた。特にアンナがずぐに気付かずに眠ったままうわごとを言うなど引き延ばしたのは、この再会を盛り上げる効果があったことだろう。
 視聴者としてもこの一瞬のために、ここまでの容赦のない展開にマルコと共に耐えてきたのだ。まさに「水戸黄門」で言えば印籠が出る瞬間と同じと言っても過言では無かろう。こうして耐えた分だけ印象に残り、これも日本アニメ史上に残る名場面となったのは否めない。
 ああ〜、小学生の頃に見た時もそうだったけど、やっぱ今見ても涙が…。
  

  
感想  マルコは15221キロ、3875里に及ぶの長い旅のゴールに到着する。つまり今話で物語としての結論が得られ、本筋は終わったと見て良いだろう。その結論とはマルコが母に再会することはもちろん、マルコ自身が強くなって成長したことがキチンと示唆された。同時にアンナを通じて「子に会えない親の辛さ」も描かれ、このような親が子に会えると言うだけでどれだけ力を得ることが出来るか…つまり親子の絆というテーマもこの一話で見事に演じきった。今話はマルコがメキーネス邸へ向けて走るシーンが長々と描かれた割に、母との再会から手術、それにマルコの成長という面まで様々な内容を詰め込んだが、物語に窮屈感がなくむしろ若干の長さを感じるほどだったのは不思議だ。それは物語に結論が得られたこと、視聴者がずっと待っていた再会シーンが演じられたことという理由もあるが、最大はなんといっても各々のシーンが手を抜かずに丁寧に描かれているところにあるだろう。最初のマルコがメキーネス邸へ走るところもそうである、特にマルコの体力が限界にある点や、喉が渇いたりメキーネス邸が見えて喜んだりと言った、当たり前だけど見過ごしがちな点もキチンと省略せず描いたのはポイントが高い。
 しかし、アンナの病気はなんなんだろう? これは小学生の頃に再放送を見た時からの疑問である。手術があっさり終わったことから実は虫垂炎かと思ったが、術前のアンナの呼吸の様子を見ているとどうも呼吸器系の病気のようだ。ポリープかなんかだったら術後にあんなすぐにしゃべることは出来ないと思うし…これは「母をたずねて三千里」永遠の謎かも知れない。いずれにしろ当時の医学では危険だけど、現在ならあっさり治ってしまうような病気だと思う。
 とにかく物語に結論が出た。「世界名作劇場」シリーズのセオリーに従い、最終回の一話前で結論を出し、最終話は大団円のためにオチという事になりそうだ。そうそう、アンナが使っている毛布がグリーンゲイブルズのアンの毛布と同じだと思っていいのかな?
研究 ・コルドバからトゥクマンまでの旅
 長文ですので別窓にしました、ご覧の方はこちらをクリック

・今回の旅程
(コルドバ〜トゥクマンのメキーネス邸)
移動距離 566km 144里
合計(ジェノバから) 15221km 3875里

第52話「かあさんとジェノバへ」
名台詞 「帰ってくるって…マルコは必ず、帰ってくるって。」
(フィオリーナ)
名台詞度
★★★★★
 マルコの帰路は母とともの旅であるが、この道中で立ち寄ったブエノスアイレスでバイアブランカを引き揚げてきたペッピーノ一座との再会を果たす。そしてしばしの再会の時を過ごし、マルコを乗せた船がジェノバへ向けて出港する後ろ姿を見送りながら、フィオリーナが笑顔で呟いた台詞がこれだ。
 これでマルコとフィオリーナの「別れ」が描かれたのは三度目であるが、この別れは唯一二人が「笑顔で別れた」ものとなった。実はこの事実にマルコの成長が込められている。マルコはここでフィオリーナにだけ自分の将来の「決意」(前話名台詞欄参照)を語っていた。それを受け取ったフィオリーナは瞬時にマルコの決意が本物であると見抜き、この別れは「再会」が約束されているものと悟ったのである。そして大人になったマルコが医師になって戻ってくれば…もちろんフィオリーナはそれについていく決心も出来ている。そんなところまで視聴者が想像できるように上手く考えられたフィオリーナの呟きと、笑顔だ。
 これまでの「別れ」はフィオリーナにしてみればマルコとの「再会」がなにひとつ確約されていなかったが、この別れはマルコの側から「再会」の約束が語られたことも彼女の笑顔の裏側にあったはずだ。つまりフィオリーナのマルコへの想いも本物であり、彼女はマルコの「決意」を聞いて惚れ直し、彼女の未来のお婿さんが決まった瞬間でもあろう。
 また、この台詞のフィオリーナの笑顔もサイコーだ。
(次点)「ううん、素晴らしかったんだ、僕の旅。おとうさんが行かせてくれたおかげで。」(マルコ)
…ジェノバに到着し船客の先頭を切って降りてきたマルコに、父は「苦労をかけたね」と声を掛ける。このマルコの返事がこれで、マルコがこの旅を通じて大きな物を得たという自覚と、行かせてくれた父への感謝が上手く述べられている。この台詞でマルコの旅は終わりを告げ、序盤の父との諍いに終止符をも打つことになった。名台詞欄はどっちにするか最後まで悩んだ。
名場面 旅の終わり 名場面度
★★★★
 いよいよ母を連れたマルコはジェノバに戻ってくる。甲板でイタリア人達が騒ぎ出すと前方にジェノバが見えてくる。ジェノバを見てはしゃぐマルコと、安堵の表情を浮かべるアンナ。やがて船が港に着き、タラップが付けられるとマルコは船客の先頭を切って下船し、兄トニオと一緒に出迎えに来ていた父ピエトロに抱き付く。名台詞欄次点のやり取りの後、タラップからアンナが下船してくるのをトニオが見つける。ピエトロがアンナのところに駆け寄ると、夫婦は手を取り合いそして感動の抱擁だ。これを見てトニオが「やったな、マルコ!」とマルコの背中を叩く、マルコにパンチで応え兄に機関士になった祝福の言葉を掛ける。トニオが「医者になるんだって?」と聞くとマルコは頷き、トニオは「お前になれるか?」と冗談でこれに返す。すると物語序盤のような雰囲気で兄弟が追いかけっこを始め。静かに挿入歌が流れ出し、最後にジェノバの街の全景が出てきて物語は幕を閉じる。
 このシーンにはマルコが長い旅から戻って来て、また家族が一つに戻ったという安堵感と上手く表現している。特に一家の雰囲気を第1話のピクニックに合わせてあるのが面白い。ぐるーっと長いコースをめぐってまた元に戻ったというこの物語の構図を、最後の最後に上手く印象付けて物語を終えるのだ。
 またトニオとアンナの夫婦も、最初に手を握り合うというワンステップを置いてから抱き合うのもらしくていい。最初は子供も見ていると遠慮するが、じきに二人の思いが盛り上がってそんなのはどうでもよくなるという様子が上手く描かれているだろう。絶対にこの日の夜はこの二人、何年かぶりのあんなことやこんなことが待ってるぞ。マルコに弟や妹ができる日も近い…って、最終回の考察に何言ってるんだか。
 こうして物語は「一家が元に戻るむという大団円でもって幕を閉じる。文字通りこれは「母をたずねて三千里」のラストシーンであるのだ。
  

  
感想  最終回は物語に上手く「オチ」を付けると共に、最後まで残った未回収の伏線をキチンと回収して終わった。その最後に残っていた伏線は27話の名台詞欄等が参照となるが、フィオリーナやコンチエッタがマルコの母捜しを通じて、まるで自分の母を捜しているかのような感情移入をしていた点である。マルコが母と出会うことは自分達が母に出会うことと同じだと感じ、それでマルコの旅を支援してきたのであった。だから当然、コンチエッタはともかくもっともマルコに感じよう移入していたフィオリーナと、アンナの対面というのは無くてはならなかった要素となってくる。これがあった上に最終回でパブロやフアナ、それにマリオなども再登場したことで多くの視聴者がペッピーノ一座との再会を期待したことだろう。そしてその通りになり、フィオリーナはアンナと対面して「おかあさん」と呼んでマルコのように甘える。名場面欄はどっちを取るかで最後まで悩んだし、このシーンと名場面欄シーンのためにこの最終話が設定されたと思っていいだろう。
 特に後半でペッピーノ一座だけでなく、旅行中で出会った多くの協力者と再会するから前半の展開を忘れてしまうのがこの最終回の欠点だ。だが前半ではマルコの到着によってアンナとピエトロの音信不通が解除されたことが判明すればそれで良いのだから、あんまり問題ではないのだが…だがマルコが頼まれたメキーネスから夫人への伝言がちゃんと伝わったのか、気になってしょうがない。
 いずれにしろ長い物語が終わった。最後にフィオリーナが出てきて最高の笑顔を見せてくれて嬉しかった。フィオリーナはマルコの元に嫁に行くのは確定だろうけど、久々に一人の少女を気にしつつの視聴となったのは私としては珍しい。これに続いて総評だけでなく、リメイク劇場版の考察も少しだがしてみたいと思うので、皆さんにはもう少しマルコとその物語にお付き合い頂きたい。
 
研究 ・帰路
 最終回ではマルコがアンナを伴って、今回の旅の行程を逆に辿る。ただしバイアブランカへの往復は省略され、南米からの船便もリオデジャネイロ経由ではなく直通の「ダビンチ号」であった点が違う。旅費はアンナから仕送りとしてロッシ家に送ったが迷子になって戻って来てしまった仕送りを使ったようだ。
 まずトゥクマンからコルドバへ、約560キロの汽車の旅。これはブエノスアイレスからバイアブランカへ向かう旅客列車が3日掛かるという24話で語られた設定を元に、2日掛かったと考えよう。前話研究欄で考察した貨物列車より足が遅くなるが、これは一等乗客の食事などで足が鈍っていると考えるべきだ。というのはこの時代の食堂車は食事時間には列車を停止させていたらしいのだ。その最たる理由は食事を車内で作るのでなく、駅など地上設備で作っていたからだ。コルドバでパブロが何でマルコの到着を知っていたのかというツッコミは厳禁、手紙が行ったのではないかと考えるあなたは甘い、パブロは字が読めない設定になっているのだ。
 続いてコルドバからロサリオ行きの汽車に乗り換え、約390キロの旅が続く。往路での描写を考えるとコルドバとロサリオを結ぶ列車は1日1本と考えられ、恐らくこの街に泊まったことだろう、だったら宿泊時にパブロの家をゴニョゴニョ…。ロサリオまでは往路と同じく1日で到着できると考えられる。ロサリオでは「イタリアの星」に立ち寄った事が描かれているので、ここでも1泊しているのは確かだろう。
 続いてロサリオからブエノスアイレスの川船であるが、帰路ではちゃんとした客船を利用しているので往路に乗った小型貨物船のアンドレアドーリア号より船足は速いと考えられる。この間の350キロを平均時速20キロ程度で航行できれば18時間、途中で寄港地があれば24時間程度といったところだろう。つまり昼に出れば翌日の昼に着き、ここでつごう2日消費したことになる。またブエノスアイレス港でペッピーノ一座と再会したのは昼頃の描写なのでこれとも一致する。
 そしてここで何泊したか解らないが、最低1泊したのは間違いない(ただ「ダビンチ号」の運行スケジュールに合わせてトゥクマンを出発しているだろう)。最後に乗ったのはジェノバとブエノスアイレスを結ぶ定期船「ダビンチ号」、この間12400キロの旅路である。「ダビンチ号」が往路にマルコが乗った「フォルゴーレ号」と同じ性能だとすると、この間に25日掛かることになる。12話辺りまでの劇中ではもっと頻繁に運行されているように描かれていたけどな…恐らくこの船会社は「ダビンチ1号」「ダビンチ2号」って形で「ダビンチ号形」として同形船を何隻か持っているに違いない、片道25日なら2隻と予備が1隻あれば1ヶ月1往復だ。これでだいたい劇中の描写と一致してホッと安堵する。
 さて、これで出てきた。帰路の旅程は13700キロ(下表ではトゥクマンのメキーネス邸からトゥクマン市街への移動分を加算している)、さらっと描かれたがこれも丸々1ヶ月の大旅行なのだ。まぁ往路のあの旅を考えれば、この復路が苦しみも何にもなくて「オチ」程度でしかないのだが…でもマルコがアンナを連れ帰って家族が一つに戻るという大団円のためには、どうしても必要な旅だったのだ。

・今回の旅程
(トゥクマンのメキーネス邸〜ジェノバ)
移動距離 13710km 3491里
合計(ジェノバから) 28931km 7366里

・ペッピーノ一座の「その後」
 最後に考察したいのは、37話で物語から降板したペッピーノ一座のその後についてだ。この最終回でマルコはブエノスアイレスの港で路上ライヴ中のペッピーノ一座と再会する。ペッピーノはバイアブランカで腰を落ち着け、フィオリーナやジュリエッタに定住する環境を与える決意をしていたが、どうもこれが上手く行かなかったようだ。愛しのフィオリーナたんの将来にも関わることだけでなく、実はこれを考察することでマルコがどれくらいの期間トゥクマンに滞在したかを推測する材料にもなる。だから、これだけはちゃんと考えておきたい。
 まぁ、結論だけ言えばのた32話の名台詞欄の通りになっただけなのだろう。バイアブランカという街は一座を暖かくは迎えてはくれなかったのだ。
 一座はバイアブランカで、イタリア人有力者のモレッティから劇場を建設しその際には自由に使って良いとのオファーを受けていた。だがこれが破綻したのは間違いないだろう。まぁ34話当たりをじっくり見ていれば解ることだが、モレッティが一座に求めていたのはペッピーノがバルボーサ大牧場でやったことと同じこと、つまりマルコとアメデオの物語を上演して一儲けすることであった。ところがマルコとアメデオがエステロン(メレッリ)と出会ったことでさっさとブエノスアイレスに戻ってしまい、ここでモレッティの態度が一変したのは想像するのは難しくないだろう。さらに最終条件で恐らくペッピーノにはマルコ主役の芝居を上演することを求められたと思われるが、これを娘達に反対されて進退窮まったわけだ。そこで一座はバイアブランカを引き払う決心をしたのだろう。多分ここまではそう日数が経ってなかったであろう事が想像され、この頃にはまだマルコはロサリオに着くかどうかの頃だ。
 だがペッピーノの資金も底をついているわけで、そこで鉱山の給料日にまた一大公演を打つことにしたと考えられる。これが当たったことで資金を得て、一座はまた馬車に乗ってブエノスアイレスに戻ったであろう。バイアブランカ出発はマルコと別れて一ヶ月後、マルコがトゥクマンに到着して母と再会した直後辺りに一座はバイアブランカを引き払ったに違いない。
 そこから馬車で順調なら20日、恐らくまたあちらこちらで公演しながらの旅だから1ヶ月近く掛かっている事だろう。ペッピーノ一座はブエノスアイレスでフォスコの店にしか頼るところはなかったが、フォスコはペッピーノ一座に一儲けさせてもらった事をちゃんと覚えていたので、フォスコの店を根城に活動することに決めたのだろう。この頃にはマルコと別れてから2ヶ月が過ぎていたはずだ。
 マルコがトゥクマンからブエノスまで戻ってくるのに必要な日数は、上記の通り一週間程度だと推測される。マルコはバイアブランカから約1ヶ月弱でトゥクマンに到着しており、アンナが「手術をした」という設定を考えれば彼女は1ヶ月近くは起きることが出来なかったと推測される。またこの間にトゥクマンからジェノバまで、手紙が一往復しているのは確かのようなので、マルコがトゥクマンに2ヶ月程度滞在していたと考えるのが自然だろう。
 するとペッピーノはブエノスアイレスに戻ってから、フォスコの店を根城に一ヶ月ほど活動してからマルコに再会したと考えられる。恐らくペッピーノはブエノスアイレスでこれまでにないほどの大当たりを出し、フォスコという仲間にも恵まれたことでここにしっかり根を張って活動することになっていったのだろう。

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