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第1話 「別れ」
名台詞 「ああ、3年…私、我慢できるかしら…」
(サラ)
名台詞度
★★★★
 マライヒ キターーーーー!!!!
 そうでなくて、遠い異国へ出稼ぎに出る前に、娘に一目だけでもと会いに来た母。彼女は娘カトリに飼っているウサギを自慢されると、すぐに遠い異国へと旅立たねばならぬ事を娘に告げる。「行かないで、お母さん」と涙声で訴えるカトリを抱きしめ、呟く台詞がこれだ。
 貧しいために自分が働きに出ないと、娘だけでなく両親の生活も困窮してしまう…このような論理を大人として娘に伝え、言い聞かせようとした母親の口から出てきた言葉は、とても純粋な本音であった。彼女は自分が働きに出なければならない事は重々承知している、だが娘と離れたくないという本心をたった一言で印象的に演じたのだから恐れ入った。ありがちなのはこういう「本音」を「心の中の声」として演じさせたり、ナレーターに解説させたりするケースだが、やはり「決して強いわけではない人」はこういう風に娘の前でもつい本音を口に出してしまうもの。そういう部分をキチンと演じてくれたことでとても印象に残った。
 そして私は、この母親の気持ちが痛いほどよく分かる。だからこそさらに印象に残ったのだ。
名場面 別れ 名場面度
★★★★★
 名台詞欄で「母親の本音」が演じられたと思うと、サラは慌ただしく家を出て行ってしまう。「なんとも慌ただしいこと」と祖母が言えば、サラは「手紙を書きます」と告げる。だがその瞬間、思わず娘の方へ駆け寄りそうになるのをこらえて馬車に乗り込む。そして「元気にしていてね、カトリ。おじいちゃんやおばあちゃんの言うこと、よく聞くんですよ」と娘に言い残し、馬車を走らせる。悲壮な表情でこれを見送るカトリに、サラは「さよなら」と言い残す。祖父母が別れの言葉を返す中、サラが振り返って一行に手を振り始める。これを見てカトリは限界を迎え、馬車を追って走り出す。「お母さん、行っちゃイヤー!」「カトリ!」「お願い! 行かないでー、お母さーん!」…馬車の上からサラはカトリにやめるように叫ぶが、「行かないでー!」とカトリは馬車を追うことをやめない。と思うと「おやくそく」通りカトリは転倒、カトリは祖父の手を借りて立ち上がるが、母を乗せた馬車は小さくなるばかりだ。その馬車の中で泣き崩れるサラのシーンを挟むと、カトリの視界から馬車が消える。そのまま馬車が消えた通りの風景が一度白黒になり、再びカラーに戻ると夕景に変化している。「3年後」というテロップが現れると、3年を経て9歳に成長したカトリが画面に現れる。
 もちろん、これは私が「世界名作劇場」シリーズの華の一つとしている「序盤での主人公親子の別れ」だ。物語は第一話の前半も終わっていない段階で主人公が「母との別れ」を演じる。この早さは容赦のなさで定評のある「母をたずねて三千里」よりも早い。しかもこの親子は、物語の冒頭で1年振りに再会したばかりで、今度は3年もの長期の別れが示唆されているのだ。だからこそここは「母をたずねて三千里」の1話のように、盛大に親子の別れを盛り上げるべきシーンである。別れが大袈裟に演じられたとしても、「1年振りの再会が劇中時間の半日も経ず3年間の別れとなる」という設定により視聴者はそれを受け入れることが出来る。
 そして親子が別れた後の処理が素晴らしい。今どきのアニメならここでCMを挟んで、後半で何もなかったかのように月日を流すだろう。だが本作ではその場から動かずに3年の月日を演じてしまう。画面が一度白黒になるのは、「母との別れ」が遠い過去のことになってしまった事を上手く演じ、そのまままたカラーに戻すことでいよいよ物語の本題の時代が動き出すことを示唆する。その流れた月日は「3年」、母が戻るはずだった日に飛んだはずだが、カトリが一人で立っていることで「母は予定通りに戻れていない」ことまで一瞬で演じてしまったのだ。
感想  東京MXの「世界名作劇場」再放送枠が、今年に入って「ふしぎな島のフローネ」「南の虹のルーシー」「わたしのアンネット」と順番に放映されていた。「次はカトリだな」と思っていたら、本当に来たので突然ながら「牧場の少女カトリ」の再放送リアルタイム視聴を開始しよう。「トムソーヤ」か「カトリ」で先に全話視聴する方を次の「世界名作劇場」作品考察として取り上げる予定だったが、このようなかたちで「カトリ」を先に見ることになったと言うわけだ。
 「牧場の少女カトリ」について、私はオープニングテーマだけはよく覚えていたのだが、他は殆ど記憶から飛んでいる。実はこの第1話を見終えるまでエンディングテーマもすっかり記憶から抜け落ちていた。この第1話でカトリと母の別れが演じられることは覚えていたが、その直前に二人が1年ぶりの再会をするシーンがあったのは忘れていた。後半のクマーーーっ!な話はもう記憶にない。本放映当時、毎週見ていたのは確かなんだけどなー。ま、断片的にでも思い出したら、その都度書いていきたい。
 第1話で母とカトリが劇中時間1年振りに再会したと思ったら、前半も終わらないうちに別れを演じてしまうのは「母をたずねて三千里」の第1話以上に潔い、「母をたずねて三千里」のように主人公が母に甘えたり思い出を作る時間すら与えられていないのだから、悲惨と言えば悲惨だ。そしてその悲惨な別れから約作の3年経っても、親子が再会できていないだけでさらに悲惨なのに、物語は「第一次世界大戦」の時代だと告げられてさらに陰鬱になる…これじゃ当時13歳の私の印象に残らないのは確かかも知れない。
 そして後半、牛の売却を通じてもう一つの「別れ」が演じられる。売却が決まった母牛が、カトリの母が馬車で去ったあの道を通って連れ去られるのだ。それを追おうとする子牛を通じて、カトリが母と別れたあの日を思い出すという上手い展開だ。でも最後に、アルムおんじ祖父がクマに襲われて「つづく」とは…ひょっとして、母と別れたと思ったら今度はおじいちゃんとの別れなのか? おじいちゃんが連れ去った母牛の運命は如何に…。

第2話 「友だち」
名台詞 「ねぇ、この戦争いつになったら終わるの? 学校ではそういうこと教えてくれないの? そう…学校って、あんまり役に立たないところなのね。」
(カトリ)
名台詞度
★★★
 ユーラ(仔牛)を追ったカトリは、ハルマ家の息子であるマルティに出会う。そして話の流れから母がドイツへ行ったことと、戦争が始まって手紙が届かなくなったことを打ち明ける。「そうなの…」と同情するマルティに対する、カトリの問いかけと結論がこれだ。
 もちろん、この台詞の全般の問いは今のカトリが最も欲しい情報である事は確かだ。母に会えないだけでなく、現在の生活の困窮もこの戦争に原因があることが確かだからだ。だからカトリとしては戦争が終わる日がいつなのかどうしても知りたい、だから学校へ通っているマルティなら習っていると思いこう問うのだが、マルティはこの台詞の行間で「そんなこと知らないよ」と返している。
 それで出てくるカトリの結論、今のところ学校なんか自分の役に立たないという現実だ。教会で最低限の読み書きは習っているカトリにとって、そこで得られない大事な情報を知ることが出来ないのなら、役に立たない施設なのだろう。そんな子供ながらの短絡的思想が上手く描かれていて、とても印象に残った。
名場面 カトリの決心 名場面度
★★★
 ここに挙げる「カトリが働く」と決心しこれを打ち明け、反対されるシーンは相手を祖母と祖父に変えながら二度に渡って演じられる。その中でも最初の方をここで取り上げたい。
 夜遅く、熊に襲われた傷に苦しむ祖父の看病中で、水を取り替えに祖母が台所にやってくる。台所ではカトリが水の用意などの仕事をしていたが、祖母は優しく「だいぶ遅くなったよ、もうお休みなさい」と語りかける。「おじいちゃん大丈夫よね?」と問うカトリに「もちろんだよ」と答えて眠るように促す祖母に、「働きに出るわ」とカトリは訴える。「何だって?」驚いてカトリを見る祖母は「お前がそんなことを心配しなくたっていいんだよ」と返すが、カトリは「あの雌牛が殺されちゃったんだから、お金もライ麦ももらえなくなっちゃったんじゃないの?」と家の実情に気付いている事を語り出す。「お前はまだ家のことを心配する歳にはなっていないよ」と祖母は返すが、カトリは以前にもハルマさんの屋敷で家畜番の仕事をしたと反論する。祖母が家畜番の仕事の本当の辛さを語るが、カトリは「大丈夫、出来るわよ。一人じゃ上手く出来ないかも知れないけど、アベルと一緒ならきっと大丈夫よ」と反論。だが祖母はその反論にまともに答えず、カトリに再度眠るよう促し「さあさあ、お前は何にも心配しないで、ぐっすり寝るんだよ。お休み」と語りかけ、カトリのおでこにキスをする。「おやすみなさい」とカトリが祖母に抱きつくと、祖母はカトリに抱きしめ「お前は本当に優しい子だね…」と語りかける。
 今話はサブタイトルと裏腹に、物語のポイントはこのカトリの決心であることは確かだ。カトリはまだ9歳とはいえ、家の実情は解っている。母からの仕送りが途絶え収入は家にいる僅かな牛の乳によるものだけになってしまったこと、その牛の乳だけでは3人の生活にはとても足りないこと、だから1頭だけ雌牛を売るしかなかったこと、その雌牛が熊に襲われて死んだ事で家の収支状況がいきなり土壇場に追い込まれたこと…。
 だがカトリが理解していたのはそれだけでないだろう、たった1頭の雌牛を売ったところで、当面の生活費が確保できても収入が完全に途絶えるわけだからこの3人の生活がいつか行き詰まることも理解していたのだ。雌牛が熊に襲われたことでその日が予想より大幅に早くなっただけの話であることを、カトリは解っていたはずだ。
 だからこのカトリの決意は思い付きやその場のしのぎでないのは確かだ。彼女は以前からその家の実情に思いを巡らせ、それを解決させるにはどうするか悩み、その上で自分が働きに出るしかないことは解っていたのだ。
 だが、祖母はあくまでも現実逃避の構えだ。もちろん母親が働きに出ていって帰ってこない孫を働きに出すという罪悪感によるものだ。この罪悪感は後半で祖父相手にもう一度このシーンが演じられるとき、明確に祖父の口から出てくる。そしてその本心は、祖父母にとってこの可愛い孫がいつまでも小さい孫であって欲しいという願望から来ているのが、よく見えてくるから面白い。
 カトリの決意とこれによる祖父母の反応、ここのリアリティが丁寧時間を掛けて描かれている点が、とても印象に残ったシーンだった。
感想  アムロ キターーーーー!!!!
 カトリにアムロが出ていたのは、当時も多分気付いてなかったと思う。古谷徹さんの子供子供した演技が他の作品と違いすぎて、気付かなかったのだろう。でも今になって見直すと「あれ、アムロだ」ってすぐ解るんだからなぁ。
 第2話、サブタイトルは「友だち」であるが、メインはもちろん名場面欄に書いたカトリの決意だろう。その決意は雌牛がクマに殺されるという事故によって思いついたのでなく、カトリが家の実情に気付いて前々から考えていたことであるのは、ここまでのカトリを見ていればよく分かる。その上、カトリは家で特に働いているわけでなく、アベルやユーラとフラフラしているだけで、それを自覚していて「このままじゃいけない」と感じていたことはよく伝わってきた。そう、カトリは賢いのだ。
 そしてマルティの存在は…何だっけ? う〜ん、思い出せない。たとえば同じく殆ど記憶から抜け落ちていた「ポリアンナ物語」を見ていて、最初にジミーが出てきた時に「ああ、こいつはこういう役だった」とおぼろげながら思い出した。でもマルティの活躍どころは…もう少し見れば思い出すかな? カトリがマルティの家で働かせて欲しいと訴えるが、世界名作劇場の王道的展開では、すんなりといかないんだよな…。
 しかし、カトリの家は世界名作劇場の中でも1・2を争う困窮状態かも知れない。異国へ働きに行った母からの手紙と仕送りが途絶え(あれ、この展開どっかで見たなぁ)、収入源は雌牛一頭、その雌牛一頭を売ったらまとまった金は手に入っても収入源を経たれる…正直、この雌牛の売却はもっと慎重になるべきだったと思うぞ。どう考えても雌牛を売らずに少なくても収入源を確保したままで、可愛いカトリを働きに出すのが賢明だったと思う。多分祖父母でなくカトリの親なら、泣く泣くそうしていただろう。孫の可愛さ余りに、冷静な判断が出来なくなっちゃったんだろうなぁ。
 それと、今話ではカトリに「母がいない」という悲壮感を匂わせたまま最後まで突っ走ったのは、とても良いと思う。だからこそ名場面欄シーンが活きるし、マルティとの会話もとてもよく活きてくると思うのだ。

第3話「春のあらし」
名台詞 「それよりねぇカトリ、僕、本当は嫌なんだ。カトリが僕の家で働くの。だって、君は僕の友達だろ? 友達には僕の家で働いてもらいたくないんだ。どうしても働きたいって言うんなら、他のところで働いてくれないかな?」
(マルティ)
名台詞度
★★★★
 嵐でボートが流されてしまい、カトリとマルティは無人島に取り残される。その洞窟で寒さに震えながら、マルティは唐突にカトリにこう告げる。
 この台詞は「マルティの家でカトリが働く」ということはどういうことかを上手く示していると思う。つまりカトリはマルティの家の使用人になるわけで、マルティは雇用者の側に立つということだ。
 この問題は働く立場のカトリにとってはさしたる問題ではない。だがマルティにとって重要な問題で、二人が雇用側と使用人に分かれるということは「対等の関係でなくなる」ということをマルティはこの歳にして理解しているということだ。マルティはカトリに命令できる立場になり、カトリはそれに従わねばならない立場だ。地域で最も裕福な屋敷に住んでいるマルティは、その関係では真の友情を築く事が出来ないことを幼いながらも見て育っていたのだ。
 つまりマルティはカトリが好きになり、これからも対等の関係であり続けたいと考えているわけで、これが痛いほど伝わってくる好印象の台詞である。
 もちろん、カトリはこの台詞に困惑する。カトリは賢いのでマルティの気持ちを受け止めたが、それでは自分の家の問題が解決しない事になるからだ。マルティは代案として、家に出入りする人にカトリを雇ってもらえないか聞いてみるというものを提示している。このように代案がすぐに提示できるからこそ、この後のカトリの指摘にあるようにマルティも頭が悪くないのだ。
 そして、この台詞はカトリがマルティを心底信用するようになったきっかけであろう。マルティは家の人にカトリを雇うように頼まず、それは約束に反していたが、その本心を知りそれが自分を思ってのことだったことに気付いたのだ。だからこそ、マルティが示した代案を素直に受け入れたのだ。
名場面 カトリとマルティの救助 名場面度
★★
 無人島で遭難したカトリとマルティの救助作戦、最初にマルティの屋敷であるハルマ邸の召使いがボートで荒れた湖にこぎ出すが、すぐにボートが沈没して泳いで戻るハメになる。続いてカトリの祖父がボートで湖に出る。彼は何とか嵐の湖を漕ぎきり、無人島で助けを待つ二人を救出した。
 そして救出した二人をボートに乗せ、湖岸の船着き場へ戻る。二人は並んで座って、膝の上にアベルを載せて何とか暖まろうとしている。「カトリとマルティは無事に助け出されました。でも二人とも風邪を引いてしまいました」とナレーターが解説すると、二人は身体を震わせて、同時にくしゃみをする。膝の上のアベルが驚くと「二人はとても仲良しになったのです」とナレーターが続けると、本話が幕を閉じる。
 いやーっ、うまくオチたと思った。無人島での二人の遭難は、二人が苦難を乗り越えただけではなく、名台詞欄の要素があってその友情が深まったという展開であったが、このラストシーンでそれを上手く強調してオチまで付けたと感心した。特にくしゃみのシーンは「二人が同じ困難を乗り越え、同じ苦しみを得た」という事を上手く示唆しており、二人の友情が確かであることをたったあれだけで上手く再現したと思った。
 最後まで見ると今話は何も起きない平穏な話なんだけど、二人の友情が深まるという意味で一貫して描かれており、とても印象的だったが、このラストが違ったら印象がかなり変わったものになっただろう。
感想  無人島、釣り、嵐で遭難、ボート…なんかここまで数年の「世界名作劇場」各作品で印象的に描かれたものばかりで、その集成大みたいな話だったなぁ。無人島はトムソーヤとフローネ、釣りはトムソーヤとフローネとルーシーとアンネット、嵐で遭難はフローネ、ボートはトムソーヤとフローネとルーシー…「ボートで無人島へ渡り、ボートが流されて帰れなくなる」という流れは、まんまトムソーヤだ。さすがに街ではカトリとマルティの葬式を始めたりはしていなかったが。
 今話は名台詞欄シーンが全てといって良いだろう。そのためには前半でマルティが「本当にこいつ、大丈夫なんか?」と思わせるボケぶりを演じるのは重要だ、それによってカトリに「信用できない」とまで言われちゃっているし。とにかくマルティがカトリに「働かせてくれ」と頼まれたことを、徹底的にボケまくるからこそ、後半の色んなシーンが活きてくる。名台詞はマルティがボケ続けたのはわざとであり、そこにはキチンとカトリを想う理由があったことを上手く突きつけてきたものであり、カトリがマルティを信じて二人の友情が深まるきっかけとして上手く描かれたと思う。名場面欄シーンは「そういこうなりました」というオチだ。
 しかし、登場人物が増えたなぁ。箒を振り回しているだけのマルティの姉を見て、「こんな奴いたっけ?」と思うしかない。ああいうお転婆キャラがカトリにいれば、それなりに印象に残った筈なんだけどなー。牧師さんは「世界名作劇場」シリーズ共通の落ち着いて冷静な牧師さんだ。いずれにしろどのキャラクターもまったりしていて、なんかあの第一次大戦中だということを忘れがちな展開になってきたぞ。
 いよいよ次回、カトリの働き口が見つかるのか?

第4話「決意」
名台詞 「今、私が一番望んでいることは…お母さんに会いたい。ね、マルティには手助けできないことでしょ?」
(カトリ)
名台詞度
 前話の影響で風邪を引いたカトリとマルティが久々に会って話をする。その中でマルティはカトリに「今君が一番望んでいることってなんだい?」と問う。カトリは一度は言いかけるが「言っても仕方が無い」として言うのをやめる。マルティは「僕にカトリの望みの手助けが出来るかも知れないじゃないか!」と引き下がらず、「無理よ」としつつもカトリの返答がこれだ。
 この会話が始まった瞬間から、カトリの返答は誰の目にも明かだったはずだが、この思いをカトリが始めて明確に口にしたのはここだ。カトリがこの台詞を言うことで、物語の行き先がハッキリ定まったと言って良いはずだ。
 これを聞いたマルティは、自分がもっと大きければ兵隊へ行ってカトリの母を探す事が出来るのに…とする。カトリは早く戦争が終わることを望むとともに、マルティに一番望んでいることを聞くのだ。
名場面 決意 名場面度
★★
 夜、カトリは祖父に「お願いがある」と声を掛ける。その内容は翌日に一緒にハルマ屋敷へ行って欲しいということだった。祖父は昼間にライ麦の前借りを頼んだが断られたことを思い出して「あんな所へは行きたくない」とヘソを曲げつつも、その理由を問う。カトリはハルマ家に出入りしている靴屋がライッコラ屋敷の家畜番を探しているとの情報があり、その家畜番として紹介の手紙を書いてもらう旨を説明する。祖母が「本気で働くつもりだね?」と割り込むと、「もちろんよ、おじいちゃんが一緒でないと信用してもらえないから」とカトリは話を続ける。「とうとう、カトリに働いてもらうことになっちまいそうだな…」と呟く祖父、祖母は肩を落として「本当に…」と付け加える。僅かな無言の時間の後、祖父は「カトリ、明日会いに行こう。働くには色々条件など決めなくてはならないからね」と告げる。祖母は「可哀想にね、小さいのに働きに出なくちゃならないなんて…」と泣き出す。それを見たカトリは「私、働くの好きだから」と言うと、水汲みに行くとして外へ出て行く。祖母が「あの子、私たちを助けようと思って…」と呟くと、祖父が「優しい子だ」と付け加える。
 これが本話のサブタイトルとなったシーンだ。前話までにカトリは「自分が働く」事を決意している。なのに今話で「決意」というサブタイトルがついた理由は、前話ではこれに反対していた祖父母が「カトリを働きに出すのはやむを得ない」と判断する空であることは明確だ。
 そして、このシーンの前には生活の困窮により、祖父がハルマ家へライ麦の前借りを要求して断れている。これはカトリの家がいよいよ追い込まれたことも示唆するものであり、前話までの祖父母の反対をひっくり返す要素であることは言うまでもない。
 その前提条件の上で、カトリがマルティから得た求職情報を語れば、祖父母は反対できないという手順を上手く描いたと思う。その背景には、この決断が祖父母にとって苦渋に満ちたものであることはさりげなく描いている。孫だけは働きに出してはならない、働くとしても家のことだけにしなければならない、そう思ってカトリを育てたはずだが、それが出来なくなった悔しさと言うのを祖父母がキチンと演じている。
 もちろん、決断の瞬間は祖父が「明日会いに行こう」と返した瞬間だ。この瞬間を描くために今話があり、その前はそこへ繋がるための設定作り、その後はその決断によって話がトントン拍子に進む様を描いている。今話の中心シーンはここなのだ。
感想  物語は前話を受けて着実に前に進む、だが一気に話が転換するのでなく、「世界名作劇場」らしく一つずつ問題を解くような形でゆっくり進む。前話で「自分の家以外の仕事を探してみる」とカトリに約束したマルティは、今回は病床にありながら(単なる風邪だが)もキチンとその約束を実行している。ハルマ邸出入りの靴屋から「ライッコラ屋敷の家畜番」という求人情報をカトリに告げる。
 その過程で挟まるカトリとマルティの会話は印象的だが、ラストで同じような事をもう一度言わせるのはちょっと白けたぞ。同時進行で挟まった祖父がライ麦前借りを断られるシーンは、いや〜なおっさんと主人公祖父の会話の定番みたいな感じで「ああ、世界名作劇場なんだな」と思わされずにはいられなかった。
 そして名場面シーンを挟んだ後半。カトリと祖父が靴屋に会いに行ったシーンでは、淡々と会話が進むだけで何も起きないのは拍子抜け。ああいうときに「誰がこんな子供を…」とかやるのが「世界名作劇場」でよくあるパターンなんだけどな。だがアベルを疑うのは上手く作った、同時にその後のシーンでアベルが役に立つシーンを入れたのも良かった。それをきっかけにさっきまで嫌な奴だったハルマの旦那が、瞬時に良い奴に変わっているし。おまけに「やっぱりライ麦を貸してやる」とまで言い出す。だがハルマ邸も色々と辛いという理由で、祖父の希望量には届いていないが。
 こうしてカトリの最初の職場が「ライッコラ屋敷」と決まる。えーっと、ここで何が起きるんだったっけ?

第5話「出発」
名台詞 「まぁ、ずいぶん子供っぽい考えね。私ね、仕事が辛いことは解っているの。だから、少しくらい辛いのは我慢する。一生懸命頑張るつもりよ。」
(カトリ)
名台詞度
★★
 カトリをライッコラ屋敷まで送りに行くとついて来たマルティは、その道中で時々カトリの様子を見に行くと訴える。驚くカトリに「もし酷いことをされていたら、君を家へ連れて帰るんだ」と付け加える。これに対してのカトリの返事がこれだ。
 この台詞に込められていてるのは、言うまでもなくカトリの中にある覚悟であろう。カトリは量的な問題はともかく、これまでも家に仕事をしてきたはずであり、それが決して楽なことでないことは身をもって知っているのだ。それが今度は他人の家で働くのだから、これまでと違う辛さがあることを覚悟しているのだ。この覚悟があるからこそ、働く決意をしたのは物語を追ってきた人が理解するのは難しくないはずだ。
 なのに隣でマルティは自分を甘やかすことを考えている、これをしてカトリはマルティを「子供っぽい考え」とするのはカトリの覚悟が見え隠れしていてるだけでなく、まだ子供のカトリがこの台詞を吐いたという点でとても印象深いのは確かだ。この二人のやりとりを見て多くの人が「カトリの方が大人に近い考えを持っていて、マルティの方が幼い」と思うことだろう。これを劇中で当のカトリが語ってしまうのだから、マルティの面目丸つぶれだろう。
 だがマルティが良い奴なのは、この台詞に対し「君と比べたら、僕はまだ小さな子供みたいだな」と、カトリの指摘が正しいことを認めるのである。これが名台詞欄シーンのカトリのように、マルティが否定したらこのシーンは何の印象にも残らないと思う。
 そして「カトリに比べたら自分はまだ子供」と認めたマルティは、後半のカトリのピンチにちゃんと自分がやるべき事が解っていて、それに従って行動するから今話でのマルティが印象的なのだ。
名場面 出会い 名場面度
★★★★
 マルティと別れて一人で街道を歩くカトリだが、あまりの長い道中に息を切らせ、同行のアベルも疲労が溜まっていた。そこへ馬車が通りかかる、馬車に乗っていた少年は「だいぶ疲れているようだな、いったい何処まで旅をするんだ?」とカトリに声を掛ける。カトリがライッコラ屋敷へ向かっている旨を答えると、少年は自分がライッコラ屋敷の隣で働いている事を告げる。カトリがライッコラ屋敷で働くことを告げると、少年は「ここに乗れよ、ライッコラ屋敷まで連れて行ってやる」と言ってカトリを馬車に乗せる。少年はペッカと名乗り、「隣同士だからよく顔を合わせるぜ」とカトリに語る。カトリが「私、家畜番をやることになっているの」と言うと、「君、ずいぶんチビだけど家畜番なんて出来るの?」とペッカは問う。「チビとはなに!?」…カトリの表情は始めて「怒り」に変わる。「だってチビじゃないか、その連れもチンチクリンだな」とペッカが笑えば、カトリは「止めて!」「馬車を止めて私を下ろして!」と叫ぶ。「歩くのかい?」「ええ、歩いて行くわ!」「足引きずってるぜ」「止めて!」「いいから乗って行けよ」「嫌!下ろして!」…カトリは完全にご機嫌斜めで、そっぽ向いてしまう。「うるっさいな、静かにしてろよ」「止めて!」「うるさい!」…馬車の上に気まずい空気が流れる。
 う〜ん、良いシーンだ。第5話にして始めて出てきた主人公の怒り顔、チビだと言われた怒りはごもっともだ。このカトリにとっての「第一印象の悪さ」は、間違いなくこのペッカという少年がカトリと仲良くなる伏線であろう。そうそう、アンとマリラの出会いのように、ポリアンナとバレーおば様の出会いのように、こういうのは「第一印象の悪さ」というのがこの後の仲の良さを引き立てるスパイスになってくる。二人がそんな関係になる事を上手く示唆しているシーンに見えて、とても印象的だ。
 逆にマルティとの出会いは、「第一印象の良さ」が描かれていて、二人との出会いが対照的なのも面白い点だ。物語がカトリの家からライッコラ屋敷に移る以上、マルティの出番が減ることは確かなのでペッカという新しい友人を配置するという展開も、頷けるところだ。
 しかしペッカよ、出会ったばかりの女の子に「チビ」はねーだろ。
感想  カトリがいよいよライッコラ屋敷で働く、つまりこれって当時の日本風に言えば「奉公に出る」ってことだよね。ただこの頃の日本の「奉公」ってやつは、どちらかというと口減らしのために娘を売るというような感じだったと思う。売られた少女は地主の家などで働き、大きくなれば娼婦になる運命だったとか…。カトリの場合はそういうのではないだろう、まっとうな1年契約の就職なんだろうなぁ。
 今回は名場面欄シーンに選びたいシーンが3つも出てきて悩んだが、結果的にやっと次の展開へと足を踏み込んだペッカとの出会いを選んだ。もう二つは、祖母との別れのシーンと、マルティとの別れのシーンである。この二人は今話までの展開であり、ペッカとの出会いとは質が根本的に違う。と言うわけで次点欄を作ることもしなかった。
 冒頭で祖母と別れ、祖父とも別れ、ライッコラ屋敷へ向けて街道を歩くカトリにマルティがもれなく着いてくるという展開で、カトリが「働きに出る」という別世界へ行く橋渡し的な1話として上手く出来ている。特にマルティが付き添って街道を歩く展開が長かったことが、この「舞台の変化」を上手く印象付けて来た感じだ。そしてマルティと別れたところで話を止めずにライッコラ屋敷での友となると思われるペッカとの出会いまで演じてから終わったことで、本話が「橋渡し」として完成したといって良いだろう。
 しかし、途中の村で悪ガキ共に襲われるのは、この手の物語では王道的展開と言って良いだろう。この悪ガキの中にマサオ君(クレヨンしんちゃん)がいたのは笑った。あ、これは「世界名作劇場」だからベッキー(小公女セーラ)と言った方が解りやすいか。ということはこの人、4作連続で「世界名作劇場」出てたんか…。 

第6話「主人」
名台詞 「カトリ、ごめん。昨日はあの犬のことでずいぶん酷いことを言ってしまった、謝るよ。お前のアベルは凄い犬だ。」
(テーム)
名台詞度
★★★
 いよいよ本話のラスト数分のところで、カトリとアベルが家畜番としてライッコラ屋敷で最初の仕事をするシーンが演じられる。カトリは必死になって牛たちを放牧場へ誘導するが、慣れないので一人ではなかなか上手く出来ない。だがその時にアベルが立派にはぐれ掛かった牛たちを誘導しているのだ。これを見たテームは牛たちと歩くカトリを馬で追い、こう告げるのだ。
 本話の後半、名場面欄シーンもあってテームのアベルへの印象は最低。そして「役立たず」と勝手に判断して、「飼い犬と別れたくなかったから嘘をついてここへ連れてきたに違いない」とカトリをも非難する。これで泣いてしまう程のショックを受けたカトリを見て、多くの視聴者がテームに対する印象を悪くしただろう。だが働き出せばアベルはものすごい実績を上げるのは視聴者から見ても理解できるはずだ。その時にこのおっさんがどうカトリを責めるのか、そんな意地の悪い見方を視聴者はしていたことだろう。
 だが、このテームというおっさんはアベルの働きを見て、自分の過ちを素直に認めるのだ。そして相手が9歳の少女であっても謙虚な姿勢を見せて謝る。これを見せられた視聴者は一瞬うるっと来て、このおっさんに対する印象を180度変えることだろう。
 この台詞が活きるのはここまで徹底的にテームの印象を悪くしておいたからである。テームが良いおっさんだとすれば、ただ良いおっさんとして登場させても視聴者の印象に残りにくいものだ。いや「ポリアンナ物語」第一部のように「おっさん達の物語」があるのなら、バリエーションとして「最初から最後まで一貫して印象の良いおっさん」がいても良いのだが、本作で出てくるおっさんは当面はテーム一人の模様だ。こうしてテームという重要なキャラをうまく印象付けてきたのだ。そしてそのテームに好印象を付けるための象徴的な台詞が、まさにこの台詞というわけだ。
名場面 テームとアベル 名場面度
★★★
 ライッコラ屋敷の夕刻、馬に乗ったおっさんが颯爽と帰ってくる。もうこの初登場だけで誰もがこのおっさんこそライッコラ屋敷の主人であるテームだと気付くだろう。彼は家の前で馬から下り、馬を繋がせるために叔父であるエスコを呼ぶが反応はない。しかしエスコに頼んでおいた厩の柵の修理が出来ていないことに気付き、苛立ちを募らせる。仕方なく母屋へエスコを呼びに行こうとしたその時、見覚えのない犬…アベルが母屋の脇にいるのを見つける。「ちょっとこっちへ来い」とアベルに声を掛けるが、アベルに反応はない。テームはさらに苛立ちを募らせて「こっちへ来いと言ってるんだ!」と叫ぶが、アベルは警戒モードで犬小屋に引っ込む。「もうこの犬小屋に収まっているのか…」と呟くテームは、この犬が新しく雇った家畜番の少女のものであると気付く。「おいっ、出てこい!」とさらに命じるが、アベルは警戒モードで吠え返すばかりだ。「うるさい」と怒鳴っても吠え返すだけのアベルに対し、「なんだお前は、家畜の番などとても出来そうにない」と判断する。
 カトリの使用人となるライッコラの主人初登場も、とても印象悪く描かれた。登場していきなりイライラしているが、これはそういう性格ではなくキチンと「命じておいたことが実行されていない」という設定の上であることは、一つ感心できるシーンだ。だが理由があるとは言えイライラし続ける主人に、視聴者の誰もが良い感情を抱かないだろう。こうしてライッコラのの主人の印象も、視聴者から見ればとても悪いものになる。
 そしてこの印象の悪さを決定づけるのが、この手段との初対面で警戒モード全開のアベルの態度だ。アベルは「主人公は怖い」という印象を持った視聴者に対し、「その通りだよ」と訴えるために演じているとしか思えない。そしてこれが今度は主人がアベルに対して好印象を持たず、本話の本筋である「主人がアベルを役立たずと決めつける」という展開へうまく持って行くのだ。
 だがこの主人の印象の悪さも、第一印象だけの仮の姿だ。このシーンは既に本話後半の半分まで進んだところであるが、本話中にこの主人が良いおっさんになるなんて、この時点では誰も思わないだろう。だからこそ名台詞欄の台詞が活きるのである。
感想  「この話、本放送で見たぞ」と感じた一話だ。確かに記憶が朧気だが、見た記憶がかすかにある。冒頭のペッカと別れるシーンや、カトリがライッコラ屋敷の母屋に声を掛けても返答がないので勝手に忍び込んだシーンなんか覚えてる。
 しかし、前途多難を予感させる話だったなー。エスコは最初からいい人だけど、これはおっさんっていうよりじーさんだし、お手伝いのアンネリはいい人なのかそうでないのかの判断が難しくなるよう上手く描かれている。そして奥様のウッラはメンヘルと来ているし、唯一の望みとなりそうだった娘のレイナは故人ときてる。カトリの今後が不安になる。
 だけどサブタイトルが「主人」で、その「主人」が良い人だという点をただ描くのでなく、回り道して描いたのはとても印象的だ。これはこのおっさんを印象付けるために必要な通過儀礼でもあるだろう。
 んで今話が「主人」で、次話が「奥様」とは解りやすい。解りやすいついでに言うと、本作はサブタイトルが短く簡潔でしても解りやすい。6話終わってサブタイトルの文字数が全部合わせてまだ15文字。「愛の若草物語」だったら第1話で10文字、第2話で11文字だから、いかに「牧場の少女カトリ」はサブタイトルの文字数が少ないかが解る。この簡潔なサブタイトル、何処まで続くんだろう…。
 次はメンヘルの奥さんの話か…怖いような楽しみのような…。

第7話「奥様」
名台詞 「ここから南の牧場までだいたい1キロですから、往復で2キロ歩いたことになります。そしてあの牧場の長い方は約500メートルありますから、牛たちを3回ほど往復させます。そうすれば5キロになります。」
(カトリ)
名台詞度
 朝、放牧への出発前のカトリへの指示事項として、テームから「牛をだいたい5キロ位歩かせておくれ」と伝えられる。「わかりました!」と答えるカトリに、テームは「でも、どうして5キロ歩いたのか解るんだ?」と問う。その返答がこれだ。
 正直言おう、9歳の頃の私が同じ指示と質問をされたら、この答えは出せなかったと思う。多分「5キロ」っていう距離感が解らないし、その前に屋敷から牧場まで1キロということや、牧場の長辺が0.5キロという事も理解していないだろう。仮にそれらを理解していても、「牧場までの往復と長辺3往復」で5キロになるなんて計算は出来ていないと思う。主人に「どうすれば5キロになるの?」って聞いちゃうだろうな。
 この計算がすぐに出来たカトリの頭の良さに、質問したテーム自身も「なるほど」と感心し、安心してカトリに牛たちを託すのだ。
名場面 テームとカトリ 名場面度
★★
 ある日の午後、カトリが家畜番をしているところへテームが馬車でやってくる。そしてカトリから様子を2・3聞くと、翌日からは牛たちを北の牧場で放牧することを告げ、「家の連中と上手くやっているか?」と問う。カトリの「みんな親切にしてくれます」との返事を聞くと、テームは馬を走らせて帰ろうとする。と思ったところで馬を止めてカトリの方へ振り返り「カトリ、妻のことどう思っている?」と問う。「はい…」と返事したと思うと、どう返事をして良いか解らずカトリは困惑の表情を浮かべる。「はい…何だ?」とテームが問い詰めると、「奥様は、ご病気だと思っています」とカトリは返答する。「うん、そうなんだ。病気だ。大きな悲しみが妻をあんな風にしてしまった」とテームが静かに告げると、カトリは驚いた表情でテームを見上げる。「いろいろあるかも知れないが、妻のこと我慢してくれ…あれは、不幸な女なんだ」とのテームの語りに、カトリが返事したのを見届けてテームは馬で走り去る。
 いよいよテームの口からウッラについての話題が出る。それはどう見ても様子がおかしい妻のことを、カトリがどう見ているかを単刀直入に聞いた質問で始まった。もちろん、カトリはまだ幼くこれにどう答えて良いか解らず「病気だと思う」と答えるのが精一杯だ。だが今までのウッラについて解っている事をまとめると、視聴者が同じ問いをされてもやはり「病気だと思う」としか言えないと思う。つまりここはカトリが自分の答えを語るだけでなく、視聴者の答えも語るかたちになっている点が印象点だ。
 そしてこれに対し、テームはその病気になった理由を語る。もちろんその「大きな悲しみ」とは、娘に先立たれるという親として最大の不幸だ。つまりここで始めてウッラがメンヘルになっちゃった理由が、前話で語られた娘の死であることが明確になる。これは予測していたとはいえ、物語を追う上で大きな情報でもあろう。
 なによりもテームが最後に「不幸な女」と付け加えるのが印象深い。この一言はテームが夫として、妻に同情を寄せていることをたった一言で示している。その上でこの病状については手の施しようがないという現実であり、彼の最大の悩みも上手く演じられていると言って良いだろう。こうして物語は本話のサブタイトルである「奥様」の話と切り替わり、最初の災難へと舵を切り始めたのだ。
感想  サブタイトルが「奥様」なのに、当の奥様の出番が少ないという展開だ。むしろ本筋の合間に出てきたペッカの方が目立っていたぞ。だけど前半ラストからは明確に「奥様」の話になっているのは確かだ。だが今話はその「奥様」が事件の発端を作るまでで話が止められ、実際に「事件」に発覚するのは次話に回された。
 そして今話で明確にされたのは、メンヘルな奥さんに皆手を焼くと同時に、心から心配しているのも確かだと言うことも演じられている。そこから垣間見えるのは、あの奥さんは娘を失ってメンヘルになる前は、人の出来た良いご婦人だったのだろう。だからこそああなってしまってもみんな見捨てない…もちろん、テームにとってもとても良い妻だったのだと断定しても良いと思う。
 しかし、本作ではアベルがウサギを追うシーンがあったが、ウサギ追いシーンはルーシーから3作連続で演じられたことになるんだな。前2作ではウサギに逃げられたけど、3作目の正直でアベルはウサギを捕獲。それで飼い主に叱られるわけだが。
 ライッコラ屋敷に来てからずっと平穏な話が続いているが、そろそろそれも崩れてくるだろう…と思ったところで次回予告であのサブタイトル。ラストシーンで奥様がカトリに何を指示したのか、それによって何が起きるのか…当時だったらけっこう盛り上がるところだった思うが…やっぱ覚えてない。

第8話「災難」
名台詞 「後で、カトリに謝れ。テーム。」
(エスコ)
名台詞度
★★★
 カトリが勝手に持ち場を離れ、その間に牛たちが影の砂場に足を取られて危険だったことを知ったテームは怒りに震える。だがその理由を語らないカトリに鞭打ちのお仕置きをすると、エスコが飛んできてカトリが持ち場を離れた事情を語る。テームはカトリが妻ウッラの頼みに忠実に答えたことを知ったところで、ウッラが出てくる。カトリがウッラに水汲みを命じられ立ち去ると、鞭を振り下ろして力なく立っているテームに、叔父であるエスコが静かにこう語る。
 今回のカトリのミスは場合によっては取り返しのつかないことになった可能性があるので、テームの怒りはもっともだしお仕置きも当然である。だがカトリには持ち場を離れた理由があり、それを知っていたのがエスコと言うのは上手く作ったと思うし、またエスコの立場も上手くせっっていされていると感じた一言だ。エスコというのは表面的にはテームの下で働く立場なのだろうが、「叔父」という続柄からテームに意見したりすることも出来る立場である。そのような人物に、ウッラがカトリに使いを頼んだ事実を握らせたことは、このようなかたちでカトリを救うために必要な事であったのは確かだろう。
 そして、この一言はテームが事情も知らずにカトリを一方的に叱っただけでなく、体罰まで加えてしまった事の反省を促すだけでない。カトリはこのライッコラ屋敷の働き手として忠実に職務に励んでいたことを認める台詞だったと言って良いだろう。エスコはウッラがカトリに使いを頼む会話を全部聞いており、それがテームに内密で頼まれていることまで知っていた。だから持ち場を離れた理由を語らない事も、ウッラに忠実たろうとした事も知っていて、これを含めて「わが屋敷に忠実に働いたことに対し、間違った対応をした」と突きつけた印象的な台詞になったわけだ。
 この台詞に対し、テームは力なく頷くしか出来ない。テームもエスコに言われるまでもなく、自分の対応が間違いでありカトリに謝罪の必要があると感じていたことだろう。
 何よりもテームが良い奴だと思ったのは、この台詞に繋がるやりとりの途中でウッラが現れると、会話を切って「何も知らないよ」って顔をしていたことだ。これはこの男がウッラという妻を愛していてその気持ちを壊したくないという気持ちから出ている行動だろうし、その下敷きにはメンヘルになる前のウッラがとても良い妻だったという事実があるとみて良いだろう。この台詞やそこに繋がるシーンから、色んな事が見えてきて印象的だった。
名場面 牧場へ戻る 名場面度
★★★★
 大急ぎで村へ行きウッラの使いを済ませたカトリは、走って牧場へ戻る。その途中からペッカが一方的に着いてきて、「心配だから」と語る。「心配? どういうこと?」と問うカトリにライッコラ牧場の崖の話をすると、「不吉なこと言わないでー」と叫んでカトリはさらに足を速める。「大丈夫、何でもないよ」と叫びながらカトリを追うペッカだったが、彼は突然立ち止まって辺りの様子を探る。「なに? どうしたの?」と問うカトリに「何か聞こえる。ハッキリしないけど、牛たちが騒いでいるようだ」と返す。「何ですって?」と表情を歪ませて叫ぶカトリはまた走り出す。ペッカが必死に後を追う。そしてCMタイムを挟み、牧場に着いた二人は必死に吠えるアベルの声を聞き…牧場には明らかに牛たちの数が足りない、そして崖の方から砂煙が上がっているのが見える。ショックでウッラに頼まれた苗を落としたカトリは、「たいへんだわ!」と叫ぶ。
 凄い緊張感だった。前話のラストシーンで、カトリがウッラに「家畜番をしている間に少し席を外してお使い」を頼まれた所から、今話では何か起きることはわかり切っていた。それをどう描くかが今話が面白くなるかつまらなくなるかのポイントだ。その上で、ライッコラ屋敷の牛を失うようなことがあればカトリが解雇されてしまい話が進まなくなってしまうので、事故と言っても誰も傷つかない程度で済まなければならない。さじ加減がとても難しいところだ。
 だから今話で盛り上げたのは、カトリが事故現場に到着して事故発生に気付くまでの流れだ。ここにペッカが加わるのは良い味を出している。カトリも指摘するが、ペッカが不吉な台詞を吐くことで否応なしに緊張感が高まると同時に、「カトリが番をしなければならない牧場で何かが起きている」という事を明確にしてくる。その前に牛たちがアベルの制止を振り切って崖へ向かって歩き出すシーンが差し込まれているので、もう視聴者の注目点は「何が起きるか」ではなく「カトリが現実を知ってどうなるか」という方へ向いているからだ。
 そして二人が現場に着くまでも良い具合に引き延ばすし、シーン途中でCMを挟むという感じでもどかしく展開させるのも良い。シーンが切れないうちにCMを挟むのは一歩間違えると視聴者を待たせすぎてしまい、これによって視聴者の緊張の糸が切れてしまう事もありうるので、とても難しい所だ。ここにペッカが不吉な台詞でさんざん盛り上げたのが効いている。しかも最初の崖の話だけでなく、次に「牛たちが騒いでいるのが聞こえる」とする台詞を挟んだのが実に効果的だ。これがどちらか一方だけなら、視聴者はCMの間に緊張感を切らしてしまい、ここは盛り下がったかも知れない。
 この辺りのさじ加減が上手いからこそ、その後の事故現場シーンが「見たいような見たくないような」という感じになった。多分物語を見ていた当時の子供達の中に、母親の背中に隠れてしまった子などもいただろう。
感想  ふむふむ、カトリは足が速く、ペッカは地獄耳か…。
 そりゃともかく、この話は確かに当時見た。名場面欄シーンや、カトリとペッカが崖から牛たちを救い出そうとしているシーン、泥だらけのカトリと牛、そして屋敷に帰ってカトリが鞭で殴られるシーンを当時見たのを、このたびの再視聴で今話を見て思い出した。名場面欄シーンでこの先の展開思い出したもんね。牛たちが崖際の砂場に迷い込むけど、必死の救助一頭も落ちずに済むが、話を知ってテームが怒り狂ってカトリを鞭で殴ること、この流れは覚えてた。カトリが殴られるシーンは強烈だからなー。
 だけどカトリが何で家畜番の席を外したかは覚えてなかったし、誰に何を頼まれていたかは覚えてなかった。でもこの展開ならカトリがこのような事故を起こしても、牛が全部無事であれば「ライッコラのために働いた」とその働きが認められるのも確かだ。よくできてる。
 今話のカトリの鞭打ちシーンは強印象だが、もうひとつカトリの強烈シーンと言えば、カトリの「全裸でサウナ」シーンだ。これは「世界名作劇場」関連サイトで有名だし、それを見て「確かにあった」と思い出したシーンだ。これが何話位先なのかな?
 そういえばマルティが完全に出てこなくなったけど、いよいよ次話で再登場か。やっぱりマルティがペッカを見て妬くシーンはおやくそくなんだよね?

第9話「愛情」
名台詞 「遠い遠い親戚なんです。マルティはお友達です。」
(カトリ)
名台詞度
★★★★
 カトリが高熱を出して二日目の朝、近くの別荘に避暑に来ていたマルティがカトリの代わりを引き受ける。マルティは寝込んでいるカトリの様子を見に来ると、アンネリに昼食を渡され、テームに連れられて外へ出て行く。そのマルティの後ろ姿を見送ったアンネリが「あんたにあんなに素晴らしい親戚があるなんて」と語ると、カトリが返した台詞がこれだ。
 このやりとりにはカトリとマルティの関係というのが上手く示されている。表面上はそうであるし、またマルティがカトリのピンチヒッターを勤めることが出来る理由は「マルティがカトリの親類だから」である。だからライッコラ屋敷の人々から見れば二人は親戚同士である事が重要である。
 だが実際、マルティがカトリの代役を買って出た理由も、カトリがマルティに全信頼を置いて自分の仕事を任せる理由も、カトリのこの台詞の通りなのだ。カトリにとってマルティは親類以上に信頼できる存在…それがこの世代であれば友達であろう。だから劇中時間で前日、テームにマルティが何者か聞かれたカトリは素直に「友達です」と答えている。親類にしておいた方が良いというのは、マルティが雇ってもらおうと慌てて「親類です」強く言ったからだ。
 つまり、「遠くの親戚より近くの友」の方がいざって時に頼りになるという事が、この台詞には込められているし、今の二人の関係を上手く示しているのだ。恐らくマルティも同じ状況であれば、「カトリは親戚だけど、友達だ」と答えるだろう。
 マルティよ、この世代で「友達」であれば将来は良い関係なる事も可能だぞー。その前にペッカってライバルが出てくるけどなー。この後のシーンのマルティとペッカの対面シーンも面白くて好きだ。
名場面 クレープ 名場面度
★★★★
 高熱で寝込んでいるカトリを見て、ウッラは「レイナも熱を出して寝込んでた」と呟く。そこへアンネリが現れて昼食のことをカトリに問うが、カトリはやはり食欲がない旨を訴える。これを見たウッラは決意に満ちた表情で母屋を出て、いつもクレープを焼いているサウナ小屋へ行く。そこでいつものようにクレープを焼き始めるのだ。それを見たエスコとアンネリは「もうすぐ食事なのに」「待ちきれないんじゃろ」といつものことだと思う。マルティとペッカのシーンを挟むと、クレープの味見をしているウッラをアンネリが「昼食の準備が出来た」と呼び出すシーンになる。そしてウッラが作ったクレープを皿に載せるシーンが描かれると、次の瞬間、そのクレープは驚いた顔をしているカトリに差し出されている。「食べなきゃダメ、カトリ。クレープなら柔らかいし、それに今日はとても美味しく焼けたわ」と語るウッラに「これ奥様が…」と呟くカトリ。「お前に食べてもらおうと思って焼いたの。レイナは熱が出て何も食べなかった。…(嗚咽)、少しでも良いからお食べなさい」とカトリに語りかけるウッラを、エスコもアンネリも驚いて見ることしか出来ない。ウッラはアンネリにカトリに飲み物を出すように命じ、「私、ちょっと味見をしたけど美味しかったわ。さ」とカトリにクレープを渡すと、カトリは「頂きます」と美味しそうにこれを食べ始める。
 前々話から3話も掛けて「奥様」について上手く落としたシーンだ。メンヘルの奥様も家畜番の少女が高熱で倒れるという状況に及んで、「いま自分がやるべきこと」に目覚めていたのだ。それはその少女を力付けることであると同時に、娘を失った悲劇を繰り返してはならないということだ。もちろんカトリの病とレイナの病は違うだろうが、メンヘルの奥様にはその違いは解らないかも知れない。彼女の中にあったのは「このままではまた同じ事を繰り返してしまう」という恐れであり、そうなってしまったら自分はもう生きていられないという思いから始まったのだろう。
 だが、その気持ちはカトリに対する愛情に変化している。彼女は病で寝込むカトリを見て、娘と一緒だった頃を思い出したに違いない。そして理由はどうあれ、目的をキチンと持ってクレープを焼いている間は充実していたに違いない。ウッラの病はその間だけ治っていたのかも知れない。
 そしてその想いと愛情は、クレープを差し出したことでカトリにしっかり伝わる。ナレーターも解説するが、この時のウッラの顔は「母の顔」になっていたのだ。この過程を上手く描き、感動したシーンだ。
感想  ここで「主人公または準主役の病気」という、「世界名作劇場」の華の二つ目を使ってきた。と言っても恐らく風邪をひいた程度だろうが、これを通じてマルティの活躍とウッラとカトリの接近を上手く描く。特にウッラとカトリの接近の話は名場面欄で描いた通り、3話に及ぶ長い展開だった。前々話では「接近のきっかけ」が、前話ではカトリがウッラに貸しを作る展開が描かれ、満を持しての今話と言っていいだろう。
 しかし、今回は唐突のマルティの再登場だったが、今話のマルティと5話までのマルティが別人みたいで凄く違和感があった。アムロがあののんびり語る演技をやめて普通に演じるようになっただけで、こんなに印象が変わってしまうとは…。でもマルティはマルティ、以前一度だけ出てきた姉に引き続き、今回出てきた従姉妹のヘレンもこれまでキツいキャラだ。あんな少女達に囲まれていたらマルティも大変だろうに。
 また、マルティとペッカの初対面シーンも良い味出している。ライバル登場に妬くシーンを演じるのは、マルティではなくペッカの方だったというのは、二人がここまで作ってきたキャラクター性から見ると逆の展開だっただけにとても印象的だ。マルティとペッカとヘレンは名場面欄シーンの途中に二度も割り込んでくるが、これは次話以降の伏線でもあるので、これを印象付けるためにも重要なので敢えて今話のハイライトシーンに割り込ませたのだろう。
 しかし、ウッラが作っていたのはクレープと言うよりホットケーキとかパンケーキと言った方がしっくりくるように感じるんだけどなぁ。フィンランドではああいうのをクレープって言うのかな?

第10話「約束」
名台詞 「妹だとさ、アベル。」
(エスコ)
名台詞度
★★★
 ある日の夜(と言ってもフィンランドではかなり遅い時間まで明るいので夕焼けのような光景だが)、ペッカがライッコラ屋敷に現れる。そこでアベルを撫でているところをエスコに見つかる。エスコはペッカを何か盗みに来たのでは?と疑うが、ペッカの口からカトリの病の話が出たことと、カトリの様子を玉に見に行っていること、崖に落ちそうになったライッコラの牛たちを助けた事を語るとエスコもペッカを信用する。それどころかエスコは牛を助けたお礼をしたいと言うが、ペッカはカトリの代役として雇われているマルティを別の人に代えて欲しいと訴えるが、「カトリの病気が長引けば主人が考える」「カトリはすぐに良くなる」とエスコは上手く交わす。これにエスコが「お前さんにちょっと聞きたい」と付け加えた質問が「お前さんは何でそんなカトリのことを気に掛けてくれるんだね?」である。ペッカは最初「あんな小さな子が家畜番をするのは大変だろ」と答えるが、エスコの追求を受けると唐突に別れの挨拶を立ち去ろうとする。そしてペッカは走り出したと思うと一度振り返り、次点欄の台詞で質問の答えを返す。これを聞いたエスコが隣にいたアベルに向かって呟くのが、この台詞だ。
 エスコがペッカにカトリへの想いを聞き、それに対して次点欄に記したペッカの返答を聞いたとき、多くの視聴者が同じように呟きそうになった事だろう。「そうは言うけど、ペッカにとってカトリは『妹』じゃないだろー」と。本当に妹的な存在なら、マルティの登場にあんなに妬いたりしないはずだ。
 上記にこの台詞に至るやりとりを書いたが、これは全部この台詞を活きたものにするために必要な要素だ。ペッカがライッコラの牛を助けた事も彼がエスコに信用したもらうために語ったのでなく、「カトリのためにやったこと」を自己主張する過程で出てきた台詞だ。もちろんカトリを気に掛けていること、カトリの病を気にしていることを語って彼は「カトリのため」の自己主張を続けている。だからこそ次点欄のペッカが語るカトリに対する想いは「違うだろー」とツッコミを入れたくなる。でもこれだけで終わらせずエスコにこういう台詞を語らせるからこそ、次点欄の台詞が活きるという面白い展開だ。何よりも視聴者の思いを代弁してくれるという点でも印象的だ。
(次点)「俺なぁ、初めて逢ったときからカトリが気に入ってたんだ。なんだか妹みたいな気がしているのさ。」(ペッカ)
…上記参照。
名場面 マルティとテーム 名場面度
★★
 マルティの到着が遅れたことで、テームはエスコをカトリの代わりの家畜番に出そうとしたところでマルティが到着する。テームはマルティの遅刻を叱り、その後はマルティがボートの漕ぎすぎで腕が動かないことで不安を感じる。その上でマルティに出発を命じるが、マルティはその前に少しだけで良いからカトリに会わせて欲しいと懇願する。「時間が遅れている」と返すテームに、マルティも簡単に引き下がらず「でもカトリに謝りたいんです」と付け加える。そこでテームは5分だけマルティがカトリと会うことを認める。
 このシーンでは失敗をした少年に対する、「叱り」と「優しさ」のバランスが上手く取れていて、テームが良い男だと思わずにいられない台詞だ。これがテームが悪人でも善人でもない普通の人なら、マルティを叱らずに甘やかすか、叱った後にカトリに会う時間を認めないかのどちらかであろう。だがこの男は両方演じる。マルティの遅刻は本来「ギリギリのタイミングで間に合っている」と見るべきところでもあるからこそ「叱らない」という選択肢も発生するが、ここは「それでテームらに仕事上の不安を抱かせた」という点でキチッと叱る。実はこれ、最近のアニメでは登場人物を甘やかしてしまいそうなところだ。
 そして叱った上での「時間がないのにカトリに会わせる」点については、テームは最初は認めない方針だったのはシーンを追えば解る。だがここでマルティの口から出たのは「謝りたい」というものだ。マルティはテームには直接叱られたことで謝罪できた。だが全信頼を置いて自分の代役を依頼しているカトリも今回の件は多大な心配をし、マルティは謝らなければならない立場であることを彼は理解したのだ。その上でその事実がマルティの口から出たことで、マルティが自分の行動に責任を感じ、遅刻について反省していることを認めたのであろう。そのようなところをキチンと見抜き、相手が子供であってもそれに応じた対応を取れるからこそテームは良い男なのだと思う。
 もちろん、マルティはその言葉を受けて走ってカトリの元へ向かう。そしてカトリに謝り、カトリからは「お礼を沢山言わねばならない」という言葉と信頼の握手を受け取るのだ。
感想  この話見た。マルティが寝坊したところで思い出した。マルティが必死にボートを漕いでライッコラ屋敷に向かったシーンは、その直前に思い出した。さらに言うとマルティが到着するタイミングなんかも思い出した。
 まず前半の名台詞欄でのペッカがとても良い味を出してる。もう名台詞欄のエスコの台詞を聞いて「うん、うん」と頷いた視聴者は多い事だろう。あれだけ得点稼ぎや自己主張をしておいて「妹みたいな」はねーだろって感じだ。エスコの呟きがなければ次点欄に挙げたペッカの台詞を同時に取り上げる事は無かったと思う。
 続いてその次のシーンも印象深い。ヘレンがマルティにカトリに肩入れする理由を問うているのだ。その前にペッカがエスコにカトリへの想いを問われているシーンがあり、名台詞欄の展開になったからここは視聴者も期待してしまうところだろう。だがマルティはこれにまともに答えないのはとても面白い。結局マルティに友達以上の感情があるかどうかは判明しないまま、彼が一途にカトリのために動くシーンが描かれることになる。だからこそペッカとマルティの関係というのは面白い。今のところカトリの信頼を強く得ているのはマルティだが、ペッカはまだそこまで知らない。彼がどう巻き返すのだろう?
 後半は寝坊したマルティを待つ人々のドラマだ。カトリはその事実を知ると無理して仕事に出ようとするし、みんなはこれを止める。そういう「おやくそく」が描かれてることで、視聴者の不安を煽るし話が盛り上がるところでもある。そして名場面欄シーンでマルティが到着し、カトリと会ってカトリが安堵する点が描かれると、物語は唐突にウッラの話へと落ちて行く。献身的なカトリの看病等を通じて、ウッラの病が少し良くなっている点が描かれるのだ。前話前半までのウッラと違い、キチンとした口調で喋っているのはそういう事なんだと誰もが理解できるよう上手く作ってあると感心した。

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