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第21章 「新しい牧師夫妻」
名台詞 「その晩、マリラは去年の暮れに借りたさしこぶとんの枠を返しに行くと言って、レイチェル・リンド夫人のところへ出かけていった。リンド夫人は、これまでもいろいろなものを人に貸していて、中には二度と戻るまいと諦めていたものも少なくなかったのに、その晩になるとどうしたことか借り主の手によって次々と戻されてきた。新任の牧師、それも妻を同行しているとあっては、刺激らしいものに乏しいこの静かな田舎で暮らしている人々が大いに好奇心を燃やすのも不思議ではなかったが、旅装を解いたばかりの牧師夫妻が表に姿を現すはずもなく、マリラや村人達の思惑は見事に外れたのであった。」
(ナレーター)
名台詞度
★★
 新しい牧師が妻を伴ってやってきた…これは情報にあふれる現代に住む我々にとってはたいしたことではないだろう、だが物語当時の田舎に住む人々にとってはそれは一大事件であったのだ。あのマリラでさえアンから話を聞いて、借りたもの(しかもたいしたものでも緊急性のあるものでもない)を返すと言い訳を作ってまでわざわざ顔を拝みに行くのである。だが村人の多くが同じ事を考え、同じように行動したというオチが付くと言うことを説明するだけの解説だが、その事実をこんな遠回しに面白く説明した秀逸な解説である。
 それだけではない、そうして牧師夫妻を見に行った全員が「結局見られなかった」というオチまでも面白く付けてくれるのである。この「赤毛のアン」という物語、ナレーターの解説も見所多いぞ。
名場面 教会からの帰り道 名場面度
★★
 「ねえアン、近いうちにアランご夫妻をお茶にお呼びした方が良さそうだね」「うわぁマリラ、本当なの?」「レイチェルから聞いたけど、まだお招きしていないのはうちくらいのものだっていうことだからね。そうさねぇ、今度の水曜日あたりが良さそうだけど、でもマシュウにはなにも言いっこ無しだよ」「あら? どうして?」「マシュウはお二人が見えることが分かったら、なんとかこじつけてその日は家を空けようとするだろうからね。ベントレー牧師とはすっかりお馴染みになっていたから良かったけど、新しい牧師さんと親しくなるのは容易じゃなかろうし、その上牧師の奥さんと来ちゃ震え上がってしまうだろうからね」「うふふふふふっ、絶対に秘密は守るわよマリラ。でも、お願いだからその時のケーキは私に作らせてね」「ケーキを? あんたが?」「ええ、アラン夫人のために是非何かしたいの。それにこの頃は私、ケーキ作りがかなり上手になったでしょ?」「そうだねぇ、じゃレアケーキならいいよ」「マリラありがとう」…「アンはもうすっかり、アラン夫人の虜になっていた」(ナレーター)。
 日曜日、教会の帰り道でのアンとマリラの会話の後半部分なのだが、もうこれが「事件の予感」をぷんぷん臭わせていて面白い。グリーンゲイブルズに大事な客が来る→マシュウには内緒→アンがケーキを作るといったらこれはもう何か起きるしかあり得ないじゃないか。しかも最後にナレーターがアンがアラン夫人に夢中になっていることを付け加えるし…で次のサブタイトルが「香料ちがい」だ。そう、次に何かが起きる予感を漂わせ、視聴者を次回に引き込むシーンとして次回予告とセットで上手く作ったのだ。
 アンの盛り上がり、それに対してアンに何かを任せるマリラ。このシーンは過去に何度も面白い事件シーンの前触れとして描かれてきたことは、もう20話以上もこの物語に付き合っていればよく分かるだろう。このシーンは間違いなく次の事件が起きることを示唆したもので、今回そのものが「事件の前の静けさ」を上手に表現したものなのだ。
  
今回の命名 新たな命名無いが、アラン夫妻が「恋人達の小道」「きらめきの湖」「ドライアドの泉」といったアンの命名センスに感心するシーンがある。
感想  わかりやすい前半後半の二部に分かれた物語。前半はフィリップス先生との別れなのだが、この物語には「理由の分からないおもしろさ」があると思う。よく考えればあんなに嫌われていたフィリップス先生が辞めてしまうというそれだけなのに、「絶対に泣かない」と誓い合ったはずの女の子達が泣いているだけである。でもそれだけでなんだか可笑しくて笑えてしまう、いや、ずっと笑ってた。で何で笑わなきゃいけないんだ?と視聴者が思う頃合いを見計らって、今度は劇中のマリラが笑い始める。あ、なんだ、笑ってて良かったんだと思ってまた笑う。笑う理由なんか何処にもない話なのに、不思議だ。
 後半はフィリップスと入れ替わりにアラン夫妻初登場だ、名場面欄にも書いたがこの二つの物語こそが事件と事件の狭間で「次の事件」に向けて上手く話をつなぐと共に盛り上げているとも思う。まさに今回のは嵐の前の静けさって感じだ。ちなみに前話は台風一過といったところだろう。物語に緩急を付けて飽きさせない、そんな楽しさが「赤毛のアン」には詰まっていると思う。

第22章 「香料ちがい」
名台詞 「ああ、マリラ。私は永久に浮かばれないわ。今度のことはいつまで経っても消えないわ。みんなにも知れるし、アボンリーじゃ何でも人に分かるように出来てるんですもの。ダイアナは私にケーキの出来具合を聞くに決まっているし、そうすれば本当のことを言わないわけに行かないでしょ? いつまでも痛み止めの塗り薬をケーキの香料に使ったんだって、指さされることになるわ。ああ、マリラ。少しでもクリスチャンらしい哀れみが残っていたら、こんな事の後で食器を洗えなんて言わないでちょうだい。牧師さんと奥さんがお帰りになったら洗うわよ。でも、私はもう二度とミセス・アランにはお目にかかれないわ。もしかしたら、私が奥さんを毒殺しようとしたなんて思うかも知れないし。リンドおばさんが恩人を毒殺しようとした孤児の女の子を知っているっておっしゃっていたもの。でも痛め止めは毒にならないわ。ねぇ、ミセス・アランにそう言って下さい。マリラ。」
(アン)
名台詞度
★★★
 香料を間違えた事件が発覚し、泣きながら部屋に飛び込んだアンの台詞。この台詞の何が面白いかって、アンは部屋に入ってきたのがマリラだと思ってしゃべっていたわけだが、実は部屋に入ってきたのがアラン夫人で、アラン夫人がこの台詞をにっこりした表情で全部聞いていた点であろう。ベッドに突っ伏して泣きながら語っていたため、後ろで話を聞いているのがアラン夫人だとも知らずに語り続けたアンに、アラン夫人は「飛び起きてご自分でそうおっしゃったらどうかしら?」と優しく声を掛ける。
 アラン夫人はこの事件を「誰でもやりそうなおかしな間違い」とするが、「誰でもやりそうな」はともかく「おかしな間違い」は同意。その上でアラン夫人はアンに気を取り直してもらうよう説得する。アンが夫人のためにケーキを特別美味しく作ろうと頑張った気持ちは通じていた。例え痛み止めの塗り薬を食わされようが、「美味しくてもそうでなくてもあなたの心づくしは嬉しかった」とする。
 またこの台詞は、このアボンリーという小さな田舎の村で、こんな失敗をしでかしたらどうなってしまうかという事も綴られている。レイチェル夫人は芸能リポーターおばはんだし、ダイアナが他人事とはいえアンのケーキがアラン夫妻に出されるのを楽しみにしていた。ま、ダイアナのような友ならばアンの失敗を正直に聞かされてもそれを吹聴するとは思えないが。。
(次点)「ああダイアナ、妖精を信じることをやめないで。」(アン)
…ドライアドの泉に現れるという妖精ドライアドの話をするアンに、ダイアナは懐疑的な台詞を投げかける。そんなダイアナにアンはこう訴える。だがこの台詞はダイアナだけでなく視聴者に向けているのかも知れない、「想像力を無くしたら人生面白くないし、この物語に付いてこれないよ」と。
名場面 香料ちがい発覚 名場面度
★★★★★
 マシュウも出席してお茶会は「婚礼の鐘のように」順調に進み、茶菓子については最後のアンのケーキを残すのみになった。お腹がいっぱいだからと一度は遠慮しようとした夫人に、マリラが「アンが特に奥様のためにとこしらえたもの」と説得すると、夫人はそのケーキを頂くことにした。「まぁ、美味しそうだこと」ケーキにフォークが入る、そして一口目…夫人の表情が歪む。アンは夫人がケーキを食べたことで嬉しい表情を崩さないでいたが、マリラは夫人の表情の変化を見逃さなかった。夫人が二口目を食べるのに続きマリラがケーキを口にする、食べた瞬間にマリラは驚いた表情に変わり「アン・シャーリー!」と声を掛ける。その声に我に返ったアンの後ろで、三口目のケーキに挑もうとする夫人。「いったいケーキの中に何を入れたんだい?」とマリラが聞くと、アンは驚いた表情で作り方の通りだと言う。マリラは三口目を口に入れたばかりの夫人を止め、さらにアンに何の香料を入れたのか問い詰める。「バニラよ」と答えてからケーキを口に運ぶアン、だがケーキが口の中に入った瞬間にアンの表情は驚愕の表情に変わり…そして俯いたかと思うと、「ふくらし粉のせいだ」と力説を始めるアンにマリラはとにかくバニラの瓶を持ってくるように命ずる。瓶に書いてある商標を確認して、「やっぱりバニラよ」と言いながら戻った来たアン。マリラは瓶を受け取ると栓を抜きも、臭いを嗅ぎ…「あらいやだ、あんたはこのケーキの香料に痛み止めの塗り薬を使っちまったんだ」と言うマリラ、驚くアン。マリラは何故バニラの瓶に塗り薬が入ってしまったのかを説明して自分の責任だとした上で、「でもどうして臭いを嗅いでみなかったんだい?」とアンに聞く。アンはもう泣く寸前で「臭いをかげなかったの、だって私、風邪を引いていたんですもの」と叫ぶと遂に泣き出して自分の部屋に走り去ってしまう。無言で見つめ合う残された4人、食べかけのケーキ、この無言の時間が何ても言えない間の悪さを描いている。
 前回から「起きるぞ起きるぞ」とずっと視聴者炊き続けていた事件はこれだ。楽しく、しかもアンの憧れの人が来るというお茶の会が、アンの失敗(責任はマリラだが)で台無しになってしまった間の悪さ、そして悲しさが上手に描かれている。その上でこの事件が持つ面白さを描写することを忘れていないという素晴らしいシーンだ。後者から言うと、余程のことが無ければ「バニラを入れるつもりが塗り薬を入れてしまう」なんて事件は例えフィクションでも起きはしないだろう。それが起きてしまったのである。しかもバニラと間違えて入れたのが他の香料ではなく、「塗り薬」という全く関連性のなく間違えようもないものであった点も笑えるところだ。さらに「ケーキ」に何かが起きるとさんざん予測させられた上でのこの出来事に、画面の中がどんなに間が悪く、悲しいシーンでも視聴者は笑うしかない。
 そして事件の悲しさと切なさ、このお茶会におけるケーキ作りにアンがどれだけ意気込んでいたかは説明するまでもないだろう。上手くやろうと頑張ったときほど失敗してしまい、その頑張りが全て無になる瞬間というのも上手に再現したと思う。
 これらの要素が重なって、感想欄でも述べるが私が本放送時から30年の時を経てハッキリ覚えているシーンの一つとなった。石版事件やダイアナ泥酔事件等に比較すると地味な事件ではあるが、印象に残った人も多いことだろう。
  
(次点)マシュウ登場
…アラン夫妻を家に迎えるマリラは、マシュウが身体を壊して出られないと夫妻に告げ、家に入ろうと扉を開けるとそこに正装したマシュウが立っている。それだけだがこの「間」が計算され尽くされていて好きだ。
今回の命名 新たな命名無し
感想  アンがアラン夫人のために心を込めて作ったケーキに、香料としてバニラを入れたつもりが「バニラの瓶」に入っていた塗り薬を入れてしまう…この「痛み止めの塗り薬入りケーキ」の話は石版事件と泥酔したダイアナと共に、本放送リアルタイムで「赤毛のアン」を見た記憶にハッキリ残っているエピソードだ。特にこの回での記憶は事件が発覚した瞬間のアンとマリラの表情や、台詞のやり取りという細部まで覚えていた回である。アンとマリラが心を込めてアラン夫妻をもてなしたが、アンの失敗でそれが台無しになってしまうという悲しい物語と、アラン夫人の度量で救われるという展開が当時8歳小学3年生の私の脳裏にハッキリ焼き付けられたのである。そのシーンに至る前のダイアナとの会話や、アンが夢の中で「ケーキの鬼」に追われているシーンなども覚えていた。まさに「赤毛のアン」は、世界名作劇場の中でもっとも古い「ストーリーを理解した上での記憶」が残っている作品なのだ。
 また今回に限らず、ここまでの物語で「ああ、見た見た」と思ったシーンは数知れない。それはこれから先もたくさん出てくるであろう。
 最初の方でケーキが上手に作れるかどうかという不安をダイアナにぶちまけ、ダイアナが「上手く出来る」とアンを励ますシーンがあるが、これは前回から引き続いて「事件の予感」を表現している続きであろう。前回からわき出てきた「事件の予感」だが、前回では「アラン夫妻とのお茶の会で何かが起きる」という漠然としたものであったが、今回に入るとその事件のターゲットが「アンの手作りケーキ」であることをハッキリ示してくる。さらにアンが鼻風邪にかかってしまったことも「事件」の一因であることを予想させられるだろう。そしてケーキ作りのシーンでは不安がりながらも順調に作るが、何を混ぜたかを詳細に映し出すところは何かの意味を感じさせるだろう。勘の良い視聴者ならばケーキは無事焼き上がるが味がおかしいのでではないかと容易に想像できるようになっているのだ。だからこそお茶の会が無意味に盛り上げられ、アンが大げさに緊張するシーンが生きてくる。過去に見たことがあってどうなるか知っているなら、もう笑うしかないだろう。アラン夫人の言うとおり笑って済ませる程度の失敗なのだから。
 しかし、↓これ何度見ても強烈だわ。それとアラン夫人に褒められて思わず飛んでしまう(想像の中でだが)アンも強烈。

第23章「アン お茶によばれる」
名台詞 「ああ、まるで胸の中に太鼓が入っているようだわ。アン・シャーリーの心臓よ、いい? ミセス・アランがどんなに素晴らしい方でも、用意されたお菓子がどんなに美味しそうだったとしても、私に無断で飛び出したりしないでちょうだい。」
(アン)
名台詞度
★★
  だから、もちつけ!!
     /\⌒ヽペタン
    /  /⌒)ノ ペタン
  ∧_∧ \ (( ∧_∧
 (; ´Д`))' ))(・∀・ ;)
 /  ⌒ノ ( ⌒ヽ⊂⌒ヽ
.(O   ノ ) ̄ ̄ ̄()__   )
 )_)_) (;;;;;;;;;;;;;;;;;;;)(_(
この状況でもちついていられるか!!

  ∧_∧
 (; ´Д`) ...| ̄| ゴスッ
 / ⌒二⊃=|  |
.O   ノ <`ー‐'⊂⌒ヽ
  ) ) ) )~ ̄ ̄()__   ) あっ・・・
 ヽ,lヽ) (;;;;;;;;;;;;;;;;;)(_(
名場面 「キリスト幼子達を祝福したまう」 名場面度
 アラン夫人がジュースを用意する間、部屋に一人残されたアン。アンは壁に掛かっている一枚の絵に見入る。それが「キリスト幼子達を祝福したまう」という絵で、キリストの周りに集まる女の子達の絵なのだが、その少し離れたところに一人だけポツンと女の子が寂しそうに描かれているものだ。アンはこの絵から視線が外せなくなり、ジュースを持ってアラン夫人が戻って来たことにも気付かない。アラン夫人が声を掛けてやっと我に返る。
 アンはアラン夫人に「この絵を見ていたら私が独りぽっちだった頃のことを思い出した」と語る。その離れたところに描かれている女の子がかつての自分で、その子の気持ちがよく分かると力説する。そしてこの絵の続きがどのようになるかを想像してみる。話を聞き終えたアラン夫人は、アンに「幼い頃の話を聞かせて欲しい」と訴える。
 アンの話があまりにも真に迫っており、そしてあまりにも哀しいものだった。親のいない寂しさや苦しさという子供にとってもっとも辛いことを、この子は知っているのである。ここでのアンの語りはそれが前面に出てきたものだ。さらにその辛さや悲しさをその「想像力」で乗り越えてきたと言うことも想像できる、どんなに辛くても決してグレなかったのは、持ち前の想像力で自分の感情をコントロールする術を身につけていたからである。
 そんなアンの半生をアラン夫人は即座に見抜いたに違いない、そしてこの娘に興味を持つと同時に同情したに違いない。そしてアンの世界に引きずり込まれ、虜になった人間がまた一人生まれましたとさ。
  
今回の命名 新たな命名無し
感想  噂には聞いていたが、やっぱこの回は動画としての仕上がりが良くないな。コマ送りで歩くマリラやミセス・アラン、瞬間で閉まる扉、アンの歩き方もどうもおかしい。何かあって途中で脚本に変更があって描き直したとかやったのかな? 最初PCがおかしくなったかと思った。
 これと言って何もない物語だ。アラン夫人はもう「痛み止め塗り薬入りケーキ」を食べさせられたことはすっかり忘れ、アンを賓客としてキチンと迎え入れる。それはミスター・アランも同じだ。これだけ度量が広いから牧師なんてやってられるのだろう。しかし一緒に茶に呼ばれた女の子は何のために出ていたんだろう? アーメンガードみたいな体格だったけど顔が可愛くないし、ただ出ているだけで何をするわけでもない。恐らく原作に合わせたのだろうけど、こういうのは思い切って削った方がスッキリすることもある。また何もしなくても、出てきた女の子が学校シーンとかで出てきた女の子ならば違和感を感じないのだろうけど。この子、なんかの伏線だった…記憶はないな。
 それと今回のマリラはなんか素っ気ない、アンがおしゃべりを続けるとそれを一通り聞いてから仕事がまだだと指摘したり、揚げ足を取ったりするのがいつものマリラだが、今回はアンのおしゃべりを遮ってしまう。ま、アンが少し落ち着いた方がいいというのは同意だが、でもアンがお茶から戻った後はいつものマリラに戻っていてホッとした。
 それとマシュウがお天気おじさんになっていたのも笑った。外していたけど。その日はきっとあれだ、大気の状態が不安定だったんだ。劇中には描かれなかったが、アンが寝ている間は凄い雷雨に違いない。

第24章「面目をかけた大事件」
名台詞 「やれやれ。間違えっこないことがひとつあるね、アン。バーリーさんのお宅の屋根から落ちても、あんたの舌はなんともなかったね。」
(マリラ)
名台詞度
★★★
 今回の「事件」にマリラがおもしろ可笑しく「オチ」をつけてくれた。少しなら歩いても良いと医師に言われたアンは、その子の夕食を居間でマシュウやマリラと一緒に取りたいと駄々をこね、歩けるわけもなくマシュウに抱かれてこれを実現させる。そして食事をしながらこれまでの寝たきりの生活を語り出したら止まらない…こんなアンを見てマリラが表情ひとつ変えずこう呟くのだ。この言葉にマシュウは「そうさのう」と笑い、アンが「そうね」と笑い…そしてマリラ本人も茶に口をつけたかと思うと高らかに笑い出す。
 まさに落語のようなオチだ。どんな大怪我をしてもアンはアン、それを示したに過ぎないのだがその言葉の選び方が面白く、見ている視聴者も劇中の3人と共に笑ったことだろう。これでこの物語は起承転結が上手につき、これまでと違う形態の物語(感想欄参照)を作ることに成功したのだ。
名場面 ステイシー先生登場 名場面度
★★★★
 ある日の午後、マシュウが繰る馬車から一人の女性が降りてくる。金髪の巻き毛、澄んだ青い瞳、大きくて優雅な袖の膨らみがある服…視聴者はそれがアンが早く会いたいと訴えるステイシー先生だとすぐに理解することだろう。そんなことが起きているとは知らずに、病床のアンはパッチワークを顔に掛けて「パッチワークのお化け」になりきっている。ノックの音に続いて扉が開く音が聞こえると、そんな姿なのでアンは誰が入ってきたか分からずマリラが入って来たと思って「パッチワークのお化けの歌を聞いて!」と言って一方的に自作の詩を朗読し始める。朗読しながら顔に掛けたパッチワークをどかすと…「こんにちは、アン・シャーリー」と声を掛ける美しい女性が座っているではないか。ステイシー先生の突然の見舞いにアンは驚き、感激する。
 型どおりの挨拶が済むとステイシー先生は突然アンを抱き上げ、窓辺へ連れて行く。そして一緒に詩の朗読を始めるのだ。まさに「個人授業」ですな。
 アンとステイシーは初対面のはずなのだが、なんだか初対面とは思えないノリで会話を続けているのがいい。というかステイシーが一方的に物事を進め、アンがこれにうまくついて行っている感じただろう。いずれにしてもアンの成長に大きく関わる先生の初登場を、学校の教室というありふれたシーンではなく、このようなかたちでアンを病床に伏せさせ、先生に見舞いをさせて「個人授業」というかたちで印象深く描いた点は「赤毛のアン」という物語の素晴らしい点だろう。今回の「事件」はこのステイシー先生との出会いのために起きたと言っても過言ではない。
 

 
今回の命名 新たな命名無し
感想  この「事件」も「赤毛のアン」の中では有名な事件に数えられるが、これまでの「事件」が起きた回とはフォーマットが違っている。これまでは物語の前半に事件の予兆と言うべく事件が起き、それが次の大きな事件(後半に入ってすぐ辺り)へと発展して行くというフォーマットであった。石版事件は前半に起きているが、これはフィリップス先生がアンを徹底的に侮辱するという事件の前触れとして描かれているのであって、この石版事件そのものが「大事件」ではない(ただ石版事件の方がインパクトが大きくて印象に残ってしまうが)。ところが今回、「面目をかけた大事件」は物語の冒頭に起きるのだ。そして事件を「起」とした起承転結の物語として描かれ(これまで多くの大事件が「転」の部分で、石版事件は「承」の部分に描かれている)、「転」の部分でアンとステイシーの出会いを描くために事件が起きたと言っても過言ではないだろう。
 しかしその事件だが、改めて見直してみると「落ちる」という空気が上手く滲み出ていて好きだ。あれで落ちなかったらスーパーマンだわ。アンが落ちて気絶しているとき、ダイアナはアンが死んだと思ってしまうのがなんとも可愛い。そう言えば以前ダイアナとの遊びで出てきた「気絶に憧れている」という伏線も上手く回収している、アンは生まれて初めての気絶を体験するが、もう二度とごめんと思っていたのだ。
 女の子一同によるアンへの見舞いシーンでジョーシー・パイの性格と役付けは決まったと言っていいだろう、よく言えば意地っ張り、悪く言えば無責任、だけどなんとなく恨むことの出来ない性格なんだろうね。子供の頃、この子をあまりいい子とは思わなかったが、大人になって見るとまた違って見えるから不思議だ。

第25章「ダイアナへの手紙」
名台詞 (該当無し)
( )
名台詞度
 
 
名場面 該当無し 名場面度
 
「これって、手抜きじゃないかしら?」
今回の命名 新たな命名無し
感想  昨年7月、「ポルフィの長い旅」29話を見て「どっかで見たことある内容だなぁ」と思ったが、「赤毛のアン」のこの回のことだった。理由を付けて主人公が親友に手紙を書き、その内容を通じて「総集編」として編集するという設定もつくりも全く同じ。一つ違うのは「赤毛のアン」ではその手紙の宛先である親友との物語を振り返るが、「ポルフィの長い旅」ではその親友と離れてからの物語を振り返る点だ。
 だが「赤毛のアン」ではほんの少しだけ視聴者を楽しませる要素は入れてある。それは「ダイアナが病気」という情報だ。結局これは勘違いなのだが、アンが手紙を書きながら泣いているところへダイアナが現れるシーンでは視聴者は笑うしかなかっただろう。だが他の事件と比較すると面白さではそれほどでもなく、この勘違いをもっと上手く処理して欲しかった。私が制作者なら、マシュウに正しい情報、つまり「ダイアナが病気の叔母を見舞いに行った」とちゃんと語らせる。だけど部屋の外のアンは「ダイアナが病気」としか聞いていないという設定にするね。でアンは部屋で一人で泣き明かしながら手紙を書くという感じに。翌朝マリラが来て「何で泣いてんだい?」ってやり合っているところへダイアナが平然と現れるようにしちゃうけどな。
 んで結局、どさくさに紛れてアンは歩いちゃってるし…クララが歩いたぁ! 違う。「おばあちゃん、足が治ったんだよ」ってこれも違うなぁ。でも「世界名作劇場」は大小問わず足を怪我するのが多いな。小さい方ではマルコやセーラもこれに入るだろう。で、これを「世界名作劇場」の華である「主人公の大怪我や病気」に含んでいいのだろうか?
 いずれにしろ、ここまでハッキリとした総集編を見せられると「名台詞」「名場面」の考察のしようがない。手抜きではないのであしからず。

第26章「コンサートの計画」
名台詞 「もちろん、私たちは時には難しいことに挑戦する必要があります。しかし、ただの意地や向こう見ずを勇気と取り違えたのでは何にもなりません。それをアン・シャーリーは自分の足をくじくという、犠牲を払って学んだのですね。(以下略)」
(ステイシー)
名台詞度
★★★
 「世界名作劇場」シリーズで1・2を争うと思われる名教師ステイシーが最初に放つ(二度目以降あるのか?)名台詞である。しかも、劇中でのステイシーが教壇で最初の台詞なのだ。
 足の怪我から復帰したアンを前に、前々回の「面目をかけた大事件」をこう統括する。危険なこと、出来もしないこと、これを「出来る」と意地を張って挑むのは本当の勇気ではないのだ。この論理を「赤毛のアン」のこの台詞で学んだ人も多いだろう。難しいことに挑戦してみればいいのでなく、ヤバイと思ったら諦めて意地を張らずに一歩引いてみるのもこれまた勇気なのだ。アンは身をもってこれを学校の仲間に示した、だからステイシーは敢えてアンがいる前でこのように説いたのだろう。
名場面 マシュウとコンサートの練習 名場面度
★★★
 クリスマスのコンサートに明け暮れるアンと仲間たち、だがマリラはそんなアンを理解しようとしない。コンサートを「くだらない」と評した上で、その練習で他のことが疎かになっているとアンに忠告し、皮肉を言うだけだ。コンサートの中身の話やその趣旨、さらにコンサートの練習を通じて自分や仲間たちがどれだけ変わったかという話に耳を貸そうとしない。
 そんなマリラの話に気を落としたアンはため息をついて外に出る。空に浮かぶおぼろ月の下に薪割りに勤しむマシュウの姿を見つけると、アンは黙ってマシュウのところへ歩き、側に座る。マシュウはアンが来た事に気付いて声を掛けると、アンは「私はコンサートの練習も勉強のうちだと思っているのだけど…」と口を開く。マシュウは「そうさのう」とアンの意見に同意する。アンはマシュウならば自分の気持ちを分かってくれると察するやいなや、マシュウにコンサートの練習のことを語り出す。アンが話し終えるとマシュウは嬉しそうに「そのうち納屋で聞かせてくれぬか?」とアンに問う。アンは喜んで「でも納屋じゃなくて是非コンサートに来てちょうだい」と返す。内気でコンサートに行くなんて考えただけでもぞっとするはずのマシュウは、「お前はちゃんと見事にやってのけるだろう」と言い切る。この言葉にアンは感激し、気を取り直す。
 マリラは現実主義派でコンサートなんて興味も湧かないが、マシュウは内気ではあるがアンのやることなら何でも興味を持つ。このシーンにはこんなこの兄妹の違いが隠されているだろう。無論、この時点でのアンに必要なのはマシュウのような考えであり、仲間たちと「コンサート」を通じて結束を高めようとしている事実について認めてくれる人が、声が欲しかったに違いないのだ。いや、かといってマリラの考え方が必要ないわけではない。この中でもキチンと現実を見失わず、それでアンのように何かに夢中になってしまっている人間に警告する人は絶対必要なのだ。この二人のバランスによって、このようにコンサートにすっかり夢中のアンは同意者を得つつも道を踏み外すこともなく突き進むことが出来たのである。
  
今回の命名 新たな命名無し
感想  前回が前回だっただけに、アンの怪我が凄く長かったなーとまず最初に感じた。考えてみればアンがバリー家の屋根から落ちたのは夏休みも終わりの方だったから、全治6〜7週間という診断が間違いなければアボンリーの秋も深まるわけだ。
 しかしステイシー先生、教室の子供達を手懐けるのが上手というか、やる気を引き出して結束力を高めるのが本当に上手だ。そういう理想の教師像をこの物語で上手に描いた作者は凄い。この先生がアンを始めここにいる子供達にいい影響を与えなかったら世の中何を信じていいか分からないぞー(フィクションだっつーに)。視聴者がそう思った頃合いを見計らってコンサートをぶちまける。このタイミングも良すぎる。
 だけどちょっとエスカレート気味なのは否めない。ジョーシー・パイは女王様の役を取れなかったからと鉛筆を折って悔しがるし(普段から女王様みたいな性格だからいいじゃないか)、アンは家の中で変なうめき声を上げてマリラを驚かすし、ダイアナはお世辞にも上手とは言えない歌声で妹と歌っているし(「はしばみ谷のネリー」を歌っているときはもっと上手だったぞ)…。あれがマリラが呆れるのもある意味無理はないが、その矛先がちょっと。ま、マリラはああいう不器用さがあるところがいいのだし、そんな妹の性分を知り尽くしたマシュウがアンを救ってくれるのだから、アンはグレもしないで真っ直ぐに育ったんだろうな。

第27章「マシュウとふくらんだ袖」
名台詞 「だが、どうしてマリラはあの子にいつもあんな地味な格好ばかりさせておくのかな? もちろん、それでいいんだろうが。マリラは間違えっこないし、アンを育てているのはマリラだからな。しかし、それにしてもな…」
(マシュウ)
名台詞度
★★
 マシュウの独り言第一弾。アンが他の女の子達と違い、袖の膨らみのない地味な服装をさせられている事に気付いた夜、床に入ったマシュウがこう呟く。その事実に気付いたマシュウの心の中に、最初に現れたものは「疑問」であった。なぜアンだけが他の女の子達と違うのか、他の女の子に負けないような立派な服を1着くらい持っていてもいいんじゃないかと。
 その疑問に対する最初の自問自答の答えは、マリラに対する信頼だった。マリラには何かの考えがあってやっているに違いないという信頼、マシュウもマリラがアンの虚栄心を押さえ込むために敢えておしゃれをさせていないことは知っている。マシュウもマリラのその考えには同意なのだ。
 それにしても…で台詞は途切れているが、マシュウが思ったのはクリスマスのコンサートだろう。アンにとってそれは一世一代の晴れ舞台であるはずで、アンの気持ちで考えれば自分が持っている一番良い服を着て行くに決まっている。そんなときに1着だけ、おしゃれで、きれいで、誰にも負けない似合いの服があってもいいのではないか? マシュウはこう考えたに違いないのだ。
 そしてマシュウはアンに「袖の膨らんだ服」をプレゼントすることを決意する。しかも内緒でその服を仕立て、突然にアンの前に出そうというのだ。この演出でアンの喜びは何倍にもなるに違いない。マシュウはこう決意したが、その道のりは前途多難であった…。
名場面 サミュエルの店で 名場面度
★★
 アンに服を買ってやろうとカーモディの街へ出てきたマシュウ、ここで行きつけのウィリアムの店でなくサミュエルの店に行ったのが失敗だった。店主のサミュエルが出てくるはずと思ってきたのだが、応対に出てきたのはサミュエルの姪のハリス。ただでさえ女性が苦手なマシュウは魅惑的な初対面の女性相手にしどろもどろ、結局欲しい物が言えずに必要ない物ばかり買ってしまうことに。
 このシーン、笑える。こんな面白いシーンは滅多にないだろう。
  
今回の命名 新たな命名無し
感想  マシュウの回。このところ「そうさのう」を繰り返すだけで物語の前面に出てくることの少なかったマシュウが、前回辺りから急に存在感を増してきた。まぁ元々マシュウというのはそこにいるだけで強い存在感のあるキャラクターとして完成しており、特に22話では殆どしゃべっていないのに美味しいところを持って行った事で印象に残っていることだろう。
 そのマシュウが今まで目覚めなかった事に気付く、アンだけが「おしゃれ」をしていないという事実だ。今回のためかダイアナのいつもの黄色い服も、いつの間にかに袖が膨らんでいるし…いずれにしろおしゃれ心のない実用的な服を着せられているアンを見て、不憫に思ったのは確かだ。そんなマシュウがアンのために一肌脱ぐだけでこんな面白い話になるとは思わなかった。
 家の中でアンの友達達に会いそうになっては靴を片方脱いだだけのままで物置に隠れ、アンに服を買ってやろうと街へ出れば女性店員相手にしどろもどろで余計な必要のない物まで買ってしまう始末。子供の頃にこの話は確かに見た記憶があり、マシュウの行動を見てなんか「見てはいけない物」を見てしまったような思いにとらわれた記憶がある。
 それとマリラだ。レイチェル夫人がマシュウに頼まれた服を持ってきたときはさんざん批判したくせに、プレゼントするという段になるとマリラがこの企みを一番楽しんでいるように見えた。確かにマリラはおしゃれは大嫌いだが、今回の袖の膨らんだ服については別問題だったのだろう。それはアンが着ると言うことよりも、マシュウがそれをこっそりと用意したことが嬉しかったに違いない。クリスマスコンサートという大舞台にいい服を着せてやろうというマシュウの気持ちを、マリラはアンへの愛情と受け取ったのだろう。そしてマリラはアンがその服を着て虚栄心を持つより、突然その服をもらったアンの顔を見たくてたまらないのだ。その気持ちを素直に表現できないのがマリラであって、やっぱこいつら兄妹だと思うシーンである。
↓このマシュウかわいい。

第28章「クリスマスのコンサート」
名台詞 「あの子が来てまだ2年にもならないのというのに、もうそんなことを考えなくちゃならないんですね。」
(マリラ)
名台詞度
★★★★
 クリスマスコンサートの夜、アンが床に入ってもマシュウとマリラは夕刻のコンサートの余韻に浸っていた。兄妹はアンが自分たちが余所へ誇れる女の子だと自信を持って自慢できることを確認した後、不意にアンの将来について語り合う。
 アンは頭が良いからアボンリーの小学校を卒業したらクイーン学院へ進学させる方向性では二人の意見は一致する。ところがマリラは「まだ先の話」と具体的な話には乗り気でない、対するマシュウは今から少しずつでも考えなきゃならないとする。そのマシュウの意見に対するマリラの返答がこれだ。
 この台詞にマリラの本心が見え隠れしている。この田舎の村では進学はイコールで村を出て行くことだ。村に上級の学校はないし、何よりもそんなエリートコースを進んだ人の働き口などこの村には存在しないから、上の学校へ行くはイコールで都会へ出て行くと言うことなのだ。つまりマリラの本心はアンをまだ離したくない、このアンとの幸せな生活がいつまでも続けばいいというもの。それとアンがあっという間にそこまで成長したことに対する純粋な驚きの気持ちが重なっていることだろう。
 この台詞を聞いたマシュウも同意の「そうさのう」だ。そしてこの台詞を言い切ったマリラはアンが寝ている部屋の方向を見上げる。もはやこの兄妹にアンというのは欠かすことの出来ない存在なのだ。
(次点)「いったいどうしたっていうんでしょうねぇ? 兄さんがコンサートに行くなんて」(マリラ)
…オマエモナー。
名場面 クリスマスコンサート・詩の暗唱 名場面度
★★★★
 クリスマスコンサートは順調に進む、いよいよ前半のハイライトであるダイアナの独唱。心の友の熱唱をアンはうっとりして聴く、いや観客席の多数もそうだ。ダイアナの歌が拍手喝采で終わってアンコールとなると、いよいよアンによる詩の暗唱である。その時、アンがふと観客席を見たときにマリラの隣にマシュウが座っているのを見つける。人見知りが激しくコンサート会場に足を運ぶことすら出来ないだろうと思っていた育ての父が、今客席で他の観客と一緒にダイアナに拍手を贈っているのだ。アンはすぐにマシュウが自分のために勇気を振り絞ってここまで来て、あの客席に座っているのだと理解した。
 驚いてマシュウを見つめるアンにステイシーが優しく声を掛ける。そして舞台に上がったアンは、マシュウのために声の限りを尽くして熱演する。一番来て欲しい恩人が来てくれた、アンの心の中はそれで一杯だっただろう。これで帰宅後に納屋で再演するまでもない、ここで精一杯の熱演が出来るのだ。
 そのアンの気持ちが伝わってきそうな劇中劇である。無論終わった後の割れんばかりの拍手と、涙を流すご夫人の姿はこのアンの気迫ある熱演によるものだ。だがそんなシーンを入れなくともこのシーンにおけるアンの気迫が伝わる。声優さんの熱演もあるが、背景のないアンの姿とマシュウの姿を交互に映し、アンにとってどれだけマシュウという存在が大きく、どれだけこの会場にいることを嬉しく思っているかと言うことが上手に脚本されていると思う。
  
今回の命名 新たな命名無し
感想  今回はタイトル通りクリスマスコンサートを軸に話が展開した。そして今回は「マシュウ&マリラとアンの物語」とも言えそうだ。
 まず感動が約束されていて、前回の続きとなるマシュウの服のプレゼントから物語が始まる。このようなプレゼントを冒頭でいきなり出してしまうというのは、そのプレゼントが今後の話の伏線に変わっていたと言うことだ。もちろんこれは名場面シーンに対する伏線である、アンはマシュウに対し常に感謝の念を持っているがあの服には事前にそれを増幅させておくアイテムだったのだ。大事なマシュウがプレゼントしてくれた服を着た自分を、大事なマシュウが見ている…そういう状況にアンを置くことでこのシーンがさらに印象付けられる。
 それと面白かったのがマシュウが「コンサートへ行く」と言おうとしているのにそれが伝わらないシーンだ。ここでは完全にマシュウがアンのペースに乗せられてしまっているだけでなく、それとマシュウのまったりしたしゃべり方の相乗効果でマシュウが言いたいことを言い切れなくなってしまう。実はアンというキャラクターは一人で出てきてもあまり面白いキャラでなく(といっても他のキャラと比較したら面白いが)、他のキャラとの相乗効果で爆発的に面白くなるキャラクターなのだが、このシーンではそれが大当たりして大笑いしてしまった。「こんにちはアン」のアンがそういう方向へ行くかどうかかなり不安だけど…。
 でさんざんコンサート絡みで大騒ぎした後、今回の話の落としどころを「アンの将来」へ持って行ったのは感心した。アンは成長するし、それに伴いずっとこのままではないということをマシュウとマリラが認識し、同時にそれを視聴者に示唆して終わるのである。こういう話が出てくる辺りもこの物語の良さで、「世界名作劇場」を含めた他のアニメだったらこのタイミングで主人公の将来に向けての話なんて出てこないだろう。
 しかし、クリスマスコンサートの余韻に浸る兄妹の様子は自分にも心当たりがあったなぁ。自分の娘が保育園のお遊戯会で初めて市民公会堂のステージに立ったあの日、劇の内容は「オズの魔法使い」で王様の家来だったかの役だったのだが、その日の夜の自分があんな感じだった。「赤毛のアン」本放送時の1979年、当時小学3年生の私は学芸会で主役を演じたのだが、その時の私の両親はどんな気持ちだったのかなぁ…?

第29章「アン、物語クラブを作る」
名台詞 「そうね、でもミセス・アランだって今みたいに、いつでも立派だった訳じゃないでしょ? 子供の頃は酷いいたずらっ子で、始終いざこざを起こしていたんですって。それを伺ったときとても元気づけられたわ。(以下略)」
(アン)
名台詞度
 アンはミセス・アランへの憧れを口にする、ああいう人になりたいとマリラに告白するが、マリラの返事は当然ながらそうなるとは思えないというものだった。それに対する返事がこれだ。
 アンは憧れのミセス・アランが自分たちと同じような子供だったと聞いて、自分もあのような落ち着いた夫人になるチャンスがあると喜んだのだ。この台詞や出来事の裏には、どんな立派な人だって昔はただの子供という現実が上手く再現されている。総理大臣だって、大企業の社長だって、歌って踊れるアイドルだって、数々の芸術を生み出すアーティストだって、みんなみんな昔はただの子供だったのだ。だがアンが見落としている事実が一つある、どんな大人だって自分が得意なことを伸ばした結果、現在の自分があるということだ。アンが自分の得意分野をどう伸ばして行くのか、ここが語られていない以上はやっぱ夢物語。その上将来を語るのに、目の前にある現実(皿洗い)すら片付けられていないのだから…現実主義者のマリラに冷たい反応をされるのは仕方がないだろう。
名場面 物語クラブ誕生 名場面度
★★
 ステイシー先生から完全自作の小説を作る宿題が出された。アンはあっという間に物語を書き上げたが、ダイアナはとても難しく完成できるか分からないと悩む。そんなダイアナにアンは自分が作った物語を話して聞かせる。そのアンの長い創作話は、コーデリアが積みの重みに耐えかねて自殺することで幕を閉じる(それがどんなお話だったかは各自DVDを購入するなり、動画サービスで視聴するなりして確認して下さい、とても長いので)。その物語の結末を「結婚式で終わるより葬式で終わった方が素敵だと思う」と締めくくるアンに、ダイアナは心から感心する。そして言う、「私の想像力もあなたと同じ位ならば…」と。それに対してアンの提案は、「想像力を養えばいい」というものだった。それは具体的に「物語クラブを作ってあれこれ書いてみよう」というものだった。「想像力を養うことはとても大切よ、ミス・ステイシーがそうおっしゃったもの」…。
 想像力を鍛えたいというダイアナの悩みに対して、アンはこれまた想像力豊かな提案でこれを乗り切ったのだ。この物語クラブというのは想像力を訓練する画期的なシステムと言っていいだろう。常日頃「物語を作る」という行為を繰り返すと言うことだが、その「物語を作る」という行為自体が想像力を多いに必要とするものなのだ。この画期的なシステムを瞬間で思いついたアンの想像力には脱帽するほかない。ま、前々から構想を練っていた可能性はあるが。
  
今回の命名 新たな命名無し
感想  10話ほど前に「ダイアナの誕生日」があり、そのお祝いの様子がちょっとだけ紹介された。それに対して主人公の誕生日は、「今日は誕生日なんですよ〜」程度でおしまい。なんつー扱いだ。
 今回は物語の3/4までがアンとダイアナだけで進んでしまう、しかもそのうち半分はアンが作った物語の語りだ。しかしあれだけの物語をすぐに書けてしまうアンの想像力はやっぱすごい、頭の中はどうなっているんだろう? マリラじゃないが余計なことがたくさん詰まっているに違いない。私はダメだなぁ、第一物を書くと冗長になりすぎる。私が書いた想像力の一旦は、このサイト内で「小公女セーラ」「南の虹のルーシー」の二次創作小説を公表しているのでそちらを見て頂きましょう、「せえらちゃんの小説」様のサイトにも「小公女セーラ」二次創作小説を投稿して公開されていますが(「ご投稿作品」の「小説の部」へどうぞ)…「想像力」云々より、その想像力を公表する勇気の方が大事だとも考えるようになってきた今日この頃だ。

第30章「虚栄と心痛」
名台詞 「私、この目で見たこと絶対にしゃべらないわ。アン。私、あなたに誓うわ。」
(ダイアナ)
名台詞度
★★★★
 登校時、いつもの待ち合わせ場所でいつもの時間にアンが来ないので、ダイアナはアンが心配になったのだろう。グリーンゲイブルズに足を運ぶことにした。窓から家の中を見ると一心不乱に髪を洗うアンを発見、笑顔でアンに近付くとアンは泣きそうな顔をしたままダイアナに無残な髪を見せ、昨日の出来事を話す。
 こんな無残な姿を仲間に見せられない、特にジョーシー・パイに何と言われるか…と泣き出すアンに、ダイアナが力を込めてこう宣誓するのだ。アンは泣きながらダイアナに礼を言い「あなたはいつだって心の友」と言う、それを聞いたダイアナはアンと一緒に泣く。
 この台詞だが、この台詞が入っているこのシーンでは印象に残らない。この台詞が活きてはじめて、存在を思い出すと同時に視聴者の心に強く印象に残るのは物語がこの回の終盤まで進んだときだろう。アンは毛染めに失敗した部分をマリラに切ってもらい、ボーイッシュなショートヘアに変身して翌週から学校へ通い出す。その日のダイアナはアンの髪が少しでも華やぐようにとリボンを用意するなどアンに気を遣うのだ。そしてこの宣誓の通り、「何故アンが髪を切ったのか」を誰にも語らず、アンなりのファッションのひとつだと言い張るわけでもなく、自然に過ごして学校の仲間から怪しまれることもなく乗り切る。
 ダイアナのアンに対する友情が強く表れている台詞であり、また行動であろう。「心の友」とは本当によく言ったものだ。
名場面 アンの髪を切る 名場面度
★★★
 髪を切り終えたアンは鏡の前に立つ、鏡の中の自分の姿を確認すると思わずのけぞってから鏡を裏返し「もう二度と鏡を見ない!」と叫ぶ。だがその決意は一瞬だけで、思い直して「やっぱり見るわ、それが罪滅ぼしなんですもの」と裏返した鏡を元に戻す。「毎日鏡を見てどんなに自分がみっともないかこの目で確かめるわ」と鏡に映った自分に宣言する。そしてアンは髪のことで自惚れていた自分に気付く、赤い色は気に入らなかったとはいえ、長くてたっぷりあり、しかも巻いていた髪の毛はアンの自慢だったのだ。
 失ってみてわかる、髪は長い友達(笑)って訳じゃないが、アンはその髪を失って初めて自分の髪の毛がどれだけ自慢だったかが分かるのだ。気に入らなかったのは色だけ、その髪質と長さはどんなスタイルにも出来る素晴らしい髪だったのだ。そして自分はそれが美しいと感じていた、でも皮肉なことにその美しさと自分で気に入っていたという事実は失ってみて初めて分かる、それを強く印象付けたのだ。
 しかし、ショートカットのアンはなかなか可愛いと思うぞ。
  
今回の命名 新たな命名無し。
感想  うん、今回も子供の頃に見たのをハッキリと覚えている。でも一番印象に残ったのは冒頭に出てくるセールスマンの怪しさ、てゆーか当時小学3年生の私にはとても怖かったぞ。こりゃなんかとてつもない事件になるという臭いをぷんぷん漂わせていたし。
 で案の定、そのセールスマンから買った「髪を黒く染める染髪剤」で黒くなるはずだったアンの髪は緑色になってしまったのだ。う〜ん「緑毛のアン」ってなんか怖いぞ。そして涙の断髪式…物語に出てくる少女が髪を切るというのは、当人のファッションという要素以外ではアンの言うとおり「何かのため髪を売る」というロマンチックな行為だ。「愛の若草物語」のジョオを例に挙げるまでもないし、「赤毛のアン」本放送時にもカタログショッピングのCMでそんなエピソードを流していた記憶もある。なのにアンは「赤い毛を何とかしたい」と思って変な色に髪を染めてしまったというのが理由で、自分のコンプレックスを捨てようとしたことによって大きな代償を払うことになってしまう…こんな論理の話を上手く描いたと思う。
 しかしショートカットのアン、なかなかいいぞ。確かに昔見たはずなのだが、記憶には残っている物の印象にないなぁ。なんか次回予告見ると次の回では髪型が元に戻っているみたいだし、ファンサイトをいろいろ見ても誰もこのアンをイラストとかにしていないんだよなぁ。
  

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